第32話「鬼庭(おにわ)」
東京・市ヶ谷。防衛省敷地内。
地下3階。
ここはかつて有事の際の予備通信施設だった場所を改装した訓練区画だ。天井高8メートル、広さはテニスコート6面分。壁面は三重のコンクリート補強に耐衝撃パネルを追加で貼り付けてある。床全体に分厚い衝撃吸収材が敷かれ、四隅には高速カメラと生体モニターが設置されている。
朝7時。
訓練場の中央に、巖道征四郎が立っていた。
紺色の稽古着に袴。65歳の穏やかな老人——だが、彼を中心にした半径3メートルの空間は、周囲とは別の密度を帯びていた。空気が重い。訓練場にいる全員が、その圧を肌で感じている。
巖道の前に、9名の男女が一列に並んでいた。
対超常脅威即応部隊——通称「鬼庭」。
正式発足から12日。閣議決定を経て防衛省直轄の特殊部隊として設立された。初期編成15名を目標としていたが、すべての選抜基準を通過した者は9名だった。
部隊の存在は公表されていない。閣議決定の議事録には「特殊任務編成」とだけ記載され、隊員の氏名も非公開だ。防衛省内でも知る者は限られている。
佐々木がオブザーバーとして壁際のパイプ椅子に座り、タブレットにメモを取っていた。
巖道が口を開いた。
「今日で5日目の訓練だ。——初日に比べれば、多少はマシになった」
穏やかな声だが、言葉には容赦がなかった。
「多少は、だ。まだ話にならん」
9名が背筋を伸ばした。
「名乗れ。一人ずつ。——儂は名前を憶えるのが遅い」
左端の男が一歩前に出た。大柄で、顎が角張っている。
「早川勇一。35歳。元陸上自衛隊西部方面普通科連隊。レンジャー課程修了。ダンジョン偵察任務に従事。フェロモン指数24。限界値28」
鬼庭の正隊員で最も高い指数を持つ男だ。西部方面普通科連隊で10年の経験を積み、ダンジョン管理庁設立準備室の要請でダンジョン偵察に参加した。その過程で指数を24まで上げている。
次の女性。短い茶髪、鋭い目つき。
「蔵本真紀。30歳。元海上自衛隊特別警備隊。ダンジョン偵察任務で地下60メートルまで到達。フェロモン指数21。限界値26」
海自のSBU——対テロ特殊部隊出身。船舶内部という狭い空間での近接戦闘のスペシャリスト。ダンジョンの通路は船舶の廊下に似ている。SBUで培った技術がそのまま活きる。
三番目。がっしりした体格の中年男性。
「鬼塚真之介。41歳。元警視庁SAT。六本木ヒルズ初期突入の生存者。フェロモン指数21。限界値25」
サンライズ作戦の前——SATが六本木ヒルズに突入した夜の生き残りだ。鬼塚は第1班としてエントランスから突入した。2メートル超のワーウルフと交戦し、9ミリ弾が効かない化け物を間近で見た。第2班は地下から侵入して全滅。無線から「弾が効かない——霧に——」という3秒間の断片だけが届いた。あの断片の意味を、鬼塚はサンライズ作戦の報告書で初めて理解した。霧化する敵。仲間を転化する吸血鬼。あの夜の後、ダンジョンに通い始めた。次に六本木に行く時、何もできないまま帰らないためだ。
四番目。
「山岸拓海。29歳。元陸上自衛隊第1空挺団。フェロモン指数22。限界値27」
ファイアストーム作戦に参加し、蟻のフェロモンに曝露した。その後、ダンジョン偵察に志願して指数を上げた。
五番目。
「朝倉義人。38歳。元警視庁機動隊。フェロモン指数21。限界値24」
六本木封鎖線の警備中に徘徊者との交戦を経験。ダンジョン偵察任務への転属後に蟻との戦闘で指数を上げた。
六番目。
「立花修一。33歳。元陸上自衛隊化学科。フェロモン指数20。限界値23」
ファイアストーム作戦で化学科の燻蒸部隊に所属し、蟻の巣への毒ガス投入を担当した。作戦中に体液を浴びて指数が上昇。その後、ダンジョンに潜り指数を上げた。フェロモンの物性と中毒メカニズムに関する実地知識を持つ、部隊唯一の「技術系」隊員だ。
ここまでが正隊員6名。全員が軍事または法執行機関の経歴を持ち、退役後または任務中にフェロモン強化を受け、指数20以上を達成した者だ。指揮系統への服従、チーム行動規律、交戦規定の遵守——これらが身体に染みついている。
七番目から、空気が変わった。
「宮園駿。26歳。冒険者。地下70メートル到達経験あり。フェロモン指数23。限界値27」
準隊員。軍事経歴はない。大学を中退してダンジョンに潜り始め、3ヶ月で指数23に到達した。ダンジョン内の地形と蟻の行動パターンに関する経験値は、正隊員の誰よりも上だ。だが組織行動の訓練を受けていない。
「桐谷沙織。32歳。元理学療法士、冒険者。地下65メートル到達。フェロモン指数20。限界値23」
同じく準隊員。医療従事者の経験を持ち、フェロモン中毒の初期症状を正確に判別できる。部隊の衛生係としての役割も期待されている。
8名が名乗り終えた。
残りは——一人。
列の最後に、長い黒髪を低い位置で束ねた女性が立っていた。身長168センチ。筋肉質でありながら無駄な贅肉が一切ない。動作の一つ一つに無駄がない。
「神崎遥。27歳。冒険者。地下80メートル到達。エリート兵隊蟻の撃破経験あり」
一瞬、言葉が途切れた。
「フェロモン指数——22.3。限界値22。——限界突破者です」
9名の中に、微かな緊張が走った。
限界突破者。特濃フェロモン結晶を使用し、肉体の限界を超えた者。15パーセントが使用直後にモンスター化し、残りの大半も短期間で人間でなくなる。限界突破してまともに活動できている事例は、僅かしか確認されていない。
神崎は正隊員でも準隊員でもない。巖道の個人的な判断で訓練参加を許可された特別嘱託だ。防衛省の人事記録には載っていない。巖道が「儂が責任を持つ」と言い切ったことで、佐々木が政治的な承認を取りつけた。
巖道が全員を見渡した。
「正隊員6名、準隊員2名、特別嘱託1名。計9名。予定の15名には遠いが——数は問わん。1人の達人は100人の烏合を凌ぐ」
巖道が稽古着の袖を捲った。腕は65歳のそれとは思えない。筋が太く、前腕の血管が浮き出ている。
「今日の訓練は二つ。一つ目——儂と組手をする。一人ずつ」
9名の表情が強張った。5日間の訓練で、巖道の実力は全員が身をもって知っている。
「二つ目は午後からだ。特殊作戦群との合同模擬戦闘を行う」
隊員たちの目の色が変わった。
「説明は後だ。まず——最初は誰が来る」
早川が前に出た。
レンジャー課程修了者。近接戦闘の訓練は積んでいる。指数24は、この部隊では巖道に次ぐ二番手だ。体格も巖道より一回り大きい。
構えた。腰を落とし、両手を前に出した格闘の構え。
巖道は——構えなかった。両手を体側に垂らしたまま、自然体で立っている。
「来い」
早川が踏み込んだ。右の正拳。フェロモン強化された腕力は、コンクリートブロックを砕く威力がある。
巖道の身体が半歩ずれた。拳が頬の横を通過する。そして巖道の右手が——早川の右手首を掴んでいた。
指が手首に触れた瞬間、早川の身体が浮いた。投げ技とも違う。手首を支点にして、全身が宙を舞った。背中から衝撃吸収材に叩きつけられる。
0.8秒。
巖道は動いた距離が半歩しかなかった。
「——甘い。力に頼りすぎだ。フェロモンで強化された身体に振り回されておる」
蔵本が前に出た。元海上自衛隊特別警備隊。構えは合気道に近い。間合いを測りながらゆっくりと左に回った。
巖道の死角を探る。だが巖道は動かない。
蔵本が仕掛けた。低い姿勢からの足払い。同時に左手で巖道の袴を掴もうとした。
巖道の足が、蔵本の足払いを「踏んだ」。足が接触した瞬間に体重を乗せ、蔵本の脚を床に押さえつけた。バランスを崩した蔵本の胸に、巖道の掌底が触れた。
押しただけだ。殴ったのではない。ただ掌を胸に押し当てた。
蔵本が3メートル後方に飛んだ。衝撃吸収材の上を滑り、壁際で止まった。
「発勁だ。衝撃を体表ではなく体内に通す。フェロモンで身体が強化される前から儂が使ってきた技術だが——強化された身体で放てば、こうなる」
鬼塚、山岸、朝倉、立花、宮園、桐谷。次々と組手を行い、次々と床に転がされた。最長で3秒。最短で0.5秒。
8人が終わった。
残りは一人。
神崎遥が前に出た。
巖道が、初めて僅かに表情を変えた。
「神崎」
「はい」
「お前の父——神崎凱を知っている」
神崎の目が一瞬揺れた。だがすぐに表情を消した。
「……聞いています。父は先生の弟子だったと」
「高弟だった。才能は儂の弟子の中で五指に入った。だが——正道を歩まなかった。闇の格闘技に溺れ、自分を壊した」
神崎の拳が微かに握り締められた。
「先生。それは——今ここで話すことですか」
「必要なことだ。お前は父親と同じ道を歩いている」
沈黙。他の8名が、息を詰めて見守っている。
「限界突破。特濃フェロモン結晶の使用。自分を追い込むことでしか強くなれないと信じている。——凱と同じだ」
「私は——」
「構えろ」
巖道の声が、穏やかさを保ったまま、有無を言わせぬ重さを帯びた。
神崎が構えた。右足を前に、左足を後ろに引いた格闘家のスタンス。重心が低い。腕は顎の前。
巖道は、やはり自然体のままだった。
神崎が動いた。
速かった。他の8名とは明らかに次元が違う。フェロモン指数の差ではない。身体の使い方が違う。地下格闘技で培った戦闘本能と、限界突破で解放された身体能力が融合している。
左のジャブ。フェイント。右のストレートに見せかけた左膝蹴り。そこから回し蹴りに変化——
巖道は、3つの攻撃すべてを紙一重で躱した。身体を大きく動かすのではなく、最小限の動きで攻撃の軌道から外れている。
だが——4つ目の攻撃を仕掛けた時、巖道が初めて迎撃に出た。
神崎の右拳が伸びた瞬間、巖道の左手がその拳を包むように受けた。衝撃を吸収しながら手首を捻る。合気の原理だ。だがフェロモン強化された巖道が行うと、効果は武術の教本に載っているものとは別次元になる。
神崎の身体が浮き——
だが、落ちなかった。
浮いた瞬間に、神崎は自ら空中で身体を捻った。手首を掴まれたまま、巖道の腕を支点に回転し、自由な左足で巖道の顔面を蹴った。
巖道が首を傾けて回避した。だが——蹴りの風圧が、巖道の頬を掠めた。
白髪が一房、揺れた。
巖道が神崎を解放した。神崎は猫のように着地し、即座に距離を取った。
沈黙。
壁際の8名が、息を呑んでいた。
巖道が——笑った。口元が、僅かに緩んだ。
「——凱よりも、才がある」
神崎が構えを解かずに答えた。
「父のことはどうでもいい。私は私です」
「うむ。そうだな。ならば——その才を、正しく使え」
巖道が再び自然体に戻った。
「お前は今日の組手で、儂に最も近づいた。風圧が頬に届いたのは、お前だけだ」
神崎の呼吸が荒い。全力を出した。限界突破後の身体のすべてを使った。それでも——頬を掠めただけ。
「……まだ、足りない」
「当然だ。だが——足りないからこそ、ここにいる意味がある」
午前の組手訓練が終わった後、休憩時間。
訓練場の壁際に設置された仮設のベンチ。隊員たちが水を飲み、タオルで汗を拭いている。
鬼塚が声を上げた。
「なあ、神崎」
神崎が顔を上げた。
「あんた、あの爺さんに一番近づいたな。あの空中回転蹴り——どこで覚えた」
「覚えたんじゃない。身体が勝手に動いた」
「……それ、一番怖いパターンだな」
鬼塚は苦笑した。元SAT隊員。六本木ヒルズへの初期突入で生き残った数少ない一人。あの夜の記憶は今も消えていない。
「俺はさ、六本木の時——何もできなかった。仲間が感染するのを、見てるだけだった」
鬼塚がペットボトルを握り締めた。
「だからここにいる。次は——何もできないまま帰らない」
宮園が横から口を挟んだ。
「俺も似たようなもんすよ。地下70メートルで、仲間がやられた。助けられなかった」
早川が口を開いた。
「全員そうだろ。ここにいる奴は——何かに負けた経験がある奴ばかりだ」
神崎は黙っていた。
父のことを考えていた。巖道の弟子だった父。正道を歩まず、闇の格闘技に沈んだ父。40歳になる前に死んだ。そして——同じ道を歩いている自分。
限界突破の後、3日間おにぎりを食べて耐えた。人間の味を忘れないように。渇望に負けないように。
あの3日間がなければ——自分も人間でなくなっていた。
だが渇望は消えていない。今この瞬間も、意識の底で囁いている。もっと深く。もっと濃いフェロモンを。もっと強く。
首元に下がる瞑想のアメジストを指で触れた。入隊時に全員に配布されたアーティファクトだ。紫色の石が淡い光を放ち、中毒症状を緩和してくれる。限界突破者にも僅かに効く。鈍い効きだが——ないよりは遥かにましだった。
神崎は小さく息を吐いた。
「——巖道先生に聞きたいことがある」
他の隊員たちが振り向いた。
「先生はフェロモン指数33.8で、中毒症状がほぼない。どうやってるのか——教えてほしい」
訓練場の奥で木刀の素振りをしていた巖道が、手を止めた。
「聞こえておったか」
「聞こえるように言いました」
巖道が木刀を下ろし、隊員たちの方へ歩いてきた。
「中毒を抑える方法か。——答えは簡単だ」
巖道がベンチの前に立った。
「フェロモンは身体を強くする。同時に、脳の報酬系を刺激する。快楽と渇望。それが中毒の正体だ」
「儂は50年間、身体と心を鍛えてきた。呼吸法、瞑想、武術の型。それらはすべて——快楽に溺れず、苦痛に負けず、己の中心を保つための技術だ」
「フェロモンが身体を変えようとする。そこに儂の意志を介在させる。変化を受け入れつつ、変化に飲まれない。——綱渡りのようなものだ」
巖道が神崎を見た。
「お前は限界を突破した。身体は既に人間の枠を超え始めている。——だが心がまだ追いついていない。身体と心の差が、渇望として現れる」
「心を追いつかせるには——どうすれば」
「稽古だ。型を繰り返せ。呼吸を整えろ。身体を動かしながら心を観る。それが巖道無双流の根幹だ」
巖道が微かに笑った。
「お前の父には、それを教える前に去られた。——お前には、教える時間がある」
午後1時。同じ訓練区画。
訓練場の雰囲気が、午前とは完全に変わっていた。
鬼庭の9名が壁際に整列している。その対面に——12名の兵士が立っていた。
陸上自衛隊特殊作戦群。
日本唯一の対テロ特殊部隊。サンライズ作戦に300名を投入し、45名が生還した精鋭中の精鋭だ。今日の模擬戦闘に参加するのは、その生還者から選抜された12名。全員がサンライズの地獄を潜り抜けた男たちだ。
率いるのは久我山達也一佐。52歳。サンライズ作戦の指揮官。300名を投入し、50分で118名を失った作戦を指揮し、残る45名を撤退させた男。あの日以降、久我山はフェロモン強化者の軍事運用について独自の見解を持つようになっていた。
「佐々木参事官から要請を受けた」
久我山が低い声で言った。巖道に向けて、ではない。訓練場全体に向けて。
「対超常脅威即応部隊——鬼庭の戦闘能力を評価するための合同模擬戦闘だ。ルールは佐々木参事官から」
佐々木がタブレットを手に前に出た。
「目的は二つあります。一つ目——鬼庭の隊員がフェロモン強化によってどの程度の戦闘力を持つか、通常戦力との比較で定量化すること。二つ目——特殊作戦群がフェロモン強化者と交戦した場合の戦術的知見を蓄積すること」
佐々木が一度間を置いた。
「サンライズでは、転化された元SAT隊員——フェロモンとは異なる超常的強化を受けた敵に翻弄されました。今後、同種の敵と再度交戦する可能性は高い。味方のフェロモン強化者と戦うことで、対処法を研究する意味があります」
久我山が頷いた。
「ルール。使用武器はペイント弾とゴム弾のみ。打撃は寸止め——接触した時点で有効打とする。ペイント弾が胴体に当たれば戦闘不能。頭部なら即死判定。ゴム弾は四肢への着弾で該当部位使用不可。訓練用の閃光弾と煙幕弾の使用は両陣営とも許可する。制限時間10分」
「第1ラウンド——個人戦。鬼庭から1名、特殊作戦群から3名。フェロモン強化された個人が、通常装備の精鋭3名に対してどう動くかを見る」
「第2ラウンド——小隊対抗。鬼庭8名対特殊作戦群12名。ただし鬼庭側は巖道先生を除く」
「観る」
巖道が短く答えた。
「儂が入れば結果が偏る。お前たちだけでどこまでやれるかを見る」
久我山が巖道を見た。二人の間に、短い視線の交差があった。
久我山はサンライズで、転化された元SAT隊員に苦しめられた経験がある。人間の外見を保ちながら常人を遥かに超える身体能力で暗闇から襲いかかってくる存在。あの時は相手が吸血鬼の転種であり、殺すことが目的だった。
今日は——味方のフェロモン強化者がどれほどのものか、この目で確かめる。
第1ラウンド。個人戦。
訓練場の中央に、早川勇一が立った。指数24。元西部方面普通科連隊。レンジャー課程修了。
対するのは特殊作戦群の3名。全員がサンライズ生還者。89式小銃のペイント弾仕様を構え、CQBのフォーメーションを組んでいる。1名が正面から射線を確保し、残り2名が左右に展開して三方向から射線を通す。訓練で何百回と繰り返した動き。
早川は素手。武器はない。
合図のブザーが鳴った。
正面の射手が発砲した。3発のペイント弾が早川の胴体に向かう。
早川が横に飛んだ。
壁際で観ていた久我山の目が細くなった。
人間の反射速度ではない。発砲音を聞いてからの回避ではなく、引き金に指がかかった瞬間に動いている。銃口の角度から弾道を予測し、発砲と同時に射線の外に出ている。
早川は横に飛んだ勢いのまま、左側面の射手に向かって走った。距離8メートル。
左の射手が銃口を旋回させた。
間に合わなかった。
早川は2秒で8メートルを詰めた。射手の銃身を左手で弾き、右の掌底を胸甲に寸止めした。
「1名、戦闘不能」
審判の声。
残り2名が即座にフォーメーションを変えた。背中合わせになり、一人が早川に銃を向け、もう一人が後方を警戒する。訓練通りの対応。
だが早川はもう動いていた。制圧した射手を盾にするように背後に回り込み、正面の射手の射線を塞いだ。訓練であっても味方にペイント弾を撃つことはできない。射手が銃口を逸らした——その隙に、早川は倒した射手を押し退け、床を転がって正面射手の足元に潜り込んだ。
下から掌底。寸止め。
「2名、戦闘不能」
最後の1名が振り返り、至近距離で発砲した。
ペイント弾が早川の左肩に着弾した。
「左腕使用不可」
早川が右手だけで射手の銃身を掴み、捻り上げた。金属が軋む音がした。フェロモン強化された握力が銃身を曲げる。射手の手から銃が引き剥がされ、右手の拳が喉元に寸止めされた。
「3名、戦闘不能。第1ラウンド終了。鬼庭の勝利」
経過時間、18秒。
訓練場に沈黙が落ちた。
特殊作戦群の12名が、目の前の光景を消化しようとしていた。
自分たちと同じ訓練を受け、同じ装備を持ち、同じ戦術を学んだ人間が——身体能力だけで、3対1を18秒で制圧した。
久我山が腕を組んだ。サンライズ作戦に従事した隊員の報告が蘇った。転化された元SAT隊員が、暗闇の中で味方を次々に無力化していった光景。あの時と同じだ。フェロモン強化された人間は、通常の人間を圧倒する。
だが——あの時の敵は吸血鬼の転種だった。噛まれれば自分も転化される。殺すしかなかった。
今日の相手は味方だ。味方がこれだけ強いなら——
「佐々木参事官」
久我山が低い声で言った。
「第2ラウンド。戦術を変えてもいいですか」
「どうぞ」
「サンライズで学んだことがある。フェロモン強化者には正面からのCQBでは勝てない。——だが弱点がないわけじゃない」
第2ラウンド。小隊対抗。
鬼庭8名(巖道を除く)対、特殊作戦群12名。
訓練場にパーティションと障害物が設置され、市街地戦を模した環境が構築された。視界が制限され、射線が通る距離は最長15メートル。
久我山が12名に指示を出した。声は低く、鬼庭側には聞こえない。
「全員、閃光弾と煙幕弾を多めに持て。正面から撃ち合うな。視界を奪え。距離を保て。近接に持ち込まれたら終わりだ」
久我山の目が暗くなった。
「六本木で学んだ。強化者に近接を許せば死ぬ。——だが強化者にも目はある。耳もある。それを潰せ」
鬼庭側。
早川が全体に指示を出した。巖道不在のため、正隊員の最先任として指揮を執る。
「陣形は3-3-2。前衛に俺、鬼塚、山岸。中衛に蔵本、神崎、朝倉。後衛に宮園と桐谷」
神崎が口を開いた。
「早川さん。私を前衛に入れてほしい」
「……理由は」
「中衛にいても中途半端になる。私の強みは近接戦闘だ。前衛で壁を崩す方が全体に貢献できる」
早川が頷いた。
「分かった。宮園、お前はダンジョンでの経験を活かして音を拾え。敵の動きを声で伝えろ。桐谷は全体の状況を把握して後方を抑えてくれ」
「了解」
ブザーが鳴った。
特殊作戦群が先手を打った。
正面からではない。3つのルートに4名ずつ分散し、鬼庭の陣形を包囲しにかかった。同時に、閃光弾が3発投げ込まれた。
轟音と白い光が訓練場を満たした。
通常の人間なら5秒は視覚と聴覚を奪われる。だがフェロモン強化された感覚は回復が早い。鬼庭の前衛3名は2秒で視覚を取り戻した。
その1秒の間に、特殊作戦群の4名が左側面から突入し、煙幕の中から正確なペイント弾を叩き込んだ。だが鬼庭の隊員たちは既に動いていた。閃光が炸裂した瞬間に身を伏せ、射線から外れている。
朝倉だけが反応が遅れた。胴体にペイント弾が着弾。
「1名、戦闘不能」
だが、それだけだった。閃光弾3発と煙幕による奇襲で、落としたのは1名。
久我山の表情が険しくなった。——想定より遥かに効果が薄い。
早川が叫んだ。
「距離を詰めろ!」
鬼庭の前衛が一斉に動いた。煙幕を突き抜け、特殊作戦群の射撃陣形に突入する。
神崎が煙幕の中に迷わず突っ込んだ。視界はほぼゼロ。だがダンジョンの暗闇で鍛えた聴覚が足音を拾っている。右前方、3メートル。左、5メートル。
視界はほぼゼロ。だが神崎にはダンジョンの暗闇で戦った経験がある。完全な暗闇の中で兵隊蟻の気配を感じ取り、音と空気の流れだけで位置を特定する技術。
足音に向かって跳んだ。煙の中から射手が現れた——銃口がこちらを向いている。引き金が引かれるより早く、神崎の手が銃身を叩き落とし、喉元に掌底を寸止めした。
「1名、戦闘不能」
振り向きざまに隣の射手にも踏み込む。銃口が神崎を追うが、フェロモン強化された反応速度は銃口の旋回より速い。懐に入り込み、手首を掴んで捻る。銃が床に落ちた。
「1名、戦闘不能」
煙幕が晴れる前に2名を落とした。4秒。
煙幕の外では、鬼塚と蔵本が右翼の4名を圧倒していた。特殊作戦群は距離を保って射撃を試みたが、鬼塚がパーティションを蹴倒して遮蔽物ごと突進し、射線を潰した。蔵本が横から回り込み、3名を次々に寸止めで制圧する。
宮園が後方から声で全体をコントロールしていた。
「右奥に2名、回り込もうとしてる! 早川さん、右通路の角!」
早川が通路の角で待ち構え、回り込もうとした2名を1人ずつ正面から制圧した。ペイント弾が発射される前に距離を詰め、銃身を掴んで引き寄せる。掴まれた射手の顔に驚愕が浮かぶ——その一瞬で、早川の反対の手が胸に触れている。寸止め。
立花が閃光弾を拾い上げ、投げ返した。元化学科の判断——ピンが抜かれてから爆発まで1.5秒。拾ってすぐ投げれば、相手側で炸裂する。
閃光と轟音が特殊作戦群の残存部隊を直撃した。自分たちの武器で視界を奪われた隊員たちの眼前に、フェロモン強化された鬼庭の前衛が殺到した。
戦闘は3分で決着した。
結果——鬼庭の勝利。
鬼庭側の損害:朝倉が戦闘不能。1名のみ。
特殊作戦群側:12名全員が戦闘不能。
8対12で、鬼庭が7名生存で勝った。
久我山が腕を組んだまま、しばらく無言だった。
「……12対8。数で上回り、閃光弾と煙幕で視界を奪い、距離を保って射撃戦に持ち込んだ。それでも——1名しか落とせなかった」
久我山が特殊作戦群の隊員たちを見渡した。
「閃光弾が1秒足らずで回復される。1秒では射撃が間に合わない。距離を保とうにも、向こうの脚が速すぎて間合いが維持できない。——近接に持ち込まれた者は全員やられた。第1ラウンドと同じだ。そして距離を保つ戦術そのものが、この相手には成立しなかった」
久我山が巖道に向き直った。
「巖道先生。率直に伺いたい」
「何でも聞け」
「もし今後、敵のフェロモン強化者と再度交戦する場合——我々通常部隊に勝ち目はありますか」
巖道が静かに答えた。
「正面からなら——ない。指数20以上の人間を、通常の装備で正面から制圧するのは不可能に近い。反射速度、筋力、耐久力——すべてが桁違いだ」
訓練場が静まった。
「だが」
巖道が続けた。
「弱点はある。一つ——フェロモン強化者は中毒を抱えている。長時間の戦闘や極度の緊張は、渇望を引き出す。渇望に飲まれた強化者は判断力が鈍る。持久戦に持ち込めば、崩れる可能性がある」
「二つ——閃光弾と煙幕は、僅かだが隙を作れる。フェロモンは感覚を鋭くするが、閃光弾の光量は強化された感覚をむしろ過敏に刺激する。回復は1秒足らずと驚くほど早いが、その1秒に射撃を集中できれば——今日のように1名は落とせる」
「三つ——数だ。今日は8対12で鬼庭が勝ったが、1名は落とされた。30対8なら結果は変わり得る。フェロモン強化者は少数だ。数で包囲し、消耗させ、1人ずつ削っていけば勝機はある」
久我山が頷いた。
「感謝します。——我々も研究を続けます」
久我山が敬礼し、特殊作戦群の隊員を率いて退場した。
訓練場に出入口から差し込む廊下の光が細くなり、扉が閉まった。
巖道が鬼庭の隊員たちを振り返った。
「よくやった。——だが問題がある」
9名が背筋を伸ばした。
「今日の模擬戦闘で、お前たちは個々の身体能力で押し切った。連携は最低限しか機能していない。宮園の声出しは良かった。立花の閃光弾の転用も機転が利いていた。だが前衛と中衛の動きがバラバラだ」
巖道が神崎を見た。
「神崎。お前は煙幕に一人で突入した。結果として2名を倒したが——味方の射線を完全に無視していた。蔵本が横から援護しようとしたが、お前が邪魔で撃てなかった」
神崎が唇を噛んだ。
「……すみません」
「謝るな。修正しろ。お前は一人で戦うことに慣れすぎている。ダンジョンでもそうだったのだろう。だがここはチームだ。一人で突出すれば、味方を殺す」
巖道が全員を見渡した。
「この部隊の目的は二つ。一つは六本木ヒルズの吸血鬼への対処。もう一つはダンジョン深層の脅威の制御だ」
「どちらの敵も、個人の力では勝てん。チームで勝つ。そのための連携を——明日から叩き込む」
夕方。訓練終了後。
神崎は一人で訓練場に残っていた。
衝撃吸収材の上に座り込み、瞑想のアメジストを握っている。紫色の石が淡い光を放っている。
渇望がある。午後の模擬戦闘で全力を出した反動だ。フェロモンが身体を突き動かそうとする。もっと強く。もっと速く。もっと——
巖道が訓練場に戻ってきた。
「まだいたか」
「……少し、落ち着くまで」
巖道が神崎の隣に腰を下ろした。
「渇望か」
「……はい」
「息を吐け。——吐くことだけに集中しろ。吸うのは身体が勝手にやる」
神崎が深く息を吐いた。長く、ゆっくりと。
もう一度。もう一度。
渇望が消えたわけではない。だが——輪郭が僅かに薄れた。
「……ありがとうございます」
「礼は要らん。技術だ。持ち帰って毎日練習しろ」
間があった。
「先生」
「何だ」
「私は——正隊員になれますか」
巖道が天井を見上げた。
「なれるかどうかは、お前次第だ。限界突破者であることは変えられん。だが渇望を御す技術は身につけられる。儂の門下に、30年酒を断った男がいた。酒への渇望は消えなかったが、飲まない技術を身につけた。——同じことだ」
「同じ……」
「フェロモンの渇望は消えん。だが飲まれない技術は、鍛えれば身につく。お前がそれを証明した時——儂が正隊員にすると佐々木に推薦する」
神崎は黙って頷いた。
おにぎりの味を思い出した。限界突破の後、3日間耐えた時のおにぎりの味。米の味。塩昆布の味。
人間の味だ。
「——まだ、人間でいられる」
小さな声で呟いた。
巖道が静かに頷いた。
同日夜。防衛省。佐々木の執務室。
佐々木がタブレットに報告書を作成していた。
「対超常脅威即応部隊『鬼庭』訓練報告(第5日)」
「午前:対指揮官組手訓練。全9名が巖道先生と個別に交戦。最長持続時間は特別嘱託・神崎遥の4.2秒。巖道先生に接触したのは神崎のみ(回し蹴りの風圧が頬部に到達)」
「午後:特殊作戦群との合同模擬戦闘」
「第1ラウンド(個人戦):早川勇一(指数24)対特殊作戦群3名。18秒で3名を制圧。被弾1(左肩)。フェロモン強化者の近接優位性を明確に実証」
「第2ラウンド(小隊対抗):鬼庭8名対特殊作戦群12名。3分で決着。鬼庭側損害1名、特殊作戦群側全滅。閃光弾・煙幕による視覚妨害は効果が限定的」
「所見:個々の戦闘力は十分。チーム連携に課題あり。正隊員は指揮系統への順応が速いが、フェロモン強化された身体への慣れが浅い。準隊員・嘱託は身体能力を最大限に引き出すが統制に欠ける。両者の融合が鍵」
「特記事項:特別嘱託・神崎遥について。限界突破後の渇望は依然として存在するが、訓練中の制御は保たれている。巖道先生の呼吸法指導が一定の効果を示している。正隊員への昇格判断は、3ヶ月後の再評価時に改めて検討」
佐々木はキーボードを打つ手を止めた。
率直な印象——この部隊は、まだ形になっていない。だが形になる予感がある。
巖道征四郎という中心がある限り、この部隊は崩れない。
佐々木は報告書の最後に、一行だけ私見を加えた。
「鬼庭は機能し得る。しかし、時間が要る」




