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オミナオクリ

作者: はらけつ

ヒューーーーーーーーーーーーー

ヒューンーーーーーーーーーーー

ビヨウーーーーーーーーーーーー

ビュゥーーーーーーーーーーーー


蒸し暑い暗闇の中、風が吹き抜けていた。

風は、吹きつけてもいた。

ところどころ、風は、強く舞ってもいた。

この時期はいつも、風が厳しく、暑さも厳しかった。

日本海に面した、古来からの寺社仏閣に恵まれた、尾島市。

昔から古都と呼ばれ、室町時代以降、著名な人物がこの地を治めて来た。

守護大名しかり、戦国大名しかり、譜代大名しかり。

統治者ではないが、多数の高名な人物も、この地の出身者として知られていた。


古都と呼ばれるだけあり、尾島市には、“小京都”とされるにふさわしい文化が残っていた。

だが、残念ながら、尾島市も、最近の地方都市の例外ではなかった。

ご多分に漏れず、一時期に比べて、町は、衰退の道をたどっていた。

が、食文化の伝統はその限りではなく、特に和菓子に関しては、全国的に絶賛されていた。

それもそのはず、尾島市は、人口比の和菓子屋店舗数では、全国一だった。

その為、和菓子屋同士の競争が激しく、切磋琢磨が尋常ではなかった。

市内の一角には、和菓子店が集中する区画があり、そこは市民から“和菓子銀座”と呼ばれていた。

今日も、天気に関係無く、甘い香りを漂わせ、和菓子職人は励んでいた。


宮輿堂でも、職人は励んでいた。

つぶ餡の練り羊羹を、作っている最中だった。

和三盆の袋や、粉寒天の袋が、作業台の上にセッティングされていた。

今は、つぶ餡を作る為、小豆をお湯に入れ、煮ているところだった。


ピシッ‥‥‥‥ピシッ‥‥‥‥

ガタガタ‥‥‥‥ガタガタ‥‥‥‥


作業場にも、風の強さを思わせる音が、響いて来た。

風は強くなりこそすれ、弱まることを知らないようだった。


‥‥ガラッ

「パパ~」


作業場と居間を繋ぐ引き戸が開けられ、小学校低学年くらいの男の子が、顔を覗かせる。


「なんや、どうした?

「ここには来たらあかん」って、言ってあるやろう」

「だって、風の音が怖くて、眠れへんよう」


男の子は、半べその顔をして、父の言葉に答える。


「しょうがないな~。

じゃあ、端っこで、邪魔にならへんよう、椅子に座ってるんやで」

「はーい!」


男の子は、父のお許しに速攻で答えると、居間から作業場に降りる。

男の子は、木のツッカケを履くと、カタカタいわせながら、作業台の下から、丸椅子を出す。

丸椅子を両手で抱えて、作業場の端っこに行くと、その場に丸椅子を置く。

そして、丸椅子の上に、ちんまり座る。

座面に座ると、男の子は前かがみになり、股の間に両手を置く。


前かがみになり、自分のしている作業をじっと見つめる息子の視線を、職人は感じる。

“和菓子作りに興味津々”の視線を感じ、父としては、誇らしく思う。

何代も続く和菓子店の現主人としては、跡継ぎの存在を頼もしく思う。


「パパ~」

「しっ!

ちょっと、静かにしといてくれ」


職人は、息子の呼び掛けを遮る。

羊羹の味を大きく左右する、繊細な段階に差し掛かっていた。

小豆を煮る手順で、一番神経を使う段階に差し掛かっていた。

宮輿堂の練り羊羹は、界隈では、その味及びその食感で有名だった。

県内では知れ渡っており、全国的にも知る人ぞ知る羊羹だった。


職人は、銅鍋の中の様子を見、音を聞く。

汗で潤う額と首を、タオルで拭き取り拭き取り、目と耳を澄ませる。

銅鍋の中から、立ち上る匂いを嗅ぎ、立ち上る湯気を舌で味わう。

厳しい顔つきをして、銅鍋を見つめる父を、その息子は、じっと見つめる。


いくらかの小豆が、はぜて来た。

職人は、火の強さを弱火にし、なだらかな水面に浸る小豆を見つめ続ける。


パキッ!


小豆が、はぜた。


パキッ!


小豆が、また、はぜた。


バキッバキッ!!


小豆が、またもや、はぜた。


『バキッバキッ!!‥‥?』


音に違和感を感じた職人は、音の出所らしい天井を見上げる。

上には、夜空が広がっていた。


ビヨウーーーーーーーーーーーーーー

ビユウーーーーーーーーーーーーーー


天井に空いた穴からは、風が強く吹き込んでいた。


ミシッ‥‥ミシミシ‥‥


屋根が音を発していた。

梁も、音を発していた。

職人は、煮ている小豆もそのままに、男の子の元へすっ飛んで行く。

男の子を両腕で抱きしめると、その足で、作業場から飛び出す。


二人が作業場から脱出すると同時に、大量の風が、一斉に、作業場に吹き込んだ。


ビヨウーーーーーーーーーーーーーー

ビユウーーーーーーーーーーーーーー


ガランガラン‥‥ゴロンゴロン‥‥

バシャバシャ‥‥シュウシュウ‥‥


作業場の中では、風に暴れまくられて、様々な音を発していた。


風は次第に、丸く空けられた天井に形を整えられ、つむじ風となった。


ヒュンヒュンヒュンヒュン‥‥‥‥

ヒュンヒュンヒュンヒュン‥‥‥‥


回っている独楽に、鞭をくれるように、つむじ風に、周りの風が叩きつけられた。

鞭をくらった独楽が勢いを増すように、つむじ風も勢いを増した。

勢いを増した、つむじ風は、竜巻と化した。

竜巻は、細く長く伸び上がった。

それを見ていた親子は、別々のことを連想する。

父は、日本昔話を。

息子は、神龍を。


竜巻は、様々なものを空高く、巻き上げる。

蒸し器、木型、羊羹舟、へら、三角棒、そぼろ通し‥‥‥‥。

その中で、ひときわ眩しく白く、長く尾を引くように、天空に伸びていったものがあった。

男の子は、そのあまりの美しさに、置かれている状況も忘れて、父に聞く。


「パパ、あれ何?」


父である職人も、その美しさに、我を忘れて見入っていたが、息子の声に、我を取り戻す。

冷静に改めて見ると、その白い流れは、淡く黄味がかっているようだった。

上品な甘い香りも、周辺に漂わせていた。

間違い無い。

父は息子に答える。


「和三盆やな」

「わさんぼん?」


父の答えが把握できず、息子は問いを重ねる。


「和菓子作りに使う砂糖や。

それにしても、綺麗なもんやなあ」


父と息子は、蒸し暑い外気の中、吹き付ける風に衣服をなびかせながら、涼しげな面持ちで、和三盆の竜巻に見とれていた。



ヒューーーーーーーーーーーーーーー

ヒューンーーーーーーーーーーーーー


風は、強さを増していく。

特に、ある一角に集中して、強さを増していった。


ビヨウーーーーーーーーーーーーーー

ビユウーーーーーーーーーーーーーー


ガタガタ‥‥ガタガタ‥‥

ギシギシ‥‥ギシギシ‥‥


その区画にある家屋は、音を立てる風に、音を立てて耐え忍んでいた。

そこらじゅうで渦を作っている風は、まるで回っている独楽のようだった。

その独楽に、鞭をくれるように、周りの風が叩きつけられる。

鞭をくらった独楽が勢いを増すように、渦を作っている風は、勢いを増す。

勢いを増した渦の風は、つむじ風と化した。

更に、つむじ風に、周りの風が叩きつけられる。

鞭をくらった独楽が勢いを増すように、つむじの風が勢いを増す。

勢いを増した、つむじ風は、竜巻と化した。

そうして、見る見るうちに、そこらじゅうで、複数の竜巻が発生した。


発生した竜巻たちは、容赦無く、家屋を蹂躙してゆく。

和菓子銀座に在する家屋は、次々と竜巻に飲まれていった。

家屋だけでなく、店舗も次々と竜巻に飲み込まれてゆく。

すると、そこらじゅうの竜巻の中心が、眩しく白く、天空に伸びた。

よく見ると、その白い竜巻は、淡く黄味がかっていた。

複数の竜巻が、黄味がかった白になるにつれ、辺りは甘い香りに包まれた。

くどさが無い、上品な甘い香りに、包まれた。


そこら中に発生した白い竜巻は、くねくねと身をのたうちまわらせ、天空に伸びる。

次第に、竜巻たちは、天空の一点を目指して、集まり始めた。

頂点をその一点で共有するかのように、集まり始めた。

二本の竜巻に一つの頭‥‥四本の竜巻に一つの頭‥‥

六本の竜巻に一つの頭‥‥八本の竜巻に一つの頭‥‥

それは、天空から一本の白い滝が落ち、複数の流れに枝別れして、地表に降り注いでいるかのようだった。


だが、その見目麗しい光景も、長くは続かなかった。

竜巻達の一つの頭は、ガクンと傾いた。

いきなり、誰かに頭を引っ張られて、首が曲がってしまったように、ガクンと傾いた。

ガクンと傾くと、頭だけが一筋の流れとなって、長く伸びて行った。

頭竜巻は、地面と平行に、水平に伸びてゆく。

白い天女の羽衣が、空中をたゆとうように、ふらふらと優雅に伸びてゆく。

が、頭竜巻は、ある地点に来ると、スコーンとシャープに落ち込んだ。

その軌跡は、全盛期の日本人メジャーリーガーのフォークボールを、彷彿とさせた。

急激に地表へ落ち込んだ頭竜巻は、白い軌跡を描いて、黒い縦穴の中へ吸い込まれた。


その縦穴は、境内にあった。

尾島神宮寺の境内に、あった。

仁王門をくぐって、真っ直ぐ進むと、本堂に突き当たる。

仁王門をくぐって、本堂に対面して、本堂の左横に、その縦穴はあった。

本堂から見ると右横の、無数の小石が広がる地面の中に、縦穴はあった。

縦穴の周囲のスペースは大きく取られており、本堂の周囲のスペースと大差が無かった。

よって、境内は、仁王門をくぐって入って来た参拝者には、左に大きくふくれた形になっていた。


縦穴には、注連縄が吊り下げられていた。

吊り下げられていたが、今は無い。

縦穴に吹き込む白い竜巻が、付いていた御幣もろとも注連縄を、穴の奥深くへ吹き落としていた。

真っ暗な穴の中、注連縄は、白い竜巻を清めるかのように、その周りをグルグル廻って落ちて行った。

黄味がかった白い頭竜巻‥‥和三盆竜巻は、続々と縦穴に吸い込まれて行く。


ヒューーーーーーーーーーーーーーー

ヒューンーーーーーーーーーーーーー

ビョゥーーーーーーーーーーーーーー

ビュゥーーーーーーーーーーーーーー


竜巻の音と比例して、辺りに甘い香りが漂う。

吸い込まれる竜巻が増えるほど、甘い香りは濃厚になった。


縦穴に和三盆竜巻が吸い込まれるにつれ、縦穴の中の色は変化した。


都会の闇から、田舎の闇へ。

田舎の闇から、絵の具の黒へ。

絵の具の黒から、珈琲の黒へ。


縦穴の中の黒色は、徐々に照りを増していった。

和三盆竜巻は、珈琲黒の縦穴へ、次々と飛び込んで行く。

スプーンでかき混ぜたブラック珈琲に、ミルクを注いだような絵を描いて。

ぐるぅーーーーーーーーーー、と白い軌跡の渦を描いて。


ヒューーーーーーーーーーーーーーー

ヒューンーーーーーーーーーーーーー

ビョゥーーーーーーーーーーーーーー

ビュッ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥


突然、シャッターが閉まったように、縦穴に吸い込まれていた和三盆竜巻は、瞬時に霧散消滅した。

それと同時に、あれだけ吹きすさんでいた風も、一気に消滅した。

縦穴の中の色は、もう暗くも無く、黒くも無く、灰色と化していた。

淡く黄味がかったグレー、と化していた。

縦穴がグレーと化したのに呼応するように、竜巻と風は、パッタリ止んだ。

風が止んだ途端、空から様々なものが、落ちて来た。

竜巻で巻き上げられていたものが、落ちて来たのだろう。

蒸し器、木型、羊羹舟、へら、三角棒、そぼろ通し‥‥などなど。

不思議なことに、白い粉状のものは、落ちて来なかった。

和三盆や白下糖といった砂糖のたぐいは、すべて縦穴に飲み込まれたらしい。



尾島神宮寺の了玄和尚は、家屋から恐る恐る顔を出す。

和尚が住む家屋は、本堂の左側(仁王門をくぐって右側)にあり、本堂とは木造りの渡り廊下で繋がっていた。

廊下は、細長い木造の床・柵・屋根が設置してあるだけで、“ほぼ外”だった。

風もビュービュー吹き抜けており、とてもじゃないが、暴風の中では、家屋から本堂へ渡れなかった。

この暴風で、本堂の様子が気に懸かっていた和尚は、家屋から恐る恐る廊下に踏み出す。

抜き足差し足調に進んでいた和尚は、風が全く止んでいることを確認すると、次第に大胆になった。

速足で、ダダダと音を立てて、廊下を突き進む。

早朝とはいえ、暑い最中なので、和尚の額には、すぐに汗が滲んで来る。


和尚は、本堂にたどり着くと、真っ先に堂内に飛び込む。

ガタガタと、蔀戸を引き開けるのももどかしく、体がやっと通れるくらいのスペースが開いた途端、堂内に飛び込む。

和尚は、まず、ご本尊を確認する。

続いて、脇仏も確認する。

真っ先に確認すべきものに、『何ら異常が無い』のが分かった和尚は、胸を撫で下ろす。

ホッと一息ついた和尚は、堂内をぐるぐる廻り始める。

仏具、堂内設備、位牌、お供え‥‥など、堂内を巡り巡り確認する。

すべてに『何ら異常が無い』のを確認した和尚は、大きく息をつく。

そして、やれやれとばかりに、右の拳で左肩をトントン、左の拳で右肩をトントンする。

落ち着きを取り戻した和尚は、ゆるやかにガタガタいわせて、すべての蔀戸を引き開ける。


‥‥ギョッ‥‥!

和尚は、目を見開く。

本堂の右側(仁王門からみると左側)の蔀戸を開けた時、和尚の目は見開く。


『‥‥白い‥‥』


正確に言うと、縦穴の中は‥‥オオクリアナは、淡い黄味がかったグレーになっていた。

和尚は、そのままの態勢で、数秒間、オオクリアナを見つめる。

次の瞬間、スイッチが入ったように、声を出さずに驚く。

《ムンクの叫び》のように、両手を頬に添えて、口を縦にして、驚く。


『ノーーーーーーーーーー!』


きびすを返した和尚は、本堂の外廊下を駆け出す。

ドドドと本堂を駆け抜けた和尚は、渡り廊下に降り立つ。

ダダダと、和尚は、渡り廊下を突き走る。


和尚が家屋に到着した時、和尚の奥さんが、廊下の突き当たりで待っていた。


「何ですか?

えらい騒々しい音立てて」


和尚は、奥さんの前で、キキッ!と急停止すると、左手を胸に当てて、息を整える。

そして、右腕を本堂の方(オオクリアナの方)に向けると、奥さんに叫ぶ。


「オオクリアナが、大変や!」


奥さんは、目を細めて、『はあ?』という顔をする。

が、和尚は、慌てながらも、真剣な顔つきを崩さない。

次第に、奥さんの『はあ?』顔は、『えっ!』顔に移り変わる。


「それって、大変ちゃいますの?」

「だから、大変やゆうとるんや!

来てみい!」


奥さんは、ダダダと渡り廊下を駆け出した和尚に、ついて行く。


「廊下を、そんなに走ったら、危ないし壊れますえ」

「そんなこと、言うとる場合や無い!」


二人は、渡り廊下を抜け、本堂の外廊下を抜け、グレーになったオオクリアナのほとりにたどり着く。

甘い香りを漂わせながら、すっかりグレーになったオオクリアナ。

親近感が増した分、荘厳さは、ほぼ失われた。

和尚は、穴の縁に手を掛け、中を覗き込む。


「そんなことしはったら、危ないんとちゃいますか?」


首を割烹着の袖口で拭き拭き、のんびりと心配する奥さんを尻目に、和尚は更に覗き込む。

オオクリアナの中は、淡い黄味がかった真っグレーになっていた。

どこにも、黒い部分は無く、また、白い部分も無かった。


「なんじゃこらーーーーー!」


和尚は、往年の名優のようなセリフを吐く。


「そんなことより、朝食がもうすぐ、できあがりますえ」


奥さんが、和尚の叫びを右から左へ受け流し、朝食の心配をする。


「のんびりと朝飯食っとる場合か!

ちょっと、荏原さんとこ行って来る!」


和尚は、奥さんに言い捨てると、仁王門に向かって駆け出す。

奥さんがキョトンとした目をしている間に、仁王門から外へ飛び出す。


「忙しい人やな~」


奥さんはこうつぶやくと、割烹着の腰紐を締め直す。

家屋の方に向きを変えると、そちらへ向かってスッスッと歩き出す。

もうそろそろ、ご飯が炊けている頃だろう。

奥さんは、ご飯の優しい湯気を思い浮かべて、ニッコリ笑う。



お寺から飛び出した和尚は、荏原家へ急ぐ。

荏原家は、尾島神宮寺の檀家である。

荏原家は代々、学究肌で、研究職に勤める者も少なくない。

その為、檀家の中でも、“知恵袋、ご意見番”のような立場にあった。

現当主の守弘は、まだ年若く未婚なので、両親と同居していた。

隠居した前当主の父親、そして母親と、一緒に暮らしている。

現当主の守弘は、大学院の博士課程を修了した後、近所の短大に勤めている。

短大の非常勤講師をしながら、論文作成に取り組んでいる。


「こんにちは‥‥えらいこっちゃ!」


和尚は、荏原家の玄関に飛び込んで来ると、挨拶もそこそこに、用件を切り出し始める。


「まあまあ和尚さん、そんなに急かはって」

「早急に、なんとかせなあかんことが起こってん!」


守弘の母親が、やんわりと挨拶する。

が、和尚の急いた声は、スピードを緩めない。


「なんや和尚、えらい急いでんな」


守弘の父親も、和尚の勢いに圧される様に、玄関まで顔を出す。


「おお!守弘君おるか?」


和尚は、前当主である守弘の父親に、『ええとこに来た!』というように問い掛ける。


「部屋におるけど」

「上がらせてもらうで!」


守弘の父親の返答を受けるやいなや、和尚は玄関を上がる。

そして、“勝手知ったる他人の家”とばかり、奥へズンズン進んで行く。


守弘は、自室で本を読んでいる。

Tシャツにハーフパンツ姿で、結跏趺坐に足を組んで、本を目線の高さに上げて、SFを読んでいる。

論文に関する資料を読むのに飽きたので、SFを読んでいる。

元々、読書好きというか軽い活字中毒の気があるので、それでも充分な気分転換になった。

今読んでいるSF【ガハハの鳥】は、佳境に入ろうとしていた。


[先祖代々のシャーマンの血は、もち ろん、私にも受け継がれている。

‥‥そして、実は、娘ではなく私こ そが、その能力、つまりシャーマン能力の 発現者なのだあーーーーー!!]


‥‥ガラッ!!


「えらいこっちゃ!」

「わっ!」


守弘は、驚く。

戸が開くと共に、尾島神宮寺の和尚が、叫びながら飛び込んで来たので、驚く。


「なんですか!和尚さん!

挨拶も無しで!」


守弘は、疾風の如く入って来た和尚に、鋭く指摘する。


「‥‥そやな、こんにちは、元気してるか‥‥えらいこっちゃ!」


和尚は、守弘の指摘を『もっとも』と思ったらしく、まず挨拶を行なう。

が、次の瞬間、飛び込んで来た勢いに戻る。


「えらいことなんや!」

「ちょっと落ち着いてください。

何が、“えらいこと!”なんです か?」


「えらいこと!」を連発するばかりで、一向に要領を得ない和尚を、守弘はなだめる。


1、2、3

スースーハー

1、2、3

スースーハー


和尚は、守弘のカウントに呼吸に合わせて、落ち着きを取り戻す。

落ち着いた和尚は、守弘の問いに答える。


「オオクリアナがな、えらいことやね ん」

「オオクリアナが、どう大変なんです か?」

「穴の中の色が‥‥穴の中の色が‥ ‥!」

和尚の返答を聞いて、守弘は固まる。

体は固まったが、頭は回り始める。

思考は、ものすごい勢いで、巡り始める。



荏原家は言わば、檀家の代表、檀家のヘッドであった。

よって、和尚と並んで、オオクリアナについても、詳細を把握していた。

そもそも、“オミナオクリ”とは、近畿地方中央部にある小胡市の年中行事“オミナトリ”と、対を為す年中行事である。

いにしえの昔、小胡市域は、毎年地域柄、水不足に悩んでいた。

そこで、小胡市域では毎年、雨乞いの行事を執り行うようになった。

行事は、当時から交流のあった、水源の豊富な尾島市域から、水を送ってもらうという体裁をとった。

もちろん、尾島~小胡間には、物理的な道や管は無かった。

よって、双方の寺院にある縦穴を、“送る穴”と“届く穴”に見立てて、行事は執り行われた。

“送る穴に水を注ぎ、届く穴から水を出す”という一連の所作が、毎年行なわれた。

そして、小胡市域の地域住民は、届く穴から出た水を飲み、息災を願う。

尾島市域側では、その送る穴を“オオクリアナ”と呼び、行事を“オミナオクリ”と称した。

小胡市域側では、その届く穴を“オトリアナ”と呼び、行事を“オミナトリ”と称した。

行事は毎年、滞りなく行なわれていった。


新世紀まで、あと数年に迫った、ある年のある日。

小胡市は、突発的に水不足に陥った。

それは、市域全体が一斉に水不足に陥り、到底、市域だけで対処できる規模ではなかった。

が、その日の内になんとかしなければ、小胡市は、回復に数年はかかるようなダメージを受けるはずだった。

が、周辺自治体も、その日じゅうには、小胡市を救えるだけの水を用意できそうもなかった。


大人たちが、ほとほと困っていた時に光を与えたのは、子ども達だった。

オオクリアナのある尾島神宮寺と、オトリアナのある経台寺の、檀家の子ども達だった。

その子ども達、尾島神宮寺の檀家の息子である荏原守弘君と、経台寺の檀家の息子である桧口優人君は、パソコン通信をしていた。

常日頃より、パソコン通信で、コミュニケーションを取っていた。


その日、守弘君と優人君は、おかしな現象について、やりとりしていた。


守弘君:なんか、オオクリアナが、

    いつもより、

    変な風に黒いねん。

優人君:こっちの穴は、

    いつもより、

    変な風に白いで。

守弘君:へー。

    それで、こっちの穴は、

    なんか、葉っぱとか虫が、

    吸い込まれてる感じやねん。

優人君:へー。

    こっちは、葉っぱとか虫が、

    吐き出されてる感じやで。

守弘君:もしかして、こっちの穴、

    ブラックホールに

    なったんちゃうか。

優人君:ほんで、こっちの穴は、

    ホワイトホールに

    なってたりして。

守弘君:ほんで、

    こっちの穴と

    繋がってたりして。

優人君:で、

    そっちのもんが

    こっちに来てたりして。

守弘君:‥‥まさかなー‥‥。

優人君:‥‥まさかなー‥‥。


守弘君と優人君は、親の携帯片手に、各自の穴へ様子を見に行く。

相変わらず、オオクリアナは、変な風に黒かった。

いわば、少し照りのある、珈琲黒。

オトリアナも、相変わらず、変な風に白かった。

いわば、少し照りのある乳白色。


二人は、半信半疑ながらも、両方のアナが繋がっているかどうか、確かめることにした。

まず、守弘君が、シャーペンを、オオクリアナへ、ポコッと入れてみる。

“荏原守弘”と、持ち主の名前が書かれたシャーペンは、オトリアナからポコッと出て来た。

次に、守弘君は、ノートを、オオクリアナへ、ポコッと入れてみる。

“荏原守弘”と、持ち主の名前が書かれたノーが、オトリアナからポコッと出て来た。

最後に、守弘君は、左手の甲に貼っていた絆創膏を剥がし、絆創膏のガーゼ側をしげしげと見て、オオクリアナへ、ポコッと入れてみる。

絆創膏は、オトリアナからポコッと出て来た。


〈ヒロ君、何これ?〉

〈それでええねん。

ガーゼに付いてる血が、どんな形してるか、言ってみて〉


オトリアナから出て来た絆創膏に付いていた血の形は、オオクリアナから送った絆創膏に付いていた血の形と、寸分違わず同じだった。

同じものに、間違いがなかった。

ことここに至って、二人は、それぞれの穴があるお寺に、知らせに行く。

守弘君は、オオクリアナのある、尾島神宮寺の了玄和尚の元へ。

優人君は、オトリアナのある、経台寺の趙元住職の元へ。


「ほんまか~」

「ほんまかいな~」


和尚も住職も、まるで信用しなかった。

無理も無い。

が、少年は二人とも、各寺院の檀家連の中では、有力者の家の跡取り息子であった。

その為、門前払いや、木で鼻をくくったような対応をするわけにもいかず、和尚と住職は、それぞれの穴を確かめに行く。


和尚と住職は、半信半疑、いや、2%信98%疑で、各々の穴に向かう。

確かに、オオクリアナは珈琲黒に、オトリアナは乳白色に、たたずんでいた。

そして数十分後、和尚と住職は、守弘君と優人君の言葉を、信じざるを得なくなる。

和尚と住職は、何度か、穴から穴へと、物を流してみた。

次から次へと、物を流して、確かめてみた。

トドメは、半紙だった。

了玄和尚が、墨で句を書いた半紙を、オオクリアナへ入れる。

趙元住職が、オトリアナから出て来た、墨で句を書いた半紙を、受け取る。

二人は、電話を介して、句の文言、文字の跳ね具合、墨の濃淡などを確認する。

二人の受け答えは、ピッタリ一致した。

間違いなかった。

オオクリアナへ入れた半紙と、オトリアナから出て来た半紙は、全く同じ物と考えざるを得なかった。


了玄和尚が詠んだ句は、以下のものだった。


我と君

みなもにうつる

支え合い


オトリアナから出て来た半紙を見て、半紙に書かれた句を詠んで、趙元住職はハタッと思い付く。

住職は、市役所に勤める友人から、市の苦境について、既に聞き知っていた。

住職は、市役所の友人にすぐ電話し、“穴から穴へ”の現状について、説明する。


「ほんまかいな~」


一時間後、市役所職員は、連れて来た部下数人と共に、住職の言葉を、信じざるを得なくなる。

そして、二時間後、尾島市より小胡市に、“オオクリアナからオトリアナへ”経由で、水が送られ始めた。

ドンドコドコドコ送られて、ドンドコドコドコ届いた。

ザバザバザーザー送られて、ザバザバザーザー届いた。


尾島市から、大量の水を補給してもらったおかげで、小胡市の水不足は、当座の危機を脱した。

数日分の、最低限必要な水供給は、なんとか目処がついた。

次の日、小胡市では、早朝から大雨が降り始めた。

雨があがった夕方には、昨日のことが嘘のように、水不足は回復した。

やれやれ、一件落着。

と、尾島市と小胡市の役所側は、胸を撫で下ろした。

だが、事態が一段落すると、他のところが一部、猛烈に騒ぎ出した。


猛烈急速に熱を上げたのは、尾島市と小胡市の科学者達だった。

科学者達は、オオクリアナとオトリアナを、熱烈に調べ出した。

が、了玄和尚と趙元住職は、オオクリアナとオトリアナに関して、“聖なる厳かな穴にして、地域の財産”という姿勢を崩さなかった。

その姿勢が、科学者達の無軌道な調査・研究に、釘を刺し続けた。

科学者達は、調査・研究の成果を、次のようにまとめた。


1.尾島市のオオクリアナと、

  小胡市のオトリアナは、

  繋がっている。

2.オオクリアナが

  ブラックホール機能を、

  オトリアナが

  ホワイトホール機能を

  持つようになっている。

3.その為、尾島市から小胡市に、

  モノを送ることができるように

  なっている。

4.原因 → 不明


つまり、守弘君と優人君が予想した以上のことは、科学者達の綿密な調査・研究でも、判明しなかった。

仮説は、それこそ雨後の筍のように提示されたが、『そんなこともあるかもしれんな~』程度で、人々には受け取られた。

そんな騒動をよそに、オミナオクリの行事とオミナトリの行事は、いにしえよりの伝統を保って、毎年キチンと続けられた。


だが、行事に関しては、今回の騒動が、二つの喜ばしいことをもたらした。

一つ目。

従来、日にちにして半月ほどタイムラグがあった各行事が(オミナオクリの約半月後、オミナトリが行なわれていた)、騒動以後、同時進行で行なわれるようになったこと。

二つ目。

尾島神宮寺の了玄和尚が、句を詠んで、それを半紙に書き、オオクリアナに流す。

オトリアナから流れ出てきたその半紙を、経台寺の趙元住職が取り上げ、詠み上げるようになったこと。

これによって、尾島市と小胡市、相互の親近感が、飛躍的に高まった。


行事に関わる人々や地域住民は、オオクリアナとオトリアナが、実際には繋がっているとは、思っていなかった。

人々は、『まあ、なんや知らんけど、うまいことやってるんやろ』ぐらいにしか思っていなかった。

が、あの事件以降本当に、オオクリアナからオトリアナへ、水は流されていた。

が、それを知るのは、守弘君の家(荏原家)と優人君の家(桧口家)、尾島神宮寺(了玄和尚家)と経台寺(趙元住職家)、市の役人の一部だけだった。

まあ、その他の人が知ったところで、一笑に付されるのがオチだろうが。



「なに、呆けてんんねん!」


和尚のツッコミに、守弘は、進行形の思考を取り戻す。


「和尚さん、で、オオクリアナがどうなったんですか?」


守弘の冷静な質問に、和尚は一瞬キョトンとなる。

そして、おもむろに口を開く。


「そうやった、そうやった。

まだ、それを言ってへんかったな。

オオクリアナがな、えらいことなんや」

「‥‥だから‥‥」


守弘が、埒が明かない和尚の言葉を、促そうとする。

だが、守弘が言葉を続ける前に、和尚は、再び話し出す。


「オオクリアナが、グレーになってんねん」


『‥‥グレーになってる‥‥?』


守弘は、和尚のセリフを怪訝に思う。

オオクリアナは、いわば、超々小型のブラックホールである。

小型とはいえブラックホールであるから、まわりのもの(穴に飛び込んで来たもの)は、すべて飲み込む。

それは、光りさえとて例外ではなく、だからこそ、穴の中は、珈琲黒を保っていられる。


『それが‥‥グレー‥‥?』


守弘は、口に、親指を上にした右拳を当てて、思考に没頭する。

和尚は、思考に没頭し始めた守弘を見て、わめき立てていた口を閉じる。

守弘が、口に、親指上の右拳を当てた時は、何か考えごとに没頭している時。

そのことは、和尚も知っている。

そして、その没頭を切り上げた時、守弘の中で考えがまとまり、動く時。

それも、和尚は知っている。


ガタガタ‥‥

台所で物音がする。

ガサガサ‥‥

居間で物音がする。

ザッザッ‥‥

和尚の衣擦れの音がする。

チッチッチッチッ‥‥

時計は針の音がする。


たっぷり数分間、守弘は思考に没頭する。

拳から口を離し、顔を上げると、和尚の目を見つめる。


「まずは、現場を見ましょう」


守弘の言葉を合図として、二人は行動を開始する。

守弘と和尚は、部屋を後にし、荏原家を後にする。


守弘のTシャツに汗滲みが浮かび出した頃、守弘と和尚は、尾島神宮寺の仁王門をくぐる。

くぐって左方へ向かう。

スッスッと歩を進め、オオクリアナと対峙する。

オオクリアナの中を覗き込み、驚く。


『‥‥グレー‥‥』


確かにグレー。

淡く黄味がかったグレー。

生まれてこの方、守弘は目にしたことが無い色だった。

予想外のグレー、予想外の色だったので、守弘は思わず、和尚を振り返る。

守弘の視線を受け止めると、和尚は、肘を曲げ、手の平を上にし、肩をすくめる。


守弘は、足元に転がっている小石を手に取って、オオクリアナに投げる。

黄味がかったグレーの中へ、投げ込む。


ポチャ‥プクン‥‥


『‥‥プクン‥‥か‥‥」


前の黒さをたたえていた時分、オオクリアナに放り込んだものは、“ポチャ“の後、“ヒュウウウウ‥‥”と音を立てた。

まさに、吸い込まれているような音を発して、穴に落ち込んだものは、穴の中に落ち込んで行った。

だが、今し方の音は、単にものが沈んだ音に、違いなかった。


「ダメですね」

「やっぱり、えらいことになっとるんか?」


守弘は、和尚に分かってもらえるように説明する為、頭の中でセリフを組み立てる。


「色が変わったせいかどうか分かりませんが、ブラックホール機能が失われてますね‥‥」


和尚が『分からへんな』という顔をするので、守弘はセリフを畳みかける。


「‥‥つまり、オオクリアナからオトリアナへ、ものが送れなくなったということですね」


和尚は、両手の平を両頬に当てて、口を縦に伸ばす。


《ムンク》


和尚は、目を剥いて、言葉を発する。


「それは困る!

それは困るそ、守弘君!」


守弘は、『俺に言われても、こっちこそ困るんやけどな~』と思いながら、和尚の次の言葉を待つ。


「あと一週間で、オミナオクリの日なんや!

手配全部、済ましてしもうてるがな!

あと一週間でなんとかできひんかったら、何百年も続いて来た儀式が途   切れるがな!

もしできひんかったら、ご先祖様や  周りのみんなに、申し訳が立たん!」


『そんなこと、俺は檀家やし、知ってるがな』と守弘は、和尚の言葉に心の中でツッコミを入れながら、答える。


「俺に考えがありますので、明日まで

時間をください。」

「なんや?

なんか、ええ考えがあるんか?」


和尚は、今にも聞きたそうだったが、。

今の時点では、和尚に話してもややこしくなるだけだった。

守弘は、キッパリと、和尚に言う。


「明日、話します」



とは、和尚には言ったものの、守弘にも具体的な対処方法は、思い付いていなかった。

オミナオクリとオミナトリが、従来の分離された形から現在の一体化した形になったのは、直接的ではないにせよ、守弘が発端になったことには違いなかった。

その為、守弘も、現在の状況には、少しは責任を感じている。

だから、率先して、トラブル対処に臨もうとしている。

そして、和尚から第一報を受けた時既に、仮説を立てていた。


『おそらく、穴の中の色が、黒からグレーに変わってしまった為に、文字通り、ブラックホール機能が失われてしまったんやろう』


だから、穴の中の色を、以前の色と寸分たがわず、元の黒色に戻したらいいのだが、その方法が困難だった。

たぶん、ブラックホール機能は、穴の中の、繊細で緻密な黒色の絶妙なバランスに拠って、発生していたと思われる。

つまり、色を再現するにしても、“近い色”でも“ほとんどその色”でもダメで、“そのものズバリの色”でなければいけないことになる。

幸い、オオクリアナを撮った写真が数枚あるので、以前の色合いは分かった。

やはり問題は、その再現方法だった。


『‥‥はてさて、はてさて‥‥

‥‥‥はてさて、はてさて‥‥』


守弘は、『あーでもないこーでもない』を頭の中で繰り返しながら、時を過ごす。


時は、過ぎてゆく。

朝イチに、オオクリアナを見てから、もう夕方になった。

守弘には、まだいい手立てが浮かんでいなかった。

どころか、朝イチの時点から、思考は堂々巡りするばかりだった。


「あかん。

気分転換しよ」


守弘は、パソコンを開いて、立ち上げる。

昨日、イタリアの名門サッカークラブに所属する日本人選手が、得点をあげたとのこと。

守弘は気分転換に、その動画を検索することにする。

守弘は、[ミラノ]と検索窓に打ち込んで、検索ボタンをクリックする。

画面には検索結果が、動画の一場面と共に、ズラズラズラッと、表示された。

インテル・ミラノの試合場面と思しき画像もあれば、引退したプロレスラーの試合場面と思しき画像もあった。

ファッションショーであるミラノ・コレクションと思しき画像も、いくつかあった。


「ん?」


ミラノ・コレクションと思しき画像の中に、一つ気になる画像があった。

おそらく、ミラノ・コレクションを紹介している番組なのだろうが、解説している人間が、スキンヘッドで、真紅のシャツを着ていた。

興味をそそられた守弘は、その動画をクリックする。


再生された動画を見ると、やはり、ミラノ・コレクションを紹介する番組のものだった。

番組は、三人のキャストによって、進行されていた。

一人は、司会進行役のMC。

一人は、司会補佐兼一服の清涼剤の、女性タレント。

そして、もう一人が、スキンヘッドで真紅シャツの解説者だった。

肩書きは、カラースペシャリストとなっていた。

どうやら、ファッション業界では名うてのカラースペシャリストらしく、いくつものブランド、メーカーの仕事をしているようだった。


守弘は、その番組を見ているうちに、深く感心する。

その解説者の、色合わせに対するコメントは、確かにうなずけた。

ファッションに疎い守弘からみても、説得力があった。

だが、守弘が、最も感心したのは、その的確な色指摘だった。

MCや女性意タレントは、単純に、「赤」や「青」といった原色的なコメントに、終始していた。

対して、解説者は、MCや女性タレントのコメントを引き取って、色に補足説明を加えていた。

曰く、「赤」なら、ファイヤーレッドなのかブラッドレッドなのかポンペイアンレッドなのか、それとも、牡丹色なのか海老色なのか緋色なのか。

「青」なら、スカイブルーなのかミッドナイトブルーなのかターコイズブルーなのか、それとも、藍色なのか群青色なのか浅葱色なのか。

色の素人である守弘には、指摘された色を聞いても、その色がどんな色か、見当がつかないものが多かった。

しかし、『そう言われたら、そうなんかもしれんなー』と思わせるコメントぶりだった。


結局、守弘は、最後まで番組を見通す。

番組の最後、MCが締めの挨拶を始めた。


〈MCは、‥‥‥‥。

アシスタントは、‥‥‥‥。

解説は、矢木大介さん、でした。

どうも、ありがとう御座いまし た。〉


『矢木大介‥‥』


解説者に、と言うより、解説者の色への造詣の深さに興味を持った守弘は、早速調べることにする。

検索窓に[矢木大介]と入力し、検索ボタンをクリックする。

画面には検索結果が、ズラズラズラッと、表示された。

その中で、矢木大介のプロフィールを紹介しているサイトをクリックする。


【矢木大介

主に、ファッション分野を専門とす るカラースペシャリスト。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

絶対色感を持つと言われている。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥】


『絶対色感‥‥?』


守弘は、次に、検索窓に[絶対色感]と入力し、検索ボタンをクリックする。

さすがに、“絶対色感”という用語は、それほどポピュラーではないらしく、検索結果も多いものではなかった。

そのズラッと表示された検索結果から、絶対色感について詳しく解説していそうなサイトを、守弘はクリックする。

じっとりと、汗で潤う指で、クリックする。



【絶対色感

ある色を見た時、それが「何色系の 何」まで、何かと比較すること無し に、判断・指摘できる感覚のこと。

例えるなら、色に関する絶対音感の ようなものと言える。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

絶対色感を持つ人間は、日本人では、矢木大介がそうだと言われている。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥】


『絶対‥‥色感‥‥!』


矢木大介のスキンヘッドにオオクリアナの形、矢木大介の真紅のシャツにオオクリアナの珈琲黒の中が、重なった。

守弘の頭の中で、その重なった二者が、更に重なる。

守弘は、カシャカシャと気忙しげに、キーボードを操作し、矢木大介の連絡先を突き止める。

突き止めるやいなや、パソコンを開いたままにそのままに、電話台へ飛んで行く。


矢木大介は、なかなかつかまらなかった。

北にショーがあれば飛んで行き、南に打ち合わせがあれば向かい、東に番組があれば出演し、西にセミナーがあれば講義をしているらしい。

なんせ、忙しい。

約一時間毎に電話をし、「帰って来たら、折り返しお電話します」と返されること、おそらく約十回。

そして、次の日を迎えた。

次の日になっても、約一時間毎に電話をし、「帰って来たら、折り返しお電話します」と返された。


そして、次の日になると、約一時間毎に、矢木大介からではなく、和尚から電話が入りまくった。


「どうや?」

「うまいこといってるか?」

「早よ説明せい」


『やれやれ‥‥』


どうやら、矢木大介をつかまえる前に、和尚に説明せざるを得ないらしい。

守弘は、立体のパズルを組み立てるように、和尚への説明手順を組み立てながら、尾島神宮寺へ向かう。

Tシャツの襟ぐりを左手の人指し指で開けて、、右手の平でパタパタ風を送り込みながら、向かう。


ああ言ってこう言って、多分こう来るから、その場合はそう言って‥‥。

守弘は、尾島神宮寺の仁王門をくぐる前に、大筋の組み立てを終える。

大筋さえ決めておけば、後は臨機応変に対処するだけ。

さあ来い、和尚。


がしかし、やっぱり苦労した。

守弘は、仮説とそれに基づく対処方法を懇切丁寧に説明し、矢木大介とコンタクトを取っていることも説明する。

が、和尚は、『分からんな』という顔を、満面にたたえるばかりだった。

ある時点で『分からんな』と思ったら、それ以後は、”理解しようとしない”雰囲気がヒシヒシと感じられた。


『この年齢世代は、これだから‥‥』


守弘は、七転八倒四苦八苦して、なんとか説明を終える。

和尚は、怪訝な顔を崩さないながらも、不承不承納得したようだった。


「で、これからどうするつもりや?」


『だから、それをーーー!』と、頭を抱えるやすぐに、両手を顔の前に持って来て、叫び出しそうになるのを、守弘はこらえる。


「‥‥さっきから何回か言ってますように、矢木大介さんと接触して、僕の仮説に添って、対処してみようと思います」


こらえた守弘は、なんとか丁寧語で和尚に答える。

それに対する和尚の返事は、再び守弘に心の中で頭を抱えさせると共に、『自分の思い通りにやろ』と決心をさせるものだった。


「まあ、なんやよう分からんけど、思うようにやったらええわ」


プシューと脱力した守弘は、和尚に向かってガクッとうなずく。

「乞うようにせよ」の貴族面で、のんきに構える和尚を残し、守弘は尾島神宮寺を後にする。


『ああ、ウザい。

メンドくさいことばっかしや』


守弘は、脱力感に、背中から覆いかぶされる。

心なしか猫背になり、歩調も歩速も、お年寄りのものになっていた。

暑さもヒリヒリ、背中からのしかかって来ていた。


『あかんあかん。

こんな心持ちでは、魔物に魅入られてしまう』


守弘は、背筋を伸ばし、体の正中線を意識して、腿を上げて歩き出す。

体の真ん中に糸が通っていて、それが天空から引っ張られている感じで、スッスッと歩く。


スッスッ‥‥スッスッ‥‥

スッスッ‥‥スッスッ‥‥


ガラッ‥‥


『あたし、モデルよ』みたいな歩き方で家にたどり着き、守弘は玄関の戸を開ける。


「おかえり‥‥」


玄関まで出て来た守弘の母親は、お帰りの挨拶で、息子を迎える。

そして、十数秒ためて、次の言葉を続ける。


「‥‥ヒロ君、メリーさんから電話があったわよ」

「メリーさん?」

「ショーンさんやったかしら?」

「ショーンさん?」


守弘の父親も、玄関まで出て来て、母親にツッコミを入れる。


「かあさん、それを言うなら、羊さんやろ」

「そうそう、そうでした」

「もう、かあさんには困るなあ~」


オホホアハハ‥‥アハハオホホ‥‥

アハハオホホ‥‥オホホアハハ‥‥


この父親母親の、ほんわかとした仲の良い空気。

その空気は、守弘は、嫌いでは無かった。

どちらかと言えば、好きだった。

が、今現在の状況・心境では、メンドくさく、ウザかった。

守弘は、萎えて挫けそうな心を奮い起こして、父親と母親にツッコミを入れる。


「それを言うなら、ヤギやろ!」


ちゃんと、裏拳も添える。

両の手で、父親と母親の胸辺りに、裏拳を入れる。


「「えっ!」」


二人は同時に、鳩が豆鉄砲くらったような顔をする。

そしてすぐさま、二人して、満足そうな笑みを浮かべる。


『『そうそう、そんなツッコミが欲しかってん』』


二人は、思いを一つにするかのような、笑みを浮かべる。


『絶対、まごうことなく、“わざとボケ”やな』


守弘は、このボケのくだりに、疲れ果てる。

心待ちにしている矢木大介からの連絡を受けて、すぐにでも返事したい。

が、父親と母親の、羊(メリーさん、ショーン)とヤギ(山羊、矢木)のボケに、付き合わないわけには行かなかった。

付き合わなかったら、父親も母親も、大人気なく拗ねてしまう。

そうすれば、以後の行動を、スムースに運べなくなる。


『ああ、ウザい。

メンドくさいことばっかしや』


と思いながらも、結局いつも、父親と母親に付き合う息子、守弘だった。


そんなことより。


「矢木さんから連絡あったんやろ!」


守弘は、前のめりになりながら訊く。

守弘の母親は、後ろにのけぞりながら、答える。


「ああ、あったわよ。

ヒロ君が帰って来たら、〈折り返しお電話ください〉って、言ったはった」

「それ早よ言って!」


守弘は、母親の言葉が終わるのも待ち遠しく、玄関を駆け出す。

電話台にたどり着くと、指が覚えてしまっている矢木大介の電話番号を、そらで押す。


トゥルルル‥‥トゥルルル‥‥

トゥルルル‥‥トゥルルル‥‥


‥‥ガチャ


〈はい、矢木事務所で御座います〉

〈!〉


守弘は、勢いこんで用件を伝えると、返答を待つ。


‥‥一瞬のエアポケット‥‥


〈矢木ですが、ただいま会議に出ております。

終わり次第、本人から電話させます〉

〈よろしくお願いします!!〉


守弘は、おじぎを繰り返しながら、電話を切る。

折り返し電話がある旨を、父親と母親に伝え、「くれぐれも速やかに自分につなぐ」よう、念押ししてお願いする。


守弘は部屋に戻り、パソコンを開く。

ネット検索しまくり、仮説に基づく対処方法の情報を集めていると、母親の呼ぶ声がした。


「ヒロ君、ハンニバルさんから~!」


暑さの為か、はたまた、他の要因によるものか、守弘のこめかみに、汗が一すじ流れた。

『母親よ、ボケたかったのは分かるが、それは苦しいぞ』と、守弘は思う。

が、そんなことはおくびにも出さす、母親の前を、羊が沈黙するように通り過ぎる。

そして、電話台の上で、外れたままになっている受話器を取り上げる。


〈お待たせしました。

荏原守弘です〉

〈矢木大介です。

何回もお電話いただいていたのに、連絡が遅くなってしまい申し訳ありません〉


矢木大介、本人だった。

声が動画と同じ、まごうことなき、本人だった。


『ああ‥‥やっと出会えた‥‥』


天空から降り注ぐ光りに顔を向け、その光りを全身に浴びている心境に、守弘は浸る。


早速、守弘は、電話した理由(オミナオクリとは?、発生した問題、守弘の仮説、問題を対処する為に考えられる方法など)を説明する。

一気に説明した守弘は、そこで一息置いて、矢木大介の協力を求める。

矢木大介は、守弘の説明が続いている間、口を挟まずに聞いている。

守弘の説明が終わると、矢木大介は、ただ一言発した。


〈‥‥う~ん‥‥〉


そのまま、熟考に入る。

守弘は、受話器を握り締め、口をつぐんで、矢木大介の返答を待つ。


〈‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥〉

〈‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥〉


沈黙が支配する。


〈‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥〉

〈‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥〉


矢木大介の口がほころび音がし、守弘の体は前のめりになる。


〈‥‥難しいですね‥‥〉


前のめりになっていた守弘の体は、矢木大介の言葉を受けて、後ろに反り返る。

が、気を取り直して、守弘は、言葉を紡ぐ。


〈もう、にっちもさっちも行かないところに追い詰められてまして、矢木さんの絶対色感に頼るしかないんです〉


‥‥ピシッ‥‥


“絶対色感”のところで、空気がひび割れたような気がした。

守弘の言葉の中の、”絶対色感”のところで、受話器の向こう側の空気が、反応した気がした。


〈やっぱり、難しいですね。

申し訳ありませんが、お断りさせていただきます〉


矢木大介は、手の平を返したかのように、キッパリと断りの返事を入れる。

守弘のお願いは、横綱の怒涛の寄りのように、電車道一直線で断られる。

守弘が、矢木大介の返答を消化できず、固まっている間に、電話は、静かに切れた。

チン‥‥、という電話の切れる音の余韻に、守弘は、我を取り戻す。

取り戻すやいなや、冷静な分析が始まる。

守弘が“絶対色感”と言った時、矢木大介の雰囲気が変わった。

受話器の向こうの空気が、明確に変わった。


『なにか、絶対色感というキーワードが、矢木大介をかたくなにさせているに違いない』


守弘は、好きな漫画の好きな言葉を思い出す。


{うろたえず

思考停止せず

あきらめず}


『この糸は、この解決に繋がるであろう糸は、あきらめない』


守弘は、駆け足で、自分の部屋に飛び戻る。


守弘は荷造りを済ますと、リュックを抱えて、部屋を飛び出す。

引き戸が開け放しになっている居間の中から、声がする。


「ヒロ君、もうすぐご飯やから、早よ帰って来いや」


母親の声に、守弘は即座に返事する。


「ちょっと東京まで、二、三日、行って来るわ」


母親が居間から、まったり顔を出すのと、玄関の戸が閉まるのは、同時だった。


「行って来ます!」

ガラガラガシャン!


「忙しい子やな~」


母親は、居間の戸柱から、顔だけ覗かせてつぶやく。


「ハイジかペーターやな」


父親が、母親の頭のすぐ上に、のっそり顔を覗かせてつぶやく。


「そのココロは?」

「喜んで、ヤギに会いに行きます」


母親の問い掛けに、父親は、どや顔で答える。



家を飛び出した守弘は、最寄の駅から電車に飛び乗る。

このまま、新幹線の乗り継ぎ駅まで行き、新幹線で東京へ乗り込むつもりにしている。

車窓から外の景色を見ながら、守弘は外の景色を見ていなかった。

景色は、水晶体と網膜に映り込むものの、脳には映像を結ばなかった。

守弘の脳内では、先程の場面の映像が映し出されていた。


電話で、矢木大介と話した場面。

電話で会話中に、空気が固まった場面。

“絶対色感”後の、矢木大介の変化。


『おそらく、“絶対色感”に関することで、矢木大介は、かたくなになっているに違いない』


守弘は、更に、思考を進める。


『ということは、“絶対色感”に関する障害さえ取り除いたら、OKということか。

なんや、楽勝、楽勝』


守弘は、冷静で緻密なところがある一方で、基本的には楽天家だった。

『押さえるとこを押さえたら、後はアバウトでええやん』が、モットーだった。

だからこそ、たいがいの事態には、柔軟に臨機応変に、対応できるのだが。

だからこそ、常識人や教養人と呼ばれる人々からは、変人奇人扱いを受けるのだが。


守弘は、東京に降り立つ。

どこを向いても、人がワンサといる光景に、一瞬ア然とする。


『‥‥ここは梅田か‥‥』


守弘は、行ったことのある大阪の繁華街に、例えて思う。

しかし、東京の人ごみは、量とも厚みとも、その繁華街に勝っていた。

蒸し暑い外気と人の熱気にあてられ、守弘の頭は、ボーッとして来る。

額には、見る間に汗が滲み、背中には、汗が流れ出す。

守弘は、寄る人波に圧倒されて、歩を進める度に、マトリョーシカのように弱気になって行く。


『げ~、矢木さんの事務所に行くのも、一仕事やな。

いや、百仕事ぐらいあるかもしれんな。

ああ‥‥ウザい‥‥』


歩を進める度に、ちょっとずつ猫背になり、守弘は縮んで行く。

溢れかえる人々の中から、守弘だけを取り出して観察すれば、人類の逆進化の過程になっただろう。


『いかんいかん。

こんな気持ちでは、悪魔に入り込まれてしまう』


守弘は、背筋を伸ばし、体の正中線を意識して、腿を上げて歩き出す。


スッスッ‥‥スッスッ‥‥

スッスッ‥‥スッスッ‥‥


『あたし、モデルよ』と、守弘は心中で唱えながら、矢木大介の事務所に向かう。


矢木大介の事務所は、四階建てのテナントビルの最上階にあった。

一階は、YDプロモーション。

二階は、YDクリエイティブ。

三階は、YDスタジオ。

四階が、矢木大介事務所。


『とどのつまり、矢木大介ビルってことやな』


守弘は、エレベーターが下って来るのを待ちながら、各フロア案内に目をやる。


チン!


エレベーターが、赤い電灯をふりまきながら、一階についたことを知らせた。

三階から下りて下りて来たエレべーターは、ドアを開けると、どやどやどやと、人を吐き出した。

まさに『あたし、モデルよ』の大群が、カッカッカッカッと、エレベーターから出て来た。

モデルを、こんなにも一どきに見たことが無かった守弘は、呆気に取られる。

美の呪縛から我を取り戻したのは、エレーベーターのドアが閉まる直前だった。


守弘は、エレベーターに滑り込む。

四階のボタンを押して、『やれやれ』と思っていると、守弘はエレーベーター内の気配に気付く。


『何かいる!』


守弘は、自分の目線から、辺りを見廻す。

何もいない。

が、その時、目の下端に、何かが映ったような気がした。

守弘は、自分の視線から見下げて、再び辺りを見廻す。


「‥‥わっ!」


守弘から数十センチと離れていない空間に、おじさんが一人立っていた。

モップを右手に、バケツを左手に、ブルーの作業服を着たおじさん。

まさしく清掃員の、ちっちゃいおじさんだった。


作業着に汗滲みを浮かせた、ちっちゃいおじさんは、エレベーターの空気と同化していた。

いや、ビルの雰囲気そのものと同化していた。

への字口をした頑固そうなおじさんだった。

が、なんとなく親近感を感じて、守弘は思わず挨拶をする。


「あ、こんにちは」


守弘が挨拶すると、おじさんは『おっ』という顔をする。

そして、多少戸惑いながら、挨拶を返す。


「ああ、こんにちは」


おじさんは、手短に挨拶を返したものの、一呼吸置いて、問い掛ける。


「どこ行くねん?」


何故か、東京なのに関西弁。

が、それに親しみを覚えて、守弘は即答する。


「矢木大介さんに、会いに行くんです」

「ほー、何で?」


何故か、おじさんに断りきれない親しみを感じ、守弘は、矢木大介に会いに来るまでの経緯を、ザッと一通り説明する。


オミナオクリについて。

そのオミナオオクリアナに使うオミナアナに発生した問題。

その問題について守弘が立てた仮説。

その仮説に沿った問題解決方法。

その方法で矢木大介が果たす役割、など。


おじさんは、守弘の説明を一通り聞くと、考えにふけるように、守弘の瞳をじっと見つめる。

そして、自分の中で結論が出したように、守弘に言う。


「‥‥そうなんか。

健闘を祈るぞ!」


頑固顔が一転、にこやか顔になったおじさんは、バシッと、守弘の背中を叩く。

もっとも、おじさんの身長では、守弘の腰になったが。


エレベーターは、とっくに四階に着いていた。

話の間、〔開く〕ボタンを押し続けていた守弘は、ようやく、エレベーターの外に出ようとする。

おじさんは、守弘に向け、ナイスガイポーズで見送る。

右腕を真っ直ぐ前方に出し、右拳の上に親指を真っ直ぐ立てた、ナイスガイポーズを。

守弘は、おじさんのナイスガイポーズにうなずく。

勇気づけられた守弘は、矢木大介との対決に臨む。

矢木大介事務所の入り口ドアを開ける。


案の定、矢木大介は不在だった。

それでも、不幸中の幸いと言うべきか、一時間後に帰社予定になっていた。

守弘は、事務所で待たせてもらうことにする。


く‥スゥーーーーーーーーーー‥るっ

く‥スゥーーーーーーーーーー‥るっ

く‥スゥーーーーーーーーーー‥るっ


時計の細い針が、三回転。

三時間経っても、矢木大介は帰って来ない。

事務所の社員は、三十分毎ぐらいにお茶を換えてくれる。

が、社員達は、今に至っては、『いつまでおんねん』というオーラがありありで、守弘に応対していた。


『いつまででも待ちますよ~。

なんなら、夕、夜、夜中を越えて、明日まで待ちますよ~』


と、腹をくくって、守弘はゆったりと構えている。

和尚はじめ地域の人々が楽しみにしているオミナオクリの一大事なのに、そんなオーラに怯んでられない。


く‥スゥーーーーーーーーーー‥るっ

く‥スゥーーーーー‥ガチャ‥バッ‥


「ただいま」


矢木大介が帰って来たのは、それから約一時間三十分後だった。

スキンヘッドの矢木大介は、頭頂部から首及び額にかけてを、汗で潤わせながら、事務所に入って来る。


「おかえりなさい‥‥」


と言って、女性が一人、すばやく机から立ち上がり、矢木大介のところに向かう。

おそらく矢木大介の秘書であろうその女性は、内緒話をするように、小声で矢木大介の耳に、何事かささやく。

矢木大介は、眉間に皺を寄せて、秘書の女性と一緒になって、守弘を見つめる。

怪訝な顔を隠さずに、守弘を見つめる。

諦めたかのような、吹っ切ったかのような雰囲気を漂わせ、矢木大介は、守弘の方へ向かって来る。


「初めまして、矢木大介です」


空調の入っている部屋に入って来た為か、矢木大介の頭や首は、すっかり乾いていた。

その乾き具合が、勝手知ったるホームにいる余裕を、感じさせる。

守弘は、矢木大介が差し出した右手を握り締めながら、挨拶する。


「先日お電話した、荏原守弘です。

よろしくお願いします」


アウェーの守弘は、気付く。

握手をした矢木大介の手の平が、幾分湿っぽいことに。

“完全余裕”に構えているわけでも、なさそうだ。


守弘は、今日伺った理由から始まり、先日の電話の内容を繰り返す。

そして、重ねて、矢木大介に協力をお願いする。


「申し訳ありませんが、先日のお電話で申し上げた通り、ご協力できそうにありません」


にべもなかった。

が、それは、守弘は予測している。

次の手を打つ。


「矢木さんの持つ“絶対色感”を役立たせるチャンスだと思うのですが」


もし、矢木大介が絶対色感にコンプレックスを持っているならば、この一言は、何らかの反応を引き出すはずだった。

矢木大介から、同調または反発といった反応を。

どちらにせよ、それを手掛りに、次の手を繰り出す予定にしていた。


「‥‥‥‥」


矢木大介は、“絶対色感”の部分で体をピクッと震わせただけで、黙ったきりだった。

同調でも反発でもない予想外の対応に、守弘は、次の手を繰り出すことができず、沈黙を守って、様子見をする。


矢木大介の頭から額にかけて、及び首筋に、汗が光って来る。

沈黙に耐えられず、守弘が口を開こうとした時、それを制して、矢木大介が口を開く。


「やはり、ご協力できません。

申し訳ありません。

お引取りください。

‥‥おい、お客様が帰られるそうだ」


矢木大介は、これだけのことを一息にしゃべると、秘書に合図を送る。

秘書は机から立ち上がり、二人のところまで来る。

そして、守弘に向かって頭を下げ、そのまま手の平を上にして、右腕を水平に動かす。

ドアを指すように、右手を動かす。

守弘は、よろよろと立ち上がり、よろよろとドアに向かう。

守弘がドアに着くと、秘書は慇懃に頭を下げて、ドアを開ける。

守弘の後ろでは、矢木大介が、問答無用で頭を下げる。


「失礼します‥‥」


守弘は、消え入りそうな声で、外に出る。


バタン


ドアは、余韻無く、にべもなく閉まった。


チン‥‥


守弘は、ほうほうの体で、エレベーターから這い出る。


予想外の対応で先手を打たれ、こちらが出方を窺っていたら、一挙に畳み込まれ、追い出された。

何も、できんかった。

何も、させてもらえんかった。


守弘は、分かり易く肩を落とし、伏し目がちに歩を進める。

ビルの玄関口まで来た時、床を磨いている先程のちっちゃいおじさんと、再び顔を合わせる。

おじさんは、守弘と数秒目を合わせて、悟ったように言う。


「あかんかったか‥‥」

「はい‥‥」


おじさんは、『しょうがないなあ』と苦笑気味に溜め息をつくと、床の掃除を切り上げる。


「ちょっと、休んでいけ」


おじさんは、守弘に有無を言わさず、一階の管理人室へ招き入れる。

そこは、よくあるビルやマンションの管理人室とは、一線を画していた。

居間こそ半分仕事部屋になっており、器具や書類が揃えられ、ビルの玄関口に通じる小窓があった。

が、寝室や風呂場やトイレは、新築マンションと変わらない設備をしていた。

おそらく、三LDKの管理人室。

かなり充実した、管理人室だった。


守弘は、居間のちゃぶ台を挟んで、おじさんと向き合って、正座して座る。

おじさんの淹れてくれたお茶を、右手を湯呑みの側面に、左手を底に添えて、いただく。


守弘が、壁にかかる真紅のシャツに見とれていると、おじさんはおもむろに口を開く。


「あいつも頑固やから、しょうがないなあー」


おじさんは苦笑と共に、話を始める。


「あいつには、昔、仲のいい友達がおってな。

どこ行くにでも二人で行動するような、仲のいい友達やってん」


おじさんは、“ふぁんふぁん、ふぁんふぁん、ふぁ~ん”と、スモークがたかれ場面が転換するように、頭を下げる。

一拍置き、頭を上げたおじさんの面構えは、最前までの面構えから変わっていた。

言うなれば、いい意味でのイッテる目をし、舞台俳優のような面構えになっていた。

おじさんは、左見て右見て交互に見て、上手見て下手見て交互に見て、登場人物の会話を始める。

それは、昭和の名落語家を彷彿とさせる一人芝居だった。

守弘は、眼前に回想シーンが繰り出されるかのように、おじさんの語りに引き込まれる。



「ダイスケ君、ダイスケ君」

「なに?ヤスタカ君?」

「僕、最近、音がちゃんと聴こえるねん」

「は?」


『音がちゃんと聴こえるんは、耳が正常なら、フツーやん』と、大介は思う。

が、康隆が、そんなフツーのことをわざわざ言うはずがなかった。

矢木大介と真中康隆は、小学校の同級生だった。

お互いの家は近くにあり、いつも連れ立って下校していた。

今日は、その下校途中で、康隆がおかしなことを言い出したのだった。


「ちゃんと聴こえるんは、当たり前やん」

「違うねん。

むっちゃ、ちゃんと聴こえんねん」


大介の思っていることと、康隆の言っていることは、ちょっと違うようだった。

康隆は、“ただ単に「ちゃんと聴こえる」と言っているだけ”ではないらしい。

が、大介には、意味が見えなかった。


「どういうこと?」

「だから‥‥なんちゅうか‥‥説明が難しいな~‥‥」


その時、鳥が鳴いた。


「あの音!」

「あの鳥の鳴き声?」

「あの鳥の鳴き声な、僕には♪ソラシド・レ・レ♪って、聴こえるねん」

「へっ?」


その時、烏も鳴いた。


「あれは?」

「♪ラソーラソー♪」


大介は、思い至って、驚き喜ぶ。


『つまり、いろんな音がドレミで聴こえるんやな。

“いろんな音がドレミで聴こえる”ってことやから、今流行りの絶対音感やん!』


「ヤスタカ君、凄いやん!」

「それって、凄いの?」


凄かった。

当時、絶対音感は、注目され始めたところだった。

すぐに、康隆は、“絶対音感少年現わる!”とかなんとか、注目を集めるようになった。

その後、“絶対音感の持ち主は、珍しくない”ことは知れ渡ったが、当時は稀少人種扱いを受けていた。

康隆が、メディアに取り上げられ、色々なマスコミに取材されるにつれ、二人の距離は広がっていった。


広がった距離は、もう、縮まることはなかった。

その後、疎遠になった大介と康隆は、今に至っては、連絡を取ることも無い。

お互いの連絡先も、もう分からない。

そんな状況に置かれた大介は、絶対音感を、マスコミを憎んだ。

が、その始まりは、康隆に絶対音感があるのを発見し、周囲に広めた大介自身にあった。

よって、大介は、ジレンマに陥る。

状況(絶対音感やマスコミなど)を憎むけれど、それを憎むことは回り廻って、それを引き起こした自分を憎むことになる。

でも、自分で自分は、憎み切れない。

かといって、状況には、憤っている‥‥。


が、皮肉なことに、“絶対~感”やマスコミが、次に目を付けたのは、大介だった。


町中の呉服屋の前で、大介のおばあちゃんが悩んでいた。


「これ、何色って言うんやろ?」


ショーウインドウに飾られていた帯地は、鮮やかな赤色だったが、単に赤だけというものでもなかった。

そばにいた大介は、難なく答える。


「それは、紅色が半分くらいで、赤色が30%くらいで、残りは黄色ちゃうかな」


大介のおばあちゃんは、呆気に取られ、驚きのまなこで孫を見つめる。

そして、その呉服屋に入り、店頭に飾ってある帯地の色について、詳しく店員に聞く。

店員も、即答はできず、あれやこれやと調べ、何度も電話で問い合わせする。

結果、色の配合は、大介の言葉通りということが判明した。


そんなことが、度々続いた。

大介の、色に明敏な感覚は、年を経るにつれ研ぎ澄まされていった。

それに伴い、周囲も大介に一目置くようになり、頼りにもされていった。

色に関する仕事も、どんどん回って来るようになった。

大学卒業時には、就職せずに、フリーのカラースペシャリストとして独立した。

独立してからも順調で、注目を集め、表に出ることも多くなった。

“絶対色感の持ち主”として、メディアに取り上げられ、色々なマスコミに取材された。


そう。


現在、大介は、色のスペシャリストとして、仕事に恵まれ、人脈に恵まれ、飯のタネに恵まれていた。

それは、友達と自分を引き離した“絶対~感”の能力に、依存することだった。

音と色の違いはあるにせよ、能力を嫌悪すると共に、頼りにする。

大介は、二律背反、ジレンマを抱えて生きていた。



ズズッ‥‥

ズズッ‥‥


おじさんの話が終わり、守弘は、お茶をすする。

おじさんも、一口すする。

二人の間には、沈黙が落ちる。

重いが、でも心地悪くはない沈黙が落ちる。


「‥‥じゃあ、そろそろ、おいとまします」


先に口を開いたのは、守弘だった。

守弘は、椅子から立ち上がると玄関に向う。

おじさんも立ち上がり、守弘を見送る。


「大したお構いもできずに、すまんかったな」


おじさんの言葉に、守弘は頭を少し左右に振って答える。


「いえ‥‥そんなことないです」


守弘は、別れ際になりながらも、半分現実の世界、半分思考の世界に行っている。

そんな守弘を、おじさんは心配そうに眺める。

おじさんは、守弘の背中(正確には腰)を、強く優しく叩く。

そして、言う。


「まあ、“明日は明日の風が吹く”や!」


そして、おじさんは、ナイスガイポーズを取る。

守弘に向けて、ナイスガイポーズを取った。



守弘が、東京から尾島市に着いた時には、夜が深くなっていた。

自宅にたどり着いた時、両親は深夜のニュース番組を見ていた。

守弘は、『この時間帯に付き合うのはキツい』と思い、「ただいま」と言うと、そそくさと自室に入る。


自室に戻った守弘は、荷物をドサッと下ろす。

が、一息入れることはせず、そのままの勢いで、部屋着に着替え、荷物を片付ける。

一息ついて休んでしまうと、おそらく、片付けは伸び伸びになるに決まっていた。


ホントなら、首を長くして待っているであろう和尚には、真っ先に連絡を入れるべきだった。

でも、片付けに残る力を振り絞った守弘には、和尚と対する力は残されていなかった。


『和尚には、明日の朝イチにでも、報告しよう』


守弘は、寝間着をタンスから取り出し、布団を敷く。

チャッチャと風呂に入って、サッサと寝ることにした。


次の日は、母の声で起こされた。


「ヒロ君、‥‥マトンラムさんからお電話~」


『ボケられへんのやったら、素直につなげよ』と母親に思いつつ、守弘は半覚醒で自室を出る。

守弘は、電話台の受話器を取る。


〈はい、おでんわ、かわりました〉

〈朝早くからすいません。

昨日、お会いした矢木大介です〉


『へっ‥‥』と、守弘の未覚醒部分は思う。

『あ、はい』と、母親のボケに対応していた覚醒部分は思う。

未覚醒部分と覚醒部分が統合され、守弘の頭は、ほぼ覚醒化する。


〈あ、はい、こちらこそ、昨日はありがとう御座いました!〉


丁寧に昨日のお礼を言いながらも、守弘の胸には、怪訝な思いが湧いて来る。


『昨日、あれだけ、つっけんどんな応対をしておいて、朝早くから何なんや?』


そんな守弘の不信感を察してか、矢木大介は、先手を取って説明し始める。


〈昨日は、こちらこそ、失礼しました。

あんな応対をしてしまって、申し訳ありませんでした。


あの後、父に、「助けを求めて来ている人に、あの応対は何や」と、粛々と諭されました。

頭を冷やして考えれば、『ホンマにその通りだな』と思います。


反省してます。

すいませんでした〉


「あ、いや、そんな」


とは咄嗟に言ったものの、守弘の頭は、展開に追い付いていなかった。

数瞬経って、追い付いて来る。


『つまり、大逆転?』


おそるおそる、守弘が用件を切り出すと、矢木大介は、快く協力を約束してくれた。

しかも、最優先で対応してくれるとのこと。

守弘は、その場で、オミナオクリまでの矢木大介のスケジュールを調整する。

よって、やっと、オミナオクリ無事実施ミッションの体制が、整ったことになった。


守弘は、Tシャツにジーンズ姿に着替えると、朝食も取らず、家を飛び出す。

足を、尾島神宮寺に向ける。

和尚への説明手順を練りながら、守弘は思う。


『やることやってたら、“明日は明日の風が吹く”。

諦めたらあかんな~』


しみじみ思う。



「あと、三日やな~」


小胡市に在する経台寺の、趙元住職は、満面の笑みをたたえて、桧口優人に言う。

オミナトリまで、あと三日。

桧口家は、経台寺の万年檀家総代。

今年は、樋口家を代表して、優人が経台寺との折衝に当たっていた。


住職の笑みとは対照的に、優人の心は晴れやかなものではなかった。

オミナトリは、尾島神宮寺のオミナオクリと対の行事。

片方に事故があったら、もう片方にも多大な影響がある行事だった。

云わば、オミナトリとオミナオクリは、一心同体二重螺旋だった。


優人は、ちっちゃい頃からの親友である荏原守弘から、オオクリアナに起こった問題について聞いている。

現状では、このままでは、オミナオクリができない(つまり、オミナトリもできない)こと。

その問題について、立てた仮説。

その仮説に沿って、問題の対処に臨んでいること。


優人は、守弘から、逐一報告を受けている。

優人にできることは、その仮説が的確なもので、問題が解決することを祈ること。

そして、経台寺の檀家及び小胡市の地域の人々に、不信感を抱かせないようにすることだった。


「今年もいよいよ、オミナトリやな~」


優人の胸の内も知らず、住職はにこやかに、優人に微笑む。

オミナトリに使われるオトリアナは、淡い白色を保っている。

オオクリアナの異状は、オトリアナまでは波及していなかった。


『ヒロ君。

うろたえず、思考停止せず、あきらめず。

頑張れ』


優人は、空を見上げ、尾島市に、尾島神宮寺に、オオクリアナに、思いを馳せる。



「あと、二日か~」


尾島神宮寺の了玄和尚は、本堂から庭先を見て、つぶやく。

庭先のオオクリアナの前では、守弘と矢木大介が、汗まみれになりながら、悪戦苦闘していた。


守弘と矢木大介は、これまでに、オオクリアナを元の珈琲黒に戻す為、様々な方法を用いていた。

化学薬品を垂らしたり、音波を当てたり、光線を照射したり‥‥など。

その結果、二人は現段階で、有効と思われる方法を一つに絞っていた。

それは、単純だが、“何かを混ぜ込む”という方法だった。


方法を一つに絞ったものの、これまでのところ、色の調整は、イマひとつ上手くいっていなかった。

矢木大介が、以前のオオクリアナの画像から捕らえた色に、なかなか近づかなかった。

或る時は黒過ぎ、或る時は白過ぎ、また或る時はグレーに戻ってしまった。

今現在、オオクリアナは、黒を湛えていた。

珈琲黒というよりも、もっと光沢のある黒、黒真珠のような黒だった。


真珠黒になったオオクリアナを見つめて、守弘と矢木大介は、『次の手をどう打とうか』考えている。


『どんな色が、ええかな?』

『何を混ぜたら、ええかな?』

『しっかし、暑いな~』

『ほんま、暑いな』

『うわ、Tシャツとトランクス、汗でベタベタ』

『うわ、赤シャツとデニムジーンズ、汗でベタベタ』


次の手のことも、それ以外のことも考えながら、守弘と矢木大介はたたずんでいる。


ジージー

ジージー


ジリジリ

ジリジリ


ジージージリジリ

ジリジリジージー


現実的な蝉の鳴き声が、観念的な太陽の照りつける音が、二人の耳にはゴッチャになって聴こえていた。

ゴッチャになるほど、蝉のうるささと太陽の暑さで、二人の頭はボーッと茹だっていた。


その頭で、守弘は何も考えず、何も考えられず、提案する。


「珈琲黒に戻すんやから、クリームパウダー入れましょうか」

「クリームパウダー?」


矢木大介は、火照った頭では、すぐには理解できず、守弘に問い掛ける。


「クリームパウダー。

♪コーヒーに、○○○○♪とか、♪○○○○を入れないコーヒーなんて♪とか」

「ああ、あれ」


矢木大介は、クリームパウダーを、正確にはクリームパウダーの色を、頭に思い浮かべる。


『あの色は、純白というわけでもないし、かといって、陰のある白というわけでもないし、ええかもしれんな』


「ああ、いいかもしれませんね。

そうしましょう」


守弘の何の気無しの何も考えずした提案は、わりと考えた矢木大介の同意を得る。

守弘は、あまりのスムースさに、『へっ?』となったが、『ま、ええか』と行動を開始する。


守弘は、尾島神宮寺の家屋へ、クリームパウダーをもらいに行く。

が、了玄和尚一家は、クリームパウダーを使っていなかった。

和尚一家は、牛乳派。

ちなみに、守弘も牛乳派。


「矢木さんは、コーヒーには何派ですか?」

「私は、豆乳派です」


ここには、全国民の多数を占めるであろう、パウダー派もポーション派もいなかった。


「んじゃ、買って来ます」

「よろしくお願いします」

「どれぐらい、いりますかね?」

「う~ん。

荏原さんに任せます」


守弘は、『う~ん』と首をひねりひねり、クリームパウダーを手に入れる為、尾島神宮寺を後にする。

オオクリアナの下に残された矢木大介は、地面に直接、結跏趺坐する。

そして、デニムジーンズの尻ポケットから文庫本を取り出し、読み始める。

本の題名は、[グハハの牛]。

今は無き、大阪在住の無頼派作家の作品だった。


数十分して、守弘は戻って来た。

矢木大介が本から目を上げると、ふらつきながら仁王門をくぐる守弘が、目に入る。

重そうな紙の粉袋を、右肩に背負い、顔と腕に汗を噴き出しながら、こちらへ歩んで来る。

飛ぶ蛍のように、破線や幾何学曲線を描きながら、ふらふらと歩んで来る。

矢木大介は、近づいて来る守弘を見て、『多分、あんなには、いらんやろな』と、冷静に判断する。


二人は、オオクリアナへ、クリームパウダーを注ぎ込む。

ある程度入れては、かき混ぜて様子を見、ある程度入れては、かき混ぜて様子を見る。

渦を巻いて、白い筋を描きながら混ぜ込まれるクリームパウダーは、鳴門とナルトとNARUTOを思い出させた。


真珠黒だったオオクリアナは、徐々に色を変えていった。

心なしか、黒さの照りが薄まって来た。

守弘と矢木大介は、オオクリアナの色の変化に注意して、少しずつ少しずつ、クリームパウダーを注ぎ込む。

真珠黒から珈琲黒まで、あともう少し。

二人は、より慎重に、少しずつちょっとずつちょびっとずつ、注ぎ入れる。


「ストップ!」


守弘は、矢木大介の合図に即、注ぎ込む手を止める。

矢木大介も、もちろん、ピタッと動作を止めている。


『いける』

『おし』


矢木大介は確信し、守弘は矢木大介を信じる。

オオクリアナの色は、変化を見せ始めた。


真珠黒‥真珠黒‥珈琲黒!‥珈琲グレー‥‥カフェオレグレー‥‥‥‥


色は安定して、変化を終えた。


「ー‥―‥ー!‥ー‥‥ー‥‥‥‥」

「ー‥―‥ー!‥ー‥‥ー‥‥‥‥」


二人は失敗を悟り、顔を見合わせる。

オオクリアナは、香り高そうなグレー色を日に浴びながら、鎮座ましましていた。


『うろたえず、思考停止せず、あきらめず』


守弘は、こう思うと、腐らずに凹まずに、矢木大介を元気づける。


「まだ時間あるんで、とにかく、続けてやってみましょう」

「そうですね。

諦めたら、そこで試合終了ですからね」


守弘の言葉に、半ば呆然としていた矢木大介は、瞳に光りを取り戻す。

そして、頭を高速回転している目の輝きを、示し始める。



照りつける太陽の下、二人は、たたずむ。

ペットボトルの水を喉に流し込み、オオクリアナを見つめる。

守弘は硬水、矢木大介は軟水である。

守弘は額から、矢木大介は頭頂から、汗をしたたらせている。


いよいよオミナオクリは、明日に迫っていた。

つまり、オミナトリも明日に迫っていた。

経台寺の檀家である、桧口優人は、上手く、小胡市の人々を誤魔化してくれてはいる。

が、現状のままなら、泣いても笑っても、明日にはハッキリする。

オミナオクリもオミナトリも、今後は、行なえないことが。


手詰まり、だった。

“何かを混ぜ込む”という方法に絞ったことは、正解に間違いなかった。

その方法を用いる上で、考えられることは、すべて手を打っていた。

が、成果は一向に、表われなかった。

おそらく、ジワジワと成果が表われるものではなく、ドッと一度に成果が表われるものであろうと、二人とも想定している。

しかし、こうも成果が無いと、二人の気持ちは凹みがちになる。

しかも、オミナオクリは、明日。


「今日はもう、やめませんか?」


守弘が、矢木大介に言う。

午後五時過ぎにはなっていたが、まだまだ日は高く、あと数時間は作業ができそうだった。

できそうだったが、状況は煮詰まっていた。

おそらく、気分を一新しない限り、作業はズルズル続くだけだろう。

それを薄々感じていた矢木大介は、守弘の言葉に同意する。


「そうしましょう。

明日は、朝六時くらいから、作業を開始することにして、今日は休みましょう」


守弘の胸にも、矢木大介の胸にも、焦燥と冷静が、せめぎ合っていた。


『うろたえず、思考停止せず、あきらめず』


守弘は、心の中でつぶやく。

そして、矢木大介に、口に出して言葉を掛ける。


「“明日は明日の風が吹く”です」



次の日、朝六時といわず、日が昇るやいなや、二人は作業を開始した。

オミナオクリの開始時間は、夜。

日の入りと共に開始されるので、毎年、開始時間は微妙に異なっていた。

本日の、日の入り予定時刻は、午後6寺半過ぎ。

だが、昼イチには、檀家や地域の住民が集い始め、地元のテレビ局も取材に来る。

よって、昼までには、午前中の間には、カタをつける必要があった。


守弘と矢木大介は、用意した様々な染料をオオクリアナに流し込み、試行錯誤する。

紅花、藍、鬱金、紫鉱、ヘナなどの染料が、二人の周りに広がっていた。


ああでもない、こうでもない。

これでどう?それでどう?

そんならこうや!ほんならこうや!


二人が、頭を悩まし、作業を繰り返すうちに、時刻は午前八時近くになった。

八時の鐘を鳴らすかのように、尾島神宮寺の仁王門前に、自動車が止まった。

軽バンの車体には、“和菓子の宮輿堂”と、ロゴが入っていた。

軽バンから男が一人降り、“宮輿堂”とロゴの入った木製の納品舟を二段重ねにして抱え、仁王門をくぐる。

仁王門をくぐって入って来た男は、そのまま真っ直ぐ、和尚の家屋の方へ向かう。

男の後ろからは、男の子が一人、かしこまった顔をして、男に付いて行く。


守弘は、宮輿堂のロゴを見て、悟る。


『ああ、いつも参拝者に配っている饅頭を、納品しに来はってんな』


先の竜巻で、店舗や作業場がスッチャカメッチャカになったと聞いていたが、オミナオクリの納品には間に合ったらしい。

宮輿堂は、饅頭でも、地域の人々に昔から親しまれていた。

他の饅頭とは、皮も餡もその配分も、ちょっと違って美味かった。

守弘は、宮輿堂の饅頭の中でも、粒餡の薄皮饅頭に目が無かった。


「やっぱ矢木さんも、餡子は、粒餡派ですか?」

「私は、こし餡派です」


矢木大介に即答された守弘は、頭の中で『るーるー』とサイレンが鳴り巡るように、悲しみを感じる。


家屋から、お盆を持って、和尚の奥さんが、二人の方へやって来る。


「まあ、お菓子も来たことやし、一休みして」


奥さんの持って来た盆には、ついさっき納品された饅頭(薄皮饅頭!)と、カップに入ったコーヒーが乗っていた。


「あ、いただきます!」


守弘は、奥さんからにこやかに盆を受け取ると、それを大きな平べったい石の上に置く。


「お先にいただきます!」


置くやいなや、矢木大介の返答も待たずに、薄皮饅頭にかぶりつく。

かぶりつくやいなや、守弘は、複雑な表情を浮かべる。


「美味しいんですけど‥‥粒餡じゃなくて‥‥白餡でした」


饅頭の断面を見せる守弘に、矢木大介は苦笑の笑みを向ける。

矢木大介は、頭と首筋と胸の汗をザッとぬぐう。

そして、守弘の横に座り、饅頭を取ろうとする。

饅頭を取ろうとして、矢木大介の手が止まる。

その視線は、カップに注がれている。


守弘は、カップを見つめてフリーズしている矢木大介を、不思議そうに見つめる。


『もしかして、和菓子にコーヒーという合わせ技に、憤ってる‥‥?』


矢木大介は、スイッチが入ったように、急に動き出す。

両手でカップを手に取ると、顔を上げて、守弘に微笑む。


「これです」


守弘が訳の分からない顔を浮かべているのも構わず、矢木大介は、尾島神宮寺の家屋へと駆けて行く。

数分後、息せき切って戻って来た矢木大介の両手には、インスタントコーヒーが山ほど抱えられていた。



「以前のオオクリアナの画像を見せてもらった時、荏原さんは、穴の中の色を“珈琲黒”と形容しはりました」

「はい」

「で、カップのコーヒーを見て、思い付いたんです。

『今のグレーなら、インスタントコーヒーを入れたら、珈琲黒になるんじゃないか』と」

「そうか!

珈琲にする為、コーヒーを入れる!」


早速、どんどこどこどこ、オオクリアナにインスタントコーヒーを注ぎ込む。

二人が作業をしていると、宮輿堂の息子と思しき、さっき見かけた男の子が近付いて来る。

守弘は、近付いて来た男の子に声を掛ける。


「どうしたん?」

「お父さんが、和尚さんとお話してて暇やねん。

何してんの?」


守弘は、逆に問い掛けられ、『さて、どう説明しようか?』と思う。

結局、ごちゃごちゃ言わず、シンプルに言うことに決める。


「オオクリアナの穴の中の色、いつもと違うやんか?」

「そういや、そうやなあ」

「それを元の色にしようとしてんねん」

「ああ、そうか」


男の子は、納得してくれる。

が、興味深そうな目を、二人の作業に注ぎ、その場を離れようとしない。

守弘は、合点がいったように口を開く。


「よかったら、手伝ってくれへんか?」

「うん!」


男の子は、大きく強く即答する。


守弘と矢木大介は、戦力が一人増えたので、作業を分担する。

インスタントコーヒーの用意・手配は、矢木大介。

オオクリアナにインスタントコーヒーを注ぎ入れるのは、守弘と男の子。


守弘と男の子が、今ある分のインスタントコーヒーを注ぎ入れる。

その間に、矢木大介が、新しいインスタントコーヒーを調達する。

三人が、せっせとせっせと作業を行なったお蔭で、オオクリアナの色が変わって来た。


「ストップ!」


矢木大介が、叫んだ。

すぐに、守弘と男の子は、手を止める。

矢木大介は、先日しくじった作業中止後の色変化を見越して、ストップをかけたに違い無かった。


グレー‥グレー‥茶色‥茶色‥焦げ茶‥焦げ茶‥珈琲黒!


『来た!‥‥か?』



守弘の目には、元の穴の色と変わりない色で、変化が止まったように思われた。

が、覗き見た矢木大介の顔は、厳しいままだった。

矢木大介の目には、絶対色感の目には、まだまだ元の色には、ほど遠いに違いなかった。

でも、一応、念の為、守弘は確かめてみることにする。

足元の小石を手に取って、オオクリアナに放り込む。


ポチャ‥プクン‥‥


もう一回、放り込む。


ポチャ‥プクン‥‥


二度目も、小石が沈む音しかしなかった。

小石が吸い込まれる音は、しなかった。


守弘が、オオクリアナに小石を投げ込んでいるのを見て、男の子も、守弘の真似をし出す。

オオクリアナに、小石を放り込む。


ポチャ‥プクン‥‥ポチャ‥プクン‥‥ポチャ‥‥


『‥‥ポチャ‥‥!』


オオクリアナに小石を放り込む男の子を見ていた矢木大介は、目を大きく見開く。

何を思ったのか、目を大きく見開く。

矢木大介は体を起こすと、仁王門を駆け抜け、尾島神宮寺の境内から出て行く。

守弘と男の子は、呆気に取られる。

焦ってもしょうがないので、守弘と男の子は、矢木大介が戻って来るまで、変身ごっこをして遊ぶ。


数十分後、矢木大介は、長い四角柱のものを、両手に複数本、抱え込んで帰って来る。

それらを、オオクリアナに注ぎ込むよう、二人に言う。

守弘が矢木大介から手渡されたものは、一リットルの牛乳パックだった。

男の子も、牛乳パックを手渡され、不思議そうにしている。

二人に構わず、矢木大介が牛乳をオオクリアナに注ぎ出したので、二人もあわてて注ぎ出す。


オオクリアナの穴の色が、変化し出した。

注ぐ度に、矢木大介の瞳が、みるみる輝きを増す。

その輝きから鑑みるに、『オオクリアナの色が、元の色に戻りつつあるらしい』と、守弘は考える。


「計算通りですか?」


守弘は、矢木大介に尋ねる。


「はい、計算通りです。

元の色に、戻りつつあります」


矢木大介は、静かな興奮状態の面持ちで、守弘に答える。


「何で、牛乳を入れようと思わはったんですか?」

「インスタントコーヒーを入れたことで、元の色より少し黒くなったんです。

そこで、何か白い物を入れたかったんです」

「で、牛乳を思いつかはったと?」

「はい。

『丁度ええ感じの白色やな』と」


守弘は、素朴な疑問をぶつける。


「よう『牛乳がええ』って、思い付かはりましたね?」

「守弘さんと男の子が、オオクリアナに、小石の放りっこしてはりましたよね?」

「はい」

「その時、小石が水面に落ちて、水滴が王冠のように跳ねる瞬間が、ある場面と重なったんです」

「何と、重なったんですか?」

「CMと重なったんです」

「CM?」

「コップに入った牛乳に、牛乳が一滴落ちて、ミルククラウンを作るCMです」

「ああ、それで!」


水跳ね図→王冠→クラウン→ミルククラウン→牛乳。

壮大な連想ゲーム。

連想した矢木大介も矢木大介なら、分かった守弘も守弘。

が、幸いなことに、結果的に、オオクリアナは、元の色にドンドン近づいていた。


キラリ!


何十本目かの牛乳パックを入れ終えたところで、矢木大介の瞳が光る。


『ついに来たか!』


守弘は、ストップの声がかかる前に、注ぎ入れる手を止める。

ずっと手伝ってくれている男の子の手も止め押さえる。

矢木大介は、自分の意図を理解して、声を出す前に手を止めた守弘に、感心する。


色変化は、守弘の目では分からないものの、矢木大介の目には、確実に見えているらしい。

その証拠に、矢木大介は、オオクリアナを見つめたまま、身じろぎ一つもしない。

ジージージージー

ジリジリジリジリ


ジージージリジリ

ジリジリジージー


ヒューヒューサワサワ

サワサワヒューヒュー


涼風が吹きぬけ、草木を漣のように揺らした時、矢木大介は、身じろぎする。

矢木大介は、守弘の方を向くと、ホッとしたような、『やれやれ』と疲れたような笑みを見せる。


「ヒロさん、来ました」


矢木大介の言葉が終わるのももどかしく、守弘は、足元の小石を拾う。

その小石をオオクリアナの中へ、放り込む。


ポチャ‥プクン‥‥


もう一度、放り込む。


ポチャ‥プクン‥‥


守弘は、矢木大介と目を合わせ、不安そうな顔を作る。


「もう一度、お願いします」


守弘は三たび、小石を放り込む。


ポチャ‥‥‥‥ヒュウウウウ‥‥‥‥


守弘は、小石が吸い込まれる音を聞くやいなや、『やった‥‥』という顔で、矢木大介を見つめる。

矢木大介は、安心と満足の入り混じった笑みを、大きく顔にたたえて、守弘を見つめる。

二人は、握手を交わす。

まず普通に握手して、親指と人差し指の間の股を基点に、手を九〇度クルッと回す。

すると、腕相撲をするような形になり、更にガッチリ握手を交わす。


男の子は、そんな二人をよそに、オオクリアナを見つめ続けている。

穴に落ちた小石の動きと、それから発する音が変わったのを、不思議に思っているに違いない。

男の子は、足元の小石を拾うと、自分も小石をオオクリアナに放り込む。


ポチャ‥‥‥‥ヒュウウウウ‥‥‥‥


自分が放り込んだ小石が、今までとは違う動きをし、音を発する。

男の子は、ビックリした顔をして、守弘と矢木大介の顔を見る。

二人は、『それでええんやで』という顔を並べて、男の子の顔を見返す。

男の子の顔が、ホッとした表情を浮かべる。

浮かべてまもなく、声が掛かる。


「おーい、もう帰るで」


男の子は、待ちかねたように、父親の元へ飛んで行く。

父親の元へたどり着いた男の子は、守弘と矢木大介に手を振る。

男の子の父親が、二人に頭を下げる。

男の子と父親が帰ろうと、体の向きを変えようとした時、守弘と矢木大介は阿吽の呼吸になった。

二人してWの文字になるように、変身ポーズを取る。

男の子は、目を輝かせる。

父親も目を輝かせる。

四人の影は、二人と二人の、大きな二つの影となった。

影は、真上近くになった太陽に照らされ、それぞれの足元まわりに、クッキリとたたずんでいた。



蒸し暑い外気が、経台寺に集った人々を苛む。

人々は、服の下に汗が滲むのを感じ、不快感をつのらせ、顔をしかめる。

人々の顔とは対照的に、夜空は澄み渡り、星々がポツポツキラキラと瞬いていた。


経台寺の趙元住職は、オトリアナの前で構えている。

趙元住職は、横目で、画面の大きなモニターをチラチラ見ている。

画面では、尾島神宮寺の了玄和尚が、オオクリアナに水を投入しているところだった。

水を並々と湛えた巨大な手桶から、柄杓で水をすくって、オオクリアナに投入している。

手桶は、朱に塗られており、側面に平仮名の“お”を図案化したロゴが、記されていた。


モニターの中の和尚は、句を詠み、半紙にサラサラと、それでいて力強く、その句を書きつけた。

半紙はオオクリアナに投入され、これですべてのものが、投入された。

趙元住職は、すべてのものが投入されたのを確認すると、構えを直す。


住職のすぐ近くには、檀家代表として、優人も控えていた。

優人は、守弘から、既に連絡を受けている。


〈上手くいったで〉

〈ほんまに!よかったー〉


優人は、守弘から、すでに経緯を聞かせてもらってもいる。

矢木大介、絶対色感、クリームパウダー、インスタントコーヒー、牛乳‥‥など。

が、オオクリアナ側で確認できたとはいえ、こちら側では確認はできていなかった。

〈小石が転送されたやろ〉と言われても、オトリアナ側では確認できなかった。

なんせ、オトリアナの周りには、無数の小石が広がっており、数個増えたぐらいぐらいでは、分かるはずがなかった。

オトリアナの前では、住職が構えを保持したまま、ふんばっていた。



ポツポツキラキラ


天空に、星が瞬く。


ポツポツキラキラ


闇夜にも、何かが瞬く。


闇夜に灯った光点は、水が染み込むよに増えていく。

増えながら、光点は、明るさに強弱を付け、点滅しているように震える。

光点は、ある程度増えると、波線や幾何学曲線を描きながら、動き出す。

光点は、♪ほ、ほ、ほーたる来い♪のリズムを刻みながら、目的地を目指す。

目的地は、オトリアナだった。


‥‥‥‥ヒュウウウウ‥‥‥‥


オトリアナが、微かに音を、発すし出した。

辺りの空気に、どことなく甘い香りが漂う。

オトリアナの変化を察した住職は、神経を集中して、改めて身構える。

住職の構えは、PKに臨むゴールキーパーが、相手のキックを待ち受ける体勢に見えた。


ヒュウウウウ‥‥‥‥

ヒュウウウウ‥‥‥‥

ヒュウウウウ‥‥‥‥ブバッ!


堰を切ったように、オトリアナから、勢いよく水が流れ出した。

水は、縦穴のオトリアナから、噴水のように噴き出す。

住職は、水が地面に落ちる地点に、巨大な手桶をセットする。

手桶は、朱に塗られており、側面に平仮名の“き”を図案化したロゴが、記されていた。


オトリアナから水が出終わる頃に、半紙が穴の中から飛び出した。

住職は、半紙を取り上げ、句を詠み上げる。

住職は、ちょっと不思議そうな顔を厳粛な笑顔の隅に浮かべて、句を詠み上げる。


我と君

みなもにうつる

支え合い


優人は、ひとり笑みを浮かべ、和尚の密かな労いに感謝する。


オトリアナから出た水は、まず住職が賞味し、コメントを添える。

その後、経台寺に集った人々に、息災を祈願して、振舞う。

オトリアナから水が噴出し始めるのと前後して、人々は、オトリアナの周りに集まって来ていた。

オトリアナから水が出終わった時には、オトリアナの周りは、ビッシリ人で埋まっていた。


オトリアナに集まった人々は、住職のコメントを、今や遅しと待ちかねている。

といっても、楽しみにしているわけではなかった。

住職のコメントは、いつも、「まったりとしていて、それでいてしつこくない」とか「スキッとした喉ごし」とか、当たり障りのないものだった。

よって、人々は、住職のコメント自体には、何ら期待をしていない。

住職のコメント終了が、水振る舞いのGO!合図となるので、人々は、住職のコメントを待っているに過ぎない。


住職が、オトリアナから送り出された水を、口に含む。

人々は、『おやっ?』と思う。

いつもなら、住職は、口に含むやいなや、コメントを発する。

まるで、コメント内容を、用意していたように。

が、今年は、水を口に含み、水を口の中で転がして、考え込んでいる。

住職は、数秒考えた後、口を開く。


「‥‥今年は、上品な甘さの、ミルクたっぷりカフェオレの如き、やな」


住職が、自分のオリジナルであろうセリフを、自分の口調で言う。

住職の言葉を聞くやいなや、オトリアナの周りに集っていた人々は、歓声を上げる。

みな一様に、老若男女関係無く、とびっきりの笑顔をして、「おお!」とか「やった!」とか「おし!」とか、歓声を上げる。


オトリアナの周りに集っていた人々は、お互いに保っていたたスペースを今や消して、オトリアナに殺到する。

オトリアナから距離を取り、経台寺の境内にまばらにたたずんでいた人々も、矢も盾もたまらず、殺到する。


オトリアナを中心に、数人が一単位で、ふんわりと連なっていく。

一団ずつ、一団ずつ、一団ずつ。

ひと固まりずつ、ひと固まりずつ、ひと固まりずつ。

一弁ずつ、一弁ずつ、一弁ずつ。


その様は、オトリアナを中心として、花びらが開いてゆくようだった。

ヘリコプターからの映像は、経台寺の境内いっぱいに、花が咲く様子を映し出していた。

経台寺に咲き誇る花を映していたモニターは、趙元住職の映像に切り換わった。

住職は、レポーターからの質問に、厳粛に、それでいて親しみやすく答えている。

レポーターからの質問が終わると、住職はモニター(あるいはカメラ)を見て、ウンウンとうなずく。



守弘と矢木大介は、尾島神宮寺の境内に設置されたモニターで、趙元住職の質疑応答を眺めている。

住職の“ウンウン”は、自分達に向けられているように、守弘には感じた。

おそらく、住職は優人から、経緯を密かに聞いているのだろう。

住職の“ウンウン”からは、『よくやった』の労いが、ビシビシ感じられた。

それを裏付けするかのように、住職の背後では、両手でVサインをした優人がモニターに映り込んでいた。


住職に見つからないように、WのVサインをする優人。

たぶん、喜びを表わす為、わざとカッコ悪い仕草をして、モニターにアピールする優人。

守弘は、モニターの優人を指差して、矢木大介の顔を見つめ、欧米人のように肩をすくめる。

矢木大介は、“ほころぶ”という言葉がピッタリの苦笑を浮かべる。


モニターの画面は、再び、ヘリコプターからの映像に切り換わった。

経台寺の境内は相変わらず、笑みに溢れた人々で賑わっていた。


「ヤギダイさん」

「はい」


守弘は、モニターの画面を見ながら、矢木大介に話し掛ける。


「この光景、絶対色感では、何色に見えます?」


守弘は、真剣な、それでいて親しみ深い顔をして、矢木大介に問い掛ける。

矢木大介は、“絶対色感”の部分で、一瞬ピクッと動く。

が、すぐに笑顔を取り戻し、守弘に返答する。


「薔薇色」


二人は、同時に右手を持ち上げる。

そして、高々と親指を上げ伸ばす。


守弘と矢木大介は、お互いに向かって、ナイスガイポーズをした。


{了}

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