第一章
「魔法一つで生き返れるなら死ぬのか?」
たった今、目で追っていた筈の文字が耳元に流れ込んできて脳が混乱した。
放課後の音楽室、校庭が一望できる窓際で、部活動に励む学生の声も聞こえなくなるほど夢中で小説に齧りついていた。だからピアノを弾き終えた上田美優がこちらに近づいてくる足音に全く気付かなかった。
彼女は絹糸のような黒髪を垂らして、僕の読む小説を覗き込んで口を開く。
「で、君ならどうするの?」
「多分だけど死ねない気がする」
深く考えず、質問に答えた。
「なんで死ねないの?」
彼女は続けて質問をしてくるから、咄嗟に思いついた理屈で返事をする。
「魔法一つで生き返れるって言っても、僕が死んだ後に誰かが魔法を使ってくれないと生き返れないならリスクが大き過ぎる」
「だったら私が魔法を使うって約束するとしたら?」
少しづつ具体性を帯びてきた質問にちょっとだけ興味が湧く。
もし仮に、こんな好条件の臨死体験があれば僕は直ぐに飛びつく。走馬灯を見てみたいと思うし、死ぬ瞬間がこの世で一番の快楽だなんて話も聞く。それをノーリスクで経験できるなんて夢みたい話だ。
この条件なら喜んで死ぬ選択をするけれど、何となく反対意見を模索する。
「それでも少し怖いかな、生き返ったら記憶を失ってるかもしれないし」
彼女は少し考え込んで更に質問をしてくる。
「なら、死ぬことで一つ願いが叶うとしたら?」
「迷わずに死ぬよ」
彼女は少し驚いた顔をした。
無言の時間が妙に気まづくて、僕も彼女に対して聞き返す。
「で、君はどうするの?」
彼女は少し考え込んでから口をひらく。
「死ぬよ、死ぬってことは心臓が止まるってことでしょ? ならきっと私の心臓に棲みついてる悪者も一緒いなくなる気がするから」
「それが理由なら君は死ななくて良いよ」
彼女は驚いた顔をした後、何かに気がついて嬉しそうに笑みをこぼす。
僕が「迷わずに死ぬ」と即答した意図を理解したのだろう。
もしも、死ぬことで願いが叶うなら迷わずに彼女の心臓に棲みつく腫瘍を消す様に願う。いいや、僕はもっと強欲だ。君が僕より先に死なないように願うかも知れない。
そんなことを願ったところで、この世界は残酷だから彼女の余命が訪れる前に、僕の命を交通事故か何かでこの世から消し去る未来が描かれるだろうけど。
「そこまでして君が叶えたいことってなんなの?」
彼女は、にやにやと表情を緩ませながら意地悪な質問をしてくる。分かってる癖に僕の口から言わせたいのだろう。だから僕もいじわるな返答をする。
「君の心臓と僕の心臓を交換する」
「それはダメ、君が死んじゃうから」
彼女は困った顔をしながら僕を見つめる。反対するのも分かるけど、別に彼女の為じゃない。寧ろ、僕が背負うはずの痛みを彼女に押し付けている訳だから僕の為だ。
この先、彼女の居ない世界で自分一人だけ生きていくなんて、そんな痛みに耐えられる筈がない。
「そうだよ、だから僕も君に死んでほしくない」
彼女がさらに困った顔するから僕も少しいじわるし過ぎたと反省をする。本当なら僕がもっと面白い冗談を言えたら良いんだろうけど、その役目はいつもは彼女がしてくれるから、つい真面目に喋ってしまった。
「あっそうだ、この曲に歌詞を付けてよ!」
彼女は、さっきまでのシリアスな雰囲気をぶち壊すような明るい声で提案する。僕の返答を待たずにピアノの方へ向かい椅子に座った。
音楽室の景色に溶け込むグランドピアノは羽を広げた鴉みたいだった。
彼女は椅子を少しピアノに近づけて、坐骨から針金が通されているかのような綺麗な姿勢で鍵盤を見つめる。赤子を撫でるような手つきで鍵盤に触れた途端、鍵盤が呼吸を始めた。優しく響く低音が心音みたいでピアノに生命が宿ったように感じた。
ピアノを弾く彼女を見るのはこれで何度目だろうか。
あと何回、見られるのだろうか。
そんな事ばかりを考えてたら涙が込み上げてきた。聴き心地の良いメロディが更に追い討ちをかけてくる。僕は溢れ出す涙を堪えた。その方が良い気がしたから。
一方で、依頼のあった歌詞はなんとなく浮かんでいた。この曲は彼女のものだから歌詞も彼女のことを書くべきだ。だから、余命宣告をされていると言うのに未来への期待がだだ漏れな、変な例え話ばかりする彼女をこの曲に詰め込む。
「……どうだった?」
演奏を終えた彼女が不安そうに問いかけてくるから僕は正直な感想を伝える。
「良い、凄く良い。この曲に相応しい歌詞が僕に書けるか不安だけど」
すると彼女は物音一つで掻き消されてしまうほど小さな声で「大丈夫だよ」と呟く。
彼女はどこか満足げな表情をしていた。新曲の初披露が終わり肩の荷が降りたのか大きく背伸びをしながら本音を漏らして笑みを浮かべる。
「良かった〜誰にも聴かせたことなかったから不安だったんだよね」
「もっと早く言ってよ、酷評してあげたのに」
「まあ、この曲の評価が今ひとつでも、あとは任せた、ってするつもりだったけど」
「そんなことだとは思ってた」
僕は呆れた表情で笑った。本当に呆れたわけではないけど文脈を読んでこの表情が一番正しいと選択をした。彼女も楽しそうに笑っているから、この選択で間違ってなかったのだろう。
気がつくと、夕日も姿を消して夜と呼ぶに相応しい時間になっていた。
さっきまで読書の邪魔をしていた野球部の掛け声もいつの間にか消えていた。
「あっそうだ。明日空いてる?」
彼女は思い出したかのように聞いてくる。一概に明日と言っても、今日から数えた明日は土曜日なわけで週に二日しかない休日だ。予定でびっしり埋まっている。
昼過ぎまで寝て、そこから昼寝をする。そして、夜になって眠くなれば寝る予定だ。当然だけど、この内容に勝てるプランを持ってこないと僕は家から出ない。
「予定はあるけど」
僕はとりあえず質問に答える。
「どんな予定?」
「寝る」
「なら家に迎えに行くから」
「え、予定あるって言ったの聞こえてる?」
「私の人生は残り少ないのだけど?」
彼女にしかできない発言に言葉を失った。
「よし決定、昼前には行くから起きててね、まあ寝てても起こすから寝てて良いけど」
決定権のない僕の立場の弱さを誰に慰めてほしい。まあでも、寝てても良いなんて好条件を提示してくれたから彼女を目覚まし代わりに使うことにする。
帰り支度を終え、電気を消して音楽室の鍵を閉める。誰もいない廊下と非常口の灯りが怪談話の一つでもしたくなるような不気味さを醸し出している。
まあ、彼女がそんな話をし始めたら不謹慎極まりないけれど。
「ねえ、この学校の七不思議知ってる?」
彼女は深刻そうな顔で語り始めた。もう少しで彼女自身が幽霊になるかも知れないと言うのに。学校の怪談なんて在り来りな話題には微塵も興味が湧かないけど、彼女の喋りたそうな顔を見ていると付き合わざるを得なかった。
「一般的なやつなら知ってるよ。
①トイレの花子さん
②動く人体模型
③美術室の肖像画の目が動く
④廊下を追いかける上半身だけの妖怪
⑤13階段の噂
⑥誰もいない体育館で響くボールの音
⑦誰もいない音楽室から聞こえてくるピアノの音
まだ知ってるけど、これ以上挙げると七不思議じゃなくなるよね」
この中で関係するとしたら④か⑦だと思ったが、音楽室から校門を出るまでの間に大体の場所を通る気がしてどれを話すか気になってきた。ただ、⑦だけは彼女が犯人だってオチが予測できるから辞めてくれと、心の中で願いながら耳を傾ける。
「誰もいない音楽室から聞こえてくるピアノの音って本当に聴いたことある?」
話題は⑦だった。一気に興味が削がれてどうでも良くなった。
「聴いたことない」
「えぇ聴いててよ〜」
彼女の言う通り、ここで聴いてないと話は進まないから仕方なく助け舟を出す。
「僕は聞いたこたないけど、少し前にクラスで話題になってたよ」
確かに少し前、クラスの女子が騒ぎ立てていた。真夜中に忘れ物を取りに帰った子が誰もいない筈の音楽室の前を通った時に不気味なピアノの音を聞いたって噂だ。
一人の子が聴いただけなら作り話で終わる話だが、何人か同じ経験をしていたからクラスの中で話題になっていた。まあ、たいして興味はなかったけれど。
「実はね……あれ私なの」
彼女は何故か自慢げな顔で僕を見てくる。
当然、夜中の音楽室でピアノを弾く人なんて彼女くらいだ。話のオチは分かっていたけど、楽しそうに話す彼女の顔を見てもう少しだけ茶番に付き合うことにした。
「真夜中の音楽室で君がピアノを弾いてたってこと?」
「そう言うこと! 音楽室に忘れ物を取りに行った次手にピアノを弾いてたら、急に廊下から物凄い悲鳴と全速力で逃げる足音が聴こえてくるんだからびっくりだよ」
「君とは別に本物の幽霊が居たのかもね」
「え、ちょっとやめてよ」
彼女は怯えながら僕の袖を掴んできた。自分から怪談話を振ってきた癖に少し脅かしたらこれだ。ここまで怖がりなのに何故、真夜中の音楽室でピアノを弾けたのかが不思議で堪らないが、今にも泣き出しそうな彼女を見たら追及する気になれなかった。
なんだか面白くなってきて彼女をもう少しだけからかってみる。
「例えば今、後ろへ振り向いたら」
素直な彼女はゆっくり後ろに振り向く。本当は振り向いたタイミングで思いっきり脅かしてあげようと思ってたけど良心が働いた。
彼女の心拍数がこれ以上早くなったら命に関わるかも知れないから。
「何も居ないけど」
彼女は安心したような表情で呟く。
「僕は初めから幽霊なんて信じてないけどね」
「なんだ〜良かった〜」
彼女は胸を撫で下ろして大きく息を吸う。
「……でも君は幽霊になって僕に会いにきてね」
心の中で留めておくつもりだった言葉が、無意識に口から溢れだした。こんな返答に困る発言をするなんて配慮に欠けていた。予想通り、数秒の沈黙が襲った。
そして、彼女は口を開く。
「約束するね」
僕の袖を握る握力が少し強くなったのが分かる。
答えずらい質問に対して満点の回答を叩き出した彼女に僕は救われた。別に約束が守られなくたって良い。約束は結ぶことが重要でその先は大した意味を持たない。
意味を持たせたがるのは人の欲望であって、この約束に他人の欲望が介入できるような隙はない。だから僕が許したら終わり。それでいい。
校門を出たと言うのに彼女が僕の袖から手を離す気配がない。
ここからの帰路は別方向なのに困った。かと言って怪談話で怯えた彼女を一人で帰らせるのも気が引ける。
「家の前まで着いて行くよ」
僕がそういうと彼女は嬉しそうな表情する。彼女は僕と正反対で感情のすべでが表情に現れる。だから接しやすいのだけれど、たまに悪い人に騙されないか心配になる。
閑静な住宅街を十分ほど歩いた頃、彼女の家が見えてきた。二階建ての一軒家で綺麗に手入れされた庭が彼女の育ちの良さを裏付ける。
「明日、迎えに行くから忘れないでね」
彼女は僕のことをよく理解している。小一時間前に半ば強制的に結ばされた約束のことをすっかりと忘れていた。まあ、どうせ彼女のことだから忘れていても僕を連れ出すのだろうけど。
「寝てたら起こしてね」
「起きる気ないでしょ……」
彼女は鋭い思考と目つきで、僕の目論見を見事に言い当てる。
「起きれる自信がない……です」
彼女の蔑むような目付きに思わず敬語を使ってしまう。起きる気がないのも事実だが、起きれる自信がないと表した方が表現として正しいし角が立たない。
「仕方ないから起こしてあげる!」
僕の敬語が嬉しかったのか勝ち誇った顔でこちらを見てくる。別に起こしてくれなんて頼んでないし寧ろ、休日の睡眠の邪魔をされる訳で謝って欲しいくらいだ。とは言っても彼女と出かけることが嫌なわけでもない。出掛けてしまえば彼女は僕を楽しませてくれるし、僕みたいなつまらない男と一緒でも楽しんでくれる。
だから、その意味も込めて感謝の言葉を口にする。
「ありがとう……ございます」
僕は敢えて敬語を使った。こうすれば彼女が喜んでくれると分かっているから。
ご機嫌な様子で玄関に向かって行く彼女はもうすぐ死ぬようには見えなかった。
「また明日!」
玄関の前で、彼女が大きく手を振ってくるから僕も小さく手を振りかえす。
扉が完全に閉まり、彼女の姿が見えなくなってから僕も帰路につく。彼女と数分前に通った道は彼女との会話に夢中で気づかなかった景色で溢れていた。
等間隔に並ぶ街路樹が常夜灯に照らされて綺麗だとか、夜空にぽっかりと穴を空けたみたいな月が綺麗だとか。彼女を見送った分だけ、いつもよりも長い帰路だった。
多分、その所為だ。柄にもなく思い出に浸りながら歩いていた。
その夜、布団の中で目を瞑っても眠れなかった。
暗い部屋の天井を眺めながら君と出会う前の事を思い出していた。
僕がピアノを始める前のことを。