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血を与えたら進化しすぎた件~世に出回るアーティファクトも東京に出来たダンジョンも多分俺のせいだけど面白いからいいよね~  作者: 唯之助


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25/53

第22話「亀裂(前編)」

 六本木ヒルズ奪還作戦の失敗が報じられてから、日本中のSNSが炎上した。



 @tokyo_citizen_2026

 政府は何をしてるんだ。

 300人の精鋭が壊滅って。東京はもう終わりだろ。引っ越す準備始めた


 @news_junkie_45

 六本木ヒルズの吸血鬼。ダンジョンの蟻。グール感染症。フェロモン中毒。

 全部同時に来てる。パンデミックどころじゃない


 @military_analyst_jp

 特殊作戦群300名の生還率15%。

 火炎放射器はワーウルフに有効だったが、「霧化」する個体に完全に無力。

 霧になる相手に通常兵器でどう対処する? 人類はまだ答えを持っていない


 @scared_mother

 子供を連れて大阪に避難します。東京にはもういられない


 @conspiracy_777

 これ絶対繋がってる。ダンジョンも吸血鬼も。

 しかも吸血鬼がダンジョン産の護符を使ってたってマジ?

 偶然じゃないだろ。確実に誰かが仕組んでる



 トレンドは「#東京脱出」「#政府無能」「#吸血鬼戦争」「#サンライズ失敗」で埋め尽くされた。



 主要ターミナル駅は、避難する人々で溢れかえった。


 新幹線のホームには大きな荷物を抱えた家族連れが列を成し、子供を抱いた母親、不安そうな老人、スーツケースを引く若者たちが改札口に殺到していた。


 東京駅。新幹線ホーム。午後3時。


 田村健一が、妻と2人の子供を連れて列に並んでいた。


 40歳。中堅の物流会社に勤めている——いや、勤めていた。東京の混乱で取引先が壊滅し、先週、全社員に一時帰休が言い渡された。退職金はない。給与は来月分まで。貯金は妻子の避難費用で消える計算だ。


「パパ、本当に大阪に行くの?」


 8歳の娘が尋ねた。


「ああ。東京は、今は安全じゃないんだ」


「でも、学校は? 友達は?」


「大阪で新しい学校に入る。友達も、また作れるさ」


 妻が小声で話しかけた。


「お父さんも一緒に来て」


 田村は答えられなかった。


 大阪に行っても、仕事がない。妻の実家に一家4人が転がり込めば、義母に負担をかける。東京に残れば——何か、稼ぐ手段があるかもしれない。ダンジョンとかいう地下の穴から、値がつく物を持ち帰っている人間がいるらしい。ニュースで見た。


 それが現実的な選択肢かどうか、今の田村には判断がつかなかった。


「……まず、お前たちだけ先に行け。俺は——少し、こっちで片付けることがある」


 妻の目に不安が浮かんだ。だが田村の表情を見て、何も言わなかった。


 田村は新幹線の列を見つめた。こんなに混んでいるのは初めて見る。通常の3倍以上の人が押し寄せている。


 全てが同時に来ている。ダンジョン、吸血鬼、グール。そしてフェロモン中毒。この街が「普通の都市」だった時代は終わっている。


 統計によれば、奪還作戦失敗後の48時間で約15万人が東京から避難した。その数は日を追うごとに加速している。


 政府は「東京は安全です。封鎖線は維持されています」と繰り返し発表したが、もう誰も信じていなかった。



     



 アメリカ。ホワイトハウス。


 大統領が国家安全保障会議のメンバーを集めていた。モニターには六本木ヒルズの衛星写真が映されている。


「日本の作戦が失敗した。300名の精鋭部隊が壊滅。これは我々にとっても看過できない事態だ」


 国防長官が報告書を開いた。


「生還者からの情報を総合すると、敵の能力は次の通りです」


 スクリーンに表示された。



 ・身体能力:人間の数倍以上(正確な数値は不明)

 ・霧化能力:あらゆる物理攻撃を無効化。少なくとも4体が確認

 ・血液を固体化して武器を生成する能力(奪還作戦時に初確認)

 ・再生能力:銃創が数秒で治癒

 ・人間の吸血鬼化・徘徊者化能力:噛みつきによる接触感染

 ・日光への耐性:ダンジョン産アーティファクトにより強化



「日光への耐性——アーティファクトによるものか」


「生還者の証言では、吸血鬼が首から護符を下げていたと。日本のダンジョンから産出される『守護の護符』と呼ばれるアーティファクトです。吸血鬼の弱点と思われる日光を無効化していたと推定されます」


「つまり、伝承にあるような弱点は通用しない」


「少なくとも護符を持つ個体に対しては、そう考えるべきです」


 CIA長官が口を開いた。


「我々が最も懸念しているのは、この脅威が日本国内に留まらない可能性です。吸血鬼は人間を同種に転化させる能力を持つ。もし転化された人間が国外に出れば——世界中に拡散する恐れがあります」


「日本からの全航空便を厳重検査しろ。吸血鬼や徘徊者の疑いがある者は入国を拒否する」


「了解しました」


 国防長官が別の提案をした。


「在日米軍に緊急事態対応の準備を指示します。最悪の場合、日本政府が機能不全に陥る可能性がある。その際——」


「承認する。だが日本政府の主権は尊重しろ。あくまで支援だ。自衛隊との合同作戦という形にしろ」



 中国。中南海。


 政治局常務委員会で、総書記が日本の状況報告を聞いていた。


「日本の失敗は、我々にとって貴重な情報だ」


 国家安全部長が資料を提示した。


「吸血鬼の戦闘能力は従来の軍事力では対処困難です。火炎放射器がワーウルフに対して一定の効果を示しましたが、霧化する個体には無力でした」


「対策は」


「複数の手段を検討しています。第一にサーモバリック弾頭による広範囲焼却。第二に化学兵器による攻撃。第三に——」


 部長が別のページを開いた。


「ダンジョンから回収されるアーティファクトの軍事利用です。日本のダンジョンから産出される武器型アーティファクト——魔弾銃、破壊のバット、切断のナイフなどは、通常兵器を凌駕する性能を持ちます。大量に入手し、研究、兵器転用ができれば吸血鬼への対抗手段になり得る」


「日本からのアーティファクト調達ルートを確立しろ。正規の外交ルートと、非公式のルートの両方だ」


「了解しました。非公式ルートについては——日本国内の仲介業者との接触を開始しています」



 国連安全保障理事会。緊急会合。


 日本の国連大使が、各国代表の前で状況を説明していた。


「六本木ヒルズには推定30体以上の吸血鬼と、400体以上の徘徊者が潜伏しています。吸血鬼は日々、戦力を増強しています」


 イギリス代表が発言した。


「我が国はSASの派遣を申し出る。未知の敵に対処するには国際協力が不可欠だ」


 日本大使が苦渋の表情で答えた。


「ご厚意に感謝します。しかしこれは日本国内の問題です。外国軍の介入は——」


「では対処できるのか」


 中国代表が遮った。


「前回の作戦は完全な敗北だった。日本は国際社会の支援を拒否するつもりか。ならば事態が悪化した責任は日本にある」


 日本大使は反論できなかった。


 だが——外国軍を国内に入れれば主権の問題になる。特にアーティファクトの管理権を巡って各国の思惑が絡む。支援の名目でアーティファクトを持ち出される危険もある。


「……検討いたします」


 日本大使はそう答えるのが精一杯だった。



     



 国際社会の圧力が高まる一方で、日本国内ではダンジョンという「もう一つの戦線」が独自の進化を続けていた。


 六本木ヒルズが連日報道される陰で——ダンジョンの深部では、ごく少数の人間だけが辿り着ける領域で、別種の危機が静かに進行していた。



 ダンジョン深部。地下78メートル。


 この深度に到達できる冒険者は、現状、日本にほとんどいない。


 ダンジョンには正規の冒険者だけでも2,000名近くが登録し、非公認のもぐりを含めれば2万人以上が日常的に潜っている。だがその大半は地下30メートルまでの浅層を行き来する者たちだ。中層——30メートルから60メートル——に常駐できるのは全体の1割にも満たない。そしてその先、60メートルを超える深層に足を踏み入れた経験がある者は——2万人の冒険者の中で100人いるかどうかだった。


 深層は別世界だ。


 兵隊蟻の体長が1メートルを超え、外骨格の硬度が桁違いに上がる。顎の噛合力は自動車のフレームを容易く折り曲げる。通路の幅は狭まり、天井は低くなり、壁面は蟻の唾液で固められた独特の光沢を帯びる。空気中のフェロモン濃度が濃く、安らぎの香を焚き、護符を身に付けなければ重度の中毒症状を引き起こす。


 そして——兵隊蟻の挙動が変わる。浅層の蟻は正面から突っ込んでくるだけだが、深層の蟻は連携する。2体、3体で挟撃してくる。退路を断つように回り込む。知性ではない。だが群体としての戦術が、浅層とは根本的に違う。


 この領域を進んでいたのは、5名のパーティだった。


 冒険者コミュニティで「鉄火」と呼ばれるチーム。メンバー全員のフェロモン指数が20以上——深層の入口に足を踏み入れられる、冒険者の最上位層だ。


 リーダーの黒木健太。34歳。元陸上自衛隊普通科連隊。3年前に退役し、ダンジョンが出現した直後から潜り始めた。当初は浅層で苦戦していたが、フェロモンによる強化が進むにつれて深度を伸ばし、今では70メートル以深を主戦場としている。


 フェロモン指数23。限界値24。——指数20を超える冒険者は、2万人の中でも上位数パーセント。23という数字は、深層に日常的に潜れる人間の最前線を意味する。


 黒木の身体は一見すると引き締まった筋肉質だが、動きの質が常人と明らかに異なる。反応速度が異常に速く、重い装備を背負っていても猫のように軽やかに動く。暗所での視認能力が上がっている。微かな空気の流れで前方の蟻の位置が分かる。フェロモンによる強化が、彼の感覚器官を常人の域から大きく引き上げていた。


 装備は破壊のバット(品質スコア62)、守護のヘルメット(品質スコア58)、鉄壁の盾(品質スコア71)。首からは安らぎの香が下がっている。護符も装備済である。すべて深層で回収した高品質品だ。総額にして5000万円以上。命と引き換えに手に入れた装備が、黒木の生命線だった。


 仲間4名も同等クラスの冒険者だ。


 笹倉——指数22。タンク役。鉄壁の盾(品質スコア68)と守護のヘルメットで前衛を張る。元格闘家。鍛え上げた体幹とフェロモン強化が合わさり、兵隊蟻の突進を正面から受け止められる数少ない人間。


 長谷部——指数21。アタッカー。魔剣包丁(品質スコア52)と切断のナイフの二刀流。刃物の扱いに天性のセンスがあり、兵隊蟻の外骨格の継ぎ目——関節部の隙間を正確に突く。


 倉田——指数22。遊撃。魔弾銃(品質スコア65)を主武装とし、切断のナイフをサブウェポンに。索敵と撤退判断を担当。


 南——指数21。サポート。安らぎの香の管理、癒しの絆創膏による応急処置、卓越した感覚による環境分析、後方支援を担当。パーティの頭脳であり、命綱。


5人全員がフェロモン指数20以上。この数字がどれほど異常か——ダンジョン外の人間には想像もつかない。指数15に到達した冒険者でさえ、中層のベテランとして一目置かれる。20を超えるということは、その更に上。常人の握力が50キロ前後なのに対し、指数23の黒木は片手で軽く400キロを越える。100メートル走は全力を出さずとも世界記録を容易く超え、また、その速さで長時間駆け抜けるだけの持久力もある。暗闘で15メートル先の蟻の動きが見える。素手でコンクリート壁に穴を開け、自動車のドアを蹴りで破壊する。


 それでも——地下80メートルは、彼らにとって「命懸け」の領域だった。エリート兵隊蟻と余裕を持って渡り合えるのは指数25以上が必要とされる。「鉄火」の面々は全員がその域に達していない。5人が完璧に連携して、初めて勝負になる。1つのミスが即死を意味する。


「前方、反応あり」


 倉田が囁いた。通路の先から、微かな振動が伝わってきている。床を通じて——何か巨大なものが、動いている。


「サイズは」


「通常の兵隊蟻じゃない。——デカい。3メートル級」


 全員の表情が引き締まった。


 エリート兵隊蟻。


 80メートル以深に出現する特殊個体。掲示板では名前だけが一人歩きしているが、実際に交戦した経験がある冒険者は、日本中探しても数えられる程度だ。「鉄火」はその数少ない経験者だった——数日前に1体と遭遇し、全員が重傷を負いながら辛うじて撤退している。


 今日は、あの時のリベンジだ。


「黒木、俺の限界値、もう天井だ」


 笹倉が低い声で言った。


「指数22で頭打ち。——どれだけ潜っても、これ以上は上がらない。でもエリートを倒さなきゃ、この先には進めない。お前もだろ」


「ああ」


 黒木は頷いた。彼もまた、天井に近づいていた。指数23、限界値24。あと1ポイント分の成長余地しかない。


 冒険者コミュニティで囁かれている話がある。エリート兵隊蟻を倒すと、体内から特殊なフェロモンの結晶が取れる。「特濃フェロモン結晶」。それを摂取すれば、限界値そのものを引き上げられる。限界の壁を、力ずくで突き破れる。


 ただしリスクがある。中毒が桁違いに悪化する。安らぎの香でも護符でも抑えきれないレベルに跳ね上がる。最悪の場合——人間の自我が失われ、ダンジョンの深部に住み着くモンスターになる。


 掲示板では「限界突破」と呼ばれている。強さの壁を超える唯一の方法であり——人間を辞める最短ルートでもある。


「行くぞ」


 黒木が先頭に立った。通路が広がり、巨大な空洞が開けた。


 天井は10メートル以上。広さは体育館ほど。壁面に薄く発光する紋様が刻まれ、空気中のフェロモン濃度が桁違いに跳ね上がった。安らぎの香を焚いていても意識が揺らぐ。南が予備の香を追加で焚いた。


 空洞の中央に——それがいた。


 エリート兵隊蟻。


 体長3メートル。通常の兵隊蟻の3倍。全身が金属のような光沢を放ち、外骨格の表面に複雑な紋様が刻まれて微かに発光している。触角から濃密なフェロモンが霧のように放出され、空間全体を満たしていた。


 2週間前に遭遇した個体と同じか、別の個体かは分からない。だが規格は同じだ。——あの時は撤退した。今日は違う。


「笹倉、正面。長谷部、右から回り込め。倉田、左の死角を取れ。南は後方で香と絆創膏の準備」


 全員が散開した。


 エリート兵隊蟻が反応した。触角が黒木たちの方向を向く。巨大な顎がゆっくりと開き——


 突進。


 通常の兵隊蟻とは次元が違う速度。3メートルの巨体が小型車のように突っ込んでくる。床が震え、空気が唸った。


 笹倉が鉄壁の盾を構えて正面で受けた。


 衝撃。


 笹倉の両足が床の上を滑った。品質スコア68の盾が衝撃を半減させてもなお、指数22の笹倉が3メートル後退させられた。腕の骨が軋む音がした。


「——ッ! 重い……!」


 だが止めた。笹倉が歯を食いしばり、盾を押し返す。


 その隙に長谷部が右側面から魔剣包丁を振り下ろした。品質スコア52の刃が、エリート兵隊蟻の後脚の関節部に叩き込まれた。


 ——弾かれた。


 外骨格に傷はついたが、切断には至らない。通常の兵隊蟻の関節なら確実に切れる品質の魔剣包丁が、エリートの外骨格には歯が立たない。


「硬い——! 前と同じだ!」


 長谷部が叫んだ。


 エリート兵隊蟻が後脚で地面を蹴り、旋回した。3メートルの巨体が回転し、長谷部に向かって顎を開く。長谷部が跳び退いた——が、顎の先端が左腕を掠めた。肉が裂ける。防護具ごと、深さ2センチの裂傷。


「長谷部!」


「大丈夫だ、まだ動ける!」


 倉田が左の死角から魔弾銃を連射した。BB弾がエリートの頭部に集中する。品質スコア65の弾丸が外骨格に食い込み、ひびを入れる——だが貫通しない。魔弾銃の追尾機能で弾がわずかにカーブし、同じ箇所に連続して命中するが、それでも外骨格を抜けない。


「魔弾銃じゃ無理だ! 表面のひびを広げるのが精一杯!」


「十分だ! ひびの位置を教えろ!」


 黒木が叫んだ。


「右の複眼の下! 3発入った!」


 黒木が破壊のバットを握り直した。品質スコア62。フェロモン指数23の膂力で振る。——通常の兵隊蟻の外骨格なら一撃で粉砕できる威力だ。


 だがエリートは通常の蟻の延長線上にいない。別の生き物だ。


 黒木はエリートの正面を避け、笹倉が盾で押さえている間に側面に回り込んだ。倉田が魔弾銃で作ったひび——右複眼の下の損傷箇所に、バットの先端を正確に叩き込む。


 衝撃が腕を駆け上がった。外骨格のひびが広がる——だがまだ砕けない。


 エリートが頭部を振った。3メートルの巨体の頭突きだ。黒木が盾で受けたが、衝撃で2メートル吹き飛ばされた。背中が壁に激突し、息が詰まる。


 長谷部が再び魔剣包丁で斬りかかった。今度は前脚の関節を狙う。刃が関節の隙間に食い込み——半ばまで入った。エリートが苦痛に身体を痙攣させ、前脚を振り上げた。長谷部が刃を抜く間もなく、前脚に振り回されて壁に叩きつけられた。


「長谷部——!」


 南が駆け寄り、癒しの絆創膏を長谷部の胸に貼った。肋骨が折れている。長谷部が苦痛に顔を歪めたが、絆創膏の治癒効果が即座に発動した。骨がゆっくりと戻り始める——だが戦闘復帰には時間がかかる。


 4人が3人になった。


 笹倉が盾でエリートの注意を引き続ける。倉田が魔弾銃でひびのある箇所を撃ち続ける。そして黒木が——


 バットを振り上げた。


 フェロモン指数23の全身の筋力を、バットの先端に集中させた。コンクリートの壁に叩き込めば粉砕できる一撃。


 倉田の弾丸が作ったひびの、まさにその中心に——叩き込んだ。


 外骨格が砕けた。


 深い亀裂が走り、体液が噴き出した。エリートが痙攣し、顎を大きく開いて——笹倉の盾に最後の突撃を仕掛けた。笹倉が全体重を盾に預けて受け止める。エリートの動きが鈍った。


 黒木が二撃目を同じ箇所に叩き込んだ。


 三撃目。


 頭部の外骨格が完全に粉砕した。体液と内容物が飛び散り、3メートルの巨体が痙攣しながら倒れた。空洞全体が揺れた。


 沈黙。


 5人のうち、立っているのは3人。長谷部は壁際で南の治療を受けている。笹倉は盾を下ろし、膝をついた。腕が震えている。


「……倒した」


 倉田が荒い息で呟いた。


「鉄火」は日本のダンジョン冒険者の中でもトップクラスのパーティだ。指数20以上が5人。装備総額1億円以上。——その5人がかりで、重傷者1名を出して、ようやく1体を仕留めた。


 これがエリート兵隊蟻だ。浅層で兵隊蟻を狩っている一般の冒険者とは、文字通り別の世界の話だった。


 黒木がエリートの遺骸に近づいた。切断のナイフで外骨格を慎重に剥がしていく。


 体内に——半透明の結晶が見つかった。拳大。深紅色の液体で満たされ、結晶の表面から濃密なフェロモンが滲み出している。近づくだけで鼻腔を刺激する。安らぎの香を焚いているのに、脳の奥が痺れるような感覚。


 特濃フェロモン結晶。


「黒木——」


 笹倉が声をかけた。


「本当にやるのか。掲示板で何て書かれてるか知ってるだろ。限界突破した奴が——人間じゃなくなっていくって」


 黒木は結晶を見つめた。


「数人がモンスター化した。それは知ってる。——でも全員がそうなるわけじゃない。まだ踏みとどまってる奴もいる」


「でも確率が——」


「このままじゃ吸血鬼には勝てない。ワーウルフにも。指数23の俺がバットで殴っても——あの化け物たちは止められない。もっと強くならなきゃ、人間はずっと負け続ける」


 笹倉は反論しなかった。黒木の言葉に反論できる材料がなかったからだ。


 六本木ヒルズで300名の特殊作戦群が壊滅した。通常の軍事力では吸血鬼に勝てない。だがフェロモンで強化された人間なら——アーティファクトで武装した、人間を超えた戦士なら——あるいは。


 その「あるいは」に賭けるために、黒木はここにいる。


 黒木が結晶を割った。深紅の液体が手のひらに広がる。


 口に含んだ。


 全身が熱くなった。


 血液が沸騰するような感覚。心臓が激しく鼓動し、全身の血管が脈打つ。筋肉の繊維が内側から再編成されていくような——骨が軋み、腱が張り、視界が白く飛ぶ。


 だが——苦痛ではなかった。快感に近い。限界だと思っていた壁が、音を立てて崩れていく。天井に貼り付いていた何かが剥がれ落ち、その向こうに広い空が見える。


 5分後。


 黒木の身体が落ち着いた。


 自分の手を握り締めた。空気が軋む音がした。指の力だけで——空気が。


 明らかに以前とは違う。筋力が爆発的に向上している。視界が鮮明になり、聴覚も研ぎ澄まされ、空洞の向こう側にいる蟻の足音まで聞こえる。暗闘の中の微細な気流が、肌の上を文字のように流れていく。


 南が鑑定の鏡で黒木を映した。鏡面に浮かぶ数字が——


「……26.3。限界値——表示なし」


 南の声が震えた。


「黒木、お前の限界値が——消えてる。表示されない。今まで『23(24)』だったのが、『26.3(——)』になってる。限界値の欄が空白だ」


「限界が……なくなった?」


 倉田が呟いた。


「分からない。鑑定の鏡が表示できないだけかもしれない。でも——数値は確実に限界値の24を超えてる。26.3。一気に3ポイント以上跳ね上がってる。指数25以上って——エリートと正面から戦える領域だ」


 黒木は自分の手を見た。限界突破前でもコンクリート壁に穴を開けられた手だ。今なら——鋼板を素手で貫通できるかもしれない。


「黒木」


 笹倉が真剣な目で黒木を見ていた。


「——何か変わったか。自分の中で。自我は——ちゃんとあるか」


 黒木は少し考えて、笑った。


「ある。——俺は黒木健太だ。34歳。元自衛官。好きな食べ物はカレー。——大丈夫だ、笹倉。俺はまだ、人間だ」


 笹倉が息を吐いた。


 だが——黒木自身が気づいていない変化を、仲間たちは感じていた。黒木の瞳の焦点が、ほんの僅かだがぼやけている。まるで——この空洞の先、ダンジョンの更に奥に、何かを見ているように。


 それが何なのかは、まだ誰にも分からなかった。



     



 掲示板では、フェロモン強化の限界と限界突破が最大の話題になっていた。



 東京ダンジョン攻略スレ Part 67 ——フェロモン限界値と限界突破



 345:名無しの冒険者

 重大報告。フェロモン強化には個人ごとの限界値がある。


 367:名無しの冒険者

 >>345

 詳しく。


 389:名無しの冒険者

 鑑定の鏡で自分を映した時の数値。

 ある一定以上になると、どれだけフェロモン吸っても上がらなくなる。

 体力テストの結果も同じポイントで頭打ちになる。

 コミュニティで集計した結果、個人差はあるが大半の冒険者は15~20ちょいの範囲に収まる。


 412:名無しの冒険者

 俺、鑑定の鏡の数値がもうしばらく変わってない。

 体力テストも横ばい。これが限界値か。


 434:名無しの冒険者

 限界値は人によって全然違う。

 俺は18でまだ上がってるけど、仲間は15で止まった。

 15で止まった奴はかなりキツそう。もう深く潜れないのに中毒だけ残ってる。


 456:名無しの冒険者

 限界値30近い奴がいるって噂。

 素手でヒグマを玩具みたいに扱えるらしい。


 478:名無しの冒険者

 >>456

 いるにはいるけど片手で数えるくらいだろ。

 そもそも指数20超えの時点で「化け物」扱いされてるのに。


 501:名無しの冒険者

 限界に達したらどうなるの。死ぬの?


 523:名無しの冒険者

 死にはしない。それ以上強くなれないだけ。

 でも中毒症状は残る。ダンジョンに潜りたい衝動は消えない。

 強くならないのに中毒だけ残る。そこで初めて「中毒」の本当の怖さに気づく。


 545:名無しの冒険者

 限界を超える方法があるらしい。


 567:名無しの冒険者

 地下80m以深のエリート兵隊蟻を倒すと特濃フェロモン結晶が取れる。

 それを摂取すれば限界突破できる。

 ただしそもそも80mに行ける冒険者がほとんどいない。


 589:名無しの冒険者

 >>567

 エリート兵隊蟻って何なんだよ。


 612:名無しの冒険者

 体長3m前後。通常の兵隊蟻の3倍近い。外骨格の硬度が桁違い。

 破壊のバットでも一撃じゃ砕けない。高品質の魔剣包丁でも外骨格を切り通せない。

 指数20以上が5人集まって、死者覚悟でようやく倒せるかどうかってレベル。


 634:名無しの冒険者

 >>612

 指数20以上が5人? そんなパーティ組める奴自体がほぼいねえだろ。


 656:名無しの冒険者

 >>634

 だから80m以深はガチの未踏領域なんだよ。

 行ける人間が日本に100人もいない。

 エリートを倒した経験がある奴はもっと少ない。


 678:名無しの冒険者

 しかも特濃フェロモン結晶はリスクがヤバイらしい。


 701:名無しの冒険者

 中毒が桁違いに悪化する。安らぎの香でも護符でも抑えきれないレベルに跳ね上がる。

 休まずに潜り続けると精神が壊れる。


 723:名無しの冒険者

 精神が壊れるって具体的にどうなるの。


 745:名無しの冒険者

 人間の自我が消える。蟻みたいになる。

 ダンジョンの深部に住み着いて、入ってくる冒険者を襲うモンスターになる。

 何人かそうなった奴がいるって話。


 767:名無しの冒険者

 マジかよ。


 789:名無しの冒険者

 でも実際に限界突破してまともでいられてる奴はいるのか?


 812:名無しの冒険者

 いる。俺の知り合いが限界突破した。

 めちゃくちゃ強くなったけど、最近様子がおかしい。


 834:名無しの冒険者

 >>812

 どうおかしいの。


 856:名無しの冒険者

 表情が乏しくなった。会話が減った。

 ダンジョンに潜る頻度が異常に増えた。

 安らぎの香を使わなくなった。

 何か……「匂い」が変わった気がする。人間の匂いじゃないっていうか。


 878:名無しの冒険者

 それもう手遅れじゃん。


 901:名無しの冒険者

 誰か止めろよ。


 923:名無しの冒険者

 >>901

 止められない。本人が聞かない。

 力も俺らより遥かに上。下手に止めようとしたら殺される。


 945:名無しの冒険者

 まとめると。

 ・フェロモン強化には個人ごとの限界値がある(大半は15~20ちょい)

 ・限界値に達するとそれ以上強くならない

 ・限界を超えるには80m以深のエリート兵隊蟻から特濃フェロモン結晶を得る必要がある

 ・だが80mに行ける冒険者自体が日本に数十人程度

 ・特濃フェロモン結晶は中毒を激化させる

 ・最悪の場合、人間じゃなくなる

 結論:フェロモン強化は諸刃の剣。

 限界値が高い奴は幸運。低い奴は「弱いまま中毒だけ残る」最悪のパターンになる。

 そして限界突破は——人間を辞めるリスクと引き換え。


 967:名無しの冒険者

 これ政府が規制すべきだろ。

 また後手に回ってるのか。


 989:名無しの冒険者

 >>967

 規制してどうなる。ダンジョンに入れば自然にフェロモンを吸うし、蟻とも交戦する。

 吸わずに潜る方法はない。規制のしようがない。

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フェロモン中毒を治せるアーティファクトが、少しでも出たらいいのにね!
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