ピット・クルー
青い空に、緑の木々が被さる。来栖久実は、自転車を止めて見ていた。真上を見上げていたら、縮流と化したそよ風が吹き通る。その通る先を目で追いかけ、キャップのつばを右手で掴む。つばを上げると上空への視界が少し開けて、以前の職場が見えた。粒子リフターによって空中に浮く、エア・レースのピットだ。
彼女は、そこで1年前までエア・レースのピット・クルーをしていた。たった4年間のエンジニアだった。エア・レースとは関係のない、一般車両同士の事故に巻き込まれ、左手がいう事をあまりきかなくなってしまった。それは、物がつかめる程度だった。
彼女は、退院後、少ししてからアルバイトを始めた。それが今の職。午前中は、コインランドリーの清掃。そして、その後はセルフのガソリンスタンド(電気・水素のみ)だ。
実は、ちょうどここが、彼女の自転車通勤の道。コインランドリーからガソリンスタンドへ移動する通り道にあたるのだった。高台から降りて来る坂道で、視界が開けている。彼女は、ここから過去を見ていた。時間ぎりぎりまで。
「おーい!!」
来栖の後ろから聞きなれた声がしてきた。彼女は、振り返る。
「どうしたんだよ」
来栖はそう聞く。
「あぁ、今は昼休み」
「ふぅーん」
彼は、日々戸尋。高校からの幼なじみだ。そして、元同僚にあたる。彼も、同じチームのピット・クルーだった。
「今日は、休みじゃないのか?」
日々戸はそう尋ねる。
「違う」
来栖は一言、そう答える。
「そうか」
日々戸は少し、気まずかった。しかし、続ける。
「俺の大学時代の友人がさ、エア・レーサーをしているんだけど、そいつが今日、会場の下見に来るんだ」
「それで?」
来栖は首を傾げる。
「一緒に来ないか?」
「え? 私は……」
来栖は言いかける。
「あ……っと、そいつは、今日、プライベートだと言ってるし」
「他の同僚がいるだろう」
来栖は冷静に言う。
「別に、元同僚に会うだけだろ?」
「何で、その世界に連れ込もうとするんだよ」
来栖は顔をそむけた。
「あぁ、それは……。後で話すから、来てくれ」
日々戸は苦笑する。
「へぇ、絶対か?」
「まぁ、出来れば」
「店長に聞いてみる」
来栖は携帯端末を取り出し、直接、店長へ電話する。
「ありがとうございます」
来栖は電話を切った。
「!」
日々戸はその語尾から連想し、表情を明るくした。
「大丈夫らしいよ」
来栖は携帯端末をデニムの左側のポケットへ入れる。
「ありがとう。行くぞ」
日々戸は先に自転車で坂を下って行った。来栖もその後をついていった。
エア・ピットが次第に真上方向へと移動して、視界から見えなくなっていく。リフターの下には、平然と国道が通っている。粒子リフターの空中への浮遊は、粒子の反作用によるものであって、プロペラ翼による風圧もエンジンによる爆音もない。ただ風が通り過ぎる音が聞こえるだけである。
駐輪場に自転車を止め、エア・ピットへと続くエレベーターに搭乗する。エレベーターも粒子リフターを応用している。音もなく上昇して行った。
透明なガラス張りの扉が開いた。そこは、最後の続きが広がっていた。
「来栖か!? どうした?」
元同僚の市原が彼女の姿を見て、少し驚き気味で尋ねてきた。
「日々戸に来ないかと、言われて」
来栖はそう答えた。
「あぁ、あの件のことか……」
「?」
来栖は首を傾げる。
「今月から、また新しくピット・クルーのスタッフを募集し始めたらしいから、彼は、それを伝えたかったんだろう。しかも、私たちから」
来栖は日々戸の方へ振り返る。
「俺が言っても、聞かないだろ」
「まぁ、それはそうだが」
来栖は皆の方へ向き直す。
「私一人の説得でいいのかな?」
市原は後ろを振り向く。
「おーい、みんな!」
市原は後方にいたピット・クルーの仲間たちに声をかける。皆は彼の声に振り返る。
「あれ!?」
「あ」
「久しぶり。どうしてた?」
それぞれ、彼女に気付き、こちらへ歩いて来た。すると、その中に見知らぬ人物を見つけた。
日々戸が紹介し始めた。
「さっき、坂道で話した、エア・レーサーの氷室零だ」
「初めまして」
彼は右手を出して、来栖に握手を求めた。
「こちらこそ」
彼女は握手をした。
「今回の大会で隣のこいつにあなたの事を聞きまして。スタッフとして復帰して欲しい」
彼、氷室はそう願い出る。
「え?」
来栖は少し戸惑った。
「彼は、本部がスタッフ募集を開始してから、いつもあなたの話しかしていなくて」
来栖は再び、日々戸の方を向く。
「あの、だって、俺の話は聞かないだろ」
日々戸は慌てる。来栖は再び、向き直る。そして、氷室へ謝る。
「すみません、こいつが」
「ちょ、俺悪いのかよ」
日々戸は戸惑う。
「それでは、私はこれで」
来栖は会釈する。
「え!? 帰るの!?」
日々戸は驚く。
「もう少し、時間を下さい」
「?」
来栖はそう言う。それに日々戸は首を傾げた。
「今も、リハビリしてるから」
彼女は少し微笑んだ。
「!」
その告白に日々戸は表情を明るくする。
「日々戸、ありがとう。隠してて、すまなかったな。復帰の件」
来栖はエレベーターに乗り込む。
「あ、待て。送ってく」
日々戸も慌ててエレベーターに乗り込んだ。
帰りの坂道は、大変だ。
日々戸は自転車を押す。来栖もゆっくりと歩いている。
「悪かった。今日……」
日々戸が謝る。
「別に。みんなに会えたし」
来栖は木漏れ日を見上げている。
「いつまで、待てばいい?」
日々戸は聞く。
「何だよ、それ」
「今までとは違って、これからは待つという期待が増えた」
彼は後方のピットを見つめて言う。
「ふぅーん。そうか。急いだ方がいいのかな」
「あぁ、急げ」
来栖は日々戸の命令形の言葉に笑った。
「目標は、来年の夏だ」