第17話「六本木ヒルズ襲撃(前編)」
一週間後。六本木の廃ビル。最上階。
蝋燭の炎が揺れる部屋に、一族の全戦力が集結していた。
中央に始祖。変態はさらに進み、体表のキチン質はほぼ消え、青白い皮膚に覆われている。頭部は人間に近づきつつあるが、まだ耳の形状が異なり、瞳孔は縦に裂けたまま。発声はかつてより明瞭になっているが、依然として片言だった。
始祖の両側に五人の純種。リリス、カーミラ、セレネ、ヘカテ、エリザベート。
その背後にワーウルフが5体。2メートル超の巨躯が低い息を吐いている。
さらに転種15体。そしてグールが50体以上。
合計76体を超える軍勢が、始祖を見つめていた。
始祖がゆっくりと口を開いた。
「……今夜……六本木ヒルズヲ……奪ウ」
リリスが一歩前に出た。
「了解しました、母。作戦は立案済みです」
テーブルの上には六本木ヒルズの詳細な図面が広げられていた。転種の不動産営業が入手したフロアマップ。転種の警察官から引き出した警備ローテーション。転種のクラブマネージャーから得た深夜帯の人員配置情報。一週間の偵察で補完された監視カメラの死角と警備員の癖。
ヘカテが図面に指を置いた。
「六本木ヒルズ森タワー。地上54階、地下6階。深夜帯の警備員は森ビル系列のセキュリティ会社が運用しており、常時20名前後が配置されています。防災センターは1階西側。監視カメラは全フロアに合計400台以上。赤外線センサーが地下駐車場と屋上に設置」
「建物には現在、何人の人間がいるの?」
リリスが確認した。
「深夜2時の推定値です。レジデンス棟——レジデンスB・C・Dの三棟合計で約250世帯、在宅者は推定350名前後。森タワーのオフィスフロアに残業中の人間が30名程度。深夜営業のレストランスタッフと客が20名程度。警備員20名。合計で420名前後」
カーミラが眉を上げた。
「多いわね。400名を超える人間を制圧するの?」
「制圧する必要はありません。森タワーとレジデンス棟は別棟です」
ヘカテが図面をなぞった。
「私たちの第一目標は森タワーの制圧。レジデンス棟には手を出しません——まだ。森タワー側の在館者は深夜2時で70名前後。レジデンス棟は封鎖するだけで十分です。連絡通路を物理的に遮断すれば、住民はタワー側に来れない」
「70名なら——十分」
リリスが頷いた。
「作戦は三段階に分けます」
ヘカテが図面上に番号を振った。
「第一段階。無音制圧」
「目標は防災センターと地下駐車場。ここを押さえれば、監視カメラの映像と警備の通信網を掌握できます」
ヘカテが防災センターの位置を指した。1階西側の小さな部屋。常時3名の警備員が監視カメラの映像を確認している。
「防災センターの制圧はカーミラが担当。カーミラが最も人間に近い振る舞いができる。入口で警備員に声をかけ、油断させた瞬間に制圧する。制圧後、カメラ映像を私がリアルタイムで監視し、作戦全体を管理します」
「了解」
カーミラが頷いた。
「同時にリリスとセレネが地下駐車場から侵入。車両搬入口は地下2階。深夜帯は電動シャッターが閉まっていますが、純種の腕力なら——」
「問題ない」
セレネが静かに答えた。
「地下の巡回警備員を無音で排除し、エレベーターと非常階段へのアクセスを確保します。この段階で音を出してはいけません。防災センターの制圧が完了するまで、外部への通報を阻止することが最優先です」
「外部のセキュリティ会社への自動通報は?」
エリザベートが確認した。
「防災センターには森ビルの中央監視システムとの専用回線があります。異常信号が自動送信される仕組みですが、防災センターを制圧すれば手動で通報を遮断できます。転種の中に元IT技術者がいます。彼に操作させます」
「通信はどうする? 警備員が個人の携帯で通報する可能性は」
「あります。だから速度が重要なのです。防災センターの3名を10秒以内に制圧する。声を上げさせず、通報の手を伸ばさせず」
「カーミラなら、できる」
リリスがカーミラを見た。カーミラが暗紫の瞳で微笑んだ。
「まかせて」
「第二段階。ビル内部の制圧」
「防災センターと地下を押さえた後、ワーウルフ部隊を投入します」
セレネが引き継いだ。
「ワーウルフは5体を2グループに分けます。第1グループ3体は私が率いて上層階を掃討。非常階段を使います。第2グループ2体はエントランス付近に配置し、外部からの侵入者に備えます」
「上層階の制圧方針は」
「殺さない」
セレネが明確に言った。
「ワーウルフの爪に、あらかじめ私たちの唾液を塗っておきます。ワーウルフ自体にグール化の能力はありませんが、唾液を塗布した爪で傷をつければ、同じ効果が得られる。建物内にいた人間は全員をグールにして、そのまま建物内を巡回させます。外から見れば——人がいるように見える」
「殺さないという制御が、ワーウルフにできるの?」
カーミラが疑問を投げた。
「訓練しました。この一週間、廃ビルの地下に野良猫を集めて、殺さずに傷をつける練習を繰り返させています。完璧ではありませんが——セレネがそばにいれば大丈夫です。不測の事態は、私が止めます」
「転種はどう使う?」
リリスがエリザベートに目を向けた。
「転種15体のうち10体は、グール化した人間の誘導と管理に使います。グールは自律的には動けない。転種がフロアごとに配置されて、グールに巡回の指示を出す。残り5体はレジデンス棟との連絡通路の封鎖に使います。通路にバリケードを組ませて、住民がタワー側に来ないようにする」
「レジデンス住民の中には異変に気づく者がいるでしょう。窓から外を見て、パトカーが来ているのに気づくかもしれない」
「それは構いません」
エリザベートが言い切った。
「住民が通報すれば、それは作戦の第三段階に移行するタイミングの目安になります」
「第三段階。存在の宣言」
エリザベートが一歩前に出た。
「森タワーの制圧が完了したら、ビルの外に向けてメッセージを発信します。具体的には——」
「転種の一人に、政府の緊急通報回線に電話させます。そして、こう伝える」
エリザベートの赤い瞳が蝋燭の光を受けて輝いた。
「『六本木ヒルズ森タワーは吸血鬼の一族が占拠した。建物内にいた人間は全員、我々の支配下にある。交渉を望む。日本国政府の代表者と対話する用意がある』」
「交渉、するの?」
カーミラが意外そうな顔をした。
「交渉のテーブルにつくかどうかは、人間次第よ。重要なのは、私たちが交渉の意思を示すこと。怪物ではなく、知性ある集団として振る舞う。——勢力としての宣言よ」
リリスが全員を見渡した。
「作戦開始は午前2時。制圧目標は午前4時。日の出前に全フロアの掌握を完了し、夜明けとともに建物を防御態勢に移行する」
「質問は?」
誰も口を開かなかった。
「では——母」
リリスが始祖を見た。
「母は制圧完了後に合流してください。私たちが安全を確保するまで、ここで待機を」
始祖が首を振った。
「……イク……私モ……イク……」
「母——」
「……私ノ……家デモ……アル」
リリスは一瞬だけ目を伏せ、それから頷いた。
「了解しました。では、母は後方でヘカテとともに待機し、制圧完了後に合流する形で」
始祖が頷いた。
リリスが76体の軍勢を見渡した。
「作戦開始は午前2時。全員、持ち場へ」
防災センターの室内。
警備員の木村——52歳、勤続8年——が、コーヒーを飲みながらモニターを眺めていた。12面のモニターに映る監視カメラの映像。地下駐車場、エントランス、エレベーターホール、各フロアの廊下。すべて異常なし。
深夜2時前。この時間帯が一番退屈だ。レストランの閉店処理が終わり、残業組も大半が帰宅し、次のイベントは早朝の清掃業者の到着まで何もない。
「木村さん、交代の時間ですよ」
同僚の安藤——30歳——が声をかけた。
「ああ。異常なし。地下の巡回も問題ない。田口と佐藤が予定通り巡回中」
木村が椅子から立ち上がった時——防災センターのドアが開いた。
女が立っていた。
暗赤色の髪。スーツを着ている。胸に入館証をつけている。見慣れない顔だが、深夜帯はテナント企業の社員が防災センターに顔を出すことは珍しくない。「鍵を忘れた」「空調が止まった」——そういう相談だろう。
「すみません。15階のオフィスなんですが、セキュリティカードの調子が悪くて——」
完璧な日本語。困ったような表情。声にはかすかな甘えが混じっている。カーミラだった。転種から借りた入館証を胸につけ、ビジネススーツで偽装している。
木村が応対しようとした。安藤も視線を向けた。もう一人の警備員、新人の中島——24歳——もモニターから目を離した。
3人の視線がカーミラに集まった瞬間。
カーミラが動いた。
ドアを閉める動作と同時に、室内に踏み込む。3歩。0.4秒。人間の知覚が追いつく前に、カーミラは木村の背後に回っていた。
右手が木村の口を塞ぐ。左手が首筋を一突き。爪の先端から微量の唾液ーー麻痺毒が皮膚を浸透する。木村の身体から力が抜け、カーミラの腕の中に崩れ落ちた。音はない。椅子のキャスターが微かに軋んだだけ。
安藤が振り返った——が、視界にカーミラの顔が映った次の瞬間には、首筋に鋭い痛みが走っていた。麻痺毒。膝が折れる。声を出そうとした口を、カーミラの手が押さえる。
中島が無線機に手を伸ばした。反射的な動作。訓練通り。だがカーミラはそれより速かった。中島の手首を掴み、指の力だけでねじ上げる。無線機が手から落ちた。首筋に三度目の一突き。中島の目が裏返り、床に崩れた。
8秒。
3名の警備員が、一人も声を上げることなく無力化された。
カーミラが防災センターの通信パネルを確認した。森ビルの中央監視システムとの専用回線。赤いランプが点灯している。異常信号は——送信されていない。
ドアを開け、廊下に待機していた転種——元IT技術者の男——を招き入れた。
「通報システムを遮断して。外部への自動送信もすべて止める」
「了解」
転種がパネルに向かい、手際よく操作を始めた。中央監視システムとの回線を物理的に抜き、自動通報機能を無効化する。固定電話の回線も切断。
カーミラが意識を集中した。血の繋がりを通じた念話——純種同士なら距離を問わず思念を送受信できる。
《カーミラからリリスへ。防災センター、制圧完了。外部通信、遮断済み》
同時刻。地下2階。車両搬入口。
電動シャッターが内側からこじ開けられていた。
リリスとセレネが、音もなく地下駐車場に降り立った。翼を収納し、黒い服に身を包んでいる。蛍光灯が半分消えた薄暗い空間。高級車が整然と並んでいる。
巡回警備員は地下に2名。ヘカテの事前情報では、午前2時の巡回ルートは地下3階から始まり、地下2階、地下1階の順に回る。一巡に約20分。
リリスが空気の流れを読んだ。二つの心拍。一つは30メートル先の地下3階への階段付近。もう一つは50メートル先の通路の向こう。
リリスとセレネが無言で目を合わせ、それぞれの方向に散った。
セレネは銀灰色の髪を靡かせ、コンクリートの天井に張り付いた。指先と足先だけで自重を支え、蜘蛛のように天井を這って移動する。警備員の真上まで進み——落下。
着地と同時に首筋に一撃。麻痺毒。警備員の身体を受け止め、音を立てずに床に横たえた。
リリスも同様に、もう一人の警備員を無力化した。
《リリスからヘカテへ。地下、制圧完了。巡回警備員2名、無力化》
カーミラの報告から2分後。
六本木ヒルズ森タワーの神経系——防災センターと地下——が、静かに乗っ取られた。
《ヘカテから全員へ。第一段階完了。第二段階に移行》
ヘカテの念話が全純種に届いた。廃ビルの屋上から、望遠鏡で森タワーを監視している。始祖がその横に座っている。
《セレネ、ワーウルフ部隊を投入して》
地下2階のシャッターから、5体のワーウルフが建物内に入った。
黒い毛皮に覆われた巨体が、セレネの後に続く。爪がコンクリートに食い込むかすかな音。獣の息遣い。だがセレネの前では、5体は驚くほど従順だった。一週間の訓練が効いている。
「第1グループ。私についてきなさい」
セレネが3体を率いて非常階段に入った。
上層階の制圧が始まった。
最初のフロアは15階。コンサルティング会社のオフィスに、徹夜の社員が2名残っていた。
非常階段のドアが開いた。セレネが先に入り、室内の配置を確認する。二人の社員はデスクに向かっている。背中が見える。ヘッドフォンを付けている者と、モニターに集中している者。
セレネが手を振った。ワーウルフ1体が静かに——訓練通りに——室内に入った。四足歩行で音を殺し、最初の社員の背後に立つ。
社員が気配に気づいて振り返った瞬間——ワーウルフの前肢が伸び、肩を押さえ込み、爪を軽く皮膚に食い込ませた。殺傷ではない。かすり傷。だが爪にあらかじめ塗布された吸血鬼の唾液が傷口から浸透する。
社員が悲鳴を上げようとした。ワーウルフの巨大な手が口を塞いだ。もう一人の社員はヘッドフォンをしていて何も聞いていない。セレネが背後から近づき、首筋に爪を当てた。
二人の社員は1分以内にグール化の因子を注入された。やがて意識を失い、30分後にはグールとして目覚める。
「15階、完了。次」
同じ手順が繰り返された。
20階の法律事務所。弁護士が1名。期限直前の書面作成に没頭していた。ワーウルフが入室し、椅子ごと引き倒す。唾液を塗った爪が肩をかすめ、弁護士は何が起きたか理解する間もなく意識を失った。
33階の外資系金融会社。深夜シフトのトレーダーが3名。ニューヨーク市場の動きを追いながらモニターに張り付いている。セレネが非常階段から3体のワーウルフを同時に投入し、一人ずつ——ほぼ同時に——制圧した。
一人がデスクの電話に手を伸ばした。セレネが電話線を引きちぎった。
「静かにして。すぐに終わるから」
冷たく、だが正確な声。
上層階の制圧は、驚くほど静かに進行した。深夜のオフィスビルは防音性が高い。フロアごとに区切られた空間は、隣のフロアの音をほとんど伝えない。上で何が起きているか、下のフロアにいる人間には分からない。
午前2時40分。
森タワーの1階から33階までの制圧が完了した。
グール化を待つ人間が40名以上、各フロアに横たわっている。転種が各フロアに配置され、グール化の進行を監視していた。
問題は——ここからだった。
1階のエントランスに配置されたワーウルフ第2グループの1体が、ガラス越しに外を見つめていた。赤い目が、夜の六本木の通りを走査する。
通りの向こうに——人影が見えた。
酔客だろうか。タクシーを待っているのか。六本木ヒルズの方を見ている。
問題ない。外から見れば、エントランスには照明が点いており、警備員が立っているように見える。グール化した元警備員が、ぎこちない動作ではあるが巡回を続けている。
だがこの偽装が持つのは、せいぜい数時間だった。
朝が来れば、出勤する社員が到着する。清掃業者が来る。宅配便が来る。そしてエントランスの「警備員」が明らかに正常ではないことに、誰かが気づく。
——その前に、全フロアを押さえなければ。
リリスが念話で全員に告げた。
「残りの上層階制圧を急いで。目標は午前4時。残り1時間20分」
会社経営者の妻、高橋美咲——42歳——が目を覚ました。
何かの物音だった気がする。夫は出張でいない。一人で広いリビングのソファに横たわりながら、テレビをつけたまま眠っていた。
窓の外を見た。いつもの六本木の夜景——だが、何かがおかしい。
森タワーの窓に、妙な影が動いていた。
巨大な——人間ではないものの影。窓ガラスの向こうを、何かが横切った。一瞬だけ。2メートルを超える、黒い輪郭。
「……え?」
美咲は目を凝らした。見間違いだろうか。
もう一度——影が動いた。今度は別の窓。低いフロア。何かが廊下を走っているような影。速い。人間の動きではない。
美咲はスマートフォンを手に取った。
110番。
「もしもし、110番です」
「あの、六本木ヒルズのレジデンスに住んでいるんですが……森タワーの中に、何か変なものが見えるんです。人間じゃないものが動いてるみたいで……」
「お住まいはどちらですか」
「六本木ヒルズレジデンスB棟、32階です」
「何が見えていますか」
「森タワーの窓の向こうに……大きい、何か黒い影が。すごく速く動いてて……」
「わかりました。確認のため警察官を向かわせます。外には出ないでください」
美咲は電話を切り、窓際に戻った。
森タワーの低層階——10階付近の窓が、内側から赤く光った。非常灯だろうか。だが通常の非常灯とは色が違う。点滅している。何かが壊れたような。
美咲はもう一度電話をかけた。今度はマンションのフロントに。
呼び出し音が鳴り続けた。
誰も出なかった。
午前3時05分。
麻布警察署(六本木を管轄する所轄署)の指令端末に、110番の転送が入った。
「六本木ヒルズ居住者から通報。『森タワー内部に不審な影が見える』」
宿直の巡査部長、河合——48歳——が受理した。
「不審な影、ね」
この手の通報は珍しくない。深夜の六本木では、酔客の悪ふざけ、ホームレス、そして最近では「徘徊者」の目撃情報が急増している。ダンジョンの出入口監視にも人手を取られ、署の夜間体制は常に逼迫していた。
河合がパトカーの手配を指示した。
「六本木方面、パトカー1台。六本木ヒルズ周辺の確認。不審者情報」
5分後——パトカーが六本木ヒルズ前に到着した。
巡査の山田と村上。二人がパトカーから降り、森タワーのエントランスを見た。
異常は——なかった。
照明は点いている。エントランスの向こうに警備員の姿が見える。ガラスは割れていない。不審な人影もない。いつもの深夜の六本木ヒルズに見えた。
「異常なさそうですけどね」
村上が呟いた。
「一応、中を確認するか」
山田がエントランスに向かった。自動ドアが開く。大理石の床。現代アートのオブジェ。空調の微かな音。
警備デスクに警備員が座っている。山田が声をかけた。
「通報がありまして。建物内に不審者がいるとの情報ですが、何か異常はありませんか?」
警備員がゆっくりと振り向いた。
——動きが、おかしかった。
関節がぎこちない。首の回転が滑らかではない。カクカクとした、人形のような動作。
「……異常……ナイ……」
掠れた声。抑揚がない。
山田が一歩引いた。顔色が異常に悪い。蛍光灯の下でも分かるほど青白く、目の焦点が合っていない。
「大丈夫ですか? 顔色が——」
背後から——重い足音が聞こえた。
ドシン。ドシン。
山田と村上が同時に振り返った。
エントランスの奥、エレベーターホールに通じる廊下の暗がりから——何かが近づいてきた。
巨大な、黒い輪郭。蛍光灯の光の縁に、赤い眼が二つ光った。
ワーウルフだった。
エントランスに配置された第2グループの1体。セレネの指示では「外部からの侵入者を排除する」ことになっている。
2メートルを超える巨体が廊下から姿を現した。黒い毛皮。狼の頭部。人間の10倍の筋力を持つ四肢。口から白い息が漏れ、牙の間から涎が糸を引いている。
「な——」
山田が絶句した。拳銃のホルスターに手を伸ばす。指がグリップに触れた。
ワーウルフが四足で突進した。5メートルの距離が0.3秒で消えた。
巨大な前肢が山田を薙ぎ払った。右腕に爪が食い込み、ホルスターごと引き裂かれた。山田が吹き飛び、大理石の床を滑って壁にぶつかった。
村上が叫んだ。拳銃を抜き、発砲した。乾いた銃声がエントランスに反響する。弾丸がワーウルフの肩に命中した。毛皮が裂け、血が飛散する。
ワーウルフは止まらなかった。
村上に飛びかかり、前肢で床に押さえつけた。爪が制服を裂き、皮膚をかすめ——爪に塗布された唾液が傷口から浸透した。
10秒で二人の警察官は倒れた。
だが——山田はパトカーの無線機に手を伸ばしていた。倒れながら。
「……本部……六本木ヒルズ……化け物が……」
その声が、途切れた。
午前3時12分。麻布署。
河合が無線を受信した。途切れ途切れの報告。「六本木ヒルズ」「化け物」。そして——銃声らしい音。
河合の表情が変わった。
「全パトカー、六本木ヒルズに急行。応援要請。発砲があった模様」
同時に、110番の回線が鳴り始めた。
六本木ヒルズのレジデンス住民からの通報が、立て続けに入った。
「森タワーのエントランスで銃声がしました」
「タワーの中で何か暴れてます。獣の声が聞こえる」
「窓から見たら、エントランスの前に警察官が倒れています」
河合は受話器を握りしめた。
これは——ただの不審者通報ではない。
「警視庁本部に連絡。六本木ヒルズで重大事案発生。SATの出動要請を上げろ」




