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1-4 それぞれの初陣


0.03秒。

 最終的に自分が葵に付ける事が出来た差は、たったの0.03秒しか無かった。

 「うーん………」

 一旦全てのローラーを取り外し、改めてセッティングを見直し始め、既に半時ほどが過ぎていたが、未だに結論が見いだせていなかった。

 「モーターはハイパーダッシュ3でええんやろうけど…ローラーどうするか、よなぁ」

 ハウツー本を片手に、今一度ローラーごとの特性を大まかに把握するも、既に頭の中に叩き込まれている情報しか無い。

 「フロントは低摩擦の2段でええとして、リヤまでプラにしたらコースアウトしてまうかなぁ…」

 そうぼやきながら、全てが金属で出来た、13mmオールアルミベアリングを手に取る。

 奮発して二セットも購入した、という思いが、尚更それを手に取りたい衝動へと駆り立てたが。

 「…アカン、あーちゃんやったら、0.03秒くらいすぐに超えてくる…ウチが速度落としたら、絶対勝てる訳あらへん…」

 寸での所で踏みとどまり、初めて買ったセットに付属していた、緑色のローラーを手に取るも、再度頭を抱え出す。

 「それでもなぁ、コースアウトしてもーたら、幾ら速くてもその時点で負けやしなぁ…やっぱちょっとくらい安全マージン取った方がええんかなぁ…」

 既に五回は繰り返したやりとりではあるが、結論が出ない以上、堂々巡りになる他が無い。

 「あえて下側だけオールアルミにして、上はプラで…意味無いかなぁ、それ」

 試そうにも、彼女の家にコースなどある筈もない上に、小鹿模型店も既に閉店している。

 仮に営業していたとしても、夜九時を回ってからの外出など、彼女の両親が首を縦に振る筈も無かったが。

 「あーもう、どうしたらええんやろ……」

 実際にコースに走らせて試す事ができない以上、ある程度は腹を括る必要がある。

 それができない以上、彼女には悩み続ける事しか出来なかった。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 丹念に水洗いしたギヤから、完全に水気を拭き取れたこと、埃の類が付いていない事を確認すると、丁寧に定位置へとセットしていく。

 噛み合わせを確認しながら、丁寧かつ慎重にグリスを塗って空回りさせると、心なしかメンテナンス前よりも回転がスムーズであるかのように感じられる。

 その事に安堵しつつも、まだまだ作業は終わらない。今度はターミナルの掃除が待っていた。

 「…………」

 メッキを剥がさないように丁寧に、それでいて確実に。無心で作業したい所ではあったが、どうしても、何度となく脳裏をよぎる一言。

 『ミニ四駆やっとる時だけはライバルやと、ウチは勝手に思ってた。あーちゃんがウチの事、ライバル視してくれてたかどうかは判れへんけど』

 「…………」

 瀬都子が自分の事をどこまで卑下しようとも、一年前から葵にとって、瀬都子は友達という枠では収まりきらない、どこまで感謝してもし足りない程の大きな存在となっていた。

 そんな瀬都子が、どんな時でも自分の傍に居てくれた瀬都子が、自分と対等に競い合う事を望んでいたとは、露ほども感じる事が出来ずにいた。

 「………」

 何とか整備し終えたシャーシに、姉が魂を込めて塗装したボディを載せ、キャッチで二つを一つにまとめ、卓上に据える。

 十年近くの間、部屋で物言わぬ置物と化していたそれは、この一週間の間で外観も中身も目まぐるしい変貌を遂げていた。

 「……ライバル、か」

 久しく忘れていたその言葉が、妙に心地よく、耳に染みわたる。

 少し。ほんの少しだけだが、自分の口元が笑みの形に釣り上がるのを、葵は自覚した。

 「……懐かしいなぁ、この感じ」

 自分の鼓動が、やけに大きく聞こえ、掌が脈打つ、独特の感覚。

 かつては日常の一部であったのに、一年前に途絶え、それ以来すっかりと忘れてしまっていた物。

 それを思い出させてくれたのは、何よりも大切で、誰よりも大好きな―――

 「……受けて立つよ、セッコ。絶対負けないから」

 いつからかそう呼び出した渾名を口にし、掌を力強く握る彼女自身は、まるで気が付いていなかった。

 その瞳の輝きが、一週間前とはまるで違ったものになっている事に。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 「新土さんって、お姉さんは何でも出来て凄い人なのに、妹の貴女は本当に頼りないですよね」

 「新土、少しはお姉さんを見習って、いつまでも遊び回ってないで、信頼されて頼りがいのある人間になろうとは思わないのか?」

 まただ。

 夢の中なので溜息をつく事も出来ず、うんざりとした心持のまま、目が覚めるのをひたすら待ち続ける。

 子供の頃から、神童と呼ばれ続けた姉と比較され続けた事ですっかり歪んでしまった心が、いつの間にか夢と言う安息の地ですらも侵して来るようになった。

 いつ襲ってくるか分からず、いつ終わるか分からないこの地獄は、最初のうちこそ恐怖その物で不眠症にすら陥りかけたが、慣れとは恐ろしい物で、既に何の感慨も抱かなくなってきていた。

 「お前の姉ちゃんは頼りになるのに、何で茉莉はそうなんだろうな?」

 「使えねー。あんたら姉妹なのに、片方は残りカスじゃん」

 「もう良いわよ、お姉ちゃんがやってくれたから。アンタって子はホントに頼りになんないわね」

 …関係ねぇだろ。

 実の親にすら言われた言葉が勝手に反芻され、流石に苛立ちが心に満ちかける。

 しかし。

 次に聞こえてきた、記憶の奥底に眠る一言は、今までに夢の中で聞いた事は一度たりともない物であった。

 「お願いします! ミニ四駆の事、教えて下さい!」

 嫌味に満ちた今までの声とは違い、悪意の欠片もない、必死さに満ち溢れた請願。

 ここ数日で嫌という程聞いた葵の声が、どういう訳か、スッと茉莉の混沌と言う名の夢の景色を一変させた。

 「だって、ウチとあーちゃん、新土さんにミニ四駆教えてもろとる立場やんね」


 続いて響き出したのは、極めて呑気な、それでいてどことなく芯の強い、瀬都子の声。

 聴く者を悉く安心させるそのゆったりとした声は、今までにない変化に戸惑う茉莉の心をも鎮めさせる。

 「ウチらが『教えて下さい』言うて頭下げた立場なんやから、『先生』よりも『師匠』の方がそれっぽいかなー、って」

 「よろしくお願いします、師匠」

 「(…………)」

 気付いたら、月明かりに照らされた自室が視界に飛び込んでいた。

 それは、いつも長々と付き合わされていた悪夢から、非常に速く抜け出せた事の証左でもあった。

 「……何年振りだろう、な」

 起床したばかりだと言うのに、不思議と冴えた頭脳が、一つの答えを導き出す。

 「…あたしだけが頼り、か」

 店主に言われた事を反芻するその口調は、先程の夢に瀬都子達が出てくる少し前を彷彿とさせるような、重苦しい物であった。

 「…あいつらは何時言ってくるんだろうな。頼りにならないだの、使えないだのって」

 急に何もかも空しくなった茉莉は、今度は悪夢を見ないように祈りながら、再び目を閉じ、枕へと自身の頭部を再度預け出した。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 のんびりと葵の家で朝食と洒落込んでいたが為に、二人が現地に到着した時には、既にレース開始十分前まで差し迫った時刻と化していた。

 とは言え、瀬都子と葵の二人は事前エントリーを済ませていた為、さほど慌てては居なかったが、それでもコースレイアウトを見ておけない事が不安であったのだ。

 「あーれ? 見えへんなぁ」

 駐車場に設けられた特設会場に設置された、コースと思しき物体は、巨大なブルーシートによって覆われ、その全貌が把握できないようになっていた。

 その周囲に居た十数人程の人物の内、唯一の顔見知りであった店主が、申し訳なさそうに話しかけてくる。

 「ごめんねぇ、昔ミニ四駆やってたって知り合いに相談したら、この方が良いって言うもんで」

 「へぇー」

 「なるほど、そういう理由でしたか」

 二人共、コースレイアウトによってセッティングを替えられるほどの知識を有しておらず、さほど問題には成らなかった為、適当に感心する他無い。

 「そういや、師匠、まだ来てへんの?」

 「そういえば」

 参加者と思しき面子を確認していくも、すっかり見慣れた癖っ毛の茶髪はおろか、女性の姿すら殆ど見受けられない。

 「……あの人も、まだか…」

 葵の小さな呟きが聞こえたが、返す言葉も無い為、口を開けない瀬都子。

 が。

 「あー、良かった! 間に合った!」

 激しいブレーキ音と共に、威勢の良い声が辺りに響く。

 ふと振り返ると、季節に似合わない汗を額一杯に湛えた茉莉が、しがみつくように自転車のハンドルに捕まり、肩で息をしている所であった。

 「あ、師匠、おはよー」

 「お早うございます!」

 律儀に挨拶する二人であったが、余程体力を消耗しているのか、ぜーぜーと呼吸を繰り返す茉莉からは、元気のよい挨拶など帰ってこない。

 「ち、ちょ…ちょい、タンマ………」

 言いながら、前カゴに無造作に突っ込まれたカバンの中からペットボトルを取り出し、浴びるように中身を飲み干して行く。

 行儀の悪い事に、口の端から筋のように清涼飲料水を垂れ出していたが、死に体の茉莉を咎める程、二人はマナーに厳しい訳でも無かった。

 「あー……ようやく落ち着いた」

 ほぼ満タンだったペットボトルを一気に空にした直後、しみじみと呟く。

 ようやく落ち着いたと見た二人は、早速質問攻めに掛かった。

 「ししょー、なんでそんな疲れきっとるん?」

 「いやー、それが、予定より三十分も寝坊しちゃってねー、ホント死ぬかと思った」

 汗で随分と汚れてしまった眼鏡を拭きながらも、律儀に答えを返す。

 「けどまぁ、この分だとギリギリセーフっしょ?」

 「はい、まだ大丈夫かと」

 頷き振り向くと、丁度コース中央のスペースに、店主と見知らぬ男性が陣取る様子が伺えた。

 「さぁ、レーサーの諸君! ルールの説明をするから、僕の話を聞いてくれ!!」

 男性が、不思議とよく通る声で、参加者全員に注視を促す。

 「誰だ? アレ」

 「…いえ、僕も、どなたかは…」

 呆気にとられる二人とは対照的な対応を取る人物が、一人だけいた。

 「あー、オーソンのバイトの兄ちゃんやん!こんなとこで何しとん?」

 右手を振り、親しげに話し掛け出したのは、瀬都子であった。

 「……そういえばそうだったような…」

 瀬都子と行動範囲が非常に似通っている葵は、その一言で、ようやく記憶の底に眠っていた顔と合致する。

 近所のコンビニのレジでやる気のない応対をされた事を根に持っていた訳ではないが、かと言って忘れない程度の頻度で遭遇していたからだ。

 「…あー、君、そういうのはちょっと、言わないで貰えると有難いんだけど…場の空気とか、そういうのあるから」

 どこまでもマイペースな瀬都子に、聊か気分の盛り上がっていたようであった司会者も、つい素に戻って反応してしまう。

 「ほら、セッコ、ちゃんと謝って」

 「ごめんなさい」

 悪気があった訳ではないが、それでも素直に頭を下げ、場を収めようとする。

 とは言え、別に罵倒などの問題のある行為でも無かった為、この一件はそれで終わりとなった。

 「さぁ、気を取り直して、小鹿模型主催ミニ四駆レースの説明を始めるぞ!」

 何とか威厳を保とうと必死な司会者が、声を張り上げる。

 幸いにも、もう邪魔を試みる者は、一人も居なかった。

 「ルールはタミヤの公式ルールに準拠! 使えるパーツは、ミニ四駆用又はダンガンレーサー用、そしてラジ四駆用のパーツのみ! 社外製はもっての外、タミヤ製でもさっき伝えた物以外は使用禁止だぞ! 寸法は車検時にチェックするから、違反が無いかその前に各自確かめておいてくれ!」

 「社外製?」

 ルールをさほど熟読して居なかったのか、単に覚えきれていなかったのか。

 瀬都子が師匠に尋ねると、すんなりと答えが返ってくる。

 「タミヤが出してる訳じゃ無くて、他の会社や個人が作ったりしたパーツの事。公式大会じゃ使用禁止だけど、色々出回ってるらしいんだよ」

 「へぇー」

 感心する瀬都子であったが、ルール説明が終わった訳ではない。再び司会に向き直ると、右手に一対の単三電池を掲げていた。

 「電池は各選手、こちらで用意した物を使用して貰う!この大会中は、配布した電池1セットだけしか使用できない!下手にハイパワーモーターを使って、後半戦で電池をヘタらせないよう注意してくれ!」

 「…電池交換無し、ですか」

 その一言を受け、自身のマシンを今一度凝視する。

 吟味して選択した黄色のエンドベルは、性能も消費電流もそれなりの物がある。このチョイスが正解かどうか、今更ながら不安になってきたのだ。

 「試合形式はトーナメント方式で行う! 本日の参加者は十二名だから、一回戦は三人同時、準決勝と決勝は一対一でのレースとなる! 勿論敗者復活戦なんて無いぞ!」

 「うへー、十二人も居んのか」

 言われて、初めて辺りをキョロキョロと伺い出す茉莉。

 小さな模型屋の大会にそれだけの人数が集まるとは、想像だにして居なかったのであろう様子が、手に取るように見て取れた。

 「車検は各レースごとに行う! 例えば、決勝まで行った選手の場合、一回戦直前、準決勝直前、決勝直前の合計三回車検を受ける事になる! レース後から再車検の間の改造は、電池・ボディ・シャーシの交換以外はすべて自由!」

 「えっと……どゆこと?」

 「えーと」

 茉莉が答えを言う前に、言葉からルールを推測した葵が、一応の解説を務めてみせる。

 「例えば、一回戦で何とか勝ったけど、コースアウトしそうだったから準決勝前にモーターをライトダッシュからトルクチューンに替えた、とかなら大丈夫。だけどXシャーシよりVSシャーシの方がコースに合ってそうだからシャーシ自体を替えた、とかそういうのはダメ。…って事ですよね」

 「あー、うん、そうそう」

 自分以上に理解していたのか、単に頭が柔軟なのか。

 非常に分かりやすい説明をされ、むしろ茉莉が納得する側である始末であった。

 「ちなみに店員が誰もいないから、レース中は小鹿模型店はお休みだから、足りないパーツがあってももう遅い! さぁ、他に質問が無ければ、いよいよコースの発表だ!」

 「!」

 その場の参加者全員に、電流のように伝わる緊張。

 コースレイアウト次第でセッティングを大幅に変更する必要があるのがミニ四駆である。レーサーとして当然の反応とも言えた。

 「さぁ、今日のコースは、これだァ!!」

 店主と司会、二人の手によって、ブルーシートと言う名のヴェールが徐々に剥がされ、謎に満ちたコースの全貌が明らかになって行く。

 「…で、でっかいなぁ……」

 「……うん……」

 見慣れたコースの五割増しものパーツが使われた、ジャパンカップ・ジュニアサーキットを用いられた巨大なサーキット。

 数分後には自分達の戦場となるそれは、想像以上のインパクトを三人に残した。








 「あー、フラットかぁ…良かったセーフだ」

 「フラット?」

 茉莉の呟きの意味が分からず、聞き返す瀬都子と、同じように首を茉莉の方へと向ける葵。

 葵とて、口にこそ出しはしなかったが、『フラット』の意味が全く分からないのは瀬都子と同様であった。

 「えーっと…ミニ四駆のコースには、『フラット』と『立体』っていう、二種類に区別されるんだけども」

 実際にはレーン数などによる差もあるが、ひとまずそこは無視して話を進める事にする。

 「物凄く簡単に言えば、マシンがジャンプするような要素があるのが『立体』、そういうのが無いのは『フラット』…って訳」

 「で、そのフラットと立体、って、どういう風に違ってくるん?」

 「あー、えーっと」

 何とか記憶の層から、該当するものを苦心しながらほじり返す。

 マシンに関する情報ばかりを繰り返し読んでいたが、それでも何とか、最低限の情報だけは引きずりだせた。

 「立体はジャンプした後にマシンが暴れてコースアウトしがちだから、それを抑える為にブレーキとか重りを付けなきゃいけない。フラットは完走は楽な場合が多いから気兼ねなく速度が出せるけど、その代わり運要素が減るから、立体以上に技術の差がモロに出る」

 心中で『だったハズ』と語尾に付けるが、目の前の二人には伝わる筈もない。

 「……と言う事は、このコースだと……」

 「……ウチら、思いっきり不利やんね……」

 優勝したいと意気込んでいた訳では無かったが、それでも少しでも有利な条件が潰されたと知り、二人の肩ががっくりと落ちる。

 「(…むしろパーツ足りてないから、立体だときつかったんだけど…まぁいっか)」

 敢えて説明するのも面倒だった茉莉は、そのまま口を閉じ、司会の次なる一言を待つ事に決めた。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 「それではお待ちかね、早速トーナメント表を作る為のくじ引きを行うぞ!」

 『くじ?』

 思わず同時に同じ事を呟き、顔を向き合わせる瀬都子と葵。

 口に出してこそ居なかったが、考えていた事は同じだったようである。

 「…てっきり、受付順だから、一回戦でセッコと戦えるかと思ってた」

 「ウチも…」

 早くも目論見が崩れ、途端に二人の心中に、不安と言う名の雨雲が押し寄せる。

 ランダムで選ばれるとなると、一回戦で同じ組になれる確率はかなり低い。それどころか、決勝戦まで勝ち上がらなければ戦えない事も、十二分にあり得た。

 「(…どう出るかねぇ)」

 積極的に二人と当たりたいと思う理由こそ無かったが、かと言って当たりたくないと言う思いがある訳でもない茉莉は、一歩引き気味に様子を伺う。

 参加者それぞれの名前が書かれた用紙が、巨大なボックス箱の中に入れられ、司会者の手で乱雑に描き回される。

 店主が引きぬいた三枚を読み上げるまでの短い間、固唾を飲んで見守る三名であったが―――

 「それでは第1レースの発表だ! 一コース、岩元英人選手! 二コース、岩元将人選手! 三コース、青宮葵選手! 車検場まで至急集合するように!」

 「!」

 喉から心臓が出たのかと見まごうような衝撃が、波紋のように葵の身体を駆け抜ける。

 「い、いきなりやね……」

 第一レースに出場する可能性は四分の一と、決して少ない値では無い。

 それでもトップバッターを務めるとは想像して居なかったのか、第一レースに出ない事が確定している筈の瀬都子の顔に、あからさまな緊張が走っていた。

 それでも。

 「……大丈夫」

 そんな親友を鼓舞する葵が見せたのは、普段の彼女からは想像もつかない程に、力強い笑顔。

 「昨日の約束、絶対守ってみせる。その為に勝ってくるから…」

 一旦言葉を切り、バッグの中から丁寧に梱包した愛車を取りだし、瀬都子に突き付ける。

 昨晩の入念なメンテナンスのお陰か、制作されてから二十年近くが経過しているとは思えない程に、まばゆい輝きを発しているかのように見えた。

 「見ててね、僕の全力」

 「!」

 その一言を残し、誓いを果たす為に、スタートラインへと歩み出す葵。

 非常に小さいその背は、久しぶりに、とても久しぶりに、実際よりもはるかに大きく見えた。

 「…よかったなぁ、あーちゃん、ホントに良かったなぁ……」

 幽かな、当人には決して聞こえない程に幽かな呟き。

 その言葉を聞いていたのは、背後に居た茉莉、ただ一人であった。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 レーンに貼られた、紅白のシールに踊る『START』の文字。その背後に、車検を終えた三名の選手が集った瞬間、俄かに会場が静まり返る。

 一回戦とは言え、二人が消え、四強の一人が決まるこのレース。コース周りに集まった全ての人間が、固唾を飲んで見守ると言う選択を選んだ。

 「さぁ! 三人とも問題なく車検をパスし、間もなくスタートだ!!」

 そんな最中であっても、『レースを盛り上げる』という確固たる義務を背負った青年だけが、一際大きな声を張り上げる。

 「何と! 一コース、二コースの岩元選手は、今回親子揃ってのエントリーです! 血を分けた実の父と子が1回戦で激突し、どちらか、あるいはその両方が散ると言う悲劇! それでもなお、この熱き父子はレースから逃げなかったァ!!」

 二人の脇に立っていた葵が、その言葉を受け、チラリと横目で様子を伺う。

 血の繋がった同性の親子と言うだけあってか、なるほど、顔のパーツの特徴が似通っている部分が多々見受けられた。

 「頼むぞー、太陽! 父ちゃんなんかぶっちぎってやろうぜ!」

 恐らく小学校中学年くらいの、少々腕白そうな男児は、力強く呟きながら緑のボディーを一撫でする。

 「息子の癖に生意気な! 二十数年前に身内最速だった、偉大な父の力を見せてやる!」

 息子の為に敢えて悪役に徹しているのか、それとも素でプライドを刺激されたのか。父親は父親で、自信ありげな瞳で漆黒のボディを見つめていた。

 「さぁ、一コースの岩元英人選手はMSシャーシのダッシュ2号・太陽!二 コースの岩元将人選手はマンタレイJr.ゼロシャーシ! そして三コースの青宮葵選手は、爽やかなライトブルーに塗装したレイホークガンマ、スーパーXシャーシで参戦だ! 時代も色も使用シャーシもバラバラなこの戦い、果たしてチェッカーを切るのはどのマシンか!?」

 その一言で、場内の注目が司会から外れ、スタートラインに並び立つ三人に向けられる。

 「それでは選手諸君、前方に注目してくれ!」

 その一言で、ほぼ同時に視線をまっすぐ前に移した三人の視界に、同時に一本の棒が飛びこんでくる。

 率直な感想を言えば『縦になった信号機』そのものであり、唯一の違いは、ランプの個数が三個ではなく四個据えられている事であった。

 「レース開始の合図は、このシグナルで行う! 上から順に赤いランプが点灯していき、最後の緑のランプが光った瞬間がスタートだ! フライングしたら勿論、その時点で失格になるから気を付けろよ!」

 「(なるほど、信号機みたいな感じかな)」

 パッと葵の胸中をよぎった比喩は、よくよく考えると見たままの何の捻りも無い例えだが、そう考えると納得が行きやすい。

 「ハイテクな機械もあるんやねぇ」

 「…そうでもねぇだろ」

 幽かに聞き覚えのありまくる声でそんな会話が聞こえたが、集中する為、敢えて聞こえないふりに徹した。

 「さぁ、それではいよいよ、スイッチオン!」

 その一言を皮切りに、全選手がほぼ同時にマシンに火を灯し、似たような姿勢でスタートラインスレスレにマシンを構える。

 「(…懐かしいなぁ、この感覚)」

 過去に幾度となく味わってきた、過去には日常の一つであった光景。

 あの時見ていたゴールテープを、同じように切る事は、もしかしたらもう二度と叶わないのかもしれない。

 それでも、あの頃を想起させるこの状況は、葵にとってこの上なく懐かしく、この上なく心地よい物であった。

 「(……お姉ちゃん、セッコ……ありがとう)」

 身体に刻み込まれて居たにも関わらず、一生忘れて居たままだったかもしれない感覚。

 それを再び噛みしめる事が出来る喜びに、密かに打ち震えていたかったが、本番はそこでは無い。

 「レディ―――――?」

 司会の声が、大きく伸びる。

 それに伴い、紅の閃光が、次々と視界に飛び込み。

 最後に点滅したシグナルの鮮やかな緑が目に飛び込んだ瞬間、反射的に葵は、親指を真上へとずらしていた。

 「ゴ―――――!!」

 その一言と同時に、灰色のサーキットへと放たれる、3台のマシン。

 否。

 『速い!!』

 一連の光景を固唾を飲んで見守っていた観客全員が、共通の二文字を、瞬時に胸中で叫んだ。

 他の二台より、コンマ数瞬だけ素早く飛び出した、鮮烈なブルーのボディ。

 しかし、誰もフライングだと声を上げたりはしない。それほどまでに絶妙な、控え目に表現しても好スタートと言える出だしであった。

 「さぁ、絶妙なスタートで一歩リードしたのはレイホーク! しかし、すぐ真横を太陽が追走する!!」

 第一コーナーの立ち上がりからのウエーブセクションに移る頃には、二台のコンマ数秒の差はほぼ解消され、そのままコーナーへとなだれ込んでゆく。

 S字コーナー終盤までは、どちらが優勢だったのかは視認できない程であったが、ホームストレートの直前コーナーをクリアした所で、太陽が半身ほどのリードを見せる。

 「よし!」

 盛大にガッツポーズを見せる少年であったが、若干不利な展開を強いられている葵の心は、思いの外冷静であった。

 「(アウトコースでのコーナーはこれで殆ど消化できた、それでこの差なら…!)」

 勝利への算段を冷静に付ける葵であったが、一つ、大きな誤算が生じていた。

 「おっと! 直線でレイホーク、太陽に並んだァ!!」

 「!?」

 遠目に何となく両者のセッティングを把握できていた茉莉は、目の前で起きた現象について、全く違和感を感じる事は無かった。

 「(…ちょーっとパーツの付けすぎで最高速出てねえなー…でもって葵のシャーシはスーパーX…コーナーでほぼ互角だったなら、そりゃストレートなら葵が有利に決まってるよなぁ)」

 二人がそんな事を思っている間に、最内レーンだった太陽は、レーンチェンジと共にアウトコースへの移動を強いられる。

 そして、一週目のファイナルコーナーを二台のマシンがクリアした頃には―――

 「ここで逆転! レイホーク、ここにきて太陽からリードを奪いましたァ!!」

 「よし!」

 今度はレイホークが半身差を付け、三分の一を走り終えた事を示す『START』の文字を踏みしめていく。

 一歩遅れて太陽が通過するも、コーナー一つ抜ける毎に、その差は徐々に明確な物となって行った。

 「さぁ、ホームストレートを疾走するのはレイホーク! やや遅れて太陽が入る! そしてマンタレイはようやく二週目のウエーブを抜けたァ!!」

 「くっそー、太陽! 頑張れよー!!」

 懇願するように叫ぶ少年であったが、それでマシンの速度が上がれば、誰も苦労などしない。

 葵の分身がファイナルラップに突入する頃には、その差は既に、歴然としたものと化していた。

 「さぁ、青宮選手、独走状態のままファイナルラップ! 尚も食らいつく太陽、まだチャンスはあるぞ! 勝負は最後まで分からない!」

 司会者の言葉通り、序盤の手に汗握るデッドヒートが嘘のような差を付けながら、最後のS字コーナーを悠々と攻め続けるレイホーク。

 ファイナルストレートに入ってもその差は一向に縮まらず、そのままレーンチェンジへと差しかかった。

 「さぁ、青宮選手、遂に最終コーナーを……抜けたァ!」

 「!」

 一瞬。

 ほんの一瞬の僅かな出来事であったが、一週間もの間このマシンの背中を見守り続けてきた葵の瞳には、非常に違和感のある光景が見えた。

 しかし、殆ど誰もがその事に気づかないまま―――

 「ゴ――――――ル!」

 蒼い閃光が、最初のスタートラインを確かに踏みしめ、一位でチェッカーを飾った。

 「一位、レイホークガンマ・青宮選手! 二位、ダッシュ2号太陽・岩元選手! そして最後まで走り続けているマンタレイ・岩元父選手にも、盛大な拍手をお願いします!」

 その一言で、おざなりな拍手が、パラパラと聞こえ出す。

 「………今の……」

 ウイニングランを続ける愛車を不安な目で見つめながら、葵が呟くも。

 「あーちゃーん!!」

 背後から何者かに抱き締められ、その思考が一瞬中断してしまう。

 「おめでとなー! ぶっちぎりやったやん! これでベスト四進出やでー!!」

 「せ、セッコ……!」

 ひとまずその不安はどこかへと吹き飛んだものの、公衆の面前で抱きつかれるのは、同性が相手でも相当の抵抗感がある。

 自分でもそれと分かる程に頬を紅く染めながら、葵は力なく抵抗を始めた。

 「ち、ちょっと、恥ずかしいから! みんな見てるから!!」

 「初レースで勝ったん、すごいやん! 特訓の成果、ちゃんと出たなぁ!」

 「!」

 その一言で、急激に現実を認識し出す。

 最終コーナーの光景が原因か、はたまた圧倒し過ぎたが故に、実感が生じなかっただけか。

 瀬都子の一言を受けるまで、『勝利した』という認識が、スッポリと抜け落ちてしまっていた。

 「…あ、あれ? 僕……勝った……んだっけ?」

 「何言うとるん。ぶっちぎりやってん」

 呆れかえる瀬都子を余所に、ようやく自身の置かれた状況を認識した葵の、心の奥底から熱い何かが、ようやくこみ上げてきた。

 「…そっか、僕、一回戦だけど勝ったんだ……!」

 「今ごろ?」

 そんな会話を繰り広げる二人であったが、不意に一つの影が近づいた為、ゴタゴタは一旦お預けとなった。

 「ほら、まだ次あるのに、電池勿体ねーよ」

 しっかりとスイッチの切られたレイホークを葵に付き出してきたのは、太陽を駆っていた少年。

 「……君……」

 今の今まで自分と同じコースで競った少年の、その瞳が濡れている事に気が付いた葵であったが、敢えてそこには触れなかった。

 「…ありがとうございました、良いレースでした」

 「……チッ」

 盛大に舌打ちをした少年は、そのまま人差し指を付き立て、葵に乱暴に言葉をぶつける。

 「って言うかお前、俺の学校の生徒じゃねーだろ!? どこの小学校だよ! お前みたいな奴が居るなんて、聞いたことねーぞ!」

 「…しょ……!」

 少なからぬショックを受ける葵であったが、彼女の心中とは無関係に、状況はどんどん展開されていく。

 「コラ! 初対面の人になんて口の利き方を!!」

 まるで勝負になっていなかったが、それでも同じコースで勝負を繰り広げたもう一人の男、即ち少年の父親が拳骨を喰らわせると共に、葵に深々と頭を下げてくる。

 「ウチのボウズが申し訳ない! 元気なのは良いんだが、礼儀ってのがまるでなってないガキに育ってしまって……」

 「あ、いえ、頭を上げて下さい、気にしてませんから」

 流石に昨今珍しい、鉄拳制裁型の教育を目の前で見せつけられた衝撃は、先程のショックを吹き飛ばしてしまうものがあった。

 しかし、その衝撃をも、更なる一言があっさりと上書きしてしまう。

 「本っ当に礼儀正しいお嬢さんだ、ウチのボウズと同じ小学生とはとても思えません」

 「…………」

 褒められたにも関わらず、明らかに不貞腐れてしまった葵をカバーするべく、やんわりと瀬都子が訂正を入れる。

 「あの、この子、こー見えて高校生なんで、そーいうことあんま言わへんで貰えると…」

 「え!?」

 流石親子と言うべきか、瓜二つのリアクションで驚愕する二人であったが、その後のフォローはまるで異なっていた。

 「し、失礼しました、まさか高校生とは…」

 「えー!? ウッソでー!!」

 「…………ッ!」

 今までの人生、殆ど怒った記憶の無い葵であったが。

 子供相手であろうが、流石に右の拳をこっそりと握り締め、何とか怒りを緩和せざるを得なかった。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 「お疲れー…って、何で葵はキレてんだ?」

 瀬都子と共に茉莉の元へと戻ってきた葵は、明らかに不機嫌さを隠そうともせず、頬を膨らませて明後日の方向を向いていた。

 「あーちゃん、子供に間違われるの気にしとるんに、何度も何度も言われたもんやから…」

 「?」

 身体に関するコンプレックスなど、精々視力が低い事くらいしかない上、それもさして気にしている訳でもなかった茉莉は、いまいちその感覚が分からず、首を傾げる。

 「まーいっか、とりあえず瀬都子、マシン改造した方がいいぞ」

 よっこらせ、とばかりに地べたに座り込むと、そのままポータブルピットから愛車を取りだし、パーツを外し始める。

 「し、師匠、地べたは流石に…」

 普段、歩行者が立ち入ることは滅多にない駐車場とは言え、年頃の乙女が堂々と腰を下ろすような場所では無い。

 いささかの抵抗を見せる瀬都子であったが、平然としたまま茉莉は答える。

 「しょーがねーだろ、改造スペースもへったくれもねえんだから。今のレースで分かった事あるし、セッティングいじった方が良いぞ」

 瀬都子の方を見向きもせず、ボディを取りはえずし、そのままモーターまでも取りだす。

 『不潔な場所に腰を下ろす』事よりもその事が気になったのか、瀬都子はそのまま尋ねてみる事にした。

 「ししょー、セッティング決まって無かったん?」

 「いんや、ある程度決まってたけどさ」

 何をどうしているのか、ドライバーを咥えながら器用に発声する茉莉は、念の為に持ってきていた予備のモーターが詰まっているケースを取りだし、その中から灰色のエンドベルの物を取り出す。

 「さっきの葵のマシン見てたけど………」

 と、レースを傍から見ていて、気が付いた点をそのまま指摘してみる。

 無論その間、瀬都子はただ只管、聞き役に徹していた。

 「……って訳。さっきの葵、運が悪かったら多分コースアウトして負けてたかも」

 「そ、その通りです!」

 突如復活した葵が、直立不動の姿勢を保ち、張りのある声で見解を補足する。

 「恐らく師匠のご指摘通りの現象が起きた為、最終カーブで僕のマシンは姿勢を崩していたのだと推測されます。と言う事は……」

 「……なるほどなぁ」

 茉莉ほど恥じらいを捨てた訳ではないが、かと言って素直に師匠のアドバイスに従っておかなければ、敗北が目に見えている。

 それを重々承知した瀬都子は、悩みに悩んだ末、何とか立ちながらマシンの再調整に取り組むことにし、ハンドバッグの中の簡素なケースから愛車を取りだす。

 「あ、ボディ出来たんだ……って! 何それ!?」

 不透明なケースから現れたマシンを一目見た葵の表情が、途端に驚愕の形へと歪んでいく。

 「ん? どした―――って、何だそれ……」

 葵の叫び声に、うるさそうに顔を上げた茉莉の表情は、すぐに呆れ顔に変わる。

 二人の目線の先にあったのは、確かに瀬都子が愛車に選んだデザートゴーレムであり、フォルムそのものは先週のシールも塗装もしていない状態と変わりない。

 ただ、一体何をどうしたらそんなものが出来上がるのか、白と赤を主体とした、変わり種の迷彩としか表現しようのない彩色が加えられたボディが、それなりに走り込んだシャーシの上に堂々と載せられていた。

 「かっこええやろ? エアブラシ買えてへんから、頑張ってスプレーと筆塗りだけで何とかしたんよ」

 うっとりとした様子で、女子高生には余り似つかわしくないデザインと化したマシンを見つめる瀬都子であったが、はたから見ている二人は完全に取り残されてしまう。

 「……あいつ、どーいう趣味してんだ…」

 「……昔から、ロボットとか武器とか戦車とか、そういうの好きでして…」

 小声でぼやく茉莉に、同じように小声で返す葵。

 「いや、別に悪いとは思わないけど、なんつーか…意外」

 「……ですよねぇ」

 いそいそと愛車の調整に挑む少女を眺める二人の表情は、困惑に満ちていた。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 「さぁ! 第二レースの組み合わせを発表するぞ!」

 持ち前の器用さをフルに生かし、傍から見ていた二人が茫然となる程の素早さで瀬都子がピット作業を終えた途端、タイミングを見計らっていたかのように司会の怒声が轟く。

 「第一コース、赤橋瀬都子選手! 第二コース、都筑優太選手! 第三コース、本田勇人選手! 車検場へ集合してください!」

 「おっしゃぁ! ウチの出番や!」

 待ちわびたという態度を隠そうともせず、いきり立つ瀬都子。

 「見とってな、あーちゃん! 絶対準決勝行き、決めてくるから!」

 自慢の愛車を翳し、勝利宣言をしながら意気揚々とコースへと出向く。

 その後ろ姿を見送りながら、脇に立つ葵を刺激しないよう、最大限に言葉を選びながら尋ねる。

 「気合入ってんなー。そんなにミニ四駆にハマったのか」

 「…それもあるんでしょうけど、多分…もう少し違う理由もあるんじゃないかと思います」

 苦笑しながら否定すると、当然のように突っ込みが入ってくる。

 「違う理由?」

 予想できた質問ではあったが、流石に親友と二人で交わした会話を喋る気にはならず、それと無く誤魔化す。

 「ええ…セッコのあんな顔見るの、僕も初めてですから」

 「? ふーん」

 誤魔化された以上、それ以上立ち入る事も出来ず、会話はそこで途切れてしまう。

 沈黙に耐えかね、世間話でも振ろうと茉莉が口を開くが、その前に葵が前方を指しながら、不安げに尋ねてくる。

 「…セッコの相手のお二人、物凄く速そうなんですが…大丈夫ですかね」

 恐らく大学生と思しき二名は知人同士であるようで、何事か軽口を叩きながらスタートラインへと赴いて行く。

 その手に軽く握られた二台のマシンには、葵が見た事もないようなパーツが幾つも取りつけられており、見るからに強者の雰囲気を醸し出していた。

 「んー…まぁ、大丈夫じゃない? 断言できないけど」

 一方の茉莉は、さほど深刻さを感じさせない面持ちで、気の抜けるような一言を述べながら頭をポリポリと掻き出す。

 「それってどういう―――」

 葵が尋ねかけるも、その声は、より大きな怒声にも近い大声に掻き消されてしまう。

 「さぁ! 第二レースに出場する三人の紹介だ!」

 その一言で、否応なしにもスタートラインに立つ三名に注目せざるを得なくなってしまう。

 出しかけた言葉を飲み込むのは好きでは無かったが、我慢する他無かった。

 「第一コース、赤橋瀬都子選手! 使用マシンは……な、何と!」

 高いテンションを維持し続けていた司会が、ここにきて最高潮に達した興奮を隠そうともせず、驚愕した理由を観客にも明確に伝え出す。

 「赤橋選手! なんとデザートゴーレムを独特な配色の迷彩に塗装して参戦だ! これは凄い手間! 何という技術! 今回の大会でコンデレが開催されないのが悔やまれる限りです!!」

 「そんなー、照れるやん」

 えへへ、と幸せそうに笑う瀬都子を微笑ましげに眺める葵であったが、すぐにそんなたるんだ雰囲気も吹き飛んでしまう。

 「第二コースには都筑優太選手、使用マシンはサンダーショットMk.ⅡのクリアボディをVSシャーシに搭載! 第三コースの本田勇人選手はアバンテMk.Ⅲの…こちらもクリアボディか? こちらも同様にVSシャーシ! 図らずとも全員VSシャーシでのレースとなったァ!!」

 全員が異なるシャーシを使用した先程とは正反対に、皆が皆同じシャーシを用いてのレース。

 とは言え、セッティングの傾向は瀬都子一人が大きく異なり、他の二人は似たようなセッティングを施されていた。

 「……ホントに大丈夫でしょうか、セッコ……」

 「だーいじょうぶだって。多分あの二人、大したことねーから」

 「ですが…」

 『ライバル』と宣言された上、自身にミニ四駆のいろはを叩き込んだ張本人から『大丈夫』と言われても、どうしても心配が抜けない葵。

 しかし、四の五の言っている時間は、思った以上に短かった。

 「さぁ、それでは運命のスタートだ! 全選手、位置について!」

 その一言を受け、全員が殆ど同じ動作で、マシンに命を吹き込む。

 落ち着き払っていた葵や、今回出走する二名とは裏腹に。瀬都子の心臓は早鐘を打つように脈動していた。

 「(……あ、あかん、みんなに見られとる思うと、あがってまう……)」

 中学校時代の部活動でもお世辞にも好成績を残せたとは言えず、必然的に衆人の監視の中で実力を披露する機会に恵まれなかった瀬都子は、珍しく味わう感覚に翻弄されるばかりである。

 「(あかん、落ち着かなフライングしてまう、落ち着かな、落ち着かな……)」

 必死に自分に言い聞かせるも、何の効力も発揮せず、空回りする一方である。

 が。

 「セッコー!!」

 「!」

 よく通る声が、周囲の雑踏を掻き消し、彼女の耳にすんなりと入りこんでくる。

 「だいじょーぶ、師匠のアドバイスがあるから勝てる!」

 下手をすれば瀬都子自身よりも瀬都子という人間を理解しているその一言は、一瞬で瀬都子を、平常心へと押し戻した。

 「……ふー……」

 大きく息を吐くと、先程まで焦燥に支配されていた表情は、出走前のそれとは思えぬほどに穏やかな物と化していた。

 「(せやった。ウチだけの問題ちゃう、あーちゃんとの約束がかかっとるんや!)」

 気合を入れ直すと、デザートゴーレムを構え直し、スタートラインスレスレへと構える。

 もはやその眼には周囲の何も映っておらず、ただ眼前のシグナルを見据えているだけであった。

 「それでは全選手、レディー!?」

 言い終えるか言い終えないかの内に、縦に四つ並んだシグナルランプの最上段が、白昼でもハッキリと分かる程の輝きを放つ。

 あれよあれよと言う間にそれは二つ目、三つ目へと移り―――

 「ゴー!!」

 いよいよ切って落とされた、闘いの火蓋。

 先程のように一人だけが抜きんでる事は無く、全員がほぼ互角のスタートを切るも、ほんの数秒もいかない内に明確な差が現れ出す。

 「さぁ、真っ先にS字カーブを抜けたのは、第二レーンの都筑選手! ほぼ変わらないスピードで本田選手が並ぶ! どちらも凄まじいスピードだ!」

 第一レースの三名とは比較にならない程のスピードで、灰色のサーキットに鮮やかな軌跡を残す二台。

 それとは対照的に、一台だけ、スロースタートを余儀なくされたマシンがあった。

 「さぁ、第一コースの赤橋選手、ようやくレーンチェンジをクリア! 塗装技術は見事だが、マシンセッティングに関してはまだまだ未熟か! 随分と水を開けられてしまったァ!」

 よくよく考えなくても失礼極まりない実況ではあるが、マシンの主の心境に、焦燥や失望といった類の物は芽生えていなかった。

 むしろ。

 「(大丈夫や、あーちゃんや師匠の言うてた事、信じるしかない!)」

 確信に近い物を持ち、必死に追い縋ろうと奮戦しているようにも見える愛車を見送り続ける。

 一方、前方を走る二台はますますスピードが乗り続け、もはや誰の目から見ても追い越すはおろか、差を縮める事すら不可能なように映った。

 「さぁ、トップ争いを続ける二台は、早くもS字コーナーを抜け、ロングストレートへ! レーンチェンジして勝負がどう分かれる―――!?」

 司会が、観客が、そしてエアロサンダーショットのレーサーが、目を大きく見開いた。

 彼らの目に一瞬だけ映った光景は、何なくレーンチェンジを超え、そのままコース最大のカーブへと先を急ぐマシンの姿。

 しかし、現実に映っていたのは、レーンチェンジ後のコーナーで大きく姿勢を崩し、そのまま成すすべなくコース外にはじき出されていく、ピンク色に彩られた高速マシンの姿であった。

 「な、何とォ! トップの都筑選手、ここで無念のコースアウト! トップからの無念のリタイヤ! これは悔しい!!」

 「ウッソ……」

 これまで安定した走行を見せていたマシンが、唐突にコース外に弾き飛ばされたと言う現実を受け入れられず、愕然とした表情のまま崩れ落ちる都筑選手。

 一方で。

 「やっぱりそうでしたか…」

 「だろうねぇ」

 妙に納得した表情を見せたのは、葵と茉莉の二人。

 目の前の光景は、彼女達の推測が正しかった事の、何よりの証左であった。

 「さ、さぁ、まさかの都筑選手の脱落により、レースは本田選手の独走状態! 二位に付いた赤橋選手に大きな差を付け、ファイナルラップへと突入した!」

 淡いクリアブルーに彩られたマシンが、圧倒的なスピードにあかせた走りで瀬都子に大差を付け、遂にラスト一周に突入する。

 「(あーちゃんの言うてた事、正しかった! せやったら……)」

 一切疑う事無く、奮戦を続ける自身のマシンを見守る瀬都子。

 だが、衆人の目は、トップをひた走るアバンテにのみ向けられていた。

 「さぁ、先程都筑選手が散ったレーンチェンジ、本田選手のアバンテは―――ッッッ!!?」

 観衆の瞳が大きく見開かれ、次いで漏れるのは、落胆のため息。

 先程の光景が目に焼き付いて離れない観客の大半が予想していた事ではあったが、サンダーショットと互角のスピードで同じセクションに差し掛かったアバンテは、殆ど同じ挙動でコース外へと弾き飛ばされていた。

 「ほ、本田選手もコースアウト! と、と言う事は……」

 必然的に、その場に居た全員の目線が、唯一レーンチェンジをクリア済みの最後の一台へと向けられる。

 先程の二台と比べると明らかにスピード負けしていた物の、それらが散ったセクションを何の苦もなく走破したその走りは、ある種の威厳すら感じさせた。

 「こ、コースに残ったのは、赤橋選手のデザートゴーレムのみ! しかも二人が散ったレーンチェンジ後のコーナーも既に走破済み、と言う事は……!」

 遅いように見えても、それはあくまでも相当のスピードが出ていた先の二台に比べれば、の話であり、決してデザートゴーレム自体の速度が遅すぎる訳ではない。

 とてもレーシング用とは思えない色どりの成されたボディがチェッカーを切るまで、さほどの時間は必要無かった。

 「只今チェッカー! 完走は一台、赤橋選手のデザートゴーレムだァ!」

 「やった、やったでー!!」

 店主からマシンを受け取ると、そのまま葵の元へ駆け寄り、葵の足に負担を掛けないように注意しながら抱き締める。

 「あーちゃん、ウチ、やったでー! あーちゃんや師匠の言った所に気ー付けたら、勝てたでー!」

 「………! …!!」

 想定外のはしゃぎっぷりを見せる瀬都子に、予想だにしない力で正面から抱き寄せられた葵は、呼吸する事にすら苦労し、一時的に酸欠に陥りかける。

 「とりあえず試合の度にそれやるのやめろって、見てて結構恥ずいから」

 呆れながら二人を引き剥がしにかかる茉莉一人が、この場においての葵の唯一の救いであった。

 「にしても、ほんまに二人の言う通りやったなぁ」

 葵を解放し、念の為バッテリーを取り外しておこうと、ボディキャッチを外す。

 中から現れたモーターのエンドベルは、本来仕様を想定していたハイパーダッシュ3の赤色ではなく、アトミックチューンを示す灰色であった。

 「あんだけ長いストレートでスピードが乗った後にレーンチェンジ、しかもその直後にでかいコーナー。スピード落とすなりなんなりしてなきゃ、そりゃあんな感じに吹っ飛ぶわ」

 肩を落としながら会場を後にする二人を目線で示しながら、茉莉は自信のマシンの調整に余念がない。

 「葵が大径にライトダッシュで吹っ飛びかけてた…あたしも大径だし、アトミックチューンにしておこうかねぇ」

 ターミナルに唾を付けないよう、慎重にモーターカバーを口に咥えながら、黄色のエンドベルのモーターをケースへと戻しつつ、灰色の物と交換する。

 「あの、無知で申し訳ないのですが、そろそろご教授頂けないでしょうか」

 格子のようなボディをうっかり破壊しないよう、茉莉が慎重にボディキャッチを付け終えたタイミングを見計らい、声を掛けたのは葵。

 「? 何が?」

 顔を上げると、恐らく自分と同じような顔をしているであろう瀬都子の二人からの目線を受けた葵が、こちらを見据えて質問を飛ばしていた。

 「先程、セッコと競われたお二人をご覧になって、何故出走前なのに『大したことない』と断言されたのか…」

 「師匠、そないな事言うてたん?」

 ようやく合点が行ったとでも言いたげな瀬都子が、視線を茉莉の方に移してくる。

 「んー…断言できる程でもなかったんだけど、フラットなのにマスダンパー付いてたから、ああコイツらあんまり分かってねえんだなぁって」

 「マスダンパー?」

 何それ、とでも言いたげにオウム返しをする瀬都子に対し、茉莉が何かを言うよりも早く、葵が突っ込みを入れる。

 「…セッコ持ってるでしょ、あの金属の丸い重り」

 「あー、あれな」

 ごそごそとカバンを漁り、ほどなくして右手を握った状態でカバンの外へと出してくる。

 開かれたその右手には、先程の二名のマシンに付けられていた物と似通ったパーツが、鈍い金色に煌めきながら存在感を発していた。

 「そういや、これ何に使うパーツやったん? 師匠に付けんで取ってけって言われてたんやけど」

 最初に瀬都子が購入したグレードアップパーツである、ファーストトライセットに付属していた為、必然的に入手自体はしていたのだが、取りつけの段階で『今は付けなくて良い』とアドバイスされていた為、一応保持しておくにとどまっていた。

 「ほら、さっき立体とフラットの説明しただろ? 立体だとマシンが暴れないように、ブレーキとか重りとか付けなきゃいけないって」

 「せやったっけ?」

 記憶力にいまいち自信の持てない瀬都子が、脇に居る葵に話を振ると、帰って来たのは呆れ顔であった。

 「…いや、そこは覚えとこうよ…」

 「えへへ」

 気恥ずかしさを笑って誤魔化すも、同様の呆れ顔を見せる茉莉からは、一旦溜息が洩れていた。

 「…で、このマスダンパーはその立体用の重り。上下に動く様に付けて、着地の衝撃を相殺する為のパーツだから、フラットじゃ単なる邪魔な重りにしかなってない、って訳」

 「…けど、明らかに速すぎてコースアウトしてましたよね?」

 葵が突っ込みを入れると、茉莉は首をすくめて返す。

 「そりゃ、ネットとかで解説されてるマシンのコピー作れば、誰だってある程度速いのは作れるさ。けどコピーしただけだから、必要なものとそうでないものの区別が付いちゃいねぇ。要は付け焼刃が丸見えだってこった」

 「なるほどなぁー」

 ある意味では自虐的な茉莉の発言に、事情を知らぬため納得して頷く二人を見て、茉莉は内心、ほっと安堵の嘆息を漏らす。

 「(あぶねー、これ以上突っ込まれたらどうしようもなかったぞ)」

 が、その平穏が続いたのも、一瞬の事であった。

 「さぁ! 第三レースの出場者を発表するぞ!」

 突如鳴り響いた大声に驚き、三人の方がビクリと震える。

 震えはしたが、彼女達の中で、今から名が呼ばれる可能性があったのは、たった一名のみ。

 「第一コース、えーと……にいづち……? 茉莉選手!」

 「『しんど』だっつーの!」

 激しくツッコミを入れながら立ち上がるも、彼女の内心は、違った意味で落ち着いては居なかった。

 「第二コース、荒井拓海選手! 第三コースは…なんとォ! 古井俳斗選手だァ!!」

 「アタシの言う事聞けよ! つーか名前訂正しろって!!」

 衆人の注目を集める大声で訂正を要求しながらも、茉莉の心が落ち着く事は無い。

 「(つーか、今更だけど、ちゃんとコイツ走るのかぁ…?)」

 一度たりともコースに載せた事のないマシンを、不安げな眼差しで見つめる。

 スイッチを入れると当然のようにタイヤが回転しだすが、果たしてそれが『上級者』として通用するレベルであるのか。全く計り知れなかった。

 「(スーパー2だから駆動系は問題ないはずだし、ブレークインもちゃんとしたし、パーツもそれなりの物付けて、ボディも目いっぱい軽くして…出来る限りの事はやったんだけどな)」

 懸念される要素を可能な限り反芻し、それを潰してきた事を再度認識して落ち着こうとするも、どうにも不安が拭えない。

 「しーしょ!」

 縮こまりかけていた背を、力強く押してきたのは、先程見事に完走してチェッカーを切った瀬都子。

 「ウチ、絶対あーちゃん倒して決勝行くから、ししょーもまずは予選、ぶっちぎったってや!」

 「!」

 自信に満ち溢れたその一言に、過敏とも言える反応を示したのは、準決勝の相手となる事が確定している葵であった。

 「……セッコ」

 「ん?」

 その一言を発した張本人の方へ、顔をぐるりと回す瀬都子。

 一瞬だけ口の端が、確かに上を向いていた事に気付いたのは、それを正面から見る事の出来た茉莉だけであった。

 「僕だって…僕だって、昨日はセッコに勝つ為にって、帰ってからずっとこの子の調整してた…から」

 自分のマシンを誇らしげに撫でながら、共に競う相手をまっすぐに見据え。

 「絶対倒せる、なんて甘く見てると、絶対に痛い目見るよ」

 「……そっか」

 その一言に満足気な顔を見せると、くるりと茉莉の方に再度向き合う。

 「ほなら、今からはしっかりと師匠の応援したろか」

 「え、あ、うん」

 肩透かしを食らい、若干脱力したように同意する葵。

 それを見た茉莉は、自分の力も抜けている事を自覚し、感謝よりも同情の一言を掛ける事にした。

 「…なんつーか、苦労してんだな、お前」

 「…いえ、このマイペースなのが、彼女の長所なので」

 とてもそうは思えないような、疲れ切った表情の葵と、満面の笑みを浮かべる瀬都子に踵を返し、茉莉は車検場へ急ぐことにした。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 「さぁ、全選手出そろった! いよいよ第三レース、運命のスタートだァ!」

 至近距離で発せられる轟音に顔をしかめながら、拡声器が無いにも関わらず、周りによく聞こえる程の声量で茉莉が叫ぶ。

 「つーか、何でアンタがそこに居るんだァ!!」

 コース右端で、利き手ではない左手でマシンを持つ茉莉。

 その間に一人のレーサーを挟み、左端のアウトコースに陣取った人物は、司会こと古井選手であった。

 「はっはっは! 本来選手として出る予定だったけど、おばちゃんに司会と実況を頼まれたから、こうして選手と兼任してるのさ!」

 「…あーそー」

 叫ぶ気力も失せ、脱力しきってマシンを手放さない事にだけ集中する事に決めた茉莉は、ひとまず左からの騒音を聞き流す努力を始めた。

 「さぁ、第一コースの新土選手、マシンは骨のように軽量化されたベアホークRS! シャーシはそのままスーパー2! 第二コースの荒井選手は大人気のエアロアバンテ、こちらもシャーシはキットそのままにAR! そしてぇー!?」

 今か今かとスタートを待ち望む茉莉と、中央レーンのビギナーと思しき少年、そして観客に一切配慮しない実況は、ますますヒートアップの一途を辿る。

 「第三コースの古井選手、使用マシンはビークスパイダープレミアム! 黒い切り裂き魔の異名を持ち、登場から二十年が経とうとしている今なお絶大な人気を誇るビークスパイダーに、スーパー2シャーシで更なる戦闘力を与えたこのマシンに―――」

 「よし、行って来い!」

 「いっけー、アバンテ!!」

 長々とした語りに痺れを切らした店主が、無言でスイッチを入れたシグナルランプに鋭敏に反応した第一コースと第二コースの二名が、それぞれ絶妙なスタートを切る。

 「え!? あれ!? 嘘!?」

 目の前で展開された光景について行けず、反射的にマシンを手放してしまった司会が、大慌てで主催者に講義する。

 「おばちゃん! 何で勝手にスタートさせるのさ!」

 「他の二人の電池が勿体ないからよ」

 冷めた表情で真っ当な反論を店主がしている間にも、既にレースは、混戦とは程遠い状況を呈していた。

 「よし、いいぞ!」

 ガッツポーズを見せる茉莉。その理由は、愛車がレーンチェンジ後の魔のカーブを、難なく悠々と通過したからこその物であった。

 「おおっと、第一コースの新土選手、早くもレーンチェンジをクリアし、メインコーナーを駆け抜けていく! それを追うエアロアバンテ、一方のビークスパイダーは随分のハンデを負ってしまったァ!!」

 めげずに実況を再開しだすも、その声に力は籠っていない。

 何故なら、先頭を行く漆黒のボディが、次点以下に更なる差を付け出し、独走状態に入りだしたからである。

 「っしゃ、行ける、行けるぞ!」

 どんどんと興奮を隠せなくなり、全身に喜びが満ち溢れていくのが、傍目にも分かる。

 「負けんなー、アバンテー!」

 「どうしたビークスパイダー、あんなパーツが一杯ついてるから遅いのかぁー!?」

 残る二人は、徐々に取り返しのつかない領域まで広がっていく差を、悠々と見守り続ける事しかできない。

 「それにしても安定している割には、ものすごいスピードを見せるベアホーク! 徹底的に軽量化したボディによるウェイトの軽減と、重量がシャーシに集まる低重心化が功を奏しているのかァ!?」

 単純な速度だけであれば、ストレートでは先程の葵よりも劣っているが、比較対象が対象な為、誰の目にも異様な速度に見えてしまう。

 「(…何だ、付け焼刃の知識でも、充分やれるじゃん…!)」

 試合前の懸念が完全に吹き飛ばされ、一点の曇りもない、満ち足りた精神状態となる茉莉。

 「あーちゃん、見てみ見てみ! 師匠すごいで、師匠!」

 「凄い、全然勝負になってない……」

 葵もそれなりに差を付けての勝負であったが、敢えてモーターパワーを落としての光景に、二人とも驚きを隠せない。

 コースの最大のコースアウトポイントを一週目にクリアしている以上、当然のように―――

 「ゴール! 一位は新土選手のベアホークRS、文句無しのぶっちぎりだァ!!」

 「いよっしゃー!!」

 ウイニングランを始め出す愛車を余所に、両手を天高く上げ、盛大に雄叫びを上げる。

 今まで感じた事もない快感に酔う茉莉であったが。

 「ししょー! おめっとー!!」

 そんな嬌声と共に、胸元にダイレクトに衝撃を受け、呼吸が一瞬止まってしまう。

 「ぐぇっ!?」

 ガラ空きのボディに、高校生一人のダイブをもろに味わい、倒れまではしなかったが目を白黒させる。

 「…セッコ、とりあえずその抱きつき癖、治そっか」

 茉莉のマシンを丁寧に拾い上げ、スイッチを切った状態のまま持ってきた葵が、引き剥がすように片腕で瀬都子を後ろへと反らす。

 「……あーちゃん」

 せき込む茉莉を余所に、至って真剣な表情の瀬都子が、あたかも重大な事実を発見したかのように、親友に伝え出す。

 「今抱きついて思ったんやけど、師匠、めっちゃおっぱいでかいで」

 「いや、それは別にどうでもいいから」

 流石に配慮したように小声で話す親友を適当にあしらい、自らに教えを施してくれた師へ、愛車を丁寧に渡す。

 「お疲れ様でした。流石の一言でした」

 「むっちゃぶっちぎりやったもんなぁー」

 二人から惜しみない称賛を浴び、まんざらでもなさそうな態度の茉莉は、照れくさそうに笑いながらマシンを受け取る。

 「ま、アンタらの師匠なんだから、これくらいはできないとね」

 何となく二人を直視できなくなり、走り終わったばかりのマシンのメンテナンスをするふりをしつつ、目をそらし出す。

 「ほら、アンタらもテープでタイヤのホコリ取るなりなんなりしとかないと」

 「そ、そうでした」

 「忘れとった!」

 その一言を受け、弾かれたようにカバンを漁りだす二人。

 自分から視線が外れた事に安堵した茉莉は、ふと、掌の上の小さなマシンに目を落とす。

 「(……勝てたなー、あっさりと)」

 ビギナーと思しき少年と、そもそも実況に熱中しすぎたせいでスタートが大幅に遅れた実況。

 相手が相手とはいえ、四苦八苦しながら組んだミニ四駆で得た初めての勝利は、何とも言えない感慨を茉莉にもたらしていた。

 「(……こういう事だったのかねぇ)」

 ふと目線を上げると、直立したまま、愛車にあれこれと手を加える二人を見上げる格好となる。

 常に礼儀を欠かさず、必要以上に肩肘の張った様な性格の葵はともかく、弛み切った表情ばかりを覗かせる瀬都子が見せる真剣な表情は、付き合いの浅い茉莉にも意外以外の何とも映らなかった。

 「(こいつらがミニ四駆に夢中になるのも、何となくわかった気がするなー)」

 苦笑しながら、自分も二人に言った通り、テープを用いてタイヤの埃を丹念に取り除き、グリップを復活させていく。

 三人の少女の戦いは、まだ幕を開けたばかりである。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 「…そう言えば、あの方は……」

 いち早く調整を終えた葵が、マシンを大事に仕舞いつつ、脇に居た二人へと話題を振る。

 「あの方?」

 ピンとこない茉莉が聞き返すも、付き合いの長さ故か、すぐに瀬都子には該当の人物が思い当たった。

 「…あの銀髪の人やね」

 その一言に首肯で返すと、首をキョロキョロさせ、自身をここまでミニ四駆の世界へと引きずり込んだ、ある意味張本人の姿を探す。

 「既に三レース、十二人中九人が出場しましたから、残りは一レースの三人、その中に入ってくる筈なんです…が」

 「おらんなぁ」

 瀬都子もそれに倣い、会場のあちこちに目線を向けるも、それらしき人物は影も見当たらない。

 「寝坊でもしてんじゃねーの?」

 気のない返事を返すのは、茉莉。

 会った事もない人物に興味を抱ける程、彼女は好奇心旺盛な性格とはお世辞にも言えなかったからだ。

 「うーん……」

 納得のいかない葵が呻き出すと、途端に司会ががなり立て始めた。

 「それでは! 気を取り直して第四レース! 予選最終戦を始めるぞ!!」

 先程まで落ち込みに落ち込んでいた司会であったが、ふっきれたのか、はたまた自棄になったのか。

 今まで以上の声量で、予選最後のレースを盛り上げようと、必死に奮戦しだす。

 「第一コース、西村大悟選手! 第二コース、麻田一樹選手! 第三コース、屋田昴流選手! 至急車検を受け、スタートについてくれ!」

 その一言を受けて車検場に向かったのは、大人と中学生の男性が一名ずつ。

 三人が探している少女の影は、欠片も見当たらなかった。

 「……おらんなぁ」

 「カゼでも引いて、家で寝てんじゃねぇの?」

 あれやこれやと好き勝手な憶測を言いあう二人に対し、葵の心中は、本人すらも説明のつかない焦燥に満ちていた。

 「(あの人……来ない? 本当に……?)」

 違和感を覚え出したのは三人だけでは無い。司会が、観客が、三人の不安が伝播していくようにざわめき出した。

 「え、えー……屋田選手? 至急車検を受けに来てくれ!」

 再三の催促にも、ギャラリーの中のどこからも応じる声が上がらない。

 徐々に大きくなるざわめきに耐えかねたかのように、司会が店主に目線を送ると、店主は言いたい事が伝わったかのように、黙って頷いた。

 「えー…誠に残念ですが、屋田選手は不在の様ですので、第四レースは西村選手と麻田選手の二名でのレースと言う事に―――」

 「ちょっと待って」

 不意に会場に居た全員の耳に届いた、何者かの声。

 「!」

 鋭敏な反応を示したのは、その声に覚えのある瀬都子と葵、そして店主の三名だけであった。

 「ごめんなさい。屋田昴流、出場します」

 会場外の路上から、小走りに車検場へと駆け寄って行く影。

 先程の声を聞いた時点で確信が持てて居たが、そのやや小柄な姿を見てしまっては、もう疑いようが無かった。

 「……来たなぁ」

 「……来たね」

 その光景を、どこか安堵したような心境で見つめるのは、葵ただ一人。

 「すみません、遅れました」

 「いや、ギリギリセーフ…ですよね、店長?」

 あっさりと参加を許容したのは、司会だけでは無い。店主も頷き、ゴーサインとして返した。

 「それじゃ、そこで車検受けて……うん、セーフだね。スタートラインについて」

 簡易車検を受け、踵を返してスタートラインへと歩を進める昴流。

 その視線が、確かに、立ちつくしていた葵を捉えた。

 「………!」

 急に体が強張り、元々不動だった姿勢が、更に動きを無くしてしまう葵。

 「…あ、あーちゃん……」

 そんな親友の異常を察知したか、不安そうに声を掛けてくる瀬都子であったが。

 「……大丈夫だよ、セッコ」

 瀬都子が予想もしていなかった光景が、目の前で展開される。

 葵は確かに柔らかく微笑みながら、自分をあやすかのように語りかけてきた。

 「次の準決勝、僕はセッコに勝つ為に、全力を出し切るから…今の僕が引き出せるレイホークの全部をセッコにぶつけるから。それを見せたら、もう二度とあの人も、レイホークが可哀想なんて言えなくなるから」

 「……あーちゃん……」

 予想外に力強いその一言に戸惑っていると、横槍を入れてくる者が一人。

 「へー、なんか随分強気じゃん」

 茶化している訳ではないだろうが、意外そうなその一言に対しても、葵は妙に気合を入れて返事を返す。

 「と言うより、僕がレイホークの力を引き出せなきゃ、絶対セッコに勝てないから…とにかくセッコに勝つつもりで挑めばきっと大丈夫、そんな気がするんです」

 「………お、おう」

 自分より遥かに背の低い少女に気押されそうになりながらも、何とか答えを返す茉莉。

 そんな光景を見ていた瀬都子は、思わず口から出そうになった一言を何とか抑え、別の言葉で返す。

 「レイホークの力引き出せても、ウチのデザートゴーレムには勝てへんって事、次の準決勝で証明したるから、覚悟しとき、あーちゃん!」

 「! 言ったね」

 振り返り、反論しようと口を開くも―――

 「さぁ、いよいよ第四レースのスタートだ!」

 注目すべきレースの開始の時を告げられた為、一時中断せざるを得なくなった二人は、一時休戦して視線をコースへと戻すことにした。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 目の前に広がる、凹凸が皆無に等しい、至って平坦なコース。

 眼前に広がるそのコースを見据える昴流の瞳は、焦りの色に満ちていた。

 「(…しまった、思いっきりフラット)」

 昨晩、何とか仕上げた愛車のアバンテJr.に取り付けられているパーツの大半は、立体を前提に取り付けられたものばかり。

 フラットにおいて全く意味を成さないとまでは断言できないが、それでも付けるか付けないかの二者択一を今から行えるとしたら、大半のパーツを取っ払いたいと考えているのもまた、事実ではあった。

 しかし、寝坊した上に道に迷ったが故、コースを見てセッティングを変える時間的余裕が無かったのは全て自分に責任がある。現在のセッティングで挑むほか、彼女に選択肢は存在しなかった。

 「(コースアウトするポイントはレーンチェンジ直後の一点だけ、緑スポンジでしっかりブレーキ効かせるからそこは問題ないとして…問題は速度負け、か)」

 車検が終わってしまった今、マシンに手を加える事は許されない。

 その為、見たからと言って何が変わる訳でもないが、横目で対戦相手たちのマシンを眺めて粗を探し、精神的に安定しようと試みる。

 「(一レーンは論外…スラスト弄ってないし、ローラー全部プラリンな上に減速パーツ無しだから、チューン系だとしでもコースアウトの危険性が高すぎる…二レーンは微妙だけど、多分回転音からしてモーターはチューン系か、慣らしが不十分なライトダッシュ…速度負けする事は無い、かな)」

 一通り心中でケチを付け終え、心の平穏を得る。

 自分とて駆動系の仕上がりに満足が行っていないどころか、及第点にすら達していなかったので、お世辞にも心に余裕がある状態とは言い難かったからである。

 「第一コースの西村選手はアスチュートRS、第二コースの麻田選手はフェスタジョーヌ、そして第三コースの屋田選手はMSシャーシのアバンテJr.! ラジコンデザインなマシンが多いこの一戦、果たしてどのような結末を迎えるのか!」

 いよいよ予選最後のレースが幕を開けると言うのに、瀬都子はいまいち冴えないテンションのまま、茉莉へと問いかける。

 「師匠、あの屋田って人、大したことないんと違うん? 重り一杯ついとるで?」

 つい先ほど、コースに合わせたセッティングを何も行わず、とりあえずマスダンパーを付けただけのマシンが吹き飛んだ現場を、最も間近で見ていた瀬都子。

 茉莉の解説を鵜呑みにしていた為、どうしてもスタートを目前に控えた少女が、上級者であるとは思えなかった。

 「うーん…確かにアレはなー……」

 頭をポリポリと掻きながら、突っかかられた張本人である葵に話を振る。

 「って言うか、アイツ、自分で上級者とか実力者とか、そんな感じの事言ってたのか?」

 「そう言う訳ではないんですが…」

 葵自身、目の前の現実にどうコメントして良いのか分からず、答えあぐねてしまう。

 「ただ、塗装している上にシールすら貼って無いこの子の名前をちょっと見ただけで即答されたのと、セッティングがなってない、との様な事を仰っていましたので、てっきり知識の豊富な実力者かと…」

 「なるほどねー」

 葵の解説を聞き、納得が行ったとでも言いたげな口調で返す。

 「良く居る、聞きかじりの知識で偉そうにしてる類のタイプじゃねーの? ホラ、よく居酒屋で、テレビの受け売りで政治家とかにケチ付けてるオヤジいるじゃん」

 自らの事を思いっきり棚に上げて言うも、その事実を知らない二人の少女からツッコミが入る事は無い。

 「ウチ、居酒屋行った事ないで」

 見当違いな言葉を返す瀬都子であったが、その発言を最も咎めそうな葵は、沈黙を保っていたままであった。

 「(…聞きかじりの頭でっかち? 彼女が……?)」

 考えずとも、僅か数秒後には目の前で答えが出る疑問であったのに、どうしても頭から拭えない。

 そうこうしている内に―――

 「さぁ、いよいよスタートだ! レディー!!?」

 試合開始の時を告げるその一言で、ハッと顔を正面に向ける一同。

 勿論注目は、左端のコースに陣取る、銀髪の少女の手に握られた、あたかも錆びているかのように彩られた、橙のボディのマシンであった。

 「ゴー!!」

 その一言で、全く同時に主人の手からコースへと放たれる、三台のマシン。

 しかし、三台ともが互角であった瞬間は、そこが唯一無二となった。

 『速い!!』

 三人が全く同時に、全く同じ言葉を発する。

 あえてモーターのパワーを押さえていた茉莉が優勝したレースの直後である、と言う事を考慮に入れても、目の前で展開されているレースの速度は、三人の想像の遥か上を行っていた。

 「さぁ、先頭は最内レーンのアスチュート! ほぼ同時にアバンテが追従する! しかしこのスピードではー!!」

 観客の脳裏によぎったのは、先程無様なコースアウトを喫した、第二レースでの二台の高速マシンの姿。

 その姿とオーバーラップするかのように、真っ赤なボディがコーナー入り口で暴れ、次の瞬間には―――

 「こ、コースアウト! 第一レーンの西村選手、早くも無念のコースアウト! やはりあのスピードで、魔のレーンチェンジの攻略は敵わなかったか!!」

 ああ…と、溜息が一斉に観客の内から漏れだす。

 こうなる事を予想しつつも、どこかでその予想が覆されて欲しい、と願っているが故の物であった。

 「さ、さぁ! 一気にトップとなったのはアバンテ! しかしこのスピードでは、アスチュートの二の舞は目に見えているぞ!?」

 たった今コースから姿を消したアスチュートには僅かに劣るものの、それでも相当のスピードでコースを疾走し続ける、暖色のマシン。

 もう一台の存在を完全に観客の脳裏から消し去り、視線を独り占めするそのマシンの、完走を信じている人間は皆無に等しかった。

 「あの速度やったら、絶対飛んでまうんと違うん?」

 「まぁムリだろうなー」

 そんな会話をしている二人を余所に、葵は一人、激走を続けるアバンテの持ち主を司会に捉える。

 自身とほぼ同じ速度で走行していたアスチュートが無残なコースアウトを見せたばかりだと言うのに、その表情には、微塵も動揺が感じられなかった。

 「(…何で? どうして……)」

 諦めの境地に居るのではなく、自身の勝利を微塵も疑っていないその瞳は、見つめる葵自身を不安にさせる。

 そうこうしている内に、疾走を続ける一台のマシンは、もう一台を完全に置いてけぼりにした上で、ファイナルラップへと突入した。

 「さぁ、フェスタジョーヌを完全に置き去りにしたアバンテ、独走状態のままファイナルラップに突入! しかしこの先に待っているのは、幾多もの選手達を葬ってきた、魔のレーンチェンジセクションだァ!!」

 その一言で、一斉に観客の目線が、コースの唯一か所へと集約される。

 自分達が脳裏に描いた光景が、そのまま再現される事を、誰も信じて疑わずに。

 実況が次の一言を叫ぶ為、一呼吸置いている間に、瞬間移動したかのような速度でストレートをクリアし、その車体が地上数センチの所へとリフトされていく。

 「!?」

 その瞬間起きた異変に気付いた、否、気付く事が出来たのは、葵ただ一人。

 司会も、他の観客も、先程のアスチュートと同様の出来事が起きたようにしか、見えていなかった。

 「いよいよだ! このセクションに、アバンテに託された夢は儚く散る事に………ッ!!?」

 司会が、思わず言葉と共に、息を飲む。

 司会だけでは無い。ざわめきに乗じて好き勝手な予測を立てていた観客達も、それは同様であった。

 「…え」

 「…ウソやろ…」

 昴流の表情からか、あるいは先程見た光景からか、この結果を心のどこかで予測していた葵とは違い、完全にアバンテが失格となる事を信じ込んでいた二人が、茫然とした表情で呟く。

 それもその筈、レーンチェンジ後にコースアウトどころか、体勢を殆ど崩さないままコーナーを曲がり切ったアバンテは、嘲笑うかのように残りのコースの征服に取りかかりだしたからである。

 「な、何とォ! アバンテ、あの猛スピードで、魔の第三コーナーを難なくクリアァ!! これが第五の力なのかァ!!?」

 ようやく現実を飲みこんだ司会が、本日最高潮のテンションに任せるがままに、好き勝手喚き出す。

 しかし、誰もその言葉が、耳に届いている者は居なかった。

 「……一瞬、減速しました」

 幽かな葵の呟きが二人の耳に届き、反応するよりも早く。

 「ゴ―――ール!」

 アバンテの圧勝を示す雄叫びが、その場を支配する。

 「あ、圧勝です! こういう言い方はしたくありませんが、参加者十二名の内、完走した選手の中、明らかに誰よりも圧倒的なスピードで、オレンジに彩られたアバンテが、たった今ゴールしましたァ!!」

 必死に盛り上げようとする司会の怒声が響くも、他の観客からのリアクションは皆無であった。

 それほどまでに皆、たった数十秒前に目の前で展開された光景が呑み込めず、沈黙を保つ以外にする事が無かったのだ。

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