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第七話 未定義の敵

 落下は衝撃を伴わずに終わった。


 代わりに身体の内側を撫で回されたような違和感だけが残った。急な自由落下で内臓の位置が一瞬ずれた気もする。上下の方向がわからなくなる感覚は二度と感じたくない。

地面の上でルナリアはしばらく動けなかった。


 痛くはない。

 バグ、なのだろうか。

 落下ダメージもなさそうだった。


 現実感の無さがひどく気持ち悪い。


 数拍遅れて世界が像を結ぶ。そこはとても暗い空間だった。


「……全員、いる?」


 自分の声がやけに乾いて聞こえる。洞窟っぽいのに声もあまり反響しない。

現実感が全くない。


「いるよ」


 ミオの声はいつもより硬い。


「こっちも問題ない」


 カナメが短く言い、盾を構え直す。


「ここは……完全に下層だな」


 レイは洞窟の壁を観察しながらそう言った。彼の断定には迷いがない。


 ルナリアは立ち上がり、周囲を見渡す。


 そこは、これまで見てきたどのダンジョンとも違っていた。

洞窟を構成する素材は岩でも土でもない。半透明の層が幾重にも折り重なり、内側で淡い光が脈打っている。床はあるが、踏み込むとわずかに沈んで反発が遅れて返ってくる。


 空はない。

天井も、壁も、曖昧な造形。僅かに形を変えているような気さえする。


 音が吸われる。

足音も、呼吸も、途中で溶けて消えていく。


「……戻れない、よね」


 ミオの呟きに誰もすぐには答えられなかった。確かに頭上には巨大な裂け目のようなものがある。しかしその裂け目全体が半透明の何かで塞がれていた。レイが弓を天井に射るとその半透明の何かに阻まれて止まってしまう。


 上からは入れても下からは出られない仕組みなのだろう。


 やっかいだな……。


 下層。

 混沌領域。


 ゲーム設定上、形状も敵も安定しない最深部。

“挑戦する場所”ではない。難易度のわりに見返りが少ないことからプレイヤーたちから実質的に遠ざけられてしまった場所。


 ルナリアはステータスウィンドウを開こうとする。


 反応が、遅い。


 一拍。

 二拍。


 やっと表示されたUIは文字が微妙に滲んでいた。


「……操作、かなり重い。みんなも同じ?」


「……私も。それに魔法詠唱も遅延してるかも。いつも通りの感覚じゃない」


 ミオの声にはっきりとした緊張が混じる。カナメやレイもステータスウィンドウを確認して顔を顰めている。


「これ下層特有の現象なのか? それともあの地割れといい、バグだったりしないか?」


「あまりこのゲームでバグ報告は聞いたことない……。ましてやこんな――」


 その時だった。


 前方の空間が、波打った。


 正確には“層”が内側から押し広げられるように歪む。


 そして何かが抜け落ちてくる。それは生物的な動きを持ってその形を露わにした。


《未定義個体》。


 表示された名前は、それだけだった。


 形は人型に近い。だが輪郭が定まらない。腕の数が揺れ、脚の位置も曖昧だ。顔らしき部分には、目も口も存在しない。


 なのに。


 こちらを見ていると、はっきり分かった。分かってしまった。

そして明らかにこちらを敵視していることも。


「来る!」


 レイの叫びと同時に、敵との距離が消えた。


 未定義個体は、歩かない。

空間を滑るように詰める。そのスピードも今までのモンスターと比べ物にならない。


 最初の一撃を、カナメがギリギリで盾で受けた。

――受けた、はずだった。


 衝撃が盾越しに伝わり、カナメの身体ごと弾き飛ばされる。


「カナメ?!」


「っ……!」


 カナメのHPバーが異常な速度で削れる。明らかに異常だ。


「防御値、ほぼ無視されてる……!」


「なんだって?!」


「みんな気を付けろ。ステータスに頼ってたらすぐに死ぬ!」


 ルナリアは踏み込んだ。


 大鎌《刈り取るもの・アグリオン》を振る。

そして瞬時に〈REAP〉発動。


 刃は当たった。

だが、途中で感触が抜ける。確かに当たったはずなのに、当たったと思った瞬間すり抜けたような感覚。


 ダメージ表示は、信じられないほど低い。


「効きが……浅い!」


 次の瞬間、身体が縛られた。


《デバフ付与:

 硬直 0.8秒

 被ダメージ +20%

 被回復量 −30%》


 回避の入力に失敗してしまった。下層でこの硬直は致命的。

まさかここでプレイミスをしてしまうなんて。


 未定義個体は即座に距離を詰める。空間が歪み、背後に回り込まれる。

それをルナリアは気配で感じ取ることしかできない。


 衝撃。


 視界が赤く染まり、HPが一気に削られる。


「ルナ!」


 ミオの回復が飛ぶ。

だが回復量が足りない。


 死が、具体的な数値として迫る。


 まずい!

 このままじゃ、押し切られてしまう!


 レイが未定義個体の意識がルナリアに向いている隙を突いて攻撃を行う。

確かに矢は刺さった。にもかかわらずそのダメージは微々たるもの。


「くそ! どうなってるんだ!」


 その時、未定義個体の動きが、一瞬だけ乱れた。


 攻撃モーションが途中で引き延ばされる。

次の動作を選び損ねたような、不自然な間。


 理由は分からない。


 だがその隙をルナリアは見逃さなかった。


 胸の奥に、衝動が湧く。


 怒りではない。

 恐怖でもない。


 ただここで引き下がれないという、単純な意志。


 大鎌が淡く光った。

刃に刻まれた文様が脈打ち、色合いがわずかに変わる。


「……?」


 意図したわけじゃない。

けれど、今なら――振れる気がした。


「カナメ、正面!」


「任せろ!」


 盾が叩きつけられ、その衝撃をカナメは器用に逸らした。未定義個体のバランスが崩れて確かな隙が生まれる。あのスピードに追い付くには今しかない!


「ミオ、回復前倒しで!」


「分かった!」


「レイ、中心狙え!」


「もうやってる!」


 矢が歪みの中心を射抜く。未定義個体がレイに視線を飛ばした瞬間。

――ルナリアは踏み込んだ。


 〈REAP〉。


 懐に飛び込み、敵の視界にできるだけ捉えられないように低姿勢で接近する。

そして切り上げるようにしてスキルを叩きこんだ。刃が触れた瞬間。


 手ごたえが……違う!


 今までの“抜ける”感触じゃない。確かに何かを削った感覚。

未定義個体が、はっきりと怯む。


 HPバーが、目に見えて減った。


「今の、効いた!」


 レイの声。


「よし、行けるぞ。今の調子で行こう!」


 理由は分からない。

 理屈も、説明もつかない。


 ただ。


 この一撃は確かに通った。


 硬直。

被ダメージ増加。


 それでも止まらない。


 ルナリアが回避後に硬直したところをカナメが割り込んで敵の動きを逸らす。

ミオが回復とバフ、敵へのデバフを掛け、レイが正確にその中心を撃ち抜く。


 そんな攻防が幾度も幾度も繰り返された。

全体のHPに対して少し削れる程度。それでも最初の一撃と違って確かに攻撃が通り始めている。


 そして最後に、ルナリアの一撃。


 その刃は未定義個体を横に切り裂き、HPの全てを削り切った。


「や、やった……っ」


 その時だった。

未定義個体は崩れ落ちる直前、かすかな“何か”を残した。


『……こ、こ……』


 音とも声とも言えない感触が、頭の内側を掠める。


 一瞬だけ。

なのに妙に頭に残るような感覚。


 敵は完全に消えた。


 沈黙。


 誰もすぐには動けなかった。


「……今の、何?」


 ミオが小さく言う。


「分からない」


 ルナリアは正直に答えた。


「でも……効いたな」


 レイは周囲を警戒しながら、低く言う。


「下層の敵は数値通りじゃないっぽいな。HPの量は中層の中ボスと変わらなかった。今のは、たまたま噛み合っただけかもしれない」


 カナメが頷く。


「俺たちのステータスが無視されている可能性もあるよな。だとしても再現できるなら生き残れる」


 ルナリアは大鎌を見る。


 《刈り取るもの・アグリオン》。


 刃の光はまだ消えていない。


 強い。

けれどその光は危ういものを連想させる。


 そしてこの場所は。


 戻ることを前提に作られていない気がする。

マップの表示もバグのようになっていて、どこに出口があるのかさえ分からない。そしてここの敵は異常に強い。


 下層に落ちるとは、無理ゲーを突然押し付けられるようなものか。


 その事実が遅れて全員の胸に重く沈み込んでいった。


 今はまだ。

 そうだ。

 ここに来るには早すぎた。


 ルナリアたちはその事実を噛み締めた。

 戦闘描写って、本当に難しい……。

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