復縁希望のくせに喧嘩売るとか正気ですの?
エウリーナ・ファナディスは伯爵令嬢である。
貴族としては可もなく不可もなく、男爵や子爵ほど平民に近しいわけでもないが、侯爵や公爵のように雲の上の存在と認識されているわけでもない。
同じ伯爵位の貴族たちの間で彼女の立ち位置を比べたとしても、大体中間点といったところであった。
ただ、そんな彼女は聖女として女神の加護を与えられていた。
それもあり、幼い頃よりエウリーナは国のために聖女として働いていたのだ。
貴族として貧しい者に対する施しを授けるような――例えば食料の配給だとか、孤児院への慰問といったボランティアだとか――そういったものの延長のような気持ちで聖女として努めてきた。
聖女として頑張れば頑張っただけ、エウリーナは女神の力を身近に感じるようになっていった。
きっと女神さまも聖女として頑張る自分の事を応援してくれているのだわ。そう、信じていた。
そして聖女として務めを果たしているエウリーナの事を、周囲も認めてくれているものだと信じて疑う事すらなかったのだ。
聖女としての力が血縁に関するものと必ずしも決まったわけではないが、それでも聖女の力を一族に取り込みたいという者はそれなりにいた。生まれてくる子に力がなくとも、何代か先の未来まではわからない。
神の恩恵を受けた者が一族にいるとなれば、もしかしたらその恩恵をこちらも受けられるようになるかもしれない――なんていう浅ましい思いがあったかはさておき、聖女であったが故にエウリーナは幼い頃に婚約者が定められてしまった。
そのお相手、ラムザ・フェル・レシュクオーサ。
この国の第一王子である。
幼い頃はそれなりに上手くいっていたと思う。
けれどもある程度成長してからは、二人が共にいる時間が中々とれなくなっていった。
王子が将来王になるため学ぶ事は山とあったし、エウリーナは聖女としての務めが常にあったからだ。
更にエウリーナは将来的にラムザの妻として、王妃となる事が決められてしまった。聖女としての仕事を終えたあとは王妃となるための教育もあって、自由な時間と呼べるものはほとんどなかったのである。
だからだろうか。
それをつまらないと感じたのか、はたまた他に何かあったかまではわからない。わからないが、ラムザは別の女と懇意になりつつあったのである。
ラムザの両親――つまりは王と王妃であるが、二人の誕生日は偶然とはいえ同じ日であった。
王妃は隣国から嫁いできたが、同じ日に生まれた事を知ったのはそれより少し先の話であった。偶然とはいえなんだかまるで運命みたいね、なんてちょっとロマンチックな事を言った王妃と、その空気に乗せられてしまった王。
結果として二人の誕生日は盛大に祝われるようになったのである。今までは王の誕生日を盛大に祝うような事など、それこそ何かの節目の時くらいだったというのに。
まぁ、夢の無い話ではあるが、個別に祝うより纏めて祝う方が手間が少ない――とは宰相の言葉だ。
ともあれ、そんな二人の誕生日を祝うパーティーにて、ラムザはやらかしたのだ。
「エウリーナ・ファナディス! 貴様との婚約を破棄するッ!!」
――と。
言い分に関しては特に斬新な理由があるでもない。
偽聖女だとか、真の聖女は今自分の隣に控えているミレーヌだとか。お前はそのミレーヌを虐げただとか。そんな女が聖女を名乗るなど言語道断だとか、まぁ大体想像がつくようなものばかりである。
その内容のどれか一つくらい何らかの捻りがあったっていいだろう、と駄目出しされそうなくらいありきたりなものだった。
そしてエウリーナからすれば、何一つとして身に覚えのないものばかりであった事も言うまでもない。
大体聖女として働いた後で王妃教育をしなければならない日々。一日のうち自由時間がトータル一時間あればいい方だ。トータルであって、実際ちょっと余裕がある時間は五分だとか三分だとか、正直トイレ休憩にいけるかどうかくらいの時間しかない。そういった小さな自由時間を纏めてみたらまぁ、一時間あるかなぁ、というものだ。
つまり、そんな短時間でわざわざ他人に嫌がらせをしに行けるはずもないのだ。
むしろそんな暇があるならゆっくり休みたい。それがエウリーナの本音である。
ラムザの発言に王妃はあり得ないと青ざめた。
王妃直々にエウリーナに教育しているのだから、そんなことをしていられる余裕があるはずがないのは重々承知である。
そして王もまたそれは把握していた。
やらかし王子がこの後両親から一体どんな雷を落とされるのか。
周囲で目撃者となってしまった多くの貴族たちは冷めた目で今後の展開を見守っていた。
エウリーナが無罪である事など、わかりきった事であったので。
けれども。
王も王妃も施政者として優秀ではあったのだけれど、いかんせん子供には甘かった。
ラムザのくだらない言い分などに耳を貸さずさっさとこのやらかしに対する処分を下せばよかったのだ。けれどもせめて言い分を聞こうとした結果、なんと王と王妃はまんまとラムザに丸め込まれたのである。
ミレーヌは侯爵令嬢であった。
なので王子と結婚するにあたり、身分の問題はない。そしてミレーヌの一族を遡れば、聖女と呼ばれた人間が一人二人といたのも問題であった。
真の聖女という言い分に多少の信憑性が出てしまったのである。
更には、ラムザはミレーヌとの出会いを今時流行りの恋愛小説か何かか、とばかりに語りだした。
出会いはなんというか、恋物語にありがちだなというようなもの。悪く言えばありがち、使い古されて目新しさの欠片もない。けれども、よく言えば王道。
そしてラムザとミレーヌの左手には、まったく同じ位置に赤い痣があったのである。
それは小指の第一関節に近い位置に、線のように走ったよく見ないとわからないものであったが、見ようによってはまるで運命の赤い糸が繋がっているかのように思えた。
そうしてきっと生まれる前から二人は結ばれる運命だったのだとか、それはもうロマンティックさたっぷりに語り上げた。
いっそラムザは王族をやめて恋愛小説家にでもなればいいのではないか? と思えるくらいに甘ったるい話だった。状況が状況じゃなければ、新しい恋の話としてこの場に居合わせた多くの令嬢も恋のトキメキに胸ときめかせて「わたくしも素敵な恋をしてみたいわ……」なんて想いを馳せたかもしれない。
だがしかし現場はエウリーナを断罪せんとばかりの状況で、胸をときめかせる余裕などあるはずがなかった。
実に王妃好みのロマンティックな恋愛話だったのだろう。エウリーナがミレーヌを虐げた事は無理だと理解していながらも、息子の恋を応援したくなった。そして、王も。
結果として二人の婚約は解消。そう、解消だ。
エウリーナに非はない。非があるのは明らかにラムザだというのに、解消してしまったのだ。
これにはその場に居合わせたエウリーナの両親も怒り心頭であった。娘に非がなくとも破棄された場合、下衆の勘繰りでさもエウリーナが傷物扱いされる可能性を考えると、解消であれば無かったことになるとはいえ、王子の非も問わないとなったも同然なのだ。
今まで誠心誠意王家に仕えてきたというのに、なんたる仕打ち! なんたる屈辱! エウリーナの父などあまりの怒りに瞳孔かっぴらいていたし、母に至ってはこれから必殺技でも放つんですか? と言いたくなる程の闘気が沸きあがっていたように思う。
結局この日のパーティーは、何とも言えない空気のまま終わりを迎えた。当然である。
一晩経って、王がやはりいくらなんでも我が子可愛さにあれはなかったかな、とちょっと後悔した矢先、宰相から報せが届いた。
ファナディス家はもう王家に仕える気もないとの事で昨夜のうちに亡命したと。
それだけではない。聖女の力に助けられた貴族たちのいくつかも昨日の王家に見切りをつけたのか、既にこの国を発っているらしい。
兵は神速を尊ぶとかいう言葉があったような気もするが、あまりにも早すぎる決断。
他の貴族たちも今まであんなに仕えていたファナディス家の扱いに不信を抱き始め、表立ってあからさまにしてはいないが、国を捨てようとしてそうな家がいくつかあった。
エウリーナたちがどこへ逃げたか、それをまず調べてそれから追いかけて戻ってきてもらうように言ったとして、果たして戻ってくるだろうか。
正直王の謝罪の言葉だけで済む話ではない。しかし、戻ってきてもらわなければ不味いというのも理解していた。
そもそも王妃教育をして、国の暗部とも言える事もいくつかエウリーナは知ってしまっている。
この国を敵国とみなしているような国へ行き、もしそれらの情報を流されでもしたら……
いやそうではない、仮にミレーヌにも聖女の力があったとして、今までのエウリーナのように聖女として務まるかもわからない。
ラムザはどうしてもミレーヌと結婚すると言うし、昨夜の醜聞からして今更他の令嬢と婚約を結ぼうとしたところで無理だろう。
我が子可愛さに目を曇らせた自覚は遅れてやってきた。
けれどももう、坂道を転がり落ちる岩の如く事態は華麗にスタートダッシュを決めてしまったのだ。
――さて、三年後。
どこかやつれた様子のラムザは、エウリーナがいるという情報を掴みとある国まで訪れていた。
早々に国から脱出したファナディス家は、隣国を越えて更にもう一つ隣の国へと逃れていた。
そこは女神信仰が一層強い国で、聖女としての力を持つエウリーナであれば確実に保護されると確信しての事だろう。両親は娘の安全を第一に考えた結果、この国に根を下ろした。
両親も他国の貴族であったはずが、今ではこの国でも貴族としてやっているらしい。通りを歩けば時折ファナディス家の名が聞こえてくる。とっくにこの国に馴染んでいるようだった。
どうにか神殿に駆け込んで、エウリーナと会いたいと頼み込み、面会するところまではこぎつける事ができた。ラムザとしてはここまで自分が頭を下げたのだから当然の結果だと思っているが、神官たちからすればとても面倒な来客扱いだったので、いざとなったら叩きだすつもりでもあった。
仮にも他国の王子とはいえ、それをやっても許されると思っているあたりラムザに対する評判はお察しだろう。察していないのは本人だけだ。
三年ぶりに出会ったエウリーナは美しく成長していた。
以前はたまに会ってもどこか疲れた様子もあったけれど、今はそんな事もなく。
ラムザは思わず目を瞠って彼女を見つめてしまっていた。
実のところ、ミレーヌとの結婚は無しになった。
身分的に問題は確かになかったけれど、聖女と王妃の二足の草鞋はミレーヌには厳しすぎたのである。
聖女としての務めを終えた後は王妃教育が待っている。当初の予定通りエウリーナとラムザが結婚するのであれば、ラムザが王位を継ぐ際に問題なくエウリーナも王妃になれていただろう。
けれどもそうではなくなってしまった。自業自得ではあるけれども、王妃は目的の期間内にとにかくミレーヌに王妃として必要な知識を詰め込んでいったのだ。
ミレーヌも侯爵令嬢として、貴族としての矜持はあった。貴族として当然の知識だって優秀な頭脳は問題なく覚える事ができていたし、今までエウリーナが出来ていた事が自分にできないはずはないと、そう思っていたのだ。
けれども、実際は無理だった。
王妃教育だけならどうにかなった。
けれども聖女としての仕事があまりにもハードだったのだ。
今まで侯爵令嬢として優雅に振舞い生活してきたミレーヌにとって、聖女としての役目は初心者がいきなり修験者としてハードな修行するの通り越して即身仏目指すくらいの無茶振りであった。
祈るだけならまだいい。けれども神殿を経由させて結界を張り巡らせ、邪悪な魔物を寄せ付けないようにするだとか、女神像に祈りを捧げ癒しの力を付与させるだとか、大地に対する信仰で実りを豊かにさせるだとか、聖女というより神の代理人のような役割は祈りに結果を付与させるもので。
祈ったとして結果がでなければならないのである。
先祖に聖女がかつていたとされているミレーヌの一族ではあるが、正直なところ聖女としての力があるか、と問われればほとんどなかった。ただ、血筋にいたので将来的にもしかしたら何かの拍子に力が目覚めるかもしれない……といったとてもかすかな希望があるばかり。
精も魂も尽き果てるとばかりに魔力を搾り取られていく聖女としての役目。それが終われば王妃教育。
自由になる時間はほとんどなかった。
トイレに行くくらいは許されたけれど、お風呂なんてのんびり入っていられる余裕もない。
今までは全身ピカピカに磨き上げていたけれど、風呂に入るよりもとにかく眠りたかった。
ミレーヌに聖女としての力はほぼない。だからこそエウリーナよりも早い時間に神殿に訪れ聖女としての役目を果たさなければならない。エウリーナと同じように開始したとしても、エウリーナと同じように終わらないのだ。
自由時間があまりにもなさすぎてラムザと会う時間すらない。
時々与えられた長めの自由時間は疲れ果てて寝て過ごしたい。
ふと見れば髪も爪もボロボロになる程にミレーヌは自らを酷使していたのだ、と気づいた時には。
彼女の心は限界を迎えていた。
王妃になれば解放される、というのであれば頑張っただろう。
けれども王妃になれば王妃教育は終わるが、今度は王妃としての仕事が舞い込んで来る。勿論聖女としても働かなければならないし、それに休みも終わりもない。
ラムザ王子には自分の方が相応しいわ、なんてお花畑思考でいたミレーヌは現実に耐え切れず、大量の睡眠薬を飲んで死にかけた。
決してミレーヌが貴族令嬢として無能だったわけではない。ただ、彼女はどちらかといえば上に立って率先して導くよりも、少し距離を取った状態でサポートに回る方が向いていただけだ。
慣れない物事に、それでもそこそこに厳しく、それなりに甘やかされて育ったミレーヌは頑張った方だった。
さて、そうなるとますます王家としては困る事となる。
聖女として使えると信じていたミレーヌは使い物にならず、国を守る結界は不安定。周辺に出るらしき魔物はそこまで強くないからまだどうにかなっているが、もしうっかり強い魔物が流れ流れてやってきたら、この国は終わる。
そこら辺を見越し始めた貴族たちが、徐々に財産を動かし始め他国へ亡命しはじめて、気付けば国の人口は大分減ってしまっていた。
間違いなく他国からはこの国そろそろ終わると思われていてもおかしくない。
ちなみに宰相もとっくに逃げている。むしろファナディス家が亡命した事を告げた三日後には消息を絶っていた。宰相に見捨てられたという事実もこの国がそろそろ危ないという噂に拍車をかけ信憑性マシマシにしていたのだ。
この状態でラムザを王位に就けるわけにもいかない。元はお前のしでかしなのだから、責任を取りなさいと王は心を鬼にしてラムザを追い出した。
せめてかわりの聖女となる相手を見つけてくるか、エウリーナを連れ戻すか。後者は難しかろうと思ったものの、このまま何もさせないままラムザを王にしてしまえばその時点で国が終わると王は確信していた。
エウリーナとの婚約が無かったことになり、折角愛しのミレーヌと結婚できると思ったのにそれも無かったことにされてしまったラムザもまた、とても今更のように己の立場の危うさを理解していた。遅すぎる。
とはいえ、気付けただけまだマシかもしれない。
どうにか他に聖女となりそうな相手を探そうと各地を移動し目ぼしい人材を探していたのだが、ふと気づいたのだ。女神信仰が強い国にいけば、聖女としての力を持つ者もそれなりにいるのではないか、と。
そして途中でエウリーナの存在を知る事になり、急遽面会をごり押したのだ。
エウリーナがいなくなってからの事を話し、ラムザは新たに婚約しないかと持ち掛けた。
過去の事はその、ごめん。悪かったよ。
そんな軽い謝罪と共に。
エウリーナがミレーヌに嫌がらせをしていたという事実もなかった。あれは単にミレーヌが仕掛けた嫌がらせだったのだと。
実際身分の問題でもしエウリーナがミレーヌにやらかしていたら、そもそもああはなってないだろうという事にも気づかなかったと宣言したも同然なのだが、ラムザは気付いていなかった。
「つまり、今あの国に聖女はいらっしゃらない、と。マトモな貴族はあの国に見切りをつけて脱出。残っているのは搾り取れるものを搾り取ってから国を捨てようとしている者たち、という事ですね。なんと見事な転落っぷりなのかしら……」
ハンカチを口元にあてて、エウリーナは嫌だわ予想通りじゃないと呟く。
わざわざラムザの口から聞かずとも、エウリーナはその事を知っていた。ついでに貴族だけじゃない。平民だってもう随分大勢が他国へ逃げ出した事も。
「頼む、助けてくれないか!? それがダメならせめて他の聖女となってくれそうな相手を紹介してくれ!」
このままじゃ国が滅んでしまう。
そう言えば、なんだかんだ優しいエウリーナは見捨てないだろうと思った。思っていた。
けれども。
「このままも何も、今更聖女がきたところで滅ぶのではありませんか? そう聞いていますけど」
「なんだって……?」
一体何を言っているのか。ラムザには理解できなかった。けれども、エウリーナは心を込めてそれを優しく教えてやろうという気にもならなかった。婚約者だった頃ならともかく、今はもう完全なる赤の他人なので。
以前のような関係は無理であっても、まだそれなりに親交を深めようと思えるのであれば話は違ったかもしれない。けれどももう、エウリーナはあの国のために聖女として働こうとは思っていないし、今いるこの国で聖女として骨を埋める覚悟である。
「大体、わたくし両親の他にこちらの国に来てから後見人となってくれている方がおりますの。その方に話も通さず勝手にそちらの国に行きます、など到底言えませんわ」
「この私が頼んでいるというのだぞ!?」
「滅亡寸前の国の王族が頼んだから何だと言うのです」
エウリーナならばきっとすぐさま向かいます! と言ってくれるに違いないと思っていた。しかし実際はそんな事などなく。
思い描いていた結果と異なったからか、ラムザは咄嗟にそう怒鳴り散らすも、エウリーナは怯える様子もなく冷静に言い返してきた。いや、それだけではない。滅亡寸前と言い放ったのだ。
確かに最近の我が国の情勢は不安定極まりない。けれども周辺の国と一触即発というものでもないのだ。聖女さえ、聖女さえ戻ってくれば国は元の形を取り戻す。滅ぶと決まったわけではないのだ。
「お前も貴族であり聖女だというのなら役目を果たそうと思わないのか!?」
「わたくしこの国の聖女で貴族ですから、勿論役目を果たしておりますわ。他の国の方に言われる筋合いはございません」
そちらこそ王族だとのたまうのであれば王としての責任を果たしなさいませ、と言えばぐっ、とラムザは一瞬押し黙った。
ラムザが何を言っても、どういう態度で接してもエウリーナの態度が変わる事はない。
そろそろ面会時間は終わりますので、と神官が声をかけてきたためこれ以上ここに居座れば間違いなく実力行使で追い出されるだろう。ラムザは他国の王族とはいえ、ここに来たのは公式な訪問ではなくあくまでも個人、お忍びと言ってもいい。正式にこの国に王族が滞在する事になった、と知らされていなければ彼がいくら自分は王家の血を引いているのだと言ったところで身分を騙る犯罪者扱いされてもおかしくはないのだ。国の上層部であれば他国の王子であろうとある程度把握はしているけれど、それ以外の民草が知るはずもない。護衛らしき者もいない状態で、挙句いくら態度が尊大で身分がありそうな雰囲気であったとしても、長旅で薄汚れた男を違う国の王族だと信じる平民が果たしてどれくらいいる事か……
「わかった、ならその後見人とやらに会わせろ! そやつを説得すれば、お前も我が国に戻ってくるのだろう!?」
もうなりふり構っていられなかった。
何が何でもエウリーナを連れていく。そういう気持ちで一杯だった。
今から他の聖女として適する者を探すより、かつて聖女として自国で働いていた女を連れ帰る方が余程手っ取り早いと思ったのだ。新しい聖女を探す時間だってそもそも残されてはいないだろう。
早く聖女を連れて戻らなければ、本当に国の危機だ。
元はと言えばそれはラムザが招いた事だというのに、ラムザは都合よくその部分を棚に上げてそう思っていた。
ラムザは思い至ってすらいない。
仮に後見人に会ってその者を説得できたとしても、エウリーナの両親が許すはずもないという事を。
事実エウリーナはその部分に関して一体どうするつもりなのかしら……と内心で呆れていた。便宜上後見人と言いはしたが、実際には異なるし、そもそもラムザがあの方相手に何を言っても説得なんてされるはずがないのだ。
とはいえ。
ここまで現実が見えていないとなると、もう何があっても自分の思う未来になるまで相当にごねるだろう。
「貴方一人で本当に説得なんてできるのかしら? 会ってもらえるように掛け合ってもいいけれど、機会は一度だけよ。その一度をもし失敗したら、貴方、ご自身の両親には何と言うつもりなのかしら?」
ふふ、と鼻で嗤うようにして嘲る。
本来ならば次期王として相応しいかも見定められているのだろう。かつての自分のやらかしを自分で何とかせよ、と。
エウリーナは何となく想像できてしまった。
国が沈みかけてその責任を次期王に丸投げしようとしているという点で、彼の父も何だかんだどうしようもないなとすら思い始める。
ラムザがやらかす前までは、それでもそれなりにマトモな王だと思っていただけに失望度合は大きかった。
エウリーナの言葉の意味を理解したラムザは、今日の所は帰らせてもらうと言い大人しく出て行った。
そうして急いで国に手紙を出したのだ。自分で戻ってまたこちらへ来るとなると相当な時間がかかる。手紙は多少金をかければ自分が国に戻るより早く目的の場へ届くだろう。
その甲斐あってか、ラムザの両親がこの国にやって来たのだ。国王と王妃、それから護衛が数名。王が不在で王妃もとなればかなり不安ではあるけれど、聖女と共に戻る事ができればその問題も解決する。
だからこそ二人は揃ってやって来たのだ。
正式な訪問ではないが、それでも情報はどこかから漏れたのだろう。ラムザたちにはこの国の衛兵たちの監視がついた。
けれども別にこの国で悪行を働こうというわけではない。あくまで話し合い。説得しエウリーナを国へ連れ帰る。それだけだった。
再び面会を果たしたラムザの目の前には、前回同様エウリーナと、その隣には不機嫌さを隠しもしない表情の女性がいた。そしてその後ろにはエウリーナの両親も控えている。ついでに、神官たちも。
随分と大仰であったが、こちらも王子だけではなく国王と王妃がいるのだ。他国の、とはいえ。だからこそそれだけの人数が集まったとしてもおかしいとは思わなかった。
不機嫌そうな女は隣に座っていたエウリーナの肩を抱き寄せ、
「こうしてわざわざ面会の機会を与えたというのに礼の言葉一つでないとは、そちらの王族は随分と礼儀作法がなってらっしゃるのね」
あからさまに馬鹿にしたように言ってのけた。
先制侮辱に、王妃は顔を真っ赤にしてなんですって!? と声を上げる。叫ぶまではいかなかったが、それでもあと少し我慢ができなければ手にしていた扇子を投げつけていたかもしれない。
「弁えなさい。何様のつもり?」
「そ、そっちが何様のつもりですか!? わたくしは、レシュクオーサ王国の王妃よ!? 王族に対してなんという無礼な振る舞いか!」
「はっ、王族がきいて呆れる。その国をみすみす滅びに向かわせている能無し風情が。今更小娘一人に縋れば万事解決すると考えているだけで頭の中身が王族としては向いていないという証左ではないか」
そこまで言うと女はちら、とラムザへ視線を向けた。
「甘やかしたぼんくらに責任を負わせてさっさと処刑でもなんでもしておけばよかったのだ。いいか、あの国に新たな聖女候補が出現すらしないのは、そこのぼんくらが生きているからに他ならない。
仮に聖女が現れてもそこの愚物と結婚させられるとなれば、聖女など最早その時点で尊いものではなく単なる業でしかないのだから。
そして私はこのエウリーナに再びかの国へ行けなどという無体な事を言うつもりはない。彼女は罪人ではないのだぞ、何故そのような酷い事を私が賛成すると思うのだ」
まさにぼろくそとしか言いようがなかった。
聖女としてあの国へ戻り、ラムザと結婚するという事がさながら何かの刑罰のような言われよう。
実際女が罪人という言葉を出した時点で、そんな仕打ちをさせるくらいならまだ更生の余地がある罪人との結婚の方がマシ、とまで暗に匂わせている。むしろ更生の余地のない大悪党との結婚と同義で語っている部分もあるかもしれない。
「な、なんですってぇ!?
その言葉、万死に値するわ!! 撤回なさい! 今なら地に額をこすりつけて許しを乞うならまだ間に合うわ」
これに、我が子可愛さから王妃がキレた。
いやお前らが今まで散々甘やかしてきたからこうなっとるやろがい、と後ろで冷静に見ていたエウリーナの父は思っていたし、母に至っては王妃がキレた事でこの先が見えたわね……と凪いだ海のような眼差しを向けていた。
かつての王家の仕打ちにブチ切れていた事もあったけれど、今後の展開が見えた事もあってエウリーナの両親はとても寛大な気持ちで一連の事態を眺めていた。
恐らくここに座り心地のいいソファーがあって、更にコーラとポップコーンがあればこれからの彼らの展開を演劇でも見るくらいの気軽さで見ていたことだろう。
「ふん、本当に礼儀を弁えない者たちよな。信仰を失くしたのであれば気付かず当然か。
ふむ、いいだろう。こうしよう。エウリーナは貴様らにはやらん。何がなんでもだ。だが代わりの聖女もお前らには勿体なさ過ぎる。
そうだな、お前らの国に結界を施そう。今まで聖女が築き上げてきたような頑丈なものを。
だが、それはお前らがあの国に足を踏み入れた時点で崩壊する。
さて、今各国の神殿に神託を下した。あの国がどうなる事か、見ものよな」
くくっ、と女が嗤う。
そうして、ここに来て王は女の正体に気付き始めた。
王妃が真っ先に喚き散らしていたから口を挟む余地はなかったが、それでもこの後王妃を宥め、それから聖女を是非とも我が国に、と交渉するつもりでいたのに。
それよりも先に既に何もかもが終わるかのような流れになってしまっている。
「まさか、貴女様は……」
「なんだ、今更気付いたのか? そこの愚かな女は未だ気付きもしないようだが。
私への無礼な発言、今更許しを乞うたところで無かったことにはせぬ。それこそ、額を地にこすりつけたところでも、な」
あぁ、許しを乞う言葉など聞く気もないからこすりつけるだけでいいぞ、なんて言っているが、その意味を理解してしまえば王は顔を青ざめさせるしかなかったのである。
「な、なにとぞ、ご慈悲を」
「では、今その女の首を刎ねるか? あぁ、やってくれるなよ。この部屋を汚すつもりはない。さて、お前らの国は今、頑丈な結界に守られている。聖女がいなくともな。
用件は済んだだろう? 国は救われるぞ。ほら、お前たち、お客人がお帰りだ」
さっさと追い出せ、とばかりに手を打ち鳴らせば、護衛に来ていた騎士たち諸共屈強な神官兵たちがささっと抱え上げ、あっという間に部屋から追い出しにかかる。
「え、あの、これは一体……エ、エウリーナ……!?」
ぐいぐいと背を押され追い出されかけているラムザは状況を飲み込み切れていなかった。
そんなラムザを見て、エウリーナははぁ、と小さくため息を零した。
「王家ってもっと最低限教養を持っていると思っていたのですが……女神様相手によくまぁ、あのような態度ができたものです……あれではたとえ聖女を連れ帰ったとしてもいずれ国は終わりを迎えるでしょうに……」
聖女は女神に目をかけてもらっているような立場だ。つまりは女神のお気に入り。
お気に入りを連れ帰っても、その肝心の女神がこいつら気に入らないわ、となればいくら頑丈な結界を聖女が張ったとしても効果は半減、その他の恩恵もほとんど失われてしまうだろうに……
「そ、その方が女神……!? そんな、わたしは何も聞いていな」
バタン。
部屋から追い出され、分厚い扉が閉まってしまえばラムザの声などあっさりと聞こえなくなった。王や王妃も恐らく何かを喚いているはずだが、この部屋には一切聞こえてこない。
「仮に女神じゃなくたって、それでも礼儀は尽くすべきでしょうに」
エウリーナのもっともすぎる発言に、女神はくつくつと笑う。
「全くだ。最初から最後までせめて殊勝な態度でいればまだしも、アレではなぁ」
この国は女神信仰が強く、だからこそ女神は堂々とこうしてこの国で好き勝手に振舞っていた。
その事実に気付いたのは、エウリーナたちがこの国に訪れて半年が過ぎてからだ。
それからエウリーナは女神の世話係としてここで働いている。表向きは聖女だが、正直な話この国には他にも聖女がいる。聖女のバーゲンセールかっていうくらいいるので、正直聖女という言葉からはすっかりありがたみも消えてしまった。
親切に教えるつもりはこれっぽっちもなかったが、多分この国を、この街を歩いていてすれ違う女性、十人中五人は聖女である。
それを知っていたら、きっと彼らもあえてエウリーナに固執せずその辺の女性を勧誘していたかもしれない。まぁ、勧誘したからとて他の聖女がついていくとは限らないが。
それ以前にだ。
両親がいるにも関わらずエウリーナの身元を預かっていると言える相手と事前に話していたのに、一体なんだと思っていたのだろう。
エウリーナの両親よりも身分が上の貴族?
そうでなくともこの国の王族が、とかそういう発想になっていたとしてもおかしくなかっただろうに。
この国と彼らの国とはそこまで深い付き合いでなかったけれど、それでも他国の王族の顔は覚えていたから、女神は王族ではないと判断して侮ったのだろうか。
それにしたって女神信仰の強い国と言われているのだ。神殿関係者の偉い人、とかそういう認識で挑むべきだった。
もしかして、女神を単なる平民か何かと混同していたのだろうか。
だから、言いくるめて聖女を連れていくのは余裕だとでも思ったのだろうか……?
いやまさかそんな、とエウリーナは思いたかったが、悲しいことに否定できる要素が見当たらなかった。
「女神様。あの国はどうなってしまうのですか?」
「ん? あぁ、仮にも故郷だった地。気になるか。
何、あの国には事前に結界を張った事と王と王妃、そしてあの馬鹿王子が国に足を踏み入れたら結界が崩壊すると伝えてある。なにぶん神ゆえにな。神託を国中全ての人間に下すなど容易い事よ。
さて、折角結界の守りが復活したのだ。国の民たちはその平和を守ろうとするであろう。
……残された民たちが、果たしてあれらを国に入れようとするだろうか。
他の国にも神託は下したからな。とっくに出ていってしまった貴族や民たちも、今頃行動に移ろうとするのではないか?
あやつらは国に入ろうとすれば民たちに阻止され、帰れない。
さて、王のいない国を、果たして誰が落とすのであろうな」
「うわぁ」
女神様流石女神様、エウリーナはぽかんと口を開けてそんな風に思ってしまった。
城を守っている騎士たちも、きっと彼らを受け入れないだろう。
何せ聖女がいなくなってしまった事で今まで散々苦労してきたのだ。結界が復活した事で魔物の脅威がなくなっただけでも、国としてはかなり安定できる。けれどもそれは王や王妃、そして王子が戻ってきた時点で幻のように儚く消えるとなれば、必死になって守るだろう。
彼らが国に足を踏み入れない限り、結界があるというのであれば。
奴らを引き入れて再び聖女を求める事を考えれば、誰を犠牲にするかなんて、わかり切った事ではないか。
「ふふ、私が恐ろしいか?」
「いえ、女神さまはとてもお優しい方ですわ」
「そうか。そうかそうか、ふふふ」
愛い奴め、なんて言いながら頭をぐりぐり撫でてくる女神に、エウリーナは同じようにうふふと笑う。
正直な話、女神に喧嘩売って生きて帰れるだけでもとてもお優しい結果だと思う。
仮に彼らがもう二度と故郷の地に足を踏み入れる事ができなくなったとしても。
「奴らが死んだ後はあの地にも再び聖女が訪れよう。そのようにしておく」
「えぇ、はい」
――さて、かの王族たちは間違いなく勘違いしている。
聖女がいるから国が守られていたのではない。女神が加護を与えているのだ。
そして女神の力を借りて行使しているのが聖女というだけの話だ。
聖女と結婚して血筋を取り込んだからとて、必ずしも聖女が生まれてくるわけではないのはつまりそういう事だった。
もしかしたら何代か後でまた、女神が力を与える者が現れるかもしれないが、可能性がゼロではないというだけで限りなくゼロに近いと思ってもいい。
それに聖女の力もずっと続くわけではない。
自分が聖女であると思い上がり、その力を正しくない方向に使えば女神はたちまち加護を消す。そうなれば聖女としての力を失う。
女神信仰の強いこの国では、既にそれは常識となっていた。
他国にその情報が伝わっていないのは、単に不都合から目を逸らしているだけか、そこまで信仰していないかだ。
この国は直接女神と会える者もいるので、女神から直接の情報となれば信じる他ない。
ラムザやその両親たちは、恐らく処刑はされない。
聖女の代わりに女神が結界を施してくれたのだから簡単に失わせるつもりはないだろうけれど、国王夫妻とその息子が死んだ時点で解除される可能性を考えれば、気軽に殺すわけにもいかないだろう。
確かに聖女を国から失わせたという点で罪はある。けれども、結界が存続している以上処刑するまでの罪ともいかない。
だが、あの国に彼らが近づいた時点で帰還させるなとばかりに民たちは襲い掛かるだろう。
ただの平民がそれこそ雲の上にも等しいと思える王の顔を理解しているとは思えないが、女神なら神託ついでに彼らの顔を教えておくくらい余裕だろう。
それでも、すぐさま死んだ方がマシだと思えるような目に遭わせなかっただけ女神は優しい。
そんな風に思いながらも、エウリーナは彼ら、いつ死ぬかしらなんて考えていた。
ちなみに。
かの国はかつて宰相だった者たち一族によって治められる事になったらしい。
国を見限り出ていた貴族のうちいくつかも戻ってきたらしいとも聞いた。
国王夫妻と王子以外にも王家の血に連なる者たちはいたけれど、そちらが処刑されたという話は聞いていないので貴族として臣籍に下ったか身分を捨て平民となったかしたのだろう。
元凶とも言えるラムザたちは、一体今どこで何をしているのだろうか。
遠い地の果てで、今でも自分たちは王族なのだと言っているのだろうか。
彼らの知る国はとっくに別の国になったというのに。
女神に聞けば教えてくれるだろうけれど、もうエウリーナにとっても終わった話だ。
そんな事よりも女神にナッツとチョコレートの入ったマドレーヌが食べたいと言われてしまったので、エウリーナにとってはまずそちらを作る事の方が余程重要であった。それらを片付けて、それでもまだ気になるようなら聞けばいい。
そう思っていたけれど、マドレーヌが焼きあがる頃にはそんな事すっかり忘れてしまっていたのである。
真のタイトル
「聖女として」復縁希望のくせに「その加護を与えている女神様に」喧嘩売るとか正気ですの?