7:アンタレス、恋に浮かれる
昼休憩前の授業が少し長引いてしまった。
僕は持参したランチボックスを片手に、ノンノといつも昼食を食べている談話室へと足早に向かう。
他人の心の声が絶えず聞こえてしまう僕は、人口密度の高い場所が嫌いだ。だから生徒が多く集まる食堂には近寄りたくなくて、いつもこうして昼食を持参している。
そんな僕の昼食に、ノンノは入学以来ずっと付き合ってくれている。ノンノは食堂でヒューマンウォッチングをしながらニヤニヤ食事をするのも好きなのだが、僕のことを優先してくれているのだ。
今まではその事実を幼馴染みとして感謝していただけだけれど、最近はすごくくすぐったく感じられる。ノンノもなんだかんだ僕のことが結構好きなんだから、って嬉しくなってしまうのだ。
ノンノの僕に対する親愛の情が、早くかけがえのない唯一無二のものに対する愛情に変化すればいいな、と思う。
校舎二階にある談話室は、壁に歴代の学園長の肖像画がずらりと並び、大きく作られた窓からの眺めも良い。
もともとグループ学習が出来るようにいくつものテーブルや椅子が並んでいるので、昼食を取るにはもってこいの場所だ。たまに僕たち以外の生徒たちも昼食にやって来るときもあるが、今日はノンノが窓際のテーブルに一人で腰を掛けているだけだった。
ランチボックスをテーブルに置いたままぼんやりと窓の外の景色を眺めているノンノは、薄幸の美人という表現がよく似合う。
「ふぅ……」と溜め息を吐くその横顔はとても頼りなげで、この場にいるのが僕でなければ誰もがノンノの儚さに目を奪われただろう。
『助けてだれかエロい人、破廉恥シーンがまったく書けないぃぃぃ』
ノンノの心の声が聞こえてくる。
『締め切りが近づいてくるのに、破廉恥が書けないなんてっ! どうするの、このままじゃ純愛小説になっちゃうけど、書いてる私自身がそんなの一番読みたくない!!!』
片手で頭を抱えるノンノ……端からは貧血にふらついているようにしか見えないことが、いっそ凄いような気がしてくる。
初めて出会ったときは僕も彼女の外見に本当に騙されたし、淡い恋心も砕け散ったものだ。
だけど結局またノンノへの恋心を再確認しているのだから、人生とは本当に良くわからない。もしかして自覚がなかっただけで、僕はずっとノンノへの初恋を心の奥底に抱いていたのかもしれない。
そんなことを考えて、出入り口からノンノを眺めていると。視線に気付いたノンノがこちらに振り返った。
「……アンタレスっ」と細い肩をビクッと揺らす。
僕はノンノの傍へと足を運び、隣の椅子へと腰かけた。
「そんなに締め切りが危ないの?」
「え、あ、うん……まぁ」
歯切れ悪く言うノンノの心は、締め切りのことよりも僕の動作に焦っている。
今までは向かい合って昼食を取ることが多かったけれど、告白してからはわざと隣の椅子を近づけて座っている。たまに腕がぶつかりそうになる距離に、ノンノは『積極的すぎないか、攻略対象者……』と恥ずかしがっていた。
そう、あの恥知らずのノンノが、僕に対して恥じらっているのである。
いつもいつも破廉恥なことばかり考えていたくせに、僕がちょっと恋愛感情を向けただけでおろおろとし、手が触れただけで頬を桃色に染める。
僕が好きだと伝えるだけで、ノンノの心は掻き乱れ、初な女の子になってしまう。ーーーめちゃくちゃかわいい。
ノンノの顔以外が、かわいいのである。
心の声さえ聞こえてこなければかわいいのに、と常々思っていたあのノンノが、もうだいたい全部かわいいような気がしてきた。あばたもえくぼ、というヤツだろうか。
そして恥ずかしがっているノンノを見ていると優位に立てたような気になり、自分の羞恥心をぐっと抑え込んで更なるアプローチを仕掛けてしまう。
僕は意外と悪い男だったらしい。
「創作活動は趣味程度にして、出版するのは控えたら? 発禁になってる書籍もあるんだし。それにどうせ僕のお嫁さんになるんだから」
ノンノに昼食を食べるように促しながら、僕もランチボックスを開ける。
「……伯爵夫人になるのだとしても」
頬を染めながらも、ノンノは拗ねたように唇を尖らせた。
「私は乙女ゲー転生者としてゲーム強制力に挑まなくちゃいけないと思うの!」
「気のせいだよ。挑まなくても生きていけるよ」
「ラッキースケベは私の心の潤いなの! スケベに生きたい!」
言っている内容は相変わらず酷い。
だけど実際、僕が本気でノンノに手を出したら、たじたじになってしまうのだろう。かわいい。
『こんなの私じゃないみたいでイヤ……』
「僕は新しいノンノの一面が見られてすごく嬉しいけど」
「あなたも今までで一度も見たことのない新生アンタレスになっちゃってるよ……」
ノンノは疲れたように言うと、ようやく自身のランチボックスに手を伸ばした。
▽
昼食も食べ終え、昼休憩もあと二十分ほどというところで、談話室に他の生徒がやって来た。軽やかな足音で入室したのはーーー例の男爵令嬢だった。
「あ! ノンノ様! ……と、子猫ちゃんを助けてくださった恩人様!」
「まぁ、スピカ様、ごきげんよう」
「ごきげんよう、ノンノ様」
なんだかノンノと男爵令嬢が妙に親しくなっている。いつの間に名前で呼び合うような関係になったのか。
君、ヒロインに興味はないって言っていただろ、と視線をノンノに向ける。
ノンノは詐欺師のように微笑んだまま、僕の心に語りかけた。
『誰かさんがデコチューしてきてびっくりして腰が抜けたときに、スピカちゃんに助けてもらったの』
「え? 腰が……?」
小声で尋ねれば、ノンノの頬がじわじわと朱に染まっていく。
僕もつられて耳まで熱くなり、口許を手で覆う。
なんなのノンノ、本当に、かわいすぎるでしょ……!
『経験値がないんだから仕方がないんだよ! 経験値アップしたらお色気ノンノ様に進化するから、今のうちに笑えばいいさぁ!』
心の中でぶちギレているノンノさえかわいい。
経験って、僕と経験する以外に選択肢を作ってやらないけれど、分かっているんだろうか。照れ過ぎて分かってないんだろうな。
男爵令嬢はしずしずと僕らの居るテーブルにやって来ると、にこりと笑いかけてきた。
「先日は子猫を助けていただき、本当にありがとうございました! 私はスピカ・エジャートンと申します」
「……アンタレス・バギンズです」
「バギンズ様のお陰で、子猫には大した怪我はありませんでしたよ。今ではすっかり元気になりました」
「それは良かったですね」
エジャートン嬢からのまっすぐすぎる感謝の念が眩しくて、つい視線がさ迷ってしまう。
彼女の視線がノンノに向くと、ホッとした。
「ノンノ様も、もうすっかりお元気になられたのですね。本当によかったです」
「はい、お陰さまで。助けていただいて本当にありがとうございました」
「いいえ、ああいう時はお互い様です。それにわざわざお菓子まで頂いてしまって……! すごく美味しくて、家族みんなでいただきました」
「あの程度ではお礼にもなりませんが、お口に合ったようで良かったですわ。もし他になにかスピカ様のお力になれることがあれば、ぜひおっしゃってくださいね」
社交はそこそこというスタンスのノンノが、珍しく心からの言葉を口にする。
するとエジャートン嬢は『もしかしたらノンノ様が相談に乗ってくれるかもしれないわ』と、おずおずと口を開いた。
「さっそくご相談を持ちかけてしまって申し訳ないのですが……、どなたか子猫を飼いたいという方をご存知ないでしょうか?」
「この間の子猫のことですか?」
「はい。今は我が家で保護しているのですが、エジャートン家にはもともと十五歳になる先住猫がいるのです。どうも騒がしい子猫とは相性が悪いみたいで、すぐに喧嘩になってしまって。子猫を隔離しようにも、先住猫は鍵の掛かった部屋にすらなぜか入り込んでしまうのでうまくいかないのです」
「それで他に子猫を飼える家をお探しなのですね」
「はい……」
「私の家は去年生まれたばかりの姪が一緒に暮らしているので、あと数年は動物は飼えそうにありませんわ」
困ったようにノンノが言うと、『アンタレスのうちは?』と僕に視線を向けてきた。
僕は首を横に振る。
「僕の家も、執事が重度の猫アレルギーなので無理ですね」
「そうですか……。無理を言って申し訳ありません」
『こればかりは仕方がないわ。責任を持って子猫ちゃんの里親を探してあげないとね』と肩を落とすエジャートン嬢に、ノンノは両手をパンッと叩き合わせた。
「私、他の方にも子猫が飼えないかどうか、お聞きしてみますわ。だから気を落とさないでくださいませ、スピカ様」
「まぁ、ありがとうございます、ノンノ様。……私はまだこの学園に編入したばかりで親しい方がおらず、休憩時間中ずっと、色んな方に子猫が飼えないか尋ねて歩いていたのです。ノンノ様が手伝っていただけて本当に嬉しいですわっ」
「ああ、それで談話室にいらっしゃったのですね」
「はい」
『めちゃくちゃ効率悪いな、スピカちゃん』
「ノンノが手伝うなら、僕も付き合いますよ」
「アンタレス……」
「本当ですか!? ありがとうございます、バギンズ様」
人嫌いの僕が参加したことに驚きつつも、ノンノは「ありがとう」と儚げに微笑んだ。
「……だって、僕のせいで腰が抜けちゃったノンノを助けてもらったんだし」
ノンノの耳に囁き、僕は彼女の前髪をそっと払う。
先日僕が口付けた額の真ん中を中指と薬指で撫でると、ノンノは一瞬で赤くなった。
『また私の腰が抜けたらどうするのかっ!?』
その時はもちろん僕が運んであげるつもりだ。ノンノがよく妄想している“お姫様抱っこ”というやつでね。
エジャートン嬢が僕たちを見て『ふふふ、とても仲の良い恋人同士なのね! 素敵だわ』と勘違いしていたけれど、僕は訂正しなかった。