第2章 ひゃく回
今になっても震えが止まらなかった。
「この化け物っ!」
男の頭の中で、そんな声が反駁した。
考えたくもなかった。
あやつ…
あやつは一体、一体何物なのじゃ……
その化け物…、いや、化け物ではない。その者の名は、由利鎌之介。
そう。かの真田十勇士の一人…、ではなくて。
後世に真田十勇士の一人として知られる由利鎌之介から2代前。つまりその男は、そちらの由利鎌之介からみて祖父にあたる鎌之介だった。
由利家の当主は、代々鎌之介を名乗る決まりだったのだ。
鎌之介はその屋敷の厠――なのだろう、恐らく。この微かに残る匂いを考えれば――で頭を抱えていた。
鎌之介の体は、自分の体じゃないみたいに硬直し震えていた。
それは本能的な恐怖だった。鎌之助がいくら自制しようとも止まらなかった。
死の恐怖ではなかった。
もちろん、あの女を殺したことでもない。
鎌之助は武士だ。人を殺めることはもとより、自分が死ぬことの覚悟も出来ていた。
しかし…
あれだけ近くから「種子島(火縄銃)」を撃った。
しかも、胸のど真ん中に命中したというのに…
それと、儂を見つめてきた、あの不気味な青い目……
それを思い出した途端、体中に震えがきた。
カタカタカタ…
歯の根が合わない。
「と、とにかく…。
諏訪のお社の禰宜大夫殿に言われた通り、水に潜るとしよう。」
それは、鎌之介が先月諏訪大社にお参りに行って、禰宜大夫に言われたこと。
それになんの意味があるのかはわからなかった。
しかし、恐れ多くも諏訪大社上社の禰宜大夫が言うのだから間違いはないだろう。
水面は茶色く濁っていた。
鼻を近づけても小便の臭いはしなかったから、たんに水だとは思うのだが…。
ただ、この厠(おそらく)といい、ここまで来た屋敷の中の光景といい。
それらが鎌之介の普段見慣れた屋敷の光景とはあまりに違っているので、その心を乱していた。
そう。鎌之介にとっては、トイレのドアすら、ノブを引っ張ったり、押してみたり。しばらくあーでもないこーでもないとしないと開けられなかったのだ。
ごくり。
生唾を飲み込んだあと、鎌之介はその水に一気に顔を突っ込んだ。
「…!?」
水は冷たかった。
それは、気がついたら立て続けに起きた不可解な出来事に頭がカッカとなっていた鎌之介の頭を冷静にさせた。
そもそもは…、そう……
儂は、不敵にも一騎で御館さまの陣に打ち入ってきた謙信めを追って…
そうじゃ。あの霧に見え隠れする、謙信めの白馬を目印に…
そうじゃそうじゃ。思い出してきたぞ。
あれは、儂が謙信めとの間をさらに縮めた時じゃった。
いきなり、頭の後ろに何かがガツンと…
後ろからとは卑怯なと…、うむ。振り返った。
確かに振り返った。そして、そやつの姿を見た…、のか…
うーむ。見た憶えはあるのじゃが、その顔はとんと思い出せない…
まぁそれはよい。
問題はその後じゃ。
気づいた時には、儂はこの奇妙な屋敷のだだっ広い部屋におった。
薄暗くて端までは見えなんだが、畳の40や50はゆうに敷き詰められるくらいではなかったか…
儂が立ち上がった時には、あやつはもうすでに儂の八間近くまで間合いを詰めておった。
とっさに儂は、謙信めを撃とうと手にしていた「種子島」を発射した。
そうじゃ。間違いなく発射したのじゃ。
そして、間違いなくあやつ…、あの奇妙ななりをした女の胸を貫いた。
なのに、あやつときたら…
胸に「種子島」が当たったことなど、気がつかなかったかのように。あの不気味な青い目をさらに爛々と輝かして、儂との間合いをさらに詰めてきよった。
しかも、変な色合いの着物を蜂か虻のようにはためかせ、まるで宙に浮いているかのように……
慌てながらも、儂はとっさに得意の鎖鎌を――。
あぁ…
あの時の恐ろしさは忘れられぬ。
儂の鎖鎌の分銅があやつの顔に当たった時のあの声。
あの不気味な青く光る色。
そう、そうじゃ。あの異様に長くて青いザンバラ髪も…
あれは、とうてい人の世のものとは思われぬ……
そうじゃ。恐らくあやつは、化生の物なのじゃろう。
鎖鎌の分銅で砕けてしまったから、骸を見ても顔はよくわからなかったが、それでもどこか人とは違っておった。
じゃのに。
じゃのに、あやつときたら、この儂に向かって来る時こうほざきおった。
「この化け物っ!」
そう、そうじゃ。思い出したぞ。
あやつら…
あの化生のような女を殺した後。何か食べる物がないかと、この奇妙な屋敷を探している時、不意に現れたあやつら。
そう、あの男と女じゃ。
今思えば、あやつらもこの儂の姿を見て「化け物」とか申しておった。
待てよ…
そうか。あやつら、もしかして儂の当世具足と変わり兜を見て…
いや。儂の自慢の当世具足と変わり兜がいくら珍しい形とはいえ、今の世に具足と兜姿の儂を見て、武士とわからぬ者などいないはずじゃ。
と言うより、あやつらの方がよっぽど珍妙ななりでないか…
そうじゃ、そうじゃ。
あの後に見た女なぞ、素っ頓狂な紅白の着物に棒っきれのような足をにょっきりはやしおって。しかも、雪が降ってるわけでもないのに雪靴みたいなものなど履いておった。
そう。それから何じゃ。あの目の周りの狸のごとき化粧は?
女子とは目元涼やかであることこそ、美人の証ではないのか?
それと、あの男…
よく憶えてないが、上は何やら三段腹みたいなものを着ておったくせに、足は股引だけじゃった。
しかも、男じゃというのに、あの女より早くピーピー泣いて逃げよってからに…
うーむ。許せん。
あんな小倅小娘風情に、よりにもよって御館様以下武勇の誉れ高い武田家の中でも剛勇として知られるこの儂に!
しかも、家中の女子の一番人気の儂に向かって「化け物」とは。
えぇ~い。こうなったら二人ともとっ捕まえて、黒川金山に送り込んでくれるわ!
茶色く濁った水面から顔を上げた時、もはや鎌之介には先ほどのような心の乱れはなかった。
怒りが、そして当面の目的が、鎌之介に力を与えていた。
そんな鎌之介だったが、この現代の洋館を探るのはとても難儀なことだった。
ノブを回せばドアが開くのはトイレのドアでわかったのだが、それ以外にもバー式のノブ、さらにはクレッセント錠にも手こずらされた。
さらに、所々に点いている電燈がクセモノだった。
戦国時代の人間である鎌之介は夜目が利くのだが、なまじっか明るい電燈があるために目が眩んでしまうのだった。
それは、そんな鎌之介が長い廊下を静々と歩いている時だった。
いや。最初は静々と歩いていた。でも、そのうちこの洋館の毛足の長い絨毯で廊下では、特に意識して歩かなくとも足音のしないことに気がついた。
この珍妙な屋敷は、一体どうなっておるのじゃ。
これでは忍びの者が入ってきてもわからぬではないか。
しかも、この壁にあるギヤマン。
雨が入ってこないのはいいが、いったいこんな南蛮渡来のものをどうやって手に――。
「おーい。大丈夫か?」
はっ。
ふいに聞こえてきた声に、鎌之介の足がピタと止まった。
この声は間違いない。あのピーピー悲鳴をあげておった小倅の声。
さては、この向こうの部屋の中におるのか?
と、耳を澄ます鎌之助。
ガタン。ガチャガチャ…
聴こえてきたその音は、あの奇妙な仕組みの戸をあけようとする音だろうか?
鎌之助が、その音の場所を探ろうと、壁にそっと耳をつけると。
「桐花……。」
それは、壁の向こうでくぐもってはいるものの、間違いなくあの小倅の声だった。
小娘は?いるのか、小倅と一緒に?
いや。小倅の呟きから察するに、一緒ではないということか?
さて、どうしたものか…と、鎌之介がしばし思案していた時だった。
パチっ、パチっ。
いきなり聞こえた微かだが激しい音。同時に、天井にポツリポツリと灯っていた、ぼんやりとした灯りが明滅しだしたのだ。
はっ!
慌てて身構え、辺りを見回す鎌之介。
しかし、壁の向こうから聞こえてくるあの小倅を別とすれば、辺りに人の気配はない。
パチっパチっ。パチっ。ぶぅーん。
鎌之助は、その音の元である天井の灯りを見上げた。
それは、ロウソクの火に蛾が飛び込んできた時のように、パチパチと音をたててまたたいている。
特に付近に何者かが潜んでいる気配は感じないのじゃが…
パチっパチ。パチっパチ。ぶぅーん。
その灯りが明滅する音以外、何も聴こえない廊下。
鎌之助は、廊下のあっち側と向こう側、さらに背をつけた壁の向こうの小倅の気配にも神経をピンと張り巡らす。
そんな状態がどれくらい続いたのか。
それは、ふいに。
♪ジョワ~ンんんんんんん……
な、何だ、この音は。
弦をはじく音のようじゃが…
♪ジョワ~ンんんんんんん……
それは、また。
何じゃ?何なのじゃ?一体何が起こるのじゃ?
鎌之介は、廊下の向こうとあっちを、やたらめったら見回す。
それは、そんな鎌之助が心の平衡を戻そうと、得意の鎖鎌をいつでも使えるようにと構えた時だった。
♪ジョワ~ンんんんんんん……
三度聴こえてきた、その弦のような音。
そして。その音の向こうから、ゆっくり歩いてきた人の姿。
「な、何やつ?」
「倉木だ。」
「くら…き、!?」
「俺は本当の真実を知りたいだけだ。偽りの真実は見飽きた。
教えてくれ。一年前、ここで原因不明の爆発事件があった時。
妻は、なぜこの場所にいたんだ?」
「…!?」
「それと。
ヌスラット・ファテ・アリ・ハーンとは何者なんだ?
さっき見た、服を虫のようにはためかせて移動する少女と何か関係はあるのか?」
=続く=
リレー小説、ホント楽しかったです。
やる前想像してたよりも、というより想像なんておよびもつかない面白さがありました。
個人的な話になりますが、私の前のパートを書かれた椿さんの“『現代日本』のドレスコードを逸脱するものではない”に大感謝です。
2度目に読んでいてその文を見た瞬間、バーッと。それこそほとんどのあらすじが浮かんじゃいました。
あれは、本当にエキサイティングな体験でした。
私は、他人との物語の共有なんて、そんなもん絶対幻想だと思う方です。
でも、今回参加したメンバーは間違いなく全員でこの物語を共有した、それはほんとにミラクルだったと思います。
参加された皆さん、あとこの物語を読んでくださった皆さんも、ホントありがとうございました。