第八章
時の流れとは残酷で決して巻き戻ったりはしない。時間が奪っていたものは絶対に取り返せない。だから僕は今、身に余る別れを受け入れられずに止まっている。
彼女に会うと言ったまま、僕は嘘つきになった。それどころか右脚の怪我を理由に葬儀にすら出席しなかった。面会を遮断して病室のカーテンを閉め切った病室に光が射し込むことはない。僕にとっての唯一の光がこの世から居なくなったから。
時の流れは残酷で、僕の右足だけゆっくりと治していく。
時の流れは残酷で、死んだような生活をする僕だけを明日へ連れて行く。
時の流れは残酷で、彼女だけを過去に置き去りにする。
無気力、絶望、虚無感、それだけが灰のように積もっていく。彼女の死から一週間が過ぎたのに食事も喉を通らない。食べやすい病院食すらまともに食べれなかった。
彼女が、今の僕を見たら怒るだろうか。そんな想像を繰り返す度に、怒ってくれる彼女がこの世にいない事実だけが結論として弾き出される。
死ぬまで音楽は続けるなんて約束は良くなかった。
今、死んでしまえば彼女との約束を守れてしまうから。
そんな最悪な仮説を、邪魔するように扉を叩く音がした。
「失礼するよ。ライブ以来かな、久しぶりだね」
来客は近森先生だった。彼女の担当医だった先生も心做しかやつれている気がした。
「お久しぶりです……」
「本当はもっと早く君に渡したかったんだけど、ちょっと忙しくてね」
先生は数枚のコピー用紙を僕に渡してきた。それは文字の印字された紙の束で文頭には【明日を生きられたら】と印字され、その下に【上田美優】と続いていた。
僕は、それが彼女の書いた、小説と命名された文書だとすぐに分かった。
「……先生、これから僕は、どうしたら良いですか?」
「君は、僕が言ったように生きるのかい?」
「…………」
返す言葉がなかった。
彼女が死んだのに当たり前のように仕事をしている先生ならこの痛みの乗り越え方を知っていると思った。だから聞いた。藁にもすがる思いで聞いた。
でも、望んでいた台詞は返ってこなかった。
「今、君が背負ってる痛みは時間が解決してくれるようなものじゃない。勿論、他人が解決できるものでもない。今は、治療に専念しながら答えを探すといい……」
先生は、目を逸らしながら僕に語った。冷静に、医者としての職務を全うしていた。
ただ、その無機質な表情と抑揚のない声は機械みたいで少しだけ怖かった。
「何で先生は、平気でいられるんですか……」
軽はずみな発言だった。と思った時にはもう既に手遅れだった。
先生の瞳から涙が溢れ出した。表に出さないようにと、必死に堰き止めていた何かが崩れて決壊したダムのように溢れた。
頬を伝うには十分過ぎる量の涙が、その瞳から流れた出した。
「……これが……平気に見えるか?」
先生は我慢してた。大人だから。うじうじと腐ってる姿を彼女は望んでないと知っているから。どれだけ抗ったとしても、もう彼女は帰ってこないと知っているから。
「……いや……見えないです」
「なあ、逆に教えてくれよ。なんでこの世界は僕じゃなくて心優しくて明日を生きるべき人を病で奪っていくんだ? なんでこの世界は救えない病なんてものを許してるんだ? なぁ、教えてくれよ……」
先生は涙で、ぐしゃぐしゃの表情を僕に向ける。そんな難解な問いに対する答えを僕が持っていないことを知っているのに。
きっと、先生も藁にもすがる思いで口にしたのだ。
「悪い、忘れてくれ。今、一番辛いのは間違いなく君だ……」
「いや、先生がこれまで感じてきた痛みは、僕なんかの比じゃないはずです……」
「そんなことないよ。この痛みの和らげ方は前にも説明をしたけれど、後悔は減らせても完全には消えてくれない。死に対する後悔を消すには、彼女と無関係の人間になる以外にない。だからこそ、死への解像度は高ければ高いほど鎮痛剤になる。死別は多ければ多い程、死のへ執着がなくなる。痛み慣れて、別れに慣れて、ほら、薄情な医者の完成さ……」
先生は涙目に笑みを浮かべた。それが強がりだと簡単に見抜ける薄い笑顔だった。
「……でも先生は繰り返した別れの分、今を生きている患者に対して優しくて誠実に接しています。だから別れを告げた患者も、きっと天国で応援してくれてます」
「意外だね、君が天国なんて場所を信じてるとは。でも、君の言うとおり僕の患者は皆、天国にいる。例外なく全員が天国で悠々自適に過ごしている。じゃないと割に合わない」
「僕は、天国も神様も信じてないです。でも、信じてなくても願ってしまうんです」
「それを信じていると言うんだよ。どうしようもなく暗い明日に、希望を抱く為に願いを叶える神様を、身に余る別れを受け入れる為に天国を、他人に押し付けられた不条理を受け入れる為に地獄を、そうやって都合よく信じて利用する道具に過ぎない」
「なら、彼女との別れは何に縋れば良いんですか……」
僕の目から涙が溢れた。枯れたはずの出生不明の涙が瞳の中から所狭しと溢れた。
「まあ、君の言う通り、縋るべき対象に悩むことは往々にしてありえる。だから僕は神様じゃなく医学に縋ることにした。救わなくちゃいけない命があると知ったから。歩みを止めたら救えなかった命が無駄になってしまう気がしてならない」
僕は今、立ち止まっているから押し潰されそうになっている。彼女の亡くなった現実に背を向けて、過去ばかり眺めている僕が救われる道理なんてない。
「先生……彼女は……幸せだったと思いますか?」
「今から話すことはお世辞じゃなく、事実だ。僕は彼女が小学生だった頃から彼女のことを知っている。その上で君と出会ってから彼女は毎日が幸せそうだった」
「僕も、彼女と出会ってから毎日が幸せでした。本当に、本当に、幸せでした……」
溢れ続ける涙が視界を滲ませる。どれだけ目を擦っても涙は無くならなかった。
長話をする僕たちを分断するように内線が先生を呼び付ける。
急用なのだろう。先生は内線の相手に「直ぐに向かう」と告げて、白衣の袖で瞳に溜め込んだ涙を拭った。
「まあ、これから先どうするべきかは、彼女の残した文字に問い掛けてみるといい」
「……ありがとうございました。やっぱり先生に出会えて良かったです」
「僕も、君に会えて良かった」
先生の退室した病室は、時計の進む音だけが未来へ足を運ばせていた。その時計の針にしがみ付くように僕は彼女の残した文字をひたすら目で追いかけた。
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【明日を生きられたら/上田美優】
これを読んでる君へ。これは手紙じゃなくて小説だから、フィクションだからね。
別に深い意味とかないから。本当に、全然、いや、ちょっとはあるけど。
ちゃんと最後まで読んでね。
私は生まれつき身体が弱かった。幼稚園の頃から病院は第二の家のような場所だった。すぐに体調を壊しちゃう私に、お医者さんはいつも優しかったのを覚えてる。
注射とお薬は苦手だったけれど、なんとか頑張ってた。
これは話したこともあるけど小学生の時に初めて肺がんだって言われた。でもその時は凄く早い発見だったから、治療すれば治るって言われてて深く考えてなかった。
ちょうどその時期だったかな、君と出会ったのは。病院でたまたま君を見つけたの。待合室でピアノを弾く真似をしてる不思議な子だった。
初めはね、不思議な子ってイメージだけだったけど何日も病院でピアノを弾く真似をする君を見かけるからピアノに興味が湧いてきたの。
だから、お母さんにピアノを買ってって、お願いした。そしたらコンクールを見に行ってやりたいって思ったら買ってあげるって言われたの。そして初めて見に行ったコンクールで、まさかの君が演奏してたんだよ。奇跡だと思ったよね。
君の演奏に感銘を受けて、あっさりとピアノを始めちゃったよね。
それからはピアノに全てを捧げた人生だったよ。次のコンクールで君をびっくりさられるような演奏をする為に、必死になって練習してたんだよ。名前も知らない君に聴いてもらうために一生懸命頑張ったんだよ。今思えば中々におかしい子だよね。
でもね、次のコンクールに君は来なかった。奏者として居なければきっと、客席にも居ないんだろうなって、なんとなく分かってた。
それでも客席にいると信じて弾いたんだよ。
それから全部のコンクールで君を探してピアノを弾いた。病院にも来なくなっちゃったから本当に、何処か遠くに消えちゃったかと思ったんだよ。
そして中学に入って直ぐ、肺がんが再発したの。先生からは、治療すれば完治する余地はあると言われて、病院に通う回数を増やして治療に専念してた。
だから、今年でコンクールに出るのは最後にしようって決めたの。
第二奏者として演奏をして、ふと客席を見たら君が居たの。
今までずっと居なかった君が。
びっくりしたよね。もう心臓がバクバクして演奏どころじゃなかったから、音を掻き鳴らしたの。もう良いやって、これが作曲者と戦う演奏のカラクリ。ってのは冗談で、この時の演奏はね、いつもの何倍も大きな拍手が貰えたんだ。それまでは、コンクールの拍手って機械的な感じがして、あんまり好きじゃなかったの。でもあの日は違った。その時に、私がやりたい演奏をして良いんだって気が付いたの。
これも君のおかげだね。
でも、君が倒れちゃうのはびっくりしたよ。あの時、君のお父さんが謝りに来てくれて、そこで色々、聴いたの。君がピアノを辞めたことも、君がピアノを取り戻すためにコンクールに来たことも、ついでに目指してる高校も、根掘り葉掘り全部、聞き出したよね。
君のお父さんは無口な割に、口軽いからなんでも教えてくれたよ。
この日から猛勉強したよ。君がこの地区で一番頭の良い高校に行くなんて言うから。
これは小説だから、あんまり重く受け止めてほしくないんだけどね。
この時期から学校での人間関係が上手くいかなくなったの。理由は単純でクラスで一番目立ってる女の子の好きな男の子が私に告白をしちゃって、お断りしたんだけどそれを良く思わなかったのみたいで。
生まれては初めていじめにあった。初めは、数人の女子に嫌われただけだったから耐えられてたんだけど、変な噂話とか流され始めて、学校中で私を見る目が変わった気がしちゃって、学校に行けなくなっちゃった。
これ小説だからね、フィクションだからね。
その頃の味方は家族と、近森先生だけだった。
近森先生は学校に行かなくて良いって言ってくれて、高校に行けば変わるから高校に入ってから通い直せば良いって言ってくれたの。だから、諦めずに猛勉強できた。
そして入試の少し前、肺がんが心臓に転移したと言われたの。基本的に心臓に癌なんて転移しないのに、何故か私だけは特別だったらしい。
人よりも平熱体温が低かったからかな?
そしてすぐに、余命を宣告された。
この頃、世界の全てが私を否定している気がして怖かった。クラスメイトが、病気が、そして弱虫な自分が、私なんて、この世に要らないんだって言ってる気がしてた。
そんな時、先生にね、一緒に目標を作ろうって言われたの。僕は僕の目標に向かって休むことなく進み続けるから、君は君の目標に向かって全力で生きるんだ。って言われたの。
いやぁ、あの時の先生はかっこよかったね。
で、その日に決めたの、君の演奏を聴いてから死ぬって。
今思えば、身勝手でわがままな目標だったけど、後悔はしてないよ。
何故かって? この文章を書いてる私は目標を達成して幸せを掴み取ったからね。
ここからは、君と出会ってからの話だから懐かしいって思ってもらえるかも。
入学式の日、君はすぐ帰っちゃうから、急いで追いかけたんだよ。
あの頃の君は、想像以上に素っ気なくて、捻くれてて、暗かったね。
でも、話してみれば優しくて、私の知ってるイメージ通りの君がちゃんとそこに居たの。
だからね、私は君に縋ったの。
誰よりも優しくて、誰よりも孤独を知ってる君に、君の奏でる音楽に。
この先、君に大きな痛みを背負わせることになるって知っていながら私は縋った。
だから、私は君に謝らないとね。きっと今、君は哀しみの中にいるから。
でも、君のことを知れば知るほど、君と一緒に過ごす日々が宝石みたいに輝いた。
今の比喩表現、小説ぽかったでしょ、これ小説だからね。忘れないでよ。
話が逸れたけれど、そんな日々が宝物だったの。でも、それも、いつか終わるんだなって思うと怖くて仕方なかった。
この頃からかな? 明日を生きられたらって思うようになったのは。
余命宣告を受けたばかりの時はね。ああ、私って死ぬんだ。ってぐらいの感覚だったの。むしろ後一年数ヶ月の間、何しよっかなって感じだった。
でも、君のおかげで明日を生きたくなった。
私が、音楽に出会えたのも君のおかげ。
私が、いじめを耐えれたのも君のおかげ。
私が、余命宣告に立ち向かえたのも君のおかげ。
私が、笑顔で過ごせたのも君のおかげ。
私が、明日を生きられたらって希望を、この世界に抱けたのも君のおかげ。
全部、全部、君のおかげなんだよ。
で、どうせ君は今、私が居なくなって立ち直れてないでしょ?
今、見事に言い当てられて、びっくりしてるでしょ。そんなすぐに立ち直られたら私も悲しいからね。まあでも、立ち直ってたら小説として楽しんでくれたらいいや。
君が立ち直る為の三点セットを用意しました。一つ目は、私の愛用ギターをプレゼントします。二つ目は、それを背負ってあの神社に行くこと。三つ目は、私の書いた絵馬を見つけること。それでも立ち直れなかったら、その時は自分で考えて(笑)
最後にね、これは小説だから、物語の女の子が勝手に言ってるだけだからね。
私は君が好き。
死ぬまでずっと好き。
死んでからもずっと好き。
だから、どうか、笑って過ごして欲しいです。
私のことを忘れてしまっても良いから、どうか笑って、幸せに過ごして欲しいです。
この先、好きな人を見つけて恋をして、君という人間の素晴らしさを誰かと分かち合って、死ぬまで幸せに、末長く幸せに、君の人生をゆっくり歩いてください。
まあ、できれば、たまに、私のことを思い出して欲しいけど。
さようなら。今までありがとう。
君に出会えて、私はずっと幸せだったよ。
もしも、私が明日を生きられたら、きっと君と
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文字を読み終えた時、彼女を失ったあの日で止まってた僕の足が少しだけ前に進んでいる気がした。そして、目を背け続けてきた彼女の居ない現実と衝突をした。
飽きるほどに流した涙が、降り始めた雨のように、ぽつり、ぽつりとコピー用紙を濡らした。そして、その雨は直ぐに土砂降りになって彼女の書いた文字を滲ませる。
「あああああああああ…………ああっ………………ああぁぁ……」
堰き止めていた感情の全てを涙として吐き出した。
彼女は、僕なんかよりもずっと別れを告げる覚悟をしていた。
だって、彼女の書いた文章には覚悟と優しさが詰まっていたから。
僕は泣いた。ただ、ひたすら泣いた。
静かな病室に、赤子のような泣き声を響かせた。
それは、きっと病室の外まで溢れ出していたけど、止められなかった。
彼女は卑怯だ。あれだけ避け続けた『好き』の二文字を残して消えるなんて。
彼女が口にしなかったから、僕も伝えなかった感情を、彼女は文字に残して、小説だからと嘯いて僕に伝えるだなんて卑怯だ。
僕の方が彼女のことを好きに決まってるのに。
「…………ずるいなぁ」
僕の体内の水分が全て涙となって流れ出した。大袈裟だけど、それくらいの量の涙が溢れ出した。彼女に出会ってから僕は泣き虫になってしまった。
全部、彼女のせいだ。
病室で腐っている僕を彼女は受け止めてくれた。解決策をくれた。高価なギターもくれた。そして、これから先を生きる意味をくれた。
最後まで受け取ってばかりの僕だった。
僕が、音楽を続けているのは君のおかげ。
僕が、他人と関わりを持つようになったのも君のおかげ。
僕が、この世界を嫌いではなくなったのも君のおかげ。
僕が、逃げ続けたピアノと向き合えたのも君のおかげ。
僕が明日を生きたいと思えたのも、明日に希望を探すようになったのも君のおかげ。
全部、全部、君のおかげ。
ありがとう。
後悔があるとすれば、さよならが言えなかったこと。
好きだと伝えそびれたこと。
君の声が好きだったこと。
君の奏でる音の全てが好きだったこと。
君の匂いが、綺麗な黒髪が、美しい瞳が、優しい心が、その全てが好きだったこと。
もっと一緒にいたかったこと。
ずっと一緒にいたかったこと。
全部、伝えそびれた。
結局、後悔は減らせてなかった。
だから、きっと、こんな痛いんだ。そうに決まってる。
悲しみが、まだ全部、流れ切ってないのに涙は止まった。きっと水分不足のせいだ。
とんとんっ。と見計らったように扉が叩かれた。
そこには、決して無機質じゃない優しい表情の先生が立っていた。
「読み終わったかい?」
「……はい」
「これから何すべきかはもう決まってるだろうから、退院の手続きを進めておくよ」
「……何から何まで、助かります」
僕は、薄々気づいていた。僕の右足はもう入院が許されるほどの症状じゃないことを。きっと彼女を失った精神的なケアを含めて、慈悲の心でここに居るのだろう。
「僕は医者だからね。患者の体調を心配するのは当然のことさ。安心してくれ、君だけが特別な訳じゃない。もっと我儘で世話の焼ける患者さんは沢山いるからね」
先生の言葉は嘘じゃない気がした。本当に、抱える患者の悩みに寄り添っている姿が想像できるから。なんて言ったって、院内でのライブを許してしまうんだから。
「先生は、少し優しすぎるかも知れないですね」
「はは、それは手厳しい意見だね。君の言うとおり、少し甘すぎるのかもしれない。でもね、患者の暗い表情を見てしまったら、如何にも優しくしたくなるんだ」
先生は優しい目をしていた。
それは、我が子を眺めるように暖かく柔らかい表情だった。
後日、僕は追い出されるように退院した。別れ際、先生は「もう、戻ってくるなよ」と言った。その言葉には寂しさと優しさが入り混じっていた。
退院して数日後、彼女のギター譲り受けた次の日、僕は彼女の遺言に従う。
彼女曰く、遺言でも手紙でもない、小説に書かれた一節を真似るだけ。
朝起きて母親にオムライスを所望する。あの日を忠実に再現する為に、デミグラスソースに彩られたふわとろのオムライスを堪能する。彼女を真似ておかわりをする。
あの日と違って、彼女の代わりに母親もオムライスを食べていた。
「美優ちゃん、オムライス好きだったわよね……」
「……うん、大好きだった」
満腹の腹におかわりしたオムライスを詰め込んで外出の準備をする。
玄関まで見送りに来た母も、同じようにあの日を思い出していた。
「行ってらっしゃい。美優ちゃんとの約束、ちゃんと守るんだよ……」
母親は、あの日と同じような台詞を言う。ただ、表情も声質も全てがあの日とは違った。
「うん、約束を守ってくるよ」
僕は、彼女のギターを背負ってあの日と同じ線路沿いを一人で歩いた。
一人で、切符を買って、一人で電車に揺られた。
彼女の代わりに隣の座席にギターを座らせた。
彼女の言った通り、ギターは彼女の代わりを果たしている。
幾ら高価なギターでも役不足は否めないけれど、彼女直々の御指名だったから一任した。
あの日と同じ車窓の景色を一人で眺めた。
あの日は、一瞬で過ぎ去った電車での移動時間が、飽きるほど長く感じた。
でも、その長い時間も感傷に浸れば乗り切れる気がした。
駅に着いて、彼女の真似をして切符に「――――」と署名をした。
指示のあった神社に向かう前に、海を見に行くことにした。
残念なことに、彼女が小説に署名をした老夫婦とは出会えなかった。
駅から一直線に、海辺まで歩く。
一面に青を敷き詰めたような広い海を蚊帳の外に追いやって、海辺の砂に文字を書いた。諄いけれど同じ名前を大きく丁寧に書いた。その辺に転がっていた杖みたいな流木をペンに見立てて大きな文字で書いた。僕の名前に価値なんてないけれど。
彼女が生きていた証拠を残したように、彼女が生きていたことを証明をする為に。
敢えて海に背を向けて「忘れてないよ」と呟いて、神社に向かった。
神社まで、細い路地を歩いた。
一人で歩いた。
しばらくして、山の麓の小さな神社に辿り着く。
後は絵馬を探すだけ。まあ、探すも何も、僕たちで一緒に吊るしたんだから場所は知っている。ただ、あの日の僕たちは内容まで詮索しない契約を交わしたから、記載した文字が見えないように書いた面を向き合わせて重ねるように吊るした。
見てしまうと、叶わない気がしたから。
それを叶える為に、人生が歪んでしまうから。
僕は少し屈んで、僕らの吊るした絵馬をゆっくりとひっくり返す。
【君が私のいない世界でも笑顔で過ごせますように/ギグケースのポケット見て】
僕は指示通りギグケースのポケットを弄る。そこには沢山の写真が入っていた。
こんな周り諄い方法も彼女からの最後のサプライズと名付けて楽しむことにした。
そこには、彼女がこの世界を生きた証が詰め込まれていた。
楽しそうに笑う彼女の写真。上田美優と署名された切符、砂浜、小説、絵馬の写真。
音楽室の写真。彼女が無理やり撮った僕とのツーショットの写真。
僕が撮った、病院の屋上で彼女が楽しそうに演奏している写真。
屋上のライブで僕たちが演奏をしている写真。
全部、全部、彼女と僕の思い出だった。どの写真を見ても楽しそうな彼女だった。
隣に彼女がいる当たり前も、朝起きると溜まってる彼女からのメーセージも、何気ない幸せを共有する相手も、全部、思い出の中に閉じ込められてしまった。
前に進もうとする度に彼女の居ない現実と衝突する。
その度に、枯れたはずの涙が溢れ出す。飽きるほどに流した涙が何度も溢れ出す。
彼女が絵馬に願った僕の姿とは、似ても似つかない泣き虫な僕をどうにか変えなければいけない。その答えを探す為に、僕は今日この場所に来た。
どれだけ考えても、解決策なんて思いつかない。彼女が居ない世界がこれ程までに生きづらいなんて思わなかった。諦めることが得意なはずだったなのに、ずっと尾を引いている。
写真を眺めながら流れる涙と時間を無視して考えた。
幾ら考えても、正しい答えが見つからず途方に暮れていた。なんとなく写真を空に翳して、ぼーっと眺めていたら裏に書かれた文字が透けて見えた。
そこには彼女からのメッセージが書かれていた。
【君には音楽があるでしょ】
やっぱり彼女は天才だ。
僕がどれだけ考えても見つけられなかった答えを簡単に導き出す。
そうだ、僕は彼女と約束をした。死ぬまで音楽を続ける約束を、硬く、硬く結んだ。
彼女の奏でる音が、美しかったように。
割り切りれない感情を、忘れられない記憶を、書き殴る音楽は美しいはずだから。
この先、君が望むように上手く笑えるか分からないけれど――
「僕は音楽に縋って生きていくよ」