第六章
目を開ける。
視界には画面いっぱいの白色が敷き詰められていた。
此処が天国か。そう思った。
ぼやけた脳みそが徐々に状況を判断する能力を取り戻していく。画面いっぱいに広がる白色はただの天井だと言うこと、手のひらに温もりを感じていること。
そして視点を動かすと此処が病室であること、僕の手を握り締めて眠っている彼女がそこにいることを脳が理解する。
どうやら神様は僕の願いを叶えてはくれなかったらしい。絵馬にまで願った『君が僕より先に死なない』という願望は却下された。交通事故で、僕をあの世へ連れ去るシナリオだけ準備して実行しないなんて残酷にも程がある。
そんなことを真っ先に考えていた。
神様の慈悲で生き延びた癖に愚痴を垂れる罰当たりな思考は健在だった。
「生きてるのか……」
小さく呟くと徐に彼女が目を覚ます。彼女も僕と同じで起きて数秒間は状況を飲み込めていなかった。その大きな瞳をぱちくりさせて僕の体をベタベタ触ってくる。
「あれれ、夢じゃないよね?」
彼女は僕への触診を終えて自分の頬を抓る。痛みを感じたのか大声で泣き始めた。
「うわぁぁぁあああ、生ぎでで良がっだぁああああ……」
泣きじゃくる彼女は感情の中から『哀』を吐き出していた。普段の彼女なら絶対に見せない、感情の中に隠し持った喜怒哀楽の『哀』をひたすらに吐き出していた。
僕も同じ経験をしたから分かる。結果が出るまでの心境は不安が心を埋め尽くして最悪な結果ばかりを想像してしまう。そんな時間を経て得た吉報は堰き止めた感情を簡単に溢れさせる。
僕は彼女の感情が落ち着くまで、その手を握り続けた。
秒針が何度回ったか分からなかった。
そして彼女は、まだ夢を見ているかのように問いかけてくる。
「本当に、生きてる……?」
「うん、生きてるよ」
僕は彼女の問いに答えて握る手の握力を強めてみせた。彼女は「良かった……」と呟く。僕たちは無言で手を握り続けた。お互いの体温が生きている証明をしていた。
言葉なんて要らなかった。
体温だけがあれば。
呼吸の音だけがあれば。
ただ隣に彼女がいれば、それで良かった。
ふと、彼女との約束を破ったことを思い出す。
「音楽室、行けなくてごめん」
「本当だよ……どれだけ心配したと思ってるの……」
「……ごめん」
僕は謝ることしかできなかった。彼女との約束よりも、見ず知らずの親子のことを優先したのだから。どんな理由であれ、彼女を不安にさせた僕は許されない。
「でもね、道で困ってる人を見捨てて音楽室に来てたらもっと怒ってたよ」
「はは、手厳しいね……」
彼女なりの優しさだと思った。人を見捨てるなんて選択肢を持っていない彼女らしい考え方だった。そんな彼女の存在が薄情な僕に人助けなんて選択肢を与えた。
「あの一瞬、君ならどうするかを考えたら体が勝手に動いたんだ」
「私のことをよく分かってるね」
「分かりやすいからね」
彼女は涙眼に笑みを溢す。
その美しさを比喩できるものなどこの世に存在しなかった。
敢えて比較するなら、病室の窓から差し込む仄日程度では足元にも及ばない。それが月明かりだろうと、満点の星空だろうと、千年に一度の流星群だろうと、その表情の前では背景に過ぎない。そんな彼女の笑顔を見れただけで、生きていて良かった。
柄にもなく、そんなことを思っていた。
とんとんっ。と扉を叩く音がした。
扉の向こうから「上田美優さんいらしゃいますか?」と看護師の声がした。
彼女が「いますよ」返事をする。どうやらお薬の時間らしい。彼女は顔付きを飄々とした明るい表情に切り替えて看護師の元へ向かった。部屋を出る直前に彼女が振り返る。
「あっ、私の部屋は五階だからよろしくね!」
彼女は部屋を出て扉を閉めながら、僕の右足に目線を向けて台詞を続ける。
「でも、その足じゃ動けないか、また遊びに来てあげる。じゃあね!」
発言の辻褄を合わせるように状況を整理する。彼女が病衣を着ていること、僕の右足がギプスを付けてぐるぐる巻きになっていること、事故の前に彼女から送られてきた入院のメッセージのこと。すぐに大体の状況は理解できた。
交通事故の末、奇跡的に彼女と同じ病院に入院したのだろう。と言っても、僕らの住む地域で一番大きな総合病院に入院した訳だから、奇跡と呼ぶよりも必然に近い。
それはそうと彼女が入院し始めたということは少なくとも丸一日は眠っていたことになる。僕はスマホに手を伸ばして恐る恐る画面に目を向けた。
事故の日から二日経過していた。そして、彼女から送られてきた数え切れないほどの通知が視界に飛び込む。
【今どこ?】
【寝ちゃった?】
【おーい】
【迷子かい?】
【今日は無理そう?】
【何か返事してよ】
【ばか】
【今どこ?】
【家に電話しても出かけたって言われたよ?】
【大丈夫……?】
【おーーい】
【不在着信】【不在着信】【不在着信】【不在着信】【不在着信】【不在着信】
【お願い。無事だったら返事して】その文章を最後に彼女からのメッセージは途絶えていた。その文面から時間の経過と共に膨らんでいく焦りが伝わってきた。
事故に遭って入院までしているから無事ではない。それでも命に別状はなかったから彼女の要望に沿って返信する。
【無事だよ】
【右足を見てみなさい】
数秒も経たずに返事が来た。女子高生の返信の速さには驚かされる。
彼女のメッセージの通りに右足に目を向ける。彼女の言う通りで無事という言葉の意味をどう捉えても無事ではなかった。
【そうだね、大惨事だ】
【お見舞いにメロン持って行ってあげるね】
【メロンの効能を信じすぎじゃない?】
【美味しいは正義だからね】
そんな会話をしていたら食欲が湧いてきた。男子高校生が二日も断食をしてた訳で普段は少食な僕が底知れぬ食欲に支配されていた。オムライスが食べたい。卵が半熟でふわふわとろとろの奴が食べたい。ケチャップじゃなくてデミグラスソースを贅沢にかけてお腹いっぱいになるまで食べたい。
【オムライス食べたくない?】
【別に】
無意識に文字を打っていた。なんの脈絡もない文章に自分でも驚く。極限まで堰き止めて溢れた食欲は指先さえ支配するらしい。
僕は無意識に動いた指先を再度、意識的に動かす。
【ごめん、忘れて】
とんとんっ。扉を叩く音がした。
「――――さん。起きてますか?」
男性の声が僕の名前を呼ぶ。僕はスマホを手放して「起きてます」と返事をする。
白衣を見に纏う老人が病室に入ってきた。事故当時の状況説明を受けて、覚えてる記憶を事細かに聞かれた。問診の限りでは脳に異常はないらしい。
念の為に後日、精密検査を行うと言われた。
そして医者は足に目を向けて話し続ける。
右足だけの骨折で済んでいるのは奇跡らしい。
僕が衝突した車は飲酒運転で轢き飛ばされた弾みで頭を強く打って意識を失った。
ただ、不幸中の幸いと言うべきか、接触の直前にブレーキを踏んでいたらしい。
医者曰く、今回のケースは身体的な傷害よりも脳機能の方が危惧すべきらしい。
自分の体は自分がよく分かっている。多分、脳に異常はない。
寧ろ、いつも以上に正常に働いている。
なぜなら、二日も遮断された栄養素を求めて食糧を探してるのだから。
僕は抑えきれない食欲を白衣を纏う老人にぶつけた。
「あの、お腹減って話が入ってきません」
医者には笑われた。恥も承知の発言だったから笑われても仕方がない。ただ、僕は曲がりなりにも男子高校生で、食欲が旺盛でもおかしな話じゃない。
まあ、医者の真剣な話に割り込むような話でもないけれど。
医者は話を簡潔にまとめて、二日間なにも食べてないことを考慮して早めに食事の用意を進めてくれた。
食事を待つ時間は一秒が一時間に感じるほど長かった。窓の外は変わらずに夕陽が風景を茜に染めていた。いつまで経っても沈まない夕陽が時の流れを遅くしている気がした。
とんとんっ。今日は良く扉を叩く音が鳴る。
扉の先にいたのは両親だった。僕の顔を見るや否や抱きついてくる。
両親は、心の奥から声を震わせて「生きていて良かった」と呟く。
その声と体温の全てが、温もりと呼ぶに相応しかった。
その後、両親と話をしていると食事が配膳された。
良く言えば健康的な食事で、悪く言えば質素で物足りない食事だった。
僕はぺろっと食べ尽くして、収まらぬ食欲を言葉にする。
「オムライス食べたい……」
両親に笑われた。今日は良く笑われる日だ。
再三言っているが、状況を鑑みれば食欲が湧いてもおかしくない。二日間もかけて育てた食欲が質素な病院食だけで収まってしまう方がよっぽど異常だ。
両親は、けらけらと笑いながらも僕の要望には応えてくれるらしい。今日は、よく笑われる日でもあるけれど、どんな要望も叶う日でもあった。
生きてるだけで儲けた気分になれる。
ただ、僕の叶えたい夢は例外だった。
現実は甘くない。医者や両親みたいに憐みで判断を変えたりはしない。もし神様が存在するなら、それは機械的にシナリオを書くだけの心を持たない無機物だ。
そんなものは崇めるに値しない。
だって、絵馬にまで書いて祈った僕の願いを叶えなかったから。
誰よりも明るい未来を生きるべき彼女に余命宣告なんて理不尽な仕打ちをしたから。
だから僕は、神様なんて信じない。
両親は、着替えやタオルを置いて一度家に帰った。帰り際に父親がノートパソコンを渡してくれた。無言の仕草だったけれど僕のことを良く理解している父親だった。
今の僕は、ノートパソコンさえあれば何十時間でも時間を潰せる。作りかけの曲と睨めっこをするだけで時計の針が何周もしてくれる。
だから、歩けなくても何ら支障はない。
しばらくして母親が、わざわざ家に戻って料理した手作りのオムライスを持ってきた。完熟でケチャップのかかったオムライスだったけれど美味しかった。
すごく美味しかった。
いつも食べている母親の手料理を食べただけなのに涙が込み上げてくる。
ギブスで固定された右足が痛かったから。
その痛みが、生きていると煩く叫んでいたから。
両親からの無償の愛が心に突き刺さったから。
「美味しい……」
「そりゃ当然よ、誰が作ったと思ってんの」
母親は満足そうな顔をしていた。半熟でもない、デミグラスソースでもない、普段の食卓に出てきたら愚痴を垂れたくなるオムライスに胃袋を掴まれていた。空になった弁当箱を鞄に入れて帰り支度をする母親に普段なら絶対に言わない台詞を吐く。
「…………ありがと」
「ばか……」
母親は涙目で笑ってみせて、部屋から出ていった。
月が綺麗な夜だった。病室に独りぼっちの夜だったけれど寂しさはなかった。
今日の幸福感も朝になったら全て忘れてしまうんじゃないか、なんて不安さえ覚えた。それほど迄に、恵まれた一日を過ごしていた。
次の日、記憶は正常で昨日までの出来事の全てを覚えていた。医者の心配も取越し苦労に過ぎないと楽観的になれる程、脳は機能していた。
右足はあれだったけれど。
この日は来客が多かった。両親と彼女はさておき、警察から始まり、横断歩道ですれ違った親子、そして田口先輩と、その忙しさは宛ら予約の尽きない人気店だった。
警察からは事故当初の事を詳細に聞かれた。答えられることは全て答えた。
警察は、過失割合が何とやら言っていたがどうでも良かった。別に運転手を牢屋にぶち込みたい訳でも、金をぶん取りたい訳でもない。
そんなことよりも早く曲を作りたいんだと脳が叫んでいた。
手短に終わらせようと、簡潔に質問に答えていくも中々終わらない。そんな問診に嫌気がさした頃、あの親子がやってきた。部屋に入るや否や大きくお辞儀をされた。
どうやら二人とも大きな怪我もなく無事だったらしい。
その知らせだけで警察の問診で募った苛々が吹き飛んだ。
小さな少女から手紙を貰った。手紙には「おにいちゃんありがとう」と大きな文字で書かれていた。嬉しかった。只々、嬉しかった。
これまでの人生、他人に感謝される経験が少な過ぎたらしい。
こんな単純で純粋無垢な感謝状に感情が揺れ動いていた。
涙を堪えて僕は少女に「ありがとう」と伝えた。
少女の母親は、感謝の言葉と大きなメロンをお見舞いの品として贈与してくれた。
命懸けの人助けも悪くない、そう思った。
大きなメロンは彼女と一緒に食べようと思った。彼女曰く、万能薬だから。
来客の波が終わり、やっと曲作りに勤しめると思ったら再び扉を叩く音がした。
「よぉ、元気か。メロンでも食べて元気出せよ」
そこには大きなメロンを持った田口先輩が立っていた。どいつもこいつもメロンを持ってきやがる。近くのスーパーでメロンの特売でもやっていたのだろうか。
まあ、美味しいから別にいいのだけれど。
「あっ、ありがとうございます」
僕はさっき、親子から貰ったメロンを見つめながらお礼を言う。先輩は既に部屋に置かれたメロンを見て気まずそうに口を開く。
僕もメロンを隠しておけば良かったと反省する。
「まあ、メロンは何個あっても良いから貰っとけ」
「そうですね、ありがたく頂きますね」
先輩はメロンを棚の上に置いて、椅子に腰掛けて話を続ける。
「話を聞いたよ。お前、命懸けで人助けをしたんだってな」
「大袈裟ですよ……」
「二日気を失ってたら、命懸けと評して良いと思うけどね」
「身体が勝手に動いたんです」
「自殺行為だな、俺はお前の行動を褒めない。寧ろその逆だ。お前を貶しにきた」
「…………」
「お前は事故の瞬間、死んでも良いって思ってただろ」
先輩は真剣な表情をしていた。その問いは名推理と呼んでも良いほどに的確だった。
僕は事故の瞬間、善行と僕の命を天秤にかけた。体を動かしたのは反射神経だから思考と呼べる代物じゃないが確かに選択をした。
死んでも良いと思って足を動かした。
「そう、思ってたかも知れないです……」
「命を天秤にかけてでも守りたいものってのは俺だってある。ただ、道端に転がってるようなもんじゃない。天秤に乗せた何千何万の選択肢を切り捨てて選んだものだ。お前は自分の命を軽く見たから、赤の他人の為に命を投げ捨てる選択をしたんだ」
僕は、先輩の考えを咀嚼した上で自分の考えを口にする。
「……でも僕は、僕の選択を後悔してないです」
「ああ、お前は間違ってない」
先輩は、その真剣な目をじんわりと涙で滲ませた。
先輩の意見は合理的で正しい。ただ、そんなこと百も承知で身体が勝手に動いた。
彼女なら、そうするはずだから。
「ただ、俺も間違ってない。誰かを見捨ててでもお前には生きていて欲しい」
「…………」
「悪いな。お前に、お前の命の重さを知って欲しくて嫌なことを言った」
「先輩は凄いです。いつも、僕に必要な言葉をくれる気がして」
「そんなことはない。俺は俺に必要なことをしているだけでお前の為じゃない」
そう言うと、先輩は立ち上がって帰り支度を始めた。
手にはメロンではなくギクケースを持っていた。
この人は音楽の中を生きている。僕が歩くべき道の先にいる気がした。
「先輩にとって音楽って何ですか?」
僕は思わず聞いてしまった。溢れだす好奇心を止められなかった。
「……難しい質問だな、俺は音楽に縋っている。音楽という大きな概念の一部だけに縋り付いている。音楽は都合の良い道具だ。楽しい時はあの曲を、嬉しい時はあの歌を、悲しい時はあの唄を、虚しい時はあの音に、そうやって都合よく縋り付く道具に過ぎない。俺の好きだったミュージシャンは齢二十数年で死んだ。そいつの残した音楽はあの日で立ち止まってる。嫌でも進んでしまう時間がその距離を遠ざけていく。死ぬほど好きだった曲を、いつか忘れてしまう気がして怖いんだ。だから俺は音楽に縋りついてる」
先輩は質問に対して、いつも的確で思想に溢れた回答をしてくれる。音楽に縋り付く理由も似ている気がした。これから失う大切なものを忘れないように。
「僕も、大切なものを忘れないように音楽に縋り付いてるのかも知れないです」
「そうだ、俺たちはそういう人種だ。何も間違ってない」
「大切だった想い出も、いつか忘れちゃうんですかね……」
「ああ、忘れてしまうよ。だから、それを曲にするんだ。俺たちの表現技法が音楽なだけで別に曲じゃなくてもいい。形に残せればなんでもいい。忘れちゃいけないことはそうやって繋いできた。これは何千年も昔から変わらない。偉業を成し遂げた英雄は古事記に記されて何千年も未来に受け継がれる。逆に言えばどんな偉業も形に残さなければ百年も経てば消えてなくなる。大袈裟だけど記憶ってのそういうものだ」
「今なら、何となく分かります」
「だから、大切なものは形に残さないといけない」
先輩は、窓の外を眺めていた。
それは、遠い昔の想い出を眺めるように。
先輩も、出会いと別れを繰り返して大切なものを手放してきたんだろうか。
そんな想像が、先輩の表情に儚さを書き足した。
その冷たくも優しい表情に僕が先輩を好きな理由が詰まっていた。
「それじゃ、またな」
先輩は、名言と大きなメロンを置いて病室を後にした。まさか人助けをして説教を食らうなんて思ってなかったが、何となくすっきりとした気分になっていた。
彼女の命と世界を救った英雄の命を天秤にかけたら、迷うことなく彼女の命に天秤が傾く。それが僕の意思決定で酷く歪んだ非合理的な判断だ。
身近な人間には情が湧く。
それは時に愛情と、時に友情、時に同情と呼ばれる感情として。
とんとんっ。
扉を叩くこの音にも慣れてしまった。
「じゃーん、メロン買ってきたわよ!」
母親がメロンを自慢しながら入室してきた。どうやらこの地域ではメロン以外の果物は売ってないらしい。もしくは、本当に食べるだけで病を治す力があるのだろう。
僕は、興味本位で母親に問いかける。
「なんでメロンなの?」
「スーパーで特売だったからね」
母親は正直者だ。身内だから気を使う必要もないけれど、先客から貰ったメロンが特売品だと思うと少しだけ気まずい。特売品だろうと高級食材に変わりないけれど。
母親はメロンをしまう為に冷蔵庫を開けた。冷蔵庫には先客の大きなメロンが二つ冷蔵庫内を占拠していた。母親はメロンを手に抱えたまま爆笑する。
「あははは、皆さん特売品には目がないわねぇ〜」
「本当だよ」
「冷蔵庫に入らないし切り分けて持ってくるわね」
「助かります……」
母親は手際良く着替えとタオルを取り替えて、冷蔵庫に入りらなかったメロンを抱えて家へ戻った。
ようやく、朝から続いた来客ラッシュが漸く終わった。僕はやっとの思いでノートパソコンに電源を入れる。曲作りに取り掛かるも足踏みをする進捗に嫌気がさす。
何かが違うけれど、何が違うか分からない。それが創作の醍醐味だと言えば聞こえは良いが、成果の出ない努力に苛立ちが募るばかりだった。
一縷の閃きさえあれば、この壁は越えられるのに。
「上田美優さんの〜参上っ!!」
扉をこじ開けて決めポーズをする彼女からは何の閃きを得れなかった。
にしても、改めて自己紹介をしてくるなんて、僕が交通事故で記憶を失ったみたいに見えるから辞めて欲しい。余命患者と記憶喪失患者なんて情報過多にも程がある。
「どうしたの?」
「いや〜ね〜実はね〜この病院に私の名前をばら撒いてるんだよ〜」
「すごい上機嫌だね……」
「いや〜ね〜実はね〜屋上の広場でギターを弾いて良いって言われてねぇ〜」
彼女は身体をくねくねさせながら陽気に踊っていた。病院内は静かにするのが基本で楽器の演奏なんて御法度だ。だから、彼女にとっては感極まる朗報なのだろう。
「それは良かったね。もしかしてライブでもするつもり?」
「さすがだね〜大正解だよ〜」
「何なのその不気味な喋り方は……」
僕は我慢できずに聞いてしまった。明らかにツッコミ待ちの変な喋り方も、くねくねと体を揺らす仕草も敢えて無視するつもりだったのに。
「いや〜ね〜屋上で喋ったおじいちゃんの喋り方が移っちゃってね〜」
「その“いや〜ね〜“って癖になるね」
「そこで、君にお願いしたいことがあるんだよ」
彼女は表情を一変させる。果たして、さっきまでの喋り方は必要だったのだろうか。
「急に普通に喋るじゃん……」
「君にもピアノを演奏して欲しくてね」
彼女は真剣な目をしていた。臆病で弱虫な僕が目を逸らしてしまえと囁く。
結局、僕はピアノの演奏から逃げて今日まで生きていた。正しくいえば、ピアノを弾く機会が無かっただけで彼女と仲直りしたあの日から覚悟は出来ていた。
それでも、臆病風に吹かれて得体の知らない恐怖が僕の感情を支配していた。
果たして僕は何を恐れているのだろうか。
そんな問い掛けをした所で答えなんてどうでも良い。
今、必要なのは覚悟だけ。
大きく息を呑んで覚悟を決める。そして掌を石のように硬く握り締めて口を開く。
「演奏するよ」
「約束だよ」
「ああ、約束だ」
僕と彼女は約束を結んだ。解けないように硬く結んだ。
どうやら屋上でのライブは一ヶ月後を予定しているらしい。彼女はギターの練習を僕はピアノの練習をする。演目は童謡や歌謡曲を中心に大衆受けする曲を集めた。
入院患者の知っている曲を、皆が楽しめる曲を選ぶのは、実に彼女らしい思った。
僕は病室でピアノを弾く為にMIDIキーボードと呼ばれるパソコン上でピアノの音を鳴らせるキーボードを買った。元々、作曲効率を上げる為に欲しいと思っていたから渋らずに買った。
これならイヤホンでピアノの音を聴けるから病室で演奏しても問題はない。
演奏の幅を狭めない鍵盤の数と病室で弾くことを考慮して六十六鍵を選んだ。
配達には数日掛かるらしい。自宅に届く手筈だったから、仕方なく父親に病室まで再配達を依頼した。
練習の日々が始まった。別に練習したからといって何かあるわけじゃない。彼女に至っては何も残らない。練習した技術も、積み重ねてきた記憶も何も。
それでも楽しそうに、嬉しそうに練習する彼女を見ていたら、そんな日々に意味を見出しても良いんじゃないかと思えてくる。だから、僕も練習の手を抜かない。
今の彼女は、日々の憂いに身を任せる暇も時間もない。
もしかしたら、そんな時間の制約が彼女の感情から『哀』を消し去ったのかも知れない。だから僕も『哀』に染まってる暇なんてない。
数日後、父親が六十六鍵のキーボードを持ってきた。購入時に見た商品の写真よりも実物は大きい気がした。
ただ、届いてしまった以上は仕方がないから迎え入れることにした。
病院は想像以上に協力的で、両足のあるスライド式のデスクを貸し出してくれた。
そのおかげで、想像以上に大きいキーボードをベッドの上で演奏できる。
父親は無言で設置を手伝ってくれた。多くは語らずに行動でその優しさを示す。
「ねぇ、何か一曲弾いてよ」
僕はわがままを言った。キーボードが弾ける準備が整ったから。何となく聴きたくなったから。理由なんてそんなもんだったけれど願望は口から溢れ出していた。
「久しぶりだな……」
父親が鍵盤に触れるなり、少しだけ涙腺が刺激された。
お洒落なカフェで流れていそうな静かで綺麗な演奏だった。ノートパソコンに備え付けの安いスピーカーから溢れ出す音色は懐かしさを耳に運んできた。
僕がピアノを始めたのは、父の演奏が好きだったから。
休日のリビングで聞こえてくる優しくて温かい音色が好きだったから。
「ごめんな、俺がピアノを勧めたせいで、辛い思いさせて……」
父親は演奏を途中で中断して涙を頬に伝わせながら口を開く。きっと、少し前の僕なら何も言えなかっただろうけど、今なら言える。ピアノに出会えて良かったと。
「父さんは何も悪くないよ。むしろ逆で、僕をピアノと出逢わせてくれてありがとう」
「…………強くなったな」
「そんなことないよ」
「父さんは喋るのが苦手だからピアノを始めたんだ。だからピアノは第二言語なんだ」
父親は涙目を拭うこともせず、ピアノの演奏を再開した。その先はピアノで語ると言わんばかりの演奏だった。でも、本当に言葉なんて要らなかった。
無言で弾き続ける父親の演奏は音楽の素晴らしさを雄弁に語っていたから。
思うがまま自由にピアノ弾き終えた父親の表情に曇りはなかった。
「また、家でもピアノの演奏してよ」
僕は更に、わがままを言う。右足を負傷している病人の憐れな懇願を心優しい父が断れるはずがない。そんな狡猾な考えのもと僕は口を開いた。
「ああ、気が向いたらな」
そう言い残して、父親は部屋を出た。人一人分の空間が空いた病室はピアノの音が良く響く気がした。手遅れながらパソコンにイヤホンを挿して父の体温が微かに残る鍵盤に触れる。耳元に流れ込むピアノの音は父親の鳴らす音とは違った。
その違いがイヤホンとスピーカーの音質の違いじゃないことは分かる。
ただ、聴いてきた音楽の違いなのか、演奏歴の違いなのか、込められた想いの違いなのか、僕には分からなかった。
それでも父の演奏は、憧れを抱くには十分すぎる音色だった。
その夜は、飽きるほどにピアノの練習をした。脳みそではピアノの弾き方を鮮明に覚えているのに指先が忘れているから指が縺れてしまう。そんな牴牾しさも、懐かしさと名付けて演奏を楽しんでいる自分がいた。
窓から射す西陽も、いつの間にか姿を消していた。病室に夕食が運ばれて来たから時間の経過に気づいたけれど、夕食の配膳がなければ夜が更けるまで没頭していた。
とん……とんっ。扉をゆっくり叩く音がした。
「やあやあ、元気かい?」
腰を曲げて老人の真似をする彼女が、ゆっくり部屋に入ってくる。
彼女は六十六鍵の鍵盤を見るや否や曲げた腰を伸ばして鍵盤に駆け寄る。その姿はクリスマスのプレゼントを見つけた子供みたいに無邪気だった。
「やあやあ、良いものを持ってるじゃないかい?」
「次は誰の真似?」
僕は晩飯を食べる手を止めて質問した。彼女の特徴的な喋り方が気になって仕方がなかったから。影響の受けやすい彼女だ。また、誰かの喋り方が移ったのだろう。
「やあやあ、屋上であったおばあちゃんの喋り方が移っちゃってね」
「……だと思ったよ」
予想が的中しても喜びはなかった。
彼女は鍵盤に触れながら目を丸くして首を傾げる。
「やあやあ、ちなみに、このピアノは音が鳴らないのかい?」
「今はパソコンを閉じてるから鳴らないよ」
説明を聞いても彼女は首を傾げていた。それもそのはずで、MIDIキーボードなんて存在は曲作りをしなければ知る由もない。だから、ゆっくり丁寧に説明をした。
パソコン上で音が鳴ると知った彼女は「世の中は便利になったねぇ」とおばあちゃんみたいなことを言う。
まあ、彼女の命を余命から逆算すれば、おばあちゃんと呼ぶに相応しいけれど。
「よし、一曲弾いてよ」
彼女は、僕が夕食を食べ終えるや否やわがままを言ってくる。余命を課されている哀れな少女の要望を心優しい僕が断れるはずがない。
それを理解している彼女は満面の笑みで僕を見てくる。
何を弾くか迷いながら、僕は、手元まで運ばれた鍵盤に手を翳す。
彼女の聴きたい曲には心当たりがある。それは譜面なしでも弾ける程、この身体に馴染んでいる曲で、僕が最後にピアノを演奏した曲だった。
僕らはイヤホンを片方ずつ付けて、その耳に神経を集中させる。緊張で手が震えて仕方なかったけれど、思いの外、脳も身体も言うことを聞いてくれた。
僕の奏でる音一つ一つに、懐かしさが胸を翳めた。
舞台袖で耳に飛び込む罵詈雑言、才能を憂う奏者、パズルのピースみたいに埋め尽くされた客席、花火の音よりも大きく鳴り続けた拍手、その全てに色をつけて記憶を廻る。その全てが忘れちゃいけない経験だと言い聞かせて。
白黒の記憶に色を付けて塗り替える。独り孤独にピアノを弾いていたあの頃に彼女の存在を足し込んで描き直す。この演奏には、そんな意味が籠っていた。
「やっぱり君は音楽を続けるべきだよ」
演奏を終えた僕に彼女は呟く。片耳ずつイヤホンを付けていた所為か、いつも以上に彼女との距離が近くて彼女の大きな瞳に目を奪われた。
彼女の瞳は達成感に満ちていた。
ピアノから逃げ続けた捻くれ者を更生させる偉業を成し遂げた訳で達成感に満ちて当然だ。僕だって彼女の望みを一つ叶えられたから達成感を感じている。
後は僕が死ぬまで音楽を続ければいい。
ふと気になった。演奏を聴いた彼女が僕の演奏を単純に評価して続けるべきと感想を述べたのか、それとも僕が演奏に込めた想いを感じ取って続けるべきと言ったのか。
そのどちらでも僕が音楽を続けることに変わりはないけれど。
もしも、後者ならば僕の音楽は第二言語としての役目を果たしている。
もしも、後者ならば言葉にはできない感情を彼女に伝えることができたと言える。
「父さんが言ってたんだ。ピアノは第二言語だって……」
「良いことを言うね。さすがは君のお父さんだ」
「おかげで、僕の好きな言葉が一つ増えたよ」
「私はね、音楽って凄い力だと思うの。性別も年齢も国籍も言語も時代も乗り越えて人を繋げるの。ブレーメンの音楽隊なんて動物達が協力しちゃうんだから」
「そうだね、人と人を最も簡単に繋げてしまう音楽は魔法みたいだ」
音楽は、孤独な僕を彼女と引き合わせた。
きっと先輩とも、音楽がなければ知り合えなかった。
「なら君は魔法使いだね。だから、私がいなくなっても、その魔法一つで私のことを思い出すんだよ……」
窓の外を眺める彼女は綺麗だった。そんな彼女をぼんやりと眺めながら呟く。
「ああ、何度だって思い出すよ。何度だって……」
とある例え話を思い出した。
“魔法一つで生き返れるなら死ぬのか”と言う、僕が読んでいた小説の一文から膨らんだ彼女との何気ない会話だ。今思えば生き返れるかどうか不安だとか、死ぬ代償に願いが叶うだとか、条件を付けている僕には生きる選択肢があった。
彼女にそんな選択肢はない。死ぬことを避けられない彼女は、魔法一つで生き返る方法を探していたのかも知れない。それが音楽であり、人の記憶だと結論付けたのだろう。
僕は彼女との記憶を繋ぎ止める為に死ぬまで音楽に縋り続ける。ただ、これは魔法なんて綺麗なものじゃない。呪いや呪縛と名付けた方がしっくりくる。
「ねぇ、もしも僕が君を忘れたらどうする?」
僕は彼女に対して、絶対にあり得ない想定を質問する。
「思い出せーって呪いを掛けるために、夜な夜な君の枕元に化けて出るかもね」
彼女は両手を胸元辺りから手を垂らして、幽霊を模して長い黒髪を左右に揺らした。
彼女の長い黒髪と白い肌は、何処となく僕の想像する幽霊に当てはまっていた。
やっぱり、これは魔法ではなく、呪いや呪縛と呼ぶに相応しい。
「つまりは、忘れたら君と会えるわけだ」
「君に霊感があれば会えるかもね」
「残念ながら人間も神様も幽霊も信じてないんだ……」
「なら、君は何を信じてるんだね?」
「猫だね」
「なら、化け猫になって枕元に出てあげるね」
「そんな事したら、君を忘れることに全力を尽くしてしまうよ?」
「にゃー、忘れないで欲しいにゃー」
彼女は猫の真似をしながら僕を見つめる。忘れないで欲しいと言いながら化け猫を模して何をしたいのか、全くわからなかった。
まあ、猫の真似をする彼女はいつにも増して可愛かったけれど。
「発言と行動が矛盾してるよ」
「にゃー」
「ああ、壊れちゃった……」
「にゃーにゃー」
「まあいいや、こういう時のための第二言語か……一曲弾いてよ」
「にゃー」
彼女は首を縦に振って鍵盤を手繰り寄せる。どうやら返事は肯定の意味だったらしい。勘のいい彼女は、要望通り、いや、要望以上に僕の期待に応えてくれた。
彼女の指先が鍵盤に触れる度に記憶が蘇る。【第二奏者/上田美優】としての演奏を、僕が初めて彼女の演奏を聴いたあの日の演奏を忠実に再現していた。
コンクールで演奏しているみたいな譜面通り丁寧な演奏だった。
彼女の触れた鍵盤は、僕の演奏とは比べ物にならないほど滑らかで綺麗な音を奏でていた。時の流れは恐ろしい。継続は力なりとはこの事で彼女の演奏はあの時よりも更に綺麗で美しい音色に成長していた。そして彼女は綺麗な演奏をぶち壊す。
演奏は一転して、奏でる音が五線譜を自由に泳いでいた。
譜面の指示を無視して、力強い抑揚で曲を自分のものにする。
鍵盤を見つめて笑みを浮かべる彼女は生粋のピアニストだった。
音を楽しむと書いて音楽だと表現をするなら彼女の演奏は正に音楽だった。
彼女の奏でる一音一音が「生きているんだ」と強く叫んでいる。
彼女が演奏を終えて鍵盤から手を離す、その一瞬まで僕は釘付けになっていた。
拍手をした。本当は立ち上がって拍手したいぐらい素晴らしい演奏だったけど右足が邪魔をした。
あの日、聴きそびれた演奏の続きを聴けるなんて思ってもいなかった。
「素敵な演奏だったよ。僕の演奏が恥ずかしくなるくらいね……」
「そりゃ、君はブランクがあるし、怪我でペダルも踏めないから仕方ないよ」
彼女は僕の演奏を擁護してくれたけれど、そんなことを加味しても彼女の演奏の方が優れていた。鍵盤の上を自由に駆け廻る音色を一つの曲に美しく纏め上げる。
そんな演奏を会得している彼女に敵うはずがない。心の底から音楽を楽しんでいる彼女の圧勝だった。
「でも、なんで曲の前半と後半で弾き方を変えてるの?」
「ふふふ、良いところに気が付いたね……」
「気がつくも何も、そこが一番の見せ所じゃないの?」
「ふふ、君は鋭いね、これはコンクールの時にする弾き方。私ね、昔から採点される演奏があんまり好きじゃないの。でも、コンクールに出ろって言われることも多くて苦肉の策で生み出したのが作曲者と戦うって奏法。これで細かい技術じゃなくて『私』対『作曲者』の評価に変わるの。他人の採点に囚われて楽しむことを忘れちゃったら本末転倒だからね」
彼女は音楽に対する解像度が高いらしい。それは論理的と言うより本能的な直感で僕には思い付かない考え方だった。
「作曲者に挑むなんて凄い度胸だ」
「譜面の中に閉じ込められた作曲者の意思なんて自由に演奏できる私達の前では霞むからね」
「だから、敢えて曲の前半で譜面通り綺麗に五線譜を再現すると?」
「そう、真っ向勝負しないとフェアじゃないからね!」
「……面白い考え方をするね」
「えへへ、そんなに褒めないでおくれよ……」
彼女は、恥ずかしそうに頭を掻いた。
彼女の度胸も思想も演奏も褒めちぎりたいと思うほどに共感していた。
採点基準に合わせて演奏するなんて音楽の楽しさを削ぎ落としている。
敢えて造語を作るなら、それは音楽じゃなくて『音学』か『音が苦』とでも名付けて別のジャンルとして確立するべきだ。そうすれば音楽はもっと自由になる。
「褒めてあげるよ。僕の人生を変えた演奏を最後まで聴かせてくれたからね」
「ふふふ、大袈裟だなー、そんなに褒めても何も出ないよ」
彼女はそう言いながら隠し持っていた飴玉をくれた。
「大阪のおばちゃんみたいだね」
「豹柄の服を着てくれば良かった……」
「大阪のおばちゃんに再現性は要らないのよ」
「なんでやねん!!」
「いや、雑な関西弁も要らないのよ」
「にゃー」
「いや、猫に逃げないでよ」
「前から思ってたけど、君ってツッコミ上手いよね」
「そんな急に褒めても何も出ないよ……」
僕は発言と裏腹に、デザートに食べる予定だったカットメロンをフォークで突き刺して彼女の口元へ運ぶ。すぐに渡せるものがそれくらいしかなかったから。
とは言え、冷蔵庫には大量のカットメロンがあったから贈与品と呼ぶより残飯処理に近い品だった。それでも彼女は喜んでくれる。
なんて言ったってメロンは万能薬だから。
しばらくして病室の窓が黒く塗りつぶされた頃、彼女は鍵盤に名残惜しさを感じながら自室に戻った。飽きるほどにピアノを弾いた筈なのにまだ弾き足りないらしい。
彼女にとってピアノもギターも制限されている入院生活は常に音楽不足なのだろう。
音楽と共に生きている彼女から音楽を奪うなんて何人たりとも許されない。
それが人間じゃなくて病や神様だろうと。
今日は彼女からピアノの弾き方を教わった。と言うよりも彼女の演奏へのこだわりを聞かされた。例えば、童謡なら子供の顔を思い浮かべて一緒に歌うようにゆっくり弾くだとか、バラードならピアノの音が聴こえるか怪しいくらい優しく鍵盤に触れるとか、譜面に載っていない曲の弾き方ってやつを叩き込まれた。
どうやら音楽は、僕が知っていたよりも何倍も自由らしい。
その夜はピアノの演奏がいつもより楽しかった。僕の演奏でピアノを始めた彼女にピアノを教わる日が来るなんて人生は何があるか分からない。
それからは練習の日々を送った。童話から歌謡曲まで、音楽の幅広さを感じながら練習をする。決まって夕方になったら、彼女は僕の部屋に来て一日の出来事を語ってくれる。その日、屋上に居た誰かの喋り方をお土産に色々な話をしてくれた。
そんな日常と歩くリハビリを繰り返して日々を重ねた。幸いにも骨折したのは片足だったから、松葉杖を使って歩けるようになるまで時間は掛からなかった。
そしてある日、医者から屋上への出入りを許可された。
興味本位で屋上に足を運んだ。
雲一つない青空が風の心地良さに拍車を掛ける。
その風景を気に入ったからベンチに腰掛けて小説を読む事にした。
風がページを早く捲れと急かす。それを指先で阻止してゆっくりと読み進める。
すると、何処からかアコースティックギターの音が聴こえてくる。辺りを見渡すとベンチから少し離れた芝生で胡座をかく彼女を見つけた。
こちらには気付いてない様子だったから黙って眺めることにした。
次第に彼女の周りには人が集まって芝生の上は小さなライブ会場になっていた。
僕はベンチから彼女の演奏を楽しむ。小説を読みながら聴く演奏も悪くない。
彼女は路上で自分の趣味趣向をばら撒くアーティスト気取りのシンガーとは違う。
彼女はいつも、その場にいる人が楽しめる音楽を模索している。ほら今だって子供たちと一緒に童話を楽しく歌ってる。
その姿は音楽の嗜み方としては模範的だった。
「彼女の演奏を、聴きに行かなくて良いのかい?」
見知らぬ声が問いかけてくる。
その声の主は白衣のポケットに手を入れたままベンチに座った。その風貌と首から垂らした名札が、彼を医者だと証明していたが僕の感情は警戒心を強めていた。
「……どちら様ですか?」
「あー、自己紹介が遅れたね。彼女の担当医をしている近森です」
「ああ、どうも……」
近森という名前には聞き覚えがある。記憶の限りではこの病院の院長も同じ苗字をしていた。僕は警戒心を解いて読んでいた小説に栞を挟んで話を聞くことにした。
「彼女から、君の話はよく聞かされているよ」
「彼女は、話を誇張する癖があるから誤解されてそうで不安です」
「彼女曰く、卑屈で捻くれ者で思考が捻じ曲がってる同級生らしいけど合ってる?」
「想像以上に正確に人物像を伝えられていて感心してます」
「そういや、根が優しくて、誰よりも正直で、自分より他人の方に天秤を傾けてしまう人だとも言っていたかな」
彼女がそんな評価をしてくれていたなんて思いもしなかった。まあ、卑屈で捻くれ者という枕詞を加味すればそんな高い評価ではないけれど。
「もしそう見えたなら、それは彼女の生き方を真似してからの話です」
「君は謙虚だね、彼女が君に惹かれる理由がよく分かる」
「謙虚なんかじゃないです」
「謙虚だよ。だって君は、彼女の生き方を、優しさを、真似しようと思える心を最初から持っていたんだから。彼女と出会うまで、優しさの使い方を知らなかっただけで最初から君は優しい人間だ」
妙に納得してしまった。初対面の病人を優しい人間だと断定する思想の強さは誰かに似ていた。彼女の担当医がこの人で良かったと安心感を抱いてしまう程に。
「彼女にギターの演奏許可をしたのは近森先生ですか?」
「ああ、そうだよ。父、いや院長の説得には時間が掛かったけれどね」
先生は少し恥ずかしそうに頭を掻きながら質問に答える。
「彼女に音楽を残してくれて、ありがとうございます」
「やっぱり君は優しい人間だ。僕は医者だからね。慈悲の気持ちだけでは院内規則を破ることはない。だだ、楽器の演奏が彼女の治療に於いて必要なら話は変わってくる。彼女の病気は他の人とは事情が違う。彼女が一日でも長く健康的な生活をできるように努めるのが僕の仕事だからね」
「……先生は良いお医者さんですね」
「そうだね。君の言う通り僕は良い医者だ。でもね、僕がどれだけ良い医者でも救えない命があるんだ」
先生は空を眺めていた。僕の統計データによれば人類は遠い昔の記憶を思い出す時に遠くの空を眺める癖がある。先生も、遠く昔の記憶を思い出しているのだろう。
「ねぇ、先生、別れって辛いものですか?」
「ああ、辛いよ。僕が経験してきた痛みの中で一番かも知れない」
「……そうですよね」
「その痛みを和らげるには後悔を減らすしかない。これは医者からの処方箋だ」
先生は、そう言い残して屋上を後にした。
取り残された僕は、ぼーっと彼女の演奏を眺めていた。
綺麗な歌声を、上手になったギターの演奏を、楽しく唄う子供を、それを優しく眺める老人達を、それを一つの風景として瞳のフィルムに収めた。
どうか、忘れませんように。
そんな願いを唱えていたら大きな声が耳に飛び込んできた。
「おーい! 屋上に来てるなら言ってよ!」
彼女が笑顔で大きく手招きしてくるから仕方なく彼女のいる芝生に足を運ばせる。
「じゃじゃーん、右足のないピアニスト――――君です!」
「いや、負傷してるだけで右足は付いてるよ」
「良いじゃん。この際、切り落としちゃえば」
「急に怖いこと言うじゃん……」
「冗談だよ! てことで今日はカメラマンね」
僕らの掛け合いが面白かったのか皆んな笑っていた。
それからは手渡されたスマホを片手にベンチに座って演奏を撮影した。
今、僕は世界で一番美しい風景を眺めている。
その風景は、太陽の角度と共に色を変えて気が付いたら茜色に染められていた。
彼女の演奏は観客に入れ替わりはあっても最後まで人で溢れていた。演奏を終えた彼女はギターをケースに仕舞って、そのまま満足そうな笑顔で僕の方に歩いてくる。
「どうだい? 今日の私は綺麗に映ってるかい?」
「そうだね、とても良い映像が撮れたよ」
「そりゃ、演者が良いからね」
便利な時代になった。彼女の表情も、声も、演奏も、全部データに残せるなんて。
どうせなら彼女の命もデータ化して保存できれば嬉しいんだけど、それは不可能らしい。
それからの入院生活は、リハビリと病室での演奏練習に屋上での読書が加わった。
それと、彼女が冬でもないのにニット帽を被り始めた。
心做しか彼女の肌が白く透明になった気がする。いつか完全に透明になって消えてしまうんじゃないか、そんな不安が僕の胸を掠めた。彼女の変化全てが砂時計の少しずつ落ちていく砂のようにタイムリミットを表している気がした。
僕はそれを眺める事しかできない。
医学の知識がない僕に出来ることは一秒でも長く彼女との想い出を作ること。
唯一の処方箋は後悔を減らすこと。それは僕も彼女も同じだ。彼女が笑顔で眠りにつけるように彼女の感情から『哀』も『怒』も僕が奪い去る。
そんなことを考えながら病室でピアノの練習をしていた。
すると、隣に座る彼女が徐に話し始める。
「いよいよ明日だね」
遂に明日、僕らは屋上でライブを決行する。この一ヶ月間、明日のために生きてきたと言っても過言じゃない。だから、彼女は決意に満ちた表情をしているのだ。
「そうだね、少しだけ緊張してきたよ」
僕は手の震えを抑えて、彼女の表情をこの目に焼き付ける。
「安心して、君のことは天才ピアニストだって病院中に広めてるから」
「あれ、雲行きが怪しくなってきた」
なんだかんだ彼女の勝手な行動に振り回されてばかりの人生だった。嬉しそうに語る彼女を見ていると心做しか緊張が和らいでいく。
「良いじゃん、初めてのコンクールで最優秀賞を受賞した天才は事実でしょ?」
「それなら、せめて天才だったピアニストって紹介してくれないと困るよ」
「隻脚の天才だったピアニストって響き主人公みたいじゃない?」
「残念ながら脚は二本生えてるんだ」
「細かいことは気にしないっ!」
「細かくないのよ、片脚って脚の総量の半分だからね」
彼女が腹を抱えて大笑いするから僕も釣られて笑った。楽しそうに笑う彼女はそれだけで息切れをしていた。笑いながらも少し皺の寄る眉は彼女の表情に申し訳なさを書き足した。その表情は迫り来る別れを理解しているようにも見えた。
じりじりと砂の落ちる時計を決してひっくり返すことが出来ないのだと。
無力な僕は彼女の手を握ることしかできなかった。
「……やっぱり、君は優しい人だね」
彼女からも優しい人のお墨付きを貰った。どうやら僕は優しい人間らしい。
少し前まですれ違う人の全てに苛立ちを覚えていた僕が優しい人だと言われるようになった。もしも、僕が変わったとすれば間違いなく彼女のせいだ。
彼女が優しさを押し売りしてくるから、僕は受け取りすぎた幸せを彼女に全て返し切れていない。だからもっと、もっと、恩返しをしなければいけない。
「君の優しさには敵わないよ」
「もちろん、私は世界一優しいからね!」
「……そうだね」
「いや、言い過ぎだ、って突っ込んでくれないと」
「嘘は良くないからね」
彼女は黙り込んだ。自分が世界で一番優しい人間だと自覚したのかも知れない。
もし仮に、この話題で議論するとすれば僕は全人類を論破できる自信がある。彼女よりも優しい人間がいるのだとすればの話だけど。
そんな人間はこの世に実在しない。
彼女は、話を逸らすように別の話題を振る。
「そういや、依頼してた曲の歌詞はどうなったの?」
話を振られるまで頭の中から消えていた。とある日の放課後、彼女から依頼を受けた作詞のこと。彼女はきっと分かっていた。
この曲が、最初で最後の作品になることを。
「殆ど、完成してるんだけど最後だけが……」
「いいじゃん、見せてよ!」
半ば強引に画面を覗き込む彼女の圧に負けて、制作途中の歌詞をみせることにした。
このまま寝かせていても、完成することはないだろうから。
僕の書いた歌詞を読んだ彼女は、鍵盤に手を置いて演奏を始める。
静かで落ち着いた伴奏の上に透き通った歌声を泳がせる。五線譜の上を優雅に泳ぐ歌声は心の中まで沁み込んできた。
唄う歌詞の全てが泡ぶくのように生まれては消えてを繰り返した。その歌声は海の中を泳ぐ魚みたいに尾鰭を揺らしながらゆっくりと終曲に向かっていく。
「うん、良い。とっても良い」
歌い終えた彼女は、開口一番にそう呟いた。
「君の全てを詰め込んだからね」
「なら、この曲を最後まで完成させないとね」
そう言うと彼女はパソコンに文字を打ち込み始めた。僕があれほど苦戦した歌詞をたった数秒で書き上げてしまった。
僕が画面と睨めっこしていた時間は彼女の数秒と同じらしい。
才能とは時に恐ろしいほど、人の努力を無碍にする。
寿命換算すれば彼女の一秒は僕の一秒の何十倍、何百倍もの価値がある。
その一秒に価値を詰め込む為に彼女だけ歌詞もメロディも天から降ってくるように設計されているのだろう。
「これはね、入院中ずっと考えてた歌詞なんだよね」
「今、思いつきで書いた訳じゃないの?」
「そんな酷い歌詞だった?」
「いや、違うよ。君の才能に嫉妬と絶望しかけてたから」
「ふふふ、良い歌詞でしょこれ」
「うん、凄く良い歌詞だよ……」
「入院が決まった頃からね、もしも明日を生きられたらって、ずっと考えてたんだ。きっと病院からは出られなくなっちゃうだろうなーとか、君と会える回数も減るんだろうなーとか、色々考えてたら思い浮かんだの。やっぱり私は、音楽が好きだから歌にしないとなって」
彼女が優しい表情で笑うから、僕はその言葉を素直に受け入れるしかなかった。
「……僕がこの歌を武器にして、君の分も生きていくよ」
「うん、約束だよ」
「約束だ」
僕達は約束を結んだ。
もう一度、解けないように硬く結んだ。