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血を与えたら進化しすぎた件~世に出回るアーティファクトも東京に出来たダンジョンも多分俺のせいだけど面白いからいいよね~  作者: 唯之助


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第30話「新しい日常」

 田村健一は、足立区の古びたアパートの一室で、テーブルの上に並べた装備を確認していた。


 40歳。妻と二人の子供は、大阪の妻の実家に避難させた。東京駅の混雑の中、泣きじゃくる子供たちを無理やり新幹線に乗せた時の光景が、今でも脳裏にこびりついている。


 妻の最後の言葉は、「お父さんも来て」だった。


 だが、田村は東京に残った。


 大阪に行っても、仕事がない。勤めていた中堅の物流会社は、東京の混乱で業務が半壊し、先月末で全社員に一時帰休を言い渡した。退職金はなく、給与は来月分まで。貯金は、妻子の避難費用と大阪での生活費に消えた。


 残っているのは、23万円だけだ。


 ハローワークには先週も行った。受付で2時間待たされた末に言われたのは、「東京都内の求人はほぼ凍結状態です」。120万人以上が東京を離れ、残った企業も事業を縮小している。物流、小売、飲食——田村の経験が活きる業種は軒並み壊滅していた。


 唯一の例外が、ダンジョン関連だ。


 テーブルの上の装備を見る。


 ホームセンターで買った安全靴。3,800円。つま先に鉄板が入っている。作業用ヘルメット。2,200円。革手袋。1,500円。LEDヘッドライト。2,980円。不織布マスク。50枚入り398円。フェロモン対策としては気休め程度だが、浅層では無いよりましだと掲示板に書いてあった。


 そして——ハンマー。


 建築用の、重さ1.5キロの両口ハンマーだ。3,200円。柄は木製で、頭部は鋼鉄。これが、田村の唯一の武器になる。


 総額14,078円。


 アーティファクトの武器や防具は、最も安いものでも数十万円する。守護の護符は1個500万円以上。23万円しか持たない田村には、手が届かない。


 田村が、スマホで掲示板を開く。



 東京ダンジョン攻略スレ Part 93 初心者用


 12:名無しの冒険者

 初心者向けQ&A(随時更新)


 Q:装備なしでも潜れる?

 A:地下15mくらいまでなら不可能ではない

 ただし死亡リスクあり。最低でも武器1つと光源は持て


 Q:最低限必要な予算は?

 A:ホームセンター装備なら2万円前後

 アーティファクト装備なら最低50万円

 安全を考えるなら100万円以上


 Q:どこで稼げる?

 A:浅層(地下30m以内)の宝箱からアーティファクト回収が基本

 浅層で出るのは癒しの絆創膏や無限筆が中心

 フリマ相場は絆創膏が3万〜8万、ペンが3万〜10万

 品質スコアが高いほど値段も跳ね上がる

 ただし宝箱の競争率は非常に高い


 Q:蟻を倒すとどうなる?

 A:蟻を倒した時に飛び散る体液のフェロモンで身体が強くなる

 恒久的な変化。元には戻らない

 ただし中毒のリスクがある。深追い厳禁


 Q:蟻の死骸は持ち帰れる?

 A:持ち帰れる。外骨格は加工業者が買い取ってくれる

 浅層の兵隊蟻でも1体500〜2,000円程度

 中層以深の大型になると跳ね上がる

 宝箱が見つからない日の保険として覚えておくべし


 Q:保険は入った方がいい?

 A:入れるなら絶対入れ

 死んだら家族に何も残せない

 共済型なら月5,000円からある。ギルド未登録でもOK



 田村は、「どこで稼げる?」の欄を何度も読み返した。


 癒しの絆創膏が3万から8万。宝箱一つで、うまくいけば10万円以上になる。月に数回潜って、宝箱を2つ3つ見つけられれば——妻子への仕送りと自分の生活費くらいは賄える計算だ。


 だが、競争率は非常に高いとも書いてある。浅層の宝箱は、毎日数百人の冒険者が奪い合っている。空っぽの宝箱に辿り着くことも珍しくないらしい。


 蟻の死骸が売れるというのは知らなかった。宝箱が空振りでも、蟻さえ倒せれば手ぶらでは帰らなくて済む。


 保険は、共済型の月5,000円に入った。死亡見舞金は300万。大手損保のダンジョン専門保険なら死亡保障1,000万だが、月額12,000円は23万の手持ちでは重すぎる。300万では妻子の生活を支えるには心もとないが、ゼロよりはましだ。


 ギルドにも登録した。月額10,000円。合わせて毎月15,000円の固定費。23万円では15ヶ月分。だが装備の消耗、交通費、食費——実質的な猶予は半年もないだろう。


 田村は、妻に電話をかけた。


「……まあ、一応。ダンジョンの調査関係の仕事だ」


 嘘だ。だが、妻に「冒険者になる」とは言えなかった。


「そう……気をつけてね」


「ああ。保険にも入ったから、心配するな」



     



 翌日。早朝5時。


 品川区のダンジョン入口。


 田村は、入口の前に立っていた。


 ここは比較的入りやすい入口の一つだ。かつてはビルの地下駐車場だった場所の壁面に、直径3メートルほどの穴が開いている。ダンジョンの通路が地下駐車場と繋がった結果だ。周囲にはフェンスが設置され、入口には臨時の管理所が置かれている。


 ダンジョン管理庁は未だ本格稼働していないが、入口の一部には自治体やギルドの協力で臨時の管理体制が敷かれ始めていた。ギルドの登録証を提示すれば入場できる。もっとも、管理されていない入口も数十ヶ所あり、非公認冒険者の大半はそちらから潜っている。


 入口の前には、すでに20名ほどの冒険者が集まっていた。


 彼らの装備は、様々だ。


 前方にいる3名のグループは、明らかにベテランだった。全身をアーティファクトで固めている。守護のヘルメットを被り、腰には切断のナイフ。一人は首から守護の護符を下げていた。彼らの動きは落ち着いており、雑談をしながらリラックスしている。


 中程にいる5名のグループは、中級者のようだった。ホームセンター装備とアーティファクトを混ぜている。ヘルメットは市販品だが、武器は鋼鉄の木刀。一人はすね当てに黒っぽい板材を縛りつけていた。兵隊蟻の外骨格だ。最近、倒した蟻の外骨格を防具に転用する冒険者が増えているらしい。掲示板でも話題になっていた。外骨格は硬く、軽く、市販の防具より衝撃に強い。


 そして——田村と同じように、明らかな初心者が数名いた。


 田村の隣に、若い男が立っていた。20代前半。痩せ型で、目の下に隈がある。装備は田村と似たようなものだ。ヘルメット、軍手、ヘッドライト。武器は……金属バット。


「……あの、初めてですか?」


 若い男が、田村に話しかけてきた。声が震えている。


「ああ。今日が初めてだ。あんたは?」


「俺も……初めてです。西川っていいます」


「田村だ。よろしく」


 西川が、唾を呑み込む。


「……怖いっすね」


「ああ、怖い」


 田村は、正直に答えた。怖くないわけがない。地下の暗闘に潜り、巨大な蟻と対峙する。そんな経験は、40年の人生で一度もない。


「俺、内定取り消されて……就職先がなくなって……仕送りも止まって……」


 西川が、ぽつりぽつりと事情を話す。地方から上京した大学生。卒業直前に内定先の企業が東京撤退を決め、内定が消えた。実家に帰る金もなく、ダンジョンで稼ぐしかない。


 入口の管理所から、ギルドの職員が出てきた。30代の女性で、蛍光ベストにギルドの腕章をつけている。


「おはようございます。本日の入場者は……22名ですね。初めての方は手を挙げてください」


 田村と西川を含む、6名が手を挙げた。


「初回の方には、安全講習を行います。こちらへどうぞ」


 6名が、管理所の隣に設置されたプレハブ小屋に案内される。中にはパイプ椅子とホワイトボード。ホワイトボードには、ダンジョンの断面図が色分けされている。


 職員が、講習を始める。


「地下30メートルまでを『浅層』と呼びます。初回の方は、絶対に浅層から出ないでください」


 職員の声は、厳しかった。


「浅層の兵隊蟻は、体長20センチから50センチほど。顎が強く、噛まれると骨まで達します。弱点は首関節——頭部と腹部の間の結合部です。ここを強打すれば、動きを止められます」


 職員が、ホワイトボードに蟻の図を描き、首関節に赤い丸をつけた。


「次に、重要なことを二つ。一つ目——蟻を倒すと体液が飛散します。この体液にはフェロモンが含まれていて、吸引すると身体能力が恒久的に向上します。マスクをしていても完全には防げません。ただし同時に、中毒も進行します。めまい、多幸感、ダンジョンに行きたいという衝動——これらの症状が出始めたら、中毒が始まっています」


「二つ目——ダンジョンの空気にもフェロモンが含まれています。ただし空気中のフェロモンでは身体は強くなりません。中毒を進めるだけです。強くなるのは蟻を倒した時だけ。空気で強くなると勘違いして、何もせずに深くまで潜って長時間居座る人がいますが、あれは中毒を悪化させているだけです。絶対にやらないでください」


 田村は身を乗り出して聞いた。


「もう一つ。中層以深では、壁面や天井からの蟻酸噴射が報告されています。防護服を溶かすほどの高濃度の酸です。自衛隊が初期に投入された際、この蟻酸で重傷者が複数出ています。浅層では今のところ確認されていませんが、深い層ほど蟻の防衛機構が高度になります。浅層だけに留まるべき理由は、蟻の強さだけではありません」


「最後に。深追いしないでください。宝箱が見つからなくても、焦って中層に踏み込まないでください。死んだら、何も稼げません」


 講習が終わり、田村と西川は自然と並んで歩いていた。


「……一緒に行きますか。二人の方が、安全だと思うんですけど」


「ああ、一緒に行こう」


 二人が、ダンジョンの入口に立つ。


 穴の底は暗い。螺旋状の通路が、地下に向かって伸びている。壁面は蟻の唾液で固められた独特の光沢を持ち、ヘッドライトの光を鈍く反射している。


 ぬるい空気が、穴の底から上がってくる。フェロモンの匂いだ。甘く、重い。マスク越しでも分かる。


 田村が、深呼吸する。


 妻と子供の顔を思い浮かべる。


 大丈夫だ。浅層だけ。無理はしない。生きて帰る。


「行くぞ」


 田村が、最初の一歩を踏み出した。



     



 地下5メートル。


 ヘッドライトの光が、壁面を照らす。通路の幅は約2メートル、高さは2.5メートルほど。壁面は蟻の唾液で固められている。触ると、硬いがわずかに弾力がある。樹脂に似た感触だ。琥珀色のコーティングが、ヘッドライトの光を鈍く反射している。


 空気は、地上より温かい。フェロモンの匂いが濃くなっている。甘い、花のような匂い。だが、その甘さの奥に、何か危険なものが潜んでいる気がする。


「……田村さん、あれ」


 西川が、通路の壁を指す。


 壁面に、小さな穴が空いていた。直径20センチほど。中から、働き蟻が一匹這い出てきた。体長15センチ。赤褐色の身体で、触角をせわしなく動かしている。


 働き蟻は、二人をちらりと見たが、特に反応しなかった。通路を横切り、反対側の穴に消えていく。


「……攻撃してこないな」


「講習で言ってた通りだ。こっちから手を出さなければ無害だ」


 二人は、さらに降りていく。


 地下7メートル。通路が分岐した。左は緩やかな下り坂、右はほぼ水平に続いている。壁面の穴の数が増え、働き蟻の往来が頻繁になっている。


 田村は右を選んだ。水平な通路の方が、安全そうだ。


 50メートルほど進むと、通路が広い空間に出た。天井の高さは5メートルほど。広さは教室2つ分くらい。壁面のところどころに通路の入口が開いており、働き蟻たちが行き来している。


 この空間には、他の冒険者たちがいた。10名ほど。通路の脇を覗き込む者、壁の窪みを調べる者、空間の隅を懐中電灯で照らす者。宝箱を探しているのだ。


 田村が、近くにいた冒険者に話しかける。30代の女性。ヘルメットに登山用のジャケット、手にはピッケル。首元に安らぎの香をぶら下げている。ベテランの空気が漂っている。


「宝箱はこの辺りで見つかりますか?」


「見つかるよ。ただし、運次第。この空間から枝分かれしてる小部屋に置いてあることが多い。でも毎日補充されるわけじゃないから、空っぽの日もある」


 女性が、バックパックから一つ取り出して見せてくれた。絆創膏だ。見た目は普通の絆創膏に近いが、表面にかすかな光沢がある。


「癒しの絆創膏。品質スコアが低い浅層産でも1枚3万から8万。スコアが20を超えると10万以上いく。深層産のスコア60以上なら30万。同じ絆創膏でも品質で全然違うから」


「それ一つでそんなに……」


「そう。でもね、1回の潜行で1箱見つけられたらラッキーな方。浅層は初心者でも来れるから、冒険者が集中するの。毎日50人以上がこのエリアに入ってるよ」


 田村と西川は、空間から枝分かれしている小通路を一つずつ探索し始めた。


 小通路は狭い。一人がやっと通れる幅で、ヘッドライトの光だけが頼りだ。3メートルほど進むと行き止まりになっていたり、さらに小さな空間に出たりする。


 暗い穴のような通路に身体を押し込んでいくのは、恐怖そのものだった。何が潜んでいるか分からない。壁面から働き蟻が出てくるたびに心臓が跳ねる。


 30分が経過した。何も見つからない。


 汗が止まらない。気温のせいだけではない。常に暗闇の中にいるという圧迫感が、じわじわと精神を削る。ヘッドライトの電池残量が気になり始める。帰り道を間違えたら、この暗闇の中で迷子になる。


「……田村さん、あっち、まだ誰も入ってないっぽいです」


 西川が、空間の奥にある小通路を指した。入口が狭く、大人一人がかがんで入れる程度。他の冒険者たちは素通りしている。


 田村が、ヘッドライトの光を通路の奥に向ける。5メートルほど先に、小さな空間が見えた。そして——その中央に、何かがある。


「……あれ、宝箱じゃないか?」


 田村が、身をかがめて通路に入る。天井が低く、四つん這いに近い姿勢で進む。膝が痛い。手のひらに、壁面のコーティングのざらざらした感触が伝わる。


 小空間に出た。畳2枚分ほどの広さ。天井は低いが、しゃがめば作業できる。


 中央に——宝箱があった。


 蟻の唾液素材で形成された、長さ30センチほどの箱。蓋に蝶番のような構造があり、留め金がついている。掲示板で何度も写真を見た、あの形だ。


「……あった」


 声が震えた。


 田村が、留め金に手をかける。周囲を確認する。天井、壁、床。異常はない。


 蓋を開けた。


 中には——絆創膏が3枚入っていた。白い絆創膏。だが、表面にかすかな光沢がある。


 癒しの絆創膏。


 田村の手が、震えている。恐怖ではない。安堵と興奮だ。


「西川! あったぞ!」


「マジっすか!」


 通路の向こうから、西川の興奮した声が返ってくる。


 田村が、絆創膏を慎重にバックパックのポーチに仕舞う。損傷しないよう、ハンカチで包んで。


 小通路を這い出て、西川と合流する。


「よし。今日のところはこれで——」


 だが——そこで、最初のトラブルが起きた。


 空間の奥の通路から、何かが近づいてくる音がした。


 カサカサカサカサ。


 複数の脚が、地面を這う音だ。


 田村が、振り返る。


 通路の奥から——兵隊蟻が現れた。


 体長30センチ。黒褐色の外骨格に覆われた、ずんぐりとした身体。頭部には、人間の指を簡単に切断できる大顎がついている。触角が、二人の方を向いている。


 写真では見ていた。掲示板の画像で、何度も。だが実物は、画面越しの印象とは全く違う。生きている。呼吸している。大顎がゆっくりと開閉している。


 田村の心臓が、跳ね上がった。


 兵隊蟻が、二人に向かって突進してきた。


 速い。想像していたよりもずっと速い。


「っ!」


 田村が、ハンマーを振りかぶる。


 兵隊蟻が、田村の足元に飛びかかる。大顎が、安全靴の鉄板に噛みつく。ガリッ、と嫌な音がする。鉄板が、わずかに凹む。


「くそっ!」


 田村が、ハンマーを振り下ろす。


 狙いは、首関節。だが、動く標的に正確に当てるのは難しい。ハンマーの頭が、兵隊蟻の背中に当たる。外骨格が、硬い音を立てる。致命傷にはならない。ここまで硬いのか、と思った。ハンマーの衝撃が腕に返ってくる。兵隊蟻が安全靴から顎を離し、体勢を立て直す。


「田村さん!」


 西川が、金属バットを振る。バットが兵隊蟻の横腹に命中する。兵隊蟻が吹き飛ばされ、壁にぶつかる。


 だが——まだ動いている。


 兵隊蟻が、再び突進してくる。今度は、西川に向かって。


「うわっ!」


 西川が、バットを構える。だが、恐怖で腰が引けている。振りが弱い。バットが兵隊蟻の触角を掠めるだけで、本体には当たらない。


 兵隊蟻の大顎が、西川のふくらはぎに噛みつく。


「ぎゃあっ!」


 西川が、悲鳴を上げる。血が、ズボンを染める。


 田村が、ハンマーを振り上げる。今度は、冷静に。首関節を狙う。


 ホワイトボードに描かれた赤い丸を思い出す。頭と腹の間。


 ガン!


 ハンマーの頭が、兵隊蟻の首関節を直撃する。


 パキッ、と外骨格が砕ける音がした。兵隊蟻の動きが、ぴたりと止まる。大顎が西川のふくらはぎから離れ、身体がぐったりと地面に横たわった。


 砕けた外骨格の隙間から、体液が飛散した。甘い匂いが鼻を突く。フェロモンだ。マスク越しでも、頭がかすかに揺れる。


 これが、蟻を倒した時の体液か。講習で言われた「身体を恒久的に強化する」物質。吸い込んだ量はごく微量だが、確かに——何かが体内に入ったような、奇妙な感覚があった。


 田村が、荒い息をつく。


「西川! 大丈夫か!」


「っ……痛い……けど、大丈夫……です……」


 西川のふくらはぎから、血が流れている。大顎が皮膚を裂き、筋肉にまで達している。出血は多いが、骨には届いていなさそうだ。


 周囲の冒険者たちが、こちらを見ていた。だが、助けに来る者はいない。ダンジョンの中では、他人の戦闘に介入しないのが暗黙のルールだ。一人だけ、先程の女性冒険者が小さく頷いた。よくやった、という意味だったのかもしれない。


 田村が、バックパックから救急キットを取り出す。消毒液とガーゼで応急処置をする。


 ふと——手が止まった。


 バックパックの中に、さっき回収した癒しの絆創膏がある。


 使うべきか?


 1枚3万から8万円。それを使えば、西川の傷はすぐに治る。だが、それは今日の命がけの報酬の3分の1を消費することを意味する。


 田村は、3秒だけ迷った。


 そして——市販のガーゼで応急処置を続けた。


「……帰ろう。今日はここまでだ」


「……すみません、田村さん……」


「謝るな。生きてるだけでいい」


 田村が西川の肩を貸して、地上への通路を登り始める。


 西川の体重が肩にかかる。左足を引きずる西川に合わせて、ゆっくりと螺旋通路を登る。ヘッドライトの光が、通路の壁面を照らす。行きとは違う。帰りの通路は、長い。


 バックパックの中に、癒しの絆創膏が3枚。


 使わなかった。使えなかった。


 5万円と仲間の傷を天秤にかけて、5万円を選んだ。


 それが正しかったのかどうか、田村には分からない。だがこの3枚を売れば10万以上になるかもしれない。妻子への仕送りが1ヶ月分は賄える。西川の傷は、2週間で治る。癒しの絆創膏を使わなくても、死にはしない。


 合理的な判断だ。


 だが——合理的であることと、正しいことは、同じではない。


 田村はそのことを、螺旋通路を登りながら考えていた。


 背後で、倒した兵隊蟻の死骸がそのままになっている。持ち帰れば小銭にはなったが、西川を抱えた状態では蟻の死骸まで運ぶ余裕はなかった。



     



 地上に出た。


 入口のそばに設営されたギルドの簡易医療テント。常駐の看護師が西川のふくらはぎを処置する。消毒、縫合、包帯。


「兵隊蟻の顎ですね。よくある怪我です。腱は無事ですから、2週間もすれば松葉杖なしで歩けるようになりますよ」


 事務的な口調だった。ここでは、毎日のようにこの手の怪我を診ているのだろう。


 田村はテントの外で待ちながら、入口の周りに広がる簡素な市場を眺めた。


 テントや露店が並び、ダンジョン関連の商品が取引されている。


 ある露店では、ホームセンター装備の改造品を売っていた。安全靴に追加の鉄板を入れたもの、ヘルメットに顎ガードをつけたもの。「安全靴の改造、5,000円でやりますよ!」と店主が声を張る。


 隣の露店では、蟻の外骨格を加工した装備が並んでいた。脛当て、肘当て、手甲。黒褐色の硬い甲殻を、革ベルトで身体に固定する構造になっている。


「外骨格の脛当て、1セット8,000円。鉄より軽くて硬い。蟻の顎に噛まれても貫通しにくいよ」


 田村は手を伸ばして、脛当てに触れた。確かに硬い。だが驚くほど軽い。鉄板の3分の1ほどの重さしかない。さっき自分のハンマーで叩いた時の、あの跳ね返るような硬さを思い出す。兵隊蟻の外骨格は、殻としては優秀な素材なのだ。


「中層以深の大型蟻の外骨格なら、もっと分厚いのが取れる。銃弾も弾くって話だよ。まあ、そんなもんは中々出回らないけどね」


 別の露店では、アーティファクトの買い取りが行われていた。


「アーティファクト買い取ります! 鑑定の鏡で品質鑑定もできますよ!」


 田村が、バックパックから絆創膏を取り出す。


「癒しの絆創膏、3枚あるんですけど」


 店主が鑑定の鏡を懐から出した。手のひらサイズの小さな鏡だ。鏡面を絆創膏にかざすと、淡い光が灯り、数字が浮かんだ。


「品質スコア14、11、17。浅層産だね。14と11は1枚4万円、17の方は5万円。3枚で13万円でどうですか」


「……13万円」


「浅層の宝箱から出る絆創膏は、スコア20以下がほとんどだよ。13万は妥当な値段」


 田村は、13万円を受け取った。


 西川の治療が終わるのを待ちながら、札を数えた。13万円。二人で潜ったのだから、折半なら6万5千円ずつ。


 だが——田村の頭の中で、別の計算が動いていた。


 絆創膏を使わなかった。5万円の絆創膏を1枚使えば、西川の傷はすぐに塞がったはずだ。使わなかった。仲間の傷より、売却益を選んだ。


 その後ろめたさが、指先に残っている。


 田村は13万円を二つに分けた。5万円と8万円。


 テントから出てきた西川に、8万円を差し出した。


「取り分だ」


「え——多くないですか? 宝箱見つけたの田村さんだし——」


「お前が蟻を引きつけてくれたから、俺は宝箱に辿り着けた。それに——」


 田村は言葉を選んだ。絆創膏を使わなかったことは言えなかった。


「怪我の分だ。治るまで潜れないだろ。その間の生活費にしろ」


 西川が、数秒間、8万円の札束を見つめていた。


「……ありがとうございます」


 小さな声だった。


 田村の手元に残ったのは5万円。


 命がけで潜って、仲間が怪我をして、手に入ったのが5万円。


 保険料5,000円、ギルド月会費10,000円、装備の維持費、交通費、食費——差し引くと、妻子への仕送りに回せるのは2万円がいいところだろう。


 だが、ゼロよりはましだ。


  西川が松葉杖をつきながら、田村の隣に並んだ。


「……田村さん。また、一緒に潜ってもらえますか。怪我が治ったら」


 田村が、西川を見る。


 20代前半の、痩せた青年。目の下の隈は、朝よりも濃くなっている。だが、目の中には、まだ光がある。


「ああ。一緒に行こう」


「ただし、次はもうちょっと装備を整えてからだ。安全靴の改造と、顎ガードと……あと、さっき見た外骨格の脛当て。8,000円なら買える。今日噛まれたのも脚だった。あれがあれば結果は違ったかもしれない」


「はい」


「それと、蟻の死骸も持ち帰ろう。今日は余裕がなかったけど、外骨格は売れる。宝箱が見つからない日の保険だ」


 二人が、ダンジョンの入口を後にする。


 入口の周りには、まだ多くの冒険者たちがいた。潜る準備をする者、戻ってきた者、負傷して担架で運ばれる者。蟻の死骸を大きな袋に詰めて運んでいる男もいる。加工業者に売るのだろう。


 ここが、今の東京の日常だ。


 かつてスーツを着てオフィスに通っていた人々が、ヘルメットとハンマーを持って地下に潜る。月間600億円の市場。その末端で、田村のような人間が命を賭けて13万円を稼いでいる。


 田村が、電車に乗ってアパートに帰る。


 車内は、以前より空いている。乗客の何割かは、何かしらのダンジョン関連装備を持っている。ヘルメットを膝の上に置いた会社員風の男。バックパックからバットの柄が覗いている若者。蟻の外骨格で作った脛当てを堂々と装着したまま乗っている男。以前なら仮装と間違われただろう。


 東京は、変わった。


 だが、人々は生きている。何とかして、生きようとしている。


 田村が、スマホを取り出す。


 妻にメッセージを送る。


「今日、仕事のめどがついた。来週、仕送りする」


 数分後、返信が来た。


「ありがとう。無理しないでね」


 田村が、スマホを閉じる。


 無理しないで。


 それが、どれほど難しいことか。妻は、知らない。


 だが——明日も潜る。


 田村は、そう決めていた。

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― 新着の感想 ―
色んな陣営あるけど、ぶっちゃけこのアリダンジョン関連の話が1番面白い。ほんと久々にいい作品見つけました。
まさかの西川の取り分無しとは。 無給で盾になってくれるとは何て都合の良い存在なんだろう。 クールタイムが二週間と長いのが唯一の欠点ですね。
中毒進むと家族の為の決意や仲間と金の葛藤も消えて蟻さんの仲間になるんだから怖いねフェロモン!
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