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第八話 削除されなかったものたち

 未定義個体が消えた後も空間の歪みは残っていた。


 膜状の層がゆっくりと脈打ち、何も起きていないはずなのに、耳鳴りのようなノイズが頭の奥に引っかかる。ルナリアは大鎌を握ったまま、深く息を吸った。


 吸ったはずの空気が、肺に溜まらない。この場所では呼吸の感覚すら信用できない。

それが胸の奥に言い表せない不安を抱かせる。


「……さっきさ、みんなも聞こえた? 声、みたいなの……」


 ミオがそう言ってみんなの顔を見る。

彼女の笑顔がほんの少しだけ無理して笑っているようにも思えた。


「最近のダンジョン、凝ってるって聞くし。ボイス演出とか……」


「まあ……そういうことにしとこう」


 レイも同調するが視線は少し下に下がっている。

 カナメは何も言わず、盾の表面に走った傷を確認していた。


 ルナリアも気にしていないようにしながらも、思考だけは先ほどのことを考え続けていた。未定義個体が消える直前、確かに“声”がした。それは全員に聞こえていた。


 だが意味を捉える前にノイズに溶け、ログにも残らない。

演出だと考えなければ説明がつかない。


 それでも理屈とは関係ないところで気になってしまっている。

ただ一つだけ、ルナリアの胸に残っている感覚。


 ――置いていかれる。


 そんな言葉にもならない、感情の起伏としか表現できない何か。


 その時、奥の層が再び揺れた。

新たな気配が迫ってくる。


「来る!」


 二体目の未定義個体が姿を現す。


 名称は同じ。

 だが、形はまるで違う。


 縦に引き延ばされたような姿。

 四肢は細く、関節の位置がずれている。頭部らしきものは、斜めに傾いたままだ。


 次の瞬間、距離が消えた。


 突進。

 回転。

 空間を滑るような移動。


「速い……!」


 ルナリアが振るう〈REAP〉は当たる。

 だが、ダメージは浅い。


 振り終わりの硬直。


 そこを、正確に突かれる。


 衝撃。

 HPが一気に削られる。


「回復、回す!」


 ミオの詠唱が走る。

 彼女のMPバーが目に見えて減る。


「……詠唱が……! 遅延が酷い!」


 下層の遅延は、確実に積み重なっていた。ルナリアも回避の入力が遅れて何度も攻撃を喰らいかけてしまう。意思では動いているはずなのに体や口が一拍遅れてしまう。

この遅延も下層特有の環境なのだろうか。


 カナメが前に出て、盾で押し留める。が、力を逸らすタイミングがずれてダメージを喰らう。


 レイの矢が牽制に走る。しかしいつも弱点を狙い撃つ矢が僅かにズレる。


 倒すまでに、全員のHPは半分以下まで削られた。


 そして。


 消える直前。


『……ま、だ……』


 今度は、はっきり聞こえた。


 音というより、意志が直接触れてくるような感覚。全員が確かに聞いていた。


「……今の、二回目だな」


 レイが低く言う。


「うん。さっきより……分かりやすかった」


 ミオの声が、自然と小さくなる。


「演出……だよね?」


「演出だろ」


 カナメが即答した。


「そうじゃないと、なんだって言うんだ?」


 誰も反論しなかった。


 そして少なくともここは長居する場所じゃない。

それは、全員が無言のうちに共有していた。


「一旦、戻ろう」


 ルナリアはテレポートアイテムを取り出す。戦闘中には使用できないが、そうでなければ世界のどこでも使えるとテキストで書かれている。下層からも脱出することができるはずだ。


 全員がテレポートアイテムを取り出し。


 起動。


 光が広がり、身体が引き伸ばされる感覚。視界が白く染まる。

そして目の前に広がった景色は――。


 ――変わらない下層の景色だった。


 同じ場所。

 同じ歪んだ層。


「……戻って、ない?」


「今、エフェクト出たよね?」


「間違いない。こんなのありえない」


「もう一回試してみよう。遅延のせいかもしれない」


 もう一度。


 起動。

 光。

 浮遊感。


 しかし結果は同じだった。


 テレポート“しようとする挙動”だけが発生し、座標が固定されたまま離れない。

何度も何度も試す。しかし何も変わらなかった。


「……本当にどうなってるの?」


 ミオの声が震えている。


 回復アイテムの残数はすでに半分以下。

ミオのMPも残り三割を切っている。

装備の耐久値も確実に削れていた。


 カナメの盾にはヒビが入り、耐久値が黄色に変わっている。

 ルナリアの大鎌も刃の縁に微細な欠けが走っていた。

 レイの矢も残り少ない。


「長くは……もたないな」


 レイの言葉が、現実を突きつける。


 それでも、進むしかない。


 三体目。

 四体目。


 未定義個体は、それぞれ微妙に違っていた。

 動きも、癖も、攻撃方法も。


 そして、声も。


『……ひとり……?』

『……いか、ないで……』


 戦うたび、ノイズは減り、輪郭が増していく。


「……最近のダンジョン、怖すぎない?」


 ミオが冗談めかして言うが、笑いは起きない。


 ルナリアは、そのたびに胸の奥がざわつくのを感じていた。


 演出にしては凝り過ぎている。

だがそれを口に出す余裕はない。不安を煽るようなことを言って連携を妨げるわけにはいかないのだ。


 回復アイテムは進んでいる内に尽きた。

ミオのMPはほぼ底。完全に回復手段を失った。


 全員のHPは、常に危険域を行き来している。それでも出口は見つからない。中層に抜ける手がかりさえも見当たらない。


「……ん? 待て、みんな!」


 レイが足を止めて警告する。


「ここ、広すぎる! もしかしたらここは――」


 気づいた時には、もう遅かった。


 天井が高い。

床は円形に開け、中央からゆっくりと巨大な影がせり上がってきた。


 それまで圧迫していた層が、ここだけ不自然に静止している。


 UIが遅れて警告を表示する。


《ボスエリア》


 誰もすぐには動けなかった。


 影がゆっくりと動く。


 巨大。

 質量がある。

 今までの未定義個体とは、明らかに違う。


 複数の歪みが無理やり一つにまとめられたような姿。

腕の数は定まらず、身体の一部が溶け落ち、また再構成されている。それは高く高く聳え立ち、ついには天井付近までその体を膨張させていった。


 最後に頭部らしきものが持ち上がる。


 その瞬間。


 空間が軋んだ。

確かに視線で射抜かれた。


「……やばい……やばいよ、これ……っ」


 ミオが呟く。


 逃げ場はない。

 テレポートは使えない。

 回復資源も枯渇している。


 巨大な未定義の存在が、こちらを“見据えた”。


 圧倒的な存在感。

数値では測れない“格”の違い。


 この下層の“本体”がようやく姿を現したかのよう。


 戦闘開始の合図もなく。


 ただ絶望だけが、静かに立ち塞がった。

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