34:アンタレスの冒険③
グレンヴィル様のお陰で、白い猿の棲みかはすぐに見つかった。彼が指を鳴らしただけで、近くの枝に留まっていたメジロがやって来て、道案内をしてくれたのだ。
僕はすぐに白い猿に食料を与えた。
これでお礼に『願いがひとつだけ叶う石』を貰えるはずと思ったが、そうトントン拍子には進まなかった。
白い猿はすでにその石を手放していたのだ。
「バギンズがお望みの品は、どうやら山頂にあるらしい」
「ウッキィ!」
「山頂ですか。一度空き地へ戻らなければなりませんね」
確か山頂に通じる登山道があったはずだ。ポーション様も新種の薬草を見つけたという話の時に、その登山道についても話してくれた気がする。
「ウッキ、ウキキィッ!」
「いや、この先を行くと別の道から山頂に出られるそうだ。その道の方が近いらしい。ただ、馬には少々厳しい道になるようだ」
時間は有限だ。
今この瞬間も、ノンノの心がどんどん浄化され、清らかになっていっているに違いない。石で元に戻る可能性があるとはいえ、彼女が今苦しんでいることは事実なのだ。
ノンノが正気に戻ったら「かまととぶって清純キャラになっていた自分を殺したい……本当に黒歴史……」と地の底まで落ち込むことは想像に難しくないのだから。
「レディナはここに置いていきます。グレンヴィル様、白い猿の言う近道から山頂に登りましょう」
「わかった。猿よ、道案内するんだ」
「ウキィ!」
レディナに別れを告げ、僕とグレンヴィル様は白い猿のあとを追って山頂への道へ向かった。
猿が案内した道は、ひどく険しいものだった。
片方は断崖絶壁で、もう片方は岩の壁だ。しかもその岩はゴツゴツと尖っており、触れると指を切ってしまう。
ただでさえ狭い道には鋭い石が転がっており、迂闊に足を進めるとブーツの底に突き刺さって抜けない。
身のこなしの軽い猿ならばスイスイと進めるようだが、人間にはかなり厳しい道だった。
「申し訳ありません、グレンヴィル様。僕が先を急いだばかりに……」
やはり遠回りでもポーション様の通った道を選ぶべきだった。
僕一人ならば堪えるが、優しいグレンヴィル様まで大変な道を歩ませてしまうなんて……。
「この程度の道、私にはなんでもない。騎士団遠征に付いて行ったときには、もっと過酷な道もあった。……だが、バギンズ、きみが私に対して罪悪感を持ってしまうと言うのなら。山頂まで無事に踏破した暁には、私が君の名前を呼ぶことを許してくれ」
「グレンヴィル様……」
「そしてどうか私のことをプロキオンと呼んでくれ」
(そのほうがとても友達っぽい)とわくわくして言うプロキオン様に、僕の罪悪感が少し薄くなる。
「いつだってお呼びしますよ、プロキオン様」
「バギンズ……、いや、アンタレス、まだ山頂ではないが……」
「僕たちは友達なのですから。なにを成し得ずとも、名前で呼んでいいんですよ」
「そうなのか。ありがとう、アンタレス」
「それはこちらの台詞です、プロキオン様。お礼を申し上げます」
そして僕とプロキオン様は、どうにか悪路を通り抜けて山頂に辿り着いた。確かに時間はそれほどかからなかった。
狭い山頂に、ポーション様がおっしゃっていた新種の薬草が青く発光しながら生えていた。吹き抜ける風にお辞儀をするように揺られる青い光は、とても幻想的だった。
「ウキィッ」
「猿が『あそこだ』と言っている」
白い猿とグレンヴィル様が指差す場所に、人の背の高さよりも大きな岩が二つ並んでいた。
岩の周囲に『願いがひとつだけ叶う石』を隠すような場所は見当たらないけれど……。
「『夫の岩を時計回りに二周、妻の岩を反時計回りに三周し、岩と岩のあいだを抜けると、山神様の庭に辿り着く。石はそこに隠した』と猿が言っている」
「夫の岩と、妻の岩……?」
「あの二つの岩は、夫婦岩と呼ぶらしい。大きい方が夫で、一回り小さい方が妻だと」
「そうなんですね」
本当に、プロキオン様が居なければ石のある場所まで辿り着けなかっただろう。
僕は心からプロキオン様に感謝した。
「猿が言っている。『石は恐ろしい悪夢の先にある』と」
「……プロキオン様、ここまで着いてきてくださり、本当にありがとうございました。あとは僕一人で行きます」
「だが、猿が恐ろしい悪夢があると……」
「この猿が恐ろしいと言うのなら、余程のことです。これ以上の危険に、プロキオン様を巻き込みたくはありません」
「だが私たちは友達だ。アンタレス、きみの困難に駆けつけずにして、」
「友達だから、僕を信じて待っていてください」
僕がはっきりとそう言えば、プロキオン様の唇の動きが止まった。
一拍置いて、彼は力強く頷く。
「そうか、わかった。これはきみだけの試練なのだな。ならば私は友の帰りを信じて待つとしよう。……アンタレス、きみの健闘を祈る」
僕はプロキオン様に深く頭を下げてから、夫婦岩へ向かった。
猿から教えてもらった手順で岩のあいだを抜ける。
すると目の前には、どこまでも続く白銀の森が広がっていた。
▽
僕は白銀の樹を見上げた。
どれほどの直径があるのだろうか。大の大人が五人両手を伸ばして輪になってもまだ足りないほど太い幹を持つ白銀の樹は、内側から光り輝いて白かった。
樹はどこまでも伸びてゆき、張り巡らされた枝々には広葉樹らしい丸みを帯びた葉がびっしりと繁っている。葉の表は白く、裏は銀色だ。
地面はその白銀の葉に覆われていた。人間の世界では葉は枯れて散り積もるものだが、落ちている白銀の葉は枯れているようには見えなかった。白々と輝き、足元を照らしている。
人間が知らないだけで、樹は太古からこの空間にあったのだろう。強い力に満ちていた。
さて、猿の言う悪夢とは一体なんだろうか。
山神様の庭と呼ばれた森に、生き物の気配は全くなかった。一体何が僕に悪夢を見せると言うのだろう。
ただ葉が擦れ合う音が、まるでシャンシャンと鈴の音のように聞こえてくる。
シャンシャン……シャンシャン……
シャンシャン……シャンシャン……
「ちかよらないで!」
気付けば目の前に幼い頃のノンノが居た。
ヘーゼルナッツ色の瞳にたっぷりと浮かべた涙が、ぼろり、ぼろり、と落ちて、彼女の頬を濡らす。
「ノンノ、どうして泣いているの? なにがあったの」
「こっちに来ないで、化け物! あなたなんて化け物よ! 心が読めるなんて気持ち悪い! わたしの心を読まないで!」
「ノンノ……」
幼いノンノから伝わってくるのは純粋な恐怖だった。
心と言う、人間の持つ最も柔らかな急所を踏み荒らされたくないと願う、全身全霊の拒絶だ。
僕は呆然と彼女を見た。
どうして、ひどい。なんでそんな悪口を言うんだ。好きで他人の心の声が聞こえるようになったわけじゃないのに。
僕は彼女の言う通り、化け物になってしまったのだろうか? 人の心が読めるなんて、ふつうじゃない……。
ジルベストじょうは泣きながら僕の前から走りさって行った。
あの子なら優しそうなふんいきだったから、友だちになれると思ったのに。
お茶会のとちゅうで子どもたちの中からぬけだし、庭の花をねっしんに見ているジルベストじょうに、「そのお花が好きなんだね」と僕は声をかけた。さいしょはジルベストじょうもへにょりと眉尻を下げるようにして笑ってくれた。
「へぇ、そのお花、たんじょうびにお父様がプレゼントしてくださったから、好きなんだね」
彼女の心を読んでそう言えば、驚いたように目を丸くした。
その顔に、僕は言ってはいけないことをいってしまった、と思った。しっぱいした、と。
でも優しくか弱い、この子なら。やわらかな心で僕のことを受け入れてくれるかもしれない。
僕は勝手にジルベストじょうに期待した。
「どうしてそんなことがわかったの? わたし、言ってないのに……」
「きみ、ひみつを守れる?」
「うん。わたし、もう六才だもの。ひみつを守れるわ」
「……僕はね、他の人が考えていることがわかるんだ。ジルベストじょうの心の声も聞こえたよ」
僕がそう言ったとたん、彼女の心は恐怖にぐちゃぐちゃになって、僕のことを「化け物」と言ったのだ。
その悪口は僕の胸のまん中に刃物のように突き刺さり、ぬけなくなってしまった。
ずっと痛い。ずっとズキズキする。
こんなに苦しいのは、ジルベストじょうのことが忘れられないからだ。
僕はなんども頭をふって、彼女のことを考えまいとした。
それでもずっと忘れられなくて、ジルベストじょうの怯えた顔が、恐怖にちぢみ上がった心が、泣き叫んだ言葉がくり返し僕の頭のなかに浮かんでは、痛みをよみがえらせる。
こわい。こわい、こわい。人がこわい。
みんな悪いことを考えている。いけないことを考えている。きれいなことを考えた次のしゅんかんには、もう別の汚いことを考えている。心の中とはちがう言葉を口にする。僕に優しく笑いかけながら、本当は僕になんて関心がない。
ジルベストじょうですらダメだったのだ。こんな恐ろしい人たちに僕の能力がバレてしまったら、僕はきっと化け物としてころされてしまうかもしれない。
人に会いたくない。だれの心の声も知りたくない。だれも僕に近づかないで。
ひとりにさせて。
シャンシャン……シャンシャン……
シャンシャン……シャンシャン……
(木登りは苦手だけれど、可愛い猫ちゃんのためならやってやれなくもないはずだわ!)
貴族学園で、純白の心を持つ男爵令嬢に僕は出会った。十六歳のことだ。
十歳のお茶会で完全に他人へ心を閉ざした僕だが、伯爵家の嫡男として学園を卒業しなければならず、僕はいやいや通っていた。十代の生徒たちの心はかしましく複雑で、うんざりする毎日だった。
スピカ・エジャートン男爵令嬢と出会ったのは、そんな灰色の日々のことだ。出会った瞬間から、スピカ嬢の心は眩く輝いていた。
喜怒哀楽はあっても、妬みや嫉みといったどろどろした感情は一つもない。いつも周囲の人のことを心から愛し、尊敬し、気を配り、自分のことよりも他者を優先する人だった。
スピカ嬢からいつも美しい心の声が聞こえてくるので、僕は恐る恐る彼女に近付いた。
彼女は一切の打算もない笑顔で僕を受け入れてくれる。今日もアンタレス様に会えて嬉しい、と濁りのない喜びで輝いていた。
スピカ嬢はまるで天使のようで、彼女の側は地上に唯一残された楽園だった。
僕はスピカ嬢にだけ心を開いた。
彼女は僕の心を決して傷付けたりしないから、安心して傍で笑うことが出来た。
シャンシャン……シャンシャン……
シャンシャン……シャンシャン……
僕はいつの間にかスピカ嬢に恋に落ちていた。
あんなに心の美しい人などこの世にはいない。愛さずになんていられなかった。
けれど、スピカ嬢を愛しているのは僕だけではなかった。
先王の子であるフォーマルハウト王太子殿下に、現国王の子である双子のリゲル第二王子とカノープス第三王子。王国騎士団を担うグレンヴィル公爵家のご子息や、大法廷長官を任命されているロックベル侯爵家のそのご子息も、彼女に並々ならない思いを寄せていることは知っていた。
我がバギンズ伯爵家は王国内で最大の港を有する、この国の貿易の要のひとつだが、その地位や権力だけで退けられる相手ではなかった。
だが、幸いにもまだスピカ嬢には、特別に想う相手は現れていない。今ならばまだ、恋敵たちを追い落とすことができるのだ。
僕のこの読心力で、彼らの秘密を暴くのもいいかな。
そんなことを考えながら暗い渡り廊下を歩いていると、陽光溢れる中庭から女子生徒たちのかしましい笑い声が聞こえてきた。
なんて煩いのだろう。スピカ嬢の愛らしい声とは大違いだ。イライラする。
睨み付けるようにしてそちらに視線を向けると、中庭にはちょうどフォーマルハウト王太子殿下と、その側近のリリエンタール公爵令息が居た。
彼らを取り巻くようにして、女子生徒たちがきゃあきゃあと群がっている。
その煩い女子生徒たちのなかに、僕はヘーゼルナッツ色の細い髪をなびかせる少女を見つけてしまった。
あの日、僕を『化け物』と呼んだジルベスト嬢だ。
あれからもう十年も経っているのに、彼女を学園で見かける度に僕の心は黒く濁る。
ジルベスト嬢が刻んだ傷跡はもはや化膿して、ぐちゃぐちゃに腐っている。彼女が僕に与えた悲しみは殺意を孕む憎しみとなって、僕の内側に存在していた。
ジルベスト嬢は僕を見かける度にいつも、真っ青になって逃げて行く。それが本当に憎たらしい。
きみなんか嫌いだ。大嫌いだ。いつまでも僕のことを化け物を見る目で見つめてくる。冷たい拒絶を向けてくる。そんなきみのことなんて。
きみに背中を向けたいのは僕の方だ。
本当は自分が傷付けられた分、僕はきみを傷付けてやりたい。冷たく接して、きみがどれだけ僕に失礼な態度を取っているのか分からせてやりたい。
ただ紳士としての理性が僕にそれをさせないだけだ。
消えてくれ、ジルベスト嬢。
きみを見かける度に、スピカ嬢によって救われたはずの心がまた悲しみに囚われてしまうんだ。
憎い。きみが許せない。きみの不幸を心から祈ってしまう。
こんなことを考えること自体、時間の無駄だというのに。
僕は溜め息を吐く。
ジルベスト嬢から視線を外し、きびすを返そうとしたところでーーー彼女の心の声が聞こえてきた。
(はぁ……。今日も素敵だわ、リリエンタール様。教室での凛々しいお姿も素敵だけれど、王太子殿下のお側で少年のように笑うお顔も可愛らしいわ。子爵令嬢の私など眼中にはないでしょうし、自分から話しかけるなんて恥ずかしくてとても出来ないけれど……。こうしてご令嬢たちに混じって眺めているくらいは、どうか許して下さい。ああ、リリエンタール様……)
「……は?」
僕は慌ててノンノに駆け寄り、その肩を掴んだ。
ノンノは突然の出来事に驚いたように、僕を見上げた。
「今、なにを考えたの、ノンノ? 浮気? それって浮気でしょ? きみは僕の恋人なのに、いつのまにリリエンタール公爵令息様に憧れていたわけ? あんな裏表の激しい腹黒野郎なんか、ノンノの好みじゃないでしょ!」
ノンノの薄い肩をぶんぶん揺らす。
近付いたらなぜかノンノの心の声が聞こえなくなってしまい、僕は余計に不安にかられた。
「僕のことを好きだって言ったじゃないか! 僕への感情は全部恋愛感情だって、言ったじゃないか!! 今さら別の人を好きになったって無駄だからね。『ノンノ・ジルベストは破廉恥な女性です』って言いふらしてやるからっ。そんな不名誉な噂が流れたご令嬢に、まともな縁談なんか来るものか。僕以外にきみを娶る男なんか、居やしないんだからねっ!!」
僕はいつのまにか肩で息をしていた。ノンノに怒鳴り散らしたせいで喉が痛む。
ノンノは、ーーーなぜかいつものように困り笑顔を浮かべていた。
「……ノンノ?」
彼女が僕の手に触れた。なにか小さく固いものが手のなかに滑り込んでくる。
これは一体なに、とノンノに尋ねようとしたのに、彼女の姿が煙のように薄くかき消されていく……。
シャンシャン……シャンシャン……
シャンシャン……シャンシャン…………
▽
目が覚めると、青空が視界いっぱいに広がっていた。たっぷりの水を含んだ筆で描いたような雲が、薄く薄くたなびいている。
いつのまにか僕は山頂付近の空き地で、仰向けに横たわっていたらしい。
そして右手のなかに、丸くてすべすべした白い小石を握り締めていた。




