第9話『金髪の天使』
怒涛の昼休みが終わりを迎える。
授業が始まる予鈴が校舎から鳴り響く。私たちは無意識に顔を見合わせ、そして同時に走り出した。
何だか転入してからずっと走っている気がするわ。
「私、まだお昼ご飯食べてないわよ!?」
『まー姫路のこともあったしな。授業中に腹鳴らすんじゃねーぞ、オマエら』
「オマエらって……ヤチクサ先輩も?」
ちらと私の少し前を走る先輩を見やる。彼は一瞬私に視線を送ったが、すぐにつまらなさそうに前を向いた。……もう、何なのよ!
私の肩に乗るミークは、やれやれと大きなため息を吐いてこちらを見やる。
『……とにかくだ。姫路のヤローは今、オマエの存在に注目し始めている。変に刺激せず、ヤツを油断させるような対応を続けてくれ』
「どんな対応よそれ」
思わずピシャリと声が出た。びっくりしたようにミークが目を丸くする。何よその目は。
二人と一匹で校舎に入ると、既に生徒はいなくなっていた。もう次の授業の準備に取り掛かっているのだろう。私も急がなくちゃ。
……それにしても。
「油断させるって言っても……一体どんな話をすればいいのかしら」
『さっきのことを思い出してみろ。悪魔の一面が表に顔を出す時、そこには必ず何かその人間にとって重要なトリガーがある』
「トリガー……」
あの昼休み。昇降口でのことが思い起こされる。
ヤチクサ先輩に〈天使の矢〉を突き刺し、購買のパンを買ってきて貰おうとした時。たまたま姫路くんがやってきて……カード決済が使えないという話をして。あれは衝撃だったわね。
――それから。
『ヒメジくん?』
『沢渡さんって……お金持ちなんだねェ』
『お金持ちだなんて、大げさだわ。たまたま現金を持ってなかっただけだもの』
『そっかァ、たまたまかァ。25万のヴィトンの財布を持っていたのもたまたまかァ』
彼は一目で私の財布の金額を見抜いた。恐ろしいほどの観察眼と知識だ。
そして、私自身を舐めるように上から下までじっくりと見つめられて――。
……しかし、そこで私は頭を振った。
姫路くんのトリガー。その想像は難くない。けれど、あまりに安易で短絡的過ぎだわ。私たちはまだ、彼の悪魔の一面をほんの少し垣間見ただけ。決めつけるのは早すぎるわ。
決めつけ。レッテル。ウワサ。そんな表面的なもので、その人間を理解した気になるのは恐ろしいことだもの。
私はもっと、姫路茂上を知る必要がある。
『それは、何となく分かった顔だな』
「……そうかしら」
私は曖昧に息を吐いて視線を逸らした。
階段を上がり、2階と3階を繋ぐ踊場に差し掛かったところでヤチクサ先輩がこちらに振り向いた。
ここは2年生のクラスがある階。私に対して何か言いたげな視線ね。
「こんなことをお前に言いたくはないが」
無表情なのに、その声色は何だか心底嫌そうだった。いちいち腹の立つ男だわ。
一体、この人は私に何の恨みがあるというのかしら。初対面でいきなり〈天使の矢〉が当たったことが尾を引いているの? いまいちこの男は妙に掴み切れない気持ち悪さがあった。
「悪魔を殺すのがオレの役目だ。ミークを通してオレにも状況は伝わってくる。何かあれば、すぐに言え」
「……え」
言いたいことだけ言って、ヤチクサ先輩はさっさと角を曲がって教室へと消えていった。
何だか腹立たしくて、私は勢いよく両手の拳を床に向ける。
「もう、何なのあの人は!」
こっちの言い分は全く聞かずに行くなんて!
腹立たしいことこの上無いけれど、あの先輩がいなければ私は悪魔たちに殺されてしまう。道理を通さないくせに言っていることは正しいから、余計にイライラしてくるわ。
私は肩に乗るミークに振り返る。
「ミーク、私たちも行くわよ。私に何かあれば、すぐにあの人が駆け付けてくれるんでしょう?」
『……』
「ミーク?」
返答のないヒヨコにもう一度声をかけると、ミークははっと我に返ったように私を見上げた。
『あ、ああ。そうだな』
「どうしたの。ぼうっとして」
『いや……何でもない。オマエも早く教室に戻らねーと、また悪目立ちするぞ』
「わ、分かってるわ!」
ミークの声に急かされるように、私も駆け足で階段を上がっていく。
窓の外に広がる桜色の花弁は未だ美しく咲き誇っていた。
『……テンヤがあそこまで言うのは珍しいな。クロエとテンヤ。案外悪くねー組み合わせ、か』
◆
それから。
昼休み中、行方不明だった私を心配していたハバキリさんに謝って。午後の授業をそつなくこなして放課後を迎える。
その間、姫路くんはあの変貌がまるでなかったかのように通常運転だった。クラスの中心人物として和気あいあいと会話をしている。
それが逆に恐ろしくて、何だか私は近づけずにいた。
じっと姫路くんを観察していると、ふいに顔に影が差す。見上げるとハバキリさんがにこりとした笑顔でこちらを見下ろしていた。
「なになに、沢渡さんどうしちゃったの。姫路くんのこと見つめちゃって」
「え、いや私は、」
「怪しいな~~? おねーさんに教えなさ~~い!」
「ちょ、ちょっとハバキリさん!?」
がばっと抱き着かれてどうしていいか分からなくなる。
長い黒髪から漂ってくる花のような香り。人のあたたかな体温。女性同士とは言え、距離が近いとどうにもドキドキしてしまう。
親しさを表す行動のようだけれど、こ、こういう時どう対応していいのか分からないわ。
「こら紗子。いい加減にしろ」
「うぎゅ」
知恵熱で頭が沸騰しそうになった時、ふいにハバキリさんから距離が開く。
慌てて息を吐いて顔を上げると、キヤミくんが困った顔をしてハバキリさんを見ていた。どうやら彼がハバキリさんの襟袖を掴んで引きはがしてくれたらしい。
首が締まって苦しいのか、彼女はじたばたと両手をばたつかせる。
「し、しぬ、流石の紗子さんも死んじゃうよ照彦~~!!」
「おっと悪い」
ぱっとキヤミくんが手を離す。ぜえぜえと荒い息を繰り返すハバキリさんが何だか面白い。悪いとは思ったが、思わず笑みが零れてしまった。
「ふふ」
――その瞬間。
ハバキリさんとキヤミくんだけではない。
放課後の教室の時が止まった。誰もが会話を止め、動作を止めた。あの姫路くんでさえ。
教室が急に静まり返ってしまった……。
誰もが情けなく口を開けている。その視線はそう――。
「……ええと?」
私に向けられていた。
『あ? なんだなんだ、コイツら。魔術にでもかかっちまったか?』
ミークが鞄の中から顔を出す。興味深そうにクラスをひっそりと見渡した。
戸惑ってしまうけれど、私はどこかこの瞳に見覚えがあった。
――そう、これは母に向けられる視線によく似ている。辟易に近い感情が僅かに胸に生まれた。
彼らの双眸は、決して侮蔑や憐憫というマイナスな感情ではない。それは分かっている。知っている。
ふいに、クラスメイトの一人が零した。
「……天使だ」
『あ?』
ミークが片眉を上げた途端、囁くようなクラスメイトの声が聞こえ始める。
「やっぱり天から舞い降りた天使だ……!」
「違うわよ、女神って言ったでしょ!」
「畏れ多くて話しかけられねぇよ、アイツらすげぇよ」
……誹謗中傷でないから、余計に口を出しずらい。
「もう……好きにして」
大きくため息を吐いた。クラスメイトから腫物を触るかのような扱いなのは、やっぱりこういった理由だったのね。
幼い頃から可憐だ天使だと褒め称えられ、それを理由に近付いてきた人間は最早数えきれない。まして、私はあの沢渡家の娘……。
上辺だけを見て私を判断するな、とはもう言い疲れた。だって際限が無いもの。だからこそ人間関係を築くのが恐ろしい。人の心に踏み込み、踏み入られるのが怖い……。
ヤチクサ先輩は全くそんな気は無いみたいだから、そこは安心できるけど。
『……天使、ねえ。何だか皮肉じゃねーか』
「え、」
ミークのつまらなさそうな声がやけに耳の奥に残った。
それはどういう、と口を開こうとしてきらきらと目を輝かせるハバキリさんが近付いてくる。
「やっぱり……沢渡さんは笑うとほんと素敵~~!!」
「……へ?」
純粋無垢な瞳。その言葉は本心丸出しと言ってもいいほど真っ直ぐだった。そこには何の感情も入り混じらない、丸裸の気持ち。
ここまで表情と本心が一致した言葉をぶつけられたのは初めてだった。
私は気付かれないくらい、そっと小さな息を吐いた。胸の奥に灯る明かりを意識しながら。
「美人で優しくてもうどこかの国のお姫様みたいだよ~~!」
「お、お姫様……それは大げさじゃないかしら」
「いや! 私の目は誤魔化せないよ!? お家も絶対お城に住んでるでしょ~~!?」
「何言ってんだ、流石にそんなわけないだろ」
「だって照彦! こんなに気品あふれた人そうそういないよ!? 貴族なんじゃない!?」
「お姫様からランク落ちてねえか?」
幼馴染二人の応酬に微笑みながら、私はそっと片手を上げてみる。
「それなら……私の家に来てみない?」
「え! いいの!!?」
食い気味に顔を近づけられ、やや引いてしまうけれど。
この人たちのことを、もっと理解してみたい。損得勘定の無い純粋な関係を築いていけるかもしれない。ほのかな期待を胸にして。
「いいのか? 沢渡」
「ええ。クラスメイトを家に招くのは初めてだから……粗相があったらごめんなさい」
「そんな堅苦しくするものじゃないよ~! ありがとう、沢渡さん! じゃあ早速行こうよ!」
ハバキリさんが嬉しそうに自分の席へと戻っていく。鞄を取りに行ったらしい。キヤミくんも「悪いな」と言って、自分の席で身支度をしている。
……クラスメイトを自宅に招く。マルシェもいないのに、大丈夫かしら。少し心配な気持ちもあったけれど、感じたことの無い嬉しさが胸にこみ上げてくる。
――その時。
「ねえ」
はっと顔を上げる。温和で人懐っこい微笑みの姫路くんが目の前に立っていた。
「沢渡さんの家、僕も羽々霧さんたちと一緒に行っていいかな?」
にっこり。承諾して貰えると疑わない表情だ。私たちの話を聞いていたのだろうか。
あまりに自然な優しい笑みなのに、私の背筋はぞわりと凍り付いた。彼の本性を知っているからだろうか、やはり気味悪さが拭えない。
『おいクロエ、しっかりしろ。向こうから来てくれたんだ、好都合じゃねーか』
密かに膝の上に乗っていた(相変わらず図々しいわね)ミークがジト目でこちらを見上げる。……言われなくても分かってるわよ。
私は何も素知らぬ顔で微笑んで見せる。
「ええ。構わないわ」
「ありがとう、沢渡さん。嬉しいよ」
――こうして。
放課後、私の自宅へ初めてクラスメイトを招くことになった。
……何も起こらないことを願って。