第28話「種子」
午後2時。墨田区向島。真央のアパート。
真央は、いつものようにベッドに寝転がってスマホを眺めていた。
だが、今日は一人ではない。
窓が開いている。そこから伸びてくる、白い糸。天井の隅に張られた糸を伝って、部屋の中に——アラクネがいた。
体長約2メートルの半人半蜘蛛。上半身は人間の女性に近い形をしているが、肌は青白く、目は8つある。下半身は巨大な蜘蛛そのもので、8本の脚が器用に折り畳まれ、天井の隅に張り付いている。
アラクネが真央の部屋を訪れるのは、もう珍しいことではない。
最初は空き家の二階にじっとしていたアラクネだが、最近は夜になると糸を伝って真央のアパートまでやってくるようになった。窓を開けておくと、いつの間にか天井の隅に陣取っている。下半身の蜘蛛の脚を折り畳み、上半身だけを窓から滑り込ませて、そのまま天井に張り付く。狭い1Kの部屋に2メートルの蜘蛛がいるのは異様な光景だが、天井に張り付いている分にはスペースを取らない。
真央は、それを特に気にしていない。
「アラクネ、見ろよこれ」
真央が、スマホの画面を天井に向けた。
アラクネの8つの目が画面を捉える。彼女の視力は人間を遥かに凌駕しており、離れた場所からでも小さな文字を読み取れる。最近は漢字も少しずつ覚え始めていた。
画面には、掲示板のスレッドが表示されていた。
東京ダンジョン攻略スレ Part 91
234:名無しの冒険者
新アーティファクト情報まとめ(最新版)
瞑想のアメジスト
中毒緩和がマジでヤバイ
重度中毒の俺が普通に生活できるようになった
品質スコア50超えの上物は別次元
鋼鉄の木刀
硬すぎワロタ
コンクリートぶっ叩いても傷一つつかない
守護の手袋
殴っても手が痛くない最高
256:名無しの冒険者
アメジストの相場いくらになった?
278:名無しの冒険者
>>256
ギルドの市場で先週5,000万で取引されてた
品質スコア70超えだと8,000万いくって噂
もう一般人には手が届かない
301:名無しの冒険者
>>278
8000万wwww
中古マンション買えるわ
323:名無しの冒険者
でも命には代えられないだろ
重度中毒で苦しんでる奴は
8000万でも安いと思うはず
345:名無しの冒険者
そもそも数が足りない
ダンジョンの宝箱からしか出ないし
出現率も低い
需要に対して供給が全然追いついてない
367:名無しの冒険者
政府がもっとアメジストを確保するって話はどうなったの?
389:名無しの冒険者
>>367
確保しようにも
地下40m以降の宝箱からしか出ない
そこまで安全に行ける冒険者が限られてる
ダンジョン管理庁もまだ組織が立ち上がってないし
政府も手が足りないんだよ
「アメジスト、8,000万だって。すげえな」
真央が感心したように呟く。
アラクネが天井から身を乗り出した。糸でぶら下がるようにして、真央のスマホに顔を近づける。
「……オヤ、コレ……オヤガ……ツクッタモノ?」
アラクネの声は、囁くように細い。以前は単語を並べるのがやっとだったが、数ヶ月経ち、文法もだいぶ安定してきている。まだカタコトではあるが、日常会話には困らない程度になった。
「ん? まあ、元は俺が作ったやつだな。前にダンジョンに置いてきたら、宝箱から似たようなのが出てくるようになったんだよ。蟻が何かしてるっぽいけど、仕組みは正直よく分かんね」
「……ダンジョンノ、アリ……ワタシノ……イモウトミタイナモノ?」
「妹? いや……まあ、俺の血から生まれたって意味では似たようなもんか。お前と蟻は」
アラクネの8つの目が微かに揺れた。
「……ワタシ、イモウト……イタノ」
「ん? でも生まれた順で言えば逆か? 蟻が姉になるのか? あ、でも蚊にも吸われたな。それも含めるなら一番の姉は蚊になるのか」
「……カ?」
「うん。能力に気付く前の日の夜、窓開けっぱなしで寝てたら蚊に血を吸われたんだよ。——多分吸血鬼がその正体だと思うんだけど」
真央がスマホをスクロールしながら、あっさりと言った。以前は「蚊が失血死事件の原因かもしれない」とぼんやり疑っていた程度あるが、今となっては六本木の件は十中八九、蚊の仕業であろうと勘づいている。
別のスレッドに目が留まった。
東京ダンジョン攻略スレ Part 91
567:名無しの冒険者
そういえば新しいアーティファクトって
誰が作ってるんだ?
589:名無しの冒険者
>>567
ダンジョンの宝箱から出てくるとしか
誰が作ってるかは不明
612:名無しの冒険者
ダンジョンの中にアーティファクトを生産する仕組みがあるんだろ
蟻がなんかしてるんじゃね?
634:名無しの冒険者
>>612
蟻がアーティファクト作れるわけないだろ
ただの虫だぞ
656:名無しの冒険者
ただの虫が3メートルになって
人間を殺してるんだが
678:名無しの冒険者
それもそうだな
701:名無しの冒険者
あと最近気になってるんだが
見たことないアーティファクトが宝箱から出てきた
「風読みの羽飾り」って名前で
装着すると風の流れが見えるようになる
ダンジョン内の空気の流れから蟻の位置を察知できる
723:名無しの冒険者
>>701
マジ? そんなの聞いたことないぞ
745:名無しの冒険者
俺も新しいの見つけた
「癒しの泉水」ってやつ
傷口に垂らすと治りが早くなる
癒しの絆創膏の液体版みたいなやつ
767:名無しの冒険者
最近新種のアーティファクトが増えてないか?
先月あたりから今まで見たことないタイプが出始めてる
789:名無しの冒険者
>>767
ゲームで言うところのアプデだろ
運営が新コンテンツ追加してるんだよ
811:名無しの冒険者
運営って誰だよ
真央がスマホから目を離した。
「風読みの羽飾り? 癒しの泉水?」
眉をひそめる。
「……俺、そんな魔道具作った覚えないんだけど」
真央は自分がダンジョンに持ち込んだ魔道具を指折り数えた。包丁、絆創膏、万年筆、お香。守護のお守り、エアガン、水晶のブレスレット、手鏡。盾、ヘルメット、バット、ナイフ、ロープ。それとアメジスト、木刀、手袋、脛当て——。
風読みの羽飾りなんて、作っていない。癒しの泉水も知らない。
「……俺が作った魔道具のコピーが宝箱に入るんだと思ってたけど、俺が作ってないやつまで出てきてるのか?」
真央が首を傾げた。
「蟻が……俺の魔道具を参考にして、自分たちで応用し始めた……ってことか?」
面白い、と思った。
最初は、真央の魔道具をそのまま模倣するだけだった。だが蟻たちが、既存の設計思想を組み合わせて新しいアーティファクトを生み出し始めている。「癒しの泉水」は絆創膏の治癒効果を液体に応用したものだろうし、「風読みの羽飾り」は鑑定の鏡の感知能力を別の形で再構成したのかもしれない。完全なオリジナルというより、真央の魔道具の「考え方」を学んで応用している。
「蟻、やるじゃん」
真央が感心したように呟いた。
「……アリ、カシコイ」
「だな。女王蟻が進化してるのかもしれない」
真央はその話題にあまり長く留まらなかった。面白いとは思うが、自分がどうこうする話でもない。蟻たちは蟻たちで、勝手に進化していけばいい。
別のニュース記事をスクロールした。
「東京都、人口1,280万人を割り込む」
「ダンジョン関連の死者700名に迫る、行方不明者3,500名超」
「フェロモン中毒者2万2000人、限界突破者80名超」
「六本木封鎖から2ヶ月、サンライズ以降の政府対策は進まず」
「冒険者ギルド、会員800名突破 月間取引額8億を超える」
「ギルド会員800名か。すごいペースで増えてんな」
真央がスマホをスクロールしながら呟いた。
「……ニンゲン、タイヘンソウ」
「大変だろうな。東京から逃げてる人も120万人以上いるし」
「……オヤハ、ニゲナイノ?」
「俺? 逃げる理由ないし。ダンジョンの蟻は俺を襲わないし、六本木のやつらもこっちには来てないだろ」
「……ソウ……オヤハ……ダイジョウブ」
アラクネが安心したように糸を揺らした。
真央がスマホを置いた。ベッドの上で大きく伸びをする。
「あー、最近なんか新しいことしてないな。魔道具もしばらく作ってないし」
「……アタラシイコト?」
「うん。だから、そろそろ新しく生き物にでも血でも与えようかなって考えてるんだよね」
アラクネがしばらく黙っていた。8つの目が、何かを考えるように動く。
そして小さな声で言った。
「……オヤ……ソト、イカナイ?」
「外?」
「……ワタシノ巣ノ……チカク……ミセタイモノ……アル」
真央がスマホを置いた。
「見せたいもの?」
「……ウン」
真央は特に断る理由もなかった。最近は外に出る機会も減っていたし、何より「見せたいもの」という言葉に、わずかな好奇心が刺激された。
「いいよ、行こう」
真央がベッドから起き上がった。サンダルを履き、スマホと魔道具化した万年筆をポケットに入れる。万年筆の先端は鋭く、指を軽く刺すだけで血を出せる。血を使う場面に備えて、いつも持ち歩いていた。
アラクネの巣がある空き家は、真央のアパートから徒歩5分ほどの場所にある。住宅街の外れ、行き止まりの路地の奥だ。
空き家の周囲は雑草が伸び放題になっている。塀は崩れかけ、門扉は錆びて動かない。だが二階の窓からは白い糸が幾重にも張り巡らされているのが見えた。アラクネの巣だ。
このあたりの住人はほとんど東京を離れている。空き家が増え、手入れされない庭が増え、街全体が少しずつ荒れ始めていた。アラクネの巣に気づく人間は、今のところいない。
真央が空き家の前に着くと、アラクネはすでに二階の窓から顔を出していた。
「……コッチ」
アラクネが空き家の裏手を指す。
真央が空き家の横の狭い路地を通って裏手に回った。
そこには、小さな空き地が広がっていた。
元は駐車場だったのだろう。コンクリートの地面にひび割れが走り、その隙間から雑草が生えている。空き地の隅には古いブロック塀が残っていた。
そして——空き地の中央に、一本の木が立っていた。
ケヤキだ。
幹の太さは大人が両腕で抱えるほど。高さは10メートルほどで、枝は四方に広がり、葉が茂っている。コンクリートの駐車場を突き破るようにして根を張り、周囲の地面を盛り上げていた。
明らかにこの場所にそぐわない存在だった。おそらく駐車場が使われなくなった後に、何かの拍子に種が落ち、誰にも伐採されないまま育ったのだろう。
アラクネが空き家の壁を伝って降りてきた。
「……コノ木」
アラクネがケヤキの幹に触れた。蜘蛛の脚の先端が樹皮を撫でる。
「……ワタシ、ズット……コノ木ヲ、ミテタ」
「ずっと?」
「……マドカラ……マイニチ」
アラクネが木を見上げた。8つの目に木漏れ日が反射する。
「……コノ木、イキテル……デモ……ヨワッテル」
真央がケヤキを見上げた。言われてみれば、葉の色がくすんでいる。本来なら鮮やかな緑のはずが、黄色がかって元気がない。枝の先端は枯れかけているものもあった。
「……ネガ……コンクリートニ……トジコメラレテ……ウマク、ミズヲ……スエナイ」
「へえ。お前、木のことも分かるのか」
「……クモハ……ムシヲトラエルタメニ……マワリヲ……ヨクミル……カゼ、シツド、オンド……ソレト……ショクブツノコトモ」
アラクネが真央を見た。
「……オヤ。コノ木ニ……チヲ……アゲタラ……ドウナル?」
真央がアラクネを見返した。
「血を?」
「……ウン。オヤノチハ……イキモノヲ……ツヨクスル。ワタシモ……ソウダッタ」
「まあ、そうだけど……植物にやったことはないんだよな」
「……コノ木ガ……ゲンキニナッタラ……ウレシイ。ワタシノ巣ノ……トナリノ木……ダカラ」
真央はしばらくケヤキを見つめていた。
木に血を垂らしたら、どうなるのだろう。
蟻に血をやったら、ダンジョンになった。蜘蛛に血をやったら、アラクネになった。
植物に血をやったら——?
真央の中で、いつもの感覚が動いた。
好奇心だ。
人を助けたいとか、木を元気にしたいとか、そういう感情ではない。ただ純粋に、「やったらどうなるのか見てみたい」という実験者の好奇心だ。
「面白そうだな」
真央がポケットから万年筆を取り出した。魔道具化した万年筆だ。ペン先は鋭く、軽く触れるだけで皮膚を切ることができる。
左手の人差し指にペン先を当てた。
チクリ。
血が滲み出す。
真央はケヤキの幹に近づいた。
樹皮に触れる。ざらざらとした感触。長い年月を経た硬い樹皮だ。
樹皮の割れ目に指を押し当てた。
血が割れ目に染み込んでいく。
一滴。
二滴。
三滴。
赤い血が灰色の樹皮に吸い込まれていった。まるで乾いた土が水を吸うように、木が貪欲に血を取り込んでいく。
真央は少し多めに血を出した。万年筆で指先をもう一度刺し、溢れ出した血を樹皮の割れ目に塗り込む。
10秒ほどで、血は完全に木に吸収された。
樹皮の表面には、もう赤い色は残っていない。
真央が一歩下がった。
しばらく、何も起こらなかった。
風が吹き、ケヤキの葉がさわさわと揺れる。遠くで車のクラクションが鳴っている。日常の音だ。
1分が経過する。
2分が経過する。
何も起こらない。
「……変わんないな」
真央が首を傾げた。
だが、よく考えれば当然だ。生き物に血を与えた時、変化はすぐには現れない。アラクネの元になった女郎蜘蛛も、血を与えてから目に見える変化が現れるまでに丸一日以上かかった。植物なら、動物よりさらに遅いかもしれない。
「……スグニハ、カワラナイカモ」
アラクネがケヤキの幹に頬を寄せた。蜘蛛の脚の先端で樹皮の振動を感じ取ろうとしている。
「……デモ……ナニカ……カワッタキガスル」
「変わった?」
「……オトガ……チガウ。幹ノナカヲ……ナガレル水ノオトガ……ホンノスコシ……オオキクナッタ……ヨウナ」
真央が木を見上げた。
葉はまだくすんだ黄緑色のままだ。枝も枯れかけたまま。見た目には何の変化もない。
真央はポケットから手鏡を取り出した。以前作った魔道具の一つだ。映した対象の情報が鏡面に光の文字として浮かぶ。アーティファクトの鑑定の鏡はダンジョン内でのみ機能する劣化コピーだが、オリジナルの魔道具はダンジョンの外でも使える。
手鏡をケヤキに向けた。
鏡面に映ったケヤキの幹が、淡い光を帯びた。そして——光の文字が浮かんだ。
名称:ケヤキ(変異進行中)
樹齢:推定40年
状態:血の吸収完了 変異開始
変異進行度:0.3%
予測変異完了時間:不明
「変異進行中、か」
真央が鏡の表示を読み上げた。
「進行度0.3パーセント。始まってはいるけど、まだまだ先は長そうだ」
「……ヤッパリ、ショクブツハ……ジカンガカカル」
「だろうな。お前の時でも数日かかったし、植物ならもっとかかるかもしれない」
真央が手鏡をポケットに戻した。
「まあ、気長に待つか。どうせ急ぐ理由もないし」
アラクネがケヤキの幹に頬を寄せた。
「……ゲンキニ、ナルトイイネ」
その声は、蜘蛛のものとは思えないほど穏やかだった。
真央が空き地を見回した。
ここは静かだ。住宅街の外れで、人通りもほとんどない。空き家とケヤキと、壊れたブロック塀。忘れられた場所だ。
「……お前、ここが気に入ってるのか」
「……ウン。シズカデ……ムシモオオクテ……イイトコロ」
「虫が多いのは、お前にとっては食事が豊富ってことか」
「……ソウ。ソレニ……コノ木ガ……スキ。オオキクテ……ツヨクテ」
アラクネがケヤキを見上げた。
「……デモ、ヨワッテタカラ……シンパイダッタ」
「お前、意外と優しいんだな」
「……オヤニ、ニタノカモ」
「俺は優しくないぞ」
「……ソウ?」
アラクネが8つの目で真央を見つめた。
真央はその視線を受け流して、空き地を後にした。
「じゃあな。また来るよ」
「……ウン。オヤ」
真央が路地を抜けて表通りに出た。
振り返ると、空き家の二階の窓からアラクネが手を振っているのが見えた。蜘蛛の脚ではなく、人間に近い上半身の手で。ぎこちない動作だったが、どこか微笑ましかった。
真央がアパートに向かって歩き出す。
世界が、少しずつ変わっていく。
あの空き地のケヤキも、少しずつ変わり始めている。
変異進行度0.3パーセント。
まだ誰も気づいていない。
空き地の片隅で、一本の木が静かに目覚めようとしていることに。




