あなたのお母さんです
○○くんへ。(○○は黒塗りされており解読不能)
○○ちゃんと書けば、あなたはまた怒り出すかもしれません。ですから、○○くんと書きます。
あの日、お母さんと○○くんは、またしても大喧嘩をしました。
あなたは三〇歳にもなって部屋に閉じこもり、家事も手伝わず、まるで重苦しい空気のようにお母さんと口をきいてくれません。
起きているのか寝ているのかわからず、一日中ゲームの音を鳴らしています。そしてぶくぶくと肥え、髪の毛はぼさぼさなのに、額は……そうですね、髪の毛の話をすると、またあなたは怒り出すかもしれません。でも、お母さんはあなたのことが心配で仕方がないのです。
あのとき、○○くんがお母さんを怒鳴りつけたその瞬間、突然女神さまが現れ、あなたを異世界に転移させると告げました。そして、その世界をめちゃくちゃにしている魔王を倒せと命じたのです。
あなたは腰が抜けたようにへたり込み、でも笑っていましたね。信じられない、といった様子で大きく見開かれた瞳は、目の前の出来事を理解しようと必死でした。決して女神さまの胸を見ていたわけではないと信じています。
そして大声で叫びました。「やった! ついにこんな最悪な生活から脱出できる。新しい世界でやり直しができる」と。
だけど、お母さんにはわかります。それは意地をはっているだけだと。本当は怖いんだけど、お母さんを怖がらせないための強がりなんだと理解していました。
だからそんなことは、させられません。中学の頃から引きこもりがちになり、高校受験に失敗し、しかし高等学校卒業程度認定試験《高認》に合格したものの、大学受験には失敗。それ以来、何度かアルバイトはしていましたが、すぐに辞めてしまいました。
そんなあなたが、恐ろしい魔王がいるという異世界での冒険に耐えられるはずがありません。
しかし、あなたはお母さんのために、勇気を出して自分が行くと言ってくれました。その真摯な瞳が、今も脳裏に焼き付いています。あなたが本当に怖がっているのは、お母さんを置いていくことなのだと、すぐにわかりました。やはり女神さまの胸を見ていたわけではありませんよね。
だから、お母さんが「それなら私を異世界に行かせてください」と女神さまにお願いしました。女神さまがそれに頷いた時のあなたの顔が忘れられません。
あなたは「うるせぇ、クソババァ、すっこんでろっ。俺はこんな部屋で一生を終わらす気はねぇんだ! 俺が行くって言ってるんだよ!」と口悪く罵ってまでお母さんを引き留めようとしました。あの言葉は、お母さんを危険な目に遭わせまいとする、あなたの精一杯の強がりだったことを知っています。
でも、女神さまはもうお母さんを異世界に転移させると決めてしまっていましたね。
その表情は青ざめ、心の底から絶望しているようでした。そして「俺が行く」と何度も言い張りました。あなたがお母さんのことをそこまで心配してくれていた。それだけで十分です。あなたに愛されていることを改めて知ることができました。長い間、私たちはすれ違いが多く、時として言い争うこともありましたが、今を思えばあなたとの時間をもっと大切にしていればよかったと悔やまれます。許してください。
山をも切り裂く聖剣、山をも吹き飛ばす最強の魔法。女神さまはどちらかを与えるといいました。
女神さまは山に恨みでもあるのでしょうか。でも、お母さんは山に恨みはありません。
いいえ、むしろお母さんにとって山は大切な場所なのです。
あなたのお父さんと二人でドライブに行った時、山頂から眺めた街の夜景が忘れられません。きらめく光の海の中にお父さんは手を伸ばし、そっと指輪をつまみだしました。そして私の左手の薬指にはめてくれたのです。その後の出来事は……話す必要はないでしょう。あなたを授かったこと、それがあの夜の出来事が作り事でないことの何よりの証明です。
あの時、誰よりも逞しかったお父さんも今ではすっかりふやけたような体になってしまいました。あなたがそうならないか心配です。
とにかく、お母さんにはどちらも不要です。○○くんに手紙を送る能力を授けていただきました。
だからこの手紙を書いています。あなたへの、最初で最後になるかもしれない手紙です。
それは宮殿のお庭のようでした。
でも、お母さんの知っている鄙びたものではありませんでした。大理石の縁石は磨き上げられ白い光沢を帯びていました。それが遠くの宮殿まで続いているのです。宮殿はフランスの近世の建物を想像させますが、それもまた白く美しいのでした。縁には黄金の装飾が施されていました。泥棒が盗って行かないか心配になってしまいます。
薔薇の花が咲きほこり、赤や薄桃色の花から漂うその甘い香りは、突然見知らぬ場所へ転移してきた不安な心をほぐすかのようでした。
それを打ち消すように首を振りました。美しい光景の中でうつつを抜かしていることはできません。
あなたの代わりとしてこの世界に転移してきたのです。魔王を討つという女神さまの命令を果たさなくてはなりませんから。もしお役目に失敗すれば、次に転移させられるのはあなたでしょう。それは絶対に阻止しなくてはなりません。パンパンと頬を叩き気を引き締めました。
だけど、お母さんは不安でした。そうです、こんなことになるなんて思っていなかったので、いつものジャージ姿だったのです。あなたと喧嘩をする前は、せんべいをぼりぼりと食べ、お腹をぼりぼり掻いていたのです。きっとこの美しい宮殿とは違いみすぼらしく映るはずです。焦りました。宮殿の人に見つかると、不審者として追い出されるかもしれません。財布も持っていません。そうなると魔王討伐どころではなくなるでしょう。
焦ってポケットに何か入っていないか探ろうとしたときに、はたと気づきました。自分の腕が細くすらっと伸びているのです。肌は白く瑞々しく、水をはじくのではないかと言うほどの潤いと張りがありました。手の甲にも皺はなく、波打った爪ではなく、それこそ真珠の表面のような光沢のあるものでした。
そして着ている服もジャージではありません。シルクのような肌触り、水色でふわりと広がったスカートの裾。自分の頬に触れてみました。そこには三十歳になってから使う基礎化粧品でも、取り戻すことのできない滑らかな感触と艶がありました。
改めて周囲を見渡すと、円形の噴水があります。それも大理石で造られ、中央には水瓶を持ち、薄手の布を体にまとい、風になびく衣のようなマントを羽織った女性の石像が立っていました。
噴水は水を出していませんでしたが、都合がよかったのです。波ひとつなく鏡面のようになった水面で自分の顔を確認しました。
「ほわあぁ……」
思わず長いため息が漏れます。
池を覗き込んでいるのはどう見ても十代の少女です。いえ、美少女です。軽くウエーブを描いた腰までの金色の髪、やはり黄金色の整った眉に長いまつ毛、そして大きく見開かれた瞳。白い肌で頬にはうっすらと朱がさしていました。鼻は少し低く見えましたが、少女の美貌を損ねるものではありません。そしてぷるんとした桜色の唇。まるでお母さんの若い時の姿にそっくりなのです。いえ、少し嘘をつきました。お母さんはこれほどの美少女ではありませんでしたが、その差は少しですよ。
あまりにもの美しさに頬に手を当て見入ってしまいます。
そのような時です。お母さんの背後で誰かが同じように池の中を覗き込んでいたのです。
「あわわわっ」
驚いた拍子にバランスを崩し池の中に落ちそうになったのです。
背後にいた人はお母さんの手を掴み体を支えてくれました。
お母さんより一回り小さな青年でした。いえ、銃士に見える衣装に身を包んだ彼の顔立ちからは少年のようなあどけなさを感じました。
「大丈夫ですか?」
女性のような声です。高音域を歌う歌手のようです。伝説のカストラートなのかと思い、彼の股間部をじっと見つめてしまいます。そしてかすかなふくらみをみて思わず安堵のため息をしてしまいます。このことはお父さんに秘密にしておいてください。
青年はため息の意味を水に落ちる心配がなくなり、安心したのだと受け取ってくれたようです。穏やかな微笑みを浮かべ、お母さんを抱え上げるように起こしてくれます。
彼の腕の中にいたのは、おそらく一瞬の出来事でした。だけど、その腕の中から彼を見上げたとき、時間が止まったかのように見入ってしまいました。
青い髪が揺らめいています。そのせいか薔薇の香りが彼から発せられているような錯覚を覚えます。その髪はまるで、あなたの剛毛の髪質を細く柔らかく繊細にしたうえに量を増やしたような印象でした。
この世のものとは思えない蒼く澄んだ宝石のような瞳です。その大きな瞳は、あなたの細目勝ちな目を大きく見開かせ、淀み濁った昏い瞳を徹底的に磨き上げたかのようでした。
すっと伸びた鼻梁は、あなたの鼻をつまんで整えながら慎重に持ち上げたかのようでした。薄い唇はあなたの腫れぼったい唇の厚さを半分に吸い取ったかのようです。
あなたのごつごつと角ばった頬を、研ぎ石で削ぎ落したかのようなきれいな頬と顎のライン。あなたを漂白系の洗剤を使って頑固な汚れを取り払ったかのような清涼感のある小顔。
そうです。目の前に理想のあなたを形どったかのような青年です。元の世界に残してきたあなたの面影とぴたりと重なるのです。お母さんの心は胸が早鐘を打つように昂っていきます。
「○○くん……」
迂闊でした。頭一つ分背の低い彼にあなたの名前を呟いてしまいました。お母さんは何も言えなくなり赤面して俯きます。
しかし、青年はそれを咎めることもなく、穏やかな笑みを浮かべたまま跪きます。
「あなたは女神さまが遣わした勇者さまですね。宮廷魔術師の神託を受けお待ちしていました。私の名前はレウ=カーグョセナ・ド・ヘリンセと申します」
「へ? レウカーグョ……」
すっかり動転していたお母さんは彼の名前をまともに言えません。彼は立ち上がると再び微笑みを浮かべます。その微笑みはお母さんの心を溶かします。
「レウと呼んでください。この王国の第三王子ですが、ヘリンセを拝領し統治の任についています」
「レウ……」
胸に手を当ててその名を呟きます。そうすると彼の微笑みが満面に広がります。その笑顔と共にすんとお母さんの心に刻まれます。
「私は……」
自分の名前を告げようとすると、彼の人差し指がお母さんの口元にそっと置かれました。
「魔王がどこかで聞き耳を立てているかもしれません。お隠しになさってください」
彼の指先が微かに唇にふれます。体の感覚がその一点に集中して、血液が沸騰しているようです。指を戻した彼は、その指先を丸め自らの顎にあてます。
「そうだな……」
彼はちらりと噴水の石像に視線をおくり、そして頷きます。
「ヌコ。ヌコさまというのはどうでしょう?」
「ほへ? ヌコ? ネコじゃなくて?」
そういうと彼は驚いて慌てて首を振り、石像を指さします。
「ネコではありません。ヌコ様です。あなたを私たちの世界へと遣わしてくれた神様とは異なりますが、勝利の女神様の名前です」
「まあ、私はあのように美しくありませんわ」
おだてられてのぼせ上り、舞い上がっていたのかもしれません。調子に乗ってお嬢様口調で答えてしまいました。
笑われると思いました。だけど、彼は何故か頬を赤らめ顔を伏せました。
「ヌコさま。あなたの方が美しいです」
レウとの出会いのあとはあまり話したくありません。決して楽しいものではないからです。でも、あなたのいままでの頑張りを思うと負けてはいられません。くじけてはいけないと思い頑張りました。
お母さんはレウに連れられ、宮殿へ向かいました。そこで国王と面会をすることになったのです。
謁見したのは鏡の間と言う部屋です。床は寄せ木細工のような木の板をパズルのように組み合わせたパターンでしたが、天井にも壁にも鏡がはめ込まれ、まるでミラーハウスのようにお母さんや王様、そしてレウが幾重にも連なって映っていました。
王様はお母さんが山をも切り裂く聖剣を持っておらず、山をも吹き飛ばす最強の魔法も使えないことを知るとがっくりと肩を落としました。まるで、あなたの成績表を見たお母さんの態度と瓜二つなのです。それがどこまでも連なって見え、無限の悲しみにより責められているような感覚になりました。
その光景を見てお母さんも悲しくなりました。そして今になってあなたの気持ちがわかったような気がするのです。
だけど、わざわざ異世界からやってきたのに、その態度はあんまりだと感じたのです。魔王は山ではありません。なので女神さまに聖剣や魔法を授かっていたとしても魔王は倒せません。そしてもちろん山は何も悪くないのです。
お母さんに興味を失った王様は、何処の部屋のものか分からない鍵、いつ使うのかわからない松明、そして一二〇レーベレを渡して、さっさと魔王を倒してくるようにと言ったあと、お母さんを王宮から追い払ったのです。
一二〇レーベレといっても何のことなのかわかりませんね。レーベレはお金の単位です。
とにかく、お母さんはそのお金で竹槍を買って魔物を倒す日々が始まりました。
つらい日々でした。でもレウだけは傍にいてくれたのです。それだけが心の支えとなりました。
でも、彼には心苦しいことをしてしまったのです。彼は王様にお母さんについて行くなら、ヘリンセの領土を捨てよと言われたのです。私は一人で魔王を倒しに行くからいいと断りました。でもレウは出会ったときと同じ穏やかな微笑みで「ヌコさまの従者をつとめます」と告げました。
王様は苦虫を噛み潰したかのような顔つきで、レウから領土を取り上げ、そして第三王子という血統さえ捨てさせてしまったのです。
お母さんは本当に後悔をしています。これまであなたにしてきた態度は、たとえ成績不十分でも不出来でも多少不細工でも、母親だからと言ってとってもいい態度ではありませんでした。
あなたのことを一人の人間として扱っていなかったのです。きちんとあなたの意見を聞き、尊重するべきでした。お母さんの気持ちも押し付けにならないように伝えるべきでした。お母さんを許してください。
世界には魔王が放った魔物たちが跋扈しています。
その魔物たちを倒しながら旅をする日々が続くのです。いくら魔物を倒しても、魔王のもとへたどり着く手がかりは得られません。このまま何も成すことができず、この世界で朽ちてしまうのかと不安になりました。
お母さんのしていることは、少しでも世界の平和に貢献しているのでしょうか。それとも何の役にも立てていないのでしょうか。鬱蒼としたこの気分は、カーテンも開けずに薄暗い部屋でゲームを続けるあなたの背中を連想してしまいます。出口を求めながらも内に引きこもってしまう。そのような矛盾を抱えた感情があることもこの冒険で知ることができました。早く魔王を倒して、元の世界へ戻り、あなたをもう一度抱きしめたい。そんな思いが募ります。
でもお母さんにはレウがいます。
お母さんが不安になると、レウは「ヌコさま。大丈夫です」といって、いつもの穏やかな笑みで心をほぐしてくれるのです。お母さんもいつの日か、レウのようにあなたの心をほぐす存在になりたいです。
そうして、私たちは島と大陸を結ぶ洞窟へたどり着きました。
かつて、こちらの大陸の国とあちらの島の国で、一〇〇年間ものあいだ戦争が続けられていたそうです。兵士を送り込むためにこのトンネルが作られました。時は過ぎ、商人や旅人たちがこの通路を通り、活発な交流が行われるようになりました。ですが、魔王がこの世界に現れて以来、魔物たちの住処と化し、人々が往来できる通路ではなくなったのです。
お母さんとレウの二人は魔物を倒しながらその洞窟を進みます。
松明に照らし出される空間は狭く、頼りなく二人の影が揺れています。そして頭上の岩盤からぽたぽたと落ちる雫をみると、この上にあるはずの海がその水圧でもって一気にこの洞窟を圧しつぶしてしまうのではいかと言う不安がつきまといます。
「ヌコさま。私がついています」
レウがいつもの微笑みを向けてくれたときです。その魔物は現れました。
進路をふさぐ壁のように聳え立っていました。それは鰐のような硬く厚い鱗です。お腹側は黄色に似た肌色に近く、背中側は緑色のようです。
鋭く伸びた爪を持つ短い脚と手。その短い脚に体が乗っています。松明の灯りではその大きな体のすべてを照らし出すことができません。しかし、恐竜に似たその巨体。赤く鈍く光を放つ瞳。松明の光を反射する鋭く伸びた牙。出会ったことはありませんが、その未知の魔物の名前は知っています。
ドラゴンです。
「しゃああああああああぁぁぁぁぁっっっっっ!」
お母さんたちを威嚇するように魔物は咆哮をあげました。幾重にも反響し、そして洞窟中が震えます。お母さんも全身が震えだし、それに耐えるため竹槍を抱きしめるように握り締め身を縮こませます。
「ヌコさまっ、逃げてぇ!」
レウの叫び声が響き渡り、ハッとドラゴンを見上げました。その口元が紅の輝きに染まっていました。
間一髪でした。私が避けたところに炎のブレスがまき散らされます。洞窟内が赤く照らし出され、一気に周囲の温度が上がります。お母さんは足をもつれさせ倒れてしまいました。
ドラゴンは第二のブレスを放とうとしています。よけなければなりません。だけど、焦れば焦るほど足は縺れ立ち上がることができません。
「ヌコさまぁっ!」
レウがマスケット銃を構えドラゴンに弾丸を打ち込みました。乾いた炸裂音と共に放たれた弾丸は、ドラゴンの牙にあたり跳ね返されます。
しかし、その一撃でドラゴンの目標がお母さんからレウへと変わります。レウのいた場所にドラゴンの炎が撒かれました。
「レウ!」
新しい弾丸を詰めながら走るレウの背後をドラゴンの炎が追いかけます。彼を助けなくてはなりません。お母さんはその一心で立ち上がり、そしてドラゴンに向かって駆け出しました。
そしてドラゴンの足元に竹槍の先端を突き立て、棒高跳びの要領で跳躍します。魔物の頭よりも高い位置へ舞い上がったお母さんは体を旋回させながら踵を脳天に叩き込みます。
固い衝撃です。ダメージを与えた感じはありません。でも、ドラゴンのブレスは止まりました。
「やった!」
そう思うのも束の間です。空中で姿勢を正して着地しようとするお母さんの足首が、ドラゴンの手に掴まれたのです。スカートの裾がめくれるのを気にしている間もありません。空中へ放り投げられました。ドラゴンの口元が紅く輝きます。その一撃から逃れることは不可能です。
そのとき、レウの構えたマスケット銃のフリントが火花を散らし、先端から火花が吹きました。
彼の放った弾丸がドラゴンの瞳を貫きました。
「しゃあああああああぁぁぁぁっっっ!」
魔物はブレスを中断し、悲鳴に似た咆哮をあげ、頭や尻尾を振り回してのたうち回ります。
その気持ちはわかります。その短い手足では痛む目を押えることはできないのです。
お母さんは着地すると、竹槍を拾い上げます。そしてとどめを刺すべく駆け出します。ドラゴンは尻尾や手足を振り回して抵抗します。お母さんはその攻撃をかいくぐって何度もドラゴンの身体に竹槍を突き立てました。
だけど、さすがのドラゴンです。竹槍ではその厚い鱗を貫通することができません。でも昔の日本人は竹槍でもって敵の爆撃機に立ち向かったと言います。お母さんもその魂をしっかりと受け継いでいます。きっとあなたも。
そう思い、ドラゴンを突いたとき、竹槍はぐにゃりと曲がり、その湾曲に耐え切れずに折れてしまいました。思わず涙が出ます。竹槍はこの世界に来てレウと同様にずっと私と共にありました。物干し竿にされ、誰のものとも知れぬ肌着が干されていた日もありました。ゴミと間違えられて捨てられた日にはショック死しそうになりました。
あなたが部屋から出てこないのは、ゲームのせいだと思い取り上げたことを思いだしました。今ならわかります。あなたにとってゲームは大切な相棒だったのですね。取り上げても問題の解決にはなりません。あなたが怒り出すのは当然の事でした。
折れた竹槍を握りしめたまま呆然と立ち尽くしていました。ドラゴンはお母さんを焼き払おうとブレスの準備をしています。それに気づいても体は動こうとしませんでした。
しかし、一つの影が私たちの間に飛び込んできます。レウです。彼はマスケット銃を構え、その銃身で空気を裂くように炎を吐こうとしているドラゴンの口元に突撃します。ドラゴンの口元から洩れる熱気で肌が焼かれるようにひりひりと痛みます。ドラゴンが動くたびに巻きあがった砂塵と、それを焼き尽くした炎の残り香。照準がドラゴンの口の中に合わされます。
「喰らえっ!」
ドラゴンが火を噴くよりも早く、マスケット銃が火を噴きました。
ドラゴンもレウもお母さんも立ち尽くしています。誰も動きません。でもやがてドラゴンの身体が揺らぎ、そして地響きをたてて崩れ落ちます。倒れたドラゴンは残った瞳で恨めしそうにお母さんたちを睨みつけましたが、その体が動くことは二度とありません。
お母さんとレウは緊張の糸が溶け、同時に腰を床に落とします。
「ヌコさま。さすがは勇者様です」
レウのいつもの微笑みには疲れがにじんでいました。
「私は何もできませんでした。戦ったのはレウです」
そんなお母さんの言葉にレウは首を振ります。
「僕は怖かったのです。でも、ヌコさまは果敢にドラゴンに挑まれました。僕を勇気づけ、そして僕に銃弾を込める時間を作ってくださったのです」
「怖かったのは私も一緒ですわ」
そう言って笑いあっていると、奥の方から小さな物音が聞こえました。
「物音が聞こえます。人の声も混ざっているような気がします」
お母さんたちは顔を見合わせ、そして物音のする方へと向かいました。
鉄格子の牢屋がありました。そこにレウに似た雰囲気の女の子が閉じ込められていました。
「この牢は……。先ほどのドラゴンが作ったのでしょうか。そしてこの扉に鍵をかけたのはあのドラゴンなのでしょうか?」
様々な疑問が脳裏をよぎります。しかし、レウはお母さんの言葉を聞いていないようでした。彼の指先は小刻みに震えています。そして鉄格子に触れます。
「オルズボーナ……」
牢屋の中の少女もその言葉を聞いて目を見開きます。二人は知り合いのようです。でも、嫌な予感がします。見つめ合う二人のあいだには、特別な世界があるように思えます。いつの日かあなたもこういった娘をお母さんの前に連れてくるのでしょうか。
昏い嫉妬の炎です。先ほどのドラゴンと同じように炎を吐き出してしまいたい衝動に駆られます。
「ヌコさま?」
そう言われ、慌てて笑顔を作りなおします。でも、強張っているのがわかります。先ほどの顔が見られていないかも心配です。
「ヌコさま、このオルズボーナは魔物に囚われの身となっていた私の妹です」
「ほへ? レウの妹さん?」
彼女は慌てたようにぺこりと頭を下げます。拍子抜けしたような気持ちになりました。お母さんも慌てて頭を下げて自己紹介をします。その傍ら、こちらの世界の方々が近親婚をタブーとしているかが気になりました。でもそんな思考とオルズボーナに焼きもちを妬いた気持ちを捨てます。お父さん一筋のお母さんがレウに恋心を抱いているなんてありえません。こんな気持ちになるのなら、レウとあなたを重ねて見てしまっていることも、そろそろ止めたほうがいいのかもしれません。
国王に頂いた鍵で牢屋の扉を開きます。どんな扉でも一度だけ開くことができるという魔法の鍵です。こんな鍵が存在するなんて、この世界の防犯の概念はどうなっているのでしょうか。心配でなりません。
牢屋から出てきたオルズボーナは一目散にレウに抱き着きます。レウはお母さんの顔をみたあと、少し照れくさそうに笑みを浮かべます。そして「お前、相当匂っているぞ」と言って邪険に突き放そうとします。でも、オルズボーナはお構いなしです。あなたも姉妹がいればこんな感じだったのでしょうか。
お母さんたちはオルズボーナを連れて一度宮殿に戻ることにしました。
竹槍を失ったのは手痛いですが、宮殿までに現れる魔物ならなんとかなりそうです。それにレウの大切な妹を助け出すことができたのです。お母さんは前を向くことに決めました。
王宮では盛大なパーティが開かれています。
あの日、お母さんを追い出したのは何だったのかというくらいの歓待です。二つ並べられた玉座には国王のほかにオルズボーナが座っています。国王の娘への溺愛ぶりが伺えました。でも、王妃や第一王子はどこへ行ってしまったのでしょうか。オルズボーナはあのような牢屋に閉じ込められていたにも関わらず、誰にでも天真爛漫に振る舞っていました。国王はそれが気に入らない様子です。時折、彼女に近づいてくる者をあからさまに睨みつけています。
宮殿まで戻ってくる旅の途中で、オルズボーナとはよく話しをしました。彼女は最初お母さんのことを、レウのように「ヌコさま」と呼んでいましたが、そのうち「お姉さま」と呼ぶようになりました。そして時々「お母さま」と呼んで顔を真っ赤にしています。正直にいってむちゃくちゃ可愛いです。女の子も育てて見たかったな。そう思います。でも、お母さんの息子は○○くん、あなただけです。会いたいです。
そんなことを考えていると、レウがじっとお母さんを見つめてきます。「何?」と問いかけると「別に?」といって口を尖らせ視線を逸らしました。この兄妹の可愛さはどこから湧いてくるのでしょうか。二人の泉に溺れてしまいそうです。
こういった経緯でお母さんと国王は仲直りをしました。そして、魔王を倒すための旅の支援をしてくれると約束をしてくれました。もう竹槍で魔物と戦うことはなくなるようです。
レウの領地も返還されます。でも、彼は浮かない表情をしています。領主としての役割を果たさなくてはなりません。レウと旅を続けることはできなくなるのでしょうか。それは嫌です。でも、レウにはレウの未来があります。お母さんが出しゃばって、あなたの時のようにレウの未来をつぶしてしまうかもしれません。それだけは避けなくてはならないと考えると、お母さんはなにも言えなくなります。
見知らぬ貴族の方に誘われ、一度だけダンスを踊りました。ディスコでレーザー光線が飛び交うミラーボールの下で扇を泳がせていた経験はありましたが、このような場では初めてです。ぎこちなく、そして酔っぱらいのような千鳥足になりました。でも、そんなお母さんのために音楽が奏でられます。もちろん録音されたものではなく、演者たちが軽やかに、時に重厚な音色を奏でます。お母さんとレウの二人だけの冒険だと思っていましたが、思い返してみると、お母さんはただ戸惑っていただけで、多くの人々に支えられていたのではないかと思います。あなたも部屋にこもり一人で生活をしていますが、それは決して一人ではないのです。少なくともお母さんがいます。
パーティのあと、お母さんとレウは肩を並べて宮殿の廊下を歩きました。
与えられた部屋は隣同士のようです。冒険の時は二つの部屋を借りれるお金もなく、一つの部屋で、一つのベッドで眠っていました。レウは常にお母さんに背を向けて、丸まって眠ります。お母さんはそれを背後から抱き抱えるようにして眠りました。おそらくあなたが考えるような宿屋や部屋、ベッドではありません。
建付けが悪く、冷たい隙間風が流れ込みます。敷物も掛けものも薄く、その冷気から守ってくれません。でも、レウを抱きしめていると暖かいのです。それに、彼の寝息を聞くと安心できました。
お母さんの部屋の扉の前で立ち止まります。
「じゃあ、おやすみ」
そう声をかけて部屋に入ります。でもレウが一緒に部屋に入ってきました。
話し足りないのでしょうか。でも彼はうつ向いたまま、何も話そうとしません。
「ん?」
どうしたのかと思い、顔を覗き込もうと体をかがめると、彼に抱き着かれ、よろけて倒れてしまいました。倒れた場所がベッドなので怪我をせずにすみました。
「ど、ど、ど、ど、どうしたの?」
すぐ近くにレウの顔があります。蒼い瞳が潤んでいました。彼の吐息が鼻先にかかります。それはとても熱く、お母さんの胸を焦がしました。
「僕はこれからも、ヌコさまと一緒に旅をしたい……」
そんなことかと思い、お母さんも同じ気持ちであることを伝えようとしました。しかし、彼は激しく首を振るのです。
「違う。僕とヌコさまは同じ思いなんかじゃない。僕はずっとヌコさまと一緒にいたいんだ。僕はヌコさまの事を……」
彼の唇が近づいてきました。お母さんは思わず枕で自分の顔を隠します。彼はそれをはがそうとします。でも、お母さんは枕を抱えて必死にこらえました。
「ヌコさまは僕のことなんか、どうでもよいのですか? 僕はヌコさまのことが好きなのです。僕はあなたと出会った瞬間、庭園のバラが所詮は人の手で揃えられた飾り物であることを知りました。この世界のすべてはヌコさまを彩るためにあるのです」
「駄目、レウ。私には愛する人がいます。そしてその人との間に生まれた形もあります」
枕の隙間からくぐもった声で話しかけました。
「そんなこと、僕は信じません」
「元の世界の私は、あなたが想像するような私ではないのです」
「そんなこと、僕は信じません!」
彼に抱きしめられました。迂闊でした。唇は頑なに守っていたのですが、そのほかはノーガードでした。
すっかり彼に求められたあと、お母さんは放心状態で天井を見つめていました。そこにレウの顔が入り込んできます。眉をひそめ、自分のしてしまった行為に怯えているようです。
「ヌコさま……、怒っていますか?」
顔を隠していた枕はいつの間にかレウに取り払われていたようです。レウはその枕を抱えていました。
お母さんは彼の頬をそっとなで、小さく首を振ります。
途中、お母さんの本当の名前を聞きだし、何度も呼び捨てにされたことを思い出すと、顔がまた火照ってきました。
「レウ……。これでよかったのだと思います。私だってレウ以外の人と旅を続けるつもりはありません」
「ヌコさま……。ヌコさまは僕のことを愛していますか?」
お母さんはレウのことを愛しているのでしょうか。尋ねられたときには答えられませんでした。でも、彼の瞳の奥にはちらちらと燃える炎が見えます。それは彼の想いと重なるように、お母さんの想いが映っているように思えました。
お母さんはその時に気づいたのです。レウはレウです。あなたはあなたです。レウの姿にあなたの姿を重ねて見ようとしていました。でも、違うのです。お母さんはレウを見ておらず、あなたを見ていなかったのです。そのとき、お母さんの心はすうっと軽くなりました。
「レウ、私はあなたのことが大好きです」
お母さんとレウは唇を重ねました。そのあまりの柔らかさに身も心も蕩けてしまいました。
つい書いてしまいましたが、こうしてお母さんとレウの旅は続くことになりました。
このことは、お父さんには内緒でお願いします。お父さんにはいつの日か魔王を倒して戻りますと伝えておいてください。もしかしたら、あなたの弟か妹を連れて帰るかもしれません。そのときはあなたも一緒に謝ってください。レウはやっぱりあなたに似ていると思います。少しだけだけどね。
今回の冒険で、お母さんはあなたのことを改めて考える機会が得られたと思います。あなたはお母さんの考えた理想を歩こうとしただけなのだと思います。それは細い糸でした。そんな上を歩けるはずもなく、転んでしまうのは当たり前です。お母さんがもっと広い世界を知るべきであり、いくつもの選択肢があることをお母さんが知るべきでした。
いろいろありましたが、やっぱり○○くんの顔が最後に浮かびます。元の世界に戻って笑顔をみたいです。
長く書いてしまいましたが、この辺りで筆をおきたいと思います。
無事でいられたら、また手紙を書いて近況をお知らせします。
くれぐれもお父さんにレウとのことは内緒にしておいてください。約束です。
それでは。
読んでいただきありがとうございます。