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血を与えたら進化しすぎた件~世に出回るアーティファクトも東京に出来たダンジョンも多分俺のせいだけど面白いからいいよね~  作者: 唯之助


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第22話「亀裂(後編)」

 神崎遥がダンジョンの入口に着いたのは、夜明け前の午前4時だった。


 カプセルホテルを出てから40分。まだ傷が塞がりきっていない右肩を庇いながら、夜の街を歩いてきた。エリート兵隊蟻の顎が食い込んだ裂傷。骨まで達している。指数18の治癒速度で出血は止まったが、肩を動かすたびに鋭い痛みが走り、右腕を上に振れない。


 品川のダンジョン入口は管理されている。自衛隊のテントと立入確認ゲートがある。だが大田区の未管理入口なら検問がない。冒険者たちの間では「裏口」と呼ばれている場所だ。住宅街の奥にある公園の地面がえぐれ、直径2メートルほどの穴が地下へ続いている。行政のフェンスが張られているが、半分は倒され、残りは冒険者が勝手にワイヤーカッターで切り開いていた。


 入口周辺に人影はまばらだった。深夜にダンジョンへ潜る者は少ない。だがゼロではない。懐中電灯の明かりが、いくつか地下へ吸い込まれていく。神崎と同じように——夜明けを待てない人間たちだ。


 装備を確認した。切断のナイフ——品質スコア47。前回80メートルでエリートの外骨格にぶつけた時に浅い傷しかつけられなかった。だが関節部の隙間を正確に突けば、有効打になることは確認できている。守護のヘルメット。防弾ベスト。守護の護符。安らぎの香——残り3本。癒しの絆創膏2枚。


 前回は仲間5人で行って、全員生きて帰れた。だが——エリート兵隊蟻は倒せなかった。


 原因は明確だった。


 指数18〜20のパーティでは、エリートの外骨格を突破する火力が決定的に足りない。佐東の鉄壁の盾はエリートの突進を辛うじて受け止めたが、それだけだった。こちらが与えた損害は、外骨格の表面に浅い傷を数カ所。エリート兵隊蟻にとっては、掠り傷にもなっていないだろう。さらにモンスター化した元冒険者まで現れた。5人全員が重傷を負い、何も得られずに撤退した。


 弱い。


 その事実が、神崎の胸を刺し続けていた。


 だが——神崎は一人で地下に降りようとはしなかった。


 仲間を死なせた経験はない。前回のパーティは全員が生還した。だが神崎は、自分の限界を正確に把握していた。格闘技のリングで生き残った者は、自分にできることと出来ないことの境界線を知っている。エリート兵隊蟻は一人で倒せる相手ではない。指数25の人間がようやく1対1で互角になれる相手に、指数18で挑んでも死ぬだけだ。


 強くなりたいという渇望と、冷徹な計算。二つが神崎の中で共存していた。格闘家は感情で動くが、リングで生き残る者は計算もできる。


 入口の周辺を見回した。


 深夜4時のダンジョン入口には、昼間とは違う人種が集まっている。装備が中途半端な者。目が据わっている者。一人で来ている者。——日中のパーティに入れてもらえない、あるいは入りたくない人間たちだ。


 神崎は3人に目をつけた。


 一人目。30代半ばの男。筋肉の付き方と姿勢に軍隊経験が透けている。魔剣包丁を腰に差し、防弾ベストを着ている。装備に手入れが行き届いている。ダンジョン慣れした暗い目つきだが、装備の扱い方が丁寧だった。


 二人目。20代後半の女。小柄だが動きに無駄がない。魔弾銃を腰のホルスターに差している。500万円超のアーティファクトだ。深層で拾ったか、相当な稼ぎを投資したか。いずれにしろ、素人ではない。


 三人目。40代の男。大柄で、ラグビー選手のような肩幅。破壊のバットを背負っている。顔に古い傷痕がある。指の関節が太く、肉体労働の手だ。


 神崎は3人に声をかけた。


「地下80メートルまで行く。エリート兵隊蟻を倒して特濃フェロモンを取る。特濃フェロモンは私がもらう。それ以外の戦利品は全てあなたたちで分けていい。——ただし、私の指示に従ってもらう」


 元自衛隊崩れの男——名は原田——が神崎を上から下まで見た。


「……フェロモン指数は?」


「18。限界値22。鑑定の鏡で確認済みだ。3日前に80メートルでエリート兵隊蟻と交戦した経験がある。倒せなかったが、5人パーティで全員生還した」


 原田の目が変わった。80メートルでエリートと交戦して生還した——その事実の重みを知っている顔だった。


「原田。指数17。限界値20。最大で地下60メートルまでは行ったことがある。元陸上自衛隊の普通科だ。80メートルは未経験」


「17なら中層のベテランだろう。包丁の扱いが分かるなら、陽動と兵隊蟻の処理を任せたい。80メートルのフェロモン濃度はきつい——60m以深が初めてなら、体調が崩れたら即座に言え。無理は禁止だ」


 魔弾銃の女——柏木——が口を開いた。


「柏木。指数18。地下70メートルまで。——エリート兵隊蟻との交戦経験は?」


「ある。エリートの外骨格は、品質が47の切断のナイフでは1撃では抜けない。同じ箇所に5発以上叩き込んでひびを広げる必要がある。魔弾銃の追尾弾なら、同じ箇所に連射できる。あなたの射撃精度が鍵になる」


 柏木の目が鋭くなった。戦い方を知っている人間の言葉だと分かったのだろう。


 大柄な男——東——は寡黙だった。


「東。指数19。限界値は21。——行こう」


 それだけだった。指数19はかなりのベテランだが、80メートルにはやや心許ない。だが体格とバットの打撃力を考えれば、近接戦で通路を塞ぐ壁役にはなれる。


 神崎は3人を見回した。


「ルールは3つ。一、私が撤退と言ったら全員撤退。議論しない。二、エリート兵隊蟻との戦闘中は私の指示通りに動く。自分で判断しない。三、特濃フェロモンの取り扱いは私に任せる」


「特濃フェロモンはお前が独り占めか」


 原田が眉を上げた。


「嫌なら降りろ。エリートの外骨格は深層素材として最高級だ。加工業者が競って買う。3人で分けても、1人100万は下らない。道中で見付けたアーティファクトも自由にしていい」


 原田が黙った。アーティファクトもエリートの素材も魅力的だ。


「……分かった。乗ろう」


 4人が、地下へ降りた。



     



 地下30メートルまでは、問題なかった。


 兵隊蟻は何体か現れたが、神崎が先頭で切り裂き、原田が包丁で頭を叩き割り、柏木が離れた位置から魔弾銃で仕留めた。東は破壊のバットで外骨格ごと叩き割る力任せの戦法だったが、有効だった。


 連携は粗い。即席パーティの限界だ。だが神崎の指示は明確で、3人はそれに従った。これまでのダンジョン探索、そして格闘技の世界で培ったリーダーシップ——声の出し方、タイミング、場の空気を支配する力——が、見知らぬ人間を束ねていた。コーナーマンの声が聞こえれば、選手は迷わず動ける。リングもダンジョンも同じだ。


 地下50メートル。蟻の密度が増した。安らぎの香を焚いた。


 通路の壁面が滑らかになり、蟻の唾液による独特の光沢が目立ち始めた。フェロモン濃度の上昇が鼻腔にはっきりと伝わる。甘い、だが粘つくような匂い。脳の奥を微かに撫でる感覚。


 地下65メートル。兵隊蟻の体長50センチを超える個体が群れで現れる。中層の大型個体だ。外骨格の厚みが違う。


 原田の動きが鈍った。


 顔色が変わっていた。額に脂汗が浮き、呼吸が荒い。指数17の身体でも、60メートル以深のフェロモン濃度は内臓の芯に響く。護符を持ってれば緩和出来るが、原田は持っていなかった。心拍が加速し、視界が明滅する。


「原田。辛いだろう」


「……まだ、大丈夫だ」


「嘘をつくな。急性のフェロモン被曝は判断力を奪う。自分で大丈夫だと思っている時が一番危険だ。——後方に下がれ。安らぎの香の管理を任せる。残り2本。深層で必要になる」


 原田が渋々後方に下がった。プライドが邪魔をしている顔だったが、身体が限界を訴えている自覚はあるらしい。


 地下70メートル。兵隊蟻3体が同時に出現した。


 神崎が指示を出した。


「柏木、左の個体。東、右。真ん中は私が行く」


 連携が噛み合った。3体を40秒で処理した。柏木の魔弾銃が正確に外骨格の継ぎ目を撃ち抜き、東のバットが脚を叩き折り、神崎のナイフが脳を貫いた。


 右肩に激痛が走った。ナイフを振るうたびに、骨まで達した傷が開く。防弾ベストの右肩部分が、内側から血で滲み始めていた。指数18の治癒は確実に進んでいるが、まだ完全ではない。


 さらに深く。


 地下80メートル。



     



 3日前に仲間を連れて撤退した階層。


 通路の空気が変わった。フェロモン濃度が桁違いに高い。安らぎの香を焚いているが、それでも意識の端が揺らぐ。身体が勝手に深呼吸を繰り返す。もっと、もっと吸い込もうとしている。


 原田が壁にもたれかかった。顔が蒼白い。


「……気持ち悪い。頭がぐるぐるする」


「限界だな。ここで待ってろ。通路の分岐に背中をつけて、何も来ないか見張れ。戻ってくるまで動くな。安らぎの香を絶やすな」


 原田が頷いた。指数17の身体では、この深度のフェロモンは急性被曝のレベルに達している。空気中のフェロモンによる被曝は指数が高いほど耐性が付くが、17ではギリギリだった。無理に連れて行けば判断力を失い、足手まといになるか、最悪パニックを起こす。


 3人で先へ進んだ。


 前方の通路が広がった。天井高10メートル以上の巨大な空洞。壁面が琥珀色に発光し、空気が重い。フェロモン濃度がさらに跳ね上がる。神崎の格闘家としての感覚が、空間全体の圧力を肌で感じ取っていた。


 その中央に——エリート兵隊蟻がいた。


 体長3メートル。金属のような光沢を放つ外骨格。前回、肩を噛み砕かれた個体と同じ種類だ。同じ個体かは分からない。触角が緩慢に動いている。こちらにはまだ気づいていない。


 前回との決定的な違いがあった。今回は——エリートが1体だけだった。前回は元冒険者のモンスターも参戦した。あの男がいなければ、5人ではなく3人でも、一筋の勝機がある。


 神崎の心臓が跳ねた。恐怖ではなかった。


 戦慄だった。——3日前に歯が立たなかった相手に、今度は3人で挑む。愚かか。無謀か。それとも——。


 だが今回は作戦が違う。前回の失敗で、エリートの動きのパターンを身体が覚えている。突進の初速。顎の開閉速度。脚を振る角度。格闘家の記憶は、映像ではなく身体に刻まれる。相手の骨格と筋肉の動き方を一度でも体感すれば、次は予測できる。


「作戦を確認する」


 神崎が小声で言った。


「柏木。魔弾銃で右顎の付け根を狙え。追尾弾を同じ箇所に5発以上ぶち込め。外骨格にひびを入れるだけでいい。東、正面から注意を引け。バットで顎を横から弾いて突進の軸をずらせ。正面から受け止めようとするな——死ぬ。私が側面に回り込んで、ひびの入った箇所をナイフで抉る。——顎を片方でも落とせば、勝機が見える」


 柏木が頷いた。東も。


 エリート兵隊蟻が、触角を動かした。侵入者を感知。


 3メートルの巨体が旋回し——突進してきた。


 前回と同じ、小型車のような質量の突進。床が振動し、空気が圧縮されて押し寄せる。到達まで2秒。


 東が正面に立った。破壊のバットを横薙ぎに構え、指数19の全体重を乗せて横から振り抜いた。


 前回の佐東は正面から盾で受け止めた。今回は違う。正面から受けない。横から顎を弾く。


 バットがエリートの左顎に激突した。金属音が空洞に反響した。エリートの突進の軸がわずかにずれた。——止めたのではない。方向を変えただけだ。東の靴底が床を削り、衝撃で2メートル滑った。だがエリートの突進は壁に逸れた。外骨格が壁面に激突し、琥珀色のコーティングが砕けた。


 その一瞬で柏木が撃った。魔弾銃。追尾弾。


 1発目が右顎の付け根に命中。外骨格に白い傷が走った。2発目が同じ箇所に吸い込まれた。追尾弾の精度——弾が微妙にカーブし、1発目の着弾点に収束する。3発目。4発目。5発目。


 同じ箇所に5発。白い傷がひびに変わった。


 エリートが壁から身を起こし、体を振った。巨大な脚が床を踏み、空洞全体が震えた。


 神崎が側面から飛び込んだ。


 切断のナイフを両手で握り、ひびの入った箇所に刃を叩き込んだ。品質スコア47の刃は、健全な外骨格には浅い傷しかつけられない。だがひびが入っていれば話が違う。構造が脆弱になった隙間に刃先を食い込ませ、梃子の原理で捻った。


 外骨格が裂けた。顎の付け根の関節が露出した。体液が噴出し、甘い匂いが噴き上がった。エリートのフェロモンだ。濃密で、脳を直接殴るような刺激。


 もう一撃。


 ナイフを引き抜き、露出した関節に再び突き立てた。関節の軟組織を切り裂く手応え。格闘家の経験が教えてくれる——関節の「外し方」を。人間の肘も蟻の顎も、力の入る方向は決まっている。逆方向に力をかければ、関節は壊れる。


 右顎が根元から千切れ、床に落ちた。体液が噴出する。


 エリート兵隊蟻が激しく暴れた。残ったもう片方の顎と、6本の脚が狂ったように動く。


 脚の一本が東を薙ぎ払った。直径30センチ超の脚が、人間の胴体ほどの幅で横に振られる。東の巨体が壁に叩きつけられ、崩れ落ちた。破壊のバットが手から離れ、床に転がった。東が壁際でうずくまっている。——肋骨が折れたか。だが意識はある。


「東!」


「私が続ける。柏木、左顎も同じように!」


 柏木が撃った。だが——エリート兵隊蟻が身体を振り回した。右顎を失った痛みで動きが不規則になっている。追尾弾が腹部に逸れた。同じ箇所に集中できない。


 神崎が正面に回った。


「こっちを見ろ——!」


 エリートの注意を引きつけた。残った左顎が神崎を挟もうと開いた。


 前回は——右肩を噛まれた。


 今回は違った。格闘家の身体が覚えている。顎が閉じる速度。0.3秒。その0.3秒の間に——


 神崎はナイフを両手で握り、顎の内側——外骨格が薄い部分——に身体ごと突っ込んだ。顎が閉じるより早く、ナイフが左顎の付け根を切り裂いた。


 ただし、完全には避けきれなかった。閉じかけた顎の先端が、神崎の左の脇腹を掠めた。防弾ベスト越しに衝撃が走り、肋骨が軋む音がした。2本は折れたかもしれない。


 だが——左顎の付け根が裂けていた。


 柏木が、その瞬間を逃さなかった。魔弾銃を3連射。裂け目に追尾弾が吸い込まれる。軟組織が弾け、左顎がぶら下がった。


 両顎を失ったエリート兵隊蟻が、暴れながら脚で神崎を蹴った。全身が吹き飛ばされ、壁に叩きつけられた。後頭部を守護のヘルメットが守ったが、背中と腰に衝撃が走った。内臓が揺れる感覚。口の端から血が垂れた。


 立ち上がった。


 立ち上がれた。それだけで十分だった。


 エリート兵隊蟻も限界だった。両顎を失い、体液を大量に失い、動きが目に見えて鈍っている。脚で暴れているが、方向性がない。本能的な反射だけだ。


 柏木が冷静に魔弾銃を構え直した。手が震えていた。だが——照準は安定していた。露出した腹部の軟組織に、残弾を撃ち込んだ。5発。6発。弾の切れ目に予備弾倉を装填し、さらに3発。


 エリート兵隊蟻の動きが止まった。脚が震え、巨体が傾いた。


 神崎が最後の力で走った。折れた肋骨が呼吸のたびに突き刺さる痛み。だが脚は動く。ナイフを頭部の外骨格のひび——柏木が最初に撃ち込んだ箇所に近い部分——に突き立て、全体重をかけた。刃が外骨格を貫通し、脳に到達した。


 エリート兵隊蟻が——倒れた。


 3メートルの巨体が床に崩れ落ち、空洞が揺れた。


 3人で。倒した。


 指数18の神崎と、指数18の柏木と、指数19の東。誰もが20にすら達していない——掲示板なら「嘘」と呼ばれる編成で。


 神崎は膝をついた。全身が痛い。肩の傷は完全に開き、左の脇腹に鋭い痛み、口の中に血の味。右手のナイフを握る指が痙攣している。


 東が壁に手をついて身体を起こした。肋骨を押さえている。


「……倒した、のか」


 柏木が魔弾銃を下ろした。両手が震えていた。


「——正直、死ぬかと思った」


 神崎はエリート兵隊蟻の死体に這い寄った。


 切断のナイフで腹部の外骨格を慎重に剥がす。外骨格は顎の付け根と頭部が損壊しているが、腹部はほぼ無傷だ。分厚い甲殻を裂き、内部の組織に刃を入れる。


 体内に——半透明の結晶が見つかった。拳大。深紅色の液体で満たされ、結晶の表面から濃密なフェロモンが滲み出している。近づいただけで鼻腔が灼けるような刺激。


 特濃フェロモン結晶。


 掲示板で何度も見た名前。限界を超える鍵。そして——人間を辞める最短ルート。


 手が震えた。渇望か、恐怖か、自分でも分からなかった。


 柏木と東が、数メートル離れた場所から神崎の手元を見ていた。


「それが——特濃フェロモンか」


 柏木が呟いた。


「ああ。——これは私がもらう。約束通りだ。外骨格と他の素材は全部あなたたちで分けろ。深層素材の加工業者に持ち込めば、外骨格だけでも大金になる」


 東が首を振った。


「それを吸ったら——人間じゃなくなるって話だぞ」


「知ってる」


 柏木が神崎を見た。その目に——理解があった。止めても無駄だという理解。


「……止めないよ。あなたの選択だ」


 掲示板の書き込みが頭をよぎった。「限界突破してまともに生活できてる奴、聞いたことない」。「最後は帰ってこなくなる」。「モンスター化する」。


 80メートルで遭遇したあの男の姿が浮かんだ。焦点の合わない目。佐東の盾を拳で凹ませた、人間の形をした化け物。


 自分もああなるかもしれない。かなりの確率で、使った瞬間にモンスター化する。


 分かっている。


 分かった上で——神崎は結晶を割った。


 深紅の液体が手のひらに広がった。粘度が高い。空気に触れた瞬間、圧倒的な香りが立ち昇った。安らぎの香の比ではない。脳が痺れるような、全身の細胞が開くような——嗅いだだけで膝から力が抜けそうになる。


 口に含んだ。


 瞬間——。


 全身に火が走った。


 心臓が爆発したかと思った。鼓動が加速し、血管が脈打ち、筋繊維の一本一本が引き裂かれ再構築される感覚。骨が軋む。関節が鳴る。視界が明滅する。


 黒木が感じたような恍惚ではなかった。


 神崎にとって、それは——純粋な苦痛だった。


 格闘家として鍛え上げた身体感覚が、変化の全てを克明に捉えていた。筋繊維が一度溶けて再構成される。骨密度が急上昇し、骨の内部で微細な亀裂が生じては修復される。関節の可動域が変わる。腱の弾性が変わる。——10年かけて作り上げた「格闘家の身体」のバランスが、数分で別物に書き換えられていく。その全てが痛みを伴った。


 床に倒れ、歯を食いしばった。声は出さなかった。声を出したら、意識が飛ぶ気がした。リングで何度も感じた痛み——顎を打たれ、肝臓を抉られ、膝の靭帯を引きちぎられた痛み——の、全てを足し合わせたものが、全身で同時に起きている。


 柏木と東が、離れた場所から神崎を見ていた。手を出せなかった。目の前で人間の身体が変質していく。筋肉が膨張し、体表面の血管が浮き上がり、全身から蒸気のように汗が噴き出している。


 どれほどの時間が経ったか分からない。


 痛みが引いた時——神崎は、自分の身体が別物になっていることを知った。


 起き上がった。折れていたはずの肋骨が、痛まない。右肩の裂傷が——塞がっている。3日間ずっと開き続けていた、骨まで達する傷が。完全にではないが、出血が止まり、傷口が薄い膜で覆われていた。


 拳を握った。


 力が違う。密度が違う。指を握るだけで、手の中の空気が圧縮される感覚がある。試しに壁を殴ると、琥珀色のコーティングにひびが走った。素手で。


 限界を——超えた。


 同時に、頭の奥で何かが蠢いた。


 ダンジョンの空気が、甘い。甘すぎる。この空間にずっといたいという欲求が、思考の隅に貼りついている。離れたくない。ここにいたい。もっと深く。もっと濃い空気を。


 地上に戻らなければ。


 分かっている。


 分かっている——が、足が動かない。


 もう少しだけ。もう少しだけ、この濃密なフェロモンの中にいたい。


 神崎は歯を食いしばった。


 格闘技の試合前と同じだ。恐怖を制御する技術。身体を意識から切り離し、純粋な命令として動かす技術。リングで1,000回以上使った技術。顎を打たれて立てない時、コーナーに戻りたくない時、もう1ラウンド戦いたくない時——それでも立ち上がるために使った技術。


 右足を、強制的に持ち上げた。一歩。


 もう一歩。


「……帰るぞ」


 柏木と東に声をかけた。声が自分のものとは思えないほど低く、重かった。


 原田を回収し、4人で地上を目指した。帰路は神崎が先頭で兵隊蟻を片づけた。変質した身体は——明らかに速く、明らかに強かった。70メートル付近の兵隊蟻を、ナイフの一振りで両断した。刃が外骨格を紙のように切り裂く。


 柏木が背後で息を呑む音が聞こえた。


 地上に近づくにつれて、フェロモン濃度が薄くなった。渇望が——和らぐのではなく、むしろ飢餓感に変わっていく。濃い空気が恋しい。深層の甘い匂いが恋しい。薄い地上の空気が、飢えた身体を苛む。


 右足を、強制的に持ち上げた。一歩。もう一歩。


 背後から、甘い香りが追いかけてきた。



     



 神崎は、地上に戻った。


 ダンジョンの入口から這い出した時、空は白み始めていた。午前8時頃。カプセルホテルを出てから約4時間。


 柏木と東と原田は、何も言わずに去っていった。エリートの外骨格の断片と深層素材を分配し、互いの名前以外の情報は一切交換せず、それぞれの方向に歩いていった。目が合った時、柏木だけが小さく頷いた。


 全身が震えていた。寒さではない。特濃フェロモンの余韻が、身体の隅々で脈打っている。変質した筋肉が、まだ自分の制御に馴染んでいない。歩くだけで膝のバネが強すぎて、歩幅が不自然に広がる。


 意識がもうろうとする中、最寄りのカプセルホテルに入った。金を払い、カプセルに倒れ込んだ。


 目を閉じた瞬間——ダンジョンの映像が瞼の裏に浮かんだ。


 暗い通路。フェロモンの甘い香り。エリート兵隊蟻の外骨格が砕ける感触。——全てが鮮明で、全てが甘美だった。


 地上の空気が薄い。ダンジョンの空気が恋しい。


 安らぎの香を使おうかと一瞬思った。だがすぐにやめた。掲示板で読んだ。特濃フェロモンの中毒者には安らぎの香が逆効果になる、と。ダンジョンのフェロモンの記憶を呼び覚まし、渇望を激化させる。


 代わりに——何も考えないようにした。目を閉じ、呼吸を整え、意識的に思考を止めた。格闘家の訓練で身につけた精神統一。試合前の瞑想。呼吸を数える。1、2、3——吸って、止めて、吐く。思考を空にする。


 渇望が——僅かに遠のいた。


 消えたわけではない。意識の隅にこびりついている。だが——今は、制御できている。


 今は。



     



 六本木ヒルズ奪還作戦の失敗から1ヶ月以上が経過した。


 その間に、東京の風景は確実に変わっていた。


 六本木通りには自衛隊の装甲車が常駐し、ヒルズを中心に半径500メートルの警戒区域が設定されている。夜間になると街灯の下にも人影はなく、コンビニは午後8時に閉まる。かつて不夜城と呼ばれた街が、日没とともに沈黙する。


 新宿区。高級マンションの一室。


 相沢——32歳のIT企業経営者——が、窓から新宿の夜景を眺めていた。以前より明らかに暗い。歌舞伎町のネオンが半分以上消えている。だが、彼の部屋は明るかった。


 相沢自身はダンジョンに潜らない。潜る必要がない。ダンジョン関連ビジネスで月に数千万を稼いでいる。アーティファクト転売の仲介プラットフォーム運営、冒険者向け装備のレンタル事業、ダンジョン攻略情報の有料配信サービス。——混沌が深まるほど、彼のビジネスは拡大した。


 スマホにアーティファクトの相場アラートが鳴った。魔弾銃の市場価格が680万円に上昇。先週から12パーセントの値上がりだ。深層に潜る冒険者が増え、需要が供給を圧倒している。


 部屋には高価なアーティファクトが並んでいる。守護の護符を2つ、安らぎの香を10本以上。個人で持つ意味はない——投資資産だ。価格が上がったら売る。相沢にとってアーティファクトは命を守る道具ではなく、金融商品だった。


 24時間警備付きのマンション。エントランスには元自衛隊員のガードマン2名。住人には守護の護符の携帯が推奨されている。月額家賃120万円。——それでも入居待ちが出ている。安全に金を払える人間は、いくらでもいた。


 相沢にとって、東京の危機は——ビジネスチャンスだった。



     



 一方——。


 足立区。老朽化したアパートの一室。


 佐藤美咲——24歳——が、狭い部屋の隅で膝を抱えていた。


 元OLだった。勤めていた中小の貿易会社が、ダンジョン関連の混乱で取引先を失い倒産した。3ヶ月前のことだ。貯金は家賃の滞納で消えた。消費者金融の返済が2ヶ月遅れている。催促の電話が毎日来る。バイトの面接は5件連続で落ちた。六本木ヒルズの事件以来、飲食店もコンビニも人手が余っている。避難した人々が残した空席を、別の失業者が奪い合っている。


 スマホの画面を見た。掲示板のダンジョン攻略スレ。



 412:名無しの冒険者

 装備なしでダンジョン潜ってる奴いるのか


 433:名無しの冒険者

 >>412

 いる。地下10mの浅い階層で宝箱だけ狙うやつ

 でもそれでも兵隊蟻に遭遇する確率は3割くらいある

 装備なしで兵隊蟻に会ったら終わりだぞ


 455:名無しの冒険者

 でも他に選択肢ないだろ

 仕事もない 貯金もない

 ダンジョンで何か拾えれば最低でも数万にはなる


 478:名無しの冒険者

 >>455

 その「何か拾えれば」で何人死んだと思ってんだ

 先週だけで装備不良の死者が20人超えてる

 ギルドの統計だから正確な数字だ



 美咲はスマホを置いた。


 ダンジョンの浅い階層なら——運が良ければ、アーティファクトが手に入る。癒しの絆創膏でも5万円。無限筆なら3万円。ひと月の家賃が払える。


 だが装備がない。防弾ベストだけで数万円。守護のヘルメットに至っては数百万。最低限の武器——魔剣包丁の最低品質でも80万円。


 美咲には、それを買う金がなかった。


 翌朝。


 美咲は、ホームセンターで買った980円の懐中電灯と、キッチンにあった包丁を持って、ダンジョンの入口に立っていた。


 入口周辺には、同じように軽装——あるいは無装備に近い人間が数人いた。目が合ったが、誰も声をかけなかった。全員が同じ種類の表情をしていた。余裕のない目。覚悟を決めたのではなく、覚悟する余裕すらなく、ただ他に選択肢がないから来た顔。


 美咲は、地下へ降りた。


 地下5メートル。薄暗い通路。琥珀色の壁。働き蟻が数匹、壁に沿って移動している。美咲を無視して通り過ぎた。働き蟻は人間を攻撃しない。


 地下8メートル。分岐点。右の通路の奥に、宝箱が見えた。


 ギルドの情報では、宝箱は概ね10メートル以深に配置されている。8メートルで見つかるのは珍しい。——あるいは、他の冒険者が通過した後に新しく生成されたものかもしれない。


 美咲が足を踏み出した瞬間——左の通路から、兵隊蟻が現れた。


 体長30センチ。黒光りする外骨格。大顎がカチカチと鳴る。浅層の最小サイズだ。指数5以上のフェロモン強化を受けた冒険者なら、アーティファクトの武器で確実に倒せる相手。指数10以上なら素手でも対処可能。


 だが美咲のフェロモン指数は0だ。一般人の身体能力。握力は40キロに満たない。


 美咲は包丁を構えた。握り方が定まらない。手が震えていた。包丁は家庭用のステンレス。外骨格には刃が立たない。


 兵隊蟻が突進した。30センチの体長に見合わない、敏捷な動き。


 美咲が包丁を振り下ろした——外骨格に刃が当たり、滑った。切れ味がない。手応えがない。ステンレスの刃は外骨格の表面を撫でただけだ。


 兵隊蟻の大顎が、美咲の左前腕に食い込んだ。


 悲鳴。反射的に腕を振ったが、顎は離れない。蟻の顎は人間の前腕を容易く切断する。腕の筋肉が裂け、血が噴き出した。


 引き倒された。床に叩きつけられ、包丁が手から離れた。


 2匹目の兵隊蟻が、右の通路から現れた。


 30秒後。


 佐藤美咲。享年24。


 ダンジョンで命を落とした、無数の犠牲者の一人。彼女の名前が公的な統計に載ることはなかった。遺体は数時間後に働き蟻に発見され、巣の奥へ運ばれていった。



     



 渋谷の雑居ビル3階。


 「東京ダンジョン冒険者ギルド」の事務所は、設立から1ヶ月弱で様変わりしていた。


 手書きの看板はそのままだが、内部にはデスクが8台、ホワイトボードが3枚、壁一面にダンジョンの地図が貼られている。専用のチャットグループには常時200名以上がオンライン。登録者は500名を突破し、毎日15〜20名が新規加入していた。


 午前10時。ギルドマスター・田所勝が、事務所の奥の会議スペースで幹部3名と打ち合わせをしていた。


「現状の報告からいこう」


 田所が穏やかな声で言った。42歳。元大手商社の営業部長。人当たりの良い笑顔と、相手の話を遮らない丁寧な物腰。——それが田所の武器だった。


 幹部の一人、元看護師の高山——30代の女性——が報告した。


「治療費補助の申請が47件。うち重傷が12件。見舞金の支出が先週だけで380万円です。死亡見舞金が2件で100万円。合計480万の支出」


「全件承認する。速やかに支給してくれ」


 田所が即答した。


「冒険者たちが『ギルドに入っていてよかった』と思う瞬間を作るのが最優先だ。480万は安くない。だが——冒険者1人が口コミで仲間を2人連れてくる。会費と手数料の増加分で、1ヶ月で回収できる」


 穏やかな声で言ったが、数字は一切間違えなかった。


 別の幹部、元銀行員の木村——40代の男性——が続けた。


「アーティファクトの流通仲介ですが、先週の取引総額が4億2千万。手数料収入は4,200万です」


「順調だな。先週の3億5千万から20パーセント増加している」


「はい。ただ——アーティファクト取引規制法との整合性が問題になりつつあります。法律は施行済みですが届出窓口が——」


「まだ開設されていない。知っている」


 田所は頷いた。


「法律はある。だが運用する組織がない。我々は法律を破っているわけではない。届出窓口が開いたら、会員に届出を推奨する。——だが、窓口が開く前に、我々の流通ネットワークを確立しておく必要がある」


 木村が意図を汲み取った。


「先に既成事実を作っておけば、規制が本格化した時に——」


「政府は我々を排除するのではなく、取り込む方を選ぶ。500名の冒険者を敵に回すより、協力関係を結んだ方が合理的だ。ダンジョン管理庁が本格稼働する時——既に組織化され、流通実績があり、会員の信頼を得ているギルドがそこにある。管理庁はゼロから冒険者を組織するより、我々と提携した方が早い」


 田所の声は穏やかなままだった。だが——その言葉の意味は、幹部たちに正確に伝わっていた。


 3人目の幹部、元冒険者の佐伯——20代の男性——が報告した。


「深層攻略の情報共有システムが軌道に乗りました。地下50メートル以深の蟻の配置、罠の位置、エリート個体の出現パターン——会員からのリアルタイム報告で、かなり精度の高いマッピングができています。地下60メートルまでの地図は90パーセント完成しています」


「良い仕事だ。その情報は——会員以外には公開するな」


「はい。会員限定です」


「情報がギルドに集まる理由を作り続けろ。情報が集まる場所に、人が集まる。人が集まる場所に、金が集まる」


 田所が立ち上がった。


「今日の午後、新規会員向けの説明会がある。30名ほど来る予定だ」


 高山が尋ねた。


「田所さんが直接?」


「もちろん。新しく入ってくる仲間には、ギルドマスターが直接歓迎する。——それが信頼の基盤だ」


 田所は笑顔で答えた。


 会議が終わり、幹部たちが退出した後——田所は一人で残った。


 デスクの引き出しから、手帳を取り出した。表紙には何も書かれていない。中には、田所の筆跡で細かい数字とメモが記されていた。


 会費収入。仲介手数料。装備レンタル。深層ガイド料。月間収益の合計が6千万を超えている。粗利益は4千万以上。


 そして——手帳の最後のページに、田所はこう書いていた。


 「冒険者を守る組織が、冒険者経済を支配する。それが自然な流れだ」


 田所は手帳を閉じ、引き出しに戻した。



 午後の説明会。


 田所は30名の新規会員の前に立った。


「ようこそ、冒険者ギルドへ。——まず最初に言っておきたい。このギルドは、皆さんを守るために存在します」


 声は温かく、目線は一人一人に向けられていた。


「政府は追いついていない。規制法はあっても取り締まる人がいない。ダンジョン管理庁は法律だけ通って組織が立ち上がっていない。——だから我々が、自分たちで自分たちを守る。それがギルドの存在意義です」


 新規会員たちが頷いた。不安と期待が入り混じった表情。


「ダンジョンは危険です。だが——正しい情報と適切な装備があれば、リスクは大幅に下げられる。ギルドはその両方を提供します」


 説明会が終わった後、新規会員の一人——若い女性——が田所に話しかけた。


「田所さん、ギルドに入って本当に良かったです。先週、浅層でパーティの仲間がはぐれて——ギルドの情報がなかったら、助けられなかったと思います」


「それを聞けて嬉しいよ。何かあったら、いつでも声をかけてくれ」


 田所は、その新規会員の肩を軽く叩いた。


 誰も疑わなかった。



     



 掲示板は、加速する崩壊を記録し続けていた。



 東京ダンジョン攻略スレ Part 89



 134:名無しの冒険者

 厚労省の最新統計出たぞ


 156:名無しの冒険者

 >>134

 貼ってくれ


 178:名無しの冒険者


 ダンジョン関連統計(奪還作戦失敗後2週間)


 死亡者:累計682名(直近2週間で+128名)

 行方不明者:累計3,847名(+286名)

 重傷者:累計1,892名(+347名)

 フェロモン中毒者:18,400名超(+3,200名)

 限界値到達推定者:1,650名超

 特濃フェロモン使用推定者:78名

 モンスター化確認:12名(+9名)


 201:名無しの冒険者

 2週間で死者128人……

 1日平均9人が死んでるのか


 223:名無しの冒険者

 特濃フェロモン使用者が78人に増えてるのやばい

 2週間前は23人だったろ


 245:名無しの冒険者

 >>223

 限界値に達した奴が増えたからだろ

 限界値到達者が1650人以上いて

 その中の一部が特濃に手を出す

 当然の流れだ


 267:名無しの冒険者

 モンスター化12名。

 2週間前は3名。

 4倍になってる。


 289:名無しの冒険者

 深層がどんどん危険になってる。

 蟻だけじゃなくて元人間のモンスターがいる。

 人間の戦い方を知ってる分、蟻より厄介だ。


 312:名無しの冒険者

 地下80m以降は事実上の禁域だろ

 行った奴の3割が帰ってこない


 334:名無しの冒険者

 でも特濃フェロモンはそこにしかない

 限界突破したい奴は行くしかない


 356:名無しの冒険者

 限界突破してどうすんだ

 12人中何人がまともに帰ってこれてる?


 378:名無しの冒険者

 >>356

 知ってる範囲だと……まともに生活してる限界突破者は本当に一握りだ。

 大半は1ヶ月以内にダンジョンから出てこなくなる。


 401:名無しの冒険者

 政府は何してるんだ


 423:名無しの冒険者

 >>401

 ダンジョン管理庁の設立前倒しが閣議決定されたらしい

 でも組織が動き出すのは早くて1ヶ月後

 それまでは無法地帯が続く


 445:名無しの冒険者

 1ヶ月後……

 その間に何人死ぬんだろうな


 467:名無しの冒険者

 もう東京は終わりなんじゃないか。

 逃げられる奴は逃げてる。15万人が東京出たって話だぞ。


 489:名無しの冒険者

 >>467

 逃げてどうする。

 ダンジョンの入口は東京都内に60箇所以上に増えた。

 今は東京だけの問題だが、いつまでそうかは分からない。


 512:名無しの冒険者

 それよりも気になるのは六本木だ。

 あっちの連中が今何してるか、誰も分かってない。


 534:名無しの冒険者

 >>512

 それな。

 奪還作戦が凍結されたってことは

 あの連中はあのビルに居座り続けるってことだ。

 しかも特殊作戦群の精鋭を仲間にしたって話もある。

 今頃何を企んでるんだか。


 556:名無しの冒険者

 しかもグールが六本木エリア以外でも多く出始めてるって噂


 578:名無しの冒険者

 >>556

 マジかよ

 封鎖線の中だけじゃなくなってるのか

 大阪でも出たって話は聞いたけど


 601:名無しの冒険者

 まとめるとだな

 ・ダンジョン死者が加速している

 ・限界突破者が増え、モンスター化も加速

 ・六本木は放置状態

 ・グールが都内に拡散

 ・政府は後手後手

 ・15万人が避難済み

 ・ギルドが唯一まともに機能してる民間組織


 623:名無しの冒険者

 まだ何とかなると思ってる奴いる?


 645:名無しの冒険者

 >>623

 正直に言うと分からない

 でも潜るのやめられない

 中毒ってそういうことだ



     



 神崎遥は、カプセルホテルで丸2日を過ごした。


 眠れなかった。目を閉じるとダンジョンが見える。フェロモンの甘い記憶が脳を満たす。エリート兵隊蟻の外骨格を切り裂いた感触。顎の関節を捻り上げた手応え。あの瞬間——自分が無敵だと感じた一瞬の陶酔。


 目を開けると——薄暗いカプセルの天井がある。灰色のプラスチック。蛍光灯の微かな唸り。


 地上の空気は——薄い。


 何度も、ダンジョンに戻ろうとした。足がカプセルの端に向かい、靴に手が伸びる。そのたびに歯を食いしばり、動きを止めた。


 格闘技の試合前と同じ。恐怖を制御する技術は持っている。だがこれは恐怖ではない。渇望だ。渇望を制御する方法を、神崎はまだ知らない。


 だが——制御できている。かろうじて。


 掲示板で読んだ。限界突破者の約15パーセントが使用直後にモンスター化する。残りの85パーセントも、大半が1ヶ月以内にダンジョンに住み着き、二度と戻ってこない。「まともに」生活を続けている限界突破者は——確認されている限りでは、数人。


 自分がその数人に入れるかどうかは、分からない。


 ただ一つ分かることがある。——自分は今、崖の縁に立っている。


 次にダンジョンに潜った時、帰ってこれる保証はない。


 だが——次に潜らない、という選択肢も、神崎には見えなかった。


 弱いままでいることは、死ぬより怖い。


 カプセルの天井を見つめたまま、神崎は夜を明かした。

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― 新着の感想 ―
神崎頑張れ!
神崎がこのままモンスターと化すかそれともなんとか克服するか 彼女の強さえの探求とかの打ち込む所はどっかの誰かさんに煎じて飲ませたいぐらいだよ全く(ジト目)
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