第29話「芽吹き」
血をやってから、3日が経った。
真央はコンビニのバイトを終えてから、アラクネの空き地に向かった。最近はバイトのシフトも減っている。客が激減しているのだ。この辺りの住宅街も空き家が目立つようになり、店長が「来月から週3に減らすかも」とぼやいていた。
路地を抜けて、空き地に出る。
ケヤキは、まだそこに立っていた。
だが——。
「……変わってる」
真央が足を止めた。
葉の色が違う。3日前のくすんだ黄緑ではなく、鮮やかな深緑に変わっている。しかも枯れかけていた枝先に新しい葉が芽吹いていた。3月の半ばに新芽が出るのは、さほど異常ではないかもしれない。だがこの木は3日前まで衰弱していた。枯死寸前の木が、たった3日で新芽を吹くことはない。
幹もわずかに太くなっている。樹皮の質感が変わり、以前よりも滑らかで、微かに赤みを帯びていた。
アラクネが空き家の窓から降りてきた。
「……オヤ! ミテ、ミテ!」
興奮気味に、アラクネがケヤキの周りをぐるぐると回る。8本の脚が嬉しそうにぱたぱたと地面を叩いた。
「……ハッパ、キレイニナッタ! ミドリ、コクナッタ!」
「ほんとだ。結構変わったな」
真央がポケットから手鏡を取り出し、ケヤキに向けた。鏡面に淡い光が浮かび、光の文字が現れる。
名称:ケヤキ(変異進行中)
樹齢:推定40年
状態:変異進行中
変異進行度:4.7%
予測変異完了時間:不明
「4.7パーセント。3日で4パーセントちょっとか。やっぱり植物は遅いな」
「……デモ、ゲンキニナッテル!」
アラクネが幹に頬を寄せた。
「……木ノナカノオトガ、マエトゼンゼンチガウ。ミズガ、イキオイヨク、ナガレテル」
「へえ」
真央は特に感慨もなくスマホを取り出した。掲示板を開く。最近の日課だ。
東京ダンジョン攻略スレ Part 92
123:名無しの冒険者
地下100m付近に到達したって話がちらほら出てきてる
「巨大な空洞がある」とか「天井が20メートル以上」とか
真偽不明だけど複数のソースから似た話が出てるのが気になる
145:名無しの冒険者
>>123
100mはさすがに盛ってないか?
90m台ならまだ分かるけど
167:名無しの冒険者
>>145
確定情報ではないな
ただギルドの深層調査チームが「95m以深で未確認の大空間を探知した」って
非公式に漏らしてるって話はある
指数25クラスのパーティじゃないとそもそも到達できない深度だから
確認できる人間が限られてるのが問題
189:名無しの冒険者
>>167
仮に100mだとして行く価値あるのか?
211:名無しの冒険者
>>189
品質スコア80超えのAFが出るって噂はある
1個で億いく可能性ある
ただしソースがギルドの又聞きなんで話半分で
233:名無しの冒険者
金の匂いがするスレはこれですか
255:名無しの冒険者
あとこれ重要なんだが
深層のフェロモン濃度はマジでやばいらしい
指数の低い奴だとアメジストなしで5分いたら判断力落ちるって
25超えの連中でも高品質な安らぎの香か護符、もしくはアメジストは必携なんだと
277:名無しの冒険者
>>255
瞑想のアメジストが事実上の入場チケットだな
あれなしで深層は自殺行為
299:名無しの冒険者
そのアメジストが5,000万するんだが
321:名無しの冒険者
金があるやつだけが深層に行けて
深層で金になるアーティファクトを取って
さらに金持ちになる
343:名無しの冒険者
>>321
資本主義の縮図で草
真央がスマホから目を離した。
「100メートルに届きそうなのか。ダンジョン、だいぶ深くなったな」
自分が女王蟻に血を垂らしたのが、もう随分前のことだ。あの1滴から始まった蟻の巣が、地下100メートルに届くほどの巨大な迷宮に成長している。
「……ダンジョン、マダオオキクナル?」
「どうだろうな。蟻が勝手にやってることだし、止まるかどうかは蟻次第だろ」
スマホにニュース通知が入った。
「速報:六本木ヒルズ周辺で徘徊者が急増 封鎖線の外側でも目撃情報相次ぐ」
「へぇー増えてるんだ」
真央が記事を開いた。
警視庁は本日、六本木ヒルズの封鎖線外において徘徊者の目撃情報が過去1週間で47件に上ったと発表した。封鎖線から半径2キロ以内での目撃が大半だが、渋谷区や新宿区でも散発的な報告がある。
防衛省は封鎖線の拡大を検討しているが、対象エリアの商業施設や住居の移転補償が課題となっている。
専門家は「吸血鬼が意図的に徘徊者を封鎖線の外に放出している可能性がある」と指摘。六本木ヒルズの吸血鬼が勢力圏を拡大しようとしているとの見方が広がっている。
「渋谷や新宿でも出てるのか。じわじわ広がってんな」
「……コワイネ」
アラクネが糸を揺らした。
「こっちまでは来ないだろ。六本木から結構離れてるし」
「……ソウ?」
「多分な」
真央はスマホを閉じた。
「それより」
真央がケヤキを見上げた。
「こいつ、どこまで変わるかな」
「……ワカラナイ。デモ……タノシミ」
アラクネがケヤキの幹に背中を預けた。蜘蛛の大きな身体が幹にもたれかかる形になる。
「……ワタシ、コノ木ト、トモダチニナリタイ」
「友達? 木と?」
「……ウン。ワタシ、イツモヒトリダカラ。オヤハ、タマニキテクレルケド……フダンハ、ヒトリ」
真央がアラクネを見た。
2メートルの半人半蜘蛛が、10メートルの大木にもたれかかって「友達になりたい」と言っている。客観的に見れば異様な光景だが、真央には特に何も感じない。
「木が友達か。まあ、お前が楽しいならいいんじゃね」
「……コノ木ガ、モットカワッタラ……オハナシデキルカナ」
「話す? 木が?」
「……オヤノチデカワッタイキモノハ、ミンナカシコクナル。ワタシモソウ。アリモソウ。コノ木モ……イツカ……」
真央が少し考えた。
確かに、蟻は知性を獲得してダンジョンを構築し、蜘蛛は言葉を話すようになった。植物が同じように知性を持ったら、どうなるのだろう。
動物と違って、植物には脳がない。神経系もない。思考する器官がそもそも存在しない。だが——真央の血は、蟻にダンジョンを構築する知性を与え、蜘蛛に言語を話す能力を与えた。どちらも元の生物にはなかったはずの機能だ。植物に脳がないからといって、知性を持てないとは限らない。
「木が喋るようになったら、それはそれで面白いな」
「……ウン!」
アラクネが嬉しそうに8つの目を細めた。笑顔らしきものだ。蜘蛛の顔で笑顔を作るのは構造的に難しいはずだが、目の細め方に感情が滲んでいる。
真央が空き地に腰を下ろした。ケヤキの根元、コンクリートを突き破って盛り上がった根の上に座る。
アラクネが真央の隣に陣取った。蜘蛛の脚を折り畳み、上半身だけを起こした姿勢でケヤキの幹にもたれかかる。
しばらく、二人とも黙っていた。
風が吹き、ケヤキの葉が揺れる。深緑の葉がさわさわと音を立て、木漏れ日が二人の上に降り注いだ。
静かだ。
東京の至るところで人々が逃げ出し、ダンジョンで人が死に、六本木の封鎖線が揺らいでいる。
だがこの空き地だけは、静かだ。
「……オヤ」
「ん?」
「……ココ、イイトコロダネ」
「そうだな」
真央が木を見上げた。
葉の隙間から空が見える。曇り空だ。だがケヤキの葉を通して見る空は、どこか優しい色をしていた。
真央はふと思った。
自分には感情がない。人の死を聞いても何も感じないし、社会の崩壊を見ても「面白い」としか思わない。
だが——この場所は、悪くないと思う。
それが感情なのかどうかは分からない。ただ、ここにいることが「悪くない」というぼんやりとした感覚だけがある。
真央がスマホを取り出した。
もう一つ、ニュース通知が来ていた。
「政府発表:ダンジョン関連の最新統計」
ダンジョン関連死亡者:計712名
行方不明者:計3,680名
フェロモン中毒者:22,400名
限界突破者:84名
モンスター化確認:14名
国家公認冒険者:2,200名
非公認冒険者:推定22,000名超
アーティファクト流通総数:推定25,000点超
月間市場規模:推定600億円
「600億円か。すごい産業になってんな」
真央が数字を眺めた。
「これ全部、元を辿れば俺の血から始まったんだよな。蟻に血をやって、魔道具を置いて、そこからアーティファクトが増えて。600億円の市場が、俺の血一滴から生まれたわけだ」
「……オヤ、スゴイ」
「すごくはないだろ。俺は血垂らしただけだし。蟻が勝手に頑張ってるだけだよ」
真央がスマホを閉じた。
「さて、帰るか。明日もバイトあるし」
「……ウン。オヤ、マタキテネ」
「ああ」
真央が立ち上がった。ズボンについた土を払い、路地に向かう。
アラクネがするすると壁を這い上がり、空き家の二階に戻っていった。
真央が路地を抜ける直前、振り返った。
空き地の中央で、ケヤキが風に揺れている。
3日前より確実に生き生きとしている。葉の色は深く、幹は力強い。
変異進行度4.7パーセント。
まだ95パーセント以上の変化が残っている。
このケヤキが完全に変異した時、何が起こるのか。
真央には想像がつかない。
だが——楽しみではある。
真央がアパートに帰った。
夜の東京。停電しているエリアが増え、街は以前より暗い。遠くでサイレンの音がする。日常になりつつある、非日常の音だ。
真央はその音を聞きながら部屋に戻った。
ベッドに寝転がり、天井を見つめる。
窓の外から、夜風が吹き込んでくる。冷たいが、春の気配を含んだ風だ。
「……次は、何をしようかな」
いつもの呟き。
だが今日は少し違った。
次に何かを「作る」のではなく、何かが「変わっていく」のを「待つ」という感覚。
ケヤキの変異。
アラクネの成長。
ダンジョンの進化。
世界の変容。
すべてがゆっくりと、しかし確実に動いている。
真央はその渦の中心にいる。
だが渦を動かしているのは真央ではない。真央が投げた石が波紋を広げているだけだ。石を投げた本人は、岸辺に座って波紋を眺めている。
真央が目を閉じた。
同時刻。
ダンジョンの最深部。地下120メートルよりさらに深い、人間がまだ到達したことのない領域。
琥珀色に光る壁面。フェロモンの濃度は浅層とは比較にならない。フェロモン指数の低い人間が防護なしで足を踏み入れれば、3分で意識が混濁し、10分で判断力を完全に失うだろう。
その空間の中央に、女王蟻がいた。
体長3メートルを超える巨体。通常の蟻とは似ても似つかない。腹部は半透明で、内部に無数の卵が蠢いている。頭部の複眼は数万の眼で構成され、巣のあらゆる場所の情報をリアルタイムで処理していた。
女王蟻は——知性を持っていた。
真央の血が与えた知性。それは単なる本能の延長ではない。戦略を立て、リスクを計算し、長期的な目標に向かって行動を最適化する能力だ。
今、女王蟻の意識が捉えているものがある。
血のネットワーク。
真央の血を起源とするすべての存在を繋ぐ、不可視の情報伝達網。女王蟻はこのネットワークの中で最大のノードであり、ダンジョン全体を管理する中枢だった。
ネットワークに——微かな振動が走った。
新しい存在が接続された。
植物。
女王蟻の複眼が、ほんの僅かに動いた。
血の主が、植物に血を与えた。蟻でも蜘蛛でも蚊でもない、新しい系統の眷属が生まれようとしている。その存在が血のネットワークに薄く接続され、情報がかすかに流れ始めている。
女王蟻は、その新しい存在の変異過程をモニターした。
進行度は極めて遅い。植物の代謝速度は動物の数十分の一だ。だが——確実に進んでいる。細胞が一つずつ書き換えられ、根が、幹が、葉が、ゆっくりと変容している。
女王蟻は特に行動を起こさなかった。
血の主が望んだことだ。主の行動に干渉することは、女王蟻の役割ではない。
ただ——一つだけ、女王蟻の戦略的思考が注目したことがある。
植物。
地上の存在。
女王蟻のダンジョンは地下に広がっている。蟻の領域は地下だ。だが植物は——地上に根を張り、空に向かって伸びる。
地下と地上。
蟻と植物。
この2つが血のネットワークで繋がった時、何が起こるのか。
女王蟻にもまだ分からない。
だが——可能性の一つとして、計算には入れておく。
女王蟻は静かに卵を産み続けた。
地下120メートルの暗闇の中で、数えきれないほどの無数の卵が脈打っている。
墨田区向島の空き地。
夜になっていた。
ケヤキは暗闇の中に佇んでいる。街灯は壊れており、月も雲に隠れている。
だが——よく見れば気づくことがある。
ケヤキの根元。コンクリートの割れ目。
そこから伸びた根が、3日前より僅かに長くなっていた。コンクリートの下を這い、空き地の端に向かって伸びている。土を掘り返す力が、明らかに以前より強い。
そして——根の先端が、微かに光っていた。
琥珀色の、淡い光。
ダンジョンの壁面と同じ色だ。
誰も見ていなかった。
空き地は暗く、静かで、忘れられた場所だった。
ケヤキは音を立てずに根を伸ばしている。コンクリートの下を、ゆっくりと、確実に。
変異進行度4.7パーセント。
まだ始まったばかりだ。
だが——種は蒔かれた。
地上に。




