4:アンタレス、回想する
「……やって、しまった」
下校に合わせて迎えに来てくれた我が家の馬車に乗り込み、ガラガラと車輪が動き出してからしばらくして、僕は深く息を吐いた。
背凭れに寄りかかっていたはずの背中がどんどん丸くなり、視界に制服のスラックスに包まれた自身の太股が映る。紳士らしくピシッとした姿勢が今は取れそうにない。ぐでんぐでんに力の抜けた猫のようだ。
情けないぞ、アンタレス・バギンズともあろう者が。それでもバギンズ伯爵家嫡男なのか。
そう自分に発破をかけてみるが、やはり気持ちは切り替わらない。
それどころか、先程自分がしてしまった告白シーンを何度も思い返し、恥ずかしさに身が焦がれる。もういっそ誰か僕を燃やして消してほしい。
ノンノの額に触れた唇を、そっと指でなぞってみる。
彼女の額は思ったよりもひんやりとしていた、気がする。ほんの一瞬のことだったし、気持ちが荒ぶっていたのでハッキリと覚えていられなかったけれど。
「ノンノ、……どう思ったんだろう」
他人の心を読む超能力を持つ僕には、あの場に踏み留まっていればノンノの気持ちを読むことが出来た。
けれど彼女の気持ちを読みたい以上に、自分の中の羞恥に堪えきれず逃げてしまった。
ノンノは僕からの好意を、少しでも嬉しいと思ってくれたのだろうか。戸惑いの方が大きかったのだろうか。
勢いで額に口付けてしまったけれど、ノンノは……。
いや、破廉恥なノンノことだから、額への口付けだなんて幼い愛情表現に心を揺らしはしないか。そこに関してはむしろ今頃「デコチューだなんてプラトニック過ぎない?」と逆の意味で驚いているかもしれない。
そう思うと少しだけ恥ずかしさが薄れるような気がする。ノンノにとって大した出来事ではないのなら、僕にとってもまだ致命傷ではないはず。
羞恥で暴れまわっていた心がようやく少しだけ正気に戻る。
僕はやっと上体を起こし、背凭れにきちんと寄りかかった。馬車の窓から外の風景を見るとはなしに見つめ、頭の中を整理する。
今日はあまりにいろんなことがありすぎた。ーーーいや、今日も、か。
ノンノと出会ってからずっと、僕の毎日はあまりに騒がしいから。
▽
他人の心が読めるという、この呪わしい能力が僕に目覚めたのは五歳の頃のことだ。
本当になんの前振りもなく突然のことで、当時の僕は大変混乱した。
いつも優しく接してくれていたはずの侍女が、本当は『近寄るなクソガキ。子供の世話なんてほんとに最悪』と僕を嫌っていたこと。
理想の大人だと憧れていた紳士が、心の中は罵詈雑言を叫びまくっていたこと。
「私たち親友じゃない。なんでも相談に乗るわ」と口では言いながら、相手の私生活を悪意を持って周囲に広めていくご婦人たち。
この世界には実は、そんな恐ろしい人達がうじゃうじゃ蠢いて暮らしている。
その事実を大人になっていく過程でゆっくりと知ることができたら、僕は諦めと共にそれを受け入れることができたのだろう。
けれど五歳の僕は、それまで優しい笑顔と綺麗な言葉と丁寧なしぐさに囲まれて生活していたので、突然世界から背を向けられたかのような絶望を感じた。
僕が人を恐れて屋敷に引きこもりがちになってしまったのは、仕方のない流れだったと思う。
誰も彼もが怖かった。実の両親にさえ僕は怯えていた。
両親は僕を心配する言葉を口にしながらも、心の隅で僕のことを面倒だと感じているのが分かった。
『今まで良い子だったのにどうしたのだろう、心配だ、早く良くなっておくれ、……手のかからなかった頃の息子に戻って欲しい』
どうして五歳で知ってしまったのか。
せめて十五歳の僕だったなら、そんな両親の心の声にあれほど激しく傷付くこともなかっただろう。両親には領民を守るために多くの務めがあり、日々の暮らしに疲れていて、僕のことだけにかまけていられないことを理解してあげられただろう。
けれど当時の僕には無理だった。
両親にすら不信感を感じ、僕はテレパシー能力が目覚めてしまったことを誰にも相談できずに泣いていた。
そんな面倒な子供であった僕だが、両親はまだ見捨てないでいてくれた。忙しい合間を縫って、僕に様々な気分転換を用意してくれた。
たくさんの本や玩具、新しい馬を買ってくれたり、お気に入りのパティスリーから新作のお菓子を取り寄せてくれたり。同い年の子供達を呼んだ気楽なお茶会もその一環だった。
そしてそのお茶会で、僕はノンノ・ジルベスト子爵令嬢に出会った。
ノンノ・ジルベストはヘーゼルナッツ色の大きな瞳と、同色の細い髪を持つ、繊細そうな少女に初めは見えた。
整った顔で少し困ったように笑い、ゆっくりとお茶を口に含む動作も愛らしくて、周囲の人間の庇護欲を刺激するような儚さを持つ、おとなしい子に見えた。
僕は他人の心の声が聞こえないように中庭には出ず、屋敷の中から彼女を見ていただけだから、余計にそんな風に見えた。
なんだか野うさぎのような子だなと、思ったような気がする。
ある日のお茶会で、ノンノは中庭に咲いた花を一生懸命に摘んでいた。
子供達が座っているラグの周囲の花を一輪一輪と摘んでいき、「あ、あっちにもきれいなお花がある! そっちにも!」というようにぴょんぴょん跳ねながら、カラフルな花束を作っていた。その姿は本当に野うさぎみたいだった。
彼女の性格をよく知った今なら分かるけれど、あれは人畜無害な振りをしてお茶会をバックレようとするノンノの渾身の演技だった。
けれど僕はそんなノンノに見とれ、きっとあの子は純真な子に違いないと思ってしまった。見事に騙されたのである。
あれほど他人を恐ろしいと思っていたこの僕が、なぜノンノのことだけはそんな風に思ってしまったのか。思い返せば恥ずかしい事実なのだが、僕は単純にノンノの見た目が好みだったのだ。だから都合良くノンノのことを純真な子だと思い込んでしまった。本当に恥ずかしい。
そして当時の僕はそのまま、中庭から消えてしまったノンノのことをうっかり探しに出てしまった。
その後初めて目の前で向き合ったノンノの、儚い見た目からは想像もできなかった破廉恥な内面に唖然とし、淡い初恋が無惨に砕け散るとともに、僕はかけがえのない友人を得ることとなった。
ノンノという女の子は、非常に無邪気にいかがわしい存在だった。
愛らしい姿で侍女の腰に抱きついては『おっふ、いい乳!』と微笑み、憂いを帯びた表情を浮かべて辞書を見ているかと思えば“性交”や“乳房”の単語にアンダーラインを引いている。
彼女の数学の教科書の円周率πのページにはなぜか開き癖がついており、地図を眺めているかと思えば王都の花街へ行くルートを調べていたりする。
薔薇が見頃だと聞けば植物園へ出掛けて恋人達の様子を観察し、恋人達に人気のカフェの話を聞けばパフェを食べながら恋人達を見学する。
そんな恐ろしい女の子だった。
そのうえノンノは前世の記憶を持つと思い込んでおり、精神年齢もめちゃくちゃで、倫理観もこの世界の人達とはまったく違っていて、「私の異世界転生特典チート能力はこれよ!」と言いながら破廉恥小説や春画を作り出すくせに表面だけは淑女のマナーを遵守する、もはや怪物であった。
ノンノの傍に居ると、呆れるし、ドン引きするし、驚くことばかりで疲れるのに、僕は彼女と友達付き合いをやめようとは思わなかった。
だってノンノは僕のことをどこまでも信頼していたから。僕に心を読まれることを理解しているのに、開けっ広げな気持ちを僕に差し出して、ちっとも飾らない。
『そのままの心で生きていていいんだよ、アンタレス』
『きれいな気持ちじゃなくても正しい気持ちじゃなくてもいいんだよ』
『人前でそこそこの礼儀を尽くせたら、それで大丈夫だから』
ノンノの心が僕にそう囁く。
他人を怖がってもいいし嫌ってもいいし汚い心を持ってもいい。それで相手を傷付けようとさえしなければ。
そんなふうに生きるノンノの傍に居ると、僕は僕のままで生きることが許されているような気がして、楽になれた。
僕はノンノに救われていたのだ。彼女の心が僕の傍に居てくれなかったら、僕は他人と関わる勇気を持つことなんて出来なかったんじゃないだろうか。ずっと他人の心の声が怖いまま、畏縮して生きていただろう。
だけど今はそれほど怖くはない。
悪意はもちろん恐ろしい。
だけど他人の心から、それ以外の感情の声だってちゃんと聞こえてくる。喜びも、悲しみも、苦しみも、人を愛する心も。理解出来ないと思うような声もあれば、共感出来る心の声もある。たくさんの気持ちが混ざり合って一人の人間が形成されている。
自分からわざわざ近づこうとは思わないけれど、己の内側に抱えて生きているだけの人を、過剰に恐れることもなくなった。
それだけで十分、僕には生きやすくなったと思う。
それから十年の月日が経って、男爵家の養女だという少女が学園に編入し、ノンノの言う『乙女ゲーム』が始まった。
ノンノは僕を『攻略対象者』だというが、僕に男爵令嬢を構っている暇はない。
だってノンノが毎日なにかしら問題を引き起こすからだ。
ノンノはいつの間にか“ピーチパイ・ボインスキー”などという卑猥な響きに聞こえる名前で作家業を始めていた。以前『異世界転生特典』だとかノンノがほざきながら書いていた破廉恥小説だ。
彼女はそのネタ探しに奔走したり、自分の評価を知りたがってファンが集っているところに乗り込んで行ったり、「ねぇアンタレス、私、男性の体って前世で父親と一緒にお風呂に入った小学校低学年の記憶までしかないんだよね。あーあー、男の体が見たいな~。どこかに全裸を見せてくれる親友が居ないかな~」と僕にチラチラと視線を向けてきたりした。
とっさに彼女の頭を叩いた僕を非難する奴など居ないだろう。
こんな問題行動ばかりのノンノだったけれど、僕以外の人からは「繊細でか弱い少女」だと評価されているから腹立たしい。
成長したノンノはほんの少し力を加えただけで折れてしまいそうな華奢な体で、ヘーゼルナッツ色の大きな瞳は小動物のように潤み、困ったように笑う顔に庇護欲を掻き立てられる人間が老若男女後を絶たない。彼女の性格を勘違いして思いを寄せている男子生徒もいた。
まさか「ノンノの外見に騙されていますよ。彼女はとてつもなく破廉恥な人間です」などと男子生徒に忠告するわけにもいかず、僕はノンノに黙って彼女の身辺を守ったりしている。
そんな僕の行動を勘違いした両親がジルベスト子爵家に縁談を申し込んでいるのも知っている。
……けれどそれもそれでいいかな、と思ったりする。ノンノの真実を知らない誰かに嫁ぐよりは、僕に嫁いだ方がノンノも自由に過ごせるだろう。
彼女の自由な心が誰かに閉じ込められてしまうのは、親友として見過ごせないからだ。
……などと思っていた僕だけれど、件の男爵令嬢に出会い、すべてが欺瞞だったと理解してしまった。
▽
ノンノがヒロインと呼んでいる男爵令嬢のことを、僕は避けてもいなければ積極的に関わろうとも思っていなかった。ノンノ本人も「プラトニックに興味がないんだよねぇ」と無関心で、そんなことよりも破廉恥なことを考えるのに忙しくしている。
僕とノンノの知らないところで『攻略対象者』と愛を深めて勝手に幸せになればいいと思っていた。
ノンノを探して放課後の校庭を歩いていた時、件の男爵令嬢と出会った。
男爵令嬢は木に登ったまま下りられなくなった子猫を見つけて、助けようとしているところだった。
養女といえど一端の貴族令嬢が、靴を脱ぎ、裸足になって木と格闘している。制服のスカートが乱れることも気にせず、『木登りは苦手だけれど、可愛い猫ちゃんのためならやってやれなくもないはずだわ!』と木にしがみつく。
それはひどく間抜けな体勢で、真剣な表情で、ちっとも木に登れていなくて、でもどこまでも真っ直ぐな心根で。
ーーー恐ろしいと、僕は思った。
男爵令嬢はノンノの言う通り、とても美しい心をしていた。
どんな理不尽な目に遭っても他人を憎んだりせず、羨んだり妬んだりせず。真面目に、がむしゃらに足を進め、失敗して泣いたとしても不貞腐れず、前向きに頑張る心を持っていた。
神様だとか天使だとか、想像上の清らかな生き物だけが持っているであろう、真っ白に光輝く心だ。
ただの人間が持つなんてありえない。
僕は男爵令嬢が恐ろしくて恐ろしくて堪らなかった。
ノンノは言っていた。攻略対象者であるアンタレスはテレパシー能力によって他人に怯えるようになり、心に深い傷を抱え、学園で出会ったヒロインの美しい心に癒されるのだと。
ーーーこんな人間とは別次元の心に癒されるだなんて、ゲームの僕はよほど心が衰弱していたに違いない。
現在の僕が知っている人間の心は、悪意も良心も混じり合い、薄汚れ、けれど鈍く輝いている。それは僕の中にだってある。
この男爵令嬢はこんな光そのものの心を抱えて、こんな不条理に満ちた世界を生きていかなければならないのか。
まるで、神様が間違えて下界に生まれてきてしまったような、そんな痛ましさを感じた。
僕は男爵令嬢に同情を抱え、彼女の代わりに子猫を助けた。
男爵令嬢は僕に何度もお礼を言って、心からの笑顔を浮かべていた。
この子、本当にこんな綺麗な心でこれから先を生きていけるのだろうかと、苦い心配だけが僕の中に残る。
そして僕は同時にこう思った。ノンノじゃなきゃ駄目だと。
薄汚れた心を堂々と僕の前に広げて、信頼しきって笑ってくれるノンノの傍が一番落ち着く。
ノンノの心が一番好きだと、僕は気付いてしまった。
▽
気付いてしまったらもうどうしようもない。
もはやノンノのいない人生など選べない僕には、彼女に告白することしか考えられず、図書館脇のベンチに居たノンノに想いを告げて額に口付けてーーー逃げてきてしまったわけだ。
「これからどうしようかな……」
馬車の中で呟いてみるが、車輪の音に紛れて消えていく。
家に帰ったら両親に相談して、ジルベスト子爵家にも便りを出して、と。貴族としての求婚の流れを考えることは出来るけれど。
どうしたらノンノは僕と恋をしてくれるのか。ノンノの気持ちを僕に傾ける方法が分からない。
ノンノが僕を友人として好きなのは知っている。彼女に特別な男が居ないことも知っている。むしろノンノには僕以上に親しい相手など居ない。
かといって彼女が僕を異性として意識しているわけではない。
正直、外堀を固めてしまえば「仕方がないなぁ」くらいの緩さでノンノは僕との結婚を受け入れてくれそうな気もする。
だけど僕にはこの能力がある。結婚したあとにノンノが別の男に惚れてしまったら、それがハッキリと分かってしまうのだ。地獄だろう。
外堀を固めるだけでは駄目だ。ちゃんとノンノが僕のことを異性として好きになってくれないと、僕は結婚後もずっと彼女の心を疑い続けなければならない。
今日も僕の妻で居てくれるだろうか、明日も他の男に心を揺らさないかと、そんなことばかり考えて彼女のことを疑い続けていたら、僕は気が狂ってしまうんじゃないだろうか。
「ノンノって、どうやったら僕に恋をしてくれるんだ……?」
もういっそ押し倒せば僕を好きになってくれるだろうか。そんな破廉恥なこと僕にはとても無理だけれど。
子供の頃からよく知っている相手の、未知なる部分を手探りで探す難しさに、僕は再びため息を吐いた。
 




