第10話「ファイアストーム」
午前5時30分。作戦開始30分前。
夜明け前の廃工場跡地は、異様な静けさに包まれていた。
かつてこの場所には、錆びた機械と割れた窓ガラスしかなかった。だが今は違う。地面に無数の亀裂が走り、その隙間から湿った空気が立ち上っている。甘い匂いが微かに漂う。まるで大地そのものが呼吸しているかのようだった。
周囲半径1キロメートルには立入禁止のテープが張られ、周辺住民4,500人の避難は昨日までに完了している。だがテープの内側は、もはや人間の領域ではなかった。3日前に無人探査ロボットが送ってきた映像は、地下に広がる巨大な蟻の巣の全容を映し出していた——はずだった。
自衛隊の車両が、暗闇の中で静かに集結していく。
96式装輪装甲車が8両。73式大型トラックには火炎放射装備を携行した隊員たちが乗り込んでいる。化学科部隊の特殊車両が3台。そして後方には10式戦車が2両——これは地上の警戒用だ。万が一、蟻が地上に溢れ出した場合の最終防衛線として配置されている。上空ではAH-64Dアパッチ攻撃ヘリコプター2機が旋回し、FLIR(前方監視赤外線装置)で地下の熱源分布を探っていた。
投入兵力、総勢約1,000名。
これは巨大蟻の巣を完全に殲滅するための作戦だった。
作戦名——ファイアストーム。火と鋼鉄で、この異常を焼き尽くす。
指揮官の佐々木幹也二等陸佐は、装甲指揮車の中でモニターを睨みながら、小さく息を吐いた。陸上自衛隊第1普通科連隊の副連隊長。48歳。東日本大震災の災害派遣を経験し、南スーダンPKOにも参加した歴戦の指揮官だが、巨大昆虫の討伐は初めてだった。当然だ。人類史上、誰も経験したことがない。
「……本当に、蟻なのか」
呟きに、副官の山本一等陸尉が答える。
「無人探査ロボットの映像では、体長30センチ超の兵隊蟻が確認されています。調査チームの報告と一致します」
「昆虫が、そんなサイズになるはずがない。気管呼吸の制約上、物理的に不可能だ」
「ですが、現実に存在しています。そして人間を殺傷する能力があることも、証明済みです」
佐々木はモニターに目を戻した。画面には、3日前に無人探査ロボットが撮影した巣の内部映像が表示されている。琥珀色の壁面。分岐する通路。体長30センチの兵隊蟻が徘徊する映像。
だが佐々木は知らなかった。この映像が撮影された後——2日前の夜に、巣の構造が根本的に変わっていることを。
「作戦開始は0600時。全隊、配置につけ」
命令が、暗号化された無線を通じて全軍に伝わった。
午前6時00分——第一波突入。
10式戦車の120ミリ滑腔砲が、廃工場の外壁に向けて火を噴いた。
コンクリートと鉄骨が砕け散り、土煙が舞い上がる。これは蟻への攻撃ではない。地下への進入路を確保するための障害物除去だ。3日前の調査で確認された陥没穴に加えて、新たに2箇所の進入口を爆破で開削する計画だった。
続いて化学科部隊が燻蒸剤を投入した。地上の亀裂から巣の通気口に向けて、大量の殺虫ガスを送り込む。狭い地下空間に充満させ、蟻を弱体化させてから歩兵が突入する——それが作戦の基本骨子だった。
だが、最初の想定外がすぐに訪れた。
燻蒸剤の効果が、ほとんどなかったのだ。
「化学科より報告。ガスの浸透深度が想定を大幅に下回っています。巣の通気構造が変化しているようです。ガスが深部まで到達しません」
佐々木の眉が寄った。3日前の探査では、巣の通気口は数箇所に限定されていた。そこからガスを送り込めば、巣全体に行き渡る計算だったはずだ。
「通気構造が変化した? たった3日で?」
「原因は不明ですが、通気口が塞がれているか、あるいは巣の内部構造自体が変更されている可能性があります」
佐々木は判断を迫られた。燻蒸が効かないなら、歩兵による直接突入に切り替えるしかない。
「予定通り歩兵を投入する。第一小隊から第四小隊、降下開始」
装甲車から隊員たちが降車し、3箇所の進入口から同時に地下へと降りていく。各小隊30名、計120名の第一波突入部隊。装備は89式小銃、火炎放射器、手榴弾、C4爆薬。そしてヘルメットに装着されたカメラが、リアルタイムで映像を指揮車へ送っている。
午前6時15分——第一小隊、地下10メートル到達。
第一小隊長の赤城三等陸佐が、ロープで降下した先の通路に足をつけた瞬間、違和感に気づいた。
3日前の無人探査ロボットの映像と、通路の構造が違う。
映像では、この深度の通路は幅2メートル、天井高2メートルの単純な横穴だった。壁面は琥珀色の唾液コーティングで覆われ、構造は直線的だった。
今、目の前にある通路は違った。
幅は3メートルに広がっている。天井には半円形のアーチ構造が施され、壁面のコーティングは二重になっている。そして何より——通路が分岐していた。3日前の映像では、この地点は一本道だったはずだ。それが今は、正面、左、右の三方向に通路が伸びている。
「指揮所、こちら第一小隊。通路構造が探査データと一致しません。分岐が増えています」
「第一小隊、了解。慎重に進め。マッピングを優先しろ」
赤城は隊員たちに前進を指示した。ポイントマンが先頭に立ち、89式小銃を構えて正面の通路を進む。後続の隊員がGPS測位装置で現在位置を記録しながら追従する。
50メートル。100メートル。
通路は、探査データよりも明らかに複雑化していた。分岐点が増えている。行き止まりがある。そして——通路の幅や高さが、場所によって不規則に変化している。狭い箇所では人間一人がやっと通れる幅しかなく、広い箇所では天井高が5メートルに達する。
まるで、意図的に設計されているかのようだった。
侵入者を迷わせ、分断し、消耗させるための構造。
働き蟻が姿を現した。体長15センチの個体が、通路の壁面を這っている。10匹、20匹。
「射撃開始」
89式小銃の5.56ミリ弾が、蟻の外骨格を貫いた。体長15センチの働き蟻に対しては、小銃弾は有効だった。外骨格を容易に貫通し、体液が飛散して蟻が動きを止める。
倒した蟻の体から、生臭い匂いが立ち上った。鉄錆のような、鋭い匂い。3日前の調査チームの報告にあった「甘い匂い」とは異なる。戦闘の混乱の中で、赤城はその差異に気づかなかった。
さらに50匹、100匹。通路の奥から湧いてくる働き蟻を次々と射殺しながら、第一小隊は前進を続けた。
「こちら第一小隊。地下10メートル地点。敵約200匹を撃退。損害なし」
指揮車で報告を受けた佐々木は頷いた。
「予想より抵抗が軽いな。このまま進め」
午前7時00分——第一小隊、地下20メートル到達。
通路が急に広くなった。天井の高さは4メートル以上。幅も5メートルに達する。まるで何かを通すために――あるいは、何かを迎え入れるために作られたかのような空間だ。
そしてここで、構造の変化が決定的になった。
通路の壁面に、窪みがある。等間隔に並んだ、こぶし大の穴。赤城がヘッドライトで照らすと、穴の奥に何かが光った。液体だ。壁面の窪みに溜まった、琥珀色の液体。甘い匂いが、ここから漂っている。
「何だ、これは……3日前の探査データにはなかったぞ」
赤城が窪みに手を伸ばしかけた時、ポイントマンが叫んだ。
「前方、動きあり!」
通路の奥から、重い足音が近づいてくる。カツン、カツン、カツン。働き蟻の軽い足音とは明らかに違う、地面を叩く重厚な音。
暗闇の中から姿を現したのは、兵隊蟻だった。
体長50センチ。
3日前の調査で確認された兵隊蟻は体長30センチだった。それが、わずか数日で1.5倍以上に成長している。黒褐色の外骨格は分厚く、表面に鈍い金属光沢がある。頭部は幅広で、大顎は成人の前腕ほどの長さがあった。
そして、その数。
10匹、20匹、30匹——通路を埋め尽くすように、兵隊蟻の群れが押し寄せてくる。
「撃て!」
小銃弾が兵隊蟻に叩き込まれる。
だが——弾かれた。
5.56ミリ弾が、兵隊蟻の外骨格の表面で火花を散らして跳弾する。体長50センチの兵隊蟻の外骨格は、30センチの個体とは比較にならない硬度に達していた。
「小銃弾が通らない!」
「火炎放射器!」
火炎放射器を装備した隊員が前に出て、引き金を引いた。オレンジ色の火柱が通路を満たし、兵隊蟻の群れを飲み込んだ。蟻が燃える。甲高い音——悲鳴に似た、外骨格が熱で割れる音——を立てながら、のたうち回る。
火炎は有効だった。外骨格がいくら硬くても、数百度の炎には耐えられない。
だが、問題があった。
「残量、あと40秒!」
火炎放射器の燃料消費が激しい。狭い通路で使用すると、酸素も急速に消費される。隊員たちの呼吸が荒くなり始めた。
炎が途切れた瞬間、焼け残った兵隊蟻が突進してきた。外骨格の表面が焦げ、脚の一部が炭化しているが、それでも動きを止めない。
先頭の兵隊蟻が、最も近い隊員に飛びかかった。50センチの蟻が跳躍し、隊員の胸に張りつく。大顎が防弾ベストの表面を挟み込む。
バキ、という音。
ケブラー繊維製の防弾ベストが、大顎の圧力で裂けた。30センチの兵隊蟻でも防護服を引き裂く顎力があった。50センチの個体は、防弾ベストすら紙のように切断する。
「うわああああっ!」
隊員が叫び、蟻を引き剥がそうとする。だが大顎が深く食い込んでおり、引き剥がすことは蟻の顎ごと肉を抉り取ることを意味した。
別の隊員がバヨネット——着剣した89式小銃で蟻の腹部を突き刺した。刃先が外骨格の隙間——胸部と腹部の結合部——に滑り込み、体液が噴き出す。蟻がもがき、ようやく顎を緩めた。
その隙に隊員を引きずり出す。胸部に深い切創。出血が激しいが、動脈には達していない。
「こちら第一小隊! 地下20メートル地点で大型兵隊蟻と交戦中! 体長50センチ、小銃弾無効! 火炎放射器は有効だが燃料が不足! 負傷者1名! 増援を要請する!」
赤城の報告に、佐々木の表情が険しくなった。
「50センチだと? 探査データでは30センチが最大だったはずだ」
「巣が変化しています、二佐。通路構造だけじゃない。蟻自体が、3日前より大きくなっている」
佐々木は唇を噛んだ。3日前のデータに基づいて立てた作戦計画が、すでに現実と乖離し始めている。
「第二小隊を増援に送れ。火炎放射器を追加で持たせろ」
同時刻——第三小隊、別ルート。地下25メートル。
第三小隊は、第一小隊とは異なるルートから深部を目指していた。
こちらのルートでは、兵隊蟻との大規模な交戦は発生していなかった。通路を進むにつれて働き蟻の数は増えたが、小銃で対処できる範囲だった。
しかし、通路の構造はますます不可解になっていく。
行き止まりが多い。分岐を選んで進むと、別の分岐に出る。そしてまた行き止まり。まるで迷路のようだった。GPS測位で位置を確認すると、同じ場所を何度も通過していることが分かる。通路が、螺旋状に同じ階層を巡るように設計されているのだ。
そして——天井崩落が起きた。
通路を進んでいた第三小隊の中央付近で、突然天井にひび割れが走った。ゴゴゴ、という地鳴りのような音が響き、次の瞬間、数トンの土砂が隊列の真ん中に降り注いだ。
5名の隊員が、瓦礫の下敷きになった。
「崩落! 5名が埋まった! 掘り出せ!」
前後に分断された隊列が、それぞれ瓦礫に向かって掘削を始める。だが瓦礫の量が多い。そして掘り出す前に、壁面から別の脅威が現れた。
壁面に開いた穴——3日前の探査データにはなかった穴——から、透明な液体が噴射された。
蟻酸だった。
通常の蟻酸よりも遥かに高濃度の、強力な酸性液体。直撃を受けた隊員の防護服の表面が泡立ち、溶け始めた。
「酸だ! 壁から酸が!」
隊員が悲鳴を上げながら後退する。液体が露出した皮膚にかかった隊員は、火傷を負ったように叫んだ。
さらに、通路の床が陥没した。
崩落で立ち往生していた隊員3名の足元が、突然抜け落ちた。ボコ、という鈍い音とともに、3名が穴に落ちる。深さ3メートルほどの穴。底には——尖った蟻の唾液で形成された杭が、無数に突き立てられていた。
落下した隊員のうち1名が、杭に胴体を貫かれた。即死。残り2名も脚を杭に串刺しにされ、穴の底で苦悶の声を上げている。
「こちら第三小隊! 天井崩落で5名が生き埋め、酸攻撃で3名が火傷、落とし穴で3名が落下! 死者1名確認! これは——罠です! すべて罠だ!」
小隊長の叫びが、無線を通じて指揮車に響いた。
佐々木の顔から血の気が引いた。
「罠だと?」
「天井崩落、酸の噴射、落とし穴——全部、仕掛けられています! 3日前の探査データにはなかった構造が追加されている! この巣は、たった3日で改造されています!」
午前7時30分——第四小隊、別ルート。地下30メートル。
第四小隊は比較的順調に深部まで到達していた。遭遇した蟻は働き蟻が数十匹程度で、兵隊蟻との交戦はまだなかった。通路の構造は複雑だったが、ポイントマンが慎重にルートを選択し、行き止まりを避けながら下層へと進んでいた。
小隊長の田中三等陸曹は、この順調さに逆に不安を覚えていた。他の小隊が激しい抵抗に遭遇している中で、自分たちだけが無傷で深部に到達している。まるで——通されているかのように。
通路を進むと、小さな部屋に出た。
天井高3メートル、幅4メートル、奥行き4メートルほどの正方形の空間。壁面は例の琥珀色のコーティングで覆われている。部屋の中には蟻の姿はない。
そして——部屋の中央に、何かが置かれていた。
箱。
長さ50センチ、幅30センチ、高さ30センチほど。蟻の唾液で形成された素材でできているが、形状は明らかに人工的——いや、人間が「箱」と認識する形をしている。上面に蝶番のような構造があり、前面には留め金のような突起がある。
宝箱だった。
ゲームに出てくるような、宝箱。
「……何だ、これ」
田中が眉をひそめた。
「罠じゃないですかね」
部下の渡辺一等陸士が警戒する。
「かもしれん。だが、確認する必要がある」
田中は慎重に近づいた。周囲に罠がないか確認する。天井、壁面、床面。ワイヤーや圧力板の類はない。箱自体にも、爆発物の兆候はない。
留め金に手をかけ、ゆっくりと蓋を開けた。
中には——小さなガラス瓶が3本、並んでいた。
いや、ガラスではない。蟻の唾液を精製して作られた、透明な容器。中に琥珀色の液体が入っている。容器の表面は滑らかで、指先に冷たい感触が伝わる。
「液体……?」
田中が瓶を取り出した瞬間、防毒マスク越しでも匂いを感じた。甘い匂い。3日前の調査チームが報告していたものと同じ——だが、桁違いに濃い。頭の奥に、酩酊のような浮遊感が染み込んでくる。
「マスクを絶対に外すな。全員、離れろ」
田中が指示を出した。
だが——遅かった。
渡辺がマスクを外していた。
「お、おい! 何やってる!」
「すみません、息苦しくて……あれ?」
渡辺が、深く息を吸い込んだ。甘い匂いが、肺の奥まで染み渡る。
その表情が、みるみる変わっていった。苦痛でも恐怖でもない。驚愕。そして——歓喜。
「……なんだ、これ。体が、軽い」
「は?」
「力が湧いてくる。すごい。すごいぞ、これ! 体が熱い! 筋肉が……筋肉が、動いてる!」
渡辺が、その場で跳躍した。
1メートル半ほどの高さまで、軽々と。フル装備の自衛隊員が——小銃、弾薬、防弾ベスト含めて20キロ以上の装備を身につけたまま——天井に頭がぶつかりそうなほどの高さまで跳んだ。
「なっ……!?」
田中が驚愕する。
渡辺は着地すると、興奮した様子で宝箱の中の瓶を掴んだ。
「これだ! この匂いだ! もっと、もっと吸いたい! いや、飲んでみたらどうなる? きっともっとすごい!」
「おい、落ち着け! それに触るな!」
だが、渡辺の目は既に正常ではなかった。瞳孔が開き、興奮で顔が紅潮している。合理的な判断力が、急速に失われていく。
瓶の蓋を外し、中身を一気に飲み干した。
「あ、ああああああっ!」
渡辺の身体が震え始めた。筋肉が膨張する。腕の血管が浮き出る。顔の輪郭が変わるほどの筋肉の急速な発達。防護服の袖がはち切れそうになる。
そして、渡辺の目が——変わった。
虹彩の色が薄くなり、瞳孔が異様に拡大している。表情から人間らしい理性の光が消え、代わりに獣のような衝動だけが残っている。
「力が……力が溢れてくる!」
渡辺が、拳を壁に叩きつけた。
ドガッ。
琥珀色のコーティングが砕け、その下の土壌まで陥没した。人間の素手で、コンクリートに近い硬度の壁に穴を開けたのだ。
「もっとだ! もっと欲しい! もっと強くなりたい!」
渡辺が、田中に向かって歩き始めた。
「渡辺、止まれ。命令だ。止まれ!」
渡辺は止まらなかった。目の焦点が合っていない。田中の声が聞こえているのかすら怪しい。もはや渡辺という人間ではなく、力への渇望だけで動く何かになっていた。
渡辺が殴りかかった。
田中は反射的に横に飛んだ。渡辺の拳が空を切り、背後の壁に激突する。壁に拳の形の穴が開いた。
「撃て! 脚を撃て!」
田中が命令した。隊員が89式小銃で渡辺の脚を狙い、発砲する。5.56ミリ弾が大腿部に命中した。
渡辺は——倒れなかった。
弾丸が貫通しているはずの脚で、まだ立っている。痛覚が完全に麻痺しているのか、それとも筋力の強化が肉体の損傷を補っているのか。血は流れているが、渡辺は気にする素振りすら見せない。
「くそっ!」
もう一発。今度は膝関節を撃ち抜いた。さすがに膝が崩れ、渡辺が片膝をついた。だがすぐに立ち上がろうとする。
田中は決断した。
「射殺しろ。頭部を狙え」
銃声。
渡辺の身体が、崩れ落ちた。
部屋が沈黙に包まれる。
田中は息を荒げながら、渡辺だったものを見下ろした。数秒前まで部下だった男が、床に横たわっている。
「……くそ」
呟いた。
だが、問題はそれだけで終わらなかった。
部屋に充満していた甘い匂いが、他の隊員にも影響を及ぼし始めていた。マスクのフィルターでは、この濃度のフェロモンを完全には遮断できなかった。
「隊長……頭が、ぼんやりして……」
「俺も……力が湧いてくる気がする……」
「あの瓶、もう一本ありますよね? 少しだけ……少しだけ吸ったら……」
隊員たちの目が、宝箱の中の残り2本の瓶に向いている。
「触るな! 全員、この部屋から出ろ! 今すぐだ!」
田中が怒鳴り、隊員たちを部屋の外へ押し出した。最後に自分も出て、宝箱に背を向ける。
通路に出ると、匂いは薄まった。隊員たちの目に、少しずつ理性の光が戻ってくる。
「……すみません、隊長。何か、おかしくなりそうでした」
「気にするな。だが、二度と外すな」
田中は無線を取った。
「こちら第四小隊。地下30メートル地点で未知の物質を発見。ガラス瓶状の容器に入った液体。吸引および経口摂取で人間の身体能力を異常に増強する効果あり。ただし精神に重大な影響。判断力を喪失し、暴力的になる。渡辺一士が摂取後に錯乱。やむを得ず射殺。残りの隊員にも軽度の影響あり。この物質は極めて危険です。全部隊に警告を」
午前8時30分——指揮車。
佐々木は、すべてのモニターを同時に睨みつけていた。
戦況は、悪化の一途を辿っている。
第一小隊と第二小隊は、地下20メートル地点で体長50センチの兵隊蟻の群れと交戦中。火炎放射器は有効だが燃料が急速に消耗しており、小銃弾は兵隊蟻の外骨格を貫通できない。手榴弾とC4爆薬で通路ごと吹き飛ばしながら前進しているが、爆破するたびに通路が崩落し、退路が塞がれるリスクが高まっている。
第三小隊は罠で壊滅的な打撃を受けていた。天井崩落、酸の噴射、落とし穴。すべてが、3日前の探査データにはなかった構造だ。たった3日で、巣の構造が根本的に作り変えられている。
第四小隊からは、未知のフェロモン物質の報告。人間を超人的に強化すると同時に、精神を崩壊させる液体。
そして、地下40メートル以深に送り込んだ偵察班からは——応答がなくなっていた。
「損害報告」
山本が、蒼白な顔で読み上げる。
「第一小隊、死者3名、負傷者12名。第二小隊、死者5名、負傷者18名。第三小隊、死者8名、負傷者15名、生き埋めの5名は救出不能。第四小隊、死者1名(渡辺一士、フェロモン中毒後に射殺)、フェロモン影響者5名。偵察班30名、消息不明」
佐々木は拳を握りしめた。
既に死者17名。負傷者45名。消息不明30名。作戦開始からわずか2時間半で、投入兵力の1割近くが戦闘不能になっている。
そして、巣の深部にはまだ到達すらしていない。地下40メートル以深には、何がいるのか分からない。兵隊蟻がさらに大型化している可能性。さらに巧妙な罠。そして、あのフェロモン物質。
「二佐」
山本が、静かに言った。
「作戦続行は困難です。巣の構造が、作戦計画時の想定と完全に異なっています。このまま兵力を投入し続ければ、被害は拡大する一方です」
佐々木は、歯を食いしばった。
山本の言うことは正しい。3日前のデータに基づいた作戦計画は、すでに破綻している。巣は3日間で改造されていた。罠が追加され、兵隊蟻は大型化し、通路構造は迷路のように複雑化していた。現場の隊員たちは、地図のない迷宮で戦っているようなものだ。
「……全軍に撤退命令を出せ」
「了解しました」
午前9時00分。撤退命令が全部隊に伝達された。
だが、地下40メートル以深にいた偵察班30名からは、最後まで応答がなかった。
おそらく——全滅。
午前10時30分——撤退完了。
自衛隊の車両が、次々と廃工場跡地から離れていく。
生還した隊員たちの顔には、疲労と恐怖と、そして困惑が刻まれていた。彼らは自衛隊員だ。災害派遣で瓦礫の下から人を掘り出し、PKOで武装勢力と対峙した経験を持つ者もいる。だが、今日経験したものは、そのどれとも違った。
担架に乗せられた負傷者たちが、救急車へと運ばれていく。酸による火傷を負った隊員。兵隊蟻の大顎で肉を抉られた隊員。落とし穴の杭で脚を貫かれた隊員。
そして——拘束された5名の隊員が、トラックに乗せられた。第四小隊でフェロモンの影響を受けた隊員たちだ。渡辺のように完全に錯乱はしなかったが、マスク越しに微量のフェロモンを吸引した影響が残っている。
「もっと……もっと吸いたい……」
「あの場所に戻りたい……」
「力が……あの力をもう一度……」
拘束されたまま、呻き続けている。目は血走り、筋肉が微かに痙攣している。フェロモンが体内から完全に排出されるまで、この状態が続くのかどうかすら分からない。
佐々木は、装甲指揮車のステップに腰を下ろし、蒼い空を見上げた。雲ひとつない、穏やかな朝の空。だがその下の地中では、人間の想像を超えた何かが、今もなお成長を続けている。
「総監部に報告しろ」
佐々木は、疲れ切った声で言った。
「作戦『ファイアストーム』は失敗。目標を殲滅できず。死者17名、負傷者45名、行方不明30名、フェロモン中毒者5名。巣の構造は、作戦計画時の想定と大幅に異なっていた。再偵察と作戦の根本的な見直しが必要だ、と」
「了解しました」
山本が敬礼し、通信車へと向かう。
佐々木はもう一度だけ、廃工場の方角を見た。地面の亀裂から湿った空気が立ち上っている。甘い匂いが、微かに風に乗って届いてくる。
あの地下には、人間の兵器を退け、人間の知性を嘲笑い、人間の身体を強化して玩具にする何かがいる。蟻と呼ぶには、あまりにも巨大で、あまりにも知的で、あまりにも恐ろしい何か。
「……これは、戦争だ」
佐々木は呟いた。
「害虫駆除なんかじゃない。これは——戦争だ」
地下深く。
女王蟻は、静かに卵を産み続けていた。
侵入者は退けた。
損害はあった。働き蟻の数百匹と、兵隊蟻の数十匹が失われた。だが、それは許容範囲だ。卵は次々と孵化し、失われた個体はすぐに補充される。そしてその新しい個体は、前の世代よりも強い。
戦闘から学んでいた。
火炎攻撃への耐性が必要だ。爆発への対策も。そして、侵入者の武器――金属の管から飛んでくる高速の物体――に耐えうる外骨格。
次の世代の兵隊蟻は、さらに硬く、さらに速く、さらに大きくなる。
そしてダンジョンも進化する。
今日の侵入者の行動パターンを分析し、罠の配置を最適化する。どの分岐で迷い、どの罠に引っかかり、どこで撤退したか。すべてがデータとなり、次の防衛に活かされる。
侵入者が強くなれば、ダンジョンも強くなる。
それが、血の主の望んだ構造だ。
女王蟻は、フェロモンを放出した。
働き蟻たちへの命令。
『ダンジョンを拡張せよ』
『もっと深く。もっと広く』
『もっと強く』
血の主の望むままに。
ダンジョンは、成長を続ける。




