第4章 青い物+くわがたお回(〆の一句)
闇の中、男はもがき続けた。
今もなお彼は何者かに取り憑かれていた。
今でも頭の中で別の声が響いていた。
『儂は、儂は』
とうるさく脳に響く。
感情が昂ぶると男は我を失った。だから彼は何度も神社にお祓いをしてもらいに行った。だから彼は水で清める術を知った。そうすると頭の中のあいつはしばらく消えた。
男は頭を抱え、もう一度水に顔をつけて冷静になった。
冷静になればなるほど男の顔は青ざめる。
男の脳裏には無随意にこの館に来てからのことを思い出していた。
「そんな……バカな……」
便器の中の水が濁っている理由。
トイレの外が何者かによって閉ざされた理由。
あるいはおぼろげな記憶の中、登場した倉木という男がもうこの世界線には存在しないこと。
『倉木壮太』
それが男の真名──だ。
別の世界線で由利鎌之介に何度も真実を聞こうとしていたのは、自分だということに気がついた。
そして……男が桐花を化け物だと言った理由──。
すべて男の頭で繋がった。
しかしそれは単なる思考実験と状況証拠でしかない。だから男は確証を得る必要があった。
その為にはまずトイレから出なければならない。
いくら押しても開かなかった密室を脱するべく、彼はトイレの壁をよじ登り、小便器連なるフロアへと躍り出る。
そして彼は知る。
洗面所には青く血濡れた種子島があったことを。
そして男が着ていた上着やシャツ──それから熊の着ぐるみ──が真っ青に染まっていたことを。
「俺が……桐花を……」
『そうじゃ』と頭の中で声が響く。『戦の前も後も礼祭は行われるのじゃ。神楽には良質の木材が必要じゃからな。神に奉納するには神聖な桐が丁度良い。今宵は最高のご馳走がやってきたのう』
桐花が……? ただ名前に桐が入っているだけで?
男は許しを請うべく腹の底から絶叫を吐き出した。
複雑に入り混じった感情をさらけ出し空っぽになった男はフラフラと歩き始めた。
ネオン管の風前の灯火が男を見上げさせた。目が白く灼ける中、彼は洗面台の姿見に浮かぶ真っ赤な口紅の文字を見つけた。筆跡は〝便所の落書き主〟と一致していた。
『2050年の因果は終わりにしましょう。そしてさようなら』
忘れていた男の感情が息を吹き返した。自身の感情が蘇ると男は記憶をも取り戻した。
男はトイレから駆け出した。
桐花、桐花、と男は叫び続けた。
自らの呼吸に喉と胸が焼けそうになる。窓を叩く雨の音は躍動する心音に打ち消され合っていた。
あの落書き主を彼は知っていた。以前彼に近づいてきた桐花とよく似た女。青い蝶のような女──。男に水の清めを教えてくれた神主だった。
それから男は桐花と出会った。
彼は知っていた。神主も桐花も〝この世界の人間〟ではないことを。そして彼女たちが何故男に近づいてきたのかも。
──男は憑依体質で過去の──あるいは平行世界の武神や英雄たちをその身に宿してしまってきた。だから男が2050年まで生きつづければ、彼は世界最強の男となってしまい、世界を滅ぼしかけた。だから戦士たちは男を滅しに来ていた──。
それを教えてくれたのは神主だ。男が彼女の本当の姿を見てしまったことで彼女は元の世界に帰れなくなった。そして偶然にも居合わせたこの館で〝神主〟は男の手によって殺された。
男はそれを許さなかったが、男の中の武神が彼をそうさせた。男が死ねば彼の中にいる数々の亡霊たちは離散する。彼らにとって男が死ぬのは都合が悪かった。
神主だけではない。この館には何人もの桐花──がいる。
それはたった一人の桐花からなる並行世界の数だけ存在する桐花──だった。
すべての桐花は男を殺して2050年以降の未来を望んだ。
だが、一番新しい桐花だけは違った。
むろんその桐花は当初の予定では男をここに連れてきて殺そうとしたのだろう。
館は爆音に嘶きグラグラと揺れた。
それでも男は桐花の名前を叫び続けた。
平行世界?
「知るかボケ!!」
憑依体質?
「ようは俺が自制すればいいんだろ!!」
男が最初に襲われ少女を殺した場所になんとかたどり着いた。
そこには死体と桐花がいた。
桐花はその死体を見つめて驚いた顔をしていた。そして彼女は背中に翅をまとっていた。
それは怪しくしかし美しかった。
ハッとした桐花は、
「来ないで!!」
と叫ぶ。
その声に反応して男の中に存在する無限の妖気がざわめき立った。
「黙れよ!! 化け物ども!!」
男は自分に言ったつもりだった。
しかし桐花は困惑した面持ちで目に涙を浮かばせたと思えばきっと口を真一文字に結んだ。そして身にまとった翅を変態させ、鋭利な刀身を作り込んだ。
青い線形はまっすぐ男の体に伸びた。
男には勝算があった。
要はすべての桐花の真の姿を目撃して戦士としての意味を意義を理由を奪わせればいい。それで武神たちを抑えればよかったのだが、男一人の意識が雑多の妖気を抑え込めるわけがなかった。
(これでいい)
男は桐花が放った翅の刃をその身に受け入れた。
一寸のインターバル。
男の立っていた石が崩れた。男は血を振りまきながら自由落下する。
暗転──。
「ごめんね……ゴメンなさい──」
目が開くと、桐花の泣きじゃくる愛くるしい姿があった。男は刺された痕を触診してみた。少し身がえぐれていたが、血管や臓器を傷つけるほどではなかった。落ちたショックで骨がいくつか折れていたが命に別条はなかった。
その様子を見た桐花は目を丸くする。男は彼女の青い髪を撫でながら、
「もう大丈夫だから」
と微笑み告げた。すると桐花は自制を失った幼子のように大声をあげて男にしがみついた。
散々泣き散らしてから彼女は、
「ゴメンなさい……嘘をつくつもりもなかった。言えなくって」
もう桐花の身から生えた翅は消えていた。
「さっきの言葉は嘘だ。これが君を救う唯一の方法だったんだ」
え、と桐花は小さく聞いた。
「つまりシュレティンガーの猫は観測することが結果を導くんだ」
桐花の疑問符を浮かべた表情がまた可愛らしいと男は思う。
「まだ結果は決まっていない。この世界線での2050年以降も。俺は自分の中から化け物を追い出すために死ぬことが必要だった。主体的に俺は君に刺されたあの一瞬、意識は死んだ」
でも、と桐花。
「そして俺が桐花を目撃することにより、君は力を失った。だから俺は完全には死んでなかった。量子状態を騙したのさ」
「まさか……そんなことって……」
「ああ。でも俺の中の化け物たちは騙された。観測してしまったのさ。死を、ね」
まだまだ男はこの武勇伝と自らの明晰さを説明して鼻を高くしたいところだったが、そんな余裕は館に残されていないらしかった。
「ひとまず車に帰ろう」
「うん……」
男は桐花の手をとって立ち上がる。
「あいててててて」
足や腰の骨が軋み男は情けない声をあげた。
「もぉ〜。カッコよかったのは一瞬だけなんだから」
男は少しふてくされた。
「おんぶ……」
期待はしていなかったが、
「しゃーなしだよ」
と言って桐花は男を背に乗せた。
「ガソリンスタンドまで長いぞ。歩けるか?」
「大丈夫。だってす……き……から」
「何?」
「なんでもない!! バカっ!」
そうして彼らは館を後にした。
退館する際、男も桐花も鍵が開いていたことを不思議がっていたが、崩落で鍵が歪んだのだろうと思っておくことにした。
でも、と何か言おうとした桐花。しかし彼女の言葉は続かない。
男は館を振り返る。
彼らが出て行くのを最後まで見届けようとしていたのか、彼らが館から離れるとそれは崩れ去った。
あそこにはまだ別の桐花が残っていたんだろうか……。
そんな疑問を口にしかけたが飲み込んだ。
無数の桐花がいたとしても俺は今ここにいる彼女を愛でればいい。それが彼女たちへの手向けなんだ、と彼は言い聞かせた。
「なあ、桐花。おっぱい揉んでいい?」
「脈絡の論理崩壊!?」
と口では否定していた桐花だったが、真っ白い肌は赤く染まっていた。彼女はほんのわずかに首を縦に振った。
夜はまだ明けない。
そして2050年もまだずっと先の話。
「とんだクリスマスデートだったな」
男は散々な一日を思い出し笑う。すると桐花もまたつられて笑った。
「あ……見て、空」
男が空を見上げる。大雨だった空からは白が舞い降りていた。
「雪積もれあなたの青を見てみたい」
=完=
ラスト一行はくわがたおさんによる一句。