帰ってきてくれ(後半、フェンネル公爵視点)
なんでも、今日は湯浴みのために特別なオイルを用意してくださったそうです。
すごく良い香りを纏って、晩酌中のフェンネル公爵様の元に行きました。
その背中に向けて、頭を下げます。
「今日は、お勤めが上手くいかず、申し訳ありませんでした」
フェンネル公爵様は振り向くことなく言いました。
「…あの二人、結婚式は執り行わず、婚姻書類を提出するだけになったそうだ。新婚の二人を思うと居た堪れない話だな」
「それはいけません!必ず災いがあるでしょう!」
がん!と机を叩いたので、肩が跳ね上がりました。
「っ…!フェンネルこう…」
「お前、今からでも、魔界に帰れないのか?」
「それは…神との約束を破ることに…」
ため息をつきつつ、こちらを向いたフェンネル公爵様は初めて見るほどに激しい怒りの表情でした。
「聖女の祓いなど、ただ形式的なものなのだから場の雰囲気を壊さず、すぐに済ませて去ればいいものを。なぜ結婚式を台無しにしたのだ」
「私は…聖女として呼ばれたのではないのですか!?神が望まれない契約を交わすなど…」
「随分と傲慢だな」
「そんな…」
(そんな目で見ないで)
下瞼が重くて堪らなくなる。
今にも涙が落ちていきそう。
「ですから、これからは結婚式の前に私を含めた顔合わせを…」
「それが傲慢だと言うのだ!いいか、誰もそんなことは望んでいない!」
ふらつく足で後ずさる。
「わかりました。帰れば…良いのですね」
ぺこりと一礼して、扉の外に出た。
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「主様!早く追いかけてください!お止めしなければ…!」
「放っておけ」
「本気でそんなことを仰っているのですか!?」
「その内反省して帰ってくるだろ」
セレスは珍しく焦って言った。
「お分かりにならないのですか!?神との約束を反故にするということは…メアリージェニー様は…ただでは済まないということですよ!?」
「馬鹿な。神はあいつの叔父さんなんだろ?姪に対してそんなことするかよ」
「天地開闢以来、神はいつだって身内に厳しいのが常ですよ!?」
早く、と引っ張る腕の力が強い。
「俺は!あいつに帰ってもらった方が清々する」
「ほ、本気で言ってるんですか?それ…」
「〜〜〜っ!!!」
「メアリージェニー様が帰ったら、それこそ誰が聖女職に就くのですか?」
「それは…」
「人間に適当な器がいなくなったから、わざわざ故郷を離れて人間界に来ていただいたと言うのに、なぜみんなメアリージェニー様を軽んじる様なことをするのですか?」
セレンが、初めて俺の前で涙をこぼしている。
「セレン、お前そこまで…」
突然扉が開かれて、慌てて入室してきたのはヒンス男爵だった。
急な来客に、後ろにいた執事も冷や汗をかいている。
「あ、ああ!メアリージェニー殿はどこにいらっしゃる!?」
僕は意味が分からなくて、青い顔をした客人に歩み寄った。
「何か御用か?」
「ですから、メアリージェニー殿はどこに?」
「魔界に帰れと仰ったではないですか」
それは俺もそうだ。
「ほ、本当に帰られたのですか?本当に?」
先ほどから埒が開かない。
「急に押しかけてきて、一体なんなのかご説明頂けないか?」
「無礼だとは重々承知しております……。あの子が…アルベラが…自殺未遂を…」
「…は?だって、婚姻は書類で交わされたのだろう?…それとも、結婚式のことが原因で…?」
もしそうならば、俺はどうしたら良いのだ。
けれど、ヒンス男爵は首を横に振った。
「…アルベラは、妊娠していた」
「なんだと?それは…」
「しかも、キャンボス子爵の子ではない」
立っていられなくなるほど、景色が暗くなる。
「それで…アルベラ殿はご無事なのか?」
やっと、それだけ言うことができた。
「え、ええ。一命は取り止め、お腹の子も無事です。けれど婚姻届が受理されてしまったので、相手方の…キャンボス子爵がこの婚姻は不当だと…」
あの時、と言って膝から崩れる。
「メアリージェニー殿の言う通りにしていれば…メアリージェニー殿は…どこにいらっしゃいます!?あの方が本当に魔界に帰られてしまったら…!!ああ!私はとんでもないことを言ってしまった!!!」
走った。
夜の闇の中、ただただ走った。
ぼんやりと光るそれを目指して走った。
きっとそこに君はいるんだろう。
視界が開けた先に、蛍の様な光の粒子がメアリージェニーの周りを飛んでいる。
「メアリージェニー!!!」
「フェンネル公爵様!」
「帰るな!!帰らないでくれ!俺が…俺が悪かった…!」
「…帰れと言ったり、帰るなと言ったり、本当に勝手ですね。叔父さんの言う通り、人間は本当に自分勝手です。目の前の結果にしか目を落とさない」
「俺が神の怒りを買おうと、君に嫌われようと構わない。けれど、神の約束を反故にしたら…君はどうなる?」
「消えますよ。魂ごと」
明日の予定を話すみたいに淡々と言った。
「なんだと…そんなのだめだ!」
「なぜ…私のことが嫌いならもう構わないでください」
嫌だ、行かないでくれ。
気がつくと、俺はメアリージェニーを抱きしめていた。
「なぜって…君のことを愛してしまったからだ」
初めて自覚する。
初めて自分に正直になる。
「おかしな事を。あんな事を言われて信じられるわけが…」
「君がどうしても帰ると言うなら、俺も一緒に連れて行け。消えると言うなら、俺も魂ごと消してくれ」
「フェンネル公爵様…」
「今更と思うかもしれないけれど…。俺は愚かなのだ。君がいなくなって初めて慌てるほど、自分の感情に鈍感だし、しかも愛する気持ちをうまく表現できそうにもない。君は必ず俺の元にいてくれるなんて自惚れていた。なのに、俺は君を傷つけてばかりだ」
「私、もう、疲れてしまいました」
「すまない。本当に。生涯をかけて償わせて欲しい」
くるくると飛び交っていた光がうち消えた。
「愛している、メアリージェニー。帰ってきてくれ」




