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沢渡クロエと7人のクズ  作者: 天野弱
序章【彼女はまだ何も知らない】
3/10

第2話『聖クリッズ学園のウワサ』

 井上さんに案内されるまま、エレベーターで17階に辿り着く。

 玄関の扉を開けると、恐らく3LDKはありそうな広々した空間が飛び込んできた。ミルキーブラウンのフローリング。真っ白な壁。生活用品や家具家電もしっかり揃っている。


「クロエちゃんの実家よりは狭いかもしれないけど……どうかな。セキュリティの面や立地、防音性とか諸々考慮したつもりだけど」


 井上さんは各部屋を確認する私の後ろを付いてくる。その表情はどこか不安そうだ。私が気に入らないとでも思っているのかしら。

 私は小さく息を吐きながら、優しく微笑んだ。


「ありがとうございます、とても気に入りました。井上さんがいなければ……私はこうして日本には来れませんでした」


 過保護なマルシェは、私が傷つくのを恐れてあまり世間一般と触れ合わせてくれなかった。燻る炎が燃え上がる一方で、私はどうすればいいかも分からなかったのだ。

 そこから連れ出して、光を与えてくれた井上さんには本当に返しきれない恩がある。

 けれど、井上さんは歯切れが悪そうに俯いた。


「……いや、いいんだ。これは……俺の罪滅ぼしでもあるんだから」

「井上さん……」


 井上さんはまっすぐな瞳で私を見た。昔と変わらないと言ったけれど、その目元には年齢を感じさせるシワが寄り、ハツラツとしていた体は力なく縮こまっているように見えた。


「……ごめん、なんか湿っぽくなっちゃったね。ただ俺は、ここで君に幸せになって欲しいだけなんだ。――ミネルヴァさんの分まで」

「……」


 どうして、そこまで母のことを、私のことを考えてくれるのだろう。

 井上さんは恩人とはいえ、決して交わらない他人だ。彼をそこまで突き動かすのは一体――。

 私の不思議そうな瞳を受け、井上さんは自嘲気味に笑った。自分でもおかしいと思っているのだろうか。


「何でって顔だね。俺の個人的なものもあるけど、やっぱり一番は――大女優ミネルヴァ・マリーベールの演技に惚れたから、かな」


 井上さんは照れたように頬を掻いた。


 ――ミネルヴァ・マリーベール。


 スウェーデンの小さな劇場から始まった母は、他者を飲み込まんとする正確無比の演技で20代後半にはハリウッドまでのし上がった大女優だった。

 彼女が出演する映画は軒並み興行収入を何百億と叩き起こし、スキャンダルも一切無い真摯に演技に向き合う姿は誰もが彼女を称賛し魅了された。

 ……しかし。その栄光は、彼女の死によって失われてしまったのだ。


 ――ある男(・・)と出会ってしまったがために。


「……」

「俺はミネルヴァさんのためなら、プロダクションの社長として、井上総一郎(いのうえそういちろう)個人として、いつだって君に力を貸すよ」


 井上さんの真っ直ぐな言葉が胸に痛かった。

 彼は本当に優しくて、疑う余地のないくらい良い人なのだ。

 母がほんの数年日本で芸能活動をしていた時、所属していた『レイズプロダクション』。井上さんは当時、そこで母のマネージャーとして働いていたのだ。

 大女優である彼女を日本で導く存在として、井上さんは精力的に動いていたという。娘の私にも優しかったのを今でも覚えている。

 ……ミネルヴァ・マリーベールが死んだ今でも。こうして、娘の私を気にかけてくれている。


 その気持ちが嬉しくて――何より苦しかった。


「……ありがとうございます、井上さん。私、ここで頑張ってみます」

 

 ……今、私は上手く笑えているかしら。


 安心したように息を吐く井上さんを見つめながら、私は胸元をぎゅっと押さえつけた。



 ◆


 

 どうやら私の体は思っていたよりも疲れていたらしい。長旅をしてきたのだから、当然と言えば当然だけれど。

 心配する井上さんを帰しシャワーを浴びてベッドに横たわった途端、意識を手放してしまった。


「……」


 窓から漏れる暖かい朝日で目が覚めた。

 私が持ち込んだのはスーツケースに入るだけの衣服と化粧品。既に部屋にあるベッドや家電製品。よく分からなかった私にマルシェが選び、井上さんが手配してくれたものだ。

 『お嬢様に扱えるとは思えませんがね!』という憎らしい言葉が頭をよぎった。


「見てなさいよ……私でもちゃんと生活できるところを!」


 飛び起きる。今日は学園内を慣れるために散策をしよう。

 もっと日本人と触れ合って日本語も覚えたい。

 そして――……


「……いいえ、今はまだダメね」


 頭を振ってベッドから起きて立ち上がる。

 ……まずは、どうやって朝食を作るのかが先決だ。

 食材はマルシェが事前に送ってくれている。料理道具もある。あとは……あとは……。


「パンってどうやって焼くのかしら……?」


 たった一人きりの3LDKの家。私の情けない呟きが響き渡った。



 ◆



 マンションの近くにはコンビニがあった。利用するのは初めてだったけれど、出来合いのパンがすぐ食べられるなんて、感動してしまう。


「まだまだ勉強不足ね……日本はすごいわ」


 マンションの近くには小さな公園もあった。行儀が悪いけれど、ベンチに座って食べることにした。朝食作りで無駄に時間を消費してしまったし、もうお腹が空いて倒れてしまいそうだ。

 あたたかな陽気のなか食べるサンドウィッチは美味しい。ちまちま食べていると、通行人が通りすがりにこちらを見ていた。

 やっぱり外で食べるのはお行儀が悪かったかしら。で、でも、歩きながら食べている人も見かけたもの……。

 小さくため息を吐きながら、サンドウィッチを口に含む。


「――あ! 美人さん発見!」

「んむ!?」


 突然、背後から声がかかった。女の子の声だ。

 う、喉に詰まりそう。慌てて一緒に買ったレモンティーを流し込む。


「ご、ごめんね大丈夫!?」

「おサエ、タイミング悪すぎー」

「大丈夫か?」


 聞きなれない三者三葉の声。彼女たちは私のもとへとやってきた。

 むせる私の背を、おサエと呼ばれた彼女がさすってくれた。


「ごめんね! あたしのタイミングが悪かった! 美人さんを見るとつい興奮しちゃって!」

「ビ、ビジンさん……」面白い日本語だ。覚えておこう。


 少し落ち着いて顔を上げると、同年代と思しき男と女の子がこちらを見つめていた。心配そうな顔だ。


「だいじょぶー?」可愛らしい声だ。まん丸の瞳がつぶらで妙に気圧される。

「え、ええ、平気よ」

「そ」


 彼女はすぐに興味を失ったみたいにそっぽを向いた。なんだか猫のようだ。


「おいマオ、人見知り発動してんぞ」

「してないもーん。キャミもそわそわしてるじゃーん。美人に弱いんだから―」

「ば、俺はちげぇよ! 単に心配してるだけだよ!」

「もー! 二人ともこんな時まで言い合いやめてよー!」


 ……何だか仲のいい三人だ。少し羨ましい。

 スウェーデン(むこう)では友達と呼べる友達はいなかったし、家でもマルシェくらいしか話し相手がいなかった。彼らを見るのが何だかまぶしい。

 じっと彼らを見つめていると、おサエは慌てたように近づいてきた。


「ごめんね、びっくりしたよね。あたしは羽々霧紗子(はばきりさえこ)

 

 日本人らしい長い黒髪とまつ毛。人のよさそうな笑み。一目で面倒見がいいのだろうと認識する。

 おサエこと、ハバキリさんは猫目の彼女に視線を移した。


「こっちが兎澤麻織(うざわまおり)。あたしたちはマオって呼んでる。ネコっぽいでしょ?」

「マオ……」


 たしか中国語で『猫』という意味だ。ニックネームは分かりやすい。マオは薄い栗毛が肩で飛び跳ねていた。ちょっと眠そうな丸い瞳。核心を突いてきそうな妙な迫力があった。


「いきなりマオって呼ばないでほしいんだけど。仲いーヒトしか呼んじゃだめなの」

「ご、ごめんなさい」

「おいマオ、そんな言い方ないだろ。……悪いな、びっくりしたろ」


 近寄ってきたのは唯一の男。これまた人のよさそうな微笑みだ。けれどハバキリさんより苦労性の顔をしている。思いのほか溜め込むタイプかもしれない。こういうタイプは爆発した時が一番恐ろしい。


「いえ、気にしてないわ。……貴方、苦労人なのね」

「え? ははは、どうだろ。もう慣れたけどな。主にマオの世話に」

「心外なんですけどー」

「もうっ、マオも突っかからないの! ……えっと、こっちの男が木闇照彦きやみてるひこ。あたし達、幼馴染なの」


 ハバキリさんがにこりと微笑む。この三人の独特な空気は幼馴染ゆえか。妙に納得してしまう。

 私は静かに頷いて立ち上がった。


「沢渡・マリーベール・クロエよ」

「へえー、名前も美人さんなんだねー!」

「名前が美人って意味わかんないー」

「サエの美人センサーは分からん……」

「なんでよー!!」


 ハバキリさんはお詫びと言ってミルクティーを買ってくれた。自動販売機とやらですぐ飲み物が買えることに密かに感動した。


「へえ、沢渡さんってスウェーデンと日本のハーフかあ。ずっと向こうで生活してたのに、日本語上手いんだな」

「ありがとう。まだ勉強中だけれど」

「なんでわざわざうちに編入してきたの? 結構試験大変って聞いたことあるよ」

「それは……」


 少し口ごもる。まさか出会って数十分の相手に話す内容ではない。

 咄嗟の言い訳ができるほどの日本語が出てこない。答えあぐねていると、ウザワさんが静かに口を開いた。


「うちのカリキュラムが面白そうとかでしょー。あとご飯が美味しいしー」


 はっとウザワさんと目が合う。私は小さく息を吐いた。


「……そう、カリキュラムがたくさんあるから、勉強のしがいがありそうと思って」

「ひゃー、沢渡さんは勉強家なんだね!」


 その瞳は何も変わらない。ウザワさんは私の視線に気付いてそっぽを向いた。


「あ、じゃあ、うちの学園のウワサも知ってる?」

「ウワサ?」

「『聖クリッズ学園には大罪の悪魔を7つ飼っている』ってヤツだな」

「あ、悪魔? ……まるで映画の世界の話だわ」


 急にファンタジックじみた話だ。日本の学園にはこんな話が多いのだろうか。

 戸惑いを隠せない私に、ハバキリさんはにまにまと楽しそうに笑った。


「沢渡さんは、大罪の悪魔って知ってる?」

「え、ええ。何となくだけれど……」


 元はエジプトが起源だと聞いたことがあるキリスト教の7つの罪源。

 傲慢・嫉妬・憤怒・怠惰・強欲・暴食・色欲。

 これが聖クリッズ学園と何の関係があるのだろう。


「まあ単なるウワサなんだけどね。毎年、それっぽい規格外の生徒が現れるの」

「去年は妙に偉そうな生徒会長とかー、すごい女好きの先輩もいるしー」

「こ、こじつけじゃないのかしら?」

「まあ最初は私もそう思ったんだけどね」


 ハバキリさんの話では、実際に目の当たりにするとそれがよく分かるらしい。

 妙な迫力や威圧感。そして悪魔に魅入られた生徒に共通しているのが――。


「赤い目! これが悪魔を飼ってる人の特徴なの!」


 鼻息の荒い彼女に気圧される。まるでファンのようだ。


「ハバキリさんは見たことがあるの? 悪魔のヒト」

「うっ、それは……まだだけど……でも! ちょっとワクワクしない!? マンガの世界っぽくて!」

「そうね、夢があると思うけれど……ええと、ヒカガクテキ、だと思うわ。意味合ってるかしら?」

「あってるあってるー」

「二重の意味で合ってるぞ」


 私の反応にハバキリさんは「そんなー!」と肩を落とす。

 どうやらウザワさんもキヤミくんも悪魔の存在を信じていないらしい。

 笑いあう彼らを尻目に、私は静かに考える。


 悪魔。もしそんなものが本当に存在していたら。


 ――私の力になって欲しいものね。

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