54:偽ピーチパイ・ボインスキー、現る⑤
俺ラッセはなぜか、謎のご令嬢とご令息の馬車に乗り込むことになった。
お貴族様の馬車に乗り込むなんて早まったかもしれない、と思ったのは乗り込んでからしばらく経ってからのことだ。いろいろなことがあったあとだから、正常な判断が働かなかったのかもしれない。
向かいの席に腰掛けるご令嬢とご令息の様子を、チラリと盗み見る。
どちらもかなりの美形で、二人セットで並んでいると浮世離れした雰囲気まであった。ご令嬢の方は余命あと三年くらいなんじゃないかというほど儚げで、ご令息の方は衣服や背の高さから男性だと分かるが、性別があやふやになるような綺麗な顔立ちをしている。
こんなに華やかな人たちと同じ空間に居ることの意味が分からない。
そもそもなんで俺はこの二人と一緒に馬車に乗っているんだっけ?
これからどこへ連れていかれるんだろう?
ご令息から「ピーチパイ・ボインスキーがきみに会いたがっている」とか言われたが、結局それはどうなったんだろうか?
ボインスキー先生が俺に会いたがっている理由なんて、名前を騙ったことくらいしか思い付かない。憧れのボインスキー先生に嫌われるのはつらいが、謝罪しなければならないだろう。
このお二人はもしかするとボインスキー先生の代理人なのかもしれない。
ていうか俺、この人たちの名前をいまだ知らずにいる。
「僕はアンタレス・バギンズ。彼女は僕の恋人で、ノンノ・ジルベスト。よろしく」
俺がそう思ったのとなぜか同じタイミングで、ご令息……バギンズ様が口を開いて自己紹介してくれた。「こ、こちらこそっ、よろしくお願いいたします……!」と答え、俺は慌てて頭を下げる。
バギンズ様はなんというか、近寄りがたい雰囲気のある人だな。高貴な人特有の近寄りがたさというより、心の壁を感じるというか。
ジルベスト様も近寄りやすくはないけれど、さっき俺を励ましてくれたせいか、もう少し親しみを感じる。
……ハッ! まさかバギンズ様はボインスキー先生の代理などではなく、ご本人なのではないか!?
だから名前を騙った俺に怒って、素っ気ない態度をとっているのかもしれない!
俺がその可能性に気付いた瞬間、バギンズ様は「ゴホッ!! ゴホッ!!」っと大きな咳をし始めた。そしてジルベスト様に「アンタレス様、夏風邪でもひきましたの?」と背中をさすってもらっている。
その仲睦まじい様子に、『こうやって女性にモテて、恋人までいるから、ボインスキー先生は最高にエロい小説が書けるんだな』、と俺は思った。俺も見習いたいものだ。
よ、よし……。バギンズ様改め、ボインスキー先生に謝罪しなければ。
俺はバギンズ様の様子をうかがい、タイミングを計る。
だがバギンズ様は「ノンノ、助けて……」とジルベスト様の肩に顔を伏せた。
さすがはボインスキー先生。女性への甘え方もマスターしているとは、エロの伝道師だぜ。
きっと二人っきりになったらイチャイチャチュッチュしたり、パンツをチラっと見せてもらったりとか、すげーエロい事してるんだろうなぁ。もしかして、ジルベスト様のおっぱいを揉んだこともあんのかな? ボインスキー先生だもんな、それくらい上級エロスを体験しているに違いない。
バギンズ様は「なんなの、この苦行」と呟かれた。どういう意味だろうか?
俺が謝罪が出来ないあいだにも馬車はどんどん進み、街の大通りから脇道に逸れて、俺が普段あまり近寄らない通りへと入っていった。
その通りの両端には、似たような外観の煉瓦造りの建物が立ち並んでいる。集団住宅か、なにかの事務所の集まりといった雰囲気だ。
馬車はそのうちの一軒へと到着した。
バギンズ様は俺から逃げるように素早く馬車から降り、ジルベスト様のエスコートをする。ジルベスト様は黒ずんだ鉄製の扉の前に立つと、迷いなくドアベルを鳴らした。
ドアベルの音が辺りに響き、しばらくすると内側から扉が開く。対応に出てきたのは中年のふくよかなご夫人で、ご夫人はジルベスト様の顔を一目見たとたんに、「あらあら、まぁまぁ!」と喜色満面の笑みを浮かべた。
「先生! 遊びに来てくださるなんて嬉しいですわ! さぁさぁ、中へお上がりください」
「急にお邪魔してすみません、ライトムーン夫人。今日は同伴者がいるのですが、よろしいでしょうか?」
「先生なら真夜中でも大歓迎ですわよ! 同伴者はいつものバギンズ坊ちゃまですか? 今日はお二人もお好きなドーナッツを揚げましたのよ、おほほほほ!」
「いえ、アンタレス様のほかに、もうひとり連れがおりますの」
ジルベスト様はそう言うと、俺の方に視線を向けた。
「ライトムーン編集長も、夫人も、きっと彼のことを気に入ってくださると思いますわ」
「……先生。それってもしかして、……期待しちゃってもよろしいのですか? この小さな少年もまた、金の卵を産むと?」
「私はそう確信しておりますわ」
「先生がそう仰るのでしたら、諸手を挙げて歓迎しなくてはなりませんわね!」
ご夫人はニンマリとした笑顔を俺に向けると、「さぁ、中にお入りになって。あなたの才能を隅々まで見せてちょうだい」と大きく扉を開けた。
この建物こそがピーチパイ・ボインスキー先生の小説の数々を世に送り出している出版社であり、俺に振り返って「では、中へ入りましょうか」と困ったような笑みを浮かべるジルベスト様こそがボインスキー先生であることを俺が知るのは、三十分後のことである。
まさかバギンズ様がボインスキー先生じゃないとはなぁ……。
▽
「……うん、なるほどっスね」
ライトムーン編集長はラッセが書いた冊子を速読すると、瞳に金貨の幻影を浮かべながら表情を輝かせた。
「ボインちゃん先生の名前を騙る悪いやつが居ると思っていたんスけど、これは確かに、育てれば大輪の花が咲くかもしれない若い芽ッスねぇ」
編集長の言葉に、私も頷く。
「次世代の才能を育てられるのは編集長だけですわ! ぜひ、ラッセ君の面倒を見てあげてください」
「そうッスねぇ。ボインちゃん先生もこの先、結婚出産で執筆どころじゃないときが来るでしょうし。我が出版社を支えてくれる柱はどんだけあっても有難いッスもんね。よし、ラッセ君! 新作が出来たら読ませてほしいっス。一緒に作家デビューを目指しましょうっス!」
というわけで担当編集がつくことになった、新たなスケベの希望・ラッセは、椅子に座ったまま呆然とした表情でこちらを見ていた。
「え? え、え? ジルベスト様の方がボインスキー先生なんですか? バギンズ様じゃなくて?」
出版社に連れ込み、編集長に「ジルベスト嬢がボインちゃん先生の正体っスよ」と証人になってもらったというのに、ラッセはまだ真実が飲み込めないらしい。
そしてあろうことか、アンタレスの方がピーチパイ・ボインスキーではないかと言う始末だ。
残念ながらアンタレスのムッツリ対象はこの私オンリーなので、スケベな小説は書いてくれないのである。
アンタレスがスケベな小説を書いてくれるのなら、私はいくらでも読みたい。私たちの初夜の参考にするよ。何フェチですか? 白バニーですか?
じっとアンタレスを見上げれば、耳が赤くなっていた。
照れているアンタレスを見てニヤニヤしていると、いきなりラッセが土下座した。
「ごめんなさい、ジルベスト様! いや、ボインスキー先生! 先生の名前を騙るなんていう詐欺を、俺は……!」
え? そんなこと、別に気にしてないのに。健全強制力で、悪者は最後には退治される世界だからな。
そんなことよりも重要なのは、ラッセというスケベの原石に出会えたことだ。
いままでは「どこに行けばスケベなものがあるの……?」って水を求めて彷徨う砂漠の民みたいな状況だったけれど、これからは違う。ラッセが生み出すスケベがある! 私の未来はどこまでも明るいのだ!
「あなたの罪を許します、ラッセ君。だからどうか、作品を書いてください。私というファンのために」
「ありがとうございますっ、先生! 俺、先生に追いつけるように頑張ります!」
こうして、偽ピーチパイ・ボインスキーの事件は幕を閉じたのであった。
▽
そして三日後。
私がジルベスト家の居間に入ると、平日の昼間だというのにお父様が珍しく在宅していらっしゃった。いつもより覇気のない表情で、ぐったりとソファーに寄りかかっている。
「どうしたのですか、お父様? 今日のお仕事は?」
ついに品質監察局のお仕事をクビになったんですか? やりましたね、お父様♡ あとは私が養いますよ♡
私がいそいそと近付いていくと、お父様の側でのんびりと刺繍をしていたお母様が答えた。
「お父様、足が筋肉痛なんですって。三日前に街中を全力疾走したとかで」
「あら、まぁ」
お父様は普段運動をしない。
仕事が忙しくて運動をする時間もないし、お休みの日も基本インドアだ。領地に帰って養蜂場を視察するときも馬車移動ばかりで、あまり体力がない。
そんなお父様が偽ピーチパイ・ボインスキーの噂に歓喜して、街中を全力疾走だもんなぁ。筋肉痛にもなるよね。しかも歳だから三日後に筋肉痛が来る、と。
私はぐったりしているお父様に近寄り、お父様の手をきゅっと握った。
「お父様は普段からもっと健康に気を使って、運動をした方がいいと思いますわ」
「そうですよ、あなた。ノンノの言う通りですわ。ノンノ、もっとお父様に言ってやってちょうだい」
「なんならお城でのお仕事はセーブして、もっとお父様がのびのび出来る時間を作るべきです! むしろ退職しましょう!」
お父様は『娘の優しい言葉に感動した』という表情をして、私の名前を呼んだ。
「心配してくれてありがとう、ノンノ。お前が優しい子に育ってくれて、私はとても嬉しいよ」
「お父様の心配をするのは、娘として当然のことですわ!」
「しかし、城での仕事をセーブすることは出来ない。国民の実生活を守れるのは、私たち品質監察局だけだからね」
チッて舌打ちしたくなったから、頬の内側の肉を噛んでおこう。
「だがノンノの言う通り、私ももっと運動をしなければいけないなぁ。家族を守るためには健康でいなければならんし、……奴を倒すためにも体力が要る」
お父様は穏やかだった表情から一転、厳しい表情を浮かべて最後のセリフをボソッと呟いた。
ふふふ、貴様に私が倒せるかな? 私はお父様ごときには絶対に見つからないぞ。
「まずは筋肉痛を治して、散歩の習慣づけから始めるとしよう」
「それがいいですわ、あなた」
「(せいぜい無駄な足掻きを)頑張ってください、お父様!」
偽ピーチパイ・ボインスキー事件の余波でお父様が運動を心掛けるようになり、健康的になりましたとさ。
とってもめでたし、めでたし。




