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1-3 初レースに向けて


 「うーん……」

 同時に視界に移りこんでいるのは、二台のマシン。

 勿論、その二台は先程熱戦を繰り広げたデザートゴーレムとレイホークであるが、唸っているのは葵一人であった。

 「………」

 あえて黙っている瀬都子と、沈黙にそろそろ耐え切れなくなってきた茉莉。

 奇妙な状況であったが、それ自体はすぐに打開された。

 「師匠」

 「え、あ、あたしか」

 未だに『師匠』と呼ばれる事に慣れていない茉莉は、思わず素の反応を返してしまうが、寸での所で踏みとどまる。

 「…その、おこがましいようですが、僕なりに負けた原因を考えてみたんです」

 「あ、うん」

 先程からの様子を見ていれば、敗因を分析していたのは明確であった。

 その為、特に意外にも思わず、次の一言を待つ。

 「セッコの車と僕の車…一番大きな違いは、恐らくタイヤじゃないかと思うんです」

 「あー、うん」

 先程はローラーばかりに着目していたが、今見返してみると、タイヤも茉莉の学んだセオリーとは大分外れている。

 「(確かに、スポンジタイヤじゃなくて普通のゴムタイヤにすりゃ勝てたかも…)」

 頭の片隅から知識をほじくり出し、それをそのまま言葉にして伝える。

 「確かにねー。今、そのスポンジのタイヤはグリップが利きすぎるから、普通のゴムのタイヤの方が良く使われてるかなぁ」

 「へぇー」

 感嘆の声を上げたのは、質問した張本人ではなく、沈黙を守っていた瀬都子の方であった。

 「素材が違うとそんなに違うん?」

 「そりゃあね」

 当たり前と言えば当たり前な質問に対しても、特に不快な表情をせず、淡々と解説をしていく。

 と言うより、茉莉自身も、それが余りにも無知故な質問かどうかが判別できなかったからであるが。

 「大きく分ければスポンジとゴムの2種類だけど、それぞれに何種類も素材の違いがあるし、形も色々あるし…拘って自分好みの形に削る人も良く居るってハナシだし」

 「ほえー」

 何となく聞いた疑問に対し、想定を遥かに超えるほどのスケールが帰ってきた為、ひとまず驚く事しかできない。

 「良く分からんけど、師匠くらいになるとそういうもん、全部使いこなしとるんかなー」

 「…え」

 得意気になって語っていると、予想だにしていなかった方向に話を振られ、迂闊に言葉を発する事が出来なくなる。

 「(…ここで迂闊に『そうだよ』っつったら『じゃあここのコースで一番良いのはどれ?』ってなるに決まってるし、だからって『そうじゃない』っつてもそれはそれで素人バレしそうだし…)」

 しかし、迷っている時間は無い。瞬時に言葉を絞りだし、お茶を濁すしか無かった。

 「ぜ、全部使いこなせるって訳じゃないけど、押さえるポイントは押さえてるから大体フォーマルに速い選択は出来るかな、結局アベレージでのバランスが大事だからね、うん」

 適当に英語を混ぜつつ、煙に巻こうと試みると。

 「へぇー、良く分からんけどすごいなぁ」

 「(あ、いいんだ)」

 案外あっさりと納得してくれた事に安堵し、それ以上ボロを出さないように口を閉じる。

 しかし、それを許さない人物が、一人居た。

 「あの、タイヤの直径は、走りにどう影響するんでしょうか」

 傾げた首を戻さないまま、茉莉の方を仰ぎ、質問を飛ばす。

 「僕の車に比べて、セッコの車の方が随分タイヤが小さいんですが…どっちが良いとかあるんでしょうか?」

 「ん」

 言われて改めて視線を移すと、葵の指摘通り、タイヤの直径自体にも目視で分かる程の明確な差が表れている。

 方や、重厚なボディにスッポリと覆われてしまう程に小さく、方や存在感をアピールするかのような巨大さを誇る。

 タイヤの材質云々より、目に見えて分かるその要素に対して葵が疑問を持つのも、不思議ではないだろう。

 「あーうん、タイヤの直径でも随分変わるんだけどね」

 無論、タイヤの径での走りの変化などは基本中の基本であり、様々な情報サイトに必ずと言って良い程書かれていた情報である。

 頭に叩き込む程に情報量の多い事でも無かった為、つっかえる事も無く、スラスラと言葉になって口をついてくる。

 「一般的に青宮さんのは大径、赤橋さんのは小径って呼ばれる大きさで、大径は小径に比べて加速が―――」

 が、調子づいた説明は、すぐに中断される事となる。

 原因は明白で、どこからともなく流れて来た、ムリに文字に起こせば『ぐー』と書ける異音に、その場が支配されたからだ。

 どこからともなく、と書くと、語弊が生まれる。原因は明白であった。

 「!」

 目にもとまらぬ俊敏な動きで、両腕を用いて自分の腹部を抑えたのは、座ったままの葵。

 その動作自体は『一瞬』と形容するのが最もふさわしいと言えたが、如何せん遅すぎた。

 「……ッ…!」

 先程まで講義サンプルに使用されていた、デザートゴーレムの真紅のホイール並みに顔を紅潮させた葵は、何事も無かったかのように振る舞おうとする。

 しかし、全ては遅かった。

 「ま…まぁ、成長期だから腹減るよね、しょうがないよね、うん」

 「そういやもう一時まわっとるし、モスドでも行こっか」

 「ううう……」

 そんな二人の優しさが、却って本人を傷つける。

 「ま、まぁ、閉店までまだ時間あるし、お昼食べ行ってから続きやろっか?」

 「う…うん……」

 力なく頷き立ち上がるも、顔が正面を向く事はない。

 そんな葵に配慮してか、二人が無言のまま葵を誘導し、一旦店の外へと出ようとする。

 「おばちゃーん、ちょっとウチら、ご飯食べに―――」

 レジを通り過ぎる前に、店主に声を掛けようとした瀬都子であったが、その朗らかな声が途中で中断される。

 理由は単純。

 「ええ、はい、はい、そのようにお願いしたいのですが―――」

 恰幅の良い店主が、こちらを見て居る筈も無い電話の相手に、頭を垂れながら応対していたからである。

 「…ジャマしたらあかんね」

 小声で二人にそう告げると、ダメージから多少立ち直った葵の手を取ったまま、扉へと向かおうとする。

 その次の瞬間。

 「はい、はい。ではよろしくお願いします、失礼します」

 その声を最後に、ガチャリと受話器を置く音と、盛大な溜息が同時に聞こえてくる。

 「あ、」

 『おばちゃん、電話終わったん?』と瀬都子が続けるより早く、女店主がこちらに向き直り、距離を全く配慮していない大声量でがなりたててくる。

 「あ、瀬都子ちゃんに茉莉ちゃんに葵ちゃん、ビッグニュースだよ、ビッグニュース!」

 「え!?」

 鼓膜を打たれ、少しだけ混乱している二人をさておき、真っ先に『ニュース』の内容を妄想して飛び付いたのは、瀬都子であった。

 「オッドアイズ・マジシャンのスターダスト・ヒーローエディション、再入荷するん!?」

 「あ、いや、それじゃなくてね」

 その一言で、瀬都子の肩が、少なく見積もっても5センチは下がる。

 しかし、次の一言で、瀬都子のみならず三人のテンションは一気に回復する事となる。

 「それより聞きなさいよ、さっきタミヤさんから許可が下りてね、追加でコース借りれる事になったから、ウチで大会やるわよ、大会!」

 「本当!?」

 思わず、絶叫のような声量で返答する三人。

 その声は、当然のことながら、店外まで大きく響いていた。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 「うっへー、細かいなぁー」

 スマートフォンの液晶ガラスを親指ではじく動作を何度も繰り返した葵が、周囲の客のジャマにならないよう配慮した声量で、呻くように叫ぶ。

 彼女が見ているページのタイトルは、そのものずばり『ミニ四駆公認協議会規則』であった。

 「ルール自体はそう多くないけど、寸法チェックするのめんどいなー。普通に組んでる分にはセーフなんだろうけど」

 行儀悪く、ボックス席のシート側を二席分占領し、左腕をシートの上に肩を組むようにして載せる。

 一緒に店に入った二人を含めると三人となる為のボックス席であったが、その二人は未だにカウンターの前に居る。他の客からの視線に若干の居心地の悪さを感じたが、それで委縮してしまうような性格でも無かった。

 「んー……」

 まだ冷える様子を見せないハンバーガーの横にスマートフォンを置き、しばし虚空を見上げる。

 「ミニ四駆、なぁ……」

 本来、頼みこんできた葵のマシンを受け売りの知識で走らせるようにしたら、即座にトンズラと行く予定であった。

 しかし、現実として、午前中いっぱいを二人の調整に付き合い、そしてごく自然に昼食まで同席している自分が居る。

 「………」

 レースは丁度一週間後。部活に入っている訳でもなければ、熱心に学習塾に通っている訳でもない為、勿論スケジュールは空白である。

 厳密に言えば、どうせ知人の誘いに乗り、無為にゲームセンターやらカラオケボックスやらで時間を潰す事になるのだろうが――

 「………」

 思い出されるのは、つい一時間前の光景。

 信じられない速度で目の前を通過していく、たかが全長十数センチの玩具。

 それの行く末に本気で喜び、本気で悔しがる、二人の同い年の少女達の姿。

 そして、それらを見守っていた自分が、思わず硬く握りしめていた拳。

 「……ま、どーせヒマだしなぁ…」

 そんな言葉が、つい口を出た次の瞬間。

 「おまたせー」

 「お待たせしてしまい、大変申し訳ございませんでした!」

 呑気な声と、聞いているだけで背筋がシャキッとしそうなほどに張りつめた声が、ほぼ同時に耳朶を打つ。

 「…いや、もう……」

 敬語とか良いから、と言おうとした口が、途中で動きを止める。

 原因は明白。葵の手に持つトレーにうずたかく積まれた、ハンバーガーの包装に、眼が釘付けであったからだ。

 「……まさか、それ二人で…?」

 二ケタほどはあろうハンバーガーは、当然ながら十個と見積もっても一人頭五個。

 高校生男子ならば軽く平らげてしまう量であろうが、小食が基本の少女たちにとっては、罰ゲームと言っても過言ではない量である。

 「うん、ウチはこれだけやけど」

 そう言いながら、山と積まれたハンバーガーの中から二つを取り、同時に四つある紙コップの内一つを持ち上げると、自身が用意した空のトレーの上に移動させる。

 となると、当然、殆どそのシルエットが変貌していない、残った山は―――

 「…まさか、全部青宮さんの?」

 「? そうやよ?」

 『何故そんな事を聞くのか』とでも言いたげな態度の瀬都子に突っ込みを入れたのは、話題の原因を作った葵。

 「いや、セッコは見慣れて、感覚がマヒしてるだけだから」

 「あ、そっか。もう三年近くもこんな光景見とるもんなぁ」

 そう言いながら、いそいそと自分用のハンバーガーの包みを開け始める。

 パーツ代の為に節制したいのか、はたまた単に好みなだけか、様々な価格帯のあるこの店でも比較的安価な物であった。

 「……えーと、青宮さん?」

 「『葵』で結構ですよ。同い年ですから」

 自分は敬語を崩そうともせず、相手からのこちらへの敬語には牽制を加える。

 『師匠』と呼んでいる立場ならば妥当な行為ではあったが、何となく腑に落ちない思いを抱えながら、茉莉は指示に従う事にした。

 「んじゃ、葵、それ幾つあるの?」

 『それ』の指す内容が明確になるよう、人差し指を立て、対象を指しながら発言する。

 当然、地味に手入れされた爪が光る指は、うずたかく積もれたハンバーガーを指していた。

 「十個です。お昼ごはんですから」

 「……ええ……」

 事もなげに言われ、呆れる以外の反応が返せない。

 「あーちゃん、食いしん坊さんやもんなぁ」

 三年という時間が感覚をマヒさせたのか、ケラケラと笑う瀬都子の様子も、茉莉の平衡感覚を大きく狂わせる。

 「ち……ちょっと失礼」

 断りを入れながら、テーブルの下からこっそり、細く見える葵のわき腹を軽くつまむ。

 「ひゃ!?」

 苦痛を感じた訳ではないが、予想もしていなかった行動に出られ、思わず妙な声を発してしまう。

 「………」

 一方の茉莉は、納得の行かない、とても納得のいかない表情のまま、たった今葵の脂肪をつまんだばかりの人差し指と親指を凝視し、おもむろに瀬都子の腹部を同じように摘まんでみる。

 「ちょ、いきなり何するん!!?」

 当然の抗議にも耳を貸さず。

 「………」

 少しの沈黙の後、腕を組み。

 「…神様は不公平だなぁ」

 自分が太っている訳ではないが、それでも言いしれない不公平感を拭い去る事はできず、続けてぼやく。

 「毎日毎日お菓子を我慢して、一キロ痩せる為に死ぬほどの努力をしている女子が山のように居るってのに、ここには食っても食っても全然脂肪が付かない女子高生が居るなんて」

 「ウチ、別に太ってへんで!!?」

 絶叫した友人に代わり、葵が慌てて、周囲には聞こえないように配慮した声量でフォローに入る。

 「ぼ、僕、むしろそれで悩んでいると言いますか、高校生なのに体重三十四キロしかなくて色々まずいなと思っていると言いますか」

 「……三十四?」

 幾ら痩せたい痩せたいと念仏のように唱えている女子高生でも、流石に四十キロを切りたいと考えているような輩は稀である事には疑いようがない。

 「…それ、何かの病気じゃ……?」

 明らかに尋常じゃないデータを並べられ、陰鬱な気分よりも不安感の方が勝る。

 「ウチも最初そう思ったんやけど、あーちゃんカゼすらひいた事あらへんし、食べた後吐いたりとかもした事無いし…あーちゃんはこれが普通なんよね」

 「うん」

 「さいで」

 相手をするのも面倒くさくなり、おざなりな返事でその場を収める。

 そもそもの本題は、そこでは無かったからだ。

 「話帰るけど、二人とも小鹿模型のレース、出る気あるの?」

 自分は未だに、ハッキリと出場の意思を固めた訳ではない為、何の気も無い風を装いながらも、二人の反応を伺うように尋ねる。

 が。

「もち!」

 勢いよく即答したのは、瀬都子一人であった。

 「…………」

 「…………」

 「…………あれ」

 しかし、グッと握った両の拳は、信じられないとでも言いたげな二人の目線によって、徐々に力を無くしてく。

 「あ…あれ? あーちゃん、でーへんの?」

 「…うーん……」

 親友からの問いかけに、イエスともノーとも答えず、呻きながら苦悩を言葉にする。

 「……何て言うか、その……何て言えばいいんだろう……」

 明らかに答えあぐねた葵は、カバンをまさぐり、卓上の比較的きれいなスペースに愛車を鎮座させる。

 埃の除去などの手入れは行きとどいているが、それでも十数年前に走り続けていたボディとシャーシに新品に近いパーツを搭載していると、さながら最新式の機関銃を携えた老兵のようにも見えた。

 「…師匠にお話しした事は無かったかも知れませんし、セッコにも詳しく話してなかったかも知れないから説明しておきますと、この車、僕のじゃなくて僕のお姉ちゃんのものなんです」

 「…へぇ」

 『大切な物』とは聞いていたが、具体的なエピソードを耳にするのは初めてである。

 ひとまず茉莉は、最低限の相槌だけ打つ事にし、聞き役に徹する事にした。

 「まだ僕が幼稚園児だったころ、お姉ちゃんが東京の大学に合格して、そっちで一人暮らしする事になったんですけど…」

 そこまで発言した所で、一旦言葉を切り、非常に言い辛そうに後を続ける。

 「僕、昔は凄くお姉ちゃんにべったりだったので、いざお姉ちゃんが家を出るってその日に、泣きながら行かないでってお姉ちゃんの足にしがみついて、ぜんっぜん離れなくて……」

 「………」

 その話を聞く二人の沈黙は、決して過去の葵を不憫に思っての事では無い。

 「(…めっちゃ)」

 「(…想像できる…)」

 発育不良を疑われかねないほどに背丈の低い葵の『幼稚園時代の姿』を想像できない程、二人の想像力は貧困では無い。

 方やそんな想像上の葵が可愛らしくて仕方が無く、方や可笑しくて仕方が無く、両者ともに必死で口を閉じ続けていた。

 「そんな事してたら、お姉ちゃんがカバンからこの車を取りだして、僕に渡してくれたんです。『これは私の分身も同然、だからこれを私だと思って持ってなさい』って。」

 そう言いながら、愛おしげに愛車のコクピット部を、人差し指の腹で撫でる。

 「…で、それ以降、十年以上走らせずに飾ってた、と」

 合点が行った、とでも言いたげに横槍を入れる茉莉に、気分を害された様子も無く、頷いて補足する。

 「正確にはずっと宝箱に入れて保管してたのですが…そもそもミニ四駆ってものの存在を知らなかったので、漫画かアニメに出てくる車のオモチャかな、ってずっと思ってたんです。走るなんて思っても見なかったというか…」

 「(…いや、確かに漫画とかアニメに出てくる車のオモチャらしいけどな)」

 頬を軽く掻きながら、言い訳のようにメンテナンスを怠っていた理由を説明する。最も、茉莉も瀬都子もそこを責めようなどとは露ほども思わなかったが。

 「…それで、店長さんが仰ってたんですけど、僕が産まれる前、お姉ちゃんはこの子で凄く沢山の大会で結果を出していたらしくて…何と言うか」

 上手く言えないんですけど、と再度前置きし、昔話をしている最中に整理できた頭脳から、要点を纏めて言葉にする。

 「そんな凄かったこの子でも、師匠からちょっとアドバイスを頂けただけで、当時よりも速くなった…そう考えると、この子が走っていなかった間、一体どれだけミニ四駆が進化して、一体どれだけこの子が置いてかれちゃったのかな、って考えると……」

 喋り過ぎからか、あるいは緊張からか。

 長い間放置されていたせいで、表面に結露が現れ始めていた紙コップの一つを手に取り、何度か喉を鳴らした後、落ち着いた様子で言葉を続ける。

 「…アドバイスを頂いた師匠には申し訳ないのですが、多分、今現役でやってた人たちから比べると、『今の』この子はそんなに大したことないんじゃないか、って思えちゃって…」

 そこまで言うと、両手で軽く持っていた紙コップから手を離し、掬うようにレイホークを小さな両掌の上に載せる。

 意外と掃除の行きとどいたボディは、外から差し込まれる太陽光を反射し、どことなく哀愁を感じさせる輝きを発していた。

 「…むざむざレースに引っ張り出して、遅いマシンだ、って思われてお姉ちゃんの…この子の顔に泥を塗る事になったら、って考えたら、どうしても……」

 「………うーん」

 実際の所、レースに出るようなマシンの走りを見た事がない茉莉は、肯定も否定もできずに唸るしかない。

 「(…ここで無責任に勧めてボロ負けされでもしたら、なぁ……)」

 答えあぐねていると。

 「そうかなー」

 あっけらかんとした声で横槍を入れて来たのは、真っ先に出場を表明した瀬都子。

 そこまであっさりと否定してくるとは思わず、疑問符を浮かべながら自信を見つめる二人に対して、ジュースを片手に堂々と持論を述べる。

 「何て言うか…嫌味言う訳や無いねんけど、その車が凄かったのって、あくまでも『あーちゃんのお姉さん』が使ってた時の話やんね」

 「う、うん」

 妙な前置きから、何を言われるのかと一瞬身構えてしまう葵。しかし、瀬都子の一言は、そこまで身構えるほどの物でも無かった。

 「で、その時から十何年も経って、よーやくあーちゃんと師匠が頑張って、昔以上の速さで走るようになった…それって、もう『お姉さん』はあんまり関係ないんと違うん?」

 「え?」

 何を言うのか、とでも言いたげな二人が口を開く前に、瀬都子は持論の補強に入る。

 「確かにお姉さんが使うてた車かもしれへんけど、パーツ一個一個丁寧に洗って、新しいもん買って付けて、前より速くなった言われたんに、まだ自分で『こーだから遅い、あーだから遅い』って悩んで、また改造して…それって、もうお姉さんのもんや無い、あーちゃんのミニ四駆ちゃうかなぁ、って」

 「……僕の……」

 その一言を受け、改めて姉のマシンを凝視する。

 ボディとシャーシこそ元のままであるが、フロントのスライドダンパーは外されて大型のFRPに、リヤの古ぼけたステーも外されてカーボンの三点固定タイプへと変更され、もはや別物と言っても過言ではない風体と化していた。

 「…お姉さんが手を加えて、お姉さんが活躍させてたマシンは、葵が手を加えた時点でもうこの世には無い。だからそこにあるのは、『葵が手を加えて』、これから『葵が活躍させるマシン』…そう言いたい訳?」

 「そう言いたい訳」

 茉莉の補足に、にっこりと笑いながら頷く。

 「……………」

 瀬都子の言葉に思う所があったのか、俯いて何事かを考えだした葵。

 ややあって、

 「…セッコは」

 若干顔を上げ、まっ直ぐに親友の瞳を見ながら、嘘は許さないとばかりに質問をする。

 「セッコは、どうしてレースに出ようって思ったの?」

 「ウチ?」

 どうしてそんな事を聞くのか、とでも言いたげに自身を指差した後、事もなげに即答する。

 「そんなん、ウチのデザートゴーレム、試してみたいからに決まっとるやん」

 「…試したい?」

 思っても見なかった一言を理由の核とされ、戸惑いを隠せない。

 そんな様子の葵に構わず、否、理解してもらうために、丁寧に説明を加えていく。

 「正直な話、ウチもあの子があんなに速よ走るなんて思ってなかったんよ。おばちゃんのマグナム何とかと同じくらいやと思ってた…って言うか、デフォのままやったら多分同じくらいやったんやろなぁ」

 けど、と一旦言葉を区切り、本当に重要な部分を伝え始める。

 「それでも、師匠のお陰で、あんな速よ走るようになって、初陣でもギリギリやったけど勝てて…上手く言えへんけど、初めて走らせた時から、一旦あそこから離れるまで、ずーっとドキドキしっぱなしやったんよ」

 だから、と前置きしながら、先程の葵同様に自らの手提げカバンに両手を突っ込み、まさぐり始める。

 すぐに取り出された両手に握られていたのは、やはり1/32スケールの小さな小さなマシンであった。

 「ウチ、この子ともっと、もっとあんなドキドキしたい。あーちゃんとだけじゃなくて、もっといろんな人相手に、この子の事を試してみたい…って」

 えへへ、と照れ笑いを浮かべながら、頭を掻く。

 「言うて、そんなん後付けみたいなもんやけどね。おばちゃんから大会があるって聞いてから、ずーっとワクワクしてて、さっきあーちゃんが出たがらない理由話してくれて、それでようやく『何でウチは出たいんやろ』って思って、必死に考えて出てきた答えやから」

 「…………」

 その言葉を発した瀬都子本人ではなく、その彼女が丹精込めて制作したデザートゴーレムに視線を落とし、しばし葵は沈黙する。

 「(…この子の事を、試してみたい……か)」

 思いだされるのは、たった一週間前から、現在に至るまでの光景。

 自分が模型屋の片隅で見つけた事から始まった出会い。見慣れた瀬都子の部屋で、二人で説明書と睨めっこしながらの制作。そして初めてのチューンナップ、自分とのレース。

 振り返れば振り返るほど蘇るのは、惚れていた模型を手に入れた時くらいしか拝む事の出来ない瀬都子の、歓喜と興奮がミックスされた魅力的な笑顔。

 「(……僕は、どうだったのかな)」

 考えるまでも無かった。

 原因不明の不調への落胆。師からのアドバイスにより、不死鳥のように蘇った時の感激。素組みに少し手を加えただけの親友の機体よりも遅いと実感した時の、幽かな悔しさ。

 「…………」

 レース開始直後、置いて行かれた時の焦燥。終盤の激しいつばぜり合いでの、得も言われぬ興奮。敗北を受け入れた時の、先ほどよりも遥かにハッキリとした悔恨の情。

 「(……全部、久しぶりだったなぁ…)」

 一年前のあの日以来、瀬都子の前以外では、感情を殆ど表に出さなくなってしまった自分。

 無気力・無感動な人間になってしまった訳ではないが、数少ない例外を除き、心が強く突き動かされる事は殆どなくなっていた。

 そんな自分が、無意識に叫び出すほどに、胸の内を燃え上がらせた、事実。

 「それに」

 追い打ちを掛けるかのように、考える隙を与えないかのように、畳み掛けてくる声。

 無論、それは葵を追い詰める為の言葉では無い。奮い立たせる為の言葉であった。

 「あーちゃんが思ってる通り、大会やったら、そら師匠みたいな凄い人、一杯来るんやと思う」

 「(…たかが場末の模型屋の大会に、そんなに上級者集まるのかねぇ)」

 思う所はあったものの、口に出すような事でもないので、黙って会話を滞らせないように努める。

 「せやったら、この前のあの人、来るんと違うん?」

 「!」

 声こそ出さなかった物の、その一言に過剰ともいえる反応を示す。

 「……誰だそれ」

 話の腰を折るのも何だと思ったばかりではあったが、一人だけ話に付いて行けないという状況が我慢できず、無意識に質問が口をついてしまう。

 「この前……」

 説明しようと口を開いた瀬都子を遮ったのは、葵であった。

 とは言え、説明させないために遮った訳ではない。真の当事者と言える自分の口から説明する為の行為であった。

 「師匠と初めてお会いする、ほんの数分前の事だったんですが…あの模型屋で、中学生か高校生くらいの女の子とお会いしまして…その、怒られてしまったんです」

 「? 怒られた?」

 意外すぎる一言に耳を疑い、即座に聞き返す。

 多少ズレた所があるものの、過剰とも言えるほどに礼儀正しい目の前の少女が他者の怒りを買う場面など、想像だにできなかったからだ。

 「その…折角良いミニ四駆を持ってるのに、最低限のメンテナンスすらしないなんて、マシンが可哀想だ、って…至極尤もなお怒りなんですが」

 「なるほどねぇ」

 何となくではあるが、話の大筋が見えてきた為、そこから先を勝手に補足する。

 「それでアタシが店に来た時に、いきなりミニ四駆教えてって頼みこんできた訳か」

 その推測に対し、二人が首肯を返してくる。

 「で、その人、一目見ただけであーちゃんのミニ四駆の名前とか、使ってるシャーシとか、セッティングがどうこうとか見抜いて…多分、相当凄い人なんやろうから、今度の大会にも出てくるんかなって思ったんやけど」

 そこまで言ったところで、ようやく話の腰を折られていた事に気が付き、再度葵に向き直る。

 「チャンスやんね。その人に、ちゃんとあーちゃんがその子の全力を出せてるって、もう可哀想な事してへんって、見せつけたるチャンスやない?」

 「!」

 忘れていた。

 自分がミニ四駆を始めたのは、瀬都子に勝つためでも、より速く走る為でもない。

 姉から譲り受けたマシンに、他者が激怒するような扱いをしていた事を恥じ、それを改善する為であった。

 「………」

 無論、今はそれ以外の情熱も湧きあがってきている。来てはいるのだが。

 「(……そう、だよね)」

 再び愛車を手に取り、その容姿をもう一度じっくりと見据え、自分自身と対話するかのように胸中で呟く。

 「(この子に可哀想な事してる、なんて思われてるのを改めさせないと…この子を持ってる資格なんて、僕には無いよね…)」

 もう迷う要素など、何一つ無かった。

 「………セッコ」

 不意にその名を漏らすも、当人は笑顔を崩さず、こちらの胸の内を全て見透かしているかのように、声を掛けてくる。

 「……やる気、出た?」

 「………」

 その答えに単純に頷くのではなく、自分が見つけ出した結論を、正直に打ち明ける。

 「…セッコは、自分が一目惚れして、一から組み立てたその子を試したいって言うけど、僕はちょっと違って」

 「うん」

 どこまでお見通しなのか、あるいはさほど物を考えていないのか。

 そのどちらなのかが痛いほどに理解できていた葵は、一息に黒い瞳を見据え、飾らずに自分の想いを告げる。

 「…さっきミニ四駆やってた時、昔みたいにドキドキしたり、負けて悔しかったりした…けど、それが楽しくて仕方なかった。だから……」

 一旦言葉を切ると、抱えていた物を一気に吐き出す。

 「だから、これからもこの子と一緒にミニ四駆続けたい。けど、可哀想なんて言われたままだったら、多分、僕にこの子を持つ資格なんて無いから―――」

 「……今から一週間」

 葵の決心を最後まで聞く事なく、瀬都子が口を挟んでくる。

 無論、その理由は。

 「一緒に、毎日特訓しよか」

 「うん!」

 言わずとも、葵の下した結論くらい、お見通しであったからであった。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 ミニ四駆公認協議会規則 第1項2条

 (前略)競技車にはボディを外れないように取り付けること、またボディは必ずシールを貼るか塗装して下さい(注釈)。

 (中略)注釈)ボディの改造が規則に合っているかどうかを競技役員が判断しやすくするため、著しく小型化されたものやシール・塗装の確認しづらいものは出走が認められない場合があります。


 「だとさ」

 瀬都子は二個、茉莉は三個。

 互いに注文してきたハンバーガーを平らげた時、瀬都子が急に、茉莉に対し質問を飛ばしてきた。

 質問を受けた茉莉自身、そこまで詳しく知っていた訳では無かったので、大量のハンバーガーと意外にもお行儀よく格闘している葵を尻目に、茉莉のタブレットで公式ルールを調べていたのだが。

 「要するに、だ」

 真っ先にルールを呑み込んだ茉莉が、自分なりの解釈を披露する。

 「シールか塗装か…どっちかしてれば良くて、塗装のやり方についても特に制限は無いみたいだな、コース汚さなきゃ」

 「そっかー、よかった」

 ホッと胸を撫で下ろした瀬都子の質問は、『ボディは塗装しても良いのか、塗装しても良いならルールはあるのか』であった。

 具体的に構想を語ってはいないが、ルールを見る限りは問題なさそうと判断し、大きく一息つく。

 「組み立ててる最中から思っとったんよ。この子に、ちょっとだけ凝った塗装してあげたいなー、って」

 「ふーん」

 そもそも模型など、先日サンプル程度に一台試しにミニ四駆を組んだだけな茉莉に、塗装の魅力など分かる筈もなく、気のない返事で頷く事しかできない。

 「あんまり凝った塗装すると、コースアウトしてキズが付いた時のショックも大きいんじゃない? 飾る訳じゃないんだし」

 水を差したい訳では無かったが、明らかに走行目的にチューンを続けるデザートゴーレムの塗装プランを楽しげに練っている瀬都子に対し、つい一言忠告してしまう。

 しかし、瀬都子は気分を害された様子もなく、まるで御贔屓のアイドルでも語るかのような熱を帯びながら力説してくる。

 「ワザとウチの子傷つけたい訳やないけど、そうやって自然に出来た傷で塗装があちこち剥がれてきたら、それはそれで歴戦の勇者的な風格が出そうやん!」

 「さいで」

 力説された所で、その妙味が理解できる訳でもなく、適当に生返事を返しながら、再度紙コップを手に取り、ストローで中を啜る。

 分かっていた事だが、僅かに溶けだした氷水が入っていただけだったので、すぐに下品な音を立てる有様となってしまった。

 「ししょーは?」

 「ん?」

 唐突に話の中心を自分に振られるも、主語のみで構成された疑問の意味が分からず、そのまま聞き返す。

 「ししょーはボディ、どうしてるん?」

 「どうしてる、って……」

 聞かれた所で、まさか『素組み1台組んだだけで何もしてない』と言う訳にも行かず、適当に誤魔化すしかない。

 「アタシは…付いてくるシール貼って終わりかなー。そう言うの拘りないし」

 「そっかー」

 それ以上会話の続きようがなく、妙な沈黙が訪れ掛ける。

 が。

 「ごちそうさまでした!」

 唐突な一声で、訪れ掛けていた沈黙はどこかへと姿を消してしまう。

 「食うの速いなー」

 呆れる茉莉であったが、当人とそれを見慣れた瀬都子にとっては変わった事では無い為、特に反応を返さない。

 「ほな、小鹿模型もどろっか」

 「うん」

 意気揚々と立ち上がる二人に対し、茉莉の腰は上がらなかった。

 「あー…アタシはいいや、昼から用事あったから」

 思う所があり、一人だけ同行を拒否し、その場に留まり続ける。

 一瞬だけ顔を見合わせた二人であったが、深く追求する事は選択しなかったようで、真っ先に葵が頭を下げ、続けて瀬都子が礼を述べる。

 「本日はお世話になりました! 来週のレースも、よろしくお願い申し上げます!」

 「お願いしますー。ししょーとミニ四駆走らせるの、楽しみやんね」

 「あー、はいはい」

 適当に軽く手を振ると、すぐに二人は踵を返し、店外に出るべく歩を進めてゆく。

 「………」

 その背を見送りながら、ぼんやりと、二人に対して形成されたイメージを反芻する。

 方や、どことなく取っつきづらいきらいはあるものの、礼儀に関しては過剰なまでに正しく、子供並みの体形ながら大人顔負けの大食漢…否、大食少女。

 方や、人当たりは良く、その辺に掃いて捨てるほど居そうな女子高整然としているが、それでも色々な所で世間の常識からズレた感覚を見せる少女。

 「……変な組み合わせだなー」

 今更ではあるが、二人に聞こえないよう、軽くぼやくと共に。

 「…なんでアタシもレースに出る事になってんだ!?」

 適当な生返事を今更振り返り、焦るも。

 何故か後悔の念だけは、湧いてこなかった。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 「なるほど、僕のXシャーシは小回りが利かないけど安定するんだ」

 自室と言う事もあってか、少し力を抜いた姿勢の葵が、納得したように頷く。

 ファストフード店を後にした二人が向かったのは、模型店ではなく、書店。

 そこで買ってきた、『初心者から上級者まで』が謳い文句のマニュアル本を、二人で仲良く食い入るように読み耽っていた。

 「ウチのVSシャーシは逆やねぇ。安定はしないけど小回りはだいぶ良いって書いてある……」

 ふと、卓上に並べた二台のマシンの内、葵のマシンを手に取り、その底面をしげしげと眺める。

 「ええなぁー、ウチ、安定性重視の方が良かったなぁ。なんかそっちの方が強そうでかっこええなぁー」

 世辞ではなく、本気で羨ましがる様子の瀬都子に、ぺらぺらとページをめくって先程読んだ記述を律儀に探す葵。

 「なら、これに変えてみたら? スーパーXXシャーシ。僕のXシャーシの強化・発展型、って書いてあるけど…」

 「うーん……」

 本人は良かれと思って行った提案だったが、瀬都子の顔は一向に明るくならない。

 「それ、横幅が98mmもあって、ウチのVSよりも8mmも広いやん。」

 「? そっちの方が安定するってことなんじゃないの?」

 一体何を懸念しているのかが理解できずに聞き返すと、こちらに印篭のようにデザートゴーレムを突き付け、フロントカウルを指しながら力説を始める。

 「ほら、ここ! 8mmも広くなったら、タイヤにボディ当たってまうやん! だからって削りとぉないし!」

 「そ、そっか……」

 思わず気押されるが、そのフォルムに惚れて購入したマシンである以上、デザインを崩したくないと言うのは当然の欲求かもしれない。

 「うーん…けどこれ、この部分見てよ」

 書店で品定めしていた最中に気が付いたが、伝える前に瀬都子がレジへと急かしたために言いそびれていた事を、改めて伝える。

 それは、公式大会で優勝した、文句無しの一流マシンの詳細な情報が書き連ねられていた、言わばビギナーではなく中級者以上をターゲットとしたページであった。

 「ほら、全国の優勝者達の半分以上がVSシャーシ使ってるって書いてあるけど…」

 「……うそー……」

 駆け出しの自分達ではない、真の猛者達が凌ぎを削った果ての結果に、戦慄する二人。

 「疑ってた訳じゃないけど、師匠の言ってた事、ホントだったんだね」

 「…そやね」

 その言葉に頷いた瀬都子は、申し訳なさそうに愛車を撫で、先程の発言に詫びを入れ出す。

 「ごめんなぁ、他の子がええなんて言うて。これから一緒に頑張ってくのに酷い事言うてごめんなぁ」

 「…………」

 その光景を微笑ましげに見つめていた葵であったが、先程気付いたもう一つの点を思い出し、改めて冊子を凝視する。

 離れたページを行ったり来たりする葵の奇行が流石に目に留まったか。

 「どしたん?」

 眉間にしわを寄せた親友に、少しだけ心配の色が混じった声を掛けてくる。

 一方の葵も、誤魔化すような事ではない為、正直に話して見る。

 「いや、これなんだけどね」

 言いつつ、先程から目を走らせていたページを指し、自らの疑問を率直に述べる。

 「さっき言ったみたいに、XXシャーシってXシャーシの改良形、みたいな言い方されてるんだけど」

 「けど?」

 聞き返してくる瀬都子に、先程の公式大会優勝者達のページを見せ、抱いた疑問を分かりやすく伝えようど尽力する。

 「ほら、だけどXXシャーシもXシャーシも一人ずつ優勝者が居る…XXがXの強化型なら、なんでこの人はXを選んだんだろう?」

 「う、うーん……」

 聞かれた所で、知識に関してはどっこいどっこいの自分に、答えが出せる訳も無い。

 それでも健気に二種のシャーシの紹介ページを見比べ、何とかXシャーシの優位点を探し出そうとする。

 「ほら、XXは98mmもあるけど、Xは92mmやん? せやからXの方がちょっとだけ小回りが利くとか?」

 「それか、Xの方が一グラム軽いから、そう言う所で優位点があるのかなぁ…」

 幾ら知恵を絞ろうが、本格的にチューンナップを始めてから、まだ半日すら経過していない二人に、そこまでの事が理解できるはずもなく。

 「あー、もう! わからへん!!」

 決して悪いとは言い切れぬ頭脳ではあるが、それでも限界が来るのは葵より速かったようで、カーペットの上に身体を投げ出してしまう。

 癇癪を起した訳ではないようで、しっかりと傷つかないように両手で保護した愛車を頭上に掲げ、その姿をまじまじと見つめていた。

 「…なんか、何もかもが分からんから、何から手を付けたらええのかわからんなぁ……」

 「何から、か」

 その一言を受け、葵も、改めて『何から手を付けるのか』について、具体的にイメージを膨らませていく。

 とは言え、知識が無い以上、大した事は思いつかなかったが、それでも十五年の人生で学んだことは、少なからず生かせると言える。

 「例えばさ、VSシャーシは剛性と安定性に欠ける、って書いてあったから、そこを補うパーツを付けていけばいいんじゃないかな。僕の場合はコーナリングが苦手らしいけど」

 「なるほどなぁ」

 その一言でむくりと上半身を起こした瀬都子は、そのままパラパラと本をめくり、お目当てのパーツの紹介コーナーで指を止める。

 「……剛性って、どうすりゃ上がるんやろ?」

 「……さぁ……」

 幾ら取り繕おうとも、ビギナーはビギナー。

 些細な事すらも、二人の前には壁となって立ちはだかる。そんな状況に陥っていた。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 気が付いたら、カゴの中には随分な量の商品が投げ込まれており、幾ら財布に余裕があるからと言って看過できない程の分量に達しつつあった。

 それを自覚した茉莉は、一旦カゴを床に置き、改めて必要か不必要かの選別作業に移る事にした。

 「えーと…フロントはダブルアルミの13ミリで良いとして、リヤは…19ミリか13ミリのオールアルミ、どっちかでいいよなぁ…どっちにしよう」

 あーでもないこーでもないと頭を捻るのは先程の二人同様であったが、一週間もの間に蓄積した知識があった分、茉莉の方が多少はマシと言えた。

 「19ミリって確か公式の5レーンコースで継ぎ目に強いから使われる、って言われてたよなぁ…って事は3レーンだと、小さい分軽いから13ミリの方が良いのかな」

 ぶつぶつと呟きながら、商品を粗雑に扱わないよう、最低限の注意をしながら、再びタグの穴をラックの引っ掛け棒に突き刺してゆく。

 先程から彼女が居座っているこの店は、小鹿模型からは数キロ離れた大型チェーンのデパート。改めて基礎パーツを大量に購入する事で、初心者だと感づかれる事に警戒心を抱いたが故の選択である。

 「フロント用のFRP…は確か昔リサイクルショップで拾ったカーボン何とかってのがあったし…リヤは三点固定の奴にFRPのリヤ用が鉄板セッティングだったっけ? 素人臭さが出なきゃいいんだけど……」

 ぶつぶつとぼやくも、奇を衒って却って遅くなってしまっては元も子もない。

 「ま、オーソドックスが一番か」

 素直に先人達の警告に従い、最低限の物を残し、残りは棚に次々と戻してゆく。

 その結果、カゴに残ったのはひとまず安全牌とでも言わんばかりのパーツばかりではあったが、裏を返せば堅実なチョイスとも言えた。

 「えーっと、軸受は620って奴をちょっと前に拾ってたからよし、ギヤもゴールドターミナルも入れた、グリスもよし…こんなもんか」

 一通り必要な物だけを揃え、レジまで向かおうと、カゴを手に取り、持ち上げる。

 そのまま頭を掻きつつ、レジへと向かい出すも、その脚が一瞬止まった。

 「……こりゃ高くつくなー……」

 自分でもお世辞にも気前が良いとは言えない性格をしている事を自覚しているだけに、興味本位で決して安くは無いだけの金をポンと支払おうとしている自分に驚き、首を捻る。

 「…幾ら上級者ヅラしなきゃいけないとはいえ、何でここまでやる必要あるんだか」

 そう呟くも、不思議と商品を戻す為に、元の位置に戻ろうと言う気が起きず、思わず苦笑してしまう。

 「…あの二人に当てられちゃったのかねぇ」

 ぼやくように呟くと、再びレジへと向かって歩み出した。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 「…つ、着いた……」

 家からは徒歩十分ほどの距離にあるこの模型店であったが、道に迷ったが為に、到着した頃には優に目標時間の三倍が経過していた。

 当たり前と言えば当たり前だが、一週間前ほぼ同じ佇まい。にも拘らず入店を躊躇してしまうのは、単に自分の過去の言動が原因であったが。

 「…よし」

 それを克服する為に来た彼女は、躊躇などしていられない。

 意を決すると、相も変わらずに油不足に泣き喚くドアを開き、見た目に反して掃除の行き届いた店内へと足を踏み入れる。

 「………」

 前回と同様、入店を歓迎する声も、追い出しにかかる声も、何一つ聞こえてこない。

 予想の範疇ではあった為、昴流はそのまま店内の最奥に足を踏み入れ、お目当ての場所へと移動するも―――

 「あら、いらっしゃい」

 その場に居たのは、恐らくは入荷したばかりであろうパーツ類を棚に掛け続けていた、この店の女主人、ただ一人。

 他に客の一人もおらず、当然ながら昴流の目当ての少女も、影も形も居なかった。

 「…あの、先日の女の子、来ませんでしたか」

 「女の子?」

 商品ではなく、恐らくは客であろう、特定の人間を尋ねる質問に対し、怪訝な表情と声で答える。

 その程度の事は予測の範疇であった昴流は、より詳しく特定個人を示す為のキーワードを羅列する。

 「えーと、ポニーテールで、青と白のミニ四駆持ってた」

 「ああ、葵ちゃんね」

 店柄、元々女性客が少なかった事も手伝い、すぐに正答を導き出した店主は手を打ちながら答えてくる。

 「葵ちゃんならさっきまで居たけど…」

 そこまで発言した所で、先週の昴流と葵の一幕を思い出したのか、急に険しげな顔つきになる女店主。

 客に向ける愛想などどこかに消え失せ、もはや外敵に向けるそれに近い表情のまま、昴流に詰め寄る。

 「アンタ、あの子にまたなんかケチつけに来たのかい? 大体あの子は……」

 「いえ、そうではなくて」

 自分の行った言動を顧みれば当然と言える反応に、内心で過去の自分の言動を猛省しながらも、予想の範疇内であった為に比較的冷静に対処する。

 一旦店主を制止し、カバンからクリアファイルを取りだすと、その中から丁寧にホチキスで二点留めされたコピー紙の束を取り出した。

 「先週、あの子に酷い事を言ってしまったから…直接謝りたいのと、お詫びにこれを渡そうかと」

 「?」

 目の前に出された書類に、皺を付けないように慎重にめくっていく。

 簡素ではあったが、図などを用いて、漢字にも極力ルビの振られた丁寧な作りのそれらは、一目で解説書の類と理解できる物であった。

 「あの子の使っていたXシャーシに必要なメンテナンス方法と、オーソドックスだけど鉄板のセッティングを纏めた。多分、無いよりマシだから」

 「………」

 暫くの間、数枚のコピー紙をパラパラとめくっていた店主であったが、明らかに驚愕を隠さない表情のまま、正直な感想を漏らした。

 「…アンタ、意外と良い子だったんだねぇ」

 「……単なる自己満足」

 赤の他人から面と向かって褒められ、流石に照れを隠せないのか、顔ごと目線を少し背ける。

 しかし。

 「…でも悪いけど、あの子には、もうこれは要らないかもねぇ」

 何の気なしに女店主の言った一言には、流石に耳を疑い、思わず聞き返す。

 耳を疑った、と言うのは正確な所では無かったかも知れない。ある意味当然の反応とも言えたからだ。

 「…やっぱりあの子、そんなに私の事を憎んでましたか」

 「ああいやいや、そうじゃないのよ」

 否定の意思を明確に表す為、大仰に手を左右に振り、理由を説明し出す。

 「ウチの常連の女の子で凄くミニ四駆に詳しい子が居て、その子に今日色々教えて貰ってたのよ。ビックリするくらい速くなってたわ」

 「…そうですか」

 自分が散々詰った相手が、それでもミニ四駆を嫌いにならなかった、と言う事実への安心半分。自分の力が全く必要とされなかったという無念さが半分。

 複雑な感情を抱いたまま返事を返すも、まだ彼女にとって最も大切な用事が果たされていない事に気が付き、すぐにその点を解消しようと試みる。

 「それでも、謝りはしなきゃ…あの子、ここによく来るんですか」

 「アンタ、律儀な子だねぇ」

 そこまで気に病んでいたとは思わなかった店主は、思わず感嘆の声を上げる。

 さほど葵と付き合いのある訳では無かったが、何となく機嫌も良くなり、ある程度の情報を渡す事にした。

 「あの子、あんまり出歩けない身体でねぇ…平日は分からないけど、来週の土曜日のレースには多分来るわよ」

 「レース?」

 『葵と出会える為の情報』よりも引っかかりを覚える情報を与えられ、思わず聞き返してしまう昴流。

 高校生にしては中々のキャリアが、身体に情熱を叩きこんでいた為かもしれない。

 「表に貼ってなかった? 来週の土曜、ウチの店でタミヤさんからコース借りて、ミニ四駆の大会やるのよ」

 「へぇ」

 全く気が付かなかった自分に驚きつつ、昴流は生返事を返す。

 そこまで他の事が目に入って無かったのかと、少々自分を恥じてもいたが。

 「ま、そこで葵ちゃんにしっかり謝っときなさい。あの子良い子だから、そんなに気にしてないでしょうけど」

 昴流の背を軽く叩くと、再び商品の陳列に戻る店主。

 自身を救ってくれたその背に感謝しながら、昴流は踵を返し、外の世界へと赴く為にドアへと向かう。

 「…来週、か。間に合うかな」

 そんな事を、こっそりと呟きながら。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 黒板に白い文字が刻まれる乾いた音と、教育に対する熱意など欠片も感じられない声。

 その二つが教室中を支配している中、およそ一名の卓上だけが、全く以て異質な音を立て続けていた。

 「んー……こんなもんかな」

 呟くと同時にドライバーを置き、シャーシを横倒しにし、直立させようと試みる。

 一瞬期待できたものの、バランスが納得のいく水準に達していないのか、無情にもうつ伏せにゆっくりと倒れてくる。

 「あっちゃー、まだダメかー…ローラーをFRPの下に移してみるかな」

 即座に改善案を思いつくと、少女は再びドライバーを右手に握り、ネジ山に合わせ始める。

 当然、真横の席に鎮座している人物は、その異常な行動を察知し、小声で警告してくる。

 「ちょ、新土さん、さっきから何やってんの!?」

 隣席の長瀬に声を掛けられはしたが、気分を害した様子こそない物の、顔すら上げずに作業に没頭したまま、茉莉は小声で応対する。

 「見りゃ分かるでしょ、ミニ四駆だよミニ四駆」

 「ミニ…四駆?」

 最近、自宅で頻繁に耳にする単語を聞いた事で訝しむが、本質はそこではない。

 「今の例題三は杉村が解いた通り、教科書七ページの公式を使って解くのが基本であるのじゃが、それはあくまで基本であり、より簡素な方法として―――」

 幸いにも、教卓でやる気のなさそうに教科書に目を通し、棒読み気味に講義を続ける教師は気付いてはいないようではあったが、いつ見つからないとも限らない。

 「何だかよくわかんないけマズイって! そんな授業中に堂々と!」

 「うっさいなー」

 度々横槍を入れられ、流石に気分に差し障りがあったようで、長瀬の方を鬱陶しげに睨む。

 「今日学校終わったら、すぐに試しに行かないとレースに間にあわないんだっての」

 「いや、レースだか何だかどうでもいい…け……」

 言葉を最後まで言い終えることなく、長瀬の顔面が蒼白になり、言葉が続かなくなる。

 その様子を多少不審に思ったが、何も言ってこないのならばと、再び卓上の愛車の調整に移ろうとした茉莉であったが―――

 「…あれ?」

 たった今の今まで、両手の間の空間に位置していた筈のマシンが、忽然と姿を消していた。

 「あ、あれ? どこいった? おーい」

 重量バランスを見極める為に電池を入れてはいたが、モーター音がしなかった以上、何らかの拍子にスイッチが入ってしまい、走り出したと言う事態はまず考えられない。

 ひとまず落ちていないかを確かめるべく、頭を左手の斜め下に移動させると。

 「ぐぶっ!」

 何か柔らかい物に進行方向を遮られ、思わず妙な呻き声を上げてしまう。

 「?」

 何かを感じる前に、その正体について知るべく、姿勢を元に戻すと―――

 「…良い度胸じゃのう、授業中にミニ四駆いじって遊ぶとは、貴様よっっっっっぽど良い度胸しとるようじゃのう……」

 特注らしい、黒一色に染め上げた白衣に身を包んだ、まだ大人としては若い部類の女性。

 誰もが満場一致で『目つきが悪い』との第一印象を下す要因となっているジト目は、いつも以上に冷淡に、茉莉を見下ろしていた。

 「え…あー……いや、その……」

 全てを理解した。

 長瀬と自分の会話の間に、卓上からここまで、この教師は無音のまま、自らの死角のみを移動して近づいてきた事。

 そしてそれに気付いた為、長瀬の顔面が蒼白になり、言葉が中途半端に途切れていた事。

 そして何より、愛車の行方は、数学教師の手中にあるという事実。

 「…長瀬芳枝、儂が初回の授業で、この馬鹿含む全員に最初に言った事があったのう。ホレ、言ってみろ」

 「え? あ、ハイ!」

 唐突に火の粉が降りかかるも、文句の一つも言わず、芳枝はまだ比較的新しい記憶を探り、正答と思われるものを口にする。

 「た、確か、『音を立てないなら寝てようが何をしようが構わない、しかし授業と無関係な音を出したら即座に処罰の対象とする…』でしたっけ」

 「ほう」

 自信なさげな声を聞き、教師の口元がニヤリと歪む。

 「誰かさんと違って貴様はしっかりと人の話を聞いておったようじゃのう、カチャカチャと耳障りな音を立て続けてた誰かさんと違って、のう」

 「…あ、ありがとうございます……」

 素直に褒められたのかどうかは定かではないが、さっさと自分から注意をそらす為、この話を打ち切る為、長瀬は礼を述べる。

 「あ、あのー……先生?」

 このような状況下にも関わらず、果敢にもマシンを取り返そうと試みる茉莉。

 周囲からの『余計な事は言うな』という眼差しに気付いているのかいないのか、その口は閉じる事は無かった。

 「そ、そのー……今週末、その、レースあるんで……返して貰えるとありがたいなー、って……」

 「ほう」

 良く言った、とでも言わんばかりの感嘆符で返すと、白衣の袖に腕ごとマシンを突っ込み、そのまま教卓に戻りながら、冷酷に告げた。

 「知った事か。反省文二十枚と交換してやるから、出来たら儂の所まで持ってこい」

 「鬼ィー!!」

 我が子を奪われた母親の如き、悲痛な叫び声を上げるも、黒板の受け皿から持ち上げたチョークを遠くから突き付けた教師は、何を言わんかとでも言いたげな口調で返す。

 「喧しいのー。本来ならシャフトへし曲げてタイヤに切れ込み入れてモーターの接点千切ってターミナルにヤキ入れてバンパーにヒビ入れてグリス固めてベアリングに砂入れて返す所を、それすらめんどくさいからたかが原稿用紙二十枚の反省文程度でこのまま交換してやろうと言うんじゃ、温情も過ぎるじゃろうが」

 「人でなしィー!!」

 幾ら茉莉が喚こうが、既に決定事項を覆すつもりは無いらしく、そのまま無視して教鞭を執りだす、若き教師の姿。

 その姿を漫然と眺めながら、口には出さず。

 「(…何で先生、ミニ…何とかに、あんなに詳しいんだろ)」

 胸中で、長瀬は呟いた。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 校内放送で呼び出してから、既に時計の針は、十分ほど進んだ事を示していた。

 余りの遅さに苛立ちすら感じ始めたが、すぐにそれは解消される事となる。

 「せんせー? 来たでー」

 入口から聞こえる、呑気を形にしたかのような声が、女教師の耳を通り、頭の中に響き渡る。

 「遅いぞ貴様、何をしてお―――」

 言葉が途中で途切れたのは、決して彼女に異変が起きたからではない。

 入室してきた瀬都子の隣の影から、『何故遅くなったか』の理由が雄弁に伝わってきたからである。

 「…青宮、友達思いなのは結構じゃが、自分の足がどういう状態か分かっておるのかの?」

 「は、はい!」

 溜息交じりの問いかけに威勢よく応えると、スカートの上から腿を撫でるように少しだけ触れ、何となく教師から視線をそらす。

 「…一応、登下校だけじゃなくて、出来るだけ動かしていくようにしないと、却って足に良くありませんから」

 「…そうか」

 本人が良いと言うのならば、話はそこまで。

 それ以上の深入りを避けた教師は、瀬都子に向き直り、本題に入る事にした。

 「赤橋、ここに積んであるプリント、教室まで頼んだぞ。儂は他にも持っていくものがあるからの」

 「はーい」

 突然の命令にも、嫌な顔一つせずに快活な返事をし、プリントを抱えようとする瀬都子であったが。

 「…?」

 その手が、空中でピタリと止まる。

 視線の先には―――

 「センセ、ミニ四駆やってはるん?」

 ボディこそ載っていないが、若干自己主張の強い灰色のシャーシに、カタログでも見た事のないようなパーツがチラホラ。

 それでも、四輪の付いたシャーシを中心に、プレート類やローラーと言った部品が組み合わさったその姿は、見違えるはずもなかった。

 「ん? コレか」

 その言葉を受け、卓上で沈黙を保っていたマシンをつまみあげると、親指でタイヤを弾いて弄び出す。

 「A組に新土とかいう馬鹿がおってのー。よりにもよって儂の授業中に堂々と改造しとるもんじゃから没収してやったわ」

 事もなげに説明すると、明らかに目の前の二人は、引き気味な反応を示す。

 「……うわぁ」

 「……ししょー、授業中に改造してたん……?」

 「?」

 その反応に少し興味を持ち、何の気なしに試してみる。

 彼女達はD組。本来であればA組の生徒とは接点が無い筈であったからだ。

 「何じゃ貴様ら、あの馬鹿の知り合いか」

 「…知り合いと言いますか」

 単に『師弟関係です』と言うと説明がこじれそうだったため、どう説明したのか悩む葵であったが、そんな事を悩む必要など無かった。

 「ウチとあーちゃん、新土さんに弟子入りしとるんです。ミニ四駆で」

 簡潔に瀬都子が説明してくれたため、それ以上の説明の手間が省けはした。

 しかし、教師の怪訝な顔は、更に深まる一方である。

 「ミニ四駆ぅ?」

 教師として非難する事柄ではないが、かと言って年頃の少女の趣味と言うには意外な単語が飛び出し、困惑を誘う。

 「なんじゃ、また流行っとりでもしとるのか? 別に構わんが…」

 シャーシを卓上のノートパソコンの横に鎮座させると、プリントの束を手に取り、瀬都子に押し付けながら言葉も押し付ける。

 「何にせよ、師事する相手は選んだほうが良いぞ。授業中にいじるような馬鹿をいつまでも師匠と崇めてたらロクな事にならんぞ」

 「…うーん……」

 二人も、幾ら何でも授業中にまでハウツー本を読み込んだり、マシンを改良しようなどとは思った事すらない。

 度が過ぎた茉莉の行いに、何とも出す言葉が見つからず、二人揃って唸る他無かった。

 「ほな、そろそろウチら、教室戻ります」

 「おお、もうそんな時間か」

 言われて壁掛け時計に目を向けると、通常であればまだまだ余裕のある時間と言えたが、葵が一緒では潮時と言える時間となっていた。

 「これ、配っとけばええんですね」

 「おう、頼むぞ」

 再度要件を確認した瀬都子から目を外し、別クラスの答案を採点する為、今一度机に向き直る。

 それも一瞬の事で、もう一度首だけ、二人に向き直る。

 「そうじゃ、青宮」

 「はい?」

 急に呼び止められたが、急いでいた訳でもないので、特に支障なく振り返る。

 その姿からは、教師の脳裏によぎる、ある女性の影など欠片も見えなかった。

 「……いや、精々用心して教室に戻れよ。貴様の足に何か起きて病院沙汰になったら、担任の儂の面倒事になるからの」

 「…は、はい! ありがとうございます!」

 自身を気遣う一言に律儀に例を言い、瀬都子と共に去ってゆく背中。

 その背には決して届かぬよう、極めて小声で言葉を形にしてゆく。

 「…似ても似つかんし、まぁ他人か親戚かのどっちかじゃの」

 そう漏らすと、卓上に乱雑に積まれた書類の束から、C組の小テストを発掘する作業に取り掛かった。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 四日が過ぎ、遂に迎えたレース前日。

 ここ一週間の間、一日も休まずに『この場』に通い詰めていた甲斐あっての事か、二人の表情には疲労以上の満足感が現れていた。

 「ウチらもこの一週間で、随分タイム縮まったなぁ。大会で通用するかどうかは判れへんけど」

 「うん」

 安全を考え、まだ日が沈まない内に模型店を出た為、西日が二人の前方に長い影を作る。

 思えば、これほどまでに遅い時間に帰宅する事など、ここ一年ばかりは殆どない経験であった。

 「それでも、最終的にはウチの方がちょっとだけ速かった…けど、ボディ付けてへんかったからなぁ」

 「ボディのある無しで変わってくるのかな、やっぱり」

 本来ミニ四駆はボディを載せるのが鉄則ではあったが、瀬都子は『ちょっと大がかりな塗装がしたいから』と言い、この一週間ボディを付けずに走っていた。

 「けど、ボディあっても、ウチのデザートゴーレムはあーちゃんに負けへんからね」

 珍しく不敵な笑みを浮かべながら、挑戦的な態度を取る瀬都子に少し戸惑った葵であったが、事実は事実として素直に称える事にする。

 「うん。やっぱりまだセッコの方が少し速かったし、ボディあっても変わらないんじゃないかな」

 「………」

 葵らしいと言えば葵らしいが、狙った反応が返ってこなかった事に対し、少々の肩透かしを食らう瀬都子。

 「(……やっぱり、正直に言うた方がええなぁ…)」

 出来れば秘めておこうと思っていた、一つの想い。

 しかし、この一週間、ほぼ自分の方が優勢であり続けたのに対し、葵から帰ってきた反応は、今一つ瀬都子の思惑と外れた物であった。

 その為、何度も喉から出掛かったが、その度に呑み込んできた言葉。それを我慢できずに―――

 「あー…」

 「やっと着いた」

 しかし、その声は、何の気無しに発した葵の一言に掻き消されてしまう。

 はっと気が付くと、既に見慣れた葵の自宅の玄関前まで、既に辿りついていた。

 「どうする? 今日も泊まってく?」

 「………」

 一年前から互いに行うようになった問いかけは、互いに一度も拒否した事は無かった。

 その為、次の瀬都子の一言は、葵にとって到底信じられない物であった。

 「……今日は…今日はええ。やめとくわ」

 「え―――」

 その一言で、途端に顔面から、ハッキリと目視できる程に血の気が引いて行く葵。

 彼女が何かを言いだす前に、瀬都子は慌ててフォローに走る。

 「ち、ちゃうで!? あーちゃんの事嫌いになったとか、あーちゃん家に泊まるんが嫌になったとか、そういう訳や無いで!?」

 「じ、じゃあ……」

 その一言で若干の安寧を得たようではあるが、未だに混乱が解けない様子の葵に、ゆっくりと笑いかけながら、瀬都子は本心を吐露していく。

 「…ウチなぁ、出会った頃から、ずーっとあーちゃんの事、凄い人やって思ってた」

 「え」

 急に褒められ、今度は頬が朱に染まっていく。

 目まぐるしくも微笑ましい百面相を見ながらも、瀬都子の口は止まる事は無い。

 「暗かったウチが中学に馴染めるようになったんもあーちゃんのお陰やったし、勉強も出来るし、スポーツなんかめっちゃ凄かったし…ウチ、あーちゃんと一緒に居て、ずっと楽しかったけど、この人には何やっても敵わなへん、ってずっと思ってた」

 「………」

 口を挟みたかったが、瀬都子の言葉を止めてしまう事がどうしても出来ず、開きかけた口を噤んでしまう。

 その様子を知ってか知らずか、瀬都子はどんどん溜まっていた想いを吐き出して行く。

 「あーちゃんと幾ら仲良くなっても…ちゃう、仲良くなる度にどんどん思うようになってったんよ。ウチ、あーちゃんの隣に居てへん、ずっとあーちゃんの背中追っとるだけや、って。ずっとあーちゃんの隣に居った絢火ちゃんが、ほんまに羨ましくってしゃーなかった」


 「そんな事無い!」

 弾かれた様に、瀬都子の言葉を反射的に否定する葵。

 「僕は、ずっとセッコの事を友達だって思ってたし、今でも思ってる! 特に一年前に『あんな事故』があってからは、ずっと僕を支えてくれて……!」

 その言葉を、最後まで発する事は出来なかった。

 瀬都子が不意に伸ばした人差し指を、葵の唇に、そっと縦に触れさせてきたからである。

 「けどな、お姉さんからもろたミニ四駆を元通りに動かすんに必死になってたあーちゃん見て、おばちゃんからミニ四駆薦められて、ふと思ったんよ。これやったら、あーちゃんと対等に競える、横に並べるんちゃうかなぁ、って」

 「……セッコ……」

 それ以上、言葉が出てこなかった。

 心優しき親友は、そんな葵の心中を見透かしたかのように、苦笑しながら謝罪してくる。

 「勿論、今は単純にデザートゴーレムが可愛くてしゃーないし、弄ってるのも面白くってしゃーない…けど、それ以上にあーちゃんと対等に競い合えてるってのが、嬉しくって楽しくってしゃーないんよ」

 「…………」

 もう、何を言う事も出来ず、ただただ親友の言葉を聞き入れる事しか、葵にはできなくなっていた。

 「ウチとあーちゃんが友達いうんは、これから先もずっと変わらへん。けど、ミニ四駆やっとる時だけはライバルやと、ウチは勝手に思ってた。あーちゃんがウチの事、ライバル視してくれてたかどうかは判れへんけど」

 照れたように頬を掻く親友の姿を眺めながら、葵は自問自答する。

 「(…セッコは、僕の、一番の友達……だけど)」

 脳裏をよぎったのは、一週間前の瀬都子との初めてのレース。

 コース上を駆け抜ける二台のマシン。中学以来ではあったが、確かに感じた負けん気。そして惜しくも敗北した時の、筆舌に尽くしがたい悔しさ。

 それらを自身に味わわせた、否、味わわせてくれた目の前の少女は、その時だけでも―――

 「……僕も」

 一つ一つ、絞り出すように、言葉を発していく。

 「一週間前に初めてセッコと真剣勝負した時、ホントにドキドキしたし、ホントに悔しかった…」

 それに、と言葉を繋げ、自分より少し背の高い親友の眼を真摯に見据え、思いの丈をぶつけていく。

 「さっきはあんな返事したけど、セッコのタイムにほんの少し負けてたの、やっぱり悔しかった…だから」

 一旦言葉を切り、正直に。

 「だから…普段は大好きな友達だけど、ミニ四駆の時は僕も、セッコの事をライバルだと薄々思ってたんだと思う」

 「…そか」

 その一言を満足げに受けた瀬都子は、再び自分の言葉を述べる立場へと回る。

 「そやったら、ウチとあーちゃんは、互いに明日真剣勝負する立場やんね。せやから…」

 「うん」

 瀬都子の言いたい事が、言葉に出ずとも伝わった。

 「今日は我慢して、二人とも、一人で勝つための事を精一杯して…」

 「明日、勝負しよっか」

 その一言に、随分と緊張の解けた笑みを見せた葵は、そのまま自宅に入るべく、踵を返す。

 「…負けないよ」

 「ウチかて!」

 それが、その日の二人の別れの挨拶代わり。

 無言のまま扉を開け、自室へと赴かんとする葵を見送りながら、胸中で瀬都子は呟く。

 「(…ごめんな、あーちゃん。言えへんけど、もう一つだけ…もう一つだけ、ウチがミニ四駆始めた理由、あるんよ)」

 その言葉だけは、どうしても伝える事が出来ずに。

 踵を返すと、すぐ近くの自宅に帰るべく、再び足を動かし始めた。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 思えば、小学生の頃から、すでにその兆候は見られていた。

 せめて学業だけでも優秀であり続けたいと、運動にせよ勉強にせよ、陰で努力を重ね続け、常に学年トップを記録し続けていた自分。

 そんな自分が、唯一にして絶対の不得手としていた事が、図画工作や家庭科といった、手先の器用さが求められる分野であった。

 彫刻刀を握れば、年に一度は病院沙汰。金槌を握れば、釘より指を打った回数の方が圧倒的に多い。裁縫の授業ともなれば、血を見ずにその日のカリキュラムが終わった記憶すら無い。

 精密な工作センスが問われるミニ四駆の世界に飛び込んでからも、相も変わらずその不器用さには常々悩まされ続け、余りにも指を怪我し過ぎた為か、家庭内暴力を疑った教師が一度自宅に乗り込んできた事すらあった。

 そんな自分が、初めて挑んだ改造で、上手く行った試しなどある訳がなく。

 「………はぁ」

 予想よりはマシだったとは言え、それでもブレークイン前よりもうるさいであろう駆動音には、溜息しか出なかった。

 「……ギミック自体は出来てるけど」

 一旦スイッチを切ると、机の上に問題のシャーシをゆっくりと置き、中央部を上から軽く押してみる。

 こちらは嬉しい誤算と言うべきか、しっかりと想像通りの稼働をしてくれた為、一応は安心出来た。

 しかし、ミニ四駆にとって、ギヤの噛み合いの精度は決して軽んじて良い物では無い。

 その為、どうしても本番投入が躊躇われたが。

 「…………」

 無言でシャーシ類のストックを保有しているボックスを漁るも、愛用のMSシャーシは一つたりとも見当たらない。

 それもその筈、数台残っていたストックは、今回の改造の為に大半を潰してしまい、ラスト一台でようやく目の前の半失敗作が出来上がった有様であったからだ。

 「…強化シャーシのストックならあるけど」

 言いながら、小振りな箪笥の一番下の引き出しを開ける。

 大量のパーツストックに紛れ、単品販売されていたMSシャーシの在庫は幾つか見つかったのだが、常時手に入る訳ではない物をおいそれと使う訳にもいかない。

 「…店舗代表権すらかかって無い、ただの一イベントで使う程じゃ…」

 溜息をつきながら、引き出しを丁寧に仕舞い、再び自身の生み出した微妙極まりない出来のシャーシと向き合う。

 泣き言を言っても始まらない。明日はこのシャーシを用いる以外、彼女に選択肢は存在しなかった。

 「…ま、サス自体はでき上がってるし、フラットじゃないからそこまで速度にカツカツにならなくても大丈夫かもしれないし…、これでも何とかなるか」

 立体コースである、と言う保証はどこにも無かったが、その可能性に縋るしかない。

 ひとまず可能な限り速度を上げる為、モーターケースから普段はあまり使わないモーターを取りだしにかかる昴流であった。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 普段は疎ましく思っている実家であったが、初めてその有難味を実感したのかもしれない。

 滅多なことでは殊勝な態度を取らない茉莉がそんな風に考えたのは、実家の機材を使ったおかげで、工作の手間や時間が大幅に短縮されたからであった。

 「にしてもすげぇなぁ、あっという間に骨みたいになっちゃったよ」

 もはや骨格しか残されていない漆黒のボディを振りながら、ぼやくように言う。

 自分でやった事ではあったが、ここまでの物が出来上がるとは、想像だにしていなかった。

 「まー、ボディの軽量化はあんまり意味無いって書いてあったけど、こんだけやりゃ流石に意味あるだろ…っと」

 迂闊な事をして壊れては敵わない。硝子細工を扱うかのように慎重な手つきで、何とか書き上げた反省文と引き換えに取り戻したシャーシにボディを載せ、ボディキャッチを留める。

 「おー、それっぽくなったなぁ」

 『それっぽいミニ四駆』というイメージがあった訳ではないが、何となくやり切った気になり、歓声を上げる。

 「シール…は、まぁ、これだけでいっか」

 ウィング中央に貼る物一枚だけを台紙から剥がし、慎重に貼りつけた事により、出場要件をギリギリで満たすマシンとなった。

 「ふー……まぁ、これならギリギリ上級者ヅラ出来るっしょ、多分」

 転売用に買っては居た物の、ものぐさ故にオークションに出しそびれていた絶版パーツを幾つかと、レースにおける鉄板パーツを多数つけたシャーシに、骸骨を思わせるボディ。

 一度もロクに走らせていない為、妙に綺麗な点を除けば、如何にも『それらしい出来』である、と言えた。

 「…にしても、なぁ…」

 百円均一で買ってきた、それっぽいサイズのプラスティックの箱にマシンと工具類を詰め終え、今更ながらぼやき出す。

 「なーんでここまでしてんだかね、アタシも」

 頬杖を付き、自分の行動の源たる心理状態を模索するも、一向に上手い答えが見つからず、悶々とした想いだけが募っていく。

 「…ま、ゲーセンでダラダラしてるよりはマシ、か」

 そうとだけ呟くと、プラスティックの粉まみれになった身体を洗い流す為、風呂へと向かうべく立ち上がる。

 不思議と軽い足取りが、より一層彼女の心のモヤモヤを肥大化させていった。

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