かのようにの哲学~Philosophie des "Als ob"
森鷗外に「かのように」という小説があります。
華族の御曹司が神経衰弱気味で両親が心配しています。洋行でもすれば良くなるかと思って、ドイツに留学させたのですが、帰国してもあまり変わらない。実は御曹司は国史を自分の畢生の事業としようとしているんですが、その中で神話や上代を学問としてどう扱うか、それと皇室の藩塀たる「お父さん」とどう折り合いを付けるかで悩んでいるのです。
その解決策としてファイヒンガーの『かのようにの哲学』が現れるわけです。神話に対してはそれが真実である「かのように」臨めばよいのではないか。しかし、その考え方も画家の友人から否定されてしまいます。「みんな手応のあるものを向うに見ているから、崇拝も出来れば、遵奉も出来るのだ」と。そういう内容です。
この『かのようにの哲学』が鷗外自身の哲学なのか、そうではなく単なる処世術なのか、はたまた小説の素材に留まるのか、そうした間合いの取り方をどう見るかで、かなり違いはありますが、鷗外を理解する上でのキイワードの一つとして『かのようにの哲学』は便利なものとは言えるでしょう。もう少し詳しく言うと、
①文筆家
②軍医総監という公職
③森林太郎という一個人
といった三つの側面の関係をどのように理解するか、その上で①の文豪森鷗外をどう考えるかといった問題です。
例えば彼の遺書に言う「石見人森林太郎」、すなわち③にとって、②はもとより①も「かのように」振舞っていただけではないか、といったことも考えられるでしょう。
文豪鷗外と森林太郎の関係なんて一筋縄ではいかない問題ですが、②と③の関係は、「かのように」で相対化しながら、身を処していたとわたしは単純に考えています。どちらも否定したり、優越させたりせずに、芸術家に徹するでもなく、軍人・能吏として全うするでもなく、どちらの側から見てもどこかに余白を残しておく。そういうことではなかったのかなと思います。その公の姿で割り切れない部分が遺書にほとばしったのではないかと。……
鷗外から少し離れても、組織の中で生きている以上、サラリーマンはみんな(どこまで自覚的かはあるとしても)「かのように」でやっていると言えるのではないでしょうか。組織や上司の言うことに100%従える方がどうかしています。
かと言って、マンガやドラマの主人公のような後先考えない行動なんて取りたくても取れません。無責任と言われること……それは最悪の非難なのです。そういう意味では、処世術ばかりではなく、余白を持つことは精神衛生上もいいかもしれません。昨今、仕事に対する姿勢や考え方の転換を迫られている現代のサラリーマンにとっては、好適な考えと言ってもよいでしょう。
ただ、この思想だけで最後までいいかどうかは、また別の問題でしょう。つまり組織人としての考えと個人の思想の問題との関係を「かのように」だけで片付けてよいかどうかは別なのです。『かのようにの哲学』はある種のニヒリズムと背中合わせではないでしょうか。
その時々の潮流に沿ってホイホイと考えを変え、有能でそつがないけれど、「自分のない」組織人。しかし、「自分のない」状態のままで本当の意味で組織に貢献し、仕事に没頭し続けることは、長期的には不可能な業でしょう。ニヒリズムは心を蝕みます。「手応のあるものを向うに見ている」のは、現代のサラリーマンだって同じはずです。
つまり『かのようにの哲学』はある種の危険性を秘めているのです。古事記や日本書紀の神話がそのままでは信じられない、それは取りも直さず天皇制がそのままでは信じられないということであり、もしこの小説が昭和初期の非寛容な時代に発表されていれば天皇機関説と同様の厳しい批判、弾圧にあったと想像しても全くの的外れでもないでしょう。
『かのようにの哲学』は厳しい思想的対決を言わば括弧に入れた「物わかりのよい」ものですから、合理主義者からも狂信者からも、不徹底、中途半端と糾弾される性質のものなのです。思想を中和し、危険性を取り除くための哲学がそのためかえって自らに危険を引き寄せてしまう。
思想という紙幣は、どこかで「手応え」という実物に交換しなければならないのです。では、思想なんか抜きに直接「手応え」をつかめばいいのか? 手っ取り早く見えますが、結局は強盗みたいなアウトローになってしまうか、偽札をつかまされるか、そのどちらかでしょう。全く厄介なことです。
ひょっとすると鷗外は当時の日本、少なくとも自分の周辺が「物わかりのよい」社会になっていると思っていたのかもしれません。だからこそ、乃木夫妻の殉死にあれだけ衝撃を受けたのではないでしょうか。明治天皇を尊敬し、最大限の敬意を払うことと、(いくら西南戦争以来のいきさつがあるとは言え)その後を追うことは全く質的に異なるものがあります。
かえって極左が極右になる方がわかりやすく、実際にもそうした例があるでしょう。思想的な体温が低い人は体温が高い思想にはどう転んでも行くことはできないのです。こうしたことは、鷗外ほどの秀才であれば承知していたでしょう。しかし、頭でわかっていることと、事実として突きつけられることには埋めきれないギャップがあったと思います。
鷗外は、『お父さん』を権威の代表、すなわち明治天皇とダブらせていたのでしょう。御曹司の『所詮父と妥協して遣る望はあるまいかね』という問いかけに『駄目、駄目』という友人の返答で小説は終わっています。