5:ノンノ、ヒロインに助けてもらう
『……好きだよ、ノンノ』
頭の中で何度もアンタレスの言葉がリフレインされる。
外気に当たって冷えたはずの額には、まだ彼の唇の感触が残っているかのようでこそばゆい。
「実は乙女ゲームの真のヒロインは僕なんだ」と言われても納得してしまいそうな可憐な雰囲気でアンタレスが走り去ってから、もうどれくらい時間が経ったのだろう。
腕時計を確認すれば長針は二十分くらいしか動いていないのだけれど、気持ちとしては二十時間くらい経っている気分ですよ。
それくらい私は呆然としていた。
だって、あのアンタレスが、私に、好きって言った。
デコチューまでしていった。
信じられない。
そりゃあ、私の外見は儚げ美少女ですけど、私の外見に夢見ている人がたまにいるのは知っているし、むしろスケベ活動を行うのに都合が良いことが多いからそう演じている部分もあるけれど。
だけどアンタレスは違うじゃないですか。
テレパシー能力で私の内面の『ふははははは!!! この健全世界をピーチパイ・ボインスキー様がエロスでピンクに染めてやる!!! ひれ伏せムッツリスケベ共!!!』と荒ぶる野心を知っているじゃないですか。なにを血迷って私を好きだと言ったのか?
もしかして私はアンタレスを穢してしまったのだろうか? 私が彼の横で四六時中スケベを垂れ流していたから、アンタレスは清らかな心を失ってしまったのだろうか。
……一瞬そんな考えが浮かんだけれど、真っ赤な顔で走り去っていったアンタレスの、薔薇の花びらでも背景に散りそうな乙女っぷりに、私は首を横に振る。彼を私ごときモブが穢せるわけがなかった。
『つまり僕は、薄汚れたくらいの心の方がずっと親しみを感じるようになってしまったってわけ』
アンタレスはそう言っていた。
穢してしまったわけじゃない(と思いたい)けれど、影響を与えなかったわけでもない。だって私達は長いこと一緒に過ごしてきたのだから。
だから、まぁ、アンタレスが私を好きになることもあるのかもしれない。ゲームとは違う人生を生きてきたのだから、ヒロイン以外の人に恋をしても不思議はないのだ。
ただ単純に、なぜ私? という気持ちはあるけれど。
いつからそんなことに? という疑問もあるけれど。
ぐるぐるぐるぐる、アンタレス本人に尋ねなければまったく答えの出ないことばかり考えてしまう私の頭とは別に、心臓はバクバクと脈打ち、体は発熱したように火照り、ベンチから一歩も動けない。
そう、ベンチから立ち上がれないのが目下最大の問題なのである。
アンタレスめ、なぜ放課後に告白に来たのだ……。
せめて昼休みならクラスメートが気付いて「先生~、ノンノさんが教室に居ませーん」って言ってくれたはずなのに。私は一度も授業をサボったことがない上に無遅刻無欠席な真面目な生徒なので、先生もきっと心配して捜索してくれたはず。放課後では誰も私を探してくれる人が居ないではないか。
放課後の帰宅ラッシュを避けるために、我が家の馬車が迎えに来る時間は遅くしてある。
本当に馬車のラッシュ時刻は大変なのだ。上級貴族の家の子は優先されて道を空けてもらえるのでさっさと帰れるけれど、下級貴族の私は道を空ける側だ。馬車の中で無駄に待機しなければならない。
そんな無駄な時間を過ごすくらいならば帰宅時間をずらし、学園内の人気のない教室とか物置部屋とか階段下とか図書館の本棚の間でいちゃいちゃアンアンやっているカップルが居ないか探す方がずっっっと有意義なのである。
未だ発見したことはないけれど。ツチノコなの?
とにかく、迎えの馬車が来るまでにどうにか玄関口に行かなければ。
そんなふうに焦っていた私の視界に、女子生徒らしき人物が遠目に見えた。思わず両手を振る。
「すみませーん! そこにいらっしゃる御方、私の声が聞こえますでしょうか!? 少し助けていただきたいのですがー!」
令嬢らしい救助要請ってどんな感じで言えばいいのだろう、と思いつつ女子生徒に向かって声を張り上げる。
すると女子生徒から返事が返ってきた。
「はいっ、聞こえます! 大丈夫ですか!? 怪我でもされましたか!?」
丸まったタオルを胸元に抱えた女子生徒が、こちらに向かって走ってくる。健全世界の制服なのでスカート丈が足首まであるのだけれど、水色チェックのスカートがひらひらとたなびいて、もう少しでふくらはぎが見えそうになっていた。
助けを求めておいてラッキースケベのチャンスを待ち構える、大変失礼な私である。
「まぁ大変、顔が真っ赤ですよ! 吐き気や頭痛はありませんか?」
チラチラと見えそうで見えないふくらはぎを注視している間に、女子生徒は私の前で立ち止まると体調を心配してくれた。
完全にスカートで隠れてしまったふくらはぎから、私は諦めて視線を上げる。そしてようやく気が付いた。私が呼んだ相手がーーーヒロインちゃんであることに。おっふ。
『レモンキッスをあなたに』という超健全乙女ゲームのヒロイン、スピカ・エジャートン男爵令嬢。
厳格なことで知られるエジャートン男爵家には、かつて品行方正な一人息子が居た。厳しい両親のもとで育てられた彼は容姿も人柄も素晴らしく、将来をたいへん有望視されていた。
しかし彼がエジャートン男爵家を継ぐことはなかった。下女と駆け落ちしてしまったのである。
二人は駆け落ち先でいろいろ苦労をしながらも、小さな家を借りて人並みの暮らしを得ることができ、さらにその数年後には幸福の証のように愛らしい女の子が生まれた。そしてその女の子が十六歳になるまでは、裕福ではないながらも平穏に暮らすことが出来た。
けれど不幸とはある日突然訪れるものだ。父が急病で亡くなり、気落ちした母もすぐに別の病で亡くなった。
悲しみに暮れる少女のもとに、エジャートン男爵夫妻が訪れた。実はとっくの昔に一人息子の行方を見つけ出していた夫妻は、それからずっと息子の家庭を陰ながら見守っていたらしい。
「儂は由緒あるエジャートン男爵家にふさわしい結婚をして欲しいと、息子が庶民と結婚するのを反対してしまった。そのことをずっと悔いている。本当に申し訳なかった。こんなことはなんの贖罪にもならないが……、スピカ、きみを我が男爵家へ迎え入れたい」
ーーーというのがスピカちゃんのゲーム設定である。
そんなスピカちゃんが、私の目の前にいらっしゃる。
ピンクブロンドのさらさらの髪、キラキラの蒼眼、お人形のように整った小さなお顔に、ヒロインらしい華奢な体+ふわふわのマシュマロおっぱい。乙女の願望が詰まったパーフェクトルックスである。
スピカちゃんは見ず知らずの私に対して、本当に心配そうな眼差しを向けた。
「近くの水飲み場でハンカチを濡らしてきましょうか? 日陰に移動された方がいいと思います」
「あ、いえ、……熱は大丈夫なので、顔が赤いのは気になさらないでください。実は腰が抜けて立てなくなってしまったのです……。申し訳ないのですが、どなたか力のありそうな男性をお呼びして貰えないでしょうか?」
突然のヒロインを前にびびって言葉がたどたどしくなってしまったが、どうにか用件を伝えることができた。
放課後だけれど、探せばきっと学園の下働きの男性が居るはず。男性教師でもいいし。とにかく私を運べる方を急募です。
私の言葉に「急病ではないのですね」とスピカちゃんはホッとしたように微笑んだ。
「分かりました。すぐに誰かを呼んできます。……あの、それで申し訳ないのですが……」
スピカちゃんは胸元に抱えていたタオルの塊を、私にそっと差し出した。
「子猫、ですね」
「はい」
タオルの中から出てきたのは、ガリガリに痩せて毛並みも悪い子猫だった。
「木に登って降りられなくなったところを保護していただいたのです。これから人を呼んで参りますので、少しの間だけ、この子の様子を見ていていただけませんか? あ、猫が苦手じゃなければなんですけど」
「私は平気です」
この子がアンタレスが手伝って助けたという子猫なのだろう。
スピカちゃんが私のために一走りしてくれるというのに、子猫を連れ回すわけにはいかないだろう。
「分かりました。お預かりいたしますね」
「よろしくお願いします。では行って参りますね」
すぐに戻ります! と言って、スピカちゃんは校舎の方へと走って行った。
「……まさかヒロインに助けてもらえるなんてねぇ。今日はいろいろありすぎじゃない?」
私の独り言に、子猫がにゃぁーんと答えた。
▽
子猫のノミがすごかったので、毛の間を掻き分けてノミ取りをしていると。ゴロゴロと不可思議な音がしてくる。猫が喉を鳴らす音ではまったくない。
なんの音だろうと目をこらすと、遠くの方から園芸作業用の一輪車を押すスピカちゃんの姿があった。
「どうしたのですか、その一輪車は……」
私のもとまでやって来たスピカちゃんが「実は」とちょっと困ったように微笑む。
「この近くに居たのがご高齢の庭師の方で……。校舎の中まで探しに行くよりも私がお嬢様を運べばいいのだと気付いたんです。それで庭師の方に一輪車をお借りしてきました!」
え、すごっ、さすがヒロイン。こういう明るい考え方で攻略対象者の心を掴んでいくのね、としみじみ思いつつ、私はお礼を言う。
「まぁ、ありがとうございます! 助かりますわ。私が重くて運べないようでしたら、すぐにおっしゃってくださいね」
「大丈夫ですよ。庶民の頃は小麦の大きな袋を運んだりしていましたから。お嬢様はとても華奢ですし」
「あら、大変失礼致しました。まだ名乗っていませんでしたね。ノンノ・ジルベストと申します」
「わわっ、こちらこそ。スピカ・エジャートンと申します」
「どうぞよろしくお願い致します、エジャートン様」
「スピカで構いません」
「私のこともどうぞノンノとお呼びくださいませ、スピカ様」
「はい、ノンノ様」
ノクターンノベルズの愛し子、略してノンノよ。
前世で一度も読めなかったけれどね☆
来世で日本に生まれ変わったら、私、真っ先にノクターンノベルズを検索するんだ……。
「ではノンノ様、お運びする準備をしますね」
スピカちゃんは一輪車の底になんと制服のジャケットを敷いてくれた。これはさすがに申しわけなさすぎる。
「そんな、ご迷惑をお掛けしているのに、スピカ様の制服まで汚させるわけには……!」
「構いません。お洗濯は得意なのです、私。それに、有り難いことにお祖父様が制服を何着も用意してくださったので、すぐに乾かなくても平気なんですよ」
「私も自宅に制服の替えがありますから! 私の制服こそ汚しましょう!?」
「そんなわけにはいきませんわ。ノンノ様のように愛らしい方の制服を汚してしまったら、私の胸が痛みますもの。さぁ、少し失礼いたしますね」
抵抗も虚しく、スピカちゃんに脇の下に腕を通すように抱えられて制服の敷かれた一輪車に乗せられてしまった。あああぁぁぁぁ……。
お礼になにをお返しすればいいんだろう、ここまで迷惑掛けてしまって……。
「揺らさないようにゆっくり進みますけれど、酔いそうでしたらおっしゃってくださいね」
「何から何まで申し訳ありませんわ……」
「ふふふ」
私は子猫を抱え、スピカちゃんは私入り一輪車を危なげなく押して行った。
校舎に辿り着くと、ちょうど我が家の御者が馬車の待機場に現れない私を心配して探しているところだった。
私は一輪車から馬車へと運ばれ、見送ってくれるスピカちゃんと子猫に手を振った。
こんなに親切で心優しいスピカちゃんのことをアンタレスは「神様みたい」と言っていたが、本当にその通りだったな、と思う。
女神様なスピカちゃんではなく私を選ぶなんて、アンタレスは女の趣味がよろしくないのでは……。
またアンタレスの告白を思い出して真っ白になってしまいそうになり、私は頭をふるふると横に振った。深く考えたらきっと命が危ない。
私は書き途中の小説のことを考えながら帰路についた。