49:スピカの旅の思い出
プロキオン様に招待していただいた別荘への滞在は、本日が最終日。
船着場から出発したボートは、鮮やかなピンク色の花を咲かせる蓮の群れを横目に見ながら、力強く進んで行く。オールを漕ぐその人が、表情を変えず、汗一つ見せず、ただ水路の状態を確かめながらボートを進ませる姿を、私はしばらくの間ぼぅっと見つめていた。
なんて綺麗な人なのかしら。
男性に対してこんなことを思うのは失礼かもしれないけれど、私はつい、プロキオン様に対してそんな言葉を思い浮かべてしまう。
力強くて、一人で居る時も決して姿勢が崩れることはなくて、左頬の黒い痣のせいでたくさんの人に怖がられても、誰のことも悪くは言わない。とても綺麗な人。私の憧れの御方。
「……スピカ嬢、そろそろ日差しが強くなってきたな。帽子を被った方がいい。熱中症が心配だ」
二人きりのボートの中で、プロキオン様の言葉がぽつりと落ちる。
見惚れていてすぐに反応が出来なかった私は、「あっ」と小さく意味のない言葉を呟いてしまった。
恥ずかしくて思わず口元を押さえる。
プロキオン様の前で、もっとしっかりした淑女でいたいのに、余計な言葉や余計な動作をしてしまう。もっと気を付けなくっちゃいけないわ。
「……ありがとうございますっ、プロキオン様!」
引っかからず、どもらず、ちゃんと言葉が出て来てホッとする。
「プロキオン様も帽子を被った方がよろしいですよ?」
「いや、私は大丈夫だ。どんな環境でも戦えるように訓練している」
プロキオン様はオールを漕ぎながら、少しだけ目元を和らげた。綺麗な紫色の瞳が、湖面の照り返しでキラキラと輝いていた。
「でもここは戦場ではありませんし、訓練中でもないです。帽子は被った方が良いですよっ。プロキオン様がお強いことは知っていますけど、お体を労わってあげてください!」
私がそう言えば、プロキオン様はちょっとだけ目を見開き、それからぽつりと白状する。
「そんなふうに言われるとは思わなかったから、帽子など持ってきていない」
「じゃあ私のを被ってください! 私より、オールを漕いでいるプロキオン様の方が熱中症になってしまいそうですものっ」
「いや、サイズが合わないだろう」
プロキオン様はそう言うと、微かに笑みを浮かべた。
「私の心配してくれてありがとう、スピカ嬢」
この御方はご自分のことをあまり大事にしてくださらない。
初めて出会った時もそうだった。
貴族学園に編入してすぐの頃、私は広すぎる校庭で迷子になってしまった。早く校内に慣れるために見学していたつもりだったのに、いつしか道が分からなくなってしまったの。
どうにかして校舎に戻らないと、次の授業に遅れてしまう。そう焦れば焦るほど道が分からなくなり、困っていると、すぐ近くから人の話し声が聞こえてきた。
「ふざけるなよ、お前! ボインスキー先生の最高のヒロインの座は、猫耳メイドのアイリスたんに決まってんだろうがっ!」
「そうだぜ! アイリスたんしか勝たん!」
「アイリスたんが主人公に捧げる愛と忠誠の良さがなんで分かんねーんだよ!?」
体格の大きい男子生徒が三人、とっても早口でなにかを喚いていた。
彼らの向かいには気弱そうな男子生徒が一人おり、涙目で震えていた。
「みっ、皆がなんと言おうと……! 僕は眼鏡巨乳教師のコーデリア様に手取り足取り腰取り夜のお勉強を教えて欲しいんだ……! アイリスなんかぺちゃぱいじゃないか……!」
「ぺちゃぱいのなにが悪いんだよ!? むしろ最高だろうがッッッ!! アイリスたんを悪く言うお前なんか、絶対に許さねぇ!! おい、お前ら、やれ!! アイリスたんの良さを思い知らせてやれ!! アイリスたん登場シーンを読み上げろっ!!」
「合点承知だ、相棒!! いくぜ、アイリスたんの名台詞集を!!」
「『ご主人様! アイリスは、世界の果てでも地獄の底でもベッドの中でもご一緒いたしますニャン♡(裏声)』」
「やめて! やめてよ! 僕のコーデリア様への愛を試さないでよっ!!」
四人全員がとても早口なので、話の内容はほとんど聞き取れなかったけれど、どうやら気弱そうな男子生徒がいじめに遭っているみたい。大変だわ。
私は彼らのいじめを止めようと、慌てて彼らの前に出ようとした。―――その時、別方向からプロキオン様が現れたのだ。
長い黒髪を揺らし、堂々たる一歩を踏みしめるプロキオン様は、静かに男子生徒たちを見つめる。顔の左半分を覆うように広がる黒い痣の中から、彼の紫色の瞳は宝石のように輝いていた。
「……こんなところで、何の騒ぎだ。もうじき授業が始まるぞ」
彼が口を開いた途端、体格の良いいじめっ子たちは顔を真っ青に染めて、「すみません!」「すぐに教室に戻ります!」「お命だけはお許しを!」と早口で叫んで逃げていった。
「まっ、待ってよ、皆! 僕を置いて行かないで……!」
いじめられていた男子生徒は先程よりもガタガタと震え、「お願いです! 呪わないでください! 僕はコーデリア様のためにも、こんなところで死ぬわけにはいかないんです!!」と、これまた早口で言いながら、三人のあとを追いかけていってしまった。
「信じられません! せっかく助けてくださった人にお礼も言わずに、呪いだなんて言いながら立ち去るなんて、あんまりですっ!」
私が憤慨しながら彼の前に登場すると、彼は少し目を見張った。
「さっきのことは、あなたは何も悪くないですよ! 礼儀を知らない人のことなんて、気にすることないですっ」
「別に気にしていない。慣れている」
助けた人にまで酷いことを言われて逃げられることに慣れているだなんて、この人は今までどれほど寂しい思いをしていたのかしらと、私は思った。
彼は本当に先程の出来事など気にしていない様子で、それよりも目の前にいる私の存在に首を傾げた。
「……この学園に入学してから、初めて女子生徒に話しかけられたな。きみは私が怖くないのか?」
「私、お別れは怖いですけれど、出会いを怖いと思ったことはありません!」
「そういうものか?」
私とプロキオン様はそんなふうにして出会い、校舎まで送ってもらったあとも、度々校内で出会って会話を繰り返した。
会話を重ねていくうちにどんどん親しくなって、プロキオン様の性格を知っていった。
そして気が付いた時には『この人にもっと自分を大切にしてほしい。幸せになってほしい』と思ってしまった。
誰かの幸福を心から切望する時、それはその相手を好きになってしまったことの合図だ。それがどんな形の好意であれ。
私はプロキオン様に幸せになってほしい。
プロキオン様はグレンヴィル公爵家のご嫡男で、私は元平民の男爵令嬢だ。もともと生きる世界が違う人だから、私がプロキオン様のお傍にずっと居て、彼を幸せにすることは出来ないけれど。
どうか楽しい青春時代を過ごして、優しい女性と出会って、あたたかな家庭を築いて、幸せに暮らしてほしい。おじいちゃんになるまで、ずっと。
私は時々プロキオン様が幸せなことを風の噂で聞いたりして、一緒に過ごした輝かしい青春時代に思いをはせるの。いつかたった一人でおばあちゃんになっても。
ふと視線を湖に向けると、もう一艘のボートが浮かんでいるのが見えた。ノンノ様とバギンズ様だ。
ノンノ様は薄茶色の髪を風になびかせ、儚げな雰囲気で微笑んでいる。白い日傘を開いて、オールを漕ぐバギンズ様に差しかけていた。晴れの日の相合傘だなんて、とっても素敵。
……本当にお似合いのお二人だわ。
ノンノ様とバギンズ様は幼馴染で恋人になり、もうすぐ婚約するとお聞きした。お互いの人生にお互いが居るのが当たり前で、揺るがないのでしょう。
今も二人は見つめ合い、ノンノ様が何かを呟くと、バギンズ様は耳まで真っ赤になって何かを言い返している。するとノンノ様も頬を桃色に上気させて、困ったような笑みを浮かべた。
離れ離れにならない人生を選び、お互いを大切にし合うことを早々に決めたお二人は、いつ見てもお幸せそう。他人には分からない二人だけの強い信頼で結ばれている。
プロキオン様にも、あんなふうにお互いを大切にし合うことが許されるご令嬢が、早く現れるといいな。私の中に芽吹くこの想いが、大きくなってしまわないうちに。
私がノンノ様たちをじっと見つめていると、プロキオン様も視線を二人の方に向けた。
そして「あぁ、なるほど」と呟き、一度オールを置くと船底に手を伸ばす。
「こちらのボートにも日傘が備えられている。スピカ嬢、アンタレスたちみたいに日傘を差せば、お互い熱中症にならずに済む」
プロキオン様はそう言って、白い日傘を探し当てた。
「えっ、でっ、でも」
あれは相合傘で、ノンノ様たちは恋人同士で、私とプロキオン様はただのお友達で……。
「頼む、スピカ嬢」
「……は、はいっ」
今だけは、ノンノ様たちみたいに相合傘をしてもいいのかしら。プロキオン様が熱中症になったら大変だし。
この御方を、今だけは、私が大切に慈しんでも許されるのかしら……。
私は震える指先で日傘の留め具を外し、傘を広げた。そして私とプロキオン様のあいだに日傘を差す。プロキオン様の方に少し多めに日傘を傾けながら。
「涼しいな」
「……はい」
湖の上の二人だけのボートの中、薄暗がりに私とプロキオン様がいる。
今回の休暇中、花畑で花占いをしたり、教会を見学したり、お菓子作りをしたり、ボードゲームに熱中したり、妖精さんたちのお祭りに参加したりした。そのどれもがかけがえのない思い出で、今こうしてプロキオン様と湖を楽しんでいる時間も、きっと一生忘れられない記憶になるのでしょう。
キラキラ輝く湖面に映る私の顔は、まるでノンノ様のように、世界で一番幸せな女の子の表情をしていた。




