第16話「闇の領域(後編)」
「私たちは、国を創る」
エリザベートの言葉が、蝋燭の炎に揺れる部屋に落ちた。
沈黙。
カーミラが最初に口を開いた。
「……国?」
「そう。吸血鬼の国。六本木ヒルズを首都とする、夜の王国」
エリザベートが壁の地図を指でなぞった。爪がコンクリートに白い線を刻む。
「まず、前提を共有しましょう。私たちの現状を」
エリザベートが五本の指を立てた。
「一つ。私たちの存在は、いずれ人間社会に露見する。グールの目撃情報は増え続けている。ワーウルフの隠蔽は困難。転種を増やすほど、痕跡は残る。隠れ続けることには限界がある」
「二つ。ダンジョンには入れない。蟻が私たちを異物として排除する。アーティファクトの自力調達は不可能。護符も、今後必要になるあらゆるアーティファクトも、人間社会経由でしか手に入らない」
「三つ。転種は増やせるが、純種は増えない。母が再び産卵しない限り、戦闘の核となる純種は私たち5体だけ。質では人間に勝るが、数では圧倒的に劣る」
「四つ。昼間は弱い。護符で緩和できるとはいえ、数が少ない。日中の活動には制約がある。24時間戦える人間の軍隊と正面からぶつかれば、消耗戦になる」
「五つ。私たちには領土がない。この廃ビルは仮の巣にすぎない。発見されれば終わり。守るに値する場所がなければ、永遠に逃げ続けることになる」
エリザベートが指を握った。
「これが現実。隠れ続ければ、いずれ発覚し、準備の整った人間の軍隊に狩られる。——だから、受け身では駄目なの。こちらから仕掛ける必要がある」
ヘカテが腕を組んだ。
「仕掛ける、とは?」
「六本木ヒルズの占拠。そして——占拠と同時に、吸血鬼という種族の存在を、この国の政府に対して公式に宣言する」
「自ら正体を明かすということ?」
カーミラが眉を上げた。
「カーミラ。あなたの浸透工作は素晴らしい成果を出している。でも——考えて。今の浸透は、何のため?」
「情報収集と——」
「将来のため、でしょう? でもその『将来』に、終わりはある? 10人浸透させて、50人浸透させて、100人浸透させて——それで、何が変わる? 人間社会の裏側に寄生し続けるだけ。ネズミのように」
カーミラが口を閉じた。
エリザベートが続けた。
「私たちは新しい種族よ。人間の寄生虫として生きるために生まれたのではない。——対等な存在として、この世界に居場所を確保するために生まれた」
エリザベートが地図の六本木ヒルズに爪を突き立てた。
「六本木ヒルズの占拠には、五つの意味がある」
「第一。存在の宣言」
「私たちは今、人間にとって『未知の脅威』。失血死事件の犯人として疑われてはいるが、都市伝説の域を出ていない。——このまま正体不明の怪物として認識され続ければ、人間は恐怖と無知から全力で殲滅にかかる。交渉の余地なく」
「しかし、六本木ヒルズという誰もが知る場所を占拠し、私たちの存在を明確に示せば——人間は対処を『考えなければならなくなる』。怪物退治ではなく、知性ある集団への対応として。そこに、交渉の窓が生まれる」
ヘカテが頷いた。
「人間が私たちを『動物』と見なせば駆除される。『勢力』と見なせば交渉対象になる。——六本木ヒルズの占拠は、私たちを『勢力』として認識させるための行為ということね」
「その通り」
「第二。拠点の確保」
「森タワー。地上54階、地下6階。地下駐車場は日光が完全に遮断された空間。車両搬入口を封鎖すれば外部からの侵入を制限できる。上層階からは六本木一帯を見渡せる。防御と監視の両方に優れた構造」
「母の変態が完了するまでの安全な空間が要る。この廃ビルでは足りない。六本木ヒルズなら、母を地下の最深部に安置し、上層で防衛態勢を敷ける」
始祖が静かに目を閉じた。変態の途上にある身体は安定していない。安全な空間の確保が、一族にとって最優先であることは全員が理解していた。
「第三。——これが最も重要。戦力の拡充」
エリザベートの瞳が、蝋燭の光の中で鋭く輝いた。
「六本木ヒルズには深夜でも200名前後の人間がいる。レジデンス棟の住民、残業中の会社員、深夜営業のレストランスタッフ。占拠すれば、彼らは人質になる。——しかし、人質はただの盾ではない」
「人質を取れば、人間の政府は奪還部隊を送り込んでくる。確実に。それも、最も精鋭の部隊を」
セレネが目を細めた。
「精鋭を——わざと、引き寄せるの?」
「ええ。人間の精鋭部隊は、一般の警察官や自衛隊員とは比較にならない身体能力を持っている。特殊部隊の選抜を通過した者たち。強靭な肉体と精神力。——そういう人間を転種化すれば、今の転種とは桁違いの戦力になる」
部屋の空気が変わった。
「今の転種は、元サラリーマンや元クラブ従業員。人間としても平凡な肉体だった者たちよ。当然、転種としての戦闘力にも限界がある。——でも、特殊部隊の兵士を転種化したら?」
ヘカテの目が光った。
「なるほど。人間社会で最も強い個体を、向こうから送り込ませる。そして——こちらの兵にする」
「六本木ヒルズという場所の象徴性がここで効いてくるの。みすぼらしい廃ビルを占拠しても、人間は気にもしない。でも六本木ヒルズ——東京の象徴、多くの人が利用する一等地の超高層複合施設——を占拠すれば、人間の政府は面子にかけて奪還しなければならない。精鋭を投入せざるを得ない」
「つまり、六本木ヒルズの占拠自体が——」
「罠よ」
エリザベートが微笑んだ。
「人間にとっての奪還作戦は、私たちにとっての徴兵作戦。送り込まれてくる精鋭を片端から転種化、あるいはグール化し、奪還部隊そのものを吸収する。一度で終わらなければ、二度、三度。送り込むたびに人間側は戦力を失い、私たちは戦力を得る」
「第四。人間社会の分断」
「六本木ヒルズに人質がいる限り、人間の政府は全面的な軍事攻撃ができない。爆撃も、焼き払いもできない。自国民を巻き込む選択は、民主主義国家には極めて困難」
「同時に、吸血鬼の存在が公になれば、人間社会は混乱する。恐怖、パニック、情報の錯綜。政府への不信。ダンジョンと冒険者の問題だけでも手一杯の社会に、さらに吸血鬼という新たな脅威が加わる。——対応のリソースが分散する」
カーミラが頷いた。
「人間同士の対立も利用できるわね。政府の対応に不満を持つ者、吸血鬼に興味を持つ者、共存を主張する者……人間は一枚岩ではない」
「ええ。そして護符の件で言えば——私たちが護符を大量に必要としていることが公になれば、護符を売りたい人間が出てくる。禁止されても、闇市場で。人間の欲望は、人間の規律より常に強い」
「第五。時間の確保」
「母の変態が完了するまで、私たちには時間が要る。あと数週間。その間に発覚し、この廃ビルを急襲されれば——私たちは大きな損害を被る」
「六本木ヒルズを確保すれば、人質という盾と、建物の構造的優位性によって、人間の攻撃を大幅に遅延させられる。母の変態が完了するまでの時間を、確実に稼げる」
エリザベートが始祖を見た。
「母。あなたの変態が完了すれば、一族の力は飛躍的に増す。でもそのためには、安全な時間と空間が必要です。——六本木ヒルズは、その揺り籠になる」
エリザベートが五本の指を順に折った。
「存在の宣言。拠点の確保。戦力の拡充。社会の分断。時間の確保。——五つの目的を、一つの行動で同時に達成する。それが六本木ヒルズの占拠」
沈黙が落ちた。蝋燭の炎が、五人の顔を照らしている。
最初に口を開いたのは、ヘカテだった。
「理に適っている。ただし——リスクも聞かせて」
「三つある」
エリザベートが即答した。
「一つ。奪還部隊を転種化する際に、こちらにも損害が出る可能性。特殊部隊は精鋭よ。純種であっても、数と装備で押されれば危険はある」
「二つ。占拠後の維持。電気、水道、食料——人質を生かしておくためのインフラを確保しなければ、人質が死ぬ。死んだ人質は盾にならない」
「三つ。——想定を超える戦力が投入された場合。私たちがまだ知らない、人間側の切り札があるかもしれない」
セレネが呟いた。
「蟻を殲滅しようとしたファイアストーム作戦。あれを実行する軍事力がある国よ」
「ええ。だからこそ——奇襲は、人間側の態勢が整う前に仕掛ける必要がある。ダンジョンの問題に国の注目と軍事リソースが集中している今。吸血鬼の存在がまだ都市伝説として処理されている今。——この瞬間が、最も有利なタイミング」
リリスがずっと黙っていた。
全員の視線がリリスに集まった。リーダーの判断を待っている。
「エリザベート」
「ええ」
「あなたの分析は正しいと思う。隠れ続けることに未来がないことも、今が最も有利なタイミングであることも」
リリスが立ち上がった。
「でも——一つだけ、付け加えさせて」
リリスが窓のない壁に手を当てた。冷たいコンクリート。
「五つの目的。全部、正しい。戦略として完璧だと思う。でも——私にとっては、もう一つ意味がある」
「何?」
「家よ」
エリザベートが目を瞬いた。
「私たちは今、廃ビルの最上階にいる。窓もない。電気もない。昼間は日光を避けて、暗い部屋の隅で眠る。母は——変態の途中で、この冷たい床の上で横たわっている」
リリスの声は静かだったが、蝋燭の炎が揺れるほどの力があった。
「私は母に、安全に眠れる場所を与えたい。私たちが怯えずに過ごせる場所を。日光を恐れず、人間の目を恐れず——ただ、生きていられる場所を」
リリスがエリザベートを見た。
「あなたの言う『国』は、外に向けた宣言。でもその国の中身は——家なのよ。母と私たちと、これから増える一族のための」
エリザベートが、珍しく言葉を失った。
数秒の沈黙の後——エリザベートが頷いた。
「そうね。……そうだわ。国の本質は、家よ。守るべきものがあるから、国になる」
カーミラが微笑んだ。
「二人とも正しいわ。エリザベートの戦略と、リリスの想い。どちらか一方では足りない。両方あるから——成し遂げる価値がある」
リリスが始祖を見た。
始祖は静かに、だが確かに頷いた。
「……ヤレ……」
「了解しました、母」
五人が一斉に頷いた。
リリスが全員を見渡した。
「準備期間は一週間。転種をさらに増やす。護符を追加確保する。六本木ヒルズの内部構造を完全に把握する。警備員の顔と名前と巡回ルートを暗記する」
「一週間後の夜——私たちは動く」
会議が終わった後、リリスは一人で屋上に立っていた。
夜風が黒髪を揺らす。眼下には六本木の夜景が広がっている。かつての華やかさは薄れ、灯りの数は減っていたが、東京の夜は美しかった。
視線の先に、六本木ヒルズの森タワーが聳え立っている。照明に照らされた巨大なシルエット。
「リリス」
背後からカーミラの声がした。
「母のことが心配でしょう」
リリスは答えなかった。
「母の変態は進んでいるけれど、完全ではない。身体が安定していない。——戦闘には出さないわ」
「分かっている」
リリスが短く答えた。
「だからこそ、急ぐの。母が完全体になる前に、安全な場所を用意する。それが——最初に生まれた私の役目」
カーミラが隣に立ち、同じ方向を見た。
六本木ヒルズ。
「ねえ、リリス。本当に、できると思う?」
「できなくても、やる。私たちには他に行く場所がない」
リリスの深紅の瞳が、森タワーの頂上を見つめていた。
「一週間後——あの城を、落とす」
夜風が、二人の間を吹き抜けた。
六本木の夜は、静かだった。その静けさの下で、闇の領域は最後の準備に入っている。
転種は増え続けている。グールは夜の街を徘徊している。警察の内部にも、繁華街の裏にも、不動産会社のオフィスにも——吸血鬼の眷属が根を張っている。
人間たちはまだ気づいていない。
夜が、もうすぐ——牙を剥くことに。




