第19話「瀬戸際」
厚生労働省。フェロモン中毒対策本部。
会議室に、医療関係者、精神科医、薬理学者が集まっていた。六本木ヒルズの問題とは別に——ダンジョン由来のもう一つの危機が、静かに、だが確実に拡大していた。
対策本部の担当官がスクリーンにグラフを表示した。赤い折れ線が、右肩上がりに伸びている。一週間前と現在の差が、視覚的に叩きつけられる。
フェロモン中毒者数の推移
1週間前:5,000名
現在:12,000名
重症者数:
1週間前:500名
現在:2,300名
死亡者数(累計):127名
「1週間で2.4倍。この増加速度は——」
担当官が絶句した。
精神科医の一人——慶應大学医学部の岸田教授——が報告した。白衣の下のシャツは皺だらけで、目の下に深い隈がある。この1週間、ほぼ寝ていないのだろう。
「重症者の症状は、通常の薬物依存を大幅に超えています。身体的には頭痛、不眠、感覚過敏、攻撃性の増大。だがそれ以上に深刻なのは、精神的な依存です。覚醒剤やヘロインの離脱症状とは質が異なる。最も近いのは——ドーパミン系だけでなく、全身の細胞が『次のフェロモン摂取』を渇望している状態です」
スライドが切り替わった。重症患者へのインタビュー映像。
「もっと……もっとフェロモンを吸いたい。身体の奥が熱い。蟻を倒した瞬間の、あの感覚が忘れられない。フェロモン指数が上がるたびに自分が強くなっていくのが分かる。あの快感は——他の何にも代えられない」
映像の患者は20代後半の男性だった。手が震えていた。目は血走り、唇は乾き、自分の腕を掻きむしっている。腕には自傷痕のような無数の引っ掻き傷。入院衣の襟元が汗で濡れている。
「重症者の多くが、ダンジョンへの帰還を強く渇望しています。『もう一度潜りたい』『蟻を倒したい』『フェロモンを吸いたい』——この衝動は、治療施設に隔離しても消えません。拘束しなければ自力でダンジョンに戻ろうとする患者もいます。先週、都立松沢病院の隔離病棟から3名が脱走しました。うち2名はダンジョンの入口付近で保護されましたが、1名はダンジョンに入ったまま戻っていません」
医師の声が沈んだ。
「そして——一部の患者は、実際にダンジョンに戻り、二度と帰ってきません」
会議室が静まった。
「治療法は」
担当官が尋ねた。
「現時点では対症療法のみです。アーティファクトの『安らぎの香』と『守護の護符』の併用で症状を緩和できますが、渇望そのものは消えません。根本的な治療法は——まだ見つかっていません」
薬理学者——国立医薬品食品衛生研究所の主任研究員——が補足した。
「フェロモンの成分を分析していますが、既知のどの化学物質とも一致しません。質量分析で分子構造を特定しようとしましたが、サンプルが地上に持ち出されると24時間以内に分解が始まる。ダンジョン外での安定した分析自体が困難です。神経伝達系への作用機序は推定できるものの、拮抗薬の開発には年単位の時間がかかります」
「アーティファクトに頼る以外にないのか」
「現状では。しかし安らぎの香の市場価格は1個あたり約200万円、守護の護符は1,000万円以上です。12,000名全員に護符を配布するとすれば——」
薬理学者が計算した。
「約1,200億円。安らぎの香だけでも240億円です」
担当官が頭を抱えた。
「しかも——中毒者は毎日増え続けています。無許可冒険者が2万人を超えている以上、被曝者の流入を止める手段がない。ダンジョンを封鎖しない限り、この数字は増え続けます」
「封鎖は経済産業省が反対している。アーティファクトの供給が止まれば——」
「分かっています。八方塞がりだということは」
誰も答えなかった。窓の外では、霞が関のビル群の間を救急車のサイレンが通り過ぎていった。最近は昼夜を問わず鳴り続けている。
同日。警視庁捜索課。
壁一面に、行方不明者のリストが貼られている。
その数——3,472名。
名前と顔写真が整然と並ぶ壁面。一人一人が、つい数週間前まで日常を生きていた人間だ。大学生。会社員。主婦。フリーター。高校を中退した17歳の少年もいる。年齢も性別も職業もばらばらだが、共通点は一つ——ダンジョンに入り、帰ってこなかった。
課長が部下たちに指示を出していた。
「ダンジョン関連の行方不明者が急増している。無許可冒険者が2万人を超えた結果、死亡者・行方不明者も比例して増加した」
ダンジョン関連犠牲者
死亡確認:427名
重傷:1,203名
行方不明:3,472名
主な死因
・兵隊蟻による攻撃:62%
・落下事故:18%
・冒険者同士の争い:12%
・その他(罠、崩落、フェロモン中毒死等):8%
「冒険者同士の争い——12%?」
課長が眉をひそめた。
「はい。アーティファクトを巡る奪い合いです。ダンジョン内で、冒険者同士が殺し合うケースが複数報告されています」
部下が資料を開いた。
「先週、地下40メートルで発見された遺体——頭部に鈍器による損傷。凶器は破壊のバットと推定されます。被害者の所持品——鉄壁の盾、守護のヘルメット、魔剣包丁——すべて奪われていました。遺体は2日間放置されており、蟻が運搬を開始した状態で別の冒険者が発見しました」
「別の事例では、3人パーティのうち1名が睡眠中に他の2名に殺害されています。動機は、被害者が発見した守護の護符の独占。護符の市場価格は1,000万円以上——人を殺すには十分な動機です」
課長が拳を握った。
「ダンジョンが、無法地帯になっている。だが——地下で起きた殺人を捜査するリソースがない。現場は地下数十メートルの蟻の巣の中だ。鑑識を入れようにも、蟻がいる。証拠は蟻に運ばれて消える。目撃者がいても、名乗り出る者はいない。そもそも被害者の身元確認すら困難だ。無許可冒険者は登録情報がないから、行方不明になっても誰が消えたのか特定できない」
若い刑事が口を開いた。
「課長、今朝入った情報ですが——ダンジョン内で強盗を繰り返す専門のグループが出始めています。自分では宝箱を探さず、アーティファクトを拾った冒険者を尾行して奪い取る。掲示板では『PK』——プレイヤーキルの略語で呼ばれていて、既に複数のグループの存在が報告されています」
「PKか。ゲームの用語がそのまま現実の殺人に使われるとはな」
徘徊者——ネット上では「グール」の呼称がほぼ定着しつつある——への対応も、現場を疲弊させていた。
徘徊者感染症対策特別措置法に基づき、警察と自衛隊の合同で「徘徊者対処専門部隊」が設置された。現場の隊員たちの間では、掲示板から広まった略称で「グール対処班」「GRT」と呼ばれ始めている。公式文書ではまだ「徘徊者対処部隊」だが、無線交信では既に「GRT」が通用していた。
深夜1時。港区の住宅街。
GRTの隊員10名が、一軒家を包囲していた。近隣住民からの通報——「隣の家族の様子がおかしい。3日前から出てこない。夜になると窓の向こうで何かが動いている」。
装備は対徘徊者戦に特化したものだった。防刃ベスト、フェイスガード付き防刃ヘルメット、散弾銃(ヘッドショット用のスラッグ弾装填)、長柄の突き槍(距離を保って制圧するための新規開発装備)。噛まれたら終わり——その前提で、すべての装備が設計されている。
隊長が無線で指示した。
「目標家屋に、徘徊者3体が潜伏。住民からの情報では、3人家族——父親、母親、10歳の娘。3人とも感染した模様。突入する」
ドアを蹴破った。
懐中電灯が暗い室内を照らす。
リビングに——3体の徘徊者がいた。
青白い肌。虚ろな目。四つん這いの姿勢で、獣のように床を這っている。かつてこの家で暮らしていた家族。父親のスーツは破れ、母親のエプロンは血で汚れ、娘のパジャマには引っ掻いた跡が無数についている。
テーブルの上に、夕食の食器がそのまま残されていた。カレーライスが3皿。一つは子供用の浅い皿で、スプーンがまだ立てかけてある。3日前の夕食。食べかけのまま——何かが起きた。壁のカレンダーには、来週の日曜日に「動物園」と子供の字で書かれていた。
隊長の喉が一瞬詰まった。
「——徘徊者確認。無力化する」
父親の徘徊者が飛びかかってきた。2メートル近い体躯。生前は体格の良い男だったのだろう。
スラッグ弾が頭部を貫いた。即座に倒れる。
母親の徘徊者も同様に処理された。
だが3体目——娘の徘徊者は小柄で素早かった。弾丸を避けるように身を低くし、隊員の脚元に飛びつく。
「うわっ——!」
隊員が長柄の槍で突いた。槍先が腹部を貫通するが——徘徊者は止まらない。痛覚がない。内臓を破壊されても動き続ける。
小さな手が隊員の腕に迫った。牙が防刃ベストの隙間——手首の部分——に噛みつこうとする。
別の隊員が、至近距離から頭部にスラッグ弾を撃ち込んだ。
動きが止まった。
10歳の少女だった。パジャマにはくまのプリントが描かれていた。
「……終わったか」
隊長が息を吐いた。だが——隊員の一人が手首を押さえていた。
「隊長。噛まれました」
防刃ベストの隙間。手首の露出部分に、小さな牙の痕。血が滲んでいる。
「——すぐに本部へ搬送しろ」
だが隊長は知っている。搬送したところで、治療法はない。30分後にこの隊員は徘徊者になる。仲間の手で——頭を撃たれるか、隔離施設に収容されるか。どちらかだ。
これが、GRTの日常だった。毎晩のように通報があり、毎晩のように突入し、毎晩のように——かつて人間だった者の頭を撃つ。そして時折、仲間が噛まれる。
GRT発足から10日間で、隊員の負傷者は7名。うち4名が徘徊者化し、隔離施設に収容された。元同僚の収容ユニットの前を通るたびに——隊員たちは目を逸らす。
精神的負荷は、限界に近づいていた。隊員の3名が既に「任務継続困難」を申告し、交代要員の確保が追いつかない。
東京郊外。旧廃校。
かつて小学校だった建物が、徘徊者隔離施設に転用されている。教室だった部屋は鉄格子で仕切られ、校庭にはコンテナ型の収容ユニットが並んでいた。校門の「○○市立第二小学校」の看板がまだ残っており、その横に「厚生労働省 徘徊者隔離施設 第3号」の仮設看板が立てかけてある。
収容数——200体以上。
厚生労働省の官僚が視察に訪れていた。施設長が案内する。
「こちらが隔離区画です」
鉄格子の向こう。無数の徘徊者がいた。
ぼんやりと立ち尽くす者。壁に頭を打ちつけ続ける者。鉄格子を掴んで揺らし続ける者。床に座り込んだまま微動だにしない者。
すべて、かつて人間だった。名前があり、家族がいて、仕事をしていた人々。鉄格子の外壁には、家族が貼った写真と手紙がテープで留められていた。「お父さん、待ってるからね」。その文字を、中の徘徊者は読めない。写真の下に花束が置かれている区画もあった。面会に来る家族がいるのだ。徘徊者が自分を見つめていることも、手紙を読んでいることもない。それでも——来る。
「人格は完全に消失しています。脳波測定では高次機能の停止が確認されています。外部刺激への反応は、捕食と攻撃のみ」
「食事は必要なのか」
「与えなくても活動し続けます。代謝の仕組みが根本的に変わっているようです。水も食料も不要。だが——動き続ける。日中も夜間も、休みなく」
「では、なぜ人を襲う」
「分かりません。本能、としか言いようがありません。噛みつくことで徘徊者を増やす。種の増殖本能のようなものかもしれません」
官僚が別の棟を指差した。
「あの建物は」
「研究棟です。元の理科室と家庭科室を改装しました。徘徊者化のメカニズムを解明しようとしています。唾液の成分分析、感染した細胞の変化、脳組織の変質——」
「進展は」
施設長が苦渋の表情で首を振った。
「徘徊者化した者を人間に戻す方法は、現時点では見つかっていません。唾液に含まれる因子が細胞レベルで変化を引き起こしており——元に戻すということは、変質した全身の細胞を再び書き換えるということです。現在の医療技術では不可能です」
官僚は黙って施設を後にした。車に乗り込んでから、窓の外を見つめたまま呟いた。
「……200体か。これが1,000体、1万体になったら——この国はどうなる」
運転手は何も答えなかった。ただバックミラー越しに、遠ざかる旧校舎の窓から見える鉄格子を、一瞬だけ見た。
国会。衆議院本会議。
経済産業大臣が演壇に立った。
「本日、政府は『アーティファクト取引規制法案』を提出いたします」
法案の骨子がスクリーンに表示された。
アーティファクト取引規制法案(概要)
第1条(定義)
ダンジョンから回収された、通常の物理法則に反する性質を持つ物品をアーティファクトと定義する。
第2条(登録義務)
すべてのアーティファクトの所持者は、政府への登録を義務付けられる。
第3条(取引制限)
アーティファクトの売買は、政府許可を受けた業者のみが行える。個人間の売買を禁止する。
第4条(武器型アーティファクトの規制)
破壊のバット、魔弾銃、切断のナイフ等、武器として使用可能なアーティファクトの所持は許可制とする。
第5条(罰則)
違反者には3年以下の懲役、または300万円以下の罰金。
野党議員が質問に立った。
「この法案に実効性はあるのですか。既に市場に流通しているアーティファクトは推定で数万点に上るとされています。それらをどうやって登録させるのですか」
「登録に応じた者には、アーティファクトの種類に応じて10万円から500万円の報奨金を支払います」
「市場価格より遥かに安いじゃないですか。破壊のバットの市場価格は800万円です。それを200万円の報奨金で手放す人間がいると思いますか」
経済産業大臣が言葉に詰まった。
別の議員が追撃した。
「そもそもアーティファクトを判別する手段がないじゃないですか。見た目は普通の金属バットと同じです。アーティファクトかどうかを判定できるのは鑑定の鏡だけで、しかもそれはダンジョン内でしか機能しない。地上で所持品を検査しても、アーティファクトかどうか分からない。どうやって規制するんですか」
経済産業大臣は答えられなかった。
この法案には無理がある。誰もがそれを分かっている。だが——何もしないよりはましだ、という消極的な理由で、法案は賛成多数で可決された。
掲示板の反応は冷ややかだった。
東京ダンジョン攻略スレ Part 55 ——アーティファクト規制法案
345:名無しの冒険者
アーティファクト規制法案、可決されたぞ。
367:名無しの冒険者
俺の破壊のバット、没収されるのか?
389:名無しの冒険者
登録すれば合法的に持てるらしい。ただし報奨金が安すぎる。
412:名無しの冒険者
市場価格800万円のバットが報奨金200万円。舐めてんのか。
434:名無しの冒険者
つーかそもそも地上で判別する手段ないだろ。
鑑定の鏡はダンジョン内限定。地上じゃただの金属バットと区別つかない。
警察に「これアーティファクトです」って自分から言わない限りバレない。
456:名無しの冒険者
>>434
つまり自己申告制ってことか。ザルすぎるだろ。
478:名無しの冒険者
バレたら懲役3年だぞ。
501:名無しの冒険者
捕まえられるわけないだろ。警察、手が回ってない。
523:名無しの冒険者
結局この法案も有名無実化するんだろうな。
冒険者制度、アーティファクト買取制度に続いて3つ目の空文化。
政府、何一つ機能する制度を作れてない。
545:名無しの冒険者
法律で縛れる段階はとっくに過ぎてるんだよ。
ダンジョンは物理法則を超えてるのに、法律が追いつくわけない。
ダンジョンの内部では、法律の及ばない暴力が日常化していた。
地下35メートル。薄暗い通路で、二つのグループが対峙していた。
片方は5名の若い男たち。もう片方は4名の中年男たち。両グループの間に——開かれていない宝箱が一つ。
「その宝箱は俺たちが先に見つけたんだ」
5名グループのリーダーが叫んだ。
「先に見つけた? 証拠は?」
4名グループのリーダーが冷笑した。
「お前ら、後から来たくせに」
「ダンジョンに所有権なんてない。早い者勝ちだ」
4名グループの一人が宝箱に手を伸ばした。
その瞬間——5名グループの一人が、破壊のバットを振り上げた。
「触るな!」
バットが男の背中に叩きつけられた。コンクリートにヒビを入れる破壊力が、人間の背骨を砕いた。男が吹き飛び、壁に叩きつけられて崩れ落ちた。
4名グループが反撃した。一人が切断のナイフを抜き、別の一人が魔弾銃を構えた。
BB弾が発射された。ほぼ無音。だが鉄板を貫く威力で——5名グループの一人の脚を貫通した。弾はわずかに弧を描き、逃げようとした脚を正確に追った。
鉄壁の盾を構えた別の仲間が前に出て次弾を弾く。衝撃の半分以上が盾に吸収され、腕は痺れない。その隙に、ナイフを持った男が切りかかった。
5分後——両グループ合わせて3名が死亡。5名が重傷。立っていられたのは1名だけだった。
その男が震えながら宝箱を開けた。
中には——守護の護符が一つ。
市場価格1,000万円以上。
3人の命と引き換えに。
男は護符を掴み、血まみれの通路を逃げるように去っていった。他の負傷者を振り返ることなく。
30分後、血の匂いに引かれた兵隊蟻の群れが通路に到達した。動けない負傷者たちは——蟻の餌になった。
首相官邸。状況整理のための閣僚会議。
オペレーション・サンライズの実行を数日後に控え、総理大臣が現状の総括を求めた。
官房長官がスクリーンに資料を表示した。
現状整理
【ダンジョン関連】
・出入口:50箇所以上(増加傾向)
・国家公認冒険者:約2,000名
・無許可冒険者:推定20,000名以上
・死亡確認:427名
・行方不明:3,472名
・アーティファクト推定流通数:25,000点以上
・アーティファクト関連犯罪:前月比300%増
【フェロモン中毒】
・中毒者:12,000名
・重症者:2,300名
・死亡:127名
【徘徊者感染症】
・感染者:推定1,247名
・隔離収容:831名
・確認済み死亡:89名
・未収容の野良徘徊者:推定300体以上
【六本木ヒルズ占拠】
・吸血鬼(自称):確認2体、他にも複数存在する可能性大
・転化した元SAT隊員:4名(監視カメラ映像より)
・ワーウルフ:確認2体、他にも存在する可能性あり
・徘徊者:推定数百体(ビル内にいた人間の大半が転化したと推定)
・生存者:不明
【社会秩序】
・アーティファクト密売組織:全国200以上
・国家公認冒険者制度:事実上の機能不全
・アーティファクト買取制度:機能不全
・アーティファクト取引規制法:可決されるも実効性に疑問
総理大臣が、資料を見つめたまま深いため息をついた。
「これがたった1ヶ月余りの結果か」
誰も答えなかった。
防衛大臣が口を開いた。
「六本木ヒルズについて補足します。敵は占拠時に『吸血鬼の一族』を名乗っています。確認できている吸血鬼は2体——SAT第2班が地下で遭遇した個体です。しかし、あの規模のビルを短時間で制圧するには2体では足りない。少なくとも複数の指揮系統が存在すると分析しています」
「つまり、正確な戦力は把握できていないと」
「はい。偵察ドローンは窓の外からしか情報が取れません。ビル内部の状況は——突入してみるまで分からない」
総理大臣の声が沈んだ。
「オペレーション・サンライズは、必ず成功させろ。これ以上事態が悪化すれば——」
「東京は、終わる」
深夜2時。
真央は、コンビニで夜食を買っていた。カップ麺、おにぎり、エナジードリンク。いつもの買い物。
レジで会計を済ませ、店を出た。
外は静かだった。かつて深夜でも賑やかだった東京の街が、ここ数週間で様変わりしていた。徘徊者の恐怖で夜間の外出を控える人が増え、飲食店の閉店も相次いでいる。コンビニのガラスドアに「夜間営業時間短縮のお知らせ」が貼られている。深夜のコンビニの客は真央だけだった。店員も奥に引っ込んでいて、レジに立つ時だけ出てくる。目が怯えていた。
遠くからサイレンの音が聞こえた。パトカーか、救急車か。最近は一晩中鳴り続けている。
真央は気にしなかった。向島のアパートへ向かって歩く。
路地裏から——何かが現れた。
徘徊者だった。
青白い顔。虚ろな目。半開きの口から唾液を垂らし、ふらふらと真央の方へ近づいてくる。中年の男性だった。スーツ姿だが、ネクタイは千切れ、シャツは血で汚れている。革靴の片方が脱げて裸足になっていた。数日前まで普通に働いていた人間の成れの果て。
真央は立ち止まらなかった。そのまま、いつもの歩調で歩き続ける。
徘徊者が近づく。5メートル。3メートル。1メートル——。
突然、徘徊者が立ち止まった。
鼻が動いた。真央の匂いを嗅いでいる。何かを感じている。
血の匂い——いや、それ以上の何か。
徘徊者の体が震えた。意識のないはずの身体が、本能的な恐怖——あるいは畏怖——に反応していた。
血のネットワーク。
真央の血から生まれた蚊が始祖となり、始祖が生み出した吸血鬼が作ったのがこの徘徊者だ。血の因子を辿れば——真央は、この徘徊者の大元の「主」に当たる。
徘徊者の本能が警告する。
この存在に、近づくな。
徘徊者が後ずさった。虚ろな目のまま、だが明確に真央を避けて——路地裏へと消えていった。
真央は、それに気づいていなかった。
ただ歩き続け、アパートに戻り、部屋に入った。カップ麺を作り、食べながらスマホでニュースを見る。
「ふーん、もうすぐ六本木ヒルズの奪還作戦か」
他人事のように呟いた。
「うまくいくといいな」
スマホを枕元に置き、ベッドに横になった。




