第3章 ポール・ブリッツ回
明滅を続けていた電灯は完全に消え、トイレは真っ暗闇になってしまった。
男は頭を抱えた。
くそ。桐花も桐花で、閉じ込めるなんて、なにを考えているんだ。こう真っ暗だと……。
男はポケットから百円ライターを取り出した。火をつける。
『あなたは』
か細い灯りに、文字のようなものが浮かび上がった。男はまじまじと見た。確かに、『あなたは』と読める。
その正体が、単に壁に書かれた、いわゆる「便所の落書き」であることに気づき、男は笑い出した。細い線で小さく書かれていたから、さっきの電灯では気がつかなかったのだ。
男は壁に顔を近づけた。
『あなたは猫です』
どうも消えかかって読みにくい。
『あなたはシュレーディンガーの猫です。猫であり同時に箱の中からの観察者でもあります』
男は眉をひそめた。悪戯としては妙に細かすぎる。
『この箱の外ではなにかが行われようとしています。箱の中のあなたには、外の状態は波動関数の複雑な重なりと認識できるでしょう』
なにがいいたいのだか。シュレーディンガーの猫の思考実験は知っている。五十パーセントの確率で死ぬことになっている箱の中の猫。外からは、「五十パーセントが死んでおり、五十パーセントが生きている」重なりの状態としてしか表現できない、というのがこの思考実験のキモだ。猫は生きているか死んでいるかのどちらかであり、「五十パーセントだけ生きていて五十パーセントは死んでいる」幽霊みたいな猫など存在してたまるか、と大論争になった。
『その結果はあな……託さ……した。シュレーディンガー……相互補完的に解釈……』
字が読みにくい。ライターの明かりも妙に揺らめいている。トイレットペーパーを燃やせば明るくなるだろうが、消せなかったら火事になるし。外にあれだけ障害物があれば、火に巻かれたら生きて脱出はできないし。
『箱の外の状態も……の中の量子の状態に左右されるのではあるまいか、問題はどちらが先に観測し解釈……あなた……観測者……』
ライターの火が消えそうだ。だが、男は魅入られたように文字を読んでいた。
『神のサイコロはあなたによって振られ……殺し合いの結末……ランダムに崩壊する放射性物質の代わりに……わざと読みにくくした……読むこと自体が……ランダム性……』
ほんとうに読みにくい。
『忘れないで……あなた……の……であり……を……だから……2050年の……怪談……』
薄れ、消えかけた文字。なんとか判読しようとしたとき、ライターの炎が消えた。
再びの闇に、男はしばらく凍りついたように動かなかったが、ふいに叫んだ。
「桐花!」
狭いトイレの個室で、男はドアを破ろうと、体当たりを繰り返し始めた。
=続く=
あそこまでややこしくなってしまった状況、中継ぎとしてはどうやって風呂敷を畳んで最終回に回すのか、考えた結果が、
「問題を単純化する」
でありました。
三人だか四人だか五人だかの登場人物が複雑なドラマをやろうとしているのをなんとかしようとするからお手上げになりそうなのであって、これを「トイレに閉じ込められている人間」が主体の話にしてしまえば、「話のまとめにくい部分」をすべてカッコに入れて処理し、「結果」だけに収束させることができるのではないか、というコペルニクス的転回。
シンプルな話しか書けないわたしにはこれしか話を進める方法が思いつかなかった。
え? トイレにメッセージを書いたのは誰かって?
「2050年の怪談」の意味?
……知るかいな、そんなもん(^^;) 後は任せたサンダース(ひどい(^^;;))