62:アンタレス、廃墟から帰る
目を開けると、見慣れた自室の天井が見えた。それからよく知るベッドの寝心地を感じ、僕は安堵する。
どうやら僕は無事にあの廃墟から帰ってこられたらしい。
僕の記憶は断片的だ。ノンノが悪霊に狙われたから、彼女の身代わりに悪霊に取り憑かれた。悪霊に精神を乗っ取られそうになり、かなり苦しかったけれど、耐えた。
四六時中誘惑してくるノンノに耐えている僕が、あの程度の精神攻撃に負けるはずがないのだ。
けれど自力で悪霊を追い払うことは出来ず藻掻いていたら、誰かが現れて僕を助けてくれたような気がする。誰だっけ……。
「……ねぇノンノ、あとできみの記憶を見せて」
ベッドの右側に顔を向ければ、僕の手をしっかりと握ったまま眠るノンノの姿があった。
未婚の令嬢が男の部屋に泊まり込むな、とか。いくら僕の看病のためとはいえ、両家の親もノンノに宿泊許可を出すな、とか。全員に説教をしたい気持ちが八割。
どうせ僕の嫁になる以外の選択肢は全部潰すから、醜聞になってもまぁいいか、という気持ちが二割だ。
それにしても。ふつう、こういう時はベッドの横の椅子で寝落ちしているものだと思うのだけど、ノンノはきちんと僕のベッドの中に入って熟睡している。
ノンノのことだからきっと「私はアンタレスの彼女だから、一緒に寝てもオッケー!!」と思って、添い寝することを選んだのだろう。
どうせ強制力があるから本懐を遂げることはないし、もし何らかの事情で強制力が失われたら、それはそれでラッキーだと思っているのだ。
いつだって僕を拒絶することがないノンノが可愛くて、僕は参ってしまう。
まったくどうしてこの子は、こんなに僕のことを好きでいてくれるのだろう。全身全霊で受け入れてくれるのだろう。
ノンノから与えられる肯定によって、僕はずっと生かされてきた。人の営みの中に存在することが出来た。
だから悪霊なんかにきみを傷付けさせたくなかった。ただそれだけなのに。
「随分泣いたみたいだね。そんなに自責の念にかられなくても良かったのに」
ノンノの瞼は痛々しく腫れていた。薄茶色のまつ毛もまだ濡れている。
眠っているノンノの心の声を聞いてみれば、夢の中で再びあの悪霊と戦っているらしく、「アンタレスにひどいことしないで!」と泣き喚いていた。
悪夢を見るノンノが可哀そうなので、彼女の肩を揺すって起こす。
「ノンノ、起きて。おはよう」
「……うぅん? あんたれすぅ……?」
「うん。僕はもう悪霊に取り憑かれてないから。平気だよ」
「アンタレスだ! おはよう!」
ノンノはシャキッと目を覚ますと、僕の体の上に馬乗りになり、顔や肩、胸部や腹部をペタペタと触りだした。普段はあれだけよこしまな感情を溢れさせる彼女が、ただ純粋に僕の体を心配していた。
「どこも痛くない!? 気持ち悪さとかない!? なにかお薬でも飲む!?」
「僕は平気だってば。悪霊に取り憑かれた後遺症はないよ」
「そっかぁぁぁ、良かったぁぁぁぁぁ!! アンタレスが無事で本当に良かったよぉぉぉ!!」
ノンノはそのまま僕の首に両腕を回して抱き着くと、すっかり安心したように体の力を抜いた。肩口へぐりぐりと頬擦りをしてくる。
(私の代わりに苦しい思いをさせてごめんなさい、アンタレス。私、アンタレスを失ったら生きていけないよ)
ノンノは悪霊に取り憑かれた時の僕の苦しみを想像し、心を痛めていた。
そんなノンノを慰めてあげたい気持ちはあるのだけれど。
……ごめんノンノ、悪霊に取り憑かれている時より今の状況の方が僕は苦痛だよ。
寝起きのあたたかな肌がくっつき合い、ノンノの心地良い重みが全身にのしかかる。ノンノの細く柔らかな髪から甘い香りがして、僕の気持ちは簡単にぐらつく。
彼女がいま着用しているのが、普段着用のドレスで良かった。ノンノが愛用しているらしい薄いネグリジェだったら、もっと生き地獄だった。
ノンノからの混じりけの無い心配や愛情が伝わってくるので振り落としはしないが、この体勢をどうにかしてほしい。なんでこういう時だけ無自覚なの。
油断をするとノンノは可愛いから、僕はつらい。計算ずくで誘惑してくるときのノンノも可愛いから、僕はやっぱりつらい。
悪霊の件が終わっても、僕はノンノという生き地獄からは逃れられない。
「本当にごめんね、アンタレス……! 霊子ちゃんから私を守ってくれて、ありがとう……! 大好き!」
挙句の果てにノンノは、ヘーゼル色の大きな瞳に涙をうるうる浮かべながら、僕の頬にキスをし始める始末だ。
ノンノの柔らかい唇がぷにゅぷにゅと何度も押し付けられる。
―――本当に弱った。
僕はこの小悪魔がどうしても愛おしい。
ノンノから与えられる生き地獄から逃れる気さえない。
本当にどうしようもない。
僕は理性を総動員させて、ノンノの頬へキスのお返しをするにとどめた。
▽
その後両親が僕の部屋へ顔を出し、僕が目覚めたことを喜んでくれた。
「目が覚めて良かったですわ、アンタレス……!」
「ノンノさんやカノープス第三王子殿下が事情を説明してくださって、驚いたよ。お前が無事で良かった」
「ご心配をおかけしました、お母様、お父様」
母が僕とノンノを二人まとめて抱きしめたので、ノンノが(すごい!! 私の腕にお義母様のおっぱいが当たってる!!)と、いつもの調子を取り戻してくれたのでホッとした。ノンノに後悔を引きずってほしくなかったから。
昼過ぎにはプロキオン様とエジャートン嬢も見舞いに来てくださり、お二人にはしっかりとお礼を伝えた。
「僕のために貴重な『妖精王の護符』を使ってくださり、本当にありがとうございました。おかげで助かりました」
「私からもお礼を言わせてください! スピカ様、グレンヴィル様、本当にありがとうございました!」
「いえいえそんなっ、私はお礼を言われることなんてしてないですっ。護符を手に入れてくださったのはプロキオン様ですし……! 私はたまたま持っていただけですから……!」
「だが、スピカ嬢が護符を廃墟に持ってきてくれたおかげで、アンタレスを助けることが出来た。私からも友人を助けてくれたことのお礼を言わせてくれ、スピカ嬢。本当にありがとう」
「プロキオン様が手に入れてくださったものなのに、どうしてプロキオン様まで私にお礼を言うのでしょう!? なんだかおかしい気がします! では、私からも! プロキオン様、『妖精王の護符』を手に入れてくださり、ありがとうございましたっ! おかげでバギンズ様とノンノ様が救われました!」
全員でお礼を言い合うという可笑しな状況になり、全員で笑った。そんなふうに和やかな時間を過ごした。
そして改めて、妖精王の話題が出た。
「妖精王アルベリヒ陛下、すごかったですねっ! とってもお強かったです!」
「ジルベスト嬢の叔父様だとおっしゃっていたな。たしかに面影があった」
「バギンズ家への宿泊許可を貰うために一度自宅に戻ったのですが、その際に母に叔父様のことをお話ししましたら、とても懐かしがっておられましたわ」
「そうですよねっ。ノンノ様のお母様も、いつかきっと妖精王にお会い出来るといいですね」
朝の内にノンノの記憶をすでに読んでいたので、廃墟に妖精王が現れて僕を助けてくださったことはもう知っている。
まさかノンノの叔父様だったとは思いもよらなかったけれど。
挨拶もお礼も伝えられなかったから、いつかもう一度お会いできるといいな。
ノンノは紅茶を一口飲んでから、エジャートン嬢の言葉に寂しそうに微笑んだ。笑うと寂しそうな表情しか作れないノンノなので、つまりただの笑顔である。
「この世界はいつも不思議な奇跡に溢れておりますから、叔父様ともまたきっとお会い出来ますわ」
そうだね、ノンノ。
いつか妖精王にお礼を伝えて、一緒にお茶会をする時が来るかもしれないね。




