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血を与えたら進化しすぎた件~世に出回るアーティファクトも東京に出来たダンジョンも多分俺のせいだけど面白いからいいよね~  作者: 唯之助


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28/49

第23話「箱庭」

 新宿区・歌舞伎町の路上で、50人ほどの群衆が警察と対峙していた。


「ダンジョンを封鎖するな!」


「俺たちから仕事を奪うのか!」


 プラカードを掲げ、怒号を飛ばす。ダンジョン入口への立入規制が強化されたことへの抗議だった。


 規制といっても、自衛隊が入口を封鎖したわけではない。政府はそこまでの人員を割けない。深夜帯の入口周辺に警察官を3名配置し、身分証の確認を求める——その程度の措置だ。だがそれだけで、一部の冒険者や市民が反発した。


 機動隊はいない。六本木ヒルズの封鎖線と徘徊者対策に人員を取られている。現場の警察官は3名だけで、群衆との間に簡易バリケードを置いて対応していた。


 投石があった。警察官の一人がヘルメットに石を受けて膝をついた。


「おい、やめろ! 投げるな!」


 別の冒険者が投石した者を制止しようとしたが、群衆の興奮は止まらない。


「いいからどけ! あの中に俺たちの生活がかかってんだ!」


 怒鳴っているのは、40代の元タクシー運転手だった。ダンジョン出現後に客が激減し、会社が倒産。妻と子供2人を抱え、ダンジョンで浅層の蟻を倒し素材を剥ぎ取り、たまに見つかる宝箱から低品質なアーティファクトを拾い、フリマで売ることで食いつないでいる。月収は不安定だが、良い時は40万円を越え。悪い時はほぼゼロ。だが他に仕事がない。東京の求人は3ヶ月前の半分以下に落ち込んでいる。


 30分後、群衆は自然と解散した。暴動と呼ぶには小規模すぎる。だがこうした衝突が、東京の各所で散発的に起きていた。渋谷、池袋、上野、北千住——ダンジョン入口がある場所では、どこでも。


 この日、都内だけで6件の衝突が報告された。負傷者はなかったが、警察官のヘルメットに石が当たる映像がSNSで拡散し、「冒険者弾圧」というハッシュタグがトレンド入りした。


 政府は、民衆の怒りの矛先を自分たちに向けられていることを理解していた。だが対処する余力がなかった。




     




 首相官邸。閣議。


 奪還作戦失敗から月日が過ぎた。総理大臣の顔には、もはや疲労を通り越した虚脱が浮かんでいた。スーツの肩が1ヶ月前より明らかに落ちている。食事の量が減ったのだ。閣僚の大半も同様だった。


 総務大臣が、人口動態を報告した。


「東京都からの人口流出が加速しています」


 スクリーンにグラフが表示された。



 東京都人口推移

  奪還作戦前:1,400万人

  1週間後:1,350万人(−50万人)

  2週間後:1,310万人(−90万人)

  3週間後:1,280万人(−120万人)


 主な流出先

  大阪府:+30万人

  愛知県:+20万人

  福岡県:+15万人

  その他:+55万人



「3週間で120万人。1日あたり約5万人のペースで東京を離れています。避難先は親族を頼った分散型が主流ですが、大阪では避難者向けの住居が不足し始めています。愛知でも同様の報告があります」


 総務大臣が眼鏡の位置を直した。


「問題は、流出しているのが現役世代の中間層だということです。子供のいる30代〜40代が最多。企業のリモートワーク移行に伴い、東京のオフィスにいなくても仕事ができる層が先に出ていく。逆に——出られないのは、東京に根を張った自営業者、高齢者、そしてダンジョンで生計を立てる冒険者です」


 厚生労働大臣が続けた。


「医療体制も限界です。フェロモン中毒者への対応で病床が逼迫している上に、医師・看護師自身が東京を離れるケースが増えています。都内の救急医療の応答率が、先週から15%低下しました。夜間の救急搬送で受入先が見つからず、患者が30分以上待たされる事例が複数報告されています」


 警察庁長官が、治安状況を報告した。


「ダンジョン入口周辺での小規模な衝突が、先週だけで23件。アーティファクトを巡る強盗が47件。暴力団がアーティファクト流通に関与している証拠も複数確認されています。さらに、ダンジョン内での冒険者同士の殺害事件が——把握できているだけで先週は5件。実際にはこの数倍が闇に埋もれていると推定されます。率直に申し上げて、通常の警察力では対応しきれません」


 厚生労働大臣が、さらにデータを追加した。


「ダンジョン関連の最新統計です」


 スクリーンが切り替わった。



 ダンジョン関連統計(奪還作戦失敗後3週間)


 死亡者:累計745名(直近1週間+63名)

 行方不明者:累計4,128名(+281名)

 重傷者:累計2,217名(+325名)

 フェロモン中毒者:21,500名超(+3,100名)

 限界値到達推定者:1,950名超

 特濃フェロモン使用推定者:96名

 モンスター化確認:16名(+4名)


 ダンジョン出入口:63箇所以上(増加傾向)



「特濃フェロモン使用者が96名。2週間前の23名から4倍以上に増えています。限界値に到達した冒険者がさらに強くなろうとして、深層のエリート兵隊蟻に挑む——成功すれば限界突破ですが、失敗すれば死亡かモンスター化です。そしてモンスター化した元冒険者が確定しているだけでも16名。深層に棲みつき、他の冒険者を襲う事例が確認されています」


 官房長官が、慎重に口を開いた。


「……首都機能の一時移転について、検討を開始すべきではないでしょうか」


 閣議室が静まった。


「放棄ではありません。一時的な避難です。政府機能を安全な場所に移し、そこから東京の立て直しを図る。候補地は大阪、名古屋——」


 総理大臣が、窓の外を見た。永田町の街並みの向こうに、東京の空が広がっている。3週間前より、明らかに暗い。夜間の照明が減っている。人がいなくなった区画では、街灯の電力すら節約されている。


「……検討する。ただし、これは最後の手段だ」


 総理大臣が言った。


「その前に——ダンジョン管理庁を早期に発足させる。形だけでもいい。入口の管理体制を整える。冒険者の登録と深層立入の許可制を導入する。完全封鎖は現実的ではないことは理解している。——だが、無秩序に放置することもできない」


 少し間を置いた。


「それから——六本木の状況を、もう一度精査しろ。奪還作戦ではなく、情報収集に焦点を当てた偵察を検討する。正面からの強襲が通じないことは分かった。別の方法を模索する」


 防衛大臣が頷いた。だがその目には、疑念が浮かんでいた。偵察すら安全に行える保証はない。


 経済産業大臣が、付け加えた。


「一つだけ。ダンジョンの経済規模は既に月間推定600億円を超えています。この数字は1ヶ月前の約3倍です。アーティファクトの流通は止められませんし、止めるべきでもない。問題は管理体制の不在であって、経済活動そのものではありません。管理庁の発足と同時に、アーティファクト取引の公式プラットフォームを構築すべきです」


 総理大臣は答えなかった。すべてを同時に処理する余力が、もう残っていないことは全員が分かっていた。




     




 宍粟真央は、いつものようにベッドに寝転がって、スマホを見ていた。


 ニュースアプリには、東京の混乱を伝える記事が並んでいる。


 「東京都、人口流出120万人突破」


 「ダンジョン関連死者740名超」


 「フェロモン中毒者2万人に迫る」


 「政府、首都機能移転を検討か」


 「六本木ヒルズ、自衛隊の偵察計画浮上」


 真央は、それらを次々とスクロールしていった。


「へえ、首都機能移転か。そこまで来たんだ」


 他人事のように呟いた。


 真央にとって、これらはすべて——画面の向こうの出来事だった。人々の苦しみも、死も、社会の動揺も、ニュースアプリの文字列として処理される。感情が動かない。以前なら多少は胸が痛んだかもしれないが、今は——何も感じない。


 ダンジョンも、吸血鬼も。たぶん自分の血から生まれたものだ。吸血鬼については、はっきりと確信がないが、少なくともダンジョンは間違いない。


 だから何だ、とは思わない。だからどうしよう、とも思わない。ただ——次に何が起きるかに興味がある。


 掲示板を開いた。



 東京ダンジョン攻略スレ Part 95


 178:名無しの冒険者

 フェロモン中毒がマジでやばい

 安らぎの香じゃ抑えきれない奴が増えてる

 重度の中毒者は何使っても駄目らしい


 201:名無しの冒険者

 >>178

 安らぎの香はむしろ逆効果って話もある

 特濃フェロモン吸った奴には渇望を激化させるらしい


 223:名無しの冒険者

 じゃあ重度の中毒者には打つ手なしってこと?


 245:名無しの冒険者

 >>223

 今のところはそう

 医療機関も手探り状態

 精神科に入院しても、拘束してフェロモンから隔離するしかない

 それでも渇望は消えない


 267:名無しの冒険者

 護符と安らぎの香の併用でも限界がある

 護符の品質スコアが70超えてる上物ならかなりマシになるみたいだが

 それだと市場価格1000万近くなる

 誰が買えるんだよ


 289:名無しの冒険者

 まとめると

 ・軽度の中毒:安らぎの香で管理可能

 ・中度の中毒:護符と安らぎの香の併用で何とか

 ・重度の中毒:ほぼ打つ手なし。深層でしか入手できない高品質の護符を手に入れるか、ダンジョンに戻るか廃人か

 ・限界突破者の中毒:安らぎの香は逆効果。護符でも焼け石に水


 312:名無しの冒険者

 つまり中毒のステージが上がったら終わりってことじゃん

 救いがなさすぎる



 真央は、スマホを置いた。


 目の前のテーブルに、部屋の隅から引っ張り出した段ボール箱がある。「実験用」と称して集めた雑多な物品。100円ショップの雑貨、ホームセンターの工具、安物のアクセサリー。


 箱の中を漁ると、数ヶ月前に買ったパワーストーンのブレスレットが出てきた。アメジストだ。紫色の石がいくつか連なっている。何となく興味本位で買ったものだが、一度も身につけたことがない。


「アメジスト。精神安定とか癒しとか、そういう効果があるって書いてあったな」


 掲示板の書き込みが頭に残っていた。安らぎの香では抑えきれない中毒者。打つ手がない。


 ——別に、助けたいわけじゃない。


 ただ、安らぎの香より強力な精神安定系の魔道具を作ったら、どうなるかに興味がある。ダンジョンに配置されて、冒険者の手に渡って、中毒者に使われたら——何が起きるか。ダンジョンに潜る人間が増えるかもしれない。新しい展開が生まれるかもしれない。


 実験だ。


 真央は、左手の人差し指に針を刺した。チクリ。血が滲み出す。


 アメジストのブレスレットに、血を垂らした。一滴、二滴、三滴——。


 血が紫色の石に染み込んでいく。


 石が、淡く光り始めた。紫色の光が脈動するように明滅し、やがてブレスレット全体を包む。


 光が収まった。


 真央がブレスレットを手に取った。見た目はほとんど変わっていない。だが——触れた瞬間、違いが分かった。石が僅かに温かい。そして、手に持っているだけで心が静かになる。思考のノイズが消え、自分の呼吸と心拍だけが明瞭に感じられる。


 数秒で、身体の疲労が消えた。最近あまり寝ていなかったが、十分な睡眠を取ったかのようにすっきりしている。


「……すごいな、これ」


 真央はブレスレットを外し、棚から手鏡を取り出した。以前作った魔道具の一つだ。映した対象の情報が鏡面に光の文字として浮かぶ。


 手鏡にブレスレットを映した。


 鏡面に、光の文字が浮かんだ。



 名称:瞑想のアメジスト


 効果:

  精神安定——極大

  中毒症状緩和——極大

  肉体回復促進——極大

  ストレス除去



 情報をもう少し詳細化しようとすると、頭の奥にズキリと痛みが走った。無理をするとひどい頭痛になる。真央はすぐに詳細化を止めた。


「中毒症状緩和が極大……。守護の護符とか安らぎの香と同系統だけど、こっちの方がずっと強いな」


 ブレスレットを外すと、瞑想状態から覚め、通常の意識に戻った。


「よし。ついでに他のも作ろう」


 次に手に取ったのは、近所の武道具店で買った木刀。樫材、約500グラム。


 血を垂らした。木刀の表面が変化する。木目が深くなり、色が濃くなる。叩いてみると、金属のような硬い音がした。試しにテーブルの角を軽く叩くと、角が欠けた。木刀には傷一つない。


 手鏡で確認する。



 名称:鋼鉄の木刀


 効果:

  硬度——極大

  破壊力——極大

  耐久性——極大

  振動吸収



「硬い。相当硬い。バットより軽くて取り回しがいい。冒険者に人気出そうだな」


 次に、バイク用の革手袋。指先まで覆うタイプ。血を垂らすと、手袋が黒く光った。嵌めてみると、自分の皮膚の一部のようにフィットする。壁を軽く殴ってみた——壁に凹みができたが、手には全く衝撃がない。


 手鏡で確認。



 名称:守護の手袋


 効果:

  衝撃吸収——極大

  耐熱・耐寒性——極大

  握力向上

  フィット感——完全



 最後に、スポーツ用品店で買ったサッカーの脛当て。ポリプロピレン製の量産品で、値段は1,500円だった。血を垂らすと、白い樹脂の表面が微かに金属光沢を帯びた。装着してみる。脛にぴったりフィットし、重さをほとんど感じない。試しにテーブルの脚で脛を打ちつけてみた——衝撃がゼロだった。脛を思い切りバールで殴られても平気な予感がする。


 手鏡で確認。



 名称:鋼鉄の脛当て


 効果:

  硬度——極大

  衝撃吸収——極大

  軽量化

  フィット感——完全



「脚の防具か。兵隊蟻に脚を噛まれて動けなくなる冒険者が多いって掲示板に書いてあったな。これがあれば脚を守れる」


 4つの新しい魔道具。


 瞑想のアメジスト。鋼鉄の木刀。守護の手袋。鋼鉄の脛当て。


「これをダンジョンに持っていけば、蟻がコピーしてくれるだろう」


 真央は、バッグに魔道具を詰めた。




     




 翌日の深夜2時。


 墨田区から江東区へ。真央は自転車を漕いでいた。


 深夜の東京は、以前と様変わりしていた。飲食店はほとんど閉まっている。コンビニすら夜間営業を短縮する店が増えた。街灯はついているが、人影はまばらだ。時折パトカーが通り過ぎる。遠くでサイレンが鳴っている。


 しかし——ダンジョンの出入口付近だけは、別世界のように活気があった。


 真央が向かったのは、江東区大島の住宅街にある出入口だった。2週間前に冒険者が発見した比較的新しい入口で、マンションの駐車場の奥にある地下への亀裂が、ダンジョンの浅層に繋がっている。警察の監視対象リストには載っているが、実際にはパトロールが巡回する程度で、常駐の警備はない。


 深夜2時。駐車場の入口に、男が3人いた。懐中電灯を点検し、バッグの中身を確認している。出発前の冒険者たちだ。


 真央は自転車を駐車場のフェンスに立てかけ、バッグを背負って近づいた。


「おう、あんたも潜るのか」


 冒険者の一人——20代半ばの男——が声をかけてきた。坊主頭で、首にタオルを巻いている。手には市販の金属バット。装備は安い。浅層しか行けないタイプだ。


「ああ」


 真央は短く答えた。


「一人? 今の時間、兵隊蟻が活発だから気をつけろよ。この入口は10メートルぐらいで浅層に繋がるけど、出てすぐの分岐に兵隊蟻がたまにいる」


「ありがとう。大丈夫」


 男たちは真央を一瞥したきり、自分たちの準備に戻った。深夜に一人で潜る冒険者は珍しくない。真央は何の変哲もない格好だった。バッグを背負った、痩せ型の青年。普通の服。装備らしい装備は見えない。彼らは「すぐに帰ってくるだろう」と思ったかもしれないし、何も思わなかったかもしれない。


 駐車場の奥。コンクリートの床に、幅1メートルほどの亀裂が走っている。その先は斜面になって暗闇に消えている。壁面には蟻の唾液で固められた琥珀色のコーティングが薄く光っている。


 真央はバッグの中から魔道具の懐中電灯を取り出した。初期に作ったものだが、性能は変わらない。スイッチを入れると、通常のLEDとは比較にならない光量が亀裂の奥を照らし出した。


 斜面を降りた。5メートルほどの落差がある。魔道具の服が衝撃を完全に吸収し、着地に痛みはなかった。


 ダンジョンの空気が鼻腔を満たした。甘く、重い。蟻のフェロモンと、琥珀色の壁面から滲む分泌物の匂い。一般人なら軽い酩酊を感じる濃度だが、真央には何の影響もない。この巣のすべては真央の血から生まれたものだ。フェロモンの源泉である真央自身には、フェロモンは効かない。


 通路を進む。


 20メートルほど歩いたところで——暗闇の中から、カサカサという音が聞こえた。


 懐中電灯の光が、動く影を捉える。


 兵隊蟻。体長30センチ級の個体。


 蟻が触角を激しく動かした。真央の匂いを嗅いでいる。


 ——血の主。


 蟻は攻撃姿勢を解き、壁に張りつくようにして道を空けた。触角を畳み、大顎を閉じる。服従の姿勢。


 真央はその横を通り過ぎた。蟻が5メートル先に、もう一体いた。同じ反応。壁に張りつき、道を空ける。


 この光景を他の冒険者に見られたら面倒だ。兵隊蟻が襲いかかってこない人間——それは異常だ。疑惑を招く。だが深夜2時のこの入口には、先ほどの3人組はまだ地上で準備中だったし、他に人影はなかった。


 地下15メートル。


 通路が広がった。天井が高くなり、壁面の琥珀色のコーティングが厚くなる。冒険者が残したチョークの矢印が壁にいくつか描かれている。「←25m」「この先行き止まり」。


 真央はチョークの矢印を無視した。蟻たちが道を示してくれる。触角を振り、進むべき方向を教えるように通路の奥へ進んでいく。


 地下25メートル。


 働き蟻が5、6匹、通路を行き交っている。どれも真央を見ると触角を畳み、服従の姿勢を取った。中には真央の足元に近寄り、靴の周囲をぐるりと回って匂いを嗅ぐ個体もいた。犬が飼い主の帰りを迎えるような仕草だった。


「おう。元気か」


 真央は何気なく声をかけた。蟻には言葉は通じない。だが——真央の声帯が震わせた空気は、フェロモンを含んだダンジョンの大気を通じて、血のネットワークに微かな振動を伝えた。


 地下30メートル付近。真央が魔道具を配置する場所に到達した。


 前回来た時より、空間がまた広がっている。壁面に棚のような構造物が増えていた。蟻の唾液素材で成形された、整然とした凹み。前回置いた魔道具は——盾、ヘルメット、バット、ナイフ、ロープ——すべて消えている。蟻たちが女王蟻のもとに運んだのだ。いつもそうだ。真央が置いた魔道具は、数時間以内に回収され、巣の奥深くへ消えていく。


 真央は、空いている棚に新しい魔道具を並べた。


 アメジストのブレスレット。木刀。手袋。脛当て。


「はい、どうぞ。また好きにコピーしてくれ」


 近くにいた働き蟻が、すぐに反応した。触角で魔道具に触れ、表面を確認する。数分後にはもう1匹が現れ、ブレスレットを顎で慎重に挟み、通路の奥へ運び始めた。女王蟻のもとへ。


 真央は、しばらくそれを眺めた。


 蟻がどうやって自分の魔道具をコピーしているのか、正確には分からない。だが結果は明白だ。真央が魔道具を置くたびに、数日後には宝箱にそっくりの——ただし性能が落ちた——コピー品が並ぶ。女王蟻が何らかの方法で設計を読み取り、量産しているのだろう。


「もっと色々なアーティファクトがあれば、もっと面白いんだけどな」


 何気なく呟いた。


 通路の奥——真央の視界の外で——働き蟻の触角が僅かに震えた。


 血のネットワークを通じて——真央の言葉が、概念として伝わった。


 「もっと色々なアーティファクト」。


 「もっと面白い」。


 真央は気づかない。いつも通り、帰路についた。


 蟻たちが道を開け、真央は地上へ戻っていった。


 駐車場に出ると、先ほどの3人組はもういなかった。入れ違いにダンジョンに入ったのだろう。深夜の空に、雲の切れ間から星が見えた。向こうの空が僅かにオレンジに光っている——六本木方面だ。封鎖線の投光器だろう。


 真央は自転車に跨り、アパートへと漕ぎ出した。




     




 地下120メートル。女王蟻の間。


 働き蟻たちが、新たな魔道具を運んできた。


 女王蟻の触角が震えた。血のネットワークを通じて、血の主の意図を感じ取る。新しい概念が流れ込んでくる。


 精神安定の概念——アメジスト。打撃の概念——木刀。防護の概念——手袋。脚部保護の概念——脛当て。


 これまで女王蟻が取り込んだ概念は、筆記・切断・治癒・鎮静・健康・射撃・強化・鑑定・防御・保護・打撃・切断(本格的な)・結索だった。そこに、新たな概念が加わる。


 女王蟻は迷わず顎を開いた。


 パキパキ。アメジストの石が一粒ずつ砕かれ、紫色の欠片が嚥下される。バキリ。木刀の樫材が噛み砕かれる。グチャリ。革手袋が飲み込まれる。ガリガリ。脛当てのポリプロピレンが砕かれ、消化管に消える。


 すべてを体内に取り込んだ。


 分解。解析。再構築。魔道具の物質的構造と、血の主が込めた「設計思想」を同時に読み取っていく。


 腹部が膨張した。内部で何かが組み替えられていく。


 産卵管が震えた。


 銀色の卵が、一つ、また一つと産み落とされていく。


 200個。


 スミス・アントの第四世代。既存の13種に加え、新たに4種のアーティファクトを生成できる。合計17種。ダンジョン内の宝箱に並ぶアイテムの多様性は、さらに跳ね上がる。


 そして——血のネットワークの残響が、まだ女王蟻の中に響いていた。


 「もっと色々な」。


 「もっと面白い」。


 その概念が、卵の中に刻まれた。


 模倣だけでは足りない。もっと色々なものを。もっと面白いものを。


 ——血の主が望むままに。




     




 10日後。


 ダンジョンの地下40メートル。宝箱を開けた冒険者チームが、声を上げた。


「何だこれ——紫色のブレスレットだ」


 リーダーの男——名前は高橋——が、ブレスレットを手に取った。


 瞬間、心が静かになった。


 ダンジョンの暗闇、蟻たちの気配、仲間の息遣い——すべてが、クリアに感じられる。そして——身体の奥底で、常に燃えていた渇望が、急速に鎮まっていく。


「……何だ、これ……」


 高橋はフェロモン指数16.4。限界値17。限界に近い。安らぎの香を使ってもダンジョンへの渇望が抑えきれず、夜も眠れない日々が続いていた。


 だが——このブレスレットを嵌めた瞬間、その渇望が大幅に和らいだ。完全に消えたわけではないが、日常生活ができるレベルまで軽減されている。


「鑑定してくれ」


 仲間がアーティファクトの鑑定の鏡をかざした。


 数値が表示された。品質スコア——76。


「76……! 今まで見た中で一番高い」


「Aランク相当じゃないか、これ」


 冒険者コミュニティでは、品質スコアの数値帯で独自にアーティファクトをランク付けしている。70以上はAランク。60m以深の宝箱でしか出ないはずのスコアだ。40メートルの宝箱から76が出るのは異常だった。


 ——新種のアーティファクトは、最初の出現時に高品質の個体が混じることがある。スミス・アントが初回ロットに試作品の最高品質を込めるからだ。ただし冒険者たちはその理由を知らない。


 高橋は、ブレスレットを嵌めたまま、ダンジョンの通路を歩いた。心が穏やかだった。フェロモンの甘い匂いは相変わらず空気中に満ちているが、それに引きずられる感覚がない。


「……これが、これがあれば、もっとダンジョンに潜れる!」


 涙が滲んだ。


 同じ宝箱から、他にも新しいアーティファクトが出た。金属的な光沢の木刀。衝撃を吸収する革手袋。軽量で硬い脛当て。


 鑑定の鏡で確認すると、木刀は品質スコア58。手袋は61。脛当ては52。いずれも中〜上品質の良品だった。


「脛当て? 脚の防具か。こんなの初めて見た」


「蟻に脚を噛まれたら動けなくなるからな。これは需要あるぞ」


「しかし木刀……バットと何が違うんだ」


「片手で振れるだろ。軽い。連続で振り回せる。バットは重くて取り回しが悪い。これは剣術やってた奴が喜ぶぞ」




 その日のうちに、掲示板に情報が投稿された。



 東京ダンジョン攻略スレ Part 102


 234:名無しの冒険者

 【速報】新アーティファクト発見


 紫色のブレスレット

 品質スコア76(初回確認)

 効果:精神安定、中毒症状の大幅緩和、肉体回復促進

 ※安らぎの香や守護の護符が効かない重度中毒者にも効果あり


 256:名無しの冒険者

 >>234

 マジ?

 安らぎの香より効果あるのか?


 278:名無しの冒険者

 >>256

 比較にならない

 安らぎの香と護符併用でも抑えきれなかった渇望が

 このブレスレットで一発で激減した

 完全には消えないけど生活できるレベル


 301:名無しの冒険者

 品質スコア76ってAランクだろ

 40mの宝箱からA出るのかよ


 323:名無しの冒険者

 >>301

 新種AFは最初のロットに当たりが混じるって前もあったろ

 護符の時も最初に70台が出て、その後は50前後が主流になった

 たぶんこれも安定したら40〜60あたりに落ち着く


 345:名無しの冒険者

 他にも新AF出てる


 鋼鉄の木刀:金属みたいに硬い木刀。軽い。バットより取り回しがいい。品質58

 守護の手袋:衝撃を吸収する革手袋。握力も上がる。品質61

 鋼鉄の脛当て:脚の防具。兵隊蟻の大顎から脚を守れる。品質52


 全部地下40m以降


 367:名無しの冒険者

 脛当て! これ待ってたわ

 先週脚を噛まれて3日入院したんだよ

 ヘルメットで頭は守れてもすねガラ空きだったからな


 389:名無しの冒険者

 中毒症状緩和のブレスレットは需要がやばいだろ

 中毒者21,000人超いるんだぞ


 412:名無しの冒険者

 >>389

 値段がどうなるかだな

 Aランク相当だと相当高いはず


 434:名無しの冒険者

 でも中毒者には必須アイテムだろ

 金に糸目はつけられない


 456:名無しの冒険者

 >>434

 つけられないのは金持ちだけだ

 金がない中毒者はどうする

 安らぎの香が逆効果、新AFも買えない

 それで残るのはダンジョンに潜るしかないって結論


 478:名無しの冒険者

 結局、金持ちが有利な世界だな

 高価なアーティファクト買い占めて安全に生きる奴と

 命がけでダンジョンに潜る奴


 501:名無しの冒険者

 >>478

 それな

 ダンジョンが格差をさらに広げてる


 523:名無しの冒険者

 田所のギルドはどう動くかな

 この新AFを流通に乗せるのはギルドだろ


 545:名無しの冒険者

 >>523

 もう動いてるんじゃないか

 田所はこういうの嗅ぎつけるの早いから


 567:名無しの冒険者

 しかしなんで急にAFの種類が増えるんだ

 3週間前に盾やバットやナイフが出始めて

 今度はブレスレット、木刀、手袋、脛当て

 ダンジョンが自動で新しいアイテムを生成してるのか?


 589:名無しの冒険者

 >>567

 冒険者の数が増えて深い層まで到達する奴が増えたから

 それに応じてダンジョンが新しいアイテムを出し始めたんじゃないか

 ゲームのアプデみたいなもんだろ


 612:名無しの冒険者

 >>589

 ゲームのアプデって……

 まるでダンジョンの裏に運営がいるみたいな言い方だな


 634:名無しの冒険者

 >>612

 運営はいないだろうけど

 ダンジョンに何らかの知性があるのは間違いない

 宝箱の配置、蟻の行動パターン、報酬のバランス

 全部が「冒険者をもっと深くに誘導する」ように設計されてる

 偶然にしてはできすぎだ


 656:名無しの冒険者

 >>634

 やめろ

 それ考え始めると夜眠れなくなる




     




 渋谷のギルド本部。


 田所勝は、幹部の佐伯からの報告を受けていた。


「新しいアーティファクトが4種類確認されました。特に紫色のブレスレット——品質スコア76の初物が確認され、フェロモン中毒の症状を大幅に緩和する効果があります」


「確かか」


「複数のチームが確認しています。実際に重度中毒者が装着して、効果を実感しています。品質スコア50台のものでも、安らぎの香や守護の護符の上位互換として十分な効果があるとのことです」


 田所の目が、僅かに光った。


 フェロモン中毒者は21,000人を超えている。その全員が——このブレスレットを欲しがる。


「出現場所は」


「地下40メートル以降の宝箱から。今のところ、発見された数は10個以下です」


「供給が少なく、需要が膨大。——値段はどうなる」


「まだ市場価格は形成されていませんが、初期の取引で3,000万円以上の値がついたとの情報があります。品質スコア50台のものでも500万〜800万円の指値がついています」


 田所は、穏やかな表情のまま頷いた。


「ギルドとして、このアーティファクトの流通を優先的に管理する。会員のチームに深層探索を奨励し、発見した場合はギルドを通じた取引を推奨する」


「推奨ですか。義務ではなく」


「義務にすると反発が出る。推奨にして、ギルドを通じた方が高値で売れるという実績を作る。自然と、ギルドに集まるようにする」


 佐伯が頷いた。


「それと——中毒者向けのレンタルも検討してくれ。3,000万円で買えない者でも、月額のレンタルなら手が届く。月100万円でも、需要はある」


 月100万円のレンタル。21,000人の中毒者のうち、一割が利用しても2,100人。月間収入は21億円。


「同時に、他の新アーティファクトの流通も整備する。鋼鉄の木刀は近接戦闘者に人気が出るだろう。守護の手袋は格闘系の冒険者に需要がある。脛当ては——防具が弱い中級冒険者が全員欲しがる。いずれも深層でしか出ないから、供給は限られる」


 田所は、いつもの穏やかな笑顔を浮かべていた。


「冒険者の健康を守るのも、安全を確保するのも、ギルドの役割だ。新しいアーティファクトが出るたびに、その流通を最適化する。それが俺たちの仕事だよ」


 佐伯は、田所の笑顔の裏にある計算を見透かしていた。だが口には出さない。田所のやり方は、結果として冒険者を助けてもいる。高額なアーティファクトを安全に取引できる場を提供し、粗悪品の詐欺を防ぎ、レンタルという選択肢で中毒者にも手を差し伸べる。——その過程でギルドが莫大な利益を上げることは、副次的な効果にすぎない。


 いや。副次的なのは、どちらだろう。


 佐伯にはその区別がつかなくなりつつあった。


「それから、ギルドの会員数を報告する。今朝時点で——620名を突破した」


「少し前までは400だっただろう。いいペースだ」


「月間取引総額は7,200万円。手数料収入だけで月420万円。レンタル事業が軌道に乗れば、桁が変わります」


「うん。……でもな、佐伯。一番大事なのは数字じゃない」


 田所が窓の外を見た。渋谷の街が暗い。3週間前の半分の灯りしかない。


「ギルドが信頼されること。それだけだ。冒険者が『ギルドがあるから安心してダンジョンに行ける』と思えるようにする。政府が管理庁を立ち上げるまでに、実績を積み上げておく。管理庁が発足した時、最初に連携する民間組織がギルドであるようにする。——それが、俺の目標だ」


 佐伯は無言で頷いた。田所の目は、穏やかだが——その奥に、確かな野心が光っていた。




     




 夜。


 神崎遥は、自宅のアパートに戻っていた。


 カプセルホテルを出てから10日。限界突破から三週間ほど。


 毎日、同じ戦いを繰り返していた。朝起きて——渇望がある。ダンジョンに行きたい。深層の、濃密なフェロモンに満ちた空間に。地下80メートルの空気を肺に満たしたい。


 コンビニでおにぎりを買う。食べる。味がする。塩昆布の味。米の甘さ。人間の食事だ。


 掲示板を読む。外を歩く。人間の世界にいる時間を、意識的に増やす。


 夜、渇望が強まる。暗闇がダンジョンを連想させる。


 眠れない夜は——トレーニングをした。腕立て伏せ。スクワット。シャドーボクシング。限界突破した身体は、以前とは桁違いの負荷に耐えた。壁を殴りたい衝動を、トレーニングに変換した。フェロモン指数22越えで限界突破をした身体が全力で拳を振れば、コンクリート壁に拳サイズの穴が開く。アパートの壁を殴るわけにはいかない。枕を相手にした。枕が一晩で潰れた。


 2週間以上。


 人間でいられている。


 だが——綱渡りだった。毎朝、渇望の強さを測る。昨日より強いか弱いか。弱い日は安堵する。強い日は歯を食いしばる。


 人間として生きるとは、こういうことなのか。毎日、自分の中のモンスターと折り合いをつけること。


 掲示板で新しいアーティファクトの情報を見た。紫色のブレスレット。これまでのアーティファクト以上に中毒症状を大幅に緩和するという。限界突破者にも効果があるかもしれないと書かれていた。


 ——使ってみたい、と思った。


 自分が「使いたい」と思えること自体が、まだ人間である証拠だ。モンスター化した者は、アーティファクトを「使いたい」とは思わない。ダンジョンだけが世界になる。


 神崎は——まだ、ダンジョンの外に世界を持っている。


 かろうじて。


 スマホの画面に、ブレスレットの取引価格が表示されていた。3,000万円。


 神崎には払えない。


 カプセルホテルの宿泊費を払うのが精一杯だった生活から、アパートに戻れたのは、限界突破前に拾ったアーティファクトの売却益のおかげだ。残りは200万円を切っている。


 3,000万円のブレスレットは、夢物語だ。


 ——ダンジョンに潜って、自分で拾えば。


 その考えが頭をよぎった瞬間、全身の毛穴が開いた。心拍数が跳ね上がる。渇望が——待ってましたとばかりに、脳の底から這い上がってくる。


 ダンジョンに行きたい。深層に。あの空気を。あの甘い匂いを。


 神崎は拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。フェロモン強化された皮膚には傷がつかないが、痛みの信号は脳に届く。


 その痛みを杖にして、渇望を押し返した。


「……まだ、だめだ。今行ったら、戻ってこれない」


 声に出して言った。自分に言い聞かせるために。


 スマホを裏返し、ベッドに横になった。


 天井を見つめた。


 安アパートの天井。白い。何もない。ダンジョンの琥珀色の壁面とは何の関係もない、ただの天井。


 それが——神崎にとっては、人間でいるための最後の景色だった。


 目を閉じた。


 渇望は消えない。だが——今夜は、少しだけ弱い。


 おにぎりの味を思い出しながら、眠りに落ちた。

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