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第七章

 屋上ライブ当日、いつもより早く目が覚めた。初めて起立性調節障害と診断された時と比べたら健康な身体になったと実感する。右足のせいでカーテンを開けるのにも一苦労だけど、その苦労の末に差し込む朝日は心地が良いものだった。

 早起きのおかげで時間に余裕があったから小説を読むことにした。エルフを題材とした物語で長寿のエルフは他の種族との寿命の差で多く出会いと別れを経験する。

 そんなあらすじの小説だった。まるで僕と彼女の関係を比喩しているかの様な作品に想像以上に感情移入していた。寿命のずれとは残酷なもので受け入れるしかない。

 その痛みは、長生きする者の宿命だと。

 小説への共感と物語の面白さが相俟ってページを捲る手を止められなかった。

 結局、早起きで得した時間は全て読書に費やした。物語の後半、起承転結で言えば『転』の続きが一番気になるタイミングで両親が病室にやってくる。

「準備しなさい。屋上で演奏する日でしょ?」

「…………」

「ねえ、あんた聞いてんの?」

「…………」

「その小説、取り上げるわよ」

 母親は着替えを取り替える手を止めて、呆れた顔で僕を睨みつける。人間の危機察知能力とは素晴らしい。母親の手が止まったことに生命の危機を感じ取っていた。

「だめ」

「聞こえてんじゃん……」

 無視をした訳じゃない。読書を嗜む優雅な時間に割り込んでくる不要な情報を遮断していただけ。母親の脅しによって集中力が途切れたから反応してしまった。

 邪魔が入らなければ何時間でも読書を続けていたに違いない。会話のせいで集中力が切れたから、仕方なく読み掛けのページに栞を挟んで小説を手放す。

「お父さんが準備を手伝ってくれてるんだから、あんたも働きなさい」

「はい、ごめんなさい……」

 ここで言い返したところで事態が好転することはない。だから謝罪を選択した。

「てか、お父さんも黙ってないで、なんか言いなさいよ」

「はい、ごめんなさい……」

 どうやら僕は父親似らしい。良く言えば背中でものを語るタイプ、悪く言えば尻に敷かれるタイプに分類される。客観的に見れば不甲斐ないと評されるのだろう。

 ただ、今は父に似ていると言われて嫌な気はしない。

 入院当初は、どんな我儘だって許されたのに今は怪我人とは思えないほど雑な扱いを受けている。それが家族という集まりなのだろうけど。

 手伝えと言われても右脚の使えない僕は絡まったケーブルを解く程度の役割しか担えない。それでも父親は「ありがとう」と声をかけてくれる。

 そして何故、両親が屋上ライブの準備を手伝っているかと言うと、ボーカル兼ギターを担当する誰かさんが至る所に宣伝して回ったからであって、僕の意思ではない。

 寧ろ、恥ずかしくて両親になんて聞かれたくない。

「別に聴きに来なくても良いからね」

 僕はせめてもの意思表示する。思春期の男子学生の殆どが授業参観に親が来るのは恥ずかしいし、自分の出場する発表会を観られるなんてもっての外だ。

「何言ってんの、あんたの演奏を聴きに行く訳じゃないわよ」

「それはそれで酷くない?」

「だって私は、美優ちゃんに招待して貰ったからね」

「俺はお前の演奏も楽しみにしてるぞぉ〜」

 父親が頼りない声で援護してくれる。その声は吐息一つで吹き消される蝋燭みたいにか細い声だったけれど、僕の耳にはしっかりと届いていた。

「まあ、人に聴かせても恥ずかしくない演奏を心掛けるよ」

「うん、楽しみにしてる」

 母親は先ほどまでと打って変わって優しい声で返事をした。

 その後、僕たちは手分けをして機材を屋上へ運んだ。

 屋上には既に彼女とその家族がいて、彼女と妹との間で小さな演奏会が開催されていた。芝生の上で楽しそうに唄う二人は風景に良く馴染んでいた。

 僕らは演奏会の邪魔をしないように準備を進める。と言っても僕が役に立つことは何もなかったけれど。

「美優ちゃんニット帽被ってるけど、体調大丈夫なのかしら?」

 母親が心配そうに呟く。

 質問の答えは本人から聞くべだと思ったから敢えて無視した。

 思い返せば彼女の病状を詳しく把握しているのは彼女の家族と僕だけだった。彼女がニット帽を被り始めてから病院外の人物と会っている姿を目にはしていない。

 それが偶々なのか、意図的なのか、それは彼女に聞かなければ分からない。

 絹のように綺麗だった黒髪を失ったわけで面会を避けていても不思議じゃない。

「おーい! こっちおいでよ」

 こちらに気が付いた彼女が手招きをしてくる。右足のせいで手持ち無沙汰な僕に気を遣ったのだろう。僕は使い慣れた松葉杖を駆使して彼女の元へ向かう。

 妹さんが「あっ、知らない人だ!」と僕を指差す。

 僕は懐かしさを感じながら「どうも、知らない人です」と返事をする。

 すると彼女が「違うよ。今はね、隻腕の天才だったピアニストだよ!」と説明を加える。それを真に受けた妹さんが「かっこいい……」と感想を溢す。

 目を輝かせる少女を落胆させる訳にもいかず「どうも隻脚の天才だったピアニストです」と僕は答えた。彼女は大爆笑する。彼女が笑うことは、何となく予測できていたけれど彼女の笑顔をこの目に焼き付けておくに越したことはない。

 彼女の笑い声に釣られて笑った。

 それから暫くは、彼女達の演奏会を眺めていた。彼女がギターの演奏をして妹さんと二人で歌を歌う。楽しそうに歌う二人を手拍子をしながら眺めたていた。

 一方で、ライブ機材の設営は父親の手際の良さで想像よりも早く終わっていた。

 父親は元々ライブハウスの設営など裏方作業に経験があったらしい。

 無言で活躍した父親は誇らしげな表情をしていた。

 礼儀正しい彼女は設営をしてくれた父親に対してお礼を言う。

 口下手な父親は会釈一つで返事をする。

 遂に彼女にとって最後のライブが開催される。

 アイドルの卒業ライブを模して言うなれば「人生卒業ライブ」を決行する。練習をしたって何も残らない彼女が、それでも練習を積み重ねた日々の総決算だ。

 僕は想像以上に緊張していた。

 徐々に集まり始めた観客の数が彼女の人望の厚さを物語っている。老若男女問わずその場にいる全員が彼女の演奏を心待ちにしていた。

 僕は、両指を全て折った所で来場者を数えるのを辞めた。彼女は集まった入院患者と談笑する。そんな彼女を眺めていた僕に、近森先生が話しかけてきた。

「彼女の人望は凄いだろ?」

「もっと、小さな規模を想像してました」

「そんな規模が、彼女のライブに相応しいかい?」

「いや、おっしゃる通りです」

「彼女は毎日、屋上でのギター演奏を終えた後も、患者さんと仲良くなる為に、会話をしてたからね。時に、患者さんの悩み聴いたりして寄り添っていたよ。きっと僕よりも、彼女の方が医療従事者に向いている。そう思わせてくれるほど彼女の院内での過ごし方は模範的だった。そんな彼女の演奏会に相応しい人数だと僕は思うよ」

「でも、病院でライブって流石にまずいんじゃないですか?」

「そうだね。このライブは医療の目的じゃない。彼女の院内での貢献を讃えた言わばご褒美みたいなものだ。僕は、この後に院長からお叱りを受けるだろうね……」

「なんか、申し訳ないですね……」

「君たちが謝る必要はない。彼女の命を救えない僕の無力さは説教程度では済まされない」

「そんなことないですよ。先生の存在は間違いなく彼女のことを救っています」

「やっぱり君は優しいね。僕は死ぬまで医学を進める歯車として生きていく。だから君は彼女の生きたかった未来を生きる人間として前を向いて歩く。約束だ」

「……彼女の担当医が先生で良かったです」

「はは、それは医者冥利に尽きるね」

 先生は、白衣のポケットに手を入れたままその場を去った。その背中は医者という職業の素晴らしさを雄弁に語っていた。

 手持ち無沙汰になった僕は、鍵盤の前まで行き開演の準備を進める。

 暫くして、談笑を終えた彼女が嬉しそうな顔をしてこちらへ向かってくる。

「近森先生と何話してたの?」

「君のことを話してたよ」

「何それ、詳しく教えてよ!」

「ライブを終えた君が、覚えてたら教えてあげるよ」

「何それ、忘れちゃうに決まってるじゃん」

「諦めるの早くない?」

「まあ、何でも良いや。今日は天才ピアニストのお披露目なんだから頑張るんだよ」

 そう言い残した彼女は、定位置に戻って用意されたマイクに口を近づける。

 彼女は音響を担当した父親と目配せをして「人生卒業ライブ」を開始させる。

「皆さんこんにちは!」

 彼女の呼び掛けに観客が返事をする。

 普段の病院では聞くことのない声が屋上に響き渡る。観客が演奏する僕らを囲むように座っているから大きく聞こえただけかも知れないけど。

「今日は私たちの為に、貴重なお時間を頂きありがとうございます。歌とギターを担当する上田美優です。隣にいるのが天才ピアニストの――――くんです。よろしくお願いします」

 彼女の紹介に合わせて僕も「よろしくお願いします」と会釈をした。

 屋上は拍手の音で包まれた。その拍手は彼女に向けられたもので、僕なんて定食に添えられた漬け物程度の存在だった。それでも漬け物として役割を全うしなければいけない。

 彼女は、切れ間のない拍手に斬り込みを入れるように喋り始める。

「今日は、皆さんの耳馴染みありそうな曲を沢山ご用意してきたので、もし、ご存知でしたら一緒に歌って、楽しんでいただけたら嬉しいです!」  

 その台詞と共に、僕たちは一曲目の“森のくまさん”の演奏を始めた。全国民が知っていると言っても過言ではない童話だ。

 彼女の歌声に釣られるように観客も口遊みはじめる。

 彼女の歌声は、屋上の芝生に笑顔の花を咲かせた。それは屋上の景色を一面に咲く花畑のように塗り替えた。それは年齢を問わず楽しそうに笑う子供から懐かしそうに唄う老人まで全て患者を笑顔にさせていた。まるで魔法みたいに。

 たった、数行程度の文字の羅列をメロディに乗せて吐き出すだけで世界を変える。

 彼女の歌声が世界の端まで消えることなく響き渡れば、きっと世界平和だって実現できる。でもその声は、たった数百メートル先の誰かにすら届かない。

 そんな不平等がこの世界の常で、此処にいる僕たちだけがそれを独占している。

 全世界が望む幸せを僕たちだけが独占している。それが嬉しくてしょうがない。

 屋上にいる人の殆どが闘病生活を余儀なくされた言わば不幸と呼ばれる境遇にいる。

 それと対を成す“幸せ”という言葉がピラミッドの上澄みを指すのだとしたら僕らは今、ピラミッドの頂点に立っている。革命と呼ぶのが正しいかどうかは分からないけど天と地をひっくり返すような奇跡を彼女は音楽で、その歌声で実現させる。

 一曲目を歌い終えても彼女の声が途絶えることはない。今日という日のために練習してきた曲は山ほどある。子供向けの童話から、懐かしい歌謡曲まで幅広く。

 僕たちは無我夢中にライブを続けた。楽しむ観客と心を一体にして音に身を任した。

 ここが病院の屋上であることを忘れるほどに、僕たちは音を掻き鳴らした。

 彼女の声を導にひたすら掻き鳴らした。耳馴染みのあるポップな曲であろうと僕らが生まれる前に作られた歌謡曲であろうと彼女の表現は一貫していた。

 彼女の奏でる音は「生きているんだ」と煩く叫んでいた。

 たった今、過ぎ去った一秒を生きていられることは当たり前じゃないんだと。

 音楽は都合の良い道具だ。僕にとっては彼女を忘れない為に縋り付く道具で、彼女にとっては生きていると証明する為の道具なのかも知れない。

 そんな彼女から音楽を奪うなんて人殺しも同然だ。

 だから彼女に音楽を残した先生の判断は決して間違っていない。

「皆さん、長い時間お付き合い頂きありがとうございます。名残惜しいですけど次の曲で最後です」

 数秒の沈黙に屋上の空気が固まった。

 それは、ついさっきまで自信に満ち溢れた歌声をしていた彼女が緊張に手を震わせていたから。その緊張はすぐに会場全体に伝わって数秒の沈黙を生み出した。

 彼女は、その固まった空気を全て吸い込むように大きく深呼吸をして口を開く。

「私はもうすぐ死にます。一年くらい前に、信頼する先生から余命を告げられました。でも、今思えばそれは吉報でした。あの日、恥ずかしがり屋で、臆病な私とお別れを告げて、やりたいことをやるって決心がついたから。この病気がなかったら好きな人にも、話しかけられないまま、逃げ続ける人生を歩んでいたと思います。音楽のことも、こんなに好きになれてなかったかも知れないです。私は、この病気のおかげで、幸せな人生を掴み取りました」

 彼女は頬を伝う涙を無視して話し続けた。

「今から歌う曲は、私たちが作ったオリジナル曲です。彼が、私を題材に書いた素敵な歌詞を良かった最後まで聴いてください……」

「僕が明日を生きられたら」

―――――――――――――――――――――――

例え話、僕が言葉を 

失うなら、それを歌にしよう。

そうすればさ、いつか誰かが

取り返してくれる気がするよ。


例え話 僕が心を

失うならそれを歌にしよう。

そうすればさ僕の心は

この歌にさ、ずっと残るから。


例え話 嘘をついても

ばれないなら 人を騙すのかい?

願い事が一つ叶うなら

世界平和 なんかいらない。

君のことを忘れたくない

そんな事を、ただ願うだけ。


例え話 僕が明日を

生きられたら それを歌にする

そうすればきっと誰かが

この歌をさ 武器にして

僕の分も ずっと生きていく

―――――――――――――――――――――――

 僕は彼女に教わった通り、赤子を抱きしめるかのように優しく鍵盤に触れる。

 彼女の歌声を邪魔しないように。

 定食に添えられた漬け物としての役目を全うする為に。

 彼女の淡水のように透き通った歌声は心の中にまで沁み込んでくる。

 理由は何であれ、日々の憂いに傷付いた心を持つ僕らだ。

 その傷に水を滴らせば沁みて痛むのは当然だ。ただ、その痛みは日々の憂いを洗い流すために必要な痛みだ。だから今、僕らは涙を流している。

 彼女の涙は伝播する。隣にいる僕に、屋上にいる全ての人に。

 歌い終えた彼女は、涙目に満面の笑みを浮かべて深いお辞儀をした。

「ありがとうございました!」

 屋上に拍手の音が響き渡る。その音は夏の夜空に鳴り響く花火の音と比喩しても大袈裟じゃない。それ程まで大きく、長く、鳴り続ける拍手だった。

 その拍手は一つも例外なく彼女に向けられていた。

 屋上ライブを終えた彼女は聴きにきてくれた人にお礼を告げてまわった。

 そんな彼女を眺めていたら、聞き馴染みのある声が聞こえた。

「悪いな、最近顔出せてなくて」

「先輩、来てくれてたんですね」

「まあ、後輩のデビューライブだからな。最後の曲、凄く良かった」

「ありがとうございます。彼女の才能には嫉妬しちゃいますね」

「そうだな、あれは才能の塊だな。で、いつから知ってたんだ?」

「……彼女が死ぬことですか?」

「ああ、言いづらかった言わなくても良いけどな」

 先輩は彼女を眺めながら、その姿を目に焼き付けていた。

「彼女の病気を知ったのは初めて先輩と喫茶店に行ったあの日です。喫茶店を飛び出て向かった音楽室で彼女が倒れていて、搬送された病室の中で知りました」

「ああ、そうか。結構前のことだな。――お前、強くなったな」

「弱虫な自分を必死に隠してるだけです」

「それで十分だ。実は昔、俺もお前と同じような境遇だったことがある。でも俺は逃げ出した。弱かったから。死ぬほど後悔したよ。もっと一緒に過ごせば良かったって、せめて『さよなら』ぐらいはちゃんと言えたらなって……」

 先輩は、いつかと同じように遠くの空を眺めていた。その表情は涙を堪えながらもしっかりと前を向いていた。残された者としての覚悟は遥か昔に済ませたのだろう。

 やっぱり先輩は、僕の進むべき道の先を歩んでいる。 

「先輩は、辛い別れをどうやって乗り越えたんですか?」

「俺たちには音楽がある。忘れちゃいけないものを繋ぎ止める音楽が、苦しい時に苦しいと叫べる音楽が、どうしようもなく虚しい時に縋りつける音楽が俺たちを救ってくれる」

「……先輩らしい答えですね」

「なら、お前は、お前らしい乗り越え方を見つけるんだ」

 先輩は、僕の肩を軽く叩いてその場を後にした。出口に向かう前に彼女と少しだけ会話をしていた。何を話しているか聞こえなかったけれど、彼女は綺麗な顔に笑顔を浮かべていた。彼女は先輩との会話を終えたその足で僕の方に駆け寄ってくる。

「お疲れ様、天才ピアニストくん。晴れ舞台はどうだった?」

「楽しかったよ。ただ、天才ピアニストじゃないけどね」

「あら、ご謙遜しちゃって。みんな君のことも褒めてたよ?」

「僕への褒め言葉なんて、おまけだよ」

「そんなことないのに。で、どうだった? 私のサプライズ」

 驚いた。それが一番に思い付く感想だったけれど、何となく口に出すのを辞めた。きっと、会場に居た全員が同じ感情を持ったに違いない。だから、僕は二番目に思い浮かんだ感想を彼女に伝えることにした。

「……ああ、そうだね。凄く良かったよ」 

「これで君だけが背負った命じゃなくなったからね。だから私が居なくなっても元気に暮らすんだよ。沢山笑って、沢山の人に愛されて、そして時々、私を思い出すの」

 彼女は遠くの空を眺めてそう言った。それは未来を。彼女の居ない遠くの未来を眺めながら。

「ああ、善処するよ。きっと数少ない友人と他愛もないことで笑って、その出会いを大切にして、そして、毎日のように君を思い出すけれどね……」

「音楽を辞めなければ沢山の人に愛されるよ。だって、天才ピアニストだからね」

「それ凄い、推してくるね……」

「君の演奏は私の人生を変えたんだよ」

 どうやら彼女曰く、僕は天才ピアニストらしい。身に余る評価にもどかしさを感じるけど弄りでも冗談でもなく、彼女はそう評価してくれている。

 だから、受け入れざるを得ない。

「人生を変えた……か。僕は君と出会うまで、この世界が嫌いだったし憎かったんだ。八つ当たりだって分かっているけど、世の中の全てに舌打ちをして生きていた。でも入学式の帰り道、君が話しかけれくれて世界が変わったんだ。白黒だった世界に色彩が溢れていくように、世界が変わり始めたんだ。だからありがとう。僕と出会ってくれて、生きててくれて、本当にありがとう」

 僕は思いの丈を全部ぶつけた。それが許される瞬間だと思ったから。

「……あーあ、もっと君とやりたいことあったんだけどなー。先生も余命十年とか言ってくれれば、もっと計画的に沢山のことできたのにな……」

 彼女は吹っ切れた様子で、僕の胸元を軽く叩く。そのまま、表情を隠すように僕のシャツに顔を寄せる。涙でシャツが滲んでいくような感覚がした。

「メモでも残してくれたら僕が代わりにやってあげるよ」

「馬鹿だなぁ。二人じゃなきゃできないんだよ」

「例えば?」

「それは内緒。だって言葉にしたら呪いみたいに君を縛りつけちゃうからね」

 彼女はそう呟いて僕の身体を抱きしめた。彼女の体温が、匂いが、その綺麗な肌が、僕の身体を包み込んだ。僕は、彼女が隠した感情の正体を知っている。

 それはきっと僕と同じ気持ちだったから。だから、僕も口にはしなかった。


 屋上ライブを終えてから三日が経過して、彼女の容態はベットの上から動けない程に悪化していた。屋上で元気に歌えていたことが嘘みたいに衰弱して白く綺麗な肌はさらに白を重ね塗りしたような色をしていた。

 その姿に初めて彼女を失う恐怖に色が付いた。

 心の何処かでいつも元気な彼女が死ぬなんてあり得ないと思っていた。

 これが小説の中なら、奇跡が起きて生き返るのかもしれない。これが物語の中なら特効薬が見つかって、治療が成功して、ハッピーエンドが待っているに決まってる。

 心の片隅でそんな淡い想像をしていた。

 でも、想像が想像の域を超えないことを僕は知っている。

 徐々に容態の悪化する彼女と、右足の動きを取り戻しつつある僕の対比がどうしようもなく虚しかった。

 彼女が生きていけるなら右足だろうが、心臓だろうが、何だってくれてやる。

 でも、無力な僕にできることは病室で横になる彼女の手を握ることだけ。

 彼女の握力が少しだけ強くなった。と同時に彼女は話し始める。

「実はね、君から小説を貰った日から小説を書いていたんだ」

「それは、ぜひ読んでみたいね」

「近森先生に預けてるから、私が死んだら呼んでいいよ」

「君はまだ死なないから、読むのはもっと先だね」

「はは、君は面白いことを言うね」

「君の小説と、どっちが面白い?」

「私の小説だね」

「それは、読むのが楽しみだ……」

 それからしばらく他愛もない会話を続けた。

 明日も会いにくると伝えて、彼女の家族と入れ替わるように病室を出た。

 明日もまた他愛ない会話をすると思っていたから。






 でも次の日、彼女が目を覚ますことはなかった。

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