第二章
僕と彼女の出会いは最悪だった。
出会いと呼ぶには歪だったけれど、僕の第一印象は最悪だったに違いない。あの頃の僕は今よりもやさぐれていたし、この世の全てが憎くて嫌いだった。
幼少期、親の教育でピアノを習っていた。本当は野球やサッカーみたいな一般的な男の子がやるスポーツをやりたかったけど、それは許されなかった。
今思えば、親の言い分は全て正しかったし僕を想ってのことだってよく分かる。
どうやら僕の身体は他の子に比べて脆かったらしい。少しの運動で立ち眩みや動悸に悩まされる日々を過ごした。酷い時は気を失うことだってあった。
医者が言うには規律性調節障害と呼ばれる病気で、自律神経がうまく働かないことが原因で頭痛や動悸、眩暈などに襲われる。自律神経は交感神経と副交感神経を調整する大切な役割を担っていると言うのに僕の自律神経はニートだった。朝起きても交感神経が働いてくれないから運動に体が適応しない。こんな身体で野球やサッカーをやった所でベンチを温めるだけ。それは僕も両親も分かっていだ。
だから僕はピアノを始めた。
元々、父親が趣味でピアノを弾いていたから興味があったし、休日にリビングから聞こえてくるピアノの音は好きだった。
だから両親にピアノを勧められた時、上手く断れなかった。
僕は周囲の子供と比べて早熟だったらしい。予習復習なんてしなくても学校の勉強は熟せたし成績も優秀だった。周りに比べて理解力があった。だから病気だと知った時も呆気なく呑み込んでしまった。同年代の子供が同じ境遇に置かれたらきっと駄々をこねるだろうし、現実から目を逸らすだろう。僕もそれが正しい反応だと思う。
当然、こんなませた子供に友達が出来るわけもなかった。
小学校を卒業するまでは、学校と病院とピアノ教室を梯子する毎日だった。
医者から過度な運動は避けるように言われていたから体育の授業は見学をすることが多かった。男子小学生が仲良くなる方法なんて運動以外に知らなかったから、授業でサッカーを楽しむ彼らとの間に大きな壁を感じた。別に凄惨ないじめに遭っていた訳じゃない。ただ輪の中に入れない感覚を今でも覚えている。
それに比べてピアノ教室は幾らかマシだった。同年代の生徒と顔を合わせる機会は少なかったけど先生は優しかったし、練習した分だけ上達していくのが実感できて楽しかった。気が付けばピアノの虜になっていた。授業中も勝手に手が動いた。頭の中に譜面が浮かぶから手元に鍵盤を想像する。そんな妄想に夢中になっていた。
単純なことだけど、退屈で孤独な学校生活から僕を引き剥がしてくれた。
いつからか、野球やサッカーよりもピアノをやってて良かった。そう思えるようになっていた。たまの休日には、父親とキャッチボールをしたり軽微な運動を取り入れて健康状態も少しずつ改善していた。
友達と呼べる人は居なかったけど、生活に色が溢れていた。病院に通う頻度も少なくなってピアノ教室と家と学校を行き来する日々、その全てでピアノのことを考えていた。先生に教えて貰って黙々と練習をする。授業中もピアノのことばかり考えた。
とにかくピアノを弾くことが楽しくて仕方がなかった。
ピアノを始めてから数年が経ったある日、ピアノ教室の先生がコンクール出場の話を持ってきた。この地区では有名なコンクールだった。同年代の腕自慢達が集まって競い合う大会で、全国への切符も掛かっているらしい。ピアノを習っていると言ってもコンクールに参加する機会なんて一度もなかった。成長速度が早いと褒められたことはあるけど誰かと比較したことはない。果たして自分が通用するのだろうか。
そんな漠然とした不安を抱えながらも、僕の感情は浮き足立っていた。先生に実力を認めてもらえたと思ったし、何よりも両親が喜んでくれたことが嬉しかった。
それからは狂ったように課題曲を弾き続けた。今まで自由に弾いていた抑揚も譜面通りに丁寧に、客観的に良い演奏を心掛けた。コンクールの評価基準は未知数だったけど、誰に聞かせても恥ずかしくない演奏ができるように努めた。
先生も両親も精一杯頑張ってる姿が見れたらそれで良いと言ってくれた。
そんな言葉が嬉しくてピアノを弾き続けた。
それは病的なほどに。
コンクール当日、昨夜降った雨を乾かしてしまうほど日差しが強かったのを覚えている。この日の為にと両親が買ってくれた子供用のタキシードは少しだけ今日の気温に適していなかった。それも室内に入ってしまえば気にならなかったけど。
お城みたいに大きなコンサートホールは童心を擽ぐる。周りを見渡せば似たような服装の子供が沢山いて、友達同士で楽しく話している姿が目に飛び込んできた。
それにすぐ気付いた両親は、視線を遮るように僕に話しかける。
その優しさが針のように刺さって痛かったのを覚えている。
受付を終えて両親とは別れて、舞台袖で演奏の順番を待っていた。気がついたら、さっきまで友達同士ではしゃいでいた子供達も話をせずに楽譜と向き合っていた。
その姿は等しく真剣だった。
演奏が終わる度に拍手の音が聞こえて、舞台袖に奏者が帰還する。笑顔の子もいれば、涙を流している子もいた。殆どの出場者がコンクールを何度も経験している。
結果を待たずに喜怒哀楽が漏れ出す、そんな残酷な世界が広がっていた。
僕は順番が来る前に心が折れてしまいそうだった。今思えば、ピアノに対して折れてしまうような硬い芯なんて持ち合わせていなかったけど。
順番が回ってきた。舞台袖から見えるグランドピアノは凛として咲く花みたいで、客席からの視線を独り占めしていた。
僕なんて、その花の蜜を吸いに行く蜜蜂に過ぎなかった。
右手と右足が同時に前に出るほど緊張していた。ぎこちない足取りでピアノまで歩いて客席を向いて一礼、小学生にしては丁寧で深い御辞儀だった。
顔を上げた時、目の前に広がる壮観な景色を今でも覚えている。扇状に広がる客席は、完成したパズルみたいに埋め尽くされて綺麗だった。僕は少し椅子を引き姿勢を正す。鍵盤に触れると暗闇の静寂にピアノの音だけが響き渡る。それからは無我夢中で弾き続けた。集中と緊張で演奏中のことはあまり記憶にないけど、夏の夜空に咲く花火の音よりも大きく鳴り続けた拍手を、僕は今も忘れられない。
演奏を終えて溢れ出してきた感情は安堵だった。
ミスタッチもなく譜面通り丁寧に弾けたと自負している。
何ならいつもより上手く弾けた気がした。
それが良くなかった。
唯でさえ早熟で理解が早かったのに、常人では考えられないぐらいピアノにのめり込んでいた。青春の全てを捧げたと言ったって過言じゃない。
その結果だ。
思い返せば別に変な話じゃない。
客観的に見れば寧ろ正当な評価で無慈悲な現実だった。
僕は初めてのコンクールで最優秀賞を受賞した。
受賞の話を聞いた時、喜びと驚きが混ざって上手く感情が表に出せなかった。先生も両親も喜んでくれたけど、何故か僕の心は濁っていた。
舞台袖で見た風景がフラッシュバックする。今年が最後の大会だと言っていた子が泣きながら舞台袖に戻る姿。全力を出し切って満面の笑みで帰還する子。
その全てを押し退けて僕は受賞した。
『才能がある人は良いよね……』
演奏を終えた直後に言われた台詞が頭の中を木霊する。この台詞は演奏の善し悪しを聴き分けれるまで真剣に音楽を続けてきた子の口からしか出てこない。
だから、そんな台詞を与太話だと聞き流すことができなかった。
演奏後の舞台袖では沢山の小言を言われたけど別に気にしなかった。
機械みたいな演奏だとか愛想がないだとか、そんな事はどうでも良い。
ただ才能とは何だろうか。
それだけが痞えて仕方なかった。
哀しい現実だが才能には差がある。
それは残酷にも遥か昔から変えられない事実だ。例えばバレーやバスケの様なスポーツは身長だけである程度の実力差は埋まってしまう。殆どの人があと数センチ身長があれば、と後悔をする。身長なんて神様からのギフトだ。もっと言えば、五体満足で生まれることは当たり前じゃない。僕だって野球やサッカーをやりたかった。
運動をする才能がないから諦めた。才能がないからスタート地点にも立てなかった。
これが齢数年ばかりの幼児が受け入れた現実だった。
別にスポーツに限った話だけじゃない。
コミュニケーションが苦手だとか、感情が上手く言葉にできないだとか、初対面で楽しそうに会話を広げられる人をどれだけ羨んだことか。
嫌なことを嫌と言えたらどれだけ生きやすかったのだろうか。
僕たちは多かれ少なかれ劣等感を持っている。敢えて言い換えるなら憧れや理想なんて言葉で表現される感情だ。それを埋めるために人は努力をする。意識的じゃなくても努力はその側面を必ず持つ。何かと比較して足りていないから努力をするのだ。
それは、年齢の違う大人相手への劣等感や憧れが理由でもいい。
もっと言えば、この世に存在しない理想像でもいいのだ。
ただ、そこで立ち止まれば憧れは憧れのまま。
劣等感は劣等感としてこの先も付き纏う。
そこから一歩、歩き出せたら憧れは目標に変わる。
劣等感はいずれ追い越すだけの感情になる。
この劣等感こそが才能がない僕たちに与えられたギフトだ。足りないと飢えた心が何かを欲するならそれが僕らの原動力だ。今ならそれが分かる。
ただ、それを舞台袖に居たあの子に伝える術などなかったけれど。
結局、幾ら綺麗事を並べたところで才能なんて都合のいい尺度に過ぎない。自分に足りない何かを他人が持っていれば才能と名付けて羨む。生まれ持った能力だろうと後天的な努力の結晶だろうとどっちでもいい。言い訳として成立すればいい。
努力するきっかけになればそれでいい。
ただ、一概に努力と呼んでもその方向を間違えたら何の意味もない。
サッカー選手が手でボールを扱うのが上手くなったって意味がない。当たり前な話だけど凄く重要なことでコンクールで評価されたいならコンクールで評価される演奏を理解しなければいけない。コンクールの採点基準に合わせて演奏方法を固めていく楽しさとは無縁の作業だ。正しい努力をするには正確な羅針盤が必要で、齢十数の子供がその羅針盤を持っているわけがない。だから先人の教えが必要だし習いに行く。
僕なんて偶然、努力の方向が噛み合っただけに過ぎない。
野球やサッカーを諦めた。
友達を作るのを諦めた。
やりたいことと才能が噛み合わなかった代わりに運が回ってきただけ。
別に不真面目にピアノと向き合ってた訳ではないけど、このコンクールに人生を賭けていた訳でもない。ただ、他の子たちが友達と遊んでる時間もピアノ弾き続けた。
偶々、譜面通り忠実な練習がコンクールの採点基準と合致しただけ。
それがあの子の妬んだ才能の正体で才能と呼ぶには歪な経験の結晶のだった。
その歪さは周りには見えない。だから受賞後の控え室は、妬み嫉みを纏った言葉で埋め尽くされた。それは簡単に人を殺せるナイフよりも鋭利な言葉で。
『あいつさえいなければ私が一番だったのに……』
『ぽっと出の奴が努力もしないで最優秀なんて許せない』
『もうピアノ辞めようかな……』
『初めてのコンクールで最優秀賞って一生懸命やるのが馬鹿みたい……』
僕の耳に飛び込んでくる言葉は耳を塞ぎたくなるものばかりだった。ただ、愚痴を溢す奴ら全員が悔しさに顔を歪めていた。それだけ本気だったのが伝わってきて振り上げた拳は行き場を失った。果たして、僕はどうすれば良かったんだろうか。
気が付けば、濁り続ける心は素の透明さを完全に失っていた。
僕は言い返さずに傷つく心を放置した。哀しみで溢れた心は悲鳴を上げていたはずなのに涙は一滴も流れなかった。今思えばそれが救難信号だったのかもしれない。
その夜はいつもよりも豪華な晩御飯をだった。両親は受賞した僕の写真を見て喜んでいた。僕はその横で、普段は見ないバラエティ番組を眺めていた。面白いはずなのに何故か笑えなかった。その夜は、どうにもピアノを弾く気になれなかった。
翌日、僕はいつも通りに過ごした。朝ごはんを食べて歯を磨いて寝癖を治す。制服に着替えてランドセルを背負い同じ通学路を通って学校まで行く。いつもと同じ席に着いて、いつもと同じように授業を受ける。休み時間、一部で噂話が耳に飛び込んできたけど、いつも通りの平凡な1日を送って朝と同じ通学路を歩いて家に帰る。
いつも通り、母親に「ただいま」と言って、手洗いうがいをして自室に飛び込んでベットの上でダラダラと過ごす。スマホを弄るのにも飽きた頃、いつものようにピアノの前に座った。そして、いつも通りピアノを弾こうとした、その時だった。
酷い動悸が襲い掛かる。
走馬灯のように昨日のことを思い出すと同時に視界が霞んでいく。
平衡感覚が掴めなくなって、そのまま鈍く大きな音を立てて床に倒れ込んだ。
目を開けると見覚えのない白い天井がそこにあった。
視界に入る白いカーテンと、スタンドに吊るされた点滴パックは、遠い昔の記憶を彷彿とさせる。
あぁそうか、僕は病院に運ばれたのか……
そう気づいた時には、何となく事の流れが頭の中で整理できていた。
医者からはピアノに触れるのを極力控えるように言われた。持病の規律性調節障害が派生した症状だという。自律神経がうまく機能していない状況で過度なストレスが加わると動悸や眩暈に襲われ酷ければ気を失う。この症状の前例が少なく、治療法が確立されてないらしい。元々、規律性調整障害の時に行っていた治療法と、引き金となったピアノを極力控える。それが現時点での最善策だと言われた。
その日から僕はピアノを弾くのを辞めた。それは、修行僧の食べる精進料理よりもあっさりとした決断だった。ピアノに対して未練がないわけじゃない。ただ、一縷の望みに賭けて抗うよりも現実を受け入れる方が性に合っている。ただ、それだけ。
感情よりも現実を優先した生き方が癖付いていた。
その方が楽だから。
そうすれば誰も傷つけないから。
結局、中学生になってからもピアノを弾くことはなかったし、相も変わらずに友達はいなかった。当然、死んだ目をした節目がちの少年と仲良くなりたい奴なんて居るはずがない。だから僕も友達を作ろうなんて考えはゴミ箱に捨てた。
授業と授業の間の休憩時間に寝たふりをするのも癪だったから小説を読み始めた。
そうすれば一人で過ごしていても不自然じゃない。これがピアノを辞めた僕の編み出した処世術。図書室で借りれば何冊でも読めてお金もかからない。財布にも優しく一冊で長い時間を潰せるから、独りぼっちの僕にぴったりの趣味だった。
それに意外と面白い。手のひらサイズの紙の束には広大な世界が詰まっていて紙を捲る動作には扉を開けるような高揚感があった。加えて捲る度に此処じゃない何処かを擬似体験できる。それは現実に存在する何気ない風景から、誰も見たことない魔法が使える世界まで。狭い教室なんかより、広い世界を提供してくれる。
当然、紆余曲折する物語は起承転結ごとに喜びと哀しみを織り交ぜて届けてくる。
想像だから別に何が起きてもいい。ヒロインが余命宣告されていようとも殺人から物語が始まろうとも創作物だと脳みそが割り切ってくれる。だから必要以上に精神を病まなくて済む。彼女との出会いも小説の中なら良かったのに。そうすれば、結末はハッピーエンドに決まっている。彼女ほど優しくて明るい少女が凄惨な結末を迎えるなんて読者が許さないはずだから。
僕は中学に上がって小説を趣味にする前に一つの決め事をした。
それは小説を生活の中心に置かないこと。
自分の性格を良く理解しているからこそ課した制約。この制約がないと小説の沼に嵌って抜け出せなくなるような、そんな気がした。考え過ぎかもしれないけどピアノを失った時の感覚が脳裏に張り付いて離れない。
あの日から、何かに縋ることに臆病になっていた。
制約の内容は至ってシンプルで家に帰ったら小説を読まない。ただそれだけ。
これを徹底すれば、小説に依存し過ぎることもない。と言うよりも、授業後の休憩時間の気まづさを埋めることが目的なら、学校以外で読む必要がない。
ただ、本を読みたくて放課後も学校にいることが増えたけど。
思いの外、小説に嵌っている自分がいた。自分の課した制約を上手く潜り抜けようと模索するぐらいには小説に夢中だった。別に、制約を破ったからと言って何かの罰則がある訳じゃない。でも、律儀に制約も守りながらその制約の穴を突く。
抜け穴を見つけると何となく弁が立つ気がして気分が良かった。
だから迷わず図書委員に立候補した。図書室は学校の中で違和感なく小説を読める場所で、そんな場所に半ば自由に出入りできる権利を手放すわけにはいかない。とは言っても僕が立候補しなければ余り物の押し付け合いが始まっていただろうけど。
それからは図書室に入り浸った。開演前のコンサートホールみたいに静かで落ち着いていて居心地が良い。図書委員会になって気づいたことは意外と本を読む人が多いと言うこと。しかも彼らは孤独を埋める為に本を読んでいるわけじゃない。友達同士でおすすめの本を紹介したりと読書をコミュニケーションツールとして使いこなしている。そんな姿を指を咥えて見ていた。声を掛ければきっと受け入れてくれるだろうけど、不純な動機で小説を読み始めた僕とは、根本がズレている気がした。
陽キャと呼ばれるような騒がしい人達が来て、先生に叱られながら摘み出される。
そんな光景を見飽きるほどには図書室での生活に慣れていた。
図書委員の仕事は至って単純。本の貸出や書架整理、本の場所の案内を日々熟すだけ。イベントや広報などの仕事は人気だったから僕には回ってこない。やりたいと手を挙げるつもりもないから別にいいけれど。
いつものように図書委員の仕事をしていると、ある生徒が声をかけてきた。
「この本ってどこにありますか?」
スマホの画面をこちらに向ける彼のしなやか手に目を奪われた。骨格のしっかりとした厚い手のひら、するりと伸びた指先はオクターブは軽く届きそうだった。一言で言うならピアニストの手だった。本来なら彼の整った容姿や百八十を超えているであろう身長に目が行くはずだけど何故か違った。
「あの、聞いてますか?」
彼に催促されるままに慌てて案内する。彼が探していた本はピアニストを題材とした小説だった。ピアノの小説を探すピアニストの手を持つ少年、点と点が繋がった。
彼がピアニストであることは、ほぼ確実だったけど僕は素知らぬ顔で対応する。
別に彼が何をしていようとピアノを辞めた僕には関係のないことで、彼も僕と仲良くしたいなんて思っていない。
僕は、淡々と業務を遂行して本棚から要望の書籍を探し出して彼に手渡した。満足そうな顔で言うお礼の言葉と同時に彼のポケットからピアノの演奏が鳴り響いた。
無音の図書室に響き渡る音色は、聞き覚えがあるなんて言葉じゃ表せないほど僕の記憶に染み付いていた。
「ピアノソナタ第八番「悲愴」第三章……」
僕は無意識のうちに呟いていた。
それは僕が最後に演奏したピアノ曲で今までで一番聴き込んで練習をした曲だった。
忘れたくても忘れられない。
「知ってるの?」
彼は慌てて、鳴り響くスマホの音を止めながら僕に問い掛ける。
「まあ……」
僕は返答を間違えてしまった。絶対に知らない程でやり過ごすべきだった。
「君もピアノを弾くんだね!!」
彼は目を輝かせて僕を見つめてくる。それは忠犬のような真っ直ぐな眼差しで。
「いや、弾いていたが正……」
「実はね!! 来週コンクールに出るんだ!!」
嵐のように吹き荒れる彼の存在感に圧倒された。もうピアノは弾いていないから彼の断定的な言動を否定するつもりだったけど、突風に掻き消されてしまった。
「そうなんだ……」
「そうだ、良かったら僕の演奏を見に来てよ! 僕の周りにピアノを知ってる友達が居なくてさ、君の感想が聞きたいんだ!」
会話の主導権は完全に彼に渡っていた。ここ数年、ピアノに触れないように過ごしてきたのに話が急展開して脳みそが処理しきれていない。
ただ、一つ仮説が立ってしまった。
彼のスマホから流れたピアノの演奏を聴いても頭痛も動悸も起きなかった。しかも僕が発病するきっかけになった曲を聴いても平気だった。つまりは、ピアノの演奏を聴いても問題ない可能性が出てきた。そんな仮説を加味しても、たった今、会ったばかりの学生の演奏を聴きにコンサートホールまで足を運ぶのは気が引ける。
「ちょうどその日は予……」
「来週、この本を返しにきた時に感想聞かせてね!!」
僕の返答よりも彼の突風の方が早かった。彼はそう言い残して姿を消した。
まさに嵐のような人物だった。僕の脳内を散らかすだけ散らかして姿を消したのだから。結局、名前も聞き逃したし、会場の場所も伝えられていない。
約束と呼ぶには一方的過ぎる要望に応える義理なんてない。約束は結ぶことが重要だけど契約そのものが成立しなければ何の効力も持たない。当然、双方の同意がなければ契約は成立しない。つまり、この契約の可否は僕に委ねられている。
ただ、彼はきっと悪い人じゃない。
ピアノをわかる人が周りに居ないのも事実だろうから良心が選択の邪魔をする。
会場の場所は聞いていないけど、この辺のコンサートホールなんて一つしかない。
演奏を聞いて感想を伝えるだけ。ただ、それだけ。
だから、彼との約束を果たすことに決めた。
基本的に世の中の全てが嫌いだし爽やかな好青年なんていけ好かない。けど微かに残る良心が判断を下した。その判断が良かったのか悪かったのかは今も分からない。
その夜、ピアノのコンクールを聴きに行くことを父親に相談した。ピアノの音を聞いても体調の変化が無かったことを説明して説得する。父は凄く驚いた顔をした後、何も聞かずに承諾してくれた。話を終えた父は、何処か嬉しそうだった。
僕がピアノを辞めた日から父もピアノを弾くのを辞めた。父の唯一の趣味だったピアノを僕の体調を気遣って辞めたのだ。僕は病弱な身体で友達もいない。客観的に見れば不幸な人生だろうけど両親に恵まれた。胸を張って、そう言える。
そしてコンクール当日、父の車に揺られて会場まで足を運んだ。
人生二度目のコンサートホールは懐かしさ感じさせる。この日の為に準備を重ねた学生たちの緊張感が会場全体を呑み込んでいた。前回とは違い客席へ足を運ばせる。
大ホールの扉を開けると、空気に埃が混じる懐かしい感覚がした。
客席から眺めるピアノは何となく遠く感じて切なかった。
僕はパズルのピースとして客席に座った。父は隣の席でプログラムと睨めっこをしながら開演を待っている。僕は父の持つプログラムを覗き込んで、彼の順番を探そうとしたけど、名前すら聞けなかったから見つけ出すことが出来なかった。
途中退席する予定はないから問題ないけれど心の準備ができなかった。
そうこうしていると早速、一人目の演奏が始まる。舞台袖から出てきたのは背丈の大きな好青年だったが彼ではなかった。礼の仕方から場慣れをしていた。
トップバッターの重圧も押し除けるほど存在感のある演奏をだった。彼はきっと何らかの賞を受賞するだろう。その思いも込めて拍手で送った。
ほどなくして、二人目の奏者が舞台袖からピアノへ向かって歩いてきた。
黒檀よりも黒い髪の毛は綺麗に編み込まれていて花束のようだった。それと、対を成す白い肌が綺麗で、クラスにいれば一目で恋に落ちるような、そんな可憐さを持ち合わせていた。ピアノの前で、彼女は客席を向いて深くて丁寧な御辞儀する。
その姿に、僕は目を奪われていた。
彼女は椅子に座り背骨に針金の通されたかのような綺麗な姿勢でピアノと向き合う。
そして、風景に成り下がったピアノに指先が触れる。譜面通り忠実で丁寧な演奏で始まった。それは、音源を流しているかと錯覚するほどに丁寧な演奏だった。
会場全体がその綺麗な演奏に聴き入っていた。目を閉じれば、海外の雄大な景色が浮かぶような優雅な演奏を、彼女は自分の意思でぶち壊した。
会場がざわつくのも束の間で、彼女から溢れだす感情がその場を支配した。
それから演奏は全くの別の曲に思えるほど豹変した。
眠たそうだった前の席のおじさんも、顔を上げて彼女を凝視せざるを得なかった。
譜面通り忠実な演奏から一転、抑揚もリズムも彼女が生み出したものに変わった。
同じ曲なのに全く違う雰囲気を纏っていた。その演奏からは強い意志を感じた。
私は生きているんだ。
ただその一心を強く主張しているように思えた。
演奏の途中、彼女と目が合った。
そんな気がした。
その瞬間、酷い動悸に襲われた。フラッシュバックする記憶はあの日と同だった。
僕がピアノを辞めた日のことを反芻しては徐々に視界が霞んでいく。
演奏を中断させるには十分すぎる物音を立てて僕は倒れ込んでしまった。
あの頃の僕は手元の進行表に書かれた【第二奏者/上田美優】の文字に特別な意味を見出していなかった。僕のせいで演奏を中断した可哀想な奏者、途中から評価度外視の演奏をしていた受賞とは無縁の奏者に過ぎなかった。
ただ、彼女の演奏は僕の心に突き刺さったまま消えなかった。
目を覚ますと見覚えのある天井が目に映り込んだ。白い天井と視界の隅のカーテンレールからは白い布がぶら下がっていた。
ここが病院であることはすぐに分かった。気怠さや頭痛への感情よりも先に、彼女の演奏を最後まで聴けなかった後悔が脳を埋め尽くしていた。まあ、こうなったら後の祭りだ。今からとやかく言ったところで結果は変わらない。
幸いにも諦めることは得意分野だったから、現実を素直に受け入れられる。
医者からは以前倒れた時と同じ説明を受けた。何かのストレスが原因で動悸や頭痛が引き起こる。ストレスの要因を避ける以外は有効な治療法はないと言われた。
それから半年間は、規律性調節障害の症状が悪化して、保健室への登校が増えた。
症状が酷い日は、平日を家で過ごすこともあったが大して苦ではなかった。
別に学校に行ったところで友達がいる訳でもない。それに授業を受けるよりも自分で勉強した方が効率がいい。問題があるとすれば小説を読める時間が減ったことくらいで、あと図書室で出会った彼に感想を伝えそびれたこと。
結局、会場まで足を運んだのに彼の演奏を聴くことはできなかった。
だから、会っても感想なんて言えやしないけど。
今思うと、この頃が人生で一番やさぐれていた。朝起きると気だるさと頭痛が襲い掛かる。朝日を浴びて爽快に目覚めるなんて夢のまた夢だった。世の中の理不尽さに嫌気がさしていたし、幸せそうに歩く学生の顔がひたすら憎かった。そいつらを見下す為に受験勉強をしていた。それと、この辺で一番賢い高校が家から近かったから。
偶に埃の被ったピアノに触れようと試みて断念する。ただ、ピアノの前で思い出す記憶は受賞時の誹謗中傷ではなく彼女の演奏に変わっていた。
そんな日々を繰り返して僕は受験を迎えた。
結局、何の危うさもなく第一志望の高校から合格通知が届いた。
その頃には、普通に登下校できるくらいに体調が回復していた。まだ、朝の気怠さは少し残るけれど、両親の不安を減らす為にも高校では一般的な高校生と同じように生活する。そう決めていた。
四月初め、桜が散る姿に人生を重ねてしまう程の人並みの感性はまだ持ち合わせていた。ただ、そんなものに心動かされて表情筋が緩むことはなかったけど。
新しい制服に袖を通して、新品のローファーを履いて桜並木を歩いた。
相も変わらずに気怠さを感じながら、期待を膨らませる同級生に苛立っていた。
高校生になったからと言って何か生活が急変する訳じゃない。教室の隅で小説を読んで日々を消化していく、そんな高校生活を予定していた。だから、友達を作る為に中身のない会話を広げようと努力するクラスメイトを適当に遇らう。
丁重にお断りを悪態で表明する。
それでいい。
校長の長い話に欠伸を溢す。文武両道だの青春がどうの当たり障りないことを長々と話し続ける体力には感心する。来賓紹介も祝電披露も右から左に聞き流した。
ホームルームで、担任が一発芸と共に自己紹介をしていたけれど、つまらなかったことだけ覚えている。これからの学校生活の流れについて説明を受けて昼前には下校の時間を迎えた。
クラスメイトは友達作りに勤しんでいたから中々帰る気配がしなかったけど、お構いなしに帰宅する。行き道と同じ桜並木眺めながら歩いていた。今朝の人通りの多さとは真逆で、散歩のお爺ちゃんが一人歩いているだけの閑散とした道だった。
その所為か、桜並木に気を取られて歩く速度がいつもより遅くなっていた。
「ちょっと待って」
後ろから大声が聞こえた。人通りの少なさが自分以外に声を掛けた可能性を否定する。だから僕は、仕方なく振り返る。
息を切らして、膝に手を置く女子高生がそこに立っていた。ピアノの黒鍵のように黒い髪を風が揺らす。その髪と対照的な白い肌と整った容姿には見覚えがあった。
「――――君だよね?」
何故か彼女は僕の名前を知っていた。
「そうですけど、何か用ですか?」
僕は他人行儀に返事をする。目の前に居るのが【第二奏者/上田美優】であることは分かっていたけど、この時は通りすがりの同級生Aでしかなかったから。
「えっ、冷たい……」
彼女は露骨に嫌な表情をして肩を落とす。今思えば、この素直さが僕の閉じた心をこじ開けたのかもしれない。
「私の演奏、覚えてないの?」
彼女は、何故か僕がその場にいた事を知っていた。
「急に倒れちゃうからびっくりしたんだからね」
彼女の発言に脳みそが混乱して、頭上に数匹のひよこが円を描いて踊っていた。
「ごめん、状況が整理できない。なんで僕のことを知っているの?」
僕は彼女に素朴な疑問を投げかけた。
「そっか、これは失敬っ。説明が難しいけど、君を見てピアノを始めたからかな?」
「うん、全然わからない」
それもそのはず「何で僕のことを知っているのか」という問いへの回答が全くない状態で理解できるはずがない。きっと、彼女の返答は経緯が抜けて飛躍している。
「私の記憶を見せてあげれたら早いんだけどね」
「発明できたらまた声をかけてよ」
僕はそう言い残してその場を去ろうと試みる。
「ちょっとまって、私の演奏を中断したツケを払って貰わないと!」
彼女は漫画の悪役みたいな表情で僕を見つめる。僕が彼女の演奏を中断したことを贖罪にするには罪が軽過ぎる。あれは故意の過失ではない。寧ろ彼女の演奏が、僕を気絶させたのだから罪に問われるのは彼女の方だと脳内で弁論の準備が整っていた。
でも不甲斐ない僕は、本音とは裏腹に角の立たない言い訳をする。
「もう時効だと思うけど」
「時効なんてない。とりあえず今からちょっと付き合って」
この手の強引な会話には経験がある。僕がどれだけ抗おうと相手が意志を曲げないことも、彼女の要望を断るには僕の良心を痛め付ける他ないことも知っている。
物分かりの良い僕は、諦めを含んだ大きな溜め息を吐いて彼女の要望を呑む。
「はあぁ、分かったよ」
「やった、なら早速行くよ!」
僕は彼女に手を引かれるまま帰り道から逸れて街へと繰り出した。
街とはいっても駅前の寂れたショッピングモールに連れて行かれただけで、普段は外に出ない僕でも何回も来たことのある場所だった。
平日のショッピングモールは休日とは違う表情をしていた。
少ない客足と、ガラ空きのイベントスペースに、惰性を感じて親近感が湧く。
「あれ? 身長同じくらいじゃない?」
彼女が登りエスカレーターの一段上を陣取って煽ってくる。
「いや、まだ少し僕の方が高い」
「いいや、私の方が高いね!」
僕の正論に対して、彼女はエスカレーターを更に一段だけ上に登って勝ち誇った顔をする。
「ずるにずるを重ねて勝って嬉しい?」
「すっごく嬉しいね!」
僕の嫌味に対して満面の笑みで返事をするから戸惑ってしまう。
「なら良かったよ」
「あっ、ほら着いたよ」
彼女の指の先には、ショッピングモールの中に併設された、小さな楽器屋があった。僕も両親と何度か来たことがあったから、妙に懐かしい気持ちになった。
「何か買うの?」
「ギターを買うの、アコースティックギターを」
「へぇ……」
自分で聞いておきながら、酷い返答した。言い訳をするなら、店内を流れるピアノの音に耳が反応して会話どころじゃなかった。あれだけ避けてきたピアノの音を聴いても異変はなく動悸も頭痛も起きない。寧ろ普段より体調が優れている気がした。
「なんか反応薄くない?」
彼女が不満そうな表情でこちらを見つめてくる。ピアノの音に気が散って反応が薄かったのは事実だが、今日初めて会ったばかりの相手が何を買うかなんて正直なところ興味が湧かない。
「あ、あと君のアコギも買うから」
「ちょっと待って、何で僕のアコギを買うんだよ」
急ハンドルで話の方向が変わるから思わず突っ込んでしまった。これまで碌に他人と会話をしてこなかった弊害か、こんな強引な会話にも正面から立ち向かっていた。
「君がピアノから逃げてるからギターで許してあげようと思って」
「何だよ僕がピアノから逃げてるって……」
「違うの?」
彼女の曇りのない目を見ていると嘘をつける気がしなくて、言い訳が喉に痞えた。
ここで何か言い返さないと、図星を突かれて、無口になった見たいじゃないか。
「まあ、別に弾きたくない時に弾く必要はないけどね」
口を噤む僕を見兼ねてか、彼女は自身の発言に補足をする。
「別に弾きたくないわけじゃ……」
「ねね、見てこのピック可愛い!」
僕の発言を遮るように彼女は話しかけてくる。彼女は黒猫が描かれたギターピックを嬉しそうに眺めていた。その姿は、青春を謳歌する女子高生そのものだった。
「あと、アコギは私も一緒に始めるから安心して」
彼女は思い出したように補足してくる。
「僕は始めないから安心して」
「またまた〜」
彼女は僕の発言を冗談だと受け流す。にやけたその表情から推測するに僕が本気で言っているのを理解した上で、敢えて冗談だと受け流している気がする。
「何でアコギなの?」
僕は単純な疑問を投げかける。
「うちの高校って音楽系の部活が弦楽部しかないから、ギターでも弾けるようになろうかなって」
「それで言うならヴァイオリンとかじゃないとグレーゾーンな気がするけど」
「別にいいの、今は部員一人だけしか居ないらしいから。それに、ギターで弾き語りできたらかっこいいでしょ!」
「かっこいいけど……」
彼女は手元に、空想のギターを想像して踊り始める。その姿を見るに、彼女がまだギターを弾いたことがないのは、十分に伝わってきた。
「てことで明日は部活の見学に行くから着いてきてね」
「え、僕は入らないよ?」
「見学だけだから良いでしょ?」
「良くない」
「一生のお願い!」
彼女は両手を合わせて全力で御辞儀をしてくる。ここまでされて断ると僕の良心が痛む。心の優しい僕は、仕返しに敢えて大きな溜め息と共に返事をする。
「はぁ……着いて行くだけだよ」
「よし決定!」
彼女は宝くじでも当たったかのように大袈裟に喜ぶから僕は反応に困る。今思えば彼女の大袈裟にもほどあがる感情表現は、僕の冷えきった感情を少しずつ温めてくれていたのかも知れない。
「なら、初心者は大人しく初心者セットから始めますか」
「ちょっと待って、もしかして二本も買うつもり!?」
「もちろん」
「僕は見学に行くだけで始めないよ?」
「大丈夫、君は始めてくれるから」
彼女は驚くほど自信満々に決めつけてくる。始める始めない以前にギター二本分の金額を彼女が支払うのが気が引けて、僕は変な交渉をしてしまう。
「二本買うくらいなら、君と僕とで一本のギターを共有するのはどう?」
彼女は目を丸くして驚いていた。自分でも初対面の女の子にこんな変な提案をするなんて思わなかった。我ながら気持ちの悪い提案で徐々に羞恥心が込み上げた。
「良い、凄く良い!」
予想外にも、彼女の感情は宝くじの連続当選を果たしていた。それ程まで喜ぶ理由が僕には分からなかったけど、とりあえず着地点が見つかって良かった。
彼女は小柄な背中に大きなアコースティックギターを背負って楽器店を後にした。
悪巧みをする彼女は、降りのエスカレーターの前で立ち止まって僕に順番を譲ってくる。僕は何も気にせずに、罠に誘い込まれる虫みたいに指示に従った。
「やっぱり私の方が高いね」
彼女は僕より一段高い位置を陣取り勝ち誇った表情で背伸びをする。
「良かったね……」
僕は呆れた表情で返事をする。今日あったばかりの相手の扱い方を覚えてきた自分に感心する。仮に彼女の方が身長が高かったとして何の意味があるのだろうか。
そんな疑問を口に出したところで彼女が解答を持ち合わせてるとは思えないけど。
「ねぇ、お腹空かない?」
彼女の唐突な問い掛けと同時に、僕のお腹が「ぐう」と鳴った。
「これが言葉は要らないって奴ね」
「まあ、空いてないと言えば嘘になるね」
自分でもなぜ、こんな回りくどい言い方をしたか分からなかったけど、彼女が嬉しそうな顔をするから何でも良い気がした。
「なら、お金も余ったし贅沢に行きますか」
「僕、そんなにお金ないけど……」
「私に任せなさいっ!」
彼女は自信満々な表情だった。二本買う予定だったギター代が半額で収まったから気前が良くなるのも分からなくもないが、初対面の相手に奢るなんて僕なら絶対にしない。
「無駄遣いは良くないよ」
「私の場合は使わないと無駄になるからね」
彼女は、少しだけ表情を曇らせた。普段の晴天みたいな表情との対比が、その顔に儚さと美しさを感じさせる。ただ、この台詞に深い意味があるとは思わなかった。
ショッピングモールを駄弁りながら歩いていると彼女が何かを見つけて指を刺す。
「じゃじゃーん、到着っ!」
彼女の指の先には、日本で一番有名なイタリア料理店があった。定期的にSNSで話題になっているチェーン店で、ペペロンチーノが三百円で食べられる学生に優しい店だ。贅沢すると息巻いた彼女の金銭感覚が、学生の域を越えてなくて良かった。
このくらいの値段設定なら自分の手持ちで支払える、なんて安堵しながら僕は店内に入った。
彼女は、今にもよだれを垂らしそうな顔でメニュー表に釘付けになっている。その所為か、いつもより料理の写真が美味しそうに見えた。
熟考の末、彼女は店員を呼んで注文をする。
「ミラノ風ドリアと、ほうれん草のソテーと、辛味チキンと、たっぷりコーンのピザと、カルボナーラと、ペペロンチーノください。あ、あとハンバーグステーキもお願いします」
彼女の口から家族連れでも完食できるか怪しい数の注文が聞こえできた。それは、小柄な彼女の胃袋が風船のように膨らんでも食べきれるとは思えない量だった。
予想外の展開に脳の処理が追いつかない。
店員が注文を復唱して「注文は以上で大丈夫ですか?」と確認する。すると彼女が「小エビのサラダもお願いします!!」と更に注文を追加する。
あまりの注文の多さに、食べ切れるかよりも机に並べきれるか心配になった。
「意外と大食いだね」
「違うよ、君も一緒に食べるんだよ?」
急に共犯者に仕立て上げられた。冤罪も良いところだけど注文をキャンセルするのも気が引ける。ただ、幸いなことに僕も、腹部が言うことを聞かずに鳴ってしまうくらいには空腹だったから、甘んじて彼女の提案を受け入れることにした。
「頑張るよ……」
「残しちゃダメだからね?」
「それ、僕の台詞だから」
彼女がニヤニヤしながら忠告してくるから、思わずツッコミを入れてしまった。
嬉しそうに笑う彼女には幸せを周囲に撒き散らす不思議な力があった。幸せなんて感情とは疎遠になっていたから上手く受け入れられない。
埃を払って手に取った幸せは、今にも壊れてしまいそうな脆さをしていた。
「お待たせしました」と聞こえて振り向くと、店員が両手一杯にお皿を持って立っていた。その姿に熟練の技が成すバランス力が垣間見えて芸術的だった。テーブルの上に運ばれる料理はどれも食欲を誘う良い匂いがした。隣の芝生は青く見えるとはこのことで自分の頼んだペペロンチーノよりも彼女の注文したミラノ風ドリアの方が美味しそうに見えた。
彼女はとろけそうな表情で、料理を眺めている。それは餌の前で「待て」と指示をされた犬のようだった。店員が全ての料理をテーブルに並べ終わって、注文の確認を終えたら直ぐに彼女は「いただきます」と手を合わせて料理を食べ始めた。
「んぅ〜美味しいっ!」
彼女の第一声は疑いの余地がないほどに真っ直ぐな感想だった。
グルメ番組の胡散臭い比喩表現より何百倍も、美味しそうな表情をしていた。僕も彼女に感化されたのか普段よりも美味しく感じた。自分で注文をしたペペロンチーノを食べ終わった時にテーブルの異変に気づく。
彼女が大量に頼んだはずの料理が殆ど食べ尽くされていた。残されていたのはピザ一切れと辛味チキン一ピースだけだった。残し方から僕のことを思って残してくれたのが感じ取れて、僕は彼女の胃袋と懐の広さに度肝を抜かれた。
「……残してくれてありがとう」
僕は敢えて懐の広さへの感謝を口にする。本当は小柄な彼女の何処に料理が吸い込まれたのか気になって仕方ないけれど、今日出会ったばかりの相手に気を使った。
彼女は気まずそうな顔で「美味しくて食べ過ぎちゃった」と苦笑いをする。別に彼女が頼んだ料理を彼女が食べただけで何も悪いことはしていない。寧ろ、膨大な量の料理を美味しそうに食べ切ったのだから褒められるべきだ。ただ、食べきれなかった時のために僕を共犯者に仕立て上げたのは褒められることじゃないけれど。
「確かに食べ過ぎだとは思うね」
僕がそう言うと彼女は嬉しさと恥ずかしさを混ぜ込んだ表情をして小さな顔を両手で覆い隠す。指の隙間から、大きな瞳がこちらをじっと見つめてくる。その瞳からは過食への弁護を求める強い意志を感じた。僕はそれを悟って「でも、残さず食べて偉いよ」と付け加える。空気を読むとは正にこのことだと思った。
「よろしい!」
彼女は良い画が撮れた映画監督みたいに頷く。きっと彼女の瞳のフィルムには想い描いたものが映ったのだろう。ただ演者が僕なのは役不足が拭えないけれど。
一方で、僕の瞳の中で【余命宣告を告げられた少女が冴えない少年と出会う物語】の序章が上映されている事を、この時の僕はまだ知らなかった。
帰り道、彼女から口酸っぱく注意喚起をされた。どうやら明日の放課後に弦楽部の部室を見に行くらしい。彼女が何回も「教室に迎えに行くから先に帰らないでね」と言うから、お笑い芸人の「押すなよ」と同じ意味を含んでいると勘繰ってしまう。
「分かったよ“絶対に”帰らないよ」
僕が「絶対に」を強調して言うと、彼女は鋭い目つきで「フリじゃないからね」と釘を刺してくる。彼女の真剣な表情が逆に面白くて僕は思わず笑ってしまった。
「笑い事じゃないから」
彼女の目が更に鋭くなる。別に明日の放課後に用事なんてない。だから彼女の要望に仕方なく「分かったよ」と返事をする。
「よし、約束だよっ!」
彼女は飛び跳ねて喜びを露にしたけれど、背負ったギターの重さが彼女の跳躍力を削いだ。飛び跳ねると表現するには「飛ぶ」の部分が極めて薄く「跳ねる」という表現を濃くすべき、そんな跳躍だった。
彼女の家を目的地に歩く道は、僕の目には新鮮だった。地図がないと此処が何処かも分からない。街路樹が綺麗に手入れされていり、ガレージ付きの家に止められている高級車がこの地区一帯の所得額を表していた。しばらく歩くと、庭のマリーゴールドが特徴的な綺麗な家から「お姉ちゃん〜!」と呼ぶ声が聞こえてきた。その声の先には彼女とよく似た顔の少女がいた。余りの酷似に彼女の幼少期を見たような、そんな錯覚をしていた。
その少女はこちらに駆け寄ってきて彼女に抱きつく。彼女が「ただいま」と言うから少女が「おかえり」と返す。抱き合う彼女の背中越しに少女が僕を見つめる。その表情は野犬のように僕を威嚇していた。彼女に向ける優しい表情と、僕に向ける鋭い表情には、もの凄い温度差があって、その寒暖差に風邪を引いてしまいそうだった。
少女は汚物を見るような目で「あの人だれ?」と僕を指刺す。
彼女は「知らない人だよ」とニヤニヤしながら言う。少女がそれを間に受けて僕を睨みつけるから、僕は「どうも、知らない人です」と自己紹介をする。こんな古典的なボケで彼女は大笑いする。それも、腹を抱えて悶絶するほどの大爆笑をする。
「も〜笑わせないでよ〜」
彼女は笑い泣きで溢した涙を拭いながら僕を叩く。彼女の笑いのツボが浅いことは何となく分かっていたけど想像を遥かに超える浅さだった。
一方で、僕への興味がなくなった少女が「お姉ちゃん今日もピアノ教えて〜」と彼女の手を玄関へ引っ張る。彼女は「麗奈は本当にピアノが大好きだね」と優しく微笑む。その姿は、妹に優しい理想のお姉ちゃんだった。
玄関へ引き摺られる彼女は、僕の方に振り向いて一言だけ言い残す。
「明日、絶対に先帰っちゃだめだからね!」
きっと彼女は本心から「絶対に」という言葉を使ったのだろうけど、フリにしか聞こえなかった。ただ、本当に帰るか否かの判断は明日の放課後の気分に任せることにした。
高校生活初日から忙しない一日だった。当初の予定から大きく路線変更をしていたけれど悪い気はしなかった。諦めることに慣れていたからなのか、彼女との会話が楽しかったのかは深く考えないことにした。
帰り道に歩きながら初心者向けのギター動画を視聴したのは、手持ち無沙汰だったから。それ以上の深い意味はない。
翌日、割り振られた座席も慣れないまま、当たり前のように授業が始まった。一限目から教科書の内容を、無機質な顔で平然と進める数学教師を見ていると、何となく未来の自分を見ているような気がした。僕は教師なんて報われない職業を選べるほど聖人の心は持ち合わせていないけれど。なんとなく、似ている気がした。
放課後、六限までみっちりと授業を受けた身体は家に帰りたいと叫んでいた。
彼女との約束が僕の足取りを重たくしてはいたけれど僕の足は着実に下駄箱を目指していた。階段をゆっくりと降りて下駄箱から黒いローファーを手に取った。
その瞬間、「何処に行くつもり?」とローファーを持つ手を掴まれた。振り返ると鬼の形相をした彼女が僕を睨んでいた。僕の手を掴む握力から沸々と煮えたぎる怒りを察して、訊かれてもないのに言い訳をしてしまう。
「いや、悩みはしたんだよ。ただ、この足が勝手に動くから……」
「まだ、何も訊いてないけど?」
僕は言い返す言葉が見つからずに謝罪を口にする。
「ごめんなさい……」
「勿論、弦楽部を見に行くよね?」
「…………」
「今は訊いてるんですけど?」
「行きます……」
彼女の握力が更に強くなったから折れてしまった。
彼女の質問を無視する勇気はあっても誘いを断る勇気はなかった。咄嗟に言い訳が思い浮かばなかったことだけが悔しいけれど「行きます」の一言で彼女の機嫌が良くなったから良しとすることにした。
彼女に手を引かれるがままに弦楽部の部室がある音楽室まで足を運んだ。放課後の賑わう教室棟を通り抜けて、人気のない別棟へと向かう。音楽室が別棟の最上階にしかないから、地獄のような階段を登らなければ行けない。彼女は軽い足取りで階段を登って「遅いぞっ!!」と急かしてくる。だから僕は、疲労で言うことを聞かない足に鞭を打つ。「なんで音楽室って最上階にあるんだよ」とやるせない愚痴をこぼすと彼女が「防音の関係で最上階の方が都合が良いらしいよ」と正論を突きつけてくる。
違う、違う、そうじゃない。と言いたくなる気持ちを押し殺して「そうなんだ〜」と乾いた返事をする。別に音楽室の成り立ちを聞きたかった訳じゃなかったけれど、持ち前の知識を披露できて満足そうな彼女を見ているとそれで良い気がした。
長い階段を登り切って廊下を少し歩いた先、音楽室のすぐ隣に、弦楽部と書かれた古びた看板があった。彼女は、心の準備をする間もなく弦楽部の扉をこじ開けた。
「きゃっー!!」
驚く女性の声が廊下中に響いた。乱雑に置かれた荷物と楽器の数々を見るに部室と呼ぶよりも、倉庫と呼ぶのが正しいと思った。敢えて、部室と呼べる要素を探すなら窓際に置かれたソファくらいだった。ただ、そのソファにはさっきまで上半身を脱いでいたであろう女性が制服のブラウスを羽織って肌を隠す姿と、制服のボタンが所々外れていていつ脱げてもおかしくない姿の男性があった。しかも、小柄な女性が男性の上に馬乗りになっているから気まずさが空気中を埋め尽くした。
「弦楽部ってここで合ってますか?」と彼女は状況を無視して質問をする。ソファに腰掛ける男性が「そうだけど……普通ノックくらいしない?」と言う。すると彼女はハッと気がついた顔で「確かに、ノックするの忘れてました!」と答える。
多分、膨らむべき会話はそこじゃない。そんなツッコミは心の中で留めておいた。
そうこうしていると、身嗜みを整えた上級生らしき女性が荷物持って部室から出て行った。男性側が「また連絡すから」と声を掛けると女性は頷いて姿を消した。
「悪い、自己紹介が遅れたね。二年の田口です」
そう言いながら立ち上がる先輩の姿は百八十を越えるほどの高身長で、美容に無頓着な自分でもイケメンだと思うほど整った容姿をしていた。
色々話を聞いていると、どうやら弦楽部の先輩らしい。その落ち着いた話し方には先輩としての風格と紳士的なかっこよさがあった。
「私達ふたり入部希望です!」
「いや、僕は見学に来ただけです」
「いや、二人とも入部希望です!」と彼女が強引に訂正をしてくる。何かを察した田口先輩は「君たち“二人”を歓迎するよ」と僕の発言を無視して話を進める。
話を聞くに部活動は校則として、最低一名の在籍と、週一回以上の活動実績が必要で条件を満たせなければ廃部となるらしい。だから、田口先輩は週一回だけ鍵の開け閉めをするために部室に訪れるらしい。僕らは運良く週一回の開錠日を引き当てた。
「まあ、俺はたまにしか来ないから好きに使ってくれ」
そう言い残して先輩は黒いキグバックを背負って部室から出ていった。
その姿は“部室を私的に悪用する不真面目でチャラついた人物”という最悪の第一印象に“ちゃんと弦楽器を演奏する人物”の称号を追加した。
「やった、好きに使って良いってよ!」
彼女は、部室を自由に使えることを喜んでいたけれど、僕は週一回の活動で許されるという朗報に惰性心をくすぐられてた。
こんな正反対の二人でも意見が合致することがある。それは余りにも汚すぎる部室を掃除したいという意見だった。僕らは腕捲りをしてマスクを付ける。
棚の上の埃を拭き取って綺麗にして、床に散らばった不用品を纏めていると、彼女が「懐かしい〜」と楽譜らしきものを手に取った。埃を被ったそれはベートーヴェンの三大ソナタ、悲愴、月光、熱情、が一冊にまとめられた楽譜だった。
ピアノ弾きなら誰でも知っている名曲で、彼女がコンクールで弾いた曲もこの一冊に入っていた。だから、懐かしむ彼女を見ても、至極当然な反応だと思っていた。
「君の悲愴をもう一度聴きたいな」と彼女が呟く。
「えっ……?」
彼女の要望が、うまく飲み込めなかった。入学式の日も、同じ話をされたけど追及せずに聞き流した。それは、彼女のことを通りすがりの同級生Aだと思ったから。
あの日とは状況が変わって、少なくとも通りすがりの同級生Aではなくなった彼女の台詞に意味を探してしまう。
「君の演奏は凄かったんだから、あの頃の私を救ったと言っても過言ではないね」
「流石に過言だと思うけど」
僕は彼女の過大評価に訂正を加えると、彼女は微笑んで言う。
「君もいつか出会えるよ。忘れられない演奏に」
彼女は譜面を眺めながら、その表情に、散りゆく花のような儚さを浮かべていた。
実は既に僕も忘れられない演奏に出会っている。それが【第二奏者/上田美優】の演奏であることは彼女に伝えない。深い理由はないけれど脳がそう決断した。
「そうだね。そんな演奏に出逢えたら、ぜひ最後まで聴きたいね……」
人生を変えてしまうような、そんな演奏をもう一度聴けたら――
「………………おきろっ!」
鼓膜が破れる程の大声が僕の部屋に響き渡る。
昨夜、寝れずに思い出に耽ていた筈が、いつの間にか夢の中だった。
それは長い夢だった。
ただ、夢と呼ぶには記憶を忠実になぞり過ぎていた。
そんな夜を泳いでいだ。