第22話「亀裂(中編)」
黒木が限界を突破した頃——別の冒険者パーティも、地下80メートルに到達していた。
リーダーは神崎遥。27歳。
総合格闘技の元アンダーグラウンド・チャンピオン。公式の格闘技団体には所属せず、非合法の地下格闘技で名を馳せた女性だ。身長168センチ、体重58キロ。筋肉質でありながら無駄な贅肉が一切ない、格闘家として完璧に仕上げられた肉体。右の拳の関節が僅かに歪んでいる。何万回もサンドバッグと人体を殴り続けた痕跡だ。
フェロモン指数18。限界値22。鑑定の鏡で確認した数値だ。
指数18の身体は、かつての自分とは別の生き物だった。握力は300キロを上回り、100メートルを軽く9秒台で走り抜ける。暗闇で10メートル先の蟻の動きが見える。幼少期の頃より格闘家として20年かけて磨いた技術に、フェロモンの強化が上乗せされている。素手で小銃弾すら弾く50センチ級の兵隊蟻を仕留められる——それが指数18の人間だった。
だが指数18は、深層においては「最低限」に過ぎない。
仲間は4名。全員が鑑定の鏡で指数18以上を確認したベテラン冒険者だ。ダンジョンが出来た初期から経験を積み、中層の兵隊蟻を日常的に狩ってきた猛者たち。一般人から見れば人間離れした化け物だが、この深度では「まだ足りない」。
全員がアーティファクト武装を整えていた。切断のナイフ2本、破壊のバット1本、魔弾銃1丁、守護のヘルメット3個、鉄壁の盾1枚、安らぎの香を全員が携帯。装備総額は8,000万円を超える。命を買うための投資だ。
「ここからが地下80メートル……」
神崎が周囲を見回した。
空気が変わっていた。それまでの中層とは明らかに違う。通路が広がり、天井が高くなっている。壁面は蟻の唾液で固められた独特の光沢を帯び、空気中のフェロモン濃度が桁違いに濃い。安らぎの香を焚いていても、意識の端が揺らぐ。甘い、脳の奥を直接刺すような匂い。呼吸するたびに身体の芯が熱くなる。
神崎の鼻腔が、その濃度の変化を正確に捉えていた。格闘家としての感覚——相手の呼吸、筋肉の緊張、重心の移動を読む訓練を10年以上積んでいる。その感覚がフェロモンで拡張され、空気中の微細な変化を嗅ぎ分けられるようになっていた。
「気をつけろ。ここにはエリート個体がいる」
仲間の一人——盾役の大柄な男、佐東が鉄壁の盾を構えた。指数20。限界値は推定24前後。地元では名を馳せていた喧嘩自慢の元建設作業員で、腕の太さは常人の倍近い。フェロモン強化がその体格にさらに上乗せされている。握力は350キロを超える。鉄壁の盾を構えてエリートの突進を受け止められる可能性がある——パーティで唯一、その役目を任せられる人間だ。
切断のナイフを握る女性、川瀬。指数19。元陸上自衛隊。退職後にダンジョンに入り、瞬く間に中層で活動するエリートになった。動きに無駄がなく、神崎が信頼するアタッカーだ。
魔弾銃を構える若い男、三島。指数18。元大学生。ダンジョンが出現した翌週に潜り始め、天性の索敵センスで頭角を現した。
後衛で安らぎの香と癒しの絆創膏を管理する年配の男、堀。指数20。元薬剤師。パーティの頭脳。装備の管理と撤退判断を担う。
5人で地下80メートル。——掲示板では「自殺行為」と呼ばれる構成だった。
エリート兵隊蟻と戦えるのは指数25以上。5人チームで命懸けの交戦が可能なのは指数20以上。指数18〜20のパーティが80メートルに足を踏み入れること自体が、常識的には無謀だ。
だが神崎は来た。仲間を連れて。
理由は単純だった。限界値22の自分がさらに強くなるには、ここにしかないものが必要だ。特濃フェロモン結晶。エリート兵隊蟻の体内にある、限界を突き破る鍵。
通路の奥から——振動が伝わってきた。
床を通じて。足裏に。
何か巨大なものが、動いている。
「来る」
神崎が囁いた。全員が位置についた。佐東が前衛で盾を構え、神崎が右側面、川瀬が左側面。三島が後方から魔弾銃の照準を合わせ、堀が最後尾で安らぎの香を追加で焚いた。
通路の奥から——巨大な影が現れた。
エリート兵隊蟻。
体長3メートル。通常の兵隊蟻とは比較にすらならない巨体。全身が金属のような光沢を放ち、6本の脚が床を踏むたびに、通路全体が震える。
掲示板の情報。高速カメラの映像。冒険者たちの断片的な証言。——それらで予習はしていた。だが実物を前にして、神崎の身体が本能的に強張った。
これは、別の生き物だ。
浅層の兵隊蟻とは次元が違う。中層のベテラン冒険者が束になっても勝てない。指数25以上——握力500キロ超、素手でコンクリート壁を粉砕できる人間が、ようやく1対1で互角になれる相手。
自分たちの指数は18〜20。足りない。圧倒的に足りない。
だが——退くつもりはなかった。
「予定通り。佐東が受け止めろ。三島は頭部の同じ箇所を撃ち続けろ。川瀬と俺で脚の関節を狙う。堀は離れてろ。死ぬな」
エリート兵隊蟻が突進してきた。
通常の兵隊蟻とは次元が違う速度。3メートルの巨体が小型車のように突っ込んでくる。床が震え、空気が唸った。
佐東が鉄壁の盾を正面に構えた。
衝撃。
盾の品質スコアは68。エリートの突進の衝撃を半減させる——はずだった。だが指数20の佐東が、3メートル以上押し戻された。両足が床の上を滑り、靴底が焦げるような摩擦音を立てた。腕の骨が軋む音。盾を構えた両腕が異常な角度に曲がりかけた。
「——ッ! 重い——!」
だが止めた。佐東の120キロの体重と、指数20の筋力が、辛うじてエリートの突進を受け止めた。歯を食いしばり、盾を押し返す。顔が真っ赤に染まり、額の血管が浮き出ている。
その隙に三島が魔弾銃を連射した。BB弾が鉄板を貫通する威力を持つ弾丸が、エリートの頭部——右の複眼の周辺に集中する。魔弾銃の追尾機能で弾がわずかにカーブし、同じ箇所に連続して命中した。
外骨格の表面にひびが入る——だが貫通しない。
「硬い——! ひびは入るけど抜けない!」
「構わない。同じ箇所を撃ち続けろ」
神崎が右側面から駆け込んだ。切断のナイフを握る手に、格闘家として磨き上げた技術が乗る。狙いは後脚の関節——外骨格の継ぎ目、最も防御が薄い部位。
ナイフが関節部に叩き込まれた。切断のナイフの品質スコアは47。中層の兵隊蟻なら一太刀で脚を断てる切れ味だ。
金属音。
外骨格に浅い傷がついた。だが——切断には至らない。刃が食い込んだが、蟻が動き続けているため、切り込みが深くなる前に傷口がずれてしまう。
「浅い——!」
神崎は二撃目を同じ箇所に叩き込んだ。格闘家の技術が活きた。一撃目で作った傷に、正確に刃を重ねる。コンマ数秒のタイミングで、同じ関節の同じ隙間に。
刃が1センチ食い込んだ。体液が滲み始めた。
三撃目——
エリート兵隊蟻が反応した。巨大な後脚が跳ね上がった。3メートルの巨体の脚力だ。神崎がとっさに横に飛んだが、脚の先端が左腕を掠めた。
衝撃で身体が回転した。壁に叩きつけられる。肋骨に鈍い痛み。
だが——折れていない。指数18の骨密度が衝撃を吸収した。一般人なら肋骨が粉砕されていた。
神崎が壁から身を起こした瞬間、エリート兵隊蟻が旋回した。佐東を振り払い、3メートルの巨体が神崎に向かって顎を開く。
速い。
フェロモン強化された神崎の反射神経でも、完全に回避しきれなかった。顎の先端が右肩を捉えた。
骨が軋む音。肉に顎が食い込む。外骨格の縁が刃物のように鋭く、筋繊維を引き裂きながら肩の奥深くに沈んだ。
「——ッ!」
痛みが全身を貫いた。視界が白く飛びかけた。だが——神崎は叫ばなかった。
格闘家の本能が、叫ぶ前に動いた。
左手のナイフが、顎の付け根——関節の隙間に突き刺さった。手首を返し、てこの原理で顎をこじ開ける。格闘技で鍛えた関節技の応用。人間の関節を極める技術を、蟻の顎に使う。
顎が僅かに開いた。肩から顎が抜ける。血が噴き出した。
同時に川瀬が左側面からエリートの前脚の関節に切断のナイフを叩き込んでいた。2連撃。3連撃。同じ箇所に集中する。
仲間たちが一斉に攻撃した。佐東が盾でエリートの頭部を殴りつけ、三島が魔弾銃のひびの箇所を撃ち続ける。
だがエリート兵隊蟻は怯まない。
前脚が川瀬を薙ぎ払った。川瀬の身体が吹き飛び、壁に激突した。守護のヘルメットが衝撃を吸収したが、頭が激しく揺れた。脳震盪。川瀬がその場に崩れ落ちた。
エリートの顎が再び開いた。今度は佐東に向かって——
その時。
通路の奥から、別の存在が現れた。
人間の形をしていた。身長180センチほどの男。全身の筋肉が異常なまでに発達し、血管が浮き出ている。
一見すると人間。だが——目に光がない。焦点が合っておらず、瞳孔が不自然に開いている。表情もない。人の顔をしているが、そこに人間の感情がない。口元が僅かに開き、涎のような液体が顎を伝っている。
そしてその男から——エリート兵隊蟻と同質の、濃密なフェロモンが放出されていた。
限界を突破し、人間性を失った者。ダンジョンのモンスターと化した元冒険者だ。
神崎の鼻腔が、その男のフェロモンの質を即座に嗅ぎ分けた。エリート兵隊蟻と同じ成分。だが——微かに人間の汗の匂いが混じっている。
人だった。つい最近まで。
男が、佐東に向かって動いた。
素手だった。武器を持っていない。だがその歩幅が異常だ。一歩で3メートルを詰める。指数30相当——素手でコンクリート壁を粉砕し、エリート兵隊蟻の外骨格を拳で砕ける領域の身体能力。
佐東が盾を構えた。
男の拳が盾に叩き込まれた。
鉄壁の盾——品質スコア68——が、内側に凹んだ。衝撃が盾を貫通し、佐東の両腕に伝わった。骨が軋む音。佐東が2メートル吹き飛ばされ、背中から壁に激突した。盾を握る手が震えている。指の感覚がない。
「化け物——!」
三島が魔弾銃で男を撃った。BB弾が男の肩に命中した。肉が裂け、血が飛び散った——だが男は痛みを無視した。視線すら動かさない。痛覚が消失している。
男が三島に向かって踏み込んだ。
神崎が割り込んだ。右肩の傷が裂けた。血が腕を伝う。だが——動ける。まだ動ける。
男の拳が来た。正面から。
神崎は拳を避けなかった。避けられない速度だと判った瞬間、身体を半回転させて衝撃を流した。格闘技の技術。正面で受ければ死ぬ一撃を、回転で威力を散らす。
それでも衝撃で3メートル飛ばされた。着地した左膝が床を砕いた。肋骨に亀裂が入った感覚。
堀が叫んだ。
「撤退——! 2正面は無理だ!」
佐東が盾を床に叩きつけた。破壊のバットほどの威力はないが、鉄壁の盾の重量と指数20の筋力が、床面を陥没させ瓦礫を飛び散らせた。通路が部分的に塞がれる。
「走れ!」
堀が川瀬の腕を肩に回して引きずり起こした。三島が反対側から支える。川瀬は意識が朦朧としているが、脚は動く。
神崎は自力で立った。右肩から血が流れ続けている。骨まで達する裂傷だ。だが——脚は動く。肋骨の亀裂は呼吸を妨げるが、走れないほどではない。
後方から、エリート兵隊蟻が瓦礫を押しのける轟音と、元冒険者モンスターの重い足音が重なった。
走った。
指数18の脚力で、全力疾走。100メートル9秒台の速度。仲間たちも指数18以上——一般人の全力疾走を大きく上回る速度で暗い通路を駆け抜けた。
堀が走りながら予備の安らぎの香を背後に投げた。陶器の容器が床に砕け、濃い甘い香りが通路に充満した。エリート兵隊蟻の追跡が一瞬鈍った——フェロモンの急激な変化が、蟻の索敵を撹乱したのだ。
元冒険者モンスターは安らぎの香に反応しなかった。だが——追ってこなかった。テリトリーから離れたためか、あるいは興味を失ったのか。理由は分からない。
どれほど走ったか。
フェロモン濃度が薄まり始めた時、神崎は自分たちが中層——地下50メートル付近——まで戻っていることに気づいた。
5人全員が生きていた。
川瀬は脳震盪で足元がふらつき、三島と堀に支えられている。佐東は盾を握る両腕の感覚がまだ戻っていない。神崎の右肩は骨まで裂けているが、出血は既に鈍り始めていた。指数18の治癒速度だ。
5人のパーティは5人のまま帰ってきた。——それだけが、唯一の収穫だった。
黒木は、午前1時にアパートに戻った。
足立区の古いアパート。1Kの狭い部屋。ベッド、小さなテーブル、冷蔵庫。テーブルの上にはダンジョンから持ち帰ったアーティファクトが無造作に積まれている。壁際に破壊のバットと守護のヘルメットが立てかけてある。それ以外に生活感はない。カーテンは閉めっぱなしで、流し台には洗っていない皿が3日分溜まっている。
ベッドに横になった。だが眠れない。
全身が疼いている。
痛みではない。渇望だ。ダンジョンそのものを求めている。深層の濃密なフェロモンに満ちた空間を。蟻たちの蠢く音を。外骨格を砕く衝撃を。あの瞬間——拳がエリートの外骨格を粉砕した瞬間の、全身を駆け抜けた快感を。
限界突破後の指数26.3。素手でコンクリート壁を粉砕できる。暗闇で20メートル先が鮮明に見える。——かつての自分とは比較にならない身体だ。鉄火のメンバーだった頃の指数23でさえ化け物扱いされていたのに、今はその遥か上にいる。
だが——身体が強くなるほど、渇望も強くなる。
安らぎの香を焚いた。甘い香りが部屋に広がる。通常ならこれで渇望が和らぐ。
だが——香りがダンジョンのフェロモンの記憶を呼び起こすだけだった。かえって渇望が強まる。脳が比較してしまう。この薄い香りと、あの圧倒的な濃度のフェロモンの海を。安らぎの香は深層のフェロモンの1,000分の1にも満たない。子供の駄菓子を前にした大人のような気分だ。
黒木は安らぎの香の容器を掴み、壁に叩きつけた。陶器が砕け、香が一気に放出された。甘い匂いが部屋を満たす。——逆効果だった。渇望が一段と激しくなった。
頭を抱えた。
時計を見た。午前3時。帰宅から2時間。
窓の外。夜明け前の暗い空。ダンジョンの入口は徒歩20分。品川の管理入口を避けて、大田区の未管理入口を使えば、誰にも会わずに潜れる。今から行けば、空いているダンジョンを独占できる。
理性が警告していた。「休め。このペースで潜り続ければ危険だ」と。
3日連続で潜っている。前回は18時間連続。その前は14時間。体力は問題ない——限界突破後の身体は、異常な回復速度を持っている。だが精神が摩耗している。帰宅するたびに、自分が誰なのか思い出すのに時間がかかるようになっている。
鉄火の仲間たちの顔が浮かんだ。笹倉。長谷部。倉田。南。
限界突破した直後、笹倉が訊いた。「自我は——ちゃんとあるか」
あの時は笑って答えた。「俺は黒木健太だ。34歳。元自衛官。好きな食べ物はカレー」
今——同じ質問をされたら、すぐに答えられるだろうか。
名前は覚えている。年齢も。元自衛官だったことも。カレーの味も——
……カレーの味。
思い出そうとした。母親の作るカレー。じゃがいもが大きくて、人参が柔らかくて、ルーは市販の中辛で——
味が、思い出せない。
映像は浮かぶ。台所に立つ母の背中。鍋の湯気。テーブルに並んだ皿。——だが味だけが、記憶の底に沈んで掴めない。
黒木は、自分の手を見た。
限界突破前でもコンクリート壁に穴を開けられた手だ。今なら——鋼板を紙のように引き裂ける。この手で母親の肩を叩いたら、骨が砕ける。
「……少しだけ」
自分に言い聞かせた。声に抑揚がなかった。自分でも気づいていない。
「少しだけ潜って、すぐ戻る」
装備を手に取った。部屋を出た。
午前5時。
黒木は既に地下70メートルに到達していた。通常のパーティなら数時間かかる距離を、単独で1時間半。限界突破した身体能力が、到達時間を半分以下に短縮していた。途中の兵隊蟻は全て一撃で排除した。立ち止まる必要すらなかった。
兵隊蟻が襲いかかってきた。体長80センチの個体。中層の上位に出現するサイズだ。
黒木の拳が、蟻の頭部を粉砕した。
素手だった。破壊のバットは背中に括りつけたまま。拳が兵隊蟻の外骨格を蝋細工のように砕いた。衝撃で蟻の体液が飛散し、壁と天井に模様のように広がった。
拳の骨が軋む音がした。黒木自身の骨だ。外骨格の破片が皮膚を裂き、拳から血が滲んだ。通常なら激痛のはず。だが——気にならない。痛みの信号が脳に届いているが、それを「不快」と処理する回路が鈍くなっている。
そして——裂けた皮膚が、数分で塞がった。指を動かすと、もう痛みはない。驚異的な治癒速度。深い裂傷が翌日に塞がるレベル。拳の表皮が裂けた程度なら、数分で修復される。
次の兵隊蟻。顎が肩に食い込んだ。血が流れた。構わず蟻の頭部を掴み、握り潰した。外骨格が砕け、体液が指の間から溢れた。
肩の傷は、既に血が止まり始めていた。
「……もっと」
呟いた。声に抑揚がなかった。
「……もっと深く」
さらに深部へ。地下80メートル。エリート兵隊蟻が現れた。3メートルの巨体。——数日前、鉄火の5人がかりで命懸けで1体を倒した相手だ。
黒木は破壊のバットを抜いた。品質スコア62。指数26.3の膂力で振る。
エリートの頭部にバットが叩き込まれた。外骨格にひびが走った。2撃目。ひびが広がった。3撃目で頭部の外骨格が粉砕した。
単独で。3撃で。
鉄火の5人が1体を倒すのに、全員が負傷し、30分以上の死闘を要した相手を。
黒木はバットを背中に戻した。額に汗すらかいていなかった。
さらに深く。地下90メートル。
地下90メートルに到達した時——異変が起きた。
働き蟻が、黒木の前に現れた。体長15センチの小さな個体。通路の壁面を修復していた蟻だ。
黒木が身構えた——だが、働き蟻は攻撃してこなかった。
道を開けた。
黒木がその横を通り過ぎると、働き蟻の触角が黒木の脚に触れた。フェロモンを確認している。触角が脚の表面をなぞり、1秒ほどで離れた。
働き蟻は、黒木を「侵入者」と認識しなかった。
黒木の体内で生成されているフェロモンが、変質していた。限界突破した人間の身体は、特濃フェロモンの影響で根本的に作り変えられつつある。体内のフェロモン生成機構が、ダンジョンの蟻たちと同質のフェロモンを——ほぼ同じ組成で——産出し始めている。蟻にとって黒木は「仲間」のフェロモンを発する存在だった。
さらに深く進んだ。兵隊蟻が現れた。1メートル級の大型個体。——だがこちらも攻撃しない。触角で確認し、通過させた。
黒木の思考が、霞がかかったように曖昧になっていた。
自分が誰なのか。何をしているのか。なぜここにいるのか。——疑問はあるが、答えを求める意欲がない。母親のカレーの味は、もう思い出そうともしなかった。
代わりに、一つの確信だけがあった。
ここが、自分の居場所だ。
地上の狭いアパート。蛍光灯の白い光。流し台の汚れた皿。——あれは、他人の生活だ。自分の生活ではない。
暗闇の中に、別の人影があった。
かつて人間だった者たち。特濃フェロモンで限界を突破し、人間性を失い、ダンジョンの深層に住み着いた元冒険者たち。3人。男2人、女1人。全員が異常に発達した筋肉を持ち、体表面からフェロモンが滲み出ている。目に光がない。表情がない。
彼らは黒木を見つめていた。
敵意はなかった。
言葉は交わさなかった。互いのフェロモンを——触角のように——嗅ぎ合った。同質の匂い。同じ巣の仲間の匂い。
黒木健太という名前が、記憶の底に沈んでいった。
34歳。元自衛官。好きな食べ物は——
——何だったか。
今ここにいるのは——ダンジョンの深層を巡回し、侵入者を排除する存在。蟻たちと共生する、人の形をしたモンスターだった。
首相官邸。緊急閣僚会議。
六本木ヒルズ奪還作戦失敗から一週間ほど。内閣総理大臣の顔に深い疲労が刻まれていた。髪はまばらに乱れ、目の下の隈が濃い。数日で10歳は老けて見える。
閣僚席に、防衛大臣、厚生労働大臣、経済産業大臣、国家公安委員長、内閣官房長官、そして超常事態対策室の望月が並んでいた。
防衛大臣の斎藤が報告した。
「生還した自衛隊員45名の証言分析が完了しました。霧化する個体の能力について、以下が確認されています」
スクリーンに要約が表示された。
「霧化する個体ーー上位個体は、守護の護符を使用して恐らく日光への耐性を獲得しています。日中攻撃の優位性は大幅に低下しました」
「さらに、血液を固体化して武器を生成する能力が確認されています。剣、鞭などの形状に結晶化し、近接戦闘で圧倒的優位に立っています。報告にはなかった能力であり、敵の進化速度が我々の想定を上回っています」
「第二次奪還作戦の見通しは」
斎藤が首を横に振った。
「現状では成功の見込みは極めて低いと判断しています。特殊作戦群300名は日本が誇る最精鋭でした。それが90分で壊滅した。同等の戦力の再編成には最低3ヶ月。しかも——」
斎藤の声が沈んだ。
「敵側は前回の戦闘で精鋭隊員を取り込みました。部隊長クラスは撤退に成功しましたが、取り込まれた隊員は特殊作戦群の戦術訓練を受けた者ばかりです。次の作戦は、こちらの手の内を知る相手との戦いになります」
厚生労働大臣が別の報告をした。
「さらに深刻な問題があります。ダンジョンの状況です」
スクリーンが切り替わった。
ダンジョン関連統計(直近1週間/累計)
死亡者:127名(累計554名)
重傷者:342名(累計1,545名)
行方不明:89名(累計3,561名)
フェロモン中毒者:15,200名超(先週比+3,200名)
限界値到達推定者:1,000名超
特濃フェロモン使用推定者:23名
「特濃フェロモン使用者とは何か」
総理大臣が眉をひそめた。
「限界値を超えるために、深層の特殊個体——エリート兵隊蟻を倒して体内から特濃フェロモン結晶を入手し、摂取する者です。通常の冒険者を遥かに超える戦闘能力を獲得しますが——」
厚生労働大臣が資料をめくった。
「極めて危険な状態にあります。中毒症状が桁違いに悪化し、人格が変容する。4名が完全に人間性を失い、ダンジョン深層に住み着いてモンスター化したことが確認されています」
「つまり、ダンジョンの中に——元人間のモンスターがいると」
「はい。彼らは蟻以上に危険です。フェロモン強化で超人的な身体能力を有し、なおかつ人間の格闘技術や知識を保持している。推定される身体能力は指数30相当——素手でコンクリート壁を粉砕するレベルです。先日、冒険者パーティが深層でこの元人間モンスターに遭遇し、2名が死亡しました」
総理大臣が目を閉じた。一瞬だけ。
「ダンジョンへの立入規制を強化する。地下50メートル以降は立入禁止とし、出入口に自衛隊を配置して——」
経済産業大臣が遮った。
「それは困難です」
「どういう意味だ」
「ダンジョンからのアーティファクト回収は、既に巨大な経済圏を形成しています。月間流通額は推定500億円超。冒険者の多くは生活のためにダンジョンに潜っています。しかも出入口は現時点で55箇所以上確認されており、増加傾向にある。すべてに人員を配置する余力は自衛隊にも警察にもありません」
「それに——アーティファクトは六本木の脅威への対抗手段でもあります。ダンジョンを封鎖すれば、その可能性も断つことになります。現に、敵が守護の護符でこちらの切り札——日光を——無効化したのは、アーティファクトの軍事的価値を証明しています。アーティファクトを使って敵に対抗する道を模索すべきです」
国家公安委員長が追加した。
「治安の観点からも封鎖は非現実的です。2万人以上の非公認冒険者が日常的にダンジョンに出入りしています。その多くがフェロモン中毒を抱えている。封鎖すればダンジョンへの帰還を渇望する中毒者1万5,000人が暴徒化する可能性があります。警察力では対処しきれません」
沈黙が落ちた。
「では、どうする」
誰も答えられなかった。
六本木ヒルズの脅威。拡大する徘徊者感染。増え続けるフェロモン中毒者。ダンジョン深層のモンスター化した元冒険者。アーティファクトの闇市場。国際社会からの圧力。東京からの人口流出。——すべてが同時に進行し、すべてが互いに絡み合い、どれか一つを解決しようとすれば別の問題が悪化する。
望月が口を開いた。
「一つ、ご報告があります。フェロモン強化度が異常に高い人物を確認しました。鑑定の鏡による計測値が30を超えています。詳細は追って正式にご報告しますが、この人物を中核にした対超常脅威の特殊部隊を編成できる可能性があります」
「特殊部隊? サンライズが失敗したばかりだぞ。通常の軍人では——」
「通常の軍人ではありません。フェロモンで超人化した兵士です。サンライズの300名とは質が根本的に異なります。——ただし、越えなければならない壁は多いです。中毒の影響も然り。適切な人員の編成然り。実戦投入まで最低でも数ヶ月単位の時間が必要なります」
総理大臣が、絞り出すように言った。
「……当面は、ダンジョン管理庁の設立を前倒しする。出入口の管理と冒険者の登録を一元化し、深層への立入を許可制にする。完全封鎖は現実的ではない——だが、無秩序に放置することもできない」
それが精一杯だった。
政府の対応が後手に回る中、民間では独自の動きが加速していた。
渋谷の雑居ビル3階。
「東京ダンジョン冒険者ギルド」——手書きの看板が掲げられた事務所に、30名ほどの冒険者が詰めかけていた。設立から10日で登録者は既に400名を超えている。
ギルドマスターを自称する田所勝。42歳。元大手商社の営業部長だったが、ダンジョン騒動の影響で取引先が壊滅し、部署ごと解散。退職金を元手に冒険者ギルドを立ち上げた。
田所自身のフェロモン指数は12。限界値は15。冒険者としては下だ。浅層の兵隊蟻と戦うのがやっと。だがそれ以上に、彼は組織運営と人心掌握の才能を持っていた。商社で培った交渉力、人脈構築力、そして——商機を嗅ぎ分ける嗅覚。
「諸君。政府の対応は遅すぎる」
田所がホワイトボードの前に立った。42歳の元営業部長は、姿勢がよく、声がよく通る。聴衆の目を一人ずつ見ながら話す。商社時代のプレゼン技術が、冒険者相手にも見事に機能していた。
「国家公認冒険者制度は2ヶ月待ち。アーティファクト取引規制法は施行されたが取り締まる人員がいない。ダンジョン管理庁は法律が通っただけで組織が立ち上がっていない。——つまり、我々を守ってくれる機関は、今のところ存在しない」
冒険者たちが頷いた。
「だからこそ、自分たちで組織を作る。このギルドの目的は3つだ」
「第一に——情報共有。ダンジョンの危険エリア、兵隊蟻の出現場所、効率的な攻略ルート。これらを会員間でリアルタイムに共有する。専用のチャットグループを既に作ってある」
「第二に——相互扶助。負傷した仲間の治療費補助。死亡した場合の遺族への見舞金。装備の貸し出しと共有。——冒険者は死と隣り合わせだ。保険に入れない以上、自分たちでセーフティネットを作る」
「第三に——アーティファクトの適正流通。政府の買取価格は市場価格の4分の1以下だ。魔剣包丁の市場価格が200万円なのに、政府の買取価格は50万円。あんな値段で手放す奴はいない。我々は独自の流通ネットワークを構築し、適正な価格で売買する」
冒険者の一人が手を挙げた。
「それ、アーティファクト取引規制法に引っかかるんじゃないか? 個人間売買は——」
「法律は施行されている。だが取り締まりが機能していない。警察は六本木ヒルズの封鎖と徘徊者対応で手一杯。ダンジョン周辺のフリーマーケットも事実上野放しだ。——我々がやっているのは、既に存在している市場を組織化するだけだ」
別の冒険者が懸念を口にした。
「闇市場の連中——密売組織やヤクザとバッティングしないか?」
「だからこそ先に組織化する」
田所の声が低くなった。
「バラバラの個人では、組織犯罪に対抗できない。だがギルドとして団結すれば——交渉力が生まれる。排除もできるし、必要なら住み分けもできる」
冒険者たちの間に、微妙な空気が流れた。「住み分け」という言葉の含意を嗅ぎ取った者もいたはずだ。
「会費は月額1万円。その代わり、情報アクセス、装備の貸し出し、治療費補助、そして——ギルドの名前で動ける信用。フリーの冒険者より、ギルド所属の方がパーティを組みやすいし、装備の調達もスムーズになる」
用紙が回された。次々と冒険者たちが記入していく。
田所は満足そうに頷いた。だがその目の奥には、別の計算が走っていた。
400名の会費だけで月400万円。だがそれは入口に過ぎない。アーティファクトの流通手数料——売買額の10パーセントを仲介料として徴収する。月間流通額500億円の市場で、ギルドが仲介するのは最初は数パーセントだろう。だがシェアを拡大すれば——。装備のレンタル料。深層攻略のガイド料。情報の販売。保険制度の運営。冒険者経済の中核に座れば、利益は青天井だ。
冒険者たちの安全と相互扶助は、田所にとって「商品」だった。需要があり、供給者がいない。だから自分が供給する。——それが田所の発想だった。善意が1割、野心が9割。だがその比率を悟られない限り、ギルドは機能する。
そして田所は、いずれ政府がダンジョン管理庁を立ち上げることも、冒険者の登録制度を整備することも予測していた。その時——既に組織化されたギルドが、政府の受け皿として不可欠な存在になっている。冒険者の声を代弁する団体として。アーティファクトの流通を管理する実務機関として。
政府がギルドを潰すことはできない。なぜなら、ギルドを潰せば2万人の冒険者が再び無秩序に戻る。政府はギルドと共存するしかない。
田所は、その未来図を既に描いていた。
神崎遥は、大田区のカプセルホテルにいた。
病院には行かなかった。保険証がない。地下格闘技で生きてきた人間に、正規の医療へのアクセスはほとんどない。
右肩の傷は——骨まで達する裂傷だったが、24時間で傷口が塞がり始めていた。フェロモン指数18の治癒速度。一般人の4〜5倍。肋骨のひびは1週間で治る。骨まで裂けた肩の傷も、2週間あればふさがるだろう。
だが——2週間は待てない。
カプセルの薄い布団に横たわり、天井を見つめていた。灰色のプラスチック。蛍光灯の微かな唸り。
地上の空気は——薄い。
何度も、ダンジョンに戻ろうとした。足がカプセルの端に向かい、靴に手が伸びる。そのたびに歯を食いしばり、動きを止めた。
格闘技の試合前と同じだ。恐怖を制御する技術は持っている。リングに上がる前の震えを、呼吸で抑える方法を知っている。だがこれは恐怖ではない。渇望だ。身体の細胞一つ一つがダンジョンのフェロモンを求めている。渇望を制御する方法を、神崎はまだ知らない。
だが——制御できている。かろうじて。
父の顔が浮かんだ。神崎凱。巖道無双流の高弟だった男。だが正道を歩まなかった。地下格闘技の世界に入り、そこで死んだ。37歳だった。神崎は15歳で父を失い、父が残した借金と、父が教えてくれた拳だけを受け継いだ。
父もこうだったのだろうか。強さを追い求め、止まれなくなった人間。リングの上で命を賭け続け、最後は賭けに負けた人間。
スマホで掲示板を開いた。
278:名無しの冒険者
特濃フェロモンで限界突破したらどのくらい強くなるの?
301:名無しの冒険者
実例が少ないからはっきりとは言えないが、推定で限界値の1.5倍近くなるんじゃないかって言われてる。
限界値20の奴が突破したら30並みになるって話。
素手で兵隊蟻を殴り殺せるレベル。
もう人間の範疇じゃない。
323:名無しの冒険者
でも代償がでかすぎる。
中毒が桁違いに悪化する。安らぎの香でも抑えきれない。
休まずに潜り続けると精神が壊れてモンスターになる。
345:名無しの冒険者
実際にまともに生活できてる限界突破者、いるのか?
367:名無しの冒険者
>>345
聞いたことない。
みんな最初は「自分は大丈夫」って言うけど、
結局ダンジョンに依存して、最後は戻ってこなくなる。
神崎はスマホを枕元に置いた。
あのエリート兵隊蟻。あの元冒険者モンスター。
指数18の自分では歯が立たなかった。切断のナイフでさえ外骨格に浅い傷しかつけられなかった。仲間たちは——全員生きて帰れたが、次もそうとは限らない。もう一度同じ状況になれば、誰かが死ぬ。
特濃フェロモンを使えば——あの元冒険者モンスターのレベルに到達できるのか。限界値22の自分が突破すれば、指数30並みになる。握力は通常の計器では計測不能。素手でエリートの外骨格を粉砕できる。
リスクは理解している。掲示板の書き込みだけではない。80メートルで見たあの男——目に光のない、人間の形をした化け物。あれが、限界突破の行き着く先だ。
だが——弱いまま生きていくことが、神崎には耐えられなかった。
弱さは、彼女にとって死よりも怖いものだった。地下格闘技のリングで、負けることは——すべてを失うことだった。賞金。居場所。自分が自分であるための、たった一つの証明。
父もそうだった。勝ち続けることでしか、自分を証明できなかった。
神崎はカプセルの天井を見つめたまま、夜を明かした。
眠れなかった。目を閉じるとダンジョンが見える。フェロモンの甘い記憶が脳を満たす。目を開ければ——灰色のプラスチックの天井。
明け方。
傷はまだ完全には塞がっていない。だが——耐えられる。
もう一度、地下80メートルに挑む。今度こそエリート兵隊蟻を倒す。特濃フェロモン結晶を手に入れる。
靴を履いた。
カプセルホテルを出た。
まだ傷が塞がりきっていない肩を庇いながら、夜明け前の街を歩いた。ダンジョンの入口へ向かって。
掲示板は、加速する危機を映し続けていた。
東京ダンジョン攻略スレ Part 68
567:名無しの冒険者
限界突破者が増えてるらしい。
589:名無しの冒険者
推定50人超えたって情報。みんな地下80m以降に潜ってる。
612:名無しの冒険者
50人……そいつら全員、いずれモンスター化するのか。
634:名無しの冒険者
全員じゃないだろ。
ちゃんと休養取って安らぎの香使ってれば。
656:名無しの冒険者
>>634
甘い。特濃フェロモンの中毒はそんなレベルじゃない。
安らぎの香がかえって逆効果になるって報告もある。
ダンジョンのフェロモンを思い出して渇望が強まるらしい。
678:名無しの冒険者
実際、限界突破してまともに生活できてる奴、一人も聞かない。
701:名無しの冒険者
みんな最初は「自分は大丈夫」って思うんだよ。
でも結局ダンジョンに依存して、
潜る頻度が上がって、帰ってくる間隔が短くなって、
最後は帰ってこなくなる。
723:名無しの冒険者
もう深層は元人間のモンスターだらけなんじゃないか。
地下80m以降は蟻より人間の方が危険って話もある。
745:名無しの冒険者
政府は何してるんだ。こんな状況放置して。
767:名無しの冒険者
>>745
政府も手一杯だ。六本木ヒルズの連中、グール感染、フェロモン中毒、
アーティファクト犯罪、国際圧力——全部同時に対処できるわけない。
789:名無しの冒険者
まとめると。
・限界突破者が推定50人以上
・うち少なくとも4人がモンスター化確認
・残りもいずれモンスター化する可能性が高い
・深層はエリート兵隊蟻+元人間モンスターの二重の脅威
・政府は対応不能
・ダンジョン管理庁はまだ稼働していない
812:名無しの冒険者
もう東京は終わりだよ。
逃げられる奴は逃げた方がいい。
834:名無しの冒険者
>>812
逃げてどうする。ダンジョンの出入口は東京に55箇所以上。
まだ増えてる。東京だけの問題じゃなくなるのは時間の問題だ。




