19.名前を呼んだ?
「座って少し休もうか」
「……はい」
シートのところまで戻ると、ライナー様は再び座りやすいように手を差し出してくれた。その手の優しさに、私の心があたたかくなる。
王子に婚約破棄され、迷いの森に追放された私に、どうしてライナー様はここまで紳士的に接してくれるのかしら。
私のことを、今でも聖女だと思っているから……?
けれど、私も少しでもライナー様の力になりたい。
「ライナー様、手を」
「?」
だから怪我をしている彼の手にそっと触れて、目を閉じ、祈る。
〝この傷を癒やして――〟
数秒後に手を離すと、ライナー様の手のひらにはもう傷跡はなかった。淡い光が消えた後、彼の手はまるで何もなかったかのように完璧に癒えていた。
「……これが、治癒魔法」
「はい。ですが、傷は消えても先ほど痛い思いをさせてしまったのは事実です。本当に申し訳ありませんでした」
私のせいで怪我をさせてしまったのだから、私が治すのは当然のこと。
「私には特別な力があります。もしお困りのことがあったら、なんでも言ってください……!」
だからもっと、ライナー様の力になれたら――。
そう思って彼を見上げたら、今度はライナー様が私の手を取り、きゅっと握った。
「ありがとう……あなたに深く感謝する」
「そんな、感謝しているのは私のほうです……」
ライナー様もまっすぐ私を見つめていた。その口元はとても優しく緩んでいる。
いつも堅い表情を浮べているライナー様が、今は笑みを浮べて私を見つめている……。
途端、胸の奥がぎゅっと掴まれたような感覚になった。
胸の奥が熱くなって、ドキドキする……。
それから二人で流れる川や静かに咲いているお花を眺めながら、シシーが作ってくれたサンドイッチと紅茶をいただいた。
紅茶はいつもより、甘く感じた。
*
その日の夜――。
目を閉じるとライナー様の笑顔を思い出してしまってなかなか寝つけなかった私は、お手洗いに行こうと部屋を出た。
すると隣のライナー様のお部屋から明かりが漏れているのが見えて、足を止める。
「ライナー様……?」
扉が少し開いている。もう真夜中なのに、まだ起きているのかしら……?
もし起きているのなら、何か夜食か飲み物でも持って行こうかと思い、声をかけてみる。
けれど、返事はない。
「……」
開いている扉の隙間からそっと中を覗いてみると、ソファの上で横になっているライナー様の姿が見えた。
「……ソファで寝てしまったのね」
勝手に部屋に入るのは躊躇われる。けれどあのまま朝まで寝てしまったら、風邪を引いてしまうかもしれない。
そう思い心配になった私は、彼の部屋に足を踏み入れた。
ベッドから毛布を持ち、彼の上にそっとかける。ライナー様の眠る姿を見て、疲れの色が一層深まっていることに気づく。
きっと監視役以外にも、彼は何か仕事をしているのだろう。報告書や日誌を作成しているのかもしれない。
「……」
それにしても、ライナー様は本当に美しい。
目を閉じているのをいいことに、その寝顔をじっと観察してしまった。
サラサラで艶のある金色の前髪の下に、凜々しい眉と彫りの深い目鼻立ち。肌も滑らかで、唇の形も整っている。その姿はまるで彫刻のようだった。
「ん……」
「!」
じっとライナー様のお顔を覗いていたら、小さく唸った彼が目を開けてしまった。
その美しいお顔をもっとよく見ようと、いつの間にか自分の顔を近くまで寄せていたということに、ライナー様と目が合って初めて気づいた。
「あ……、その……っ!」
慌てて後退ろうとする私と、ライナー様の視線が交錯する。
「……ソアラ――?」
え――?
うっすら開かれたライナー様の瞳が私を捕らえたと思ったら、呟くように名前を呼ばれた。
「ああ……俺は寝てしまっていたのか」
「えっと、……そうみたいですね。きっとお疲れなんだと思います!」
「……毛布をかけてくれたのか」
ライナー様が毛布を見つめながら、身体を起こす。私は早口で説明しようとした。
「はい……、勝手に入ってすみません……! お部屋の扉が少し開いていて、中から明かりが漏れていたので……。こちらでそのままお休みになって風邪を引いては大変だと……!」
胸がドキドキして、言葉がうまく出てこない。
ライナー様、今私のこと「ソアラ」って、名前で呼んだよね……?
名前で呼ばれるのは、初めてだわ。
「……そうだったのか。すまない、ベッドで寝るよ」
一気にしゃべった私に「ありがとう」と言って立ち上がるライナー様から、一歩距離を取る。
「はい……、そうしてください」
「あなたも、早く休んで」
「はい……」
けれど、もういつも通り私を〝あなた〟と呼ぶライナー様に、胸の辺りがもやもやした。