第6話『ニオイ』
人の心を操れる〈天使の矢〉。
なんて恐ろしい力だろう。一歩間違えれば簡単に悪用出来てしまうものだ。
徐々に光を失っていく右腕の天輪。自分の腕を見下ろしながら、ミークに問いかける。
「この矢は……ミークの力?」
『ああそうだ。オマエ、俺様と手を握っただろ?』
「ええ」
『あの時に仮契約が結ばれたんだよ。俺様の力の一部がお前に譲渡された』
「仮契約?」
『右腕の天輪が見えるだろ? それが天使と契約した証なんだよ。ま、オマエはまだ仮契約だけどな』
「貴方の許可なく天使の力は使えないってとこかしら?」
『そーいうこった』
「そう……」
仮契約。つまり、私はまだミークの信頼を勝ち取ってはいないということ。
この〈天使の矢〉も私の意志では出し入れができない。惜しい力だと思うけれど、大きすぎる力は身を滅ぼしかねないものね。
悔やんでも仕方がない。仮契約なら、彼の信頼を得るまで悪魔を祓えばいいだけの話。やるしかないわね。
『おいクロエ』
耳元でミークが囁く。私は我に返ったように顔を上げた。訝しげな瞳のミークと目が合う。
「な、何よ」
『ぼーっとしてんなよ。ほら、もうこっちまで来てるぞ』
「来てるぞって――」
顔に影がかかる。見上げると、長身の男子生徒がこちらを見下ろしていた。
身長は180センチ近くはありそうだ。ネクタイの色は緑。上級生のようだ。確か2年生の色だったと記憶している。
黒い髪に鼻筋の整った顔。表情は読めないのに、瞳はやたら熱っぽかった。
……ああ、彼はそうだ。思い出す。
私が〈天使の矢〉を刺したひと。そして――マンション前で出会った真っ黒な瞳の青年だった。
けれど、今の彼は私に気付いた様子はない。〈天使の矢〉で思考力を奪われているのだろう。
人の心を掌握出来るというけれど、どの程度なのかしら?
「貴方は?」
「八千草天也だ」
「ヤチクサ先輩、お願いがあるのだけれど」
「君のためなら、なんでも」
「……す、すごいわね」
これが天使の力らしい。いわゆる恋愛や信仰に近いものかしら。どのレベルの命令まで効くのか試したいところね。まあ、効果時間も読めないからまだ実行は出来ないけれど。
『はっはっは。おもしれーなあ、やっぱニンゲンってヤツは!』
「ちょっとミーク、笑い過ぎよ」
ミークが私の肩の上で笑い転げている。いつもは他人が私と接触すると姿を消しているのに、珍しいわ。もしかして、このヤチクサ先輩と何か関係があるのかしら。
そんなミークには目もくれず、ヤチクサ先輩はじっと私を見つめ続けている。
「お願いはなんだ?」
彼に尋ねられ、私は僅かに考えた。周囲に目を配る。ここから少し離れた昇降口では、まだ購買に向かう生徒でごった返していた。
「私、購買のパンが食べてみたいの。買ってきて貰えるかしら?」
「分かった」
「ちょ、ちょっと待って!」
すぐに踵を返そうとするヤチクサ先輩を慌てて止める。私の声に彼はすぐに振り返ってくれた。これは命令一つ間違えられないわね。実行力が凄まじいわ。
「お金は私の財布を使って頂戴。人気のパンを一つ買ってきてくれるだけでいいわ」
「分かった」
私の財布を受け取ると、彼はすぐさま人の波に消えていった。
残された私は昇降口を見つめながら、静かに言葉を零す。
「ねえミーク」
『あんだよ』
「貴方、ヤチクサ先輩と知り合いじゃないの?」
『なんでそう思う?』
「だって彼の前では姿を見せてるじゃない」
『〈天使の矢〉に射抜かれた人間は、刺した相手しか見えなくなる。だから俺がいても気付かれないし、違和感はねーだろ』
「……」
一応、筋としては通っている。けれど、何だか納得いかなかった。
心の奥に浮かんだ疑念は少しずつだが大きくなっていく。
私たちの関係は、利害の一致で成り立っている。互いが互いを信頼していない。だから疑念が増えていく。だから力を与えてもらえない。これは正当な契約と言えるのかしら。
一体、ミークは何を隠しているの?
「あれ、沢渡さんどうしたの?」
顔を上げると、ヒメジくんが不思議そうな顔でこちらを見つめていた。手には牛乳パックとパンを持っていた。どうやら彼も購買を利用していたらしい。
「購買でパンを買おうと思ったんだけれど、人が多くて買えなくて」
「あはは、この人の多さじゃ慣れてないとキツいよね」
「ええ。周りの熱気が凄くて、弾き飛ばされたわ」
「は、弾き飛ばされたの? 沢渡さんが? ……やばい、めっちゃ面白い」
ヒメジくんが笑いこらえるように口元を抑える。よく分からないけれど、笑えるポイントがあったのかしら?
「ちょっと笑い過ぎよ」
「ごめんごめん、ちょっと想像したら面白くてつい。……よかったらパン、僕が買ってこようか?」
「大丈夫よ、今、知り合いにお願いをしてるところだから」
「そう?」
そんな会話をしていると、ヤチクサ先輩が戻ってきた。……手ぶらで。
何故かヒメジくんがはっと息を呑むように先輩を見ていた。
ヤチクサ先輩はどこかしょんぼりしながら、私の財布を差し出した。
「どうしたの? 売り切れたの?」
「……すまない。金が払えなかった」
「え? お金は入っていたでしょう?」
「現金しかダメと言われた」
衝撃が走る。そんな馬鹿な。コンビニではカードが使えたのに。学校は現金のみの決済とは知らなかったわ。
ヤチクサ先輩から財布を受け取りながら、中身を確認する。金色と黒のクレジットカード2枚だけ。それしか入っていない小さな白地の財布だ。現金という文化は私にとって未知の領域であった。
「現金なんて持ってないわ……諦めるしかないわね」
「すまない。コンビニに行こうか?」
「もう今日はいいわ。ハバキリさんが戻ってきたら、引き揚げましょう」
「分かった」
「ヒメジくんはどうするの?」
振り返りながらそう尋ねると、彼は私を見ずにじっと手元の財布を見つめていた。その瞳はどこか虚ろだ。少し様子がおかしい。
「ヒメジくん?」
「沢渡さんって……お金持ちなんだねェ」
静かな声だ。なのにどこかねっとりとした声色に聞こえるのは何故だろうか。ヒメジくんの周囲に異質な空気が漂う。少し怖い。
「お金持ちだなんて、大げさだわ。たまたま現金を持ってなかっただけだもの」
「そっかァ、たまたまかァ。25万のヴィトンの財布を持っていたのもたまたまかァ」
ぞくりと寒気がする。それは私が持つこの小さな財布のブランドだ。金額まで当てられている。怖い。何なのだろう、この男は。
ヒメジくんが両手に持っていたパンと牛乳が落ちる。徐々に彼が近づいてくる。笑っているのに、笑っていない。思わず後ずさる。
「彼女に近づくな」
ヤチクサ先輩が立ちふさがる。ヒメジくんの異様な雰囲気に何かを察知したのだろう。私との間に割って入ってくれた。まだ〈天使の矢〉の力が効いているらしい。
ほっとしたのも束の間――ヤチクサ先輩の腕を縫って、ぬるりとヒメジくんが私の髪に触れた。
咄嗟のことに体が動かなくなる。
ヒメジくんは私の金髪のひと房を愛でるように撫でた。
「綺麗な髪だなァ……肌のキメも細かいなァ……いいところに住んでたんだろうなァ」
何を言っているんだろう。ヒメジくんの言葉一つ一つに理解が追い付かない。
「彼女の髪に触れるな」
ヤチクサ先輩がヒメジくんを突き飛ばす。よろめいた拍子に、彼は足元に落ちていたパンを踏み潰していた。思わずヒメジくんを見るが、彼は全く意に介さず笑っているだけ。
そこでようやく気が付いた。異質な雰囲気に呑まれ、彼の表情をきちんと見ていなかった。
「ヒメジくん、その目――」
その瞳は――血のように真っ赤だった。
舌なめずりをする姿は、まるで格好の獲物を見つけた野獣のよう。
「やっぱり沢渡さんは――金の匂いがするなァ?」
――姫路茂上。
彼のその姿は、まさしく悪魔のようだった。
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