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第1話「血の目覚め」

 目が覚めたのは、首筋の痒みのせいだった。


 ぼんやりとした意識のまま、俺は無意識に首を掻いた。腕も痒い。足首も。


 ――また、蚊か。


 窓を閉め忘れたんだろうか。寝ぼけた頭でそう思いながら、俺は再び眠りに落ちた。




 次に目を覚ました時、カーテンの隙間から差し込む朝日がやけに眩しかった。


 身体が重い。


 まるで一晩中走り続けていたかのような、妙な倦怠感が全身にまとわりついている。


「……だる」


 上半身を起こした瞬間、軽い立ちくらみがした。


 気のせいか、少し寒い。六月だというのに。


 三日前の高熱を思い出す。突然39度まで上がって、一晩で下がった。原因不明。病院にも行かなかった。ただの風邪だと思ったからだ。今朝の倦怠感がその続きだとしたら、ちょっと嫌な感じはある。


 洗面所に向かい、鏡を見る。


 そして、思わず声が漏れた。


「……多くない?」


 首筋に三箇所。

 鎖骨の下に二箇所。

 腕には数えきれないほどの赤い膨らみ。


 足首など、ほぼ一周している。


「どんだけ吸われてんだよ……」


 笑いながら言ったが、鏡の中の自分は少し青白かった。


 まあいい。蚊に刺されただけで死ぬわけじゃない。


 そう思った時、ふと違和感を覚えた。


 刺し跡の中心が、妙に黒い。


 かさぶたとも違う。


 針で深く抉られたような、小さな穴。通常の蚊の刺し跡は、せいぜい赤い膨らみだ。中心に穴なんか開かない。


 ――こんなだったか?


 一瞬だけ、胸の奥がざわついた。何か、見たことのない形の傷だ。


 だが次の瞬間にはどうでもよくなった。


 眠い。腹が減った。バイトに行きたくない。


 日常とは、大抵そんなものだ。




 キッチンに立ち、適当に朝食を作る。トマトとレタスを切るだけの簡単なサラダだ。


 包丁を握り、まな板の上にトマトを置く。


 ――その時だった。


 刃を引いた瞬間、鈍い痛みが走った。


「っ」


 反射的に手を引く。左手の人差し指から、赤い雫が滴った。トマトを押さえようとして、滑らせた。情けないミスだ。


「痛ぁ……」


 流しに向かい、水で洗い流す。大した傷じゃない。一応、絆創膏を貼っておくか。


 血が洗い流されていくのを見ながら、俺はぼんやりと考えた。昨夜、痒さのせいで睡眠が浅かったからか、集中力が落ちてる気がする。



 絆創膏を貼り、キッチンに戻る。包丁を洗って、トマトを切り直そうとした。


 ――スッ。


 音がしなかった。

 抵抗がなかった。

 トマトが、二つに分かれた。いや、分かれたというより――消失した、ような感覚だった。


「……ん?」


 妙だ。切れ味が良すぎる。


 試しに、レタスを切ってみる。

 刃を当てる。軽く引く。


 ――ズン。


 レタスだけじゃない。その下のまな板が、真っ二つになった。いや、まな板だけでもない。調理台のステンレスまで、綺麗に断面が走っていた。


「は……?」


 包丁を持ち上げる。

 刃こぼれ一つしていない。普通のホームセンターで買った、二千円の三徳包丁。それが、まるで神話の名刀みたいに切れる。


「何だこれ……」


 心臓が早鐘を打ち始めた。おかしい。物理法則が狂っている。ステンレスを、こんな簡単に切れるわけがない。


 冷静になれ。何か理由があるはずだ。


 俺は深呼吸して、思考を整理した。


 切れ味が異常になったのは、いつからだ? さっきまでは普通だった。トマトを切ろうとして、手を切った。その後――。


 ――血を洗い流した。


 待て。

 血を洗い流す「前」と「後」で、何が変わった?

 包丁は同じ。まな板も同じ。俺の握り方も変わってない。

 変わったのは――。


「……血?」


 呟いた瞬間、パズルのピースが嵌まった。


 手を切った時、血が包丁に付いた。


 その後、洗い流した。


 ――だが、洗い流す前に、血が刃に染みたとしたら?


 まさか。

 いや、でも。


 俺は震える手で包丁を置き、流しを見た。さっき、血を洗い流した場所。水で薄まった血液が流れていった排水口。シンク自体には、特に異常は見当たらない。ステンレスは普通のまま。傷一つない。


 ――水で薄まったから、か?


 仮説が組み立てられていく。


 俺の血には、何かがある。それが物体に付着すると、その物体が変化する。ただし、水で薄まった程度では効果がない。一定以上の濃度で、直接付着しなければならない。


 と、したら。


「……マジかよ」


 声が震えた。でも、これは確かめなければならない。


 俺は絆創膏を剥がす。


「って、あれ?」


 傷が消えていた。


 五分前に切ったばかりの指先。確かに血が出ていた。それが、跡形もなく治っている。あり得ない。


 だが――先ほどの包丁の件に照らし合わせるなら。


「絆創膏も、変化した……?」


 ゴクリ、と生唾を飲み込む。


 もし仮説が正しいのなら。包丁に血が付いたら切れ味が極限まで上がった。だとすれば、絆創膏に血が付いたら――絆創膏の「用途」が強化されたのか。傷を塞ぐ、という用途が。


 確かめる。


 俺は包丁を手に取り、軽く指先に刃を当てた。プツリと赤い粒が浮き出る。思ったよりは痛くない。


 その部位に絆創膏を貼り直す。


 血が一瞬、滲んだ――かと思えば消えた。


 すぐさま絆創膏を剥がし、先ほど包丁を突き立てた部位を見た。


「傷が消えてる……」


 小さな傷ではあったが、普通はこの一瞬で治るものではない。間違いなく、傷が癒えている。


 仮説は正しかった。


 俺の血は、物を変える。


 付着した物体を、その用途の方向で極限まで強化する。


 包丁なら、切れ味。

 絆創膏なら、傷を癒す効果。


「すごい……」


 声が漏れた。


 しかし。何故、急にこんな現象が起き始めたのか。血を流した事など、今まで何度もある。だが、こんな現象は今日が初めてだ。


 考えられる変化は一つしかない。三日前の原因不明の高熱。あの日を境に、俺の体内で何かが変わった可能性がある。


 ……だが、それ以上は分からない。


「考えても分からんな」


 俺は深く気にしないことにした。原因の追究よりも、今は検証の方が面白い。


 バイト先に休みの連絡を入れる。折角、こんな面白そうな事が起きたんだ。色々と試さなきゃ損だ。


 俺の中で、自制心と好奇心が拮抗していた。


 そして、好奇心が勝った。




 休みの連絡を済ませた俺は、部屋を見渡す。


 何を試すべきか。


 まず、法則を理解する。俺の仮説は「血が物体に付着すると、その物体の用途が極限まで強化される」というものだ。だが、これはまだサンプル数が二つしかない。包丁と絆創膏。切る道具と、傷を塞ぐ道具。


 他の物でも同じ現象が起きるのか。起きるとしたら、「用途」はどのように解釈されるのか。


 これは系統的に検証する必要がある。


 俺は机の引き出しから、使い古したボールペンを取り出した。インク切れで、もう何ヶ月も放置していたやつだ。


「これでいいか」


 包丁を手に取り、指先に小さく刃を当てる。チクリとした痛み。赤い雫が滲む。


 ――慣れたくはないな、これ。


 苦笑しながら、血の雫をボールペンの先端に押し付けた。一滴、二滴。赤い液体が、プラスチックの表面に染み込んでいく。


 数秒後。変化はなかった――ように見えた。


「……ん?」


 だが、ペンを握った瞬間、違和感があった。軽い。いや、軽くなったわけじゃない。手に馴染む感覚が、異常なほど心地いい。


 試しに、近くにあったチラシの裏に文字を書いてみる。


 ――スラスラと、ペンが走った。


「うわ」


 驚きの声が漏れた。


 まるで高級万年筆のような書き心地。いや、それ以上だ。書きたいと思った線が、思った通りに引ける。しかも、インク切れだったはずなのに、鮮やかな黒インクが紙に定着していく。


「インクまで復活してる……」


 これは予想外だった。ペンの用途は「書くこと」。ならば、書く機能が極限まで強化される。インクが復活するのも、その一部。仮説と整合する。


 興奮を抑えきれず、次々と試したくなった。


 眼鏡。スマホ。ティッシュ。ハサミ。フォーク。


 部屋にあるもの全てが、実験対象に見えてきた。


 だが――ふと、手が止まった。


「……待てよ」


 冷静になれ。確かに、これはすごい力だ。でも、何でもかんでも試していいのか? 包丁の切れ味を見ただろう。ステンレスを紙のように切り裂いた。もし、これが危険なものに使われたら?


 いや、それ以前に。


 ――生物に使ったら、どうなる?


 背筋がゾクリとした。


 仮に俺の血が定着して強化された道具を『魔道具』と呼ぶならば。生物に使えば――何が起きるのか。


 俺は自分自身が恐ろしくなった。


 だが、同時にこうも思ってしまった。


 ――めちゃくちゃ、面白そうじゃん、と。


 蚊に刺された患部をポリポリと掻きながら、俺は口角が自然と上がっているのを感じていた。




 その日の夜。


 俺は一日中、部屋にこもって実験を続けていた。


 結果は、予想以上だった。


 眼鏡に血を付けたら、視力が劇的に向上した。部屋の隅にいる小さな虫の体表の毛の一本まで、はっきりと見える。それだけではなく、暗い場所でも明るく見え、動くものの輪郭が鮮明になった。見えすぎて、少し気持ち悪いくらいだ。


 スマホは充電が減らなくなった。処理速度も回線速度も異常なまでに向上し、アプリの切り替えが一瞬で終わる。バッテリーの残量表示は「100%」から微動だにしない。


 ティッシュは、触れた瞬間に汚れを吸い取った。テーブルにインクをこぼして試してみたが、ティッシュを一枚当てただけで、一瞬で真っ白に戻る。汚れを取るという用途が、極限まで強化されている。


 フォークは、木製のテーブルをプリンのように貫いた。「刺す」という用途の強化。これは包丁と同じカテゴリだ。


 運動不足解消のために購入して、ずっと埃を被っていたダンベル。これは握って一回カールしただけで、腕がパンパンになった。筋肉を鍛えるという用途の強化。ダンベルに血を付けたことで、トレーニング効率が異常に上がっている。


 ハサミは――試すのをやめた。包丁と同じ結果になるのが目に見えていたからだ。


 そして、最も驚いたのが服だった。


 今着ているTシャツとジーンズに血を垂らしてみた。見た目は何も変わらない。だが、試しに――魔道具化していない方の包丁を自分の腕に当ててみた。


 刃が、皮膚に到達しなかった。


 押しても引いても、切れない。まるで鋼鉄の上を滑っているかのように、刃が弾かれる。


「……嘘だろ」


 衣服の用途は「着用者を守ること」。その機能が極限まで強化された結果、着ている俺の肉体そのものが鋼のようになっている。


 ただし、限界はあった。


 同じく魔道具化した包丁――ステンレスを紙のように切るあの包丁を腕に当てると、普通に切れそうな感触があった。慌てて離したが、つまり魔道具同士ではこの防御は突破されるということだ。


 過信は禁物。


 だがこの服、脱ぐ理由がない。汗をかいても匂いがしない。汚れもつかない。着心地は最高。そして、着ている限り身体が鋼になる。


 ――これは、脱がないだろうな。


 俺はそう結論づけた。



「やばいな、これ……」


 夜、ベッドに横になりながら、天井を見上げた。


 俺は興奮と同時に、少しの恐怖を感じていた。この力、使い方を間違えたら本当にまずい。


 でも、使わないのはもったいないし、何より好奇心が止められない。これは、うまく制御できれば、生活が一変する。


 ――いや、もう変わり始めている。


 たった一日で、俺の部屋は魔道具だらけになった。


 何でも切れる包丁。傷を瞬時に治す絆創膏。永遠にインクが尽きないペン。超視力の眼鏡。着る者を鋼にする服。無限バッテリーのスマホ。


 これだけでも十分すぎるくらいだが、まだ試していないものはいくらでもある。


「明日は何を試そうかな」


 頭の中には、実験のアイデアが次々と浮かんでくる。


 消しゴム。傘。鍵。懐中電灯。靴。時計。


 どれもこれも、どんな風に変化するのか想像するだけで楽しい。


 こんなにワクワクしたのは、いつ以来だろう。


 受験の時も、就活に失敗してフリーターになった時も、バイトを始めた時も、こんな気持ちにはならなかった。退屈な日常が、今日を境にまるで違うものに見える。


「……最高かよ」


 独り言を呟いて、俺は笑った。


 蚊に刺された跡が、まだ少し痒い。


 ポリポリと掻きながら、ふと思う。こんなに大量に刺されたのは初めてだ。首、腕、足首。刺し跡の数は三十箇所を超えていた。あの黒い穴。普通の蚊の刺し跡とは違う、何か。


 ――まあ、いいか。


 それより明日の実験だ。


 生物に血を使ったらどうなるか。さっき考えて、背筋がゾクリとした。でも同時に、面白そうだとも思った。


 虫とか、植物とか。小さいものから試してみるのがいいだろう。


 充実した一日だった。


 明日も、きっと楽しい。


 そんな確信を胸に、俺は眠りに落ちた。


 蚊の刺し跡が、暗闇の中で微かに脈打っていることには、気づかなかった。

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