32:アンタレスの冒険①
※虫注意。
蜜蜂の繁殖についての内容があります。
ポーション様が作った薬を飲んでから早一週間、ノンノは人が変わってしまったように純情になってしまった。
いっしょに飲んだ僕にはなんの不調も変化もないのに、何故ノンノだけなんだ……。
遠目に顔を会わせるだけでノンノは緊張に顔を赤くし、モジモジと両手の指を組み合わせて後退る。
そちらが来ないのなら僕から近寄ろうとすれば、「ぴゃあ!」と奇声をあげ、きびすを返して逃げて行く。
学園で捕まらないのなら我が家へ呼び出そうと手紙を送っても、断りの返事ばかりが届く。
ジルベスト家を訪ねれば、屋敷の裏口から出て行ってしまう。
会話もなければ肌の接触もない。長年いっしょに居たため僕のテレパシー範囲がなんとなくわかるのか、ノンノの心の声さえ聞こえない。
さすがにノンノも恋人に優しくしないのはいけないことだという認識はあるようで、交換日記なるものが届けられたけど。
その内容がひどい。
『アンタレス様
私は元気です。アンタレス様もお変わりなくお過ごしでしょうか。
我が家の庭ではひまわりの芽が伸びてまいりました。きっと来月には大輪の花を咲かせることでしょう。
そろそろ学期末試験の時期ですね。勤勉なアンタレス様のことですから、今頃は試験勉強に励んでいらっしゃるのでしょうか。私も勉強に集中して頑張ります。
どうぞお体をお大事になさってくださいませ。
ノンノ・ジルベスト』
ノンノが領地へ出掛けたときなどに手紙を受け取ったことはあるけど、こんなにまともで薄っぺらい内容を受け取ったことは初めてだ。
今まで送られた手紙は、
『アンタレスへ。
本日領地の屋敷でカイルお義兄様から、ジルベストハニービーについて研究している教授とその助手の奥様を紹介していただきました。
そのお二人からとっっってもすごい話を聞きました!
アンタレスは蜜蜂の交尾がどんなものか知ってる?
女王蜂がフェロモンでたくさんのオスを呼び寄せるのだけど、女王蜂は生涯で何度も交尾ができるのに、オスの蜂は生涯一度しか交尾ができないんだって。
なぜなら交尾直後に生殖器がボンッと爆発してちぎれて、そのまま空中で死んでしまうのだそう。
女王蜂の方はそのあともたくさんのオスと交尾を続けるんだって。
私は今日一日その話を思い返しては、女王蜂の悪女っぷりと、死ぬとわかっていて交尾をするオス蜂の根性に胸が熱くなります。
ちなみにオス蜂は交尾をせずに生き延びても、冬が来る頃には役立たずとして巣から追い出されて餓死するようです。
私がオス蜂であったなら、女王蜂に貞操を捧げて死ぬ方を選ぶでしょう。
なんにせよ、私もジルベストハニービーのように、スケベにたくましく生きようと思いました。
それで明日から三週間ほど、私はジルベストハニービーの交尾を求めて、教授たちのフィールドワークに付いていくことになりました。
アンタレスから手紙が届いてもきっとお返事できないけれど、私は野営地で元気に過ごしていると思うので心配しないでください。
また王都で会いましょう!
追伸
今年の分の蜂蜜、手紙といっしょに送るので、バギンズ家のみなさんでどうぞ~。
ノンノより』
という感じの、彼女らしさに溢れる内容だった。
この交換日記のうすら寒い内容より、蜜蜂の交尾の話の方が百倍も良かった。
……ああ、なにこれ。
自分の精神状態が、すごく不安定なことがよくわかる。
ノンノの傍に居られないことに、苛々して仕方がない。
なんできみ、僕の傍に居ないの? だってノンノは僕の女の子でしょ。結婚の約束もした恋人同士でしょ。なのになんで僕が避けられなくちゃならないわけ。純情ってなんだよ。今さら純情になったって遅すぎるでしょ。もうどれだけノンノの破廉恥な妄想を側で聞き続けてきたと思っているの。十年だよ、十年。破廉恥で構わないから、いつものノンノのままで僕の傍に居てよ。また困り笑顔を見せてよ。きみ、純情になってから全然笑ってないじゃないか。なんで離れるの。なんで他の人間とは平気で喋っているのに僕だけ避けているの。きみがまともになることなんて、僕はちっとも望んでなんかいない。ノンノ自身が省みて、自分を変えたいと努力するなら何も言わないけれど。よくわからない薬のせいじゃないか。善悪を持ってよからぬことを考え、欲望と常識の狭間で奔走し、失敗し、反省し、それでもまた懲りずに欲望を抱える、そういう正直すぎるノンノでいいのに。お願いだから、また「アンタレスー!」って僕の名前を呼んで、僕の腕の中に飛び込んできてよ。僕にきみの心の声を全部聞かせてよ。
ああ、……僕は本当に参っている。
▽
どうしたら以前のノンノを取り戻せるのか。
僕は唯一の情報源である、ポーション様のもとを訪ねた。あの薬のことについてもっと知りたかった。
「あの新しい薬のことですか?」
薬草畑の雑草を抜いていたポーション様は顔に土を付けたまま、目を輝かせる。
「どんな材料を使ったのか、ほかに薬を飲んだ者にどんな反応があったか、薬草自体についてでもなんでも。知っていることを教えてください」
教えてほしいと口にしながら、彼の心の声にじっくり耳を傾ける。
どんな情報でも、僕の前ではなんびとも隠すことは出来ないのだ。
……薬を作った張本人である彼に、ノンノが純情になってしまったと伝えることができれば一番良いのだけれど。そもそもポーション様はノンノが純情な乙女だと思っているので、理解してはもらえないだろう。
だから僕は、彼に助けを求めることは最初から考えていなかった。
ポーション様は僕が薬草学に興味を持ったか、よほど新しい薬を気に入ってくれたのだろうと思い、僕になんでも話してくれた。薬草も実際に見せてくれたし、分量のメモなども見せてくれた。
それでわかったことは、材料は新種の薬草以外にあやしいものはないこと。薬を飲んだ者のなかで爽やかな気持ちになる以外の反応を見せた者は、ノンノ以外誰も居なかったということだ。
ノンノが純情になったのは本当に特殊なパターンなのだ。
ポーション様は乾燥させた新種の薬草を持ち、話す。
「この薬草、乾燥させてもまだ少し光って見えますね。山頂付近に生えていたときはもっと青く光り輝いていて綺麗だったんです」
「……山頂、ですか」
校外学習のときは山頂までは行かなかったな、と思い出していると。
不意にノンノがあのとき心で思っていたことを、僕は思い出した。
白い猿からお礼として、ひとつだけ願いが叶う石をもらえるのだ、とーーー。
「お話をお聞かせくださり、ありがとうございました、ポーション様」
「いいえっ。こちらこそ薬草学のお話ができて楽しかったです」
ポーション様と別れたときはもう、僕の心は決まっていた。
ノンノの治療法を模索している暇が惜しい。
それならば裏山に登り、あの白い猿から願いが叶う石をもらおう、と。
それでノンノが元に戻ることを願うのが一番早そうだ。
「……待ってて、ノンノ。絶対にきみを元に戻すから。そしてお説教だから……」
▽
一方その頃、ノンノは母の自室を訪れていたーーー……。
「失礼します、お母様」
「いらっしゃい、ノンノ。そこの椅子にお掛けなさい」
「はい」
「それで、あなたが私に急に頼み事があるなんて、どうしたのかしら?」
ノンノはポッと頬を染め、モジモジと指をこねくり回す。
「私……、お母様に刺繍を教えていただきたいのです。アンタレス様に、ハンカチを差し上げたくて……」
「あら、まぁっ。ちっとも刺繍に興味のなかったノンノが……。ノンノもお年頃なのねぇ」
母はおっとり微笑むと、頷いた。
「アンタレス様もきっと喜んでくださるわ。頑張って素敵なハンカチを作りましょうね、ノンノ」
「はい! ご教授お願い致します、お母様!」
(待っていてね、アンタレス! 恥ずかしくて緊張してドキドキして胸がいっぱいになっちゃって、ちっとも話せないし顔を合わせる勇気もないけれど、愛情がいっぱい詰まった刺繍入りハンカチを作って贈るから、許してねっ!)
ノンノはこうして淑女としての道を歩んでいた。




