33:アンタレスの冒険②
「あら、アンタレス。外出するの? ノンノさんのところかしら」
「……お母様」
僕と同じ淡い金髪を一本の乱れもなく結い上げ、エメラルドグリーンの瞳に合わせた濃緑のドレスを着た母に、屋敷の玄関ホールでばったりと出会った。
母は(ノンノさんとお会いするにしては軽装ね。一緒に遠乗りかしら?)と心のなかで首を傾げている。
説明するのも面倒だと思い、僕は頷いた。
ノンノを破廉恥に戻すために一人で裏山へ出掛けるなど、どうやって説明しろというのだ。
「彼女と遠乗りに出掛けてきます。夕食までには帰りますので」
「そう。ノンノさんによろしく伝えてちょうだい」
「はい。行って参ります」
「行ってらっしゃい」
母に見送られて屋敷を出る。
事前に用意を頼んでおいた僕の馬が、鞍やあぶみを装着されて門の前に待機していた。
「レディナ、今日は頼んだよ」
栗色の毛に覆われた首筋を撫で、顔を寄せれば、レディナが黒く澄んだ眼で僕を見返す。返事をするようにレディナの鼻から、獣の臭いがする生暖かい息が僕の頬に触れた。
まだノンノに出会う前、他人の心の声が急に聞こえるようになって引きこもりがちになった僕のことを心配した両親が買ってくれた馬が、レディナだった。子供でも扱えるようにと、とびきり大人しい牝馬を与えられた。
僕は動物の心を読むことは出来ないが、レディナはとても聡明な馬だと感じている。
馬丁が見守るなか、僕は手綱とたてがみを掴み、あぶみに左足をかけて右足で地を蹴る。鞍の上に静かに腰をかければ、太ももにレディナの熱い体温とみっしりとつまった筋肉の動きを感じた。
上半身のバランスを取って前を向けば、ぐっと高い視野が広がっていた。
「アンタレス坊ちゃま、道中お気を付け下さいませ」
「うん。行ってくるよ」
頭を下げる馬丁にうなずき、僕はしっかりと手綱を握ると、レディナの胴をかかとで軽く蹴った。
普段は馬車で通る通学路へ、僕はレディナを誘導した。
今日は休日なので、学園へ向かう馬車の数は少ない。
僕は今日、学園の裏山を登る計画を立てていた。
校外学習で登った道は馬でも通れる様子だったので、時間短縮のためにレディナで登り、あのときの白い猿を再び見つけて食料を与え、その返礼として『願いがひとつだけ叶う石』を手に入れるつもりだった。
どこまで都合よく物事が進むかはわからないが、今はやるしかない。駄目ならば何度でも計画を練り直し、再度挑戦するまでだ。
以前のノンノを取り戻す。
ただそれだけが、僕の願いだから。
▽
思った通り、裏山の登山道は馬でも問題なく進むことができた。
早々に辿り着いた山頂付近の空き地で、僕は一度レディナから下り、彼女に水を飲ませる。
そのあいだに、前回ランチをした場所で持参した食料を広げてみた。白い猿が前回のように食料を奪いに来る可能性を考えてのことだ。
けれど、暫く待ってみても白い猿は現れなかった。
僕は食料を鞄に戻し、空き地の奥に広がる深い木々のほうに視線を向ける。
「レディナ、僕に付いてきてくれるかい?」
前回なかに踏み行ったときは、人一人通る隙間もない箇所もあった。
だがそういった場所は迂回すればいい。
僕一人で山中をさ迷うよりは、レディナのほうが力強く前へ進めるだろう。
彼女がブルルッと鼻を鳴らして返事をする。
「ありがとう、レディナ」
僕は再び鞍に乗ると、深い木々のなかへ進んだ。
前回歩いた場所をできるだけ進んでいく。馬では通れない箇所は迂回したが、見覚えのある場所を大体進んでいると思う。
けれどいっこうに、白い猿の姿は見えなかった。
あのときノンノに、ゲームではどんな場所に白い猿の棲みかがあったのか聞いておけば良かった。
あの猿を見つけることだけが『願いをひとつだけ叶える石』の手がかりだというのに……。
前回グレンヴィル様と合流した地点にとうとう辿り着いてしまった。
ここから先は本当になんの手がかりもない。
「……だけど、進むしかないか」
僕は独りごちた。
どんな困難が待ち受けているか分からないけれど、今は進む以外に道はない。
本当のノンノを取り戻すまでは、僕は立ち止まってなんかいられないんだ。
「行こう、レディナ」
彼女の腹を蹴って進もうとしたそのとき、ーーー前回と似たようなことが起こった。どこからか、プロキオン・グレンヴィル様の心の声が聞こえるのだ。
グレンヴィル様の心の声はどんどんと僕の方に近付いてきてーーー近くの茂みから彼が姿を表した。
「グレンヴィル様……」
「? バギンズ? 裏山でなにをしている……?」
その台詞はそっくりそのまま返したいのだけど。
心の声を聞くに、グレンヴィル様はモジャとモジャモジャの子孫である熊たちに会いに来たらしい。
そんなグレンヴィル様に、張り詰めつづけていた僕の気持ちが少しだけ緩んだ気がした。
▽
「……そうか。バギンズはあの猿を探しているのか」
「はい」
グレンヴィル様は変わらぬ表情のまま(ならば私もバギンズの手伝いをしよう)と考えている。
一体なぜ、僕の手伝いをしようなどと考えるのだろう。
『願いがひとつだけ叶う石』の希少さを考えれば、下手に他人と同行しない方がいい。
見つけた瞬間に裏切られ、石を奪われてしまうかもしれない。ーーーだって人間はとても愚かな生き物だから。
僕やノンノも例外ではなく、欲に眩んで理性を見失うのが人のさがだ。
だから、いくらグレンヴィル様が居れば心強いとしても、石を確実に自分のものにするためには同行を断らなければ…………。
(バギンズは私の初めての男友達だ。彼を助けてあげたい)
僕はグレンヴィル様の心の声に、呆然と彼を見つめた。
黒いアザに隠れたアメジストの瞳に、幼子のように純粋無垢な友情が煌めいている。
なんの利害も思惑もなく、この人は本当に心から、僕に友情を感じてくれているのだ。
「私も共に行こう、バギンズ。猿を探す手伝いをしよう」
「……なぜ、グレンヴィル様は僕にそれほど優しくしてくださるのですか?」
僕はこの人になにもしていない。
ノンノのゲーム知識がなければ周囲の人たちと同じように彼の姿に恐れ、近付こうともしなかっただろう。
ノンノがエジャートン嬢と親しくしているから、その流れで側に居ただけなのに。
「ん? バギンズが私に優しくしてくれたからだ。両親すら近寄ろうとはせず、周囲から遠巻きにされる私なんぞに、会話をしてくれただろう。人として礼儀を尽くしてくれただろう。いっしょに食事をし、街へ出掛け、笑い掛けてくれただろう。私はそのすべてが嬉しかった」
それは単に今までのグレンヴィル様の環境が悪かっただけだとは思ったが、絞られるように僕の胸は痛んだ。
「私たちは友達だ、バギンズ。共に猿を見つけよう」
「……はい。ありがとうございます、グレンヴィル様」
ノンノ以外にも、僕は心を開くことができたのだなと、シャツの胸元をギュッと握りしめながら思った。




