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第四章

「ほら早く、準備して、部室に行くよっ!」

 夢の中、彼女が僕の手を引っ張ってくる。そんな記憶で始まった。

 僕の記憶が正しければ、目を背けたい記憶が混じっている。

 高校に入学してから一ヶ月が経過した頃の記憶だった。入学式から忙しなく彼女が僕に付き纏うから学校生活に飽きることはなかった。結局、彼女の圧に押し負けて弦楽部に入部した僕は、言われるがまま仕方なく音楽室へ向かった。

 週一回の活動だと聞いていたのに気づいたら、ほぼ毎日、部室に連行されていた。

 毎日活動をする僕たちとは対照的に、週一回だけ顔を見せる田口先輩とも顔見知り程度の関係値は築いていた。

 部室も音楽室も綺麗に整頓されて、演奏がよく響く環境だった。

 でも、あの頃の僕は音楽をやる気力も度胸もなかったから部室のソファか音楽室の椅子で小説を読むことを日課にしていた。その近くで彼女が中々上達しないアコースティックギターを練習する。そんなルーティーンが僕の生活に馴染み始めていた。

「このままじゃ、私だけ弾けるようになっちゃうよー」

 彼女は、弦楽部として不真面目な僕に対して愚痴を溢す。

「僕、一応ピアノ弾けるからギターは遠慮しておくよ」

「ならピアノの練習しなさいっ」

「残念なことに、宗教上の理由で今日は弾けないんだ」

「そんな宗派は聞いたことない」

「まあ、そんな宗派はこの世に存在しないからね」

 宗教上の理由はないけれど一身上の都合でピアノは避けている。

 一つは、いつ訪れるか分からない動悸や眩暈を避ける為に。

 本来、音楽室にいることも良くはないのだろうけど。

 弦楽部の部員なら、弦楽器を練習するべきだとは理解している。ただ、高校生活は孤独に小説を読む算段だったから読みたい本で山積みだった。むしろ、弦楽部に入部する予定なんてなかった訳で、弦楽器の練習よりも読書の方が優先順位は上だった。

「なんで、そこまでピアノを避けているの?」

 彼女が真剣な表情で僕を見つめる。その真っ直ぐな瞳はここで嘘を付けば人として大切な何かを失うと諭す不思議な力があった。正直に、過去の経緯を全て語ろうかと思ったけれど事細かに説明すると長くなるから簡潔に纏める。

 嘘のない程度に本音を隠して。

「ピアノが原因で、目眩や動悸に襲われたことがあるから極力避けているんだ」

「もしかして私の演奏で倒れたことも関係ある?」

「関係がないと言ったら嘘になるけど、君が気を負うことはないよ」

 そうだ。彼女が気を負うことなんてない。人の演奏を邪魔する可能性から目を逸らして客席に座った僕の責任だ。だから、あの日の贖罪として彼女の要望に応えた。

 だからもう、ピアノなんて無自覚に誰かを傷つける道具に触れることはない。

「本当はピアノ弾きたいんでしょ?」

「君には関係ないよ……」

「あるよ」

「仮に関係があったところで、もうピアノを弾くつもりはないんだ」

「だめ、私がピアノを弾けるようにしてあげる」

 そう発言する彼女は真剣な表現をしていた。その穿つような真っ直ぐな瞳から僕は目を逸らした。ピアノを弾ける自信がなかったから。動悸や目眩が原因でピアノを避けているのは嘘じゃない。ただ、それだけが理由ならピアノに縋り付いて離さない。

 それほど迄にピアノが好きだったし楽しかった。

 コンサートホールで彼女の演奏を聴いたあの日、辞めたはずのピアノに一縷の望みを賭けていた。それでも辞める決断をした。

 僕が賞を受賞したせいで、涙を流したピアニストが沢山いたから。

 僕がピアノを始めたせいで、父親は唯一の趣味だったピアノを辞めたから。

 僕がピアノに触れたせいで、彼女は大切なコンクールの演奏を中断した。

 僕がピアノを弾くことで、誰かが不幸になる。

 そんな経験の積み重ねが僕とピアノをあっさりと引き剥がした。

 生憎、諦めることに関しては才能があったから、誰よりもお利口に現実を受け入れたし、この先も受け入れられる。別にピアノに縋り付かなくても、この世界は数え切れない程の娯楽で溢れている。現に、僕はピアノから小説に趣味を切り替えて過ごしている。中学時代に全力を注いだスポーツを辞めて別の部活動に勤しんでいる高校生だって沢山いる。ほら、こんなにもピアノを辞める口実が転がってる。 

 僕がピアノを続けていい理由なんて一つもない。

 僕は目を逸らしたまま、彼女の提案を真っ向から否定した。

「余計なお世話だよ……」

 目を逸らしたのは、彼女の瞳を見てしまったら目の前に垂らされた蜘蛛の糸に縋り付いてしまう気がしたから。ピアノを辞める決断をした癖に言い訳ばかり繰り返してピアノから離れられない自分を否定するために、彼女の提案を無碍にした。

 この発言が彼女を傷つけると分かっていたのに口から溢れ出した。

「それは本心?」

 彼女は変わらず真剣な表情で僕を見つめてくるから心が痛かった。

 僕は彼女から目を逸らしたまま、嘘か本心か分からない感情を口に出した。

「ああ、そうだよ」

「分かった」

 そう言い残した彼女は部室から出ていった。

 あの頃の僕に彼女を追う選択肢はなかった。また一つ大切なものを失っただけ。

 潔い、いや、未練のない、いや、薄情な僕は諦観した選択をする。

 これまでだって、切り捨ててきた。

 幼少期やりたかった野球やサッカーを諦めた。

 上手く馴染めず友達を作るのを諦めた。

 好きだったピアノを諦めた。

 今までと何も変わらない。

 彼女と出会う一ヶ月前の生活に戻るだけ。ただ、それだけ。

 その日の夜は上手く眠れなかった。翌日、睡眠不足だったから授業の内容が右から左に流れていった。いつもよりも静かで平穏な高校生活に眠気が強まったから、午後の授業は睡眠時間に使った。そのおかげで、放課後には眠気が飛んでいたけれど何の意味もない。

 そのまま帰宅するには有り余る体力だった。諦めの良い僕は誰よりも早く下駄箱に行き帰宅することを決めていた。下駄箱から取り出したローファーを乱暴な手付きで地面に放り出して、上履きからローファーに履き替える。

 数日もすればこの生活にも慣れるはずだから。

「久しぶりだな、もう帰るのか?」

 帰路に着こうとした僕に話しかけてくる声がした。振り返ると弦楽部の田口先輩が立っていた。先輩とは顔見知り程度の関係性だったから何となく気まずかった。

「帰ります」と僕はそれだけを伝えて帰路に着く。

「なんか用事でもあんの? 彼女さんは音楽室に向かってたぞ」

 先輩が会話を続けてくる。何から説明するべきか迷ったけど誤解を解くことを優先した。

「彼女じゃないですよ……」

「それは悪い。で、なんか用事あんの?」

「まあ……」

「よし、ちょっと付き合え」

 先輩は、なんの予定もないことを見透かして半ば強引に僕を連れ出した。

 少し歩いて着いたのは営業してるか怪しい古びた喫茶店だった。薄暗い灯りをお洒落と評価することもできるけれど、これじゃ新規の客を獲得するのは厳しい、そんな風貌の店だった。

 扉を開けると、長い髪の毛を束ねて眼鏡をかけた髭面の男性が「いらっしゃい」と一言。窓際の席に座ると、先輩が「珈琲でいい?」と聞いてくるから「はい」とだけ答えた。先輩は大きな声で「珈琲一つといつもの頂戴」と注文をする。

 注文を受けて、髭面の男性はゆっくりと気怠そうに動き始める。

「あー、そうだな、なんかあった?」

 鋭い人だと思った。たった数回しか会ったことがない相手の些細な変化に気が付くなんて。

「まあ……何もなかったといえば嘘になります」

 嘘をついても見抜かれる気がしたから、そう答えた。

「喧嘩したとか?」

 先輩の予想が的中したから僕は小さく頷く。

「理由まで聞かないけど、ちゃんと仲直りしろよ」

「きっと、それはできないです」

「諦めるのが早いな」

「得意なので」

「喧嘩ってのは、別に悪いことじゃない。あれだ、人間関係は靴紐みたいなもんだよ。歩いてたら自然と解けてしまうもので、解けたら結び直さないといけない。そうしないと、また直ぐに転んでしまう」

「それなら、僕は今まで靴紐を結び直したことがないです」

「なら今日、結び直せば良いだけさ」

 先輩の発言を頭では理解している。でも、靴紐は解けたままでも慎重に歩けば転けない。もっと言えば、転んだまま生きていく人生が、僕にはお似合いだ。

「僕は、転んだままの人生が性に合っています……」

「そうだな、お前はそれでいい。でもな喧嘩ってのはお前だけが転んでる訳じゃない」

 先輩の言葉は、痛いほどに心に突き刺さった。

 何か物事を諦めるのは簡単だけど、喧嘩には相手がいる。きっと彼女も僕と同じように転んでいる。僕は、そんな当たり前のことから、目を逸らして逃げていた。

 これまでの人生、他人と喧嘩なんてしたことがない。初めての経験でこれからどうすれば良いか分からない。何かを失う時、僕はそれを眺めているだけだっから。

「わかるよ、仲直りって難しいよな」

 先輩はメンタリストのように僕の心の中を見透かしてくる。

「喧嘩ってなんで起きるか分かるか?」

「意見の相違や価値観の違いですか?」

「間違いではないが、それじゃ満点じゃない」

「嫉妬や不満……とかですか?」

「喧嘩ってのはな、本音を隠して話し合うから生まれるんだ」

 先輩の考え方は僕たちの喧嘩においては百点満点の解答だった。身勝手な僕が本音を隠して分厚い壁を作って、彼女のことを突き放した。

 その結果、彼女のことを傷つけた。

「本音で語り合って、嫌いな奴とか、馬の合わない奴とかは切り捨てて良い。ただ、それを判別する為には本音で語り合う行為が必要なんだ」

「もしも本音で語り合って、相手を傷つけることになったらどうするんですか?」

「その傷が二人の関係に亀裂を入れて引き裂くならそれでいい」

「先輩は強い人ですね……」

「俺は、弱虫と意気地なしが嫌いだからな」

 それは今の僕に向けて言われているようで胸が痛かった。きっと先輩も敢えて突き刺すような強い言葉を使ったのだろう。弱虫なままのお前は嫌いだと伝えるために。

「僕は怖いんです、何かを失うのも傷つけるのも……」

「お前だけじゃない。全人類が同じだ。あの子も今、失う怖さに怯えてる。お前のせいでな」

「………………」

「俺だって可愛い後輩の片方を失う可能性に怯えている。だからこれだけ熱心に話してる。どうだ、本音で語るのも悪くないだろ?」

「……気分は悪くないです」

 人生をたった一年、長く生きているだけの上級生の意見に心を動かされていた。

 彼女に出会う前の僕だったら聞く耳も持たないような自己啓発の類いに救われた。

 科学的根拠も何もない先輩の持論が心に刺さったのは、心の何処かで彼女と仲直りをしたいと思っていたから。それを押し殺して明日を生きていこうとしていたから。

 止まない雨の中を生きていた僕は、晴れを望む事をせず、其の場凌ぎの傘に縋っていた。でも、僕は変わってしまったらしい。

 彼女と出会って、曇天の雲間から射す光の美しさを知ってしまったから。

「こんな、僕でも変われますか……」

「もう変わってるよ。孤独ってのは人と関わって形を変えるんだ。関わった奴が良い奴なら優しさに、悪い奴なら憎しみに。お前の中の孤独はとっくに形を決めてる」

「そうですね、憎しみは感じてないです」

「それで十分だ」

 会話がひと段落ついた頃、髭面の店員が珈琲と美味しそうなパフェを持って来た。

 どうやら気怠そうな接客態度とは裏腹に気が利くらしい。僕らの会話が終わるのをずっと待っていたのだから。店前の入りづらい雰囲気以外素晴らしい喫茶店だった。

 髭面の店員が「孤独に形なんてない、空っぽなんだ。だから中に入る物の形が浮き彫りになるだけ。比喩が変わっただけで言ってる事は同じだけどね……ひひ……」と不気味な笑みを溢す。先輩が「あの人、変わってるけど良い人だから」と擁護する。

「お二人とも、素敵な考え方だと思います」と僕は本音を口に出した。

「まあ、冷めないうちに飲んでくれよ……ひひ……」

 嬉しそうな表情で髭面の店員はカウンターの中に戻っていった。その野暮ったい身なりと不気味な笑い方さえ改善すれば、と思いながら珈琲を喫する。

「美味しい……」

「だろ。あの人、不気味だけど腕だけは確かなんだよね、不気味だけど」

「てか、先輩だけパフェずるいですよ」

 先輩が美味しそうにパフェを頬張るから、無駄に食欲が湧いてしまった。

「悪いね、これは裏メニューだから一般人は食べれないんだ」

 先輩は美味しそうにパフェを口に放り込む。その自慢げな顔は人を苛立たせる表情筋の使い方をしていた。さっきまで真面目な人生相談に乗っていたとは思えない。

「まあ、珈琲も凄く美味しいですけどね」

 別に珈琲が不味いなんて誰も言っていないのに、先輩の自慢げな表情に対抗した。

「悪かったよ、今度パフェもご馳走してあげるよ」

「え、いいんですか?」

「その代わり、その珈琲を飲み干したら、彼女さんと話し合いに行くんだ」

「彼女じゃないです。まあ、話し合いには行きますけど……」

「あー悪い悪い、他人の青春は静観する主義だから深く追求はしないよ」

 僕は珈琲を飲み干して、先輩にお礼の言葉を残して店を出た。本当は珈琲代も一緒に置いて行きたかったけど先輩が先に払ってしまったから財布の中に戻した。

 店を出る直前に、髭面の店員が「また、いつでも来いよ……ひひ……」と不気味な笑みと共に送り出してくれた。不思議な空間だったけれど居心地は良かった。

 僕は駆け足で上がる心拍数を無視して走り続けた。運が良いことに午後の授業での睡眠が今になって役に立った。僕は音楽室まで立ち止まることなく駆け抜けた。

 音楽室の前まで着いた頃、心拍数が上がりきって疲労が足を支配していた。

 彼女にあったら、まず、初めに謝罪をする。

 そう決意していたが、残念なことに音楽室は物音も一つもしなかった。

 一人が暇で早々に帰宅したのだろうと思いながら音楽室の扉に手を掛ける。彼女が帰ったなら施錠されているはずの鍵が空いてた。

 違和感に思考を巡らせるが、走ってきた所為で脳が働かない。

 ただ、その違和感は正しかった。 

 扉を開けると、グランドピアノのすぐ側で床に倒れ込む彼女が目に飛び込む。

 乱雑にばら撒かれた楽譜が、疲れて居眠りをしている可能性を否定する。

 沸き立つ不安が抑えられなかった。

 状況がうまく呑み込めない。救急車を呼ぶべきなのか、彼女に毛布を掛けてあげるべきなのか、それとも教員を呼ぶべきなのか、選択肢を前に頭が真っ白になった。

 気がついたら僕は救急車を呼んでいた。思考ではない。勝手に体が動いた。

 不安と運動のせいでコルチゾールの溢れかえった脳が、最悪の場合を想定して咄嗟の判断を下した。しばらくして救急隊員と保健室の先生が音楽室に流れ込んできた。

 担架に乗せられて運ばれていく彼女を立ち尽くして眺めることしかできなかった。

 人生で初めて救急車に乗った。

 正しく言えば、意識がある状態で乗ったのが初めてだった。救急車の車内には病室がコンパクトに詰め込まれていた。目を覚ますことのない彼女、仰々しくなり続ける警報音、その全てが最悪な事態の想像を掻き立ててくる。

 もしも、このまま彼女が目を覚まさなかったら。

 仮に、目を覚ましたとして後遺症が残ったとしたら。

 思いつく限りの想定は全て不芳ばかりで嫌になる。

 病院についた僕は、待合室のソファに座って時間が経つのをひたすら待った。

 秒針の進む速度がいつもより遅く感じた。結果を待つ時間は永遠とも言えるほどに長く感じる。ただ、無事だったという報告だけが聞ければそれでいいのに。

 早く結果をくれ。

 焦りに苛立ちながら結果を待つ僕に、医者ではない人物が話しかけてきた。

 それは彼女の母親だった。

「貴方が――――くん?」と彼女の母親に尋ねられた。僕は「はい……そうです」と答えて事の経緯を説明をした。喧嘩をしたこと、倒れている姿を発見したこと、その全てに謝ることしかできなかった。そんな僕に対して彼女の母親は「救急車を呼んでくれてありがとうね、美優がいつも貴方の話ばかりするから、どんな人か気になってたのよね……」と語った。

 心の中を罪悪感が埋め尽くした。

 自己嫌悪なんて言葉じゃ表せないほど自分に嫌気がさして仕方なかった。

 僕は「ごめんなさい……ごめんなさい……」と謝ることしか出来なかった。

 彼女の優しさを無碍にしたこと。

 その場で謝れなかったこと。

 真っ先に音楽室に行かなかったこと。

 ピアノから逃げ続けたこと。

 仲直りという選択肢から逃げようとしたこと。 

「もう謝らないで……貴方は何も悪くない。寧ろ素敵な人で安心したわ」と言われた。

 その台詞が罪悪感に染みて、消毒のような痛みが僕を包み込んだ。

 それから少しして、医者が結果を告げにきた。

「無事、意識を取り戻しました」

 安堵をした。張り詰めた緊張感が解けて無意識のうちに手の震えも治っていた。

 医者は依然として真剣な表情で彼女の母親を問診室へ案内した。

 大きく深呼吸をして息を整える。彼女と会ったらまず最初に謝る。そして田口先輩に言われた通り本音で会話をする。その結果、仲直り出来なくても仕方がない。

 受け入れるしかない。

 それが、今の僕ができる最善策だから。

 暫くして、彼女との面会が許された。

 ベットの上で横になる彼女は想像以上に元気だった。

「やあ、久しぶりだね。って昨日会ったばかりだけど!」

「体調は大丈夫?」

「ばっちりだよ、寝不足で倒れちゃっただけだから」

 彼女の浮かべる笑顔は、何となく引き攣っている気がした。その理由が何であれ、追求できるほど無神経ではない。だから僕は敢えて無難な会話を続ける。

「奇遇だね、僕も昨日は寝れなかったよ」

「もしかして、面白い小説でも読み始めちゃった?」

「残念ながら家では読むのを禁止してるんだ」

「変なこだわりだね……」

 会話が途切れて静かな病室に時計の針の音だけが響いた。正しく言えば僕が会話を途切らせた。人生で初めて試みる仲直りに向けて心の準備をする為に。

 大きく深呼吸をして本音を声に出す。

「「ごめん」」

 僕と彼女の声が重なった。偶然と呼ぶにはあまりにも美しすぎる光景だった。

「君が謝ってくれるとは、明日の槍が降るね」

「田口先輩にお叱りを受けてね……」

「君を変えてしまうなんて田口先輩はやり手だね」

 彼女の言う通り田口先輩はやり手だった。いち早く僕らの喧嘩に気が付いて、すぐに解決策を提示するなんて普通できない。悩み相談は、いつ如何なる時も愚痴の吐口としての役割を果たしているが、その先に解決策を見出せる確証はない。

 先輩との会話はきっかけに過ぎない。

 今思えば、彼女と初めて出会った日に、僕は変わってしまったのかもしれない。

「いいや、変えてくれたのは君だよ」

「やっぱり変だよ、頭でも打った?」 

「頭を打ったのは気を失った君の方だと思うけど……」

「理屈的なところは、変わってないのね」

 彼女はじっとりとした目つきで僕を見つめてくる。

「そう簡単に人は変わらないよ。ただね、先輩に仲直りの方法を教えて貰ったんだ」

「その方法って?」

「本音で話し合えって」

「……先輩は良いことを言うなぁ」

 彼女は先輩の言葉に感銘を受けていた。何か、思い当たる節でもあるのだろうか。

「だから、本当にごめん」

「別に怒ってないよ。寧ろ、私が強引だったな、と反省してます……ごめんなさい」

 僕らは仲直りをする為に、お互いのことを赤裸々に語った。

 僕がピアノを始めた経緯を。

 僕がピアノを辞めた理由を。

 僕がピアノを怖れている訳を。

 僕が今まで喧嘩をしたことがなかったことを。

 僕が今まで仲直りをしたことがなかったことを。

 僕は隠したくなる程に泥臭い言葉を本音と名付けて吐き出した。

「話してくれて、ありがとう」

 彼女は昨日と変わらない真剣な表情をしていた。彼女は大きく深呼吸をする。

 そして、何かを決意をした顔で語り始める。

「本音で語り合うって怖いね。前にも話したことあるけど、私がピアノを始めたのは君の演奏に出逢ったから。かっこよかったなぁ。君の演奏だけは、今でも鮮明に覚えてるよ。君は、自分の演奏で沢山の人を傷つけたと言うけれど君の演奏で救われた人も居るんだよ。例えば、私とかね」

 彼女の言葉は痒くて恥ずかしかったけれど自分では絶対に気づけないことだった。誰かを傷つけた事ばかり気にして、誰かを救うだなんて考えたこともなかった。

「僕の演奏が君を救った……」

「そうだよ。演奏ってのは奏者の想いが乗ると思ってるの。例えば、その人が楽しいと思って演奏をすれば音は跳ねて踊り始めるの。大袈裟かもしれないけれど、コンクールみたいな大舞台は奏者の人生が演奏に乗り移るの。劣等感も執念も全部が音に姿を変えるの。でも、君の演奏には“ピアノが好きだ”って感情だけが乗っていたの。あの演奏には、“私もこんな演奏がしたいっ”って思わせる不思議な力があったよ」

「大袈裟な評価だよ」

「いや正しい評価だよ、だって最優秀賞だもん」

 僕の演奏の評価は置いておいて、演奏にその人の感情が乗り移ると言う考えは共感できた。辞めたいと思いながらする演奏は終演を目指して行き急ぐし、勝ちたいと思いを込めた演奏は力強い演奏になる。作為的な記憶の抽出ではあるが、思い出す記憶の全て合致していた。

 思い返せば、彼女の演奏も“生きているんだ”と強く叫んでいた。

「本音で語り合うって凄く歯痒い気持ちになるね」

「いいや、私は清々しい気持ちになってるよ」

「つまり、僕だけが拷問を受けてるってことか」

「そんなことないよ。本当に話さなきゃ行けないのはここからだから。隠したい本音を語り合わないと、ずるだもんね……」

 彼女がそう発言してから数秒間の沈黙が病室に漂っていた。僕はその空間に耐えきれずに不要な助け舟を出してしまう。

「言いたくないことは無理に言わなくても良いんだよ」

「ずるいなぁ。自分は語っておいて選択の自由を与えるなんて。本当はね、死ぬまで隠し通すつもりだった秘密を教えるね」

「うん、君が語ると決めたことなら受け入れるよ」

 僕は心に決めていた。どんな言葉が吐かれようと受け入れると。その結果、僕らの関係が引き裂かれようとも受け入れるしかない。それが僕の選んだ道だから。

 それが、彼女にできる唯一の免罪符だから。

「私ね、あと一年で死ぬの……」

「えっ……」

 言葉を失った。いや、返す言葉など最初から持ち合わせていなかった。予測なんて出来るわけがない。明朗快活で、天真爛漫な、彼女が死ぬなんてあり得ない。

 感情がそう叫んでいた

 でも、これまでの文脈が、彼女の発言を現実だと裏付けてくる。救急搬送、病室、客観的事実が発言の信憑性をどれだけ高めても疑いたくなる。

 だから僕は、彼女の発言を信じない選択をした。

「あー騙されるとこだったよ、冗談が上手くなったね」

「嘘じゃないよ、本当の話だよ」

 彼女の手が震えていた。この発言にどれだけの勇気を振り絞ったのか、考えるだけで胸が苦しくなる。どれだけ疑っても僕の感情以外の全てが彼女の死を肯定する。

「……そっか」

「はいっ! 暗い顔しない!」

 彼女は大きく一回、手を叩いて会話の流れを断ち切った。明るい話題なんて思いつかないから僕は口を噤んだ。それから数秒間、病室に時計の針音だけが鳴り響いた。

 気遣いのできる彼女は無言の病室に斬り込みを入れる。

 陽気に自身の病状に語った。

 冗談を交えながら明るい表情で決して暗い雰囲気にならないように喋り続けた。

 幼少期から身体が弱かったこと。

 小学校の時、初めて肺がんだと言われたこと。

 早期発見が功を奏して治療に成功したこと。

 中学入学後、すぐに肺がんが再発したこと。

 頻繁に病院に足を運んで治療が良い方向に進んでいたこと。

 ある日、医者から悪性の腫瘍が心臓に転移していると告げられたこと。

 若年性の心臓内腫瘍の発症率の低さと、治療の難しさを知ったこと。

 尽くす治療の全てが芳しくない結果だったこと。

 高校入学直前に余命を告げられたこと。 

 身の上話を自虐気味に話す彼女は今にも枯れそうな笑顔をしていた。

「で、君には私の夢を叶える重要な使命があるってわけ」

「内容にもよるけど善処は尽くすよ」

「もう一度、ピアノの演奏を私に聴かせること、それと死ぬまで音楽を続けること」

「中々に重たい使命だね……」

 彼女からの要望は荷が重かったけれど、断る選択肢はなかった。

 ピアノから逃げ続けた自分を捨てる覚悟をしていたから。他人と関わることで大きく変わっていく自分にもどかしさを感じながらも変われるんだと知ったから。

「ねね、おすすめの小説を貸してよ、暫く入院生活で暇だと思うからさ」

「手持ちが一冊しかないから選択肢がないけど」

「それで良いよ」

 彼女に読みかけの小説を渡した。偶然にも手持ちの小説が余命を題材とした小説で彼女の境遇と似ていた。主人公が余命を告げられるシーンに、栞を差していたことを思い出す。

「その小説は君にあげるよ」

「やった! 太っ腹だねぇ〜」

 栞の先の物語は、僕が今から生きていく現実で味わうから彼女に小説を贈与することにした。この本が彼女の痛みを和らげてくれる。そんな願望を込めて手渡した。

 しばらくして、彼女の母親が妹を連れて戻ってきた。彼女の妹は母親の陰に隠れて僕のことを睨みつけてくる。その警戒心の強さが猫みたいだと思った。

 軽く挨拶をして、僕が退室すると壁一枚を隔てた病室からは家族団欒の声がした。

 余命という言葉のせいで彼女が映る風景描写の全てが儚くてどうしようもなかった。

 この頃からだった。

 何気ない日常を詩に書き溜めるようになったのは。

 数日後、彼女は退院した。僕がお見舞いに持っていったメロンが、どんな薬よりも治療に寄与したと彼女は言っていた。プラシーボ効果にも程があるけれど病状を悪化させていなければ、それで良かった。

 学校に登校した彼女は、メロンの効能か持病を感じさせない活力に溢れていた。

 放課後、僕らの部活動が再開した。彼女はアコースティックギターと、僕はパソコンと睨めっこをしていた。パソコン上で楽器の音を鳴らせるようにと。

「さっきから何してるの?」

 彼女がパソコンの画面を覗き込んでくる。画面には解読不能な音の波形や、音量のつまみが所狭しと詰め込まれている。素人が見れば脳が停止する程、膨大な情報で溢れていた。

「デスクトップミュージックってのに手を出してる」

「また、難しそうなものに手を出して」

「ギターのFコードよりは簡単だと思ってね」

「私は今、Fコードで挫折しそうだよ」

「なら君もこの解読不能の画面と睨めっこする?」

「遠慮しとくね」

 彼女はそう言い残すとアコースティックギターを握り直して練習を再開した。

 僕も画面と睨めっこ続ける。複雑な画面だっけれど一つずつ紐解いていけば使える気がした。何故DTMなんて難しいものに手を出したかは自分でも謎だった。

 音楽を続けるという彼女との約束を果たす為だけに奇を衒った選択をした。部室にアコースティックギターが一本しかなかったから。少し曲作りに興味があったから。

 相も変わらずピアノには臆病だったけれどパソコン上でピアノの音と間接的に触れていけば再開の一歩目としては十分だと思った。

 しばらく画面と睨めっこしていた。

 がらがらっ。勢いよく扉が開く音が集中力を途切らせた。

「おっ、仲直りしてるじゃん」と田口先輩が満足そうな顔で語りかけてくる。喫茶店で相談をした日以降、先輩に会うのは初めてだった。

 だから僕は「その節は助かりました」とお礼を言う。

 すると彼女が「彼の謝罪が聞けて先輩の株爆上がりですよ!」と付け加える。

 先輩が「ここ数日、誰も部室に居なかったから心配してたんだぞ」と言うから彼女が「すみません、私が体調を崩しちゃって……」と苦笑いする。僕は気になって「もしかして先輩、毎日部室に顔出してたんですか?」と疑問を投げかける。先輩は恥ずかしそうに「仲直りを促した身として、結果が気になってね」と答える。

 彼女が「先輩のこと女性関係にだらしないバンドマンだって思ってましたけど律儀な面もあるんですね!」と鋭い感想を突き刺した。

 僕も喫茶店で話をするまで彼女と同意見だった。出会い方が悪かったのか、普段の気怠る雰囲気が印象を左右したのか、分からないけど女性関係にだらしない人物だと思っていた。それは、先輩のスタイルの良さや整った顔に対する偏見だけれど。

「おいおい、酷い印象だな。全部間違ってるよ。俺は一途だし、バンドも組んでない」

 先輩は弁明をした。ただ、先輩の弁明が正しいとしたら先輩は完璧な人間になってしまう。賢くて、後輩思いで、顔もスタイルも良くて、音楽ができるのに一途なんて。

「ちょっと、信じ難いですね。一つくらいは欠落がないと不平等ですよ……」

「そうだ〜そうだ〜」と彼女が賛意を示す。

「おい、俺を何だと思ってるんだ。逆に欠落ばかりで困ってるくらいだよ」

「何が欠けてるって言うんですか?」

「そうだ〜そうだ〜」

「そうだな、例えば、優柔不断、運動音痴、思想が強い、他にも沢山あるよ」

 先輩は即答した。その速さは普段からしっかりと自分の欠点と向き合っていることを裏付けた。欠点との向き合い方まで完璧だなんて非の打ち所が見当たらない。

「じゃあ、逆に自分の欠点を訊かれたら何と答える?」と先輩が問い返してくる。

「Fコードが弾けないことです!」と彼女が真っ先に答える。

「それは、欠点じゃなくて課題だね」と先輩が指摘する。

「ぐぬぬ、欠点って難しい……」彼女は難解な問いに顔を顰めた。

 それもその筈だ。欠点なんて目を逸らして考えないように生きていくのが一般的で壁にぶつからなければ気が付くこともないのが欠点だ。例えば、人前で話すのが苦手だとか、プレゼンテーションが苦手なんてのは人前で話す経験がなければ、その事実に気づくことすらない。

「ちなみに、俺の思想の強さは多様性の世の中じゃ肩身が狭いね。俺は作品至上主義だから、理論だけこねくり回して指導者づらしてる奴を心底軽蔑している」 

「おぉ、思想の強さが滲み出てます……」

「そうだ〜そうだ〜」

「おっと失礼。普段は溢れ出ないように蛇口を閉めてるから許してくれ……」

 先輩の言い訳を耳で受け止めながら、僕は僕の欠点を探していた。些細なものを挙げれば無限に溢れ出るけれど、目を逸らしてはいけない僕の欠点を探し続けた。

「僕は、他人と接するのが苦手です……」

「それは、良い欠点だ。お前が人との関わりを求めた証拠だ。この世には人間という分類が同じなだけで分かり合えない奴で溢れかえっている。健康や慈悲の感情で自ら動物性のタンパク質を摂取しない縛りを課す人類がいるようにな。自己完結してればいいが、そんな思想を押し付けてくる奴がいる。だからこそコミュニケーションは経験がものを言う。分かり変えない奴を切り捨てて分かり合える奴と群れを成す。それが人類さ。お前は人と関わり始めたばかりの赤ん坊だ。手にする情報の全てに悩んで、間違えて大人になるんだ。それにお前は人よりも孤独を知っている。良いことだ」

「先輩、思想の蛇口が緩んでます……」と僕は突っ込む。

「そうだ〜そうだ〜」と彼女がお決まりの野次を入れる。

「あぁ悪い悪い、可愛い後輩の悩みだったから」

 先輩の思想は何となく理解できた。早熟な子供が同年代と馴染めずに、孤独になるのは人間として当然な所作なのかもしれない。病弱で登校日数も少なかった。

 全人類が生まれた時から、何か足りない欠陥品だ。その欠落を穴埋めするために僕ら助け合う。それはパズルのピースみたいに無数に存在する候補から綺麗に填る人間を見つけ出すのだ。そんな出会いを奇跡と呼ばずに何と呼ぶのだろうか。

 僕に足りないものを彼女が持っているように、僕が躓いた時に先輩が解決策を提示してくれたように、世界は意外と美しく綺麗に出来ているのかも知れない。

「ちょっと話し過ぎたね、予定があるからこの辺でお暇するよ」 

 先輩は時計を見ながら、そう呟いた。

「こちらこそ、足を止めて申し訳ないです」

「先輩、今度Fコードの乗り越え方教えてくださいっ!」と彼女が依頼をする。

「なら、このギターをお前に授けよう。俺がFコードを乗り越える為に買ったギターだ。最近、新しいギターを買ったから丁度良いタイミングだ。運がいいな」

 太っ腹な先輩は、ギグバックごと彼女に手渡した。

「ありがとうございます!」と感謝を伝える彼女の瞳は、カブトムシを見る少年のように輝いていた。そして先輩は「そいつと沢山の曲を歌ってやってくれ。あと返品は受け付けないから」と言い残して部室を後にした。

 彼女は先輩の貰い受けたギターを手に取る。綺麗に手入れされたギターは先輩からの愛情を受けているように感じた。有名なアーティスト御用達のブランドで、見た目から高級感が漂っていた。アコギの真ん中に空いた穴を覗き込めばそのギターの型番を確認できる。興味本位で型番を調べてみた。僕らは、その金額に腰を抜かした。

 少なくとも高校生が買えるような代物ではない。

 社会人が賞与を当てにしてプロのアーティストが生業として買うような値段だった。

「返品不可だって念押しされたから、快く受け取るしかないよね」

 彼女は自分に言い聞かせるように呟く。

「まあ、もし間違えてたら言いにくるだろうしね」

 僕も取引現場に立ち会った目撃者だから焦る彼女の味方をする。決心した彼女は譲り受けたギターを弾き始める。心做しか奏でる音色は透き通ってるような気がした。

「えっ、Fコード弾けちゃったんだけど」

「金の力ってやつだ……」

 この一ヶ月、彼女がどれだけ練習しても弾けなかったFコードが最も簡単に弾けるようになった。安価のギターは弦高が高くて弾きづらいなんて噂を耳にする。先輩はそれを知っていて弾きやすいギターを託したのだろう。値段が高すぎるけれど。

「やった、これでやっと弾き語りができる!」

「これで君は欠点のない完璧超人だね」

「そりゃあ、私にとっては短い寿命ですら長所だからね」

 短所は長所に言い換えれるとは言うが、余命すら長所と捉える底なしのポジティブは僕にはない思想だ。余命を長所にできるなら短所なんてないに決まってる。

「僕も君を見習わないとね……」

「そうだよ、私の生き様を目に焼き付けて貰わないと困るよ」

「頑張るよ、君が焼き尽くされる前にね」

 彼女は大声で笑った。会話の憂いを吹き飛ばすように楽しそうに腹を抱えて笑った。

「君は面白いことを言うね。ご褒美に一曲弾き語ってあげるよ」

「いつでも聴けるから、ご褒美としては相応し……」

「うるさい。私の歌声が聴きたくないと言うのかね?」

 彼女からの圧に負けて、僕は彼女の歌声を聴くことにした。選曲も彼女がしたから僕は耳を貸し出すだけだった。彼女が弾き始めたのは一昔前にドラマの主題歌として話題になったバラードだった。

 彼女の弾き語りは、コードの変わり目でもたつく初心者らしい演奏だった。

 ただ、歌声に関しては一級品だった。

 幼少期から弾き続けたピアノで培ったピッチのズレない正確な音感と、生まれ持った声質がボーカルとしての才能を開花させていた。

 僕は無意識に目を閉じて演奏を聴いていた。

「ど、どうだった……?」

 力強い歌声とは対照的に自信のない声がした。歌声と演奏を切り分けて評価するなら天と地の差が開く弾き語りだったけれど、総合的に評価するなら良い演奏だった。

「素晴らしかったよ。ギターの成長が楽しみだね」

「やっぱり、課題はギターよね。もっと良いギター買うしかない」

「いや、それ以上のギターは、君の財力じゃ買えないよ」

「ぐぬぬ、大人しく練習します」

 彼女の言い訳を先回りして潰した先輩の功績は大きい。

 だってFコードを乗り越えた彼女に欠点なんてないのだから。

 帰り道、僕らは好きな曲を語り合った。ベートーヴェンやバッハなんて堅苦しい名前を出さずに、ネット出身のアーティストや映画の主題歌を作るようなバンドまで幅広い音楽の話をした。普段は真逆な僕たちだけど音楽の趣味は似ていた。

 本人の素性を明かさない作品至上主義を徹底したアーティストを好んでいた。

 先輩も作品至上主義について語っていた。僕らは似たもの同士で、何かの力で引き寄せられたのだ。脳は単純で好きな音楽が似ているだけで分かり合えた気がした。

 きっと僕らは音楽に縋って生きていく人種だ。

 醜くも酷く嗄れた声で叫ぶ救難信号を音楽で代用してきた。

「この先何があっても、音楽を辞めちゃダメだよ」

 彼女は空を見上げて呟いた。忠告と呼ぶには小さい声で、独り言と呼ぶには伝えたい想いに溢れていた。彼女の発言にどれほどの意味が込められているかは、僕の稚拙な想像力では描ききれない。

 ただ、僕が音楽を辞めれば彼女のことをいつか忘れてしまう気がした。

 それを危惧しているのだとしたら僕はもう音楽を辞めない。

「そうだね、もう辞めれない気がするよ……」

 

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