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1-2 完成と復活と

 「……ええー……?」

 既に帰宅してから一時間の間に、少なく見積もっても十回は繰り返し発した言葉を、再び口にする。

 「何書いてんだかさっぱり分からん……」

 プラモデル屋で取り扱われているとはいえ、所詮子供のオモチャ。

 インターネットで情報サイトを漁っていれば相応の知識くらいすぐに見につくだろうと高を括っていたが、認識が甘すぎた。

 「って言うか…え? ギヤだけで何種類あんの? ピニオン? カウンター? 何がどう違うのコレ?」

 混乱しているばかりで、理解は一向に進まない。

 と、不意に卓上に置いていた携帯電話が着信を知らせるメロディを奏で出す。

 何年も気に入りっぱなしの一曲だが、今となっては苛立ちを増大させる不協和音でしか無かった。

 「…はぁ」

 中学生の時に購入した物を、半ば意地で使い続けている、とっくに型落ちしたスマートフォン。

 その画面には、こんな時には何の役にも立たない、腐れ縁の知人の名前が表示されていた。

 「あー、もしもし?」

 無視など決め込もうものなら、後々が面倒な事になるのが目に見えて理解できていた為、しぶしぶ、なるべく不機嫌さを隠さないように、つっけどんな態度で電話に出る。

 「土曜の昼だってのに、えっらい不機嫌じゃん。どしたん?」

 耳朶を打つのは、予想通りの呑気な声。

 この相手の次なる一言は、いつも決まっている。それが手に取るように分かっていた茉莉は、相手が何かを言う前に先手を打つ事にした。

 「ゲーセンなら今日は行かないからな」

 「えぇー?」

 その金切り声に、思わず顔を顰めるも、いったん決めた意思は揺るぎなかった。

 「あたしだって暇じゃないんだ、そうそうしょっちゅうゲーセンなんか行かないっつーの」

 「(暇つぶしにしてるだけで、楽しくも無いしな)」

 後半は口に出さず、胸中で漏らす程度にとどめるが。

 その一言に帰って来たのは、思いもしない、疑念の声色。

 「……部活も入ってない、勉強もしない、バイトもしてない茉莉が暇じゃない、ねぇ」

 「張り倒すぞ」

 露骨に気分を害された茉莉は、これ以上通話しても無駄だと悟り、一方的に通話を打ち切る事にした。

 「つーわけで、今日明日と不参加…あ、あと来週もか。ってなわけで、電話掛けてくんなよ気が散るから」

 「………分かった!」

 こちらの言葉を聞いていたのかいないのか、素っ頓狂な声を上げてくる。

 その一言は、茉莉にとって、嫌な予感を誘発させる材料以外の何物でもなかったが。

 「…アンタ男でもでき」

 「女子高でんなもんできるか!」

 相手の鼓膜を破る勢いで叫ぶと、そのまま通話終了ボタンを押す。

 しかし、そのたった二秒後、今度は別の知人からの着信が掛かってきた為、否応なしに数秒前と同じ耐性を強いられる茉莉。

 「何だよ!」

 どうせ電話の主は、先程会話していた相手のそばに居ただろうと判断したため、そのままどなり声で応対する茉莉。

 その予想自体は的中していたのだが―――

 「…ってことは、まさかお姉様とかユリとかバラとかそっち系!? 遂にそっちの道に」

 「行くかァ!!」

 近所迷惑など一切考えずに怒鳴りつけると、そのまま通話を終了し、もう二度と着信に煩わされないよう、バッテリーパックを引っこ抜いてベッドの上に放り投げる。

 そこに達成感はなく、ただ単にどっと疲れが襲ってくるだけであった。

 「あーもう…なんか全部がおかしい方向にしか向かわんなー……」

 まだ正午過ぎだと言うのに、全てに疲れ果て、昨日と同じように床に大の字となる。

 「大体、何で花の女子高生のアタシが、小中学生の為にミニ四駆レクチャーなんかする羽目になってんだか……」

 しかし、原因を辿れば辿るほど、自身にしか原因が思い当たらない。

 その為、一旦思考を停止させ、何とか頭を冷やそうと尽力する。

 「………はぁ」

 頭が冷えると同時に、先程までの会話がフラッシュバックし、改めて一つの事実を突き付けられた茉莉は、それを反芻する。

 「…あたししか頼りが居ない、か」

 ぼやくように呟くと、腹筋の力だけで上半身を起こすと、だるそうに後頭部をポリポリと掻きながら、再度ぶつぶつと独り言をつぶやく。

 「何もレースに出る為に、お高いパーツ幾つも買って付けろとかそーいうんじゃないんだし…まぁ割の悪いバイトだと思うしか無いか」

 再度大きく嘆息し、休憩ついでに昼食でも軽く腹に入れるべく、大して重くない筈の腰を上げる。

 と、立ち上がった瞬間、視界の片隅に何かが映った。

 「…………」

 何の気無しに拾い上げたそれは、数ヶ月前に買ったばかりのミニ四駆が、完成を待ちわびたまま眠りについている箱。

 近場の玩具屋の閉店記念セールで掻っ攫ってきた物の一つであったが、通常生産品であった為にオークションで売ってもさほどの売却益が見込めなかった為、手元で腐らせていた、苦い思い出の詰まった一品である。

 「…ま、どーせ売れないもんだし、一台組めば勝手も分かるだろ」

 そう呟くと、もう一度パソコンの前に座り直し、検索バーに『ミニ四駆 組み立て 工具』と入力し始めた。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 ほぼ同時刻。

 部屋の中央で向かい合って座る、瀬都子と葵。

 両者の間には、隔てるようにして置かれた小型のテーブルが一台。

 律儀にも工作用のマットが敷かれたその上には、ニッパー、ドライバー、様々な形状のヤスリに紙ヤスリ。更には接着剤と、プラモデルを作る上で必要な工具の数々。

 そして、それらの中心部には、先ほど買って来たばかりのミニ四駆―デザートゴーレムの箱が、堂々と鎮座していた。

 「…ほなら、始めよか」

 「…うん」

 互いに生唾をごくりと飲み込む。

 そして、緊張した面持ちの瀬都子が、箱の両端に手を掛け、いつでも開封できる体勢を整える。

 「これ、いっつも好きなんよなぁ、このプラモの箱開ける時の雰囲気! 何かこう、めっちゃワクワクするって言うか、はよ開けて組んだげたいって気持ちと、もうちょっとこのままワクワクを味わってたい、みたいな…」

 「……」

 早く開けようよ、という言葉を呑み込み、瀬都子が開封に乗り気になるよう、巧みに言葉を選ぶ葵。

 「早く開けないと、その中に入ってる車はずっと完成しないよ」

 「そやね」

 そのたった三文字を残し、あっさりと両手をまっすぐ上に挙げ、躊躇なくぱかりと開封してしまう瀬都子。

 「(もう躊躇無し!?)」

 箱の中身よりも、自分の一言で急激な心変わりを見せた親友に注目する葵であったが。

 「あー、やっぱプラモはプラモやねぇ」

 その一言で、目線を斜め下に向ける事を思い出し、無意識にそれに従う。

 小さな箱の中には、何に使うのかすら理解できないような部品の数々が、所狭しと敷き詰められていた。

 「……これ、ホントにミニ四駆になるの?」

 「なるんちゃう?」

 慣れた手つきで、ランナーやらタイヤやらを一つ一つ脇に除け、説明書を取りだす。

 一枚の長い紙が折りたたまれてコンパクトになったそれを流し見すると、目的の個所を見つけたようで、葵に指で示しながら説明する。

 「ほな、一個一個、あるかどうか確認しよか。」

 「まずシャーシ……」

 瀬都子の言う事に素直に従った葵は、部品請求の欄にあるパーツ名の一番上から読み上げるも。

 「シャーシって何……?」

 「あ、シャーシってのは、車の骨格…要は土台みたいなもんなんよ」

 成績は葵の方が数段良いが、こういった点に関してはミリタリーから得た知識を有する瀬都子に一日の長がある。

 「(なんか、あーちゃんにウチが解説するって、あんまなかったなぁ)」

 その事実にややこそばゆい物を覚えながらも、わきに積まれたパーツ類から、複雑な形状をした板のようなものを取り出し、机の中央に提示する。

 「たぶんこれがシャーシやと思うよ。これに色々パーツくっ付けて、ミニ四駆ができるんと違うかな。イラストでもそうなっとるし」

 指摘を受け、改めてパッケージイラストに目を移すと、確かにイラストに描かれたマシンの前方部分に、シャーシの一部分がくっきりと見えている。

 「なるほど」

 納得した葵は、次の部品を示し出す。

 二人が一つ一つ、役割を確認しながら欠品のない事を確認し終えるまで、そう時間はかからなかった。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 「よし、完成ー!!」

 「お疲れ様ー」

 最後に残ったボディキャッチでシャーシとボディとを繋ぎ、バリの残りカスやらビス類が入っていた袋やらが散乱した卓上の、比較的きれいな所にマシンを置く。

 まだ一度も走っていないどころか、モーターすら装着していない、抜け殻のようなマシン。

 しかし、慣れない中を手さぐりで組み立て続けた二人には、とっくに自分達の様々な感情が詰め込まれた、心の結晶のように思えた。

 「はぁー、カッコええなぁ…やっぱこの子にして正解やったなぁ……」

 「セッコ、よだれ、よだれ拭いて」

 口の端から、はしたなくも透明に煌めく物がほんの少しだけ見えた葵は、即座にポケットからハンカチを取り出し、軽く投げつける。

 「あ、ごめんごめん、洗って返すわ」

 流石に気恥ずかしかったのか、軽くぬぐったそれを瞬時にポケットに隠すと、何事も無かったかのように続け出す。

 「やっぱええなー、ただ組んだだけなのに、想像以上にかっこええなぁー…あーちゃんがこの子見つけてくれてほんまに良かったわー、ありがとうなぁ」

 「…いいよ、そんなの」

 照れ隠しに、視線を下に、即ちテーブルへと逃がす。

 と。

 「……あれ」

 箱の中に、薄い紙のようなものが残っていた事に気が付き、それを取り上げる。

 肌色一色であったそれを裏返すと―――

 「…セッコ、これ……」

 「え?」

 震えた声に、ようやく我に返った瀬都子は、視線を上げると共に。

 「シール、貼り忘れてる……」

 葵の様子がおかしい理由に気が付いたが、

 本人の様子は、至ってあっけらかんとしていた。

 「ああ、それな。ええよええよ、箱ん中戻したって」

 「え?」

 戸惑う葵を余所に、ニコニコと笑い続ける瀬都子は、胸の内を明かして行く。

 「実はなー、シャーシとか組んどる最中、この子をどう仕上げようかってずーっと迷ってたんよ。でもボディの形ができた時、よーやくアイディアがまとまってなぁ」

 「? シール貼るだけじゃないの?」

 模型、という文化に対する理解が全く無い葵にとっては、『付属品で仕上げる』以上の概念が、そもそも存在しない。

 そんな親友に対し、人差し指を立て、得意げに説明を始める瀬都子。

 「実はな、これ、マスキ――――」

 「二人ともー、ご飯できたでー」

 しかし、その声は、ノックも無しに乱入してきた、妙齢の女性によって遮られた。

 腰まで届きそうな、艶のある黒髪に、若干垂れ気味ではあるが、それが却って優しさを演出している瞳。

 どこからどう見ても瀬都子の血縁者にしか見えないこの女性は、実際に瀬都子の実の母親であった。

 「もー、お母ちゃん、ノックくらいしーっていっつもー」

 露骨に不満そうな声と表情のまま、瀬都子が立ちあがるも―――

 「今晩はカレーよ」

 「やったー!」

 そのまま葵の存在を忘れきったかのように、居間へと駆け出して行く。

 残された葵は肩透かしを食らい、その場で脱力しきってしまう。

 「あ、葵ちゃん。今晩どうする? 泊まる?」

 「……お願いします」

 散々振り回されたが、親友と夜を共にできるのは週末のみ。

 相手の親から両省が頂けた以前に、その了承を得る相手から誘いがあったと来ては、断る理由など無かった。

 「あ、よかった。もうご両親には連絡済みだから、安心しといてやー」

 「早!」

 親子そろってのフットワークの軽さに、驚くと言うよりも呆れ果てる。

 「(…って言うか、この時間までお邪魔してて、泊まらせて貰わなかった事が無かっただけか)」

 胸中で苦笑交じりに呟くと、足を傷めないように慎重に立ち上がり、夕餉にありつこうと足を踏み出した。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 「セッコ」

 消灯後、意を決して真横に居る親友のあだ名を呼ぶと、返事はすぐに帰ってくる。

 「ん? どしたん?」

 その表情には、一切のネガティブな物が見当たらず、純粋に腕の中の小さな箱から出来上がる筈の一台のマシンを楽しみにしているようにしか見えない。

 それでも、念を押すように、葵は口を開いた。

 「その……ホントに、いいの?」

 「? 何が?」

 素っ恍けている様子は全く見受けられず、純粋に葵の質問の意図が理解できていないのがありありと伝わってくる。

 たった三文字の返答で、ひしひしとその様子が伝わってきた為、改めて聞き直す事にした。

 「ミニ四駆…ホントに始めたいの? 僕の為に頭下げたから、引っ込み付かなくなって…」

 「あ、そういうんやないよ」

 半身だけ起き上がり、右手を顔の前でワイパーみたいに大きく振り、露骨に否定の意思表示をする瀬都子の態度に、偽りはまるで見えない。

 「ちょっと…なんか恥ずかしゅうて、理由の全部は言えへんけど…おばちゃんにいつの間にか巻き込まれてた時、ちょっと考えて…ウチも、ウチなりにミニ四駆、やってみたいと思ったんよ」

 「セッコ……」

 そのやや照れたような、しかし真摯な眼差しと直に視線を交わした葵は、急に痛烈な悔恨の念に襲われる。

 「(何考えてたんだろ、僕…まるでセッコが、自由意思が無いみたいに……)」

 そんな葵の心中を知ってか知らずか、はにかんだ表情の瀬都子が、未だ未完成の愛車を手に取り、恍惚の表情で見つめながら独白を続ける。

 「それに、こんなええ子をあーちゃんが見つけてくれたんやし、来週には上手い人が教えてくれるし…なんか、ほんまにミニ四駆始めろって、神様が言うとるような気すらしてきたんよ」

 その眼差しが、口調が、全てが眩しすぎて。

 「……ごめん」

 絞り出すように、たった一言の謝罪を口にする事しかできない。

 そんな自分が改めて、とても情けなく、恥ずかしい存在としか思えなかった。

 「ええよええよ、謝らんで。それよりありがとなぁ、こんな可愛い子、あんな沢山の車ん中から見つけ出してくれて」

 改めて、二人の枕の間に、デザートゴーレムをそっと鎮座させる。

 重厚なボディ故か、あるいは未完成、という事実がそう錯覚させているのか。妙な威圧感すら覚えるそれを『可愛い』とは到底思えない葵であったが、ひとまず黙っている事にした。

 「はよ走らせたいなぁー、どんなふうに走るんやろなぁー。流石におばちゃんのマグナム…なんとかよりは速いかなぁ」

 まるで遠足前夜の子供みたいに、あれやこれやと夢想して楽しみ出す親友を見ていると、悩んでいる事その物が馬鹿馬鹿しく思えてしまう。

 「…あれだけ丁寧に作ったんだから、目じゃないくらい速いよ。きっと」

 くすりと笑うと、しばしの間、瀬都子の夢想もとい妄想に付き合おうと、自身も半身を起し始める葵であった。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 翌々日、即ち月曜日。

 大半の学生や社会人にとって尤も陰鬱な曜日であったが、この二人にとっては待ちわびた日でもあった。

 「おっしゃ! まずはA組行くで!!」

 昼休みを知らせる鐘の音を受け、意気揚々と立ち上がる瀬都子と、そこまで興奮してはいない物の、言われる前に既に立ち上がろうと力を込めていた葵。

 カリキュラムの関係で小休憩の際には探索ができなかったので、今が好機と言えた。

 「そう言えば芳枝さん、彼氏と上手くやれてるかな?」

 A組に所属している、中学の頃からの、数少ない二人の共通の友人の名が、何気なしに上がる。

 最初にA組からと決めたのも、友人こと長瀬芳枝が所属している為、情報がスムーズに引き出しやすいから、との判断であったが。

 「芳枝ちゃんなら問題ないんと違うん? 彼氏さんも近くの高校やったから、頻繁に会えんでお流れ、って事も無さそうやし……」

 「中学卒業してすぐできたから、もう一カ月…になるのかな」

 珍しく学生らしい会話をしている内に、問題の教室の後部ドアに辿り着いた。

 とは言え、外界と内部を隔てるそれも、休み時間の今となっては開け放たれており、来る物拒まず、去る物追わずの様相を呈していたが。

 「こんにちはー、芳枝ちゃんおるー?」

 今までに何どかそうして来たように、堂々と友人を呼び出す瀬都子。

 しかし、呼び出しに応じた友人の反応は、いつもとはかなり異なっていた。

 「瀬都子ぉ~!!」

 こちらの姿を視認するや否や、凄まじい速さで掛けより、その貧層とも豊満とも言えない胸板に縋りつき、泣きじゃくり始める。

 「うえ~ん、なんで最近来てくんなかったのよ~、もう寂しくて寂しくて死にそうだったんだから~!」

 「そ、そかそか」

 何となく頭を撫で、慰めようと試みるも―――

 「………!」

 小柄な体躯を生かし、二人の間に無理矢理割って入った葵が両手を思いっきり広げ、腕力に飽かせて二人の間に明確な空白を作り上げた。

 「……あ、大丈夫大丈夫、瀬都子の事、取ったりしないから」

 さっきまで泣きついていたのが嘘のように、冷静にフォローに入る長瀬であったが、葵の返答は冷たかった。

 「…彼氏がいらっしゃるなら、そちらに甘えればよろしいのでは」

 「そ・れ・が!」

 先程の鉄拳など意にも介さず、ずいっと葵に詰め寄ると、そのまま思いの丈を思う存分ぶちまける。

 「あのクソ男、なんでか水曜日しか会ってくれないから、なーんか怪しく思ってとっちめたら、実は七股もかけてやがったのよ、な・な・ま・た!」

 「うわぁ」

 想像を絶する内容であったが、絶句すると言うよりは呆れかえる二人。

 無論、七股掛けた方にも、一ヶ月もの間その事実に気が付かなかった友人にも、であるが。

 「しかも、その証拠見つけてとっちめてやろうとしたら、『水曜の女から日曜の女に格上げしてやるから許せ』って…日曜の女ってなんだっちゅーの!!」

 地団太を踏み悔しがる悔しがる友人の話に付き合ってやりたいのも山々であったが、今は急を要する。

 じっくり話に付き合っている余裕も無い為、葵は早々に目的を果たす事にした。

 「今日の放課後、モスドでその愚痴はお聞きしますので、折り入ってお願いがあるのですが」

 「頼み?」

 『話を聞いてくれる』という約束だけで概ね満足したのか、ぱっと顔が平常に戻る長瀬。

 その変わり身の早さに内心呆れつつも、無視して葵は言葉を続ける。

 「芳枝さんのクラスに、えーと……」

 改めて該当の人物を尋ねようとしたが、店主が口走っていた名前がどうにも思い出せず、一瞬逡巡してしまう。

 その間を埋めるように口を開いたのは、瀬都子であった。

 「芳枝ちゃんのクラスに、えーっと、茶髪の人おらん?」

 「…掃いて捨てる程いるけど、そんなの」

 何をいまさら、とでも言いたげな表情で、肩越しに背後の教室を親指で示す。

 その言葉通り、腰かけてランチと洒落込んだり、好き勝手な場所に立ち止まって談笑していたりと思い思いの休憩時間を過ごす生徒たちの中には、茶髪の人間など掃いて捨てるほど居るように見えた。

 「あ、えーと」

 更なる情報を与えるべく、一度会っただけの少女の姿を思い返しながら、葵が補足する。

 「茶髪なんですが、だいぶボサボサな髪型してて、レンズがちっちゃい丸眼鏡かけてて、背は…平均よりかなり高めの人なんですけど、心当たりはありませんか?」

 「あー、新土さんかな、それ」

 思い当たる節がすぐに出て来たようで、事もなげに答えてくる。

 期待していなかった訳ではないが、最初のクラスであっさりと答えが見つかった事にやや面喰いながらも、早く立ち直った瀬都子が聞き返す。

 「進藤さん? 芳枝ちゃん知っとるん?」

 「『しんどう』じゃなくて『しんど』ね。知ってるも何も隣の席だもん」

 やんわりと訂正してくるが、二人にとって注目すべきポイントは、当然ながらそんな些細な所では無い。

 「い、今教室におるん?」

 少し興奮気味に瀬都子が問い詰めると、やや引き気味になりながらも、長瀬は気前よく答えてくる。

 「あー、いや…今日は二時間目くらいまでは横で授業受けてたけど、三時間目くらいからどっかいっちゃったなぁ…いつもの事だけど」

 「どっかいった?」

 多分の例に漏れず、この星双高校もしっかりと授業は行われており、平日は六時間目までみっちりと埋められているのが常である。

 偏差値で言えば中の上位に位置するこの学校は、変に不良グループが幅を利かせている訳でもなければ、取り立てて荒れた生徒が入学してくるような学校でもない為、早退の常習犯は極めて珍しいと言えた。

 「いつも、ってことは、不良なん? 新土さんって」

 「うーん……」

 その問いに頭を掻きながら、言葉を決めかねた状態のまま、あれやこれやと推測を述べてくる。

 「サボりが多いってのと、授業聞かないで寝てたりスマホいじってるのが多い、ってだけで、不良…とは違うのかなぁ…。話せばいい人だし、別に悪い噂は聞かないし…」

 「………」

 確かに、話を聞く限りでは、お世辞にも優等生とは言い難いが、かと言って不良と形容するにも半端な人物ではある。

 長瀬が言い淀むのも無理はない、と同意を口にしかけた葵であったが。

 「なるほど、マイルドヤンキーって奴やね」

 「セッコ、それ意味違う」

 開いた口は、そのまま突っ込みに当てられる事となった。

 「で、学校には居るんですか? その新土さんって方は」

 「うーん…どうだろう、カバンはあるんだけど……」

 言いながら首から上を教室の中へ戻し、机へ残された物品からある程度の情報を得ようとするも、相手が相手なので断言する事ができない。

 「……とにかく、よう分からへん人、っちゅうことやね」

 「…うん」

 力になれなかった事が申し訳ないのか、ややうつむき加減に肯定する長瀬。

 「ありがとうございました。会えはしなかったですが、このクラスに居るって事が分かっただけでも大きな収穫でした」

 一方で、素直に前進した事実に目を向け、きっちりと礼を言う葵。

 ある程度は苦にはならないが、それでも見ず知らずの人間を探す為に学校中をあちこち練り歩くのは、彼女の足には負担がかかる。

 その杞憂が解消されただけでも、恩の字と言えた。

 「何なら、次に新土さんが来た時に、あんた達が探してたって言っとく?」

 「ええの? ほな頼むわー」

 あっさりとした提案に、即座に感謝の意を示す瀬都子であったが。

 当然、親切には裏があるのが世の常であり―――

 「その代わり、今日のモスド、二人のおごりね☆」

 「………」

 「………」

 返答に困って立ちつくす瀬都子の脇で、葵が静かに、右拳を力いっぱい握りしめ始めた。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 それから五日が経ち、遂に土曜日が訪れてしまった。

 二人が自分を探しまわっている事を隣人から聞いていた茉莉は、何とか平日は全て顔を合わせずに凌いだものの、結局この日だけは逃げる訳には行かなかった。

 「(…もう帰ってますよーに…)」

 それでも、最後に淡い期待を持ち、ギリギリ『遅刻』で済むように一時間遅らせて店内へと足を踏み入れたが―

 「あ、来よった、来よったでー」

 先週も何度か聞いた、妙に間延びした関西弁。

 耳朶を打つそれは、自分に逃げ道が残されて居ない事を、如実に茉莉へと告げていた。

 「(ま、いっか、頼りになるのはあたしだけみたいだし)」

 胸中でぼやくと、その内心を外に出さないように苦心しながら、極めて平常心を表に出しながら挨拶をする。

 「…あー、遅れてごめん」

 何となく後頭部を掻きながら、先週新設されたばかりで、まだ見慣れないミニ四駆専用のスペースへと足を運ぶと。

 「…青宮葵と言います。今日はよろしくお願いします」

 椅子に座っていた著しく背の低い少女が、若干危なげな所作で立ち上がり、深々と頭を垂れて来た。

 茉莉自身、割と背の高い方ではあったが、それでも頭一つ以上も身長差があるこの現状を見るにつれ、どうしても同級生だと信じる事ができない。

 「あ、ウチは赤橋瀬都子って言います。よろしくお願いしますー」

 同様に、葵ほど丁寧では無いにせよ、不快ではない程度にはしっかりと一礼を行ってくる、関西弁の少女。

 「(…青宮葵に赤橋瀬都子…長瀬の言う事と、名前も見た目も一致してるんだよなぁ…)」

 信じがたいが、どうも同級生という話に、偽りはないらしい。

 それでもなお心中で首を傾げ続けるも、名乗られた以上はこちらも名乗り返さなければ明らかに失礼に当たる為、茉莉も自己紹介をする事にした。

 「あー、長瀬から聞いてるかもしれないけど、アタシは新土茉莉。同級生…で、良いんだよね?」

 最後に念押ししてみるも。

 「ウチら、二人とも星双高校の一年D組で、A組の芳枝ちゃんとは同じ中学やったから、新土さんとも同級生で合っとるよ?」

 「…あ、ホントに同級生だったんだ」

 そこまで言われては、否定する材料は全て無くなってしまった。

 信じがたい事実を何とか呑み込むと、

 「(…ま、テキトーに相手して、それなりに走るようになったらボロが出る前にさっさと帰るか)」

 目的を早く完遂させる為、すぐに本題に移る事にした。

 「で、とりあえずミニ四駆見せてくれないかな。ある程度ならアドバイスできると思うから」

 『ある程度』と断っておくことで、潜在的に『マニアックな事までは知らない』との意識を植え付ける事を忘れない。

 「んじゃ、とりあえずあーちゃんから、お願いしてもらおか」

 その一言に頷くと、葵は自らの大切な一台を、茉莉にそっと手渡してくる。

 水をそのまま固形にしたかのようなフレンチブルーのボディと、やや黄ばんできてはいるものの、それでもまだ白と呼んで全く差し支えないシャーシのコントラストが美しい、彼女の姉の魂の籠った一台。

 全く見慣れないそのデザインが一瞬茉莉を混乱させるも、予習の成果が表れた為、すぐに落ち着きを取り戻す。

 「(えーと…確かこれ、XシャーシだかXXシャーシ…だっけ?)」

 ミニ四駆の基本構造は、ミッドシップ構造の物以外は、大体それなりに似通った物となっている。

 素組みとは言え、一台マシンを作り上げて基本構造を把握して以降、茉莉はそれなりに苦もなくネットから知識を仕入れる事が出来ていた。

 「(モーターは、この色だと多分アトミック…かなぁ。アトミックって確かかなり良いモーターだって話だし、それつけてて遅いって事は……)」

 首を傾げては見る物の、見ただけで不調の原因が分かるほどの上級者でもない。

 「電池は?」

 「新品です」

 素人の茉莉に考えうる、最もありがちな選択肢を真っ向から否定され、少しめげそうになる。

 しかし、首を捻ってばかりいても問題が解決できる訳ではない。

 ひとまず、スイッチを入れてみると――――

 「うわっ!」

 途端に掌のマシンを手放してしまいそうになり、慌てて握力を込める。

 それほどまでに強烈な怪音を、目の前のマシンが発し始めたが故である。

 「な、何だぁ?」

 目を白黒させながらも、何とかスイッチを切る事に成功し、一旦安堵する。

 『何かを激しく削り続ける音』としか喩え様のない音は、幾らミニ四駆に関しての経験は皆無に等しい茉莉にも、明らかに異常事態との警鐘を鳴らしていた。

 「(…Xシャーシって確か物凄く精度良いハズなんだけど…明らかにアタシのスーパーⅡシャーシの慣らし前より何十倍もうるさかったぞ……)」

 ネットで得た知識と、目の前の現実との乖離に頭を傾げ続けるも、ともかく『目の前のマシンが凄くうるさい』という現実は認めざるを得ない。

 しかし、その現実を認めると、一つの答えが自ずと導き出されてくる。

 「…多分ギヤに何か問題があるんじゃないかな。ちょっと開けて良い?」

 そう提案すると、即座に葵が頷く。

 その事を確認した茉莉は、手探りでモーターを留めているハッチを開閉し、ギヤの様子を伺うが。

 「うっわ! 何だこれ!?」

 持ち主の目の前だと言うのに、思わず素っ頓狂な声を挙げてしまう。

 視線の先には、自分の持っている物と大差ないギヤが、整然と配置されている筈。少なくとも彼女は、それを無意識の内に自明の理だと思い込んでいた。

 しかし、そこには塩をぶちまけたかのように、ギヤケース内には白一色の世界が展開されているのみであり、彼女の意図とは全く離れた様相を呈していた。

 「うっへー…コレ、何がどうなってんだろ」

 一旦ひっくり返してマシンを元の状態に戻すと、そのまま状態を詳しく見ようと、マシンを数回上下させ、モーターを振り落とそうとする。

 目論見が当たり、無機質なモーターとそれに付随するランナー、そしてターミナルが、高校一年生にしてはほんの少し大きめな茉莉の手にポトリと落ちる。

 しかし、本来ある筈のない物までもが一緒に掌の上に積り、茉莉は瞠目せざるを得なかった。

 「…何だ? これ」

 掌に撒かれた、謎の白い粉。

 塩や砂糖とは明らかに違うし、雪と言われてもどうにもしっくりこない。

 何がどうあれ、彼女には全く見覚えすらない事だけは、確かであった。

 「もしかして」

 先に答えを見出したのは、マシンの持ち主の葵でもなければ、相談を請け負わされた茉莉でもなく、ぼーっと眺めているようにしか見えない瀬都子であった。

 二人の視線が集まるのを感じはしたが、特に気にせず、自分の思いつきを淡々と述べてみる。

 「あーちゃん、このミニ四駆、貰ったの十年くらい前やったっけ?」

 「? うん」

 関係のない話を唐突に振られ、一瞬困惑した物の、瀬都子が意味のない話を振りだすとも思えなかったので、大人しく首肯する。

 その様子を横目で見た瀬都子は、再び茉莉の掌に積もったフケのような粉を凝視し、いささか自信なさげに呟く。

 「これ、もしかしてグリスちゃう?」

 「え?」

 ずぶの素人と、ほぼずぶの素人に近い二人には、茉莉が何を言いたいのかが理解できず、少し固まってしまう。

 「ほら、十年間走らせて無かったから、グリスが固まってしもっとったんちゃうん? そこをいきなり回したから、削れて粉みたいになったとか」

 途端に『考えてもいませんでした』とでも言いたげな表情になる二人。

 先に気を取り直したのは、茉莉の方であった。

 「だからさっきあんなにガリガリうっさかったのか…」

 とりあえずマシンを葵の手に戻し、意外にも律儀にゴミ箱の上で手を払い、積もった物を出来るだけ落とす。

 全員納得はできたが、そうなると次は解決策を求めなければならない。

 「…って事は、ギヤ? とかを全部新しくしなきゃいけないんですか?」

 「…うーん……ちょっと待って」

 言うが早いが、担いできたバックパックのファスナーを開け、右手を突っ込んでしばらくかき回す。

 「あったあった、これだ」

 言うが早いが、引き抜いた右手に握られていた『それ』は、ミニ四駆に関する知識がゼロに近い葵にも、大いに見覚えのある物であった。

 「歯ブラシ、ですか?」

 何のために、と疑問を口にするよりも早く、自分の中でその疑問に対する回答が見つかり、答え合わせにと口を開く。

 「それで、ギヤを掃除するんですか?」

 「そうだよー。あ、ミニ四駆以外には使ってないから安心して」

 ほい、とブラシを手渡しながら、聞きかじった知識を披露する。

 「ミニ四駆は結構ギヤ周りの掃除とかする事多いから、ミニ四駆用に一本歯ブラシ持ってた方が何かと便利なんだよ」

 「へぇー……」

 知りませんでした、とでも言いたげに頷く二人。

 自分を上級者だと信じて疑わないその瞳を見るにつれ、若干の罪悪感が湧き出てくるが、引き返すわけにもいかない。

 「えーと…おばちゃーん、表の水道、ちょっと借りて良いー?」

 店頭に立っているであろう店主に声を掛けると、すぐ近くにいたのか、返事よりも先に本人が姿を現す。

 見慣れた恰幅の良い女性は、急な提案に、ややキョトンとした様子で応対を始めた。

 「別に良いけど…何に使うんだい?」

 質問を受けた茉莉は、背後の葵を指し、簡潔に説明を始める。

 「とりあえずミニ四駆の汚れてるパーツ洗いたいんだけど…いい?」

 「そりゃいいけど、そこまでしなきゃならないのかい? 今のミニ四駆って」

 驚く店主を余所に、葵は深く頭を下げ、

 「すみません、お借りします!」

 そう勢いよく言い残すと、足に負担を掛けない程度に急いで店の外を目指す。

 「あ、手伝うでー」

 茉莉が止めるよりも早く、共にドアを目指す為に、店主と茉莉の脇をすり抜ける瀬都子。

 「…ほんっとに、みんなミニ四駆が好きなのねぇ」

 呆れると言うよりは、微笑ましげにそう呟く店主。

 その一言が、茉莉の良心を、少しだけ痛めている事には、本人は知る由も無かった。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 「……これなら大丈夫そうかな?」

 数分後、店内に戻ってきた葵からギヤを見せて貰った茉莉は、誰ともなしに呟く。

 「あーちゃん、頑張ったもんなー。キレーになるまでごしごしこすって」

 「あ、いや、そっちじゃなくて」

 『大丈夫』が指す意味を誤解された茉莉は、両手を振って説明に入る。

 「グリスが落ちて綺麗になってるのもそうだけど、これ、多分ちゃんと慣らしが終わってるから、そういう意味で『大丈夫』って言ったの」

 「慣らし…ですか?」

 専門用語と思しき単語が出て来た為、一度は自分の力でミニ四駆を組み上げた瀬都子に、葵は目で助けを求めるも。

 「…いや、ウチもわからへん」

 やや焦ったように首を振りだす瀬都子ではあったが、茉莉の想定の範囲内ではあったようで、即座に説明が入る。

 「ギヤって、最初はギヤ同士があんまり噛み合ってないんだよ。だから走らせないで、弱った電池である程度回して、ギヤの余計な部分を削ってあげると馴染んで速くなる。これを慣らし…専門用語でブレークインって言うんだよ」

 「へぇー」

 聞きかじり、一度やっただけの実体験に乏しい知識であったが、それでも感心したように頷く二人。

 「(…説明、これで合ってるよな?)」

 いまいち自信のない茉莉ではあったが、後には引けずに、説明を続行する。

 「で、これ、ある程度ギヤが削れてるように見えるから、多分ちゃんと慣らしが終わってる…と思う」

 「…要するに」

 茉莉の言いたい事を纏めようとした瀬都子だが、上手い事考えがまとまらず、固まってしまう。

 「…つまり、あとは元に戻してあげれば、ちゃんと走るって事ですか?」

 「うん、そうなるね」

 その言葉を受けるやいなや、さっそく元あった位置にギヤを戻そうと、四苦八苦し始める二人。

 無論、簡単な作業なので、さほど時間はかからなかったが―――

 「…ごめんセッコ、グリス余ってる…?」

 「…あの子作るのに、全部使ってもーた……」

 沈痛な声で、そんな会話が聞こえてくる。

 茉莉が声を掛けるよりも早く―――

 「…すいません、グリスって塗らなきゃダメ…ですよね」

 「…単品で、もっと性能いいの売ってるから」

 仕方のない事とは言え、余りの知識の無さに、かなり脱力を誘われる。

 「あったあった、これやね」

 目の付けどころが良かったのか、瞬時に瀬都子がそれらしきものを見つけたようで、嬉々としてラックから取り出し、二人の眼前にそれを晒す。

 「Fグリス…なんかウチのとはだいぶ違うけど、これでええん?」

 「ああうん、それでいいよ」

 ネットでオススメされていた商品名が出て来た事に安堵した茉莉は、それを鵜呑みにして人に薦める。

 「後は、多分モーターも中がサビついてると思うから、そのアトミックチューンって奴も一緒に新しい奴買って、交換すればちゃんと走ると思うよ」

 「へぇー」

 知識の深さに感心する瀬都子と、言われるがままにラックからお目当ての物を探し、すぐにレジへと向かう葵。

 「これ、付ければいいんですか?」

 すぐに戻ってきた彼女は、待ちきれないとばかりにパーツを開封しながら、茉莉に確認を取り始める。

 「あーちゃん、買う前に聞かなあかんて…」

 珍しく瀬都子に突っ込みを入れられるも、気が急いでいる葵にはそれどころではない。

 「うん、グリスはちょっとだけで良いから、慎重に付けてね」

 その言葉を聞くや否や、返事もせずにマシンとの格闘に取りかかる葵であった。


 ・レイホークガンマ(Xシャーシ)

 大径ワンウェイホイール レストンスポンジタイヤ 中空ハードシャフト アトミックチューンモーター

 Xシャーシ用中空プロペラシャフト 六角ボールベアリング 超速ギヤ―

 (フロント)フロントスライドダンパー 19mmアルミベアリングローラー×2

 (リヤ)リヤ―スキッド・ローラーセット FRP強化マウントプレート 17mmアルミベアリングローラー×4

 大きく溜息を吐きながら、ボディキャッチを留める。

 無論、落胆の類の溜息では無い。作業をやり終えた、達成感から来る溜息であった。

 「ほな、走らせてみよか、あーちゃん」

 作業の完了を察した親友が、背中を後押ししてくれる。

 「……大丈夫、ですか?」

 どうしても不安が拭えず、師に許可を仰ぎ出すも、その問いに帰ってきたのは首肯であった。

 「まぁ、ダメならダメでまた挑戦すりゃいいよ。鉄骨渡りみたいに失敗したらおしまい、じゃないんだし」

 「…はい!」

 例えは良く分からなかったが、力強く頷くと、傍から見ているだけで緊張が伝わってくるほどに震える指で、何とかスイッチを捉え、

 無言のまま、一息に、右へとスライドさせた瞬間、その場の全員が、思わず息を呑んだ。

 理由は一つ。先程までと打って変わって、電池やモーターが弱っているのではないかと疑いかねない程、回転音が静かだったためである。

 「…えらい静かになったなぁ」

 「ギヤがちゃんと噛み合ってる証拠だよ」

 何となく憚られ、ひそひそとそんな会話を交わす二人を余所に、葵は無言で『START』と書かれたシールの上に、マシンを構えた。

 そして、軽く一息吸うと共に、マシンを手放した、次の瞬間。

 「!」

 その場の三人が、瞠目した。

 甲高いスキール音を上げながら、定められたコースの上を疾走する、一台の青い機体。

 それは慣れない彼女達にとっては、眼で追うのも精一杯な程の速度に到達していた。

 「…す、すごいなぁ……」

 ようやく口を開けたのは、瀬都子。

 「(…こ、ここまで速くなるもんなんだ……)」

 理屈だけが先行していた為、チューンしたマシンはおろか、実際にマシンを走行させた事すら無い茉莉は、口には出さずに驚愕する事しかできない。

 「(…あの人の言った通りだ。お姉ちゃんの車の本気は、全然あんなもんじゃなかった…!)」

 名も知らぬ女性に告げられた一言が真実であった事を噛みしめる葵であったが、不思議とその事を意外とは思わなかった。

 しばしの間、レースを右へ左へと疾走し続けるマシンを見つめる三人であったが、その平穏は唐突に破られた。

 「あら、凄いじゃない。昔の千鳥ちゃんより速いかも」

 様子を見に来た店主が、能天気に感想を述べる。

 軽く驚愕を湛えた表情が、それが世辞の類では無い事を如実に物語っていた。

 「い、いえ、お姉ちゃんより速いだなんて……!」

 コース上を走り続けていたマシンを止め、スイッチを切りながら否定するも、それに対する反論は茉莉から飛んできた。

 「んー、モーターも値段変わってから性能上がったらしいし、電池だって十年前より良くなってるだろうし…他が同じならそりゃ速くなってると思うよ」

 聞きかじりの知識ではあったが、実際に速くなっていると言われているなら事実だろうと判断し、何の気なしに口にしてみる。

 「…そう、ですか……」

 覇気のない声ではあったが、落胆の色は見えない。

 「良かったなー、あーちゃん」

 付き合いの長い瀬都子だけが、その言葉の裏に隠された、葵の感情を鋭敏に感じ取っていた。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 「なんか、変な感じやなぁ」

 目の前で繰り広げられている、全くもって未知の光景に対し、瀬都子が率直に漏らした感想がそれであった。

 「変って言うけど、これやるのとやらないのとじゃ全然違ってくるからね。速いミニ四駆作りたいなら絶対やる作業だよ」

 そう言って窘める茉莉も、実際にその『作業』をやる前とやった後とで、速度の比較を行った事はない。

 「(…ホントにこんなので速くなるのかねぇ)」

 当人には気づかれないように、半目で瀬都子の、ボディを剥かれたマシンを横目で見やる。

 缶スプレーの上にセロハンテープで固定され、弱った電池と回転力の低いモーターでひたすら四輪を空転させ続けているその姿は、お世辞にも『速くしている』と言われて納得できる物では無い事くらい、茉莉も重々承知であった。

 「(…けどどこのビギナー向けサイト見ても、絶対これはやっとけ、って書いてあったし、やっぱり重要なんだろうなぁ……)」

 その事実に触れたのは自分自身であった為、彼女自身も半信半疑のまま、ひとまず薦めているだけという有様であった。

 「ま、ししょーがそう言うなら、そうなんやろなぁ」

 その一言にあっさりと納得したのか、あるいは自分自身に対する説得でもあったのか。

 それ以上の言及を避けた瀬都子は、ひたすらに前に進まない回転を続ける愛車を、再び見守る作業に戻る。

 しかし、その言葉をあっさりと看過できなかったのは、その場に残っていた二人――即ち、師匠と呼ばれた張本人の茉莉と、瀬都子の付添を続けていた葵である。

 「し、師匠!?」

 二人揃って叫ぶと、瀬都子は何を驚くのか、と言わんばかりの顔で、あっさりとその呼び名の真意を告げてくる。

 「だって、ウチとあーちゃん、新土さんにミニ四駆教えてもろとる立場やんね」

 「そ、そうだけど」

 他に呼び名があるだろうに、と続ける前に、瀬都子に先を取られてしまう。

 「せやったら、なんか『新土さん』とか『茉莉さん』いうのはなんか馴れ馴れしいし。でもって、ウチらが教わる相手を選べへん学校のセンセと違って、ウチらが『教えて下さい』言うて頭下げた立場なんやから、『先生』よりも『師匠』の方がそれっぽいかなー、って」

 「い、いや、別に馴れ馴れしいとは思ってな……」

 瀬都子の良く分からない感覚に振り回される茉莉は、両手を振りながら否定しようとするも。

 「なるほど…確かに、僕も教えを請う立場なのに、『新土さん』は失礼だったかも」

 「でしょ?」

 下手に生真面目な性分が手伝ってか、瀬都子の良く分からない理屈に納得してしまう葵。

 それに対し、茉莉が何かを言うよりも早く―――

 「先程までの非礼をお許しください! これからもご指導ご鞭撻の程、よろしくお願いします、師匠!」

 「よろしくお願いします、師匠」

 小柄ながらも、非常に折り目正しくお辞儀をしてくる少女と、あくまでも軽くではあるが確かな敬意を払ったお辞儀をしてくる少女。

 「し、師匠……」

 今日、漫画やアニメでもない限りは滅多に使われないであろう呼称を自分が、あまつさえ同学年の二人から使われている事実に、ひたすら困惑を続ける茉莉。

 「(だ、だからアタシはミニ四駆なんてネット知識しかねーんだ…ってもう言うに言えねぇ雰囲気だし、マジでどうすりゃいいんだよコレ…)」

 狼狽している間に、瀬都子一人がこちらに歩み寄り、次なるアドバイスを求めてくる。

 「んで、ししょー、ウチの子にはどのモーター選べばええの?」

 「(ああ、もう師匠で固定なんだ……)」

 先程に続き、今回も至極自然に『師匠』呼ばわりを受け、茉莉の心中に諦念が満ちる。

 それと同時に、ほんの少しだけ芽生えた、新たな感情。

 「(…言う程悪くない、かも)」

 明らかに調子に乗り出している事ではあるが、当の本人が内心で思っているだけである為、誰もそれを指摘する事は無かった。

 「モーター? そんなん、さっきの青宮さんと一緒のアトミック付けとけば…」

 それが一番安全牌だよ、と続ける前に、瀬都子が非常に聞き取りにくい声量で先手を打ってくる。

 「…あーちゃんのあのマシンより速いマシンにするには、どれ選んだらええんですか?」

 「…え」

 会話相手の自分にしか聞こえない、即ち葵には聞こえない声で発せられたその一言に若干驚き、一瞬だけ頭がフリーズする。

 しかし、考えても見れば、その理由など聞くまでも無い。

 「(…そりゃそっか、速く走らせるのがミニ四駆だからなぁ)」

 疑問に答えを導き出すと共に、若干の落ち着きを取り戻せてくる。

 未だにスプレー缶の上で空転を続けるマシンに目を向けると、当然のように無改造の姿のままであった。

 「…結構改造してるあのマシンに勝つとなると、モーターだけじゃ厳しいかも」

 そう呟くと、瀬都子がやや緩慢な動作で手提げを漁り、さほど重そうにも見えない財布を取り出してくる。

 「…三千円でどうにかなる?」

 「…うーん」

 ネットで見た『初心者用』のパーツを苦心しながら頭の片隅から捻出し、該当する物をラックから次々と手に取り、値段を確認していく。

 「…こんなもんかなぁ」

 数分の後、茉莉から瀬都子の手に押し付けられた、袋に包まれたままの様々なパーツ類。

 それらが具体的にどういうものなのか、については瀬都子にはまるで分らなかったが。

 「(…あーちゃんのマシンをあんなに速くした師匠が言うんやから、きっと凄いもんが揃ってるんやろなぁ)」

 その品々が、とてつもない輝きを放つ、宝物のように見えた。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 茉莉の指示を受け、購入したばかりのパーツを順々に、適切な位置に配置されたシャーシ。

 散々慣らし、少々くたびれたように見えたギヤも、洗浄した今となっては新品に等しい輝きを放っていた。

 「…こんなもんかなぁ」

 一方で、そんなシャーシを卓上に置いたままの瀬都子は、ボディとの格闘に苦心していた。

 自前のデザインナイフで、細心の注意を払って必要最低限の加工を行ったボディを、再びシャーシに載せてみる。

 「………!」

 思わず唾を飲み込んだのは、マシンの持ち主の瀬都子でも、改造を指示した茉莉でもなく、無言で見守り続けていた葵であった。

 その思いが通じたのか―――

 「やった! はまった!!」

 フロントに新たに装着したFRPプレートと干渉した為、装着できなくなっていたボディが、干渉部分を削ったことで何とか装着できるようになった事に、歓喜する瀬都子。

 「……はぁ~……」

 見守っていた葵は、その朗報で一気に力が抜け、大きく嘆息を漏らす。

 「んー、フロント周りをバッサリ切り落としちゃえば、もっと楽だったんだけどね」

 最初に指示した事を、改造が終わった後も未練がましく説明するが。

 「だってー、ウチ、この子のフォルム大好きやから、どうしても崩したくなかってん」

 「さいで」

 愛おしげにマシンを撫でながら、こちらに非難がましい目線を向けてくる瀬都子に白旗を挙げ、適当に応対する。

 「でも、随分ごっつくなったね、セッコの車」


 ・デザートゴーレム(VSシャーシ)

 ライトダッシュモーター フッソコート620スチールベアリング ゴールドターミナル

 (フロント)ARシャーシFRPフロントワイドステー 2段低摩擦プラローラーセット×2

 (リヤ)ARシャーシリヤワイドステー ARシャーシファーストトライセット付属13mm低摩擦プラローラー×4

 様々なグレードアップパーツが取り付けられ、元のフォルムを崩している程ではないが、それでも更に堅牢さを増したように見えるマシン。

 茶色や黒を基調としていながらも、前後にワンポイントのように取り付けられた赤や緑のローラーが、妙に可愛らしさを演出してもいた。

 「けど、なんか変な感じやねぇ」

 ローラーを指で弾いたり、プレート部を指でつまんだりしながら、瀬都子は率直な感想を述べる。

 「普通、重なったら遅くなるんとちゃうん? なんで余計なもん一杯付けたら速よなるんやろ」

 「あーっと…それは」

 答えに窮し、自覚できる程に目が泳いでしまう。

 「(コレつけりゃいい、って聞いただけなのに、んな事まで知るかよ…)」

 当然、そんな事を言う訳にも行かず、適当に答えを絞り出す。

 「ま、ミニ四駆ってアタシらが生まれるよりずっと前からあるし、当然それだけ研究もされてるからね。先人たちの研究成果を有難く拝借しなよ」

 「せやね」

 あっさりと納得した瀬都子は、鼻歌交じりに付けたばかりのボディを外し、処女走行と洒落込むために、新品の電池を取り付け始める。

 先程から何度か繰り返されたやりとりに流石に閉口した茉莉は、脇に居た葵に質問を飛ばしてみる。

 「…赤橋さんって、あんまり深く物事考えないヒト?」

 「…そうでもないんですよ」

 ここ数年間、互いの家族よりも長い時間を共有していた葵が、即座にその一言を否定する。

 「セッコも僕も、ミニ四駆に関しては素人以下ですから、上級者の師匠の言う事に素直に従った方が良いに決まってるんです。セッコもその事は分かってるから、師匠の言う事を素直に聞いているんですよ」

 「なるほど」

 確かに合理的かつ確実だが、自分が同じ立場となった時、同じようにハイハイと唯唯諾諾に従えるとは余り考えられない。

 「…にしちゃ、ちょっと素直すぎる気も…」

 どうしても腑に落ちず、まだぶつくさ言い続ける茉莉に、少し寂しげに微笑みながら、葵は反論を重ねる。

 「そこが…そこがセッコの、一番良い所なんですよ。邪気が無いと言うか、打算的でないと言うか…」

 そして、どういう訳か、視線を反らしながら。

 「…だから僕と、ずっと友達で居てくれてるんです」

 「……?」

 その一言に引っ掛かりを覚え、もう少し詳しく聞こうと、口を開こうとした瞬間。

 「よっしゃ! 試してみるでー!」

 威勢の良い声と共に店内に響く、激しいギヤの回転音。

 しかし、メンテナンスを完了した後の葵同様、騒がしいと言える程の物では無かった為、その場の誰ひとりとして眉を潜めはしなかった。

 「…上手い事行ってくれるといいんやけど」

 マシンをコースに離す、一瞬前に漏らした呟き。

 葵と茉莉の耳にもその言葉は届いては居たが、真意は掴めては居なかった。

 と言うよりも、深く考えるよりも速く―――

 「いっけー!」

 能天気な声と共に、灰色の地へと放たれた、茶色を基調としたマシン。

 意外に巨大なコースを疾走するそれが、しゃがんでいた瀬都子の所に再度到達するまでにかかった時間は、三人の予想を圧倒的に上回っていた。

 「うわ! 速!」

 彼女の意図としては、葵よりも少しばかり速い、程度のマシンに仕上がっていて欲しいと思っての注文であった。

 しかし、その予想を遥かに上回る程のスピードを見せた愛車に、驚きを隠せずに瞠目する。

 「(…さっきの奴より断然速いなぁ)」

 しばしの間、快音を上げながらコースを巡り続けるマシンを眺めながら、他人事のように考える茉莉。

 のんびりとそんな事を考えている間にも、快音を上げ続けるマシンは、次々とレーンを移動しながら、定められた軌道の上をひた走る。

 「すごいなー、この子、こんなに出来る子やったんかー。ほんまにええ子がウチに来たなぁー」

 うっとりとした目で愛車を見つめ続ける瀬都子を、半ば呆れたように見つめる茉莉であったが。

 わき腹に軽く、つつかれるような感触が走った為、視線をずらさざるを得なかった。

 「あの」

 視線をずらした先には、愛車を両手で大事に抱えた葵が、首を傾げながら立っていた。

 「…僕の車が古いから遅い、って訳じゃ…ないですよね……」

 「(そりゃまぁ、そう来るか…)」

 圧倒的、と言う程ではないが、それでも競争させずとも分かる程に差を付けられて、思う所があったのか。

 つい先刻まで、手に握られたマシンの本来の性能を引き出せただけで満足していた少女は、貪欲にも『その先』、つまり目の前で産声を上げたばかりのマシンの領域を目指そうとしていた。

 「ボディ自体は悪くない…ってかむしろ軽くて良い奴だし、シャーシも今でも充分現役だっていうし…やっぱりローラーかなぁ」

 「ローラー?」

 その一言を受け、本体に取り付けられた穴のあいた皿のような物体を、人差し指の腹でくりくりと回し出す。

 回転に抵抗がある訳でもなく、普通に回っているとしか思えなかったが―――

 「ローラー、全部にゴムが付いてるでしょ。多分そこに問題があるんだと思う」

 「と、言いますと……?」

 長丁場となる為か、椅子に腰かけ、あれこれと葵のマシンを例にレクチャーを始める茉莉と、それを授業さながらの真剣な面持ちで聞き入る葵。

 その光景に気が付いた瀬都子は、愛車に見入る事も忘れ、胸中でひそかに呟く。

 「(…ええ感じ、かなぁ)」

 思い通りに事が推移し始めた事に、心中で胸を撫で下ろす。

 それと同時に、愛しの愛車を走らせっぱなしの事実に気が付き、慌てて止めに向かった。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 レイホークガンマ(Xシャーシ)

 アトミックチューンモーター 中空ハードシャフト フッソコート620スチールベアリング 超速ギヤ

 (フロント) FRPマルチワイドステー 大径スタビヘッドセット

 (リヤ) カーボン強化リヤダブルローラー 低摩擦プラローラーセット×4 2mmロングビス・ロングナットセット

 

 「…凄い」

 「ローラー変えただけで、こうも変わるんやなぁ」

 葵の財布が痛まない程度に茉莉がチョイスしたパーツを付けたマシンは、少なく見積もっても先程の瀬都子と互角の速度で、灰色のサーキットに蒼い軌跡を描き続ける。

 実際はローラーの他にも、プレート類も変更していたため、決して『だけ』と言える程に小規模な改造では無かったが、それでも素人の三人には衝撃とも言える変貌を見せていた。

 「ゴムローラーってのは、安定する代わりにブレーキ利かせるようなもんだから、六個全部ゴムってのはかなり遅くなっちゃうわけ。どうしてもコースアウトしちゃう、って時にちょっと使うくらいのパーツだからね。」

 「なるほど…」

 メモなど用意していなかった為、教授された内容を忘れないようにと、必死に脳内で反芻する葵。

 と。

 「な、あーちゃん、競争してみーへん?」

 「へ?」

 予想もしていなかった一言に、目の前に愛用のデザートゴーレムを翳しながら提案してくる瀬都子に対し、間の抜けた声で返してしまう。

 「ほら、おばさんも言ってたやん。昔はこれでしょっちゅうレース開いてた、って。これってやっぱり競争するもんちゃうんかな?」

 「そ、そっか」

 慌ててマシンを止め、一旦スイッチを切り、二人でルールの確認に移る。

 「これ、三周で元の位置に戻るようになってるし、先に最初の位置に戻ってきた方が勝ち…でいいのかな」

 「多分そうやろなぁ、それやったらお互いにコース全部走る事になるし」

 言うが早いが、颯爽とコースの内側へと入り、インコース側のスタートラインへ我先にと駆け付ける瀬都子。

 「ウチ、こっちもーらい!」

 「……じゃ、僕は外側から」

 さり気なく、『コースをまたぐ』という、意外に足に負担を掛ける行為を葵にさせないよう、配慮した行動を取る瀬都子。

 口にこそ出していなかったが、葵にはその本心がとっくに看破できており、目頭が熱くなり出すのを堪えるのに必死であった。

 「よっしゃ、あーちゃん、やるで!」

 「うん!」

 口には出さずとも、若干湿っぽくなってしまった空気を吹き飛ばすかのような、威勢の良い声。

 「(…ええ感じになってきたけど、やっぱ勝負となると、話は別やんね!)」

 密かにニヤリと笑う瀬都子。

 「(…お姉ちゃんの車で、負ける訳には行かない!)」

 真剣な面持ちを、全く崩そうともしない葵。

 スタートラインの横側にその両者が並んだ瞬間、瀬都子の方が口を開く。

 「あ、ししょー、スタートの合図お願い」

 「え、あ、うん」

 呆けて眺めているだけであったが、呼ばれるがままに、いそいそと二人の背後へと歩み寄る。

 「(…よーいドンじゃカッコ悪いし、レディーゴーでいいか)」

 適当に脳内で当たりを付け、開始の合図にしようと試みる。

 「じゃ、レディーゴーで始めるから、二人ともスイッチ入れてー」

 「はーい」

 「はい!」

 促す声に思い思いの反応を返し、二人同時にスイッチに指を伸ばし、まだ慣れない動作でスライドさせ、灯をともす。

 一瞬にして高速で回転を始めたタイヤを見届けると、互いにサイドガードを上から掴み、『START』のステッカーの真後ろにマシンを付ける。

 「(あれ? マシンの構え方ってもうちょっと違わなかったっけ? まぁいっか)」

 その光景に違和感を感じたのは、触りだけではあるが知識を得ていた茉莉、ただ一人。

 その本人ですら流してしまった今、二人ともスタートの悪例そのものの様相と化していたが、誰も気に留める者はいない。

 「それじゃいくよー。レディー」

 数秒後どころか、数瞬後にはレースが始まる。

 その事を、言葉ではなく、体感で感じ取った二人の間に、にわかに緊張が走る。

 「(……なんか懐かしいな、この感じ)」

 合図を言いきるまでの僅かな間、葵の脳裏に、ふと過去の残り香がよぎる。

 それに対し、何かしらの感慨を抱く前に―――

 「ゴー!」

 闘いの火蓋が切って落とされ、反射的に手を離してしまう。

 「あ」

 結果的には正しい行為だったとはいえ、一瞬だけでもフリーズした頭脳が回復するまでには、若干の時間を要する。

 現状を正確に認識し始めた頃には、二台ともが第一コーナーからの立ち上がりを見せる所であった。

 「おっしゃ! ウチの子速いで!!」

 その様子を見ながら、歓喜の黄色い声を挙げる瀬都子。

 彼女の言う通り、先に第二コーナーへと邁進しだしたのは、殆どが茶色一色で覆われた瀬都子のマシンであった。

 「おおー、すげぇちゃんとレースしてんなー」

 一秒たりとも視線を同じ位置に固定できず、首ごとあちこちに目線を移しながら、感嘆の声を上げる。

 ノウハウに関する知識は仕入れて居ても、実際のレース動画を見た訳では無かったので、目の前で展開される世界は想像だにしていない物があった。

 無論、それは茉莉のみならず、レースしている当の二人にとっても同じ事であったが―――

 「(何で? 何でパーツも替えたのに、セッコより遅いの!?)」

 親友が遅いと思っている訳ではなく、単に自身の愛機の力不足の原因が分からず、葵は軽く恐慌状態に陥ってしまう。

 無論、知識の一つも有さぬまま人に渡されたマシンに、人に言われるがままにパーツを付けただけの彼女に、正答が瞬時に導き出せる筈もない。

 彼女の脳が落ち着く前に、インコースを走っていた瀬都子のデザートゴーレムが、レーンチェンジを通過して二週目へと入る。

 両者の差は一秒も無かったが、それでも葵が数秒前に通った轍を再び踏み始めた瀬都子が、依然として優位に立ってはいたものの。

 「…あれ?」

 二週目の前半も終えようかと言う頃、二人がほぼ同時に、異変に気が付く。

 「あれ? 何か追いつかれてへん?」

 「…かも」

 スタートラインに戻ってきた辺りで見られた差は、コーナーを、ストレートを一つ経る毎に、じわじわと擦り減っていく。

 理由は単に先行していたデザートゴーレムがインからアウトへと移り、一方の葵はアウトから中央レーンへと移動した事に寄る走行距離の減少であるが、そこまでの知識を有さない三人は知る由も無い。

 「何で? 電池弱くなっとるん? セカンダリータービン止まっとるん?」

 先程の葵同様にパニックに陥る瀬都子ではあったが、葵の心中は先刻の瀬都子ほど余裕に満ちてはいなかった。

 「(…このペースだと…かなり微妙……)」

 相も変わらず茶色のマシンが先陣を切り、ファイナルラップへと突入した二台。

 両者の差は一周前に比べると明確に縮まっており、既にレイホークの突き出たフロントローラーはカウルに覆われたデザートゴーレムの前輪に迫る勢いであったが、それでも油断できる程のペースでは無い。

 「逃げ切れ、逃げ切ってー!」

 サーキットの中で奮戦を続ける愛車に、祈るような声援を送り続ける瀬都子。

 しかし、その思い空しく、ラスト一周も残り半周と言う所で―――

 「抜いた!」

 目の前で展開されたドラマチックな光景に、思わず叫んだのは、ギャラリーの茉莉。

 しかし、葵の表情の険しさは、全く晴れない。

 「(まだだ!)」

 彼女の視線の先は、数瞬後に彼女の愛機が通過する、ゴール最後の関門。

 即ち、レーンチェンジ。

 「(アレでのロスを考えると……!)」

 先に差を付けたデザートゴーレムが通過していた為、茉莉も瀬都子もその事に気づいていなかったが、常に愛車とライバルとの距離を見据え続けていた葵だけが、一つの事実に気が付いていた。

 それは、レーンチェンジの分だけ走行距離が長くなることで、後続に追いつく猶予を与えてしまう、と言う事実。

 その最後の関門に、果敢に足を踏み入れるレイホークであったが―――

 「よっしゃ!」

 「(くっ……!)」

 懸念通り、陸橋下の平面を悠々と疾走するデザートゴーレムが、僅かな差を一瞬で詰めてくる。

 僅かだけデザートゴーレムが優位に見えるも、葵も勢いのつく下りへ突入しており、瞬間的に再加速を始める。

 もはや誰が何を考え、何を言おうが、数瞬後には自動的に付いてしまう決着。

 しかし、それを黙って見守る事など、二人にはできずに、

 「行ったれー!」

 「行っけぇぇー!!」

 瀬都子はともかく、レース中に殆ど沈黙を保ってきた葵ですら、ここが商店の中という事実を忘れて絶叫してしまう。

 そして、残り僅か二枚のストレートセクションを制したのは―――

 「ゴール!!」

 チェッカー代わりに、勢いよく自分の声を、その場に叩きつけたのは茉莉。

 そして、歓喜の雄たけびを上げたのは―――

 「おっしゃー! 勝ったでー!!」

 レーンチェンジにおける僅かなロスでの再逆転を果たした、瀬都子であった。

 「………はぁ」

 溜めていた息が、肺から一気に出たが、それは落胆による溜息ではない。

 高揚感を伴った吐息が自分の口から漏れた事に、若干の驚きを感じながらも、それ以上に充足感と―――

 「…なんか、悔しいや」

 率直に胸に飛来した感情を、そっと口に出しながら、最後まで死力を尽くしてくれた相方を拾おうと、コースにかがみ込む。

 「……」

 その僅かな一言を逃さず耳にした瀬都子であったが。

 「(…今は言わん方がええね)」

 あえて聞こえなかったフリをし、素直に勝利の美酒に酔い続ける。

 「ししょー、見てはった!? 最後もうダメやと思ったけど、偶然橋みたいなんがそこにあったお陰で、ウチ勝てたで!」

 「あーハイハイ、おめでとおめでと」

 最初から定められたコースを走っている以上、セクションに偶然もクソも無いだろうに、と言いたい気持ちを懸命にこらえながら、おざなりな拍手で勝者を称える茉莉。

 「(…とはいえ)」

 ふと、数秒前に拍手の為に開いたばかりの掌を、改めて凝視する。

 視認できる程では無かったが、じっとりと湿った感触。

 それは彼女が先程まで、如何に強く拳を握りしめていたか、と言う事の何よりの証拠でもあった。

 「(…意外にすごいもんなんだなー、ただのオモチャかと思ってたけど)」

 ここ数年、惰性での付き合いに任せ、特に面白さを感じるでもなく、ゲームセンターやカラオケ店に入り浸るだけだった毎日。

 自分から得ようと行動していなかった為、無意識の内に飢えていた『刺激』に触れた衝撃は、彼女の心を無意識の内に動かしていた。

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