表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/5

選ばれし巫女!?

それは、突然の出来事だった。


「お前が主か?」


 低音で腰まで響く超美声。そして、振り返った僕の目の前に映ったのは、その容姿端麗な美声の持ち主である男だった。見た感じ、二十歳かそこらの青年だ。目はややつりあがっていて、今はやりのツンデレというという言葉が合いそうだ。

整った顔立ちは人間離れしていて、僕がこれまでに出会った友人や、テレビなどで見た有名人よりも、ずっと綺麗なものだった。

「ある……じ?」


あるじ……主? 主ってあの主のこと? 主人のことですか?

 

僕の頭の中では、同じ単語がぐるぐると回っていた。何度回してみたところで、他の見解が生まれるわけではないのだが……。

「主って……あの主? 何かの主人を示すあの主?」

だから、それ以外の主って何?……と、思わず自問自答してしまう。頭の悪さを、我ながら思い知らされる。

「他に何がある」


ごもっともです。




 それが、僕と「彼」との出会いだった。




 僕は、どこにでも居るような平凡な高校一年生。男女共学の公立高校に通う女子高生だ。そう、「女子」高生。一人称は「僕」だけど、僕は生まれも育ちも女の子。四人家族の長女だ。両親に弟がひとり居る。近頃多い、代表的な核家族だ。

「ただいま」

返事はない。そりゃあそうだ。共働きで、弟はまだ中学校にて元気に部活動中。僕は部活に入ってはいない。そのため、中学生である弟よりも帰りが早かった。いや、正確に言えば部活には一応入っている。そう、幽霊部員というものだ。当然、夜まで仕事のある両親よりも誰よりも早くに帰ってくる。いわゆる鍵っ子だ。

 返事の帰ってくることのないその家からは、人気のない寂しい雰囲気が漂ってくる。でも、なんてことはない。いつものことだ。もう、慣れている。僕が小学生の頃からこの生活は変わっていない。変わったといえば、僕の一人称が「あたし」から「僕」に変わったことぐらいだ。

「おかえり……と」

自分で自分の返事をしてみることもたまにある。鍵っ子の哀しい性分だ。


友達づきあいもろくにしない、しようともしない、僕はそんな人間だった。


独りでいい。友達なんて、学校が変わればそこで縁が切れてしまうものだ……そう、思っているからなのだろうか。それとも、深く関わりすぎて情が移ることを、恐れていたのだろうか。自分のことなのに、よく分からない。ただ、はっきりとしていることは、僕は友達づきあいが好きではないということだ。

今では九割ほどの人口に普及している携帯電話を、例外ではなく僕も持ち合わせてはいるが、持っていることを学校の友達に教えていないことは、そういう理由からだ。スマホではなく、ガラケー派なのは、色々と面倒くさそうだと思う、僕の怠け癖からだ。


 けれども、「持っていない」と嘘をつくたびに心が痛むのはどうしてだろう。なんとも思っていないような友達なら、心なんて痛まないはずなのにね。


 鳴らない携帯を充電器に設置してから、僕はベッドの上に横になった。見慣れた天井が僕の視界に広がる。

 テレビもCDラジカセも、ステレオもゲーム機も何もない、無音の世界がそこには広がっていた。それにつられてか、僕の心も「無」に近づいていく。思考回路が止まり、何もない世界に浸っている。それは何の変哲もない、僕にとってはいつものこと、僕の日常だった。

しかし、僕がふと部屋の電気のスイッチの方に目を向けたときだった。白い壁で、壁画も何もかかっていないはずであるそこに、見慣れないものがあることに気づいた。ママか弟が掛けたのだろうか? 僕の部屋に……しかも、勝手に? そして、いつ? 何のために? 僕の頭の中はハテナマークでいっぱいになっていった。

 とりあえずベッドから降りて、僕はそれを目の前で見るべく近づいてみた。ひし形の中に何かのマークが描かれている、中国や香港など売っている、匂い袋のようなものだ。ひし形の部分の下には大きなビーズだか真珠だかがついていて、そこの下には太めの糸が何本も垂れ下がっている。ひし形の上には、腕輪サイズの輪がついていた。しかし、奇妙なことに、そのひし形のお守りのようなものは、画びょうや何かで止められているわけでもなく、かかっているわけでもないのだ。言うなれば……壁に張り付いている? そんな表現が正しそうだ。

「何……これ?」

赤い色のそれと、青い色のそれ。僕は交互にそれらを見た。

僕は元々、お守りだとか御札だとか、そういった類のものが好きだった。興味をそそられないわけがない。


 赤と青、どっちが好きか?


 そう問われたら、僕は即答で「青」と答える。


 僕は、青色のそれを手に取った。


 見た目どおり、単なるお守りか何かのようだ。たいした重さもなくそれは僕の手の中に納まった。なんだつまらない……そんな具合で、それをもとあった場所に戻そうとした、その刹那だった。

「えっ……?」

青く強い光がそのお守りから発せられた。発光ダイオードだとか、そんな程度の光ではない。その光の強さといったら、雷の稲妻に似ていた。僕は思わず目をつむる。それでもまだ、明るく光っているのが分かった。

 数分……いや、実際にはほんの数秒の出来事だったのかもしれない。光が納まったと感じてから僕は、ゆっくりと目を開けてみた。眩しさに目をやられたのか、はじめのうちは周りがよく見えなかった。しかし、次第に視力を取り戻した……と言っても、コンタクトで矯正されている視力だが。

「……」

目を開けて見えた景色は、なんてことはない。いつもどおりの部屋だった。赤色のそれもなく、いつもの僕の部屋、白い壁に戻っていた。

「夢……幻?」

しかし、今の出来事が夢ではなかったと、言葉なく訴えかけてくるものがある。僕の手の中にある、青色のそれ……だ。

 僕は、この現状をどう飲み込めばいいのか分からずに、その場に立ち尽くしていた。すると、ありえない事がさらに起こったのだ。

「……か?」

「へ……っ?」

声がした。確かに声がしたんだ。僕しかいないはずのこの部屋の中、それも、僕のすぐ背後から。


 男の声。低音で、とても綺麗な声だった。


 僕は思わず間の抜けた声を上げ、それと同時に背後を見るべく振り返った。

「……」

僕は言葉を失った。そこに、居るはずのないよその人間がいることに驚いたわけではなく、そこに立っている齢二十歳くらいの青年の容姿が、あまりにも端麗で、表現する言葉が僕の頭の中には蓄積されなかったからだ。

とりあえず、ない頭なりに思い浮かぶ言葉で説明すると、黒光りするほどの黒い髪。前髪は目にかかり、後ろ髪は肩を越す程度伸びている。瞳の色は空を連想させるような青。眉はきりりとつりあがっている。そして、鼻筋は通り、口も綺麗に整えられている。背丈は、自分と比較してみて……百八十センチ前後というところだろうか。とにかく、見たこともない美麗な青年が、僕の目の前に立っていた。

「おい、言葉が通じないのか? お前が主なのかと聞いているのだ」

「ある……じ?」

僕は単語を口に出す。口に出したところで、状況を飲み込めるわけではない。

「主って……あの主? 何かの主人を示す、あの主?」

「他に何がある」

そう言いかえされ、僕は言葉を再び失った。返す言葉がないのだ。

 思わず青年の瞳に魅入ってしまう。吸い込まれそうなほどの綺麗な輝き、そして強い光を放つその眼差しは、僕の心をぎゅっと掴んで離そうとはしない。いや、僕が彼の目の虜になってしまっていた。青の瞳は真っ直ぐに僕を見ている。したがって、その瞳には僕の顔が映りこんでいた。

 しばらくして、青年の視線が僕の顔から右手に移った。例の、青色のそれを握っている右手だ。

「お前がそうなのだな?」

「そうって……何?」

反射的に聞き返す。すると、青年はぴくりともせずに答えてくれる。

「主だということだ」

「主って、あの……どなた様の?」

分からないことはとことん聞く。それが僕の性分でもありモットーのひとつだ。僕は本当に無知で、世の中のこと、勉強だってそう。知らないことが多すぎる。

「どなた? 俺の他に誰がいる」

周りを見渡してみたところ、存在している人間は僕と彼のふたりだ。もっとも、彼を人間と言う種族に入れてもいいのかどうかは謎だが……。そもそも、彼は誰なんだ? 僕はようやく、問うべき疑問を見つけた。

「あ、あなた誰?」

今さらながらの問いだった。彼が登場して、一体どれだけの時が流れたのだろう。まず最初に問うべき質問のはずだと思われるのに……。

「疲れた。久々の異世界だ。寝床はどこだ」

「は、はぁ……それはご苦労さまです。寝床は……じゃなくて!」

思わず出た言葉は長いノリツッコミだ。僕は別に、漫才師を志したことなど一度たりともなかったはずだぞ?

「あんた、誰!? 泥棒か何か!?」

突っ込むべきところは、果たして此処でよかったのだろうか。ゆっくりと彼の言葉を思い出してみると、異世界だとかなんだとか言っていたような気もする。


最近はよくない事件がどこでもかしこでも起こるほど物騒な世の中だ。僕の住むこの、静まり返った団地も例外ではないだろう。何度か回覧板で、不審人物に注意だとか、子どもの安全を地域で守ろうなどという文字を目にしたことがあるし、今では地域放送でも安全を呼びかける声が流れたりするぐらいだ。僕の部屋にはベランダがあり、泥棒が入ってくる可能性だってゼロじゃない。そのため、一般の鍵をかけ、さらに二重ロックをかけ、さらにさらに、窓が開かないような装置……というほど大層なものではないが、それをかける習慣がある。今日も当然、そうして窓をがっちりと固定して、開かないようにしてあったはずだった。


しかし、見知らぬ人物がここに居るのが現状。

 

僕は何とかして不法侵入者の彼を撃退しようと、頭を回転させた。そんな僕の思考を知ってか知らずか、彼は僕に背を向け、何の断りもなしに、いきなりそこにあった僕のベッドに横になった。

「ちょ、ちょっと……何やってるのよ泥棒さん!?……というかさ、だからあんたは誰なの、何者!? そもそもあんた、どこから入ってきたの!?」

窓に目をやると、やはり鍵もカーテンも閉められている。

「レイドだ」

低音ボイスが再び部屋に響き渡る。何度聞いてもとにかくいい声だ。だが、ときめいているような場合ではない! 本当に泥棒だとしたら、泥棒にときめいてしまってもよいのだろうか……。なんて不謹慎なんだろうと我ながら情けなくなる。

「レイド?」

僕は、警戒しつつも相手の言葉をオウム返しした。動けずにその場から彼を見下ろす形で見ていると、彼は寝返りを打ち、僕とは反対の方を向きながら答えた。

「そうだ」

そうだ……って一体何がそうなのか、僕には分からない。例によって僕は再び聞き返した。

「だから、レイドって何?」

彼は振り向きもせずに答えた。言葉ではなく、嘆息だ。生まれてこの方十六年。はじめての経験だが、あまりいい感じはしない。

「ねぇ、ねぇってば……警察呼ぶわよ?」

家族に危害を加えるつもりはどうやらなさそうなのだが、不審人物には違いない。僕はとるべき行動をとろうと、携帯を手にした。右手には未だにお守りもどきが握られているので、何も持っていない左手で……だ。

「……警察?」

今度は彼が疑問の声をあげた。しかし、こちらには目もくれない。

「そうよ。警察、け・い・さ・つ」

念を押すように、僕は一語一語をはっきり区切って言ってやった。

「なんだそれは。偉いのか?」

予想もしていなかったその答えに、僕はたじろいだ。

警察が偉い? 偉いと言えば偉いのか? だが、偉いとしても一体何と比較して? 警察と自衛隊とでは、どちらの方が偉いのだろう。とりあえず、警察と天皇とでは、この日本、現代の日本においては天皇は日本の象徴なのだから、一番偉いはず。ということはだ、警察は天皇よりも偉くはないということであり……自分で考えておきながら、どんどん泥沼にはまっていく感じだ。

訳がわからない。そもそも議題が悪いのだ。警察が偉いかどうかなんて、分かるものか。偉いとか偉くないとか、そういうものではないのだ。警察とは市民の安全と秩序を守るために必要な存在なのだ。

「どうなんだ、偉いのか?」

あくまでもそこにこだわる彼に、僕は生半可な答えを出した。

「え、偉くはない……んじゃないのかなぁ」

天皇と比べて……とは、あえて付け加えない。

「なんだ」

短くつまらなそうに答えると、彼は布団の中にもぐりこんだ。いきなり現れた青年は、なんだか偉そうで行動が大胆だ。警察に電話する時期を見逃したようで、僕は呆気にとられてその場に立ち尽くした。

 それ以上、彼は言葉をつむぎ出さなかった。僕は一体どうしていのか分からず、ドアに沿ってへたりとその場に座り込んでしまった。


 それは、夜の八時頃のことだった。


「ただいまぁ」

弟だ。弟が帰って来る頃に、大体パパもママも帰って来る。夕飯はスーパーのお惣菜というケースが多い。

 今日の夕飯は何かな……なんてことを、いつもなら楽しみにしながら家族の帰りを待つのだが、今日は勝手が違う。このベッドで眠っている男をなんとかしなくてはならない。いや、最悪パパやママが部屋にやってきたら、部活動もしないで僕は男を連れ込んでいる……なんて、誤解されてしまうかもしれない。そんなことにでもなれば厄介だ。とにかくこの場をしのがなければならないと、男の顔まで隠れるように布団を被せた。

「なんだ、何をする」

「いいから黙ってて、泥棒さん! 一大事なんだから!」

生半可な声が飛んできたが、今は気にしないことにしておこう。頭まで隠した布団を男が邪魔そうにどけようとするものだから、僕は慌ててそれをもぎ取り再び頭まで隠そうと努めた。

「警察に通報されたくなかったら、大人しく被ってなさい!」

そういうと、なぜか男は大人しくなり、そのまま静かに眠ってしまったようだ。まぁ、僕としては都合がよいからそのままにしておき、部屋の明かりを消し、帰って来た弟の方へ行った。

「おっ……おかえり、比呂(ひろ)

「おう、姉貴もおかえり。相変わらず早いこってぇ」

嫌味を最近使うようになってきた弟。でも、やっぱり唯一の兄弟だから可愛いものは可愛い……たまに、いらっとするぐらいで。

「ヒロ、パパたち帰ってきたら僕は今日はご飯要らないって伝えておいてくれるかな」

「え?」

不審に思ったのは当然だろう。僕は食い意地がはってる。そんな僕がご飯を要らないというなんて……明日は雨とでも言いたいのだろう。

「なんで?」

その問いかけも、当然のものだった。僕は、頭をかきながら必死に言い訳を探していた。

「えっとね、その……ちょっとお腹の調子が悪いから、今日はもう寝ようと思って。だから、ヒロ、あんた食べていいから、あたしの分も……」

本当はお腹はぺこぺこだった。変に緊張しているから、余計にお腹が鳴りそうで怖い。弟は、ふーん……と訝しげな表情をしながらも、納得してくれたようで、僕は心の中で胸を撫で下ろした。


 さて、本当に問題なのはここからだ。


 自室に戻ってみたら、実は全て夢の出来事で、男なんて居ないんじゃないか……そんな都合のいいことなんかも考えてみたりもした。けれども実際は、やっぱり変わらなかった。男は先ほどと同じ体勢で、頭まですっぽり布団を被って眠っている。

僕は愕然とした。命を狙われていないということだけが、救いだろうか。でも、もしかしたら今は油断させておいて、僕が気を抜いた隙に……ということも考えられなくはない。

もう、どうしていいのか。何を選択するのが最善なのかが分からなくて、その場にへたり込んだ。

(どうしたらいいの……神様)

祈ってみたところで、返事は返ってはこなかった。




「おはよ~!」

翌朝、高校に向かって歩いている途中、後ろから肩をぽんと叩かれると同時に声をかけられる。声の主は顔を見ずとも分かっている。幼馴染の波留(はる)()だ。ハルカは小学校からの友達で、同じ団地に住んでいる。

高校は別なのだが、隣接して建っている学校同士なので、登校時にほぼ毎日の確率で彼女と出くわす。今日はほとんど一睡もしていない状態で今を迎えているため、僕はげっそりとしていた。その理由はあの青年にある。夢だと思いたいことほど、現実なのだということを実感してしまった。

「……ってば、聞いてる? ねぇ、亜珠那(あすな)?」

アスナ……僕の名だ。名前を呼ばれて僕はふと意識を取り戻した。幼馴染はずっと、僕に話しかけていたらしいのだが、彼女の声は僕の耳には届いていなかった。

「あ、あぁ……ごめん、何だった?」

僕は笑顔で応えた。笑顔は僕の売りだ。チャームポイントとかそういうものではない。僕の仮面なんだ。


『アスナはいつも笑顔だね』


 これまでに、何度言われてきただろうその言葉。


そう、僕は家の中以外ではたいていにこにこと笑顔でひとと接しているのだ。小学校の高学年辺りからはそれを意識して行っていたのだが、親が言うには、物心ついてからすぐに、僕は他人と家とでは別人を装っていたらしい。いわゆる、二重人格という奴だろうか。

 笑顔でいることには理由がある。僕の本当の心を見透かされないようにするため。また、相手に悪い印象を与えないため。そつなくその場をしのぐため。とにかく、色々な理由がある。

 今ではもう、癖になってしまっていて、家を出れば笑顔モードのアスナだ。それが、今日は昨夜の出来事のおかげでアスナ笑顔モード(自称営業スマイル)をうっかりしそこなっていたのだ。僕としたことが、何たる失態。

「だから、今度の日曜。一緒に遊ぼうよ……って話。私、部活休みだからさ」

彼女は僕とは違って部活に入っている。小学校の頃から続けているテニスだ。中学までは軟式テニスをしていたのだが、高校では硬式テニスをしているらしい。他人に興味がない割には、なぜだかそんなことまで知っている。

「あぁ……来週の日曜ね、日曜は……」

言葉を止め考える。予定なんて、空いていることは初めから明かだ。言葉を止める理由は、その誘いを断るための理由を考えるためだ。

「ごめんね、先客ありなの」

それも嘘。先客も後客もない。

 友達が居ないわけではない。毎日何をするのも一緒である友達が数人居る。女子というものはグループを作って、何をするのも一緒……というのが定番だ。例外ではなく、僕もひとつのグループに属していて、彼女達と生活を共にしていた。だから別に、昼食の時間に誰と過ごそうか……とか、休み時間の使い方なんてものに、頭を使わなくたってすんでいた。放課後になったら、真っ先に教室を出て、家に帰ればいい。


 では、なぜ馴染めないと思うのか?


それは、心を許せる友達が、そこにはひとりも居ないからだと思う。いや、そのクラスに限ったことではない。僕はこの人生において、心を許せる友をひとりも作ってはいない。

いや、出会っていないというべきなのだろうか……。そういう友に。そう振り返ると、僕は実に寂しい人生を送っているのだと思う。

誰かは言った。「友は一生の宝」……だと。本当にそうなのだとしたら、僕はまだ、宝を見つけていないということになる。まだ十六歳。宝を見つけるには早い年なのだろうか。

でも、もしも時期早々だというのならば、どうしてこんなにも心が寒いのだろう。孤独だと感じるのだろう。


「そっか、残念」

僕はいつもの営業スマイルで返した。相手の気分を害さないよう爽やかにその場をしのぐ。その後は、気まずい空気もなく取りとめもない話を繰り返した。

 僕の高校の方が手前にあるので、校門の前で友達に手を振り別々に歩き始めた。門には僕と同じ制服を着た生徒が集まって来ている。ちょうどみんながいっせいに登校してくる時間帯なのだ。僕もその流れにそって、校門をくぐろうとした。いつものように、ごく当たり前のように……。

 しかし、僕はそうすることなく足を止めることになった。突然青い光が目の前に広がったと思いきや、そこに居るはずのない人間、この場に似つかわしくない人間が目の前に現れたからだ。けれども僕は、その人物を知っている。知っているとまで言っていいのか分からないが、とにかく初対面ではなかった。

 きりっとした目が僕をとらえる。僕は目を思わず見開いて、その人物の目を見返してしまった。

「ど、泥棒さん……?」

そう、昨夜現れた僕の睡眠不足の原因である張本人。通称泥棒さんがそこに現れたのだ。シルクのようなさらりとした軽装、中国風な服を着こなし、風に髪を軽くなびかせながら男はそこに立っていた。

「レイドだと言っているだろうが」

あぁ、レイドって名前だったのかと、初めて理解した。だったらそうだと、はじめから丁寧に説明してくれればいいのにと、胸中でつぶやいた。

「あぁ、レイドさんでしたか」

「さん……などという敬称はいらん」

そんなことを言われても、どう見ても自分よりも年上でありそうなひとを、しかも初対面(……に近い)のひとのことを、いきなり呼び捨てできるほど、僕は傲慢な人間ではない。敬称なしの呼び方をするには、かなりの勇気と根性が必要だ。僕は、人知れないところで気合を入れた。

「……れ、レイド」

「何だ」

僕は焦った。何だと返されるとは予想していなかったからだ。焦りから鼓動が早まる。

 別に、用があって名前を呼んだわけではない。呼び捨てで名前を呼ぶんだという妙な使命感に駆られて、単に呼んでみただけなのだから。だが、相手は僕の次の言葉を待っている。とにかく何か言葉を続けなければならない。僕は次の言葉を必死に頭の中を回転させて探した。

「ぁ、えぇと……どうしてこちらに?」

未だ泥棒さんの線が消えていない彼に対して、どうして僕が丁寧な言葉遣いで応対しなくてはいけないのかも、謎なところである。

「どうして……? おかしなことを言う」

「す、すみません」

……って、なんで僕が謝るの? 僕、何かいけないことをした? 自分で自分に突っ込みを入れつつ、状況を把握しようと努める。

 少なくとも、僕よりは後に家を出たことは明らかだ。だって、僕が起きて家を出るまで確かに青年はまだ寝ていたのだから。パパたちは先に出勤しているから、僕の部屋に来ることはない。そう思って安心して男を残して僕も登校してきたのだ。それなのに、彼は僕より先に校内に居る。どこかで抜かされた覚えもない。

 いや、そもそもどうして学校にこの男がいるんだろう? 妙な格好をして、この男の職業は一体何なのだろう。役者で、趣味が泥棒。特技はものすごく足が速い……とか?

「あの、よろしければ僕の頭でも分かるように、説明していただけると嬉しいのですが」

ものすごく下手からたずねてみた。これだけ丁寧に言えば、相手も気分を害さないだろう。どうして僕が泥棒さんに気を遣っているのかは、依然として謎だ。

「まったく、今度の主は本当に頭が悪いようだな」

悪かったですね……とは、口に出さない。ただ、瞬間的に顔がひきつったのが分かった。

 言われなくても分かっていますよ、己の頭の悪さぐらいは。ごく一般の小・中学校を経て、ごく一般的な公立高校を受験した、ごくごく普通の女子生徒のひとりですよ。特に際立った特技もなく、何もかもが並み。そう、僕をひとことで表すのならば「並」であろう人間だよ。物分かりの悪さならば、誰にも負けない自信がある。

「お前が俺の主だからだろう?」

「はぁ……?」

まったく理解することができないのは、僕の頭の悪さなのだろうか。それとも、男の説明の仕方が悪いからなのであろうか。ちょっと分からなくなってきたぞ。

「さぁ、行くぞ」

「へ、行くって……ど」

どこへ……と、言い終わるのを待たずして、男、レイドは僕の右手を取り強引に引っ張ってきた。はじめから青年の力に勝てるわけもなく、僕は簡単にレイド側へと引き寄せられた。

「ちょ、ちょっと、行くってどこへ?」

当然である疑問をぶつけてみた。手を握られ、ドキっとした僕の心臓は、やはり大きな音を立ててなり続けている。

「ここは危険だ」

ここって、学校ですか? そういえば、ここは学校。校門。生徒やら生徒指導部の先生方がたくさん集まっている朝の校門ですよ。見知らぬひとが敷地内に入っているというのに、みんな騒がないのだろうか。注目をしたりしないのだろうか。先生たちは、取り押さえにこないのだろうか。今や色々な学校で用意されている、用心棒ことさす叉で。

僕は、この怪しい人物とは他人であるかのようなふりを今さらながらにして、レイドの手を振り切って下駄箱に向かおうとした。何もなかったことにしようと考えたのだ。知らぬが仏。臭いものには蓋をしろ……作戦?

 しかし、僕はこのときようやく自分がありえない場所に居ることに気がついたのだ。気づくのが遅すぎる。

「な、何これ……」

目の前に広がっている場所は、校門などではなかったのだ。たくさん居たはずの生徒の姿のカケラもない。


真っ白な世界。そこには、僕とレイドのほか、誰も存在してはいなかった。


これは、俗に言うワープというものですか? それとも、単なる夢ですか?


「どういうことなの? 真っ白……何もない、真っ白だよ!?」

「あぁ、白い。ここは狭間だからな」

何と何の狭間ですか。桶狭間しか、僕は知りませんよ?

「さぁ、行くぞ」

レイドは再び僕の手をとった。そのとき、瞬間的に自分の右手の甲に目がいった。すると、そこには見覚えのある模様が書かれていた。

 あの、ひし形の青色のお守りのようなものに描かれていた模様、いや、何かの紋章といった方が正しいだろうか。その紋章だった。それが、青白く描かれて僕の甲で輝きを放っている。蛍光ペンで書かれたものにしては、光りすぎだ。明らかに別のもので描かれている……というより、刻まれている?

「だから、行くってどこへ?」

「幻水国へ」

幻水国……? そんな国名、これまで生きてきた中で一度も耳にしたことのないものだった。ちょっとだけ、響きは中国のにおいを思わせるが。

「どうやって? 何をしに……何で僕が?」

昨日からとにかく謎でいっぱいだ。何から片付ければいいのか、もはや収縮不可能な気がしてきた。僕の問いかけに答えるつもりはないのか、レイドは黙り込んだままだった。ただ強引に僕の手を引っ張り、真っ白な意空間を突破するためなのか、走りはじめた……いや、飛び始めた!?

「僕たち、浮いてる!?」

どう見たって浮いていた。万有引力の法則に反している! それなのに、レイドは「どうした」と、それはまるでごく自然のことであるかのような素振りだ。

「あなた、何者なの!?」

昨日もした問いかけだった。しかし今度は確信めいているものがある。人間ではない、そう、頭の中に言葉が響いてくる。おそらくこの勘は外れていないだろう。

 そう、はじめから怪しかったんだ。窓が全て閉じられている密室状態の中に、突如として現れたこと。この世のものとは思えないほどの美貌を持ち合わせていること。その上、声までいいときた。

人間じゃないんだ、妖怪とか、妖怪とか、妖怪とか……。それ以外に思い浮かばないが、そういう存在なのだと悟った。

「俺か? 俺はレイドだと言っただろう。いい加減に覚えろ……」

珍しく、レイドが困ったような顔をした気がした。実際には僕はレイドの背中を見ている状態なので、顔を見ることはできないのだが、一瞬眉をひそめるような表情をしたように感じ取れたのだ。

「お前、名前は?」

今さらですか……と、胸中で突っ込みを入れた。ただ、僕のことを何て呼べばいいのか分からなくて困ったのだということは、物事に鈍感な僕にも分かった。

「僕はアスナ。アスナだよ、アスナ」

「三度も繰り返されなくとも、一度言われれば分かる。俺はお前とは違うんだ」

なんだかムっとする言われようだ。ひとが親切に教えてあげたというのに、その態度は一体何なんだ。こういう人間は、必ず通知表の右側、普段の行いの点数が低いはずだと、僕は勝手に偏見を持った。そういう自分はどうなのよ。

「悪かったわね! それでさ、レイド。僕が聞いているのはあなたの名前なんかじゃないの。あなたの職業と言うか……その、そもそもあなた、人間?」

今度はぶっきらぼうに、直球で聞いてみた。

「人間ではない」

ほら、やっぱり。僕の勘は正しかった。しかし、妖怪という部類に入れてもいいのかどうかは未だ謎だ。

「妖怪なの?」

「そんなちんけな存在ではない。俺は神だからな」

「そう、神……神!?」

さらりとレイドはとんでもない言葉を口走った。神って、あの神様!? 天照大神とかですか? それとも、マリア様とかゼウスとか、あちら系の神の部類ですか? 神社とかお寺は大好きだけど、神話とかに強いわけではない僕は、「レイド」という名の神なんて、とりあえず聞いたことがない。もしかしたら西洋神話などに登場してくるのかもしれない。

「西洋の神様で?」

すると、レイドは顔を少しだけ僕の方に向け、半眼で応えた。

「西洋? なんだそれは」

どうやら違うらしい……というか、やっぱり神話に出てくるような神様ではないと僕は判断した。

「分かった、分かりました。これは夢なんだ」

それなら話の筋が通るってものだ。夢の中でなら、僕だって空を飛んだ経験がある。気孔術などを使いこなしたり、アニメやゲームの世界にもぐりこんで、そこのキャラクターと肩を並べた経験だってある。だとすれば、こうして神様と夢の共演を果たしたって不思議ではない。

「夢ではない」

神、レイドは否定してきた。けれども今の僕は、もう、何を言われようが怖いものなしだった。だって、夢なんだから。起きればいつものベッドの上で目を覚まし、いつもの天井が目に入り、僕はいつもどおりに学校へと向かうんだ。

「夢でも嬉しいよ。レイド、綺麗だもん。レイド様に出会えて、嬉しいです」

「だから、夢ではないと言っているだろう。それに、従者に様を付ける主がどこにいる。いいから呼び捨てろ」

珍しくレイドは長い言葉を一気に読み上げた。そういえばはじめ、僕のことを主と呼んでいたっけ。神様の上に立つものって、一体何だろうと考えてみる。仏様と神様は、全く別物、別世界のものだと思うし……というか、事実別物だし。

「レイド、あなたはどんな神様なの? それで僕は、どんな神様の主なわけ?」

レイドの髪がなびき、僕の目の前で揺れている。漆黒の髪はとても綺麗で、さらりとしていた。

「俺は水神だ。お前は、水神を司る巫女だ」

水神と巫女……ファンタジーではありがちな役柄だ。なるほど、それでレイドの瞳は青いのかと、妙な納得を得た。たいていこういう場合、炎神とかが居て、それらの神と対決したり、もしくはそれらの神と手を結び合い、世界の敵、悪魔を退治したりとかするものだ。この夢の設定はどうなっているのだろう。

「ねぇ、炎神とかもやっぱり居るの?」

レイドがごくりと息を飲んだ。レイドの首に手を回しているから、喉仏が動くのを感知できたのだ。

「あぁ、居る。よく分かっているじゃないか」

やっぱりね。思ったとおりだ。これは夢、それに決定。

 夢の中で、これは夢だと自覚した経験もこれまでに何度かあった。だから、今回だって例外ではない。

「それで、その炎神と手を取り合って、悪魔を倒すの?」

とりあえず、後者の線を聞いてみた。この際、どちらを聞いてもレイドは頷くような気がしてきたのだ。だってそうだろう? これは僕の夢なんだから。思い通りになるに決まっている。

「何を馬鹿なことを!」

しかし思い通りにはことは運ばなかった。レイドは突然声を荒げた。僕は、思いもしなかった反応に戸惑いつつも驚いた。その際に思わず手をレイドの首からぱっと離してしまい、僕の体が宙を舞った。重力が働いている空間であることは、先ほど確認済み。このまま僕は地面に落ちるのだと思った。

 しかし、地面に転げ落ちる衝撃は一向に来ない……どこまでも白な世界を、堕ちていく感覚だ。レイドはふわりと浮いた程度。こんなにも地面が遠いはずがなかった。

 ふと目を下に向けてみると、どこまでも白と思っていた世界が、いつの間にか開けて、下に村が広がっていることに気づく。それに気づいたとたん、白は消え、空が目の前に広がった。

「嘘……ここって、空!?」

僕は今、空から地面に向かって真っ逆さまに堕ちているのだ。このまま頭から落ちれば即死は免れまい。夢で死んだらどうなるのだろうかという、嫌な疑問がわいた。

「だ、誰か……そ、そうだ、飛ぶんだ!」

夢の中ならば、飛べる。僕は飛べる、飛ぶんだ自分……と言い聞かせ、なんとかして落下から逃れようとした。しかし、飛べる気配はゼロ。重力に逆らうことなく、地面に向かって真っ逆さまだ。

「嘘、誰か助け……っ!」

もはや言葉にはならなかった。僕は叫びなのか泣き声なのか分からないような声を上げて、地面に向かって、いや、あの世に向かって距離を確実に縮めていった。


 地面への激突は避けられまいと覚悟を決め、目を閉じたその瞬間だった。


「……と、止まった?」

体のどこにも痛みはない。急激な落下が突然収まったのだ。僕の体は青色の光に包まれていて、ゆっくりと地面に向かって高度を下げていた。

 光の根源は、右手の甲からだった。またあの紋章が浮き出ている。この紋章にどんな意味があるのかは分からないが、とりあえず僕は一命を取り留めた。

 ゆっくりと地面に足を付けると、光は収まり通常通り重力が働き始めた。僕の身体は重みを感じ、足に力を入れて立った状態を保った。

 辺りを見回したところ、ここは江戸時代ぐらいの街並みを思わせる村の一角だった。この場に居合わせた村人たちは、一様に僕の方を見ている。どの村人も着物を身につけている。ちょっと過去の時代にタイムスリップしてしまったのだろうか。

 地面はコンクリートで固定されておらず、土を固めただけのものだった。まだ科学が発達していない頃の日本だ。一度は見てみたかったので、僕はとても感動した。高校の社会は日本史選択者だ。

「あぁ、こんにちは」

村人たちはひそひそと何かを話し合っている。僕のあいさつ、この時代では通用しないのだろうか。あれ、待てよ。僕はふと、どうして今まで気づかなかったのか分からないよう案疑問に駆られた。

(この人たち……なんか、日本人っぽく……ない?)

髪の毛が黒い人なんてどこにも居ない。せいぜい茶髪止まりだ。金髪が主なように思える。本当にここは日本、江戸時代なのだろうか。教科書で見る写真では、モノクロ写真とはいえ間違いなく黒髪黒目であったはずだし、彼らの血を引く現代日本人が黒目黒髪ならば、江戸のひとたちだってそうに決まっている。DNAの問題だ。

「あの、ここってもしかして日本じゃないんですか?」

誰も僕の問いに答えてはくれなかった。代わりに、鍬や鋤を持って、徐々に僕の周りを囲んで集まってくる。ちょっとちょっと、それって畑を耕したりするための農具でしょう? それを振り上げて、襲いかかって来たりしないでしょうね?

「で、出直しますので……」

一歩、また一歩。村人たちが詰め寄ってくるにつれて、僕は後ずさりをしていった。次第に水の音が聞こえてくることに気がつく。川が流れているのだ。僕は土手のところまで追い詰められてしまう。村人たちはどう見たって僕に友好的な感情は持ち合わせていない。むしろ、敵意むき出し。

 村人たちに袋叩きにされるのが先か、川に落ちるのが先か……。袋叩きと川に落ちるのとでは、どちらの方が痛いのだろう。できればどっちもごめんだ。

 そうだ、相手は英語圏の人間なのかもしれない。ならば英語で話せば通じるかもしれないと僕は思い直した。とはいえ、僕は英語がどの科目よりも苦手だ。小テストでいくらか英単語は記憶しているが、実践するのはこれがはじめて。果たして上手くできるだろうか。

 いや、これは夢なんだ。どうにかなるだろうと腹をくくった。英語の基本形はSVC。そのことを念頭に、僕はおそるおそる口を開いた。

「えぇと、I am not dangerousです」

べたべたな日本人英語だ。我ながら情けない。おまけに、どうも英語も彼らには伝わっていないような気がする。僕は仏語も中国語も喋れないぞ?

 意思の疎通をあきらめた僕は、じりじりと川へとの距離をつめていった。こうなったら、川に飛び込んでやる! そう思ったときだった。

 僕の目の前に、村人と僕とを分けるかのごとく青年がひとり現れた。青年といっても、レイドではない。髪の毛は銀に近い白髪。背格好からして青年だと決め付けたが、実際は僕に背を向けている形なので、性別も顔も分からない。ただ、村人たちに向かって何かを話しているようだった。その言葉は耳に入ってくるものの、訳すことはできなかった。それは日本語でもなく、英語でもないようだった。中国語でもないと思う。ここは、まったくの別世界なのだろうか。

 何かを村人に告げてから、青年と思われるその白髪の人物は僕の方へ向き直った。やはり青年だ。しかも、レイドに負けず劣らない美形の青年。年は二十歳前後だろう。服装も、色こそ違うが、レイドのものとよく似ていた。全体的に白を基調とした服だ。

 ただ、レイドとは違っているところは、穏やかで優しそうな赤色の瞳を持っていて、口元もにこやかなところだ。人の良さが表ににじみでているようだ。


 しかし、僕は知っている。いつも笑顔のひとの心の中には、孤独が広がっていることがあるのだということを。


「大丈夫ですか?」

「ぁ、はい」

青年は爽やかな笑顔を崩さないまま、僕の目をじっと見つめて声をかけてきた。声はあまり低くはない。しかしやはり顔に似合う美声だった。アルト声と名づけよう。不思議なことに、先ほどの村人たちとは違い、言葉が通じ合う。

 青年は笑顔のまま言葉を続けてくる。

「では、参りましょうか」

またまた、お誘いのお言葉をいただいてしまいました。生まれてこの方、ナンパなどを受けたこともないし、お付き合い経験もない。同じ日にふたりの男性からお誘いを受けるとは……さすがは夢だ。何でもあり。

「参るって、幻水国へ?」

レイドが行くと言っていた場所だ。国というだけあって、そこはどこかの国なのだろう。

 僕がそう言うと、青年はくすりと笑った。

「まさか。違いますよ、巫女さま」

それでも、巫女という地位は変わらないらしい。

「じゃあ、どこへ?」

青年は、変わらぬ笑顔で答えた。

「幻炎国です」

名前からして、幻水国とは正反対の位置にありそうな国だった。青年は、爽やかな笑顔を残したままで、僕の方に向かって左手を差し伸べてきた。手を取れということだろう。強引なレイドとは違う。

「その国は、幻水国とは敵対しているの?」

僕は直球で訪ねてみた。すると、おや、という表情を青年はして見せた。

「ご存知でしたか? 巫女さま」

一瞬表情を変えてから、再び爽やか笑顔に戻った青年だが、僕の目はごまかせられないよ。内心では、やられた……と、苦渋を噛んでいるのだろう。そんな彼の顔が僕の頭の中には浮かんでいる。ひとの心を読むのは僕の数少ない能力のひとつだ。本心を隠しながら生きてきた僕は、相手の本心を見抜く力をいつの間にやら見に付けていたのだ。

「そんな呼び方しないでよ。僕は単なる高校生なんだから」

「高校生?」

彼はまるでその言葉を初めて耳にした……というような顔をした。そして後を続ける。

「では、何とお呼びすればよろしいですか……?」

僕は、アスナでいいと答えた。それでも、かしこまった態度を変えるつもりはないらしい。

「アスナ様ですね。さぁ、アスナ様。参りましょう」

「様も要らないよ。ところで、あなたの名前は?」

そう訪ねると、彼は再び笑顔で答えてくれた。今度の笑みには、その裏にこめられたものなんてないのだろう。ただの笑顔。彼もまた、僕と同じで笑顔が癖になっているように感じる。

「サンマルス・レジェン・エルフォード」

な、長い。僕の頭では覚えきれない。どれが苗字で、どれが名前なのだろう。英語と同じならば、はじめの名前がファーストネームのはずだ。

「さ、サン……なんだっけ?」

おろおろとしている僕を見かねてか、長い名前の青年はくすっと笑って僕の手を取った。

「サンでいいですよ、アスナ様」

「じゃあ、僕のことはアスナでいいよ」

サンは首を横に軽く振った。

「いいえ、アスナ様は僕の主ですから。呼び捨てになどできるはずがありません」

また主ですか……と、内心で呟いた。一体この夢の中で、僕は何度誰かの主になればよいのだろうか。

 そもそも、この夢の終わりはどこなのだろう。両国の巫女になって、国を治めれば終わるのだろうか。それとも、何か悪の組織などを滅ぼせばよいのだろうか。レイドからそこを聞きそびれてしまった。レイドから離れてこの江戸時代風謎の土地に落ちてきてしまったけれども、レイドは再登場するのだろうか。なぜか、それが気になった。

「さぁ、行きましょう」

「待て!」

僕の手を握ったまま、サンは声のした方を振り向こうとはしなかった。まるで、声の主を見ずとも分かっているかのごとく。

「その手を離せ、レジェン」

それは確か、暫定ミドルネームだ。みんなからサンは、レジェンと呼ばれているのだろうか。

 声の主には、僕にも思い当たる節があった。出会って間もない彼の声だが、あの低音美声は、忘れたくとも忘れられない。そしてちょうど、彼のことを考えていたときだったからだ。


 レイドの声だ。


「やぁ、レイド。案外早かったねぇ」

面白いものを見つけたような含み笑みを浮かべながら、サンはレイドの方に目をやった。僕の手は、しっかりとサンに握られている。白い肌、整えられた爪。僕の手なんかより、ずっと女の子らしいことに、ちょっとばかし妬けた。

「早かったじゃねぇよ。ひとの主に手を出すな」

ひとの主って……あなた方が勝手に決めただけじゃないか。僕は別に、主になりますとも、なりたいですとも、まだ意志表示していないと思うのだが? 話は僕をよそに置いたまま進められていく。

「見つけたのは同時でしょ? おまけに、キミは途中で失敗した」

「失敗したのではない。その女が手を離しただけだ」

何の話をしているのか分からない。けれども、僕のことを話していることだけは分かった。だって、ふたりの視線は僕の方に向けられているから。

「同じことじゃないか。キミとは縁がないってことだよ」

一瞬レイドがひるんだ気がした。しかし、すぐに言葉を続ける。

「それはもう、俺と契約済みだ」

レイドは僕らの方に近づいてくるなり、僕の右手をまた強引に掴んだ。掴まれたその右の手の甲には、再び青の紋章が浮かび上がっている。

 それを見て、今度はサンが軽く舌打ちするのが聞こえた。この紋章にはなぜ、笑顔のサンを崩すほどの力があるのだろうか。僕はふと、その浮かび上がる紋章に目をやった。

「諦めるんだな、レジェン」

すると、サンは再び含み笑みを浮かべて僕の左手を空に向けて掲げた。一体何事かと僕はサンの目を覗き込んだ。赤く燃えるその瞳の奥には、なんだかとんでもないものを秘めている予感がする。

「あきらめないよ、レイド。お人よしの僕でもね、譲れないものがあるんだ」

そう言って、彼は何か呪文めいた言葉を口にした。あまりにも小声だったし、聞き覚えのない言語だったので、なんと言ったのかまでは分からない。

 しかし、その呪文が終わると同時に僕の目の前にはあの赤色のお守りが現れた。そして、現れたのを確認したと同時に今度は周りが赤色の光に包まれて、次に目を開けたときには、すでにそこには赤色のそれはなくなっていた。

 あっという間の出来事だった。

「何、何があったの?」

色こそ違えども、昨夜の出来事と同じに思えた。こうしてお守りから光が発せられて、気づいたときにはレイドが背後にそびえ立っていたのだ。昨夜と昨日とで違うところといえば、色。光の色と、第三者が見たことのない人物が現れなかったというところだろう。赤の光に包まれた後も、この場に居合わせたのは僕とレイド、サンの三人だけだった。

 しかし、僕は気づいた。レイドと同様に現れるべきものだった者が、サンであるのだと。なぜならば、僕の左の手の甲が熱を帯びて光っているからだ。そして、赤のそれに描かれていた模様、紋章が刻まれていく。燃え盛るような赤き光で。痛みはない。けれども、心臓がばくばくと音を立てて鳴っている。

 僕は、夢の中とは言え、何かとんでもないことに巻き込まれようとしているような気がしてならなかった。

「サン……あなたが、あのお守りの持ち主なの?」

サンは微笑んだ。それを、レイドは気に食わないという顔で見ている、いや、睨んでいる。レイドはもともとやや釣り目なので、凄みが増している。

「そうですよ、アスナ様。あなたはご聡明であられますね」

とんでもない、僕のどこが聡明なものか。同じことが立て続けに起こったんだ。想像できなくもないだろう。

「ふざけるな!」

声を荒げて怒ったのは、手に赤と青の紋章を刻まれた僕ではなく、レイドだった。

「その女は俺がはじめに見つけたんだ。俺と契約したんだ。それを、横取りしようっていうのか!?」

その女……。なんだか、僕は完全に蚊帳の外で、おまけに物扱いされている。ふたりの美青年たちが、なぜだか僕をめぐって争っている。はじめての経験だ……が、嬉しくはない。

サンは何も言い返さなかった。ただ、不敵な笑みを浮かべている。そして、僕の左手をぎゅっとにぎりしめてきた。

「ようやく見つけた巫女さまだ。お前などに渡すものか」

そう言うと、サンは右手の人差し指と中指を立て、再び呪文を唱えた。今度は僕にも聞き取れる、理解できる言語だった。

「全てをなぎ払う炎よ、彼のものを焼き尽くせ!」

表情とは裏腹に、穏やかではないその言葉に僕はぎょっとした。彼のものとは誰のことかと一瞬周りを見渡した。僕かレイドのどちらかしか、今はこの場に居ない。サンが現れてから、村人たちは自分たちの家へと身を引き返していたからだ。

 見渡すのと同時か、レイドに向かって炎が放たれた。燃え盛る炎は見る見るうちにレイドの周りを炎で埋め尽くしていった。

「離れてください」

炎から僕を遠ざけるように、サンは僕と炎の間に割って入った。熱くはないのだろうか……いや、そんなことを言っている場合ではない。このままでは、レイドが大火傷を負ってしまう。

 別に、レイドとは顔見知り程度で親しい仲でもないが、誰かが目の前で傷つくのを黙って見ていられない。僕はとっさに、炎の中に飛び込んで、レイドにしがみついた。

 その様子を見て、レイドもサンもとても驚いた表情をしていた。

「何をしているんだ!」

どちらからともなく、怒声がとんだ。サンはレイドほど声を荒げてはいないが、先ほどまでの涼しい彼の表情と声ではないのは明らかだった。

「サン、この炎はあなたが点けたものなんでしょう!? だったらお願い、今すぐにこの炎を消して!」

レイドを炎から匿うようにしながら、僕は懸命に声を張り上げた。身体が熱い。髪の毛の先がちりちりと焼き焦げていくにおいがする。それでも僕は、レイドを抱きしめたまま、離れようとはしなかった。

 それを見てサンは、渋々上に立てていた二本の指をふっと横に振り払い、炎を消した。サンからは笑顔が消え、怒るという表情でもなく、ただ「無」という表情をしていた。いや、かすかにだが落胆の気を感じる。

「何のまねですか、これは」

「何のまねじゃねぇよ、当然のことをしたまでだ!」

淡々と言い放つサンに向かって、僕はついついかっとなって声を荒げてしまった。いや、もはや「僕」ではない。「俺」モード。

「ふざけんなよ!? ひとの命をなんだと思っているんだ! 確かにレイドは常識ないし、俺のこと馬鹿とか言うし、ワケ分からないひとだけど、それでも、こんなことしていいわけがないだろう!?」


「僕」の中には「俺」が居る。俺は昔から多重人格だと思っていた。いつもはおとなしくて、目立たない、ごくごく普通の一般ぴーぽーを装って生きているけれども、熱くてがさつな「俺」という存在が内に眠っているんだ。いったん「俺」が表に出てきたら、しばらくは戻れない。端から見れば、暴走モードとも呼べる。


「俺」は「僕」とは違って血気盛んだ。


怖いもの知らずの勢いで暴走してしまう。

 

 そんな「俺」のことを、怖いと思いつつも……どこか羨ましい気もしていた。


俺の豹変ぶりに、ふたりは呆気に取られていた。この様は、どこからどう見ても「巫女」には見えないだろう。姿だけは女子高生の格好をしているが、今の俺はどう考えても「男」だ。「巫女」ならぬ「殿様」という言葉の方が似合っている。

「レイド、大丈夫か?」

俺はレイドの顔を見上げた。二十㎝ほど身長に差があるので、見上げなければ顔が見えない。その点、サンは俺と十㎝ほどしか身長が変わらない。見上げるまでいかなくとも、表情が見て取れた。

「……お前、人格変わってないか?」

助けてあげたというのに、レイドの第一声は、定番の「ありがとう」ではなかった。

「あんたもさぁ、仮にも助けてあげたというのに、第一声がそれですか。まったく、近頃の若者ときたら……」

お前だろ、若者は……と、すかさずレイドに切り返された俺。しかし、俺様モードはひるまない。

「うるせぇ! とにかくだなぁ、喧嘩はよせ」

「喧嘩ではない」

俺はレイドの口元に右手の人差し指をつきたてた。それ以上口を挟むな……という意をこめてある。

「黙れ。サン、あんたも何であんなことをするんだ。同じお守り仲間じゃないか」

「どんな仲間ですか、それは」

黙れと合図を送られたレイドではなく、これまで事の次第を黙って見守っていたサンが口を挟んできた。炎騒ぎを悪かったと思っているそぶりはなく、何やら面白げに俺の顔を見ていた。まるっきり劇の見物客と化している。

「僕たちは、仲間じゃありませんよ? ねぇ、レイド」

「名を呼ぶな! 貴様などに呼ばれたくなどない」

どうやら、犬猿の仲らしい。少なくとも、レイドから見ると。いや、サンから見てもそうなのだろう。彼の言葉にはどこか棘を感じる。

 のどかで日差しもほどよく、心地よい午後が、怒声でよどんでいく気がした。

「仲間じゃない? では、何なんだ。いい加減話せ。ワケわかんねぇんだよ、俺は」

俺はふたりと距離を置いたところに腰を下ろした。舗装されていない土を固めた道路だ。かすかにひんやりとした感覚が下から伝わってくる。ちょうど大木の木陰になっているからかもしれない。昨日が雨だったのなら、スカートに染みが出来るかもしれない。

「おや、ここに腰を据えてくれるのですか?」

嬉しそうに声をかけてきたのはサンだった。一方、レイドはどうも調子が悪そうだ。さらに機嫌も悪い。

「レイド、どうしたの?」

終わりは唐突にやってくる。俺様モードが静まり、「僕」が戻ってくる。

 俺様モードのときの記憶も、ちゃんとある。自分の内側から外の世界を見ている感覚なんだ。

「ねぇ、具合悪いの?」

レイドは応えなかった。けれども分かる……苦しんでいるのだと。

「レイド!」

叫ぶと共に僕は立ち上がり、自分でも驚く行動に出た。ただ呆然と立っていたレイドをぎゅっと抱きしめたのだ。身長的に言えば、抱きしめるというよりは、抱きついたという表現の方が正しいかもしれない。腕も自分の中に丸め込むようにし、レイドの背中にそっと手を回した。レイドの温もりが肌を通して伝わってくる。そして、レイドの鼓動が聞こえてきた。

 そして、僕はゆっくりと目を閉じた。

「大丈夫だよ、レイド。どうしたの? どこが具合悪いのか言って?」

先ほどまでの勢いはどうしたことか。突然態度が変わったことに、レイドとサンはどんな表情をしているのだろうか。僕は、目をそっと開けた。

 すると、再び僕はあの白だけの世界に居たのだ。いや、正確に言えば僕とレイドだけだ。サンの姿はなく、僕はレイドと共に、またあの不思議な白の世界に包まれていた。

「ここ……は?」

上を向くと、レイドの顔がある。先ほどまでとは違い、具合の悪さは感じられない。いつも(といっても、まだ出逢って時間がそう経っていないが)のレイドの姿だった。

「レイド……?」

僕が声を掛けると、レイドは僕に視線を合わせてきた。真っ直ぐなそのブルーの瞳に、僕は吸い込まれそうになる。サンとは違って、レイドには嘘がない気がする。何もかもが真っ直ぐで、見た目どおりの心を持っている。今は、心の中も波風立たず穏やかそのものだ。

「あの……さ。落ち着いた?」

僕はふっと笑みをこぼした。その姿がレイドの瞳にくっきりと映っている。レイドは、何を思いながら僕を見ているのだろうか。

「変な奴」

やはり、彼からは「ありがとう」という言葉は聞けないらしい。

ただ、その「変な奴」という言葉には、なぜだか優しさを感じたんだ。彼の目が、笑っていたからだろうか。無表情でぶっきらぼうに見える彼だが、根は純粋で優しいのではないか、と思った瞬間だった。

「変な奴で悪かったね」

僕はぷいっと顔をそらした。でも、嫌味ではない。

やはり一面真っ白。先ほどまであった大木も川も村も、何もない。レイドと喧嘩をしていたサンの姿もなかった。しかし、左の手の甲に目をやると、確かにまだ赤く刻まれた紋章が存在している。先ほどの出来事は夢ではないということだ。


 いや、この全ての出来事が夢だと思っているのだが……。


 先ほどこの真っ白な世界に飛び込んだときには、心のどこかで不安を感じていた。けれども今は、それを感じない。慣れたからなのか、レイドが居るからなのか、夢だと確信したからなのかどうかは定かではない。

「ねぇ、ここはどこなの? サンは?」

サンの名前を出すと、とたんにレイドは不機嫌になる。よほど彼のことが嫌いらしい。本当に彼の心はわかりやすい。読心家でなくとも、誰が見たって彼の本音は手に取るようにわかってしまうだろう。それだけ、純粋だということだ。

「ここは、次元の狭間だ。水に属するもののみが通れる道だと思え」

「水に?」

僕は不意にレイドの目を再び見た。空を思わせるブルーの瞳は、水を象徴する色だったのだろうか。幻水国へ連れて行きたいと言っていた。そして、サンは炎の瞳を持ち、幻炎国に連れて行きたいと。

「そういえば、レイドは水神だって言っていたよね?」

「あぁ」

「じゃあ、サンは炎神っていうこと?」

「……あぁ」

今の間は何だったのだろう。とにかく、頭の中がちょっとずつ整理できてきたぞ。

 まず、彼はレイド、水神である。なぜだか巫女と呼ばれる存在が欲しくて、僕を選んだ。そしておそらく、この手の甲の紋章が契約を示すものなのだろう。基本的に、ひとに対する接し方が荒っぽいのが特徴。

そしてサン。彼は炎神で、彼もまた巫女を欲している。彼は幻炎国に属するもので、レイドとは敵対関係にあるらしい。

 そして、この真っ白な空間は次元の狭間。水に属するものしか通れないということは、おそらくサンはこの道を通ることができないのだろう。彼は炎を使っていた。炎神なのだから、当然といえば当然。ここはレイドのテリトリーというところだろうか。

「ねぇ、レイドとサンはどうして仲が悪いの?」

レイドはむすっとした顔で僕をにらんだ。つりあがった目には、ただでさえ眼力があるというのに、そうするといっそう威厳が増す。

「仲が悪いなんて可愛いものではない。あれは宿敵だ」

僕はくすっと笑っていった。

「でも、レイドは手を出さなかったね」

サンはレイドに対して攻撃の刃を放った。けれども彼は、水神だというぐらいだ、力がないはずがなかろうに、反撃をしようとはしなかった。

「違う。出さなかったのではない、出せなかったんだ」

僕は首をかしげた。なぜ?

「あそこは幻炎国の領地内だ。水属性のものがそう簡単に足を踏み入れられる場所ではない。それに……」

「それに、何?」

レイドは僕の手の甲をじっと見ながら後を続けた。

「お前の力が弱いからだ」

僕は口をぽかんと開け、半ば驚いた表情になった。

 力を使うことに、どうして僕が関係してくるのだろうか。

「サンは力を使っていたよ?」

「だから、あそこはあいつに従う要素が多いからだ。巫女なしでも力が使える領域なんだ。だが俺は違う。相反する属性の土地、俺に味方してくれる要素なんてものはひとつもない。力を使うには、巫女であるお前の力が必要なんだ」

僕もレイドと同様、手の甲に視線を落とした。今は、赤の紋章よりも青の紋章の方が色を増して輝いている。ここが水属性のものの通り道だからであろうか。

「要素っていうのは……自然界にいる精霊とかそういうもの?」

「要素は要素だ」

説明になっていない。精霊なんていうファンタジーな要素ではなく、分子とか原子レベルの科学的な話なのだろうか?

「ねぇ。じゃあ、僕なんて必要ないんじゃないの? その幻水国の中ではレイド、僕なしでも力が使えるんじゃないの?」

「ようやく飲み込みがよくなってきたようだな。その通りだ」

レイドは嬉しげに僕の手を掴み、再び飛びはじめた。地面から足が離れ、体をレイドに預ける形となる。

「じゃあやっぱり、僕は要らないじゃないか」

お互い、自分の国に居る間は力が使える。それならば、自分の国で大人しくしていればなんら問題はない。

しかし彼らは僕を必要としている。それは、よその土地でも力が使いたいということを意味しているように聞こえる。

「要るんだよ。要らない奴を必要とする馬鹿がどこに居る」

レイドは短気。僕の頭の中のメモ帳に追記される。

「直に幻炎国と戦争がはじまる。お前の力が必要だ。幻水国に居る幻水隊のものたちも、外で力が使えるようにしなければならない」

待てよ……ということはだよ、僕は戦争のために使われるってことなの? 敵国の地で、自分の力を使えるようにするために、巫女である(?)僕の存在が必要だってことなの?

 幻水国の巫女でもなく、幻炎国の巫女でもなく、これじゃあ戦争をまねく危険人物じゃないか! 救世主、メシアならぬ破壊者サタンか!?

 僕は、戦争のない国で十六年間生まれ育ってきたんだ。僕が生まれる以前には、確かに何度も戦争をしてきたよ。けれどもようやく僕たちは気づいたんだ。第二次世界大戦で敗戦して、気づいたんだ。戦争の愚かさを、戦争の恐怖を。

 日本国民として、今まさに戦争が繰り広げられようとしているこの事態を、黙ってみていることなんてできない。夢の中の出来事だといえども、今の僕は巫女という立場なんだ。なぜだかは分からないが、神様の上に立つものだ。

 止めなくては。僕が止めなくて、誰が止めるんだよ。

「ダメだ。絶対反対、断固反対、戦争反対!」

「はぁ?」

間の抜けた声を上げたのは、レイドだった。何を馬鹿なことを……とでも、言いたげな表情だ。

「は、じゃないの。絶対ダメ! 言っておくけど、戦争になんか僕は加担しないからね。平和主義なの、日本は」

レイドは僕の手をぐいっと引っ張り、自分の体の前に僕を持って来た。そして、僕の肩をがっしりと掴む。その手には力がこめられており、肩から鈍い痛みがじわじわと広がってきた。「俺の話を嫌でも聞け」体勢だ。

「ここは日本なんて国じゃない。幻水国だ。お前は、俺たちに勝利をもたらす巫女なんだ」

僕は首を横に振った。いくら低音の超美声で、超綺麗な顔ですごまれたって、これだけは譲れないんだから。

「断固反対。断固戦争拒否。僕は平和主義の国で育ったんだ。認められるわけがない」

その国にどんな事情があろうとも、決してこれだけは譲れなかった。


 断固戦争反対。


世の中には、不穏な動きが色々ある。メディア各地で色々な報道がされる。記者の考え方、政府のお偉い方の意見が植え付けられていく毎日。けれども、それではダメなんだ。己の目で見て聞いて、正と偽を見分けなくちゃ。何が正しくて、何が間違っているのか、自分なりの考えを持たなくちゃ、ダメなんだと僕は思う。

そういう僕だって、一般ぴーぽーの代表者だ。周りのみんなより知識は乏しいし、政治経済にだって詳しくない。自分でも情けなくなるほど知識がない、情報不足だ。

でも、僕は旅行で行った沖縄のガマ、広島の平和記念公園や原爆ドーム、長崎の施設などを廻って、感じたんだ。「戦争は恐ろしいものなんだ」と。心の奥底からそう思ったんだ。痛々しい写真、生々しい遺物。それら全てからは、訴えるものを感じた。


戦争は、何があってもしてはならない……と。


今の世の中、何だかまるで、戦力、核を持つことが当たり前になってはいないか? 武力さえ持っていれば、何でも解決できるのだと思っていないかい? 僕は、それに賛成しかねる。いや、絶対賛成なんかしたくないんだ。

 戦争は、破壊だ。平和をもたらすものなんかじゃない。大規模な破壊で、ひとの命も、動物の命も、植物の命をも食いつくし、地球にも大きな打撃を与える最低最凶のものなんだ。


 そんなものを、許せるわけがない。


 「僕」の中で、何かがはじけた。


 アドレナリンが全身に滞り、頭にカっと血が上る。心には確かな想いが根付いている。いや、誓いだ。戦争を二度と起こさないと、記念公園で、沖縄で誓った「俺」の意志だ。

「絶対ダメだ。戦争なんてさせるものか」

低く呟き、そして俺は決心した。

「戦争させないために巫女になってやる。絶対、兵士にも、村人たちにも、血は流させない。幻水国、幻炎国、どちらにもだ!」

名前も何も知らない国。けれども、場所なんて関係ないんだ。世の中にあってはならないもの、それが戦争。ひとの命を奪い合う行為など、どこでも認めてはいけないんだ。

「俺にしちゃあ、どっちだって全然知らない、夢の中の世界だよ。だけど、夢の中だろうと何だろうと、みんな生きているんだ。その命をみすみす、奪わせるわけにはいかない。奪うことを許すわけにはいかない」

俺はキリっとした目でレイドを見据えた。レイドの瞳には、強い意志が燃え滾る俺の目が映っていた。強く、誰が何と言おうと意志を曲げないという目だ。

「これまでに、両国の間で何があったかなんて知らないよ。だけど、戦争は絶対反対」

これまで黙って俺の話を聞いていたレイドだが、ここでようやく口を挟んできた。

「そうだ。何も知らないお前が、口を挟むな」

俺は再びカっとなり、レイドに食って掛かった。これが本当に平和主義者の行動なのだろうか。いや、そうだ、きっとそうだ。暴力ではなく、話し合いで解決せよということを俺は教えようとしているんだ。

「だったら話してみろよ、その両国に起きたこれまでの出来事をさぁ」

レイドはしばらく沈黙し、目を閉じた。あれは、いつのことだったか……などと、頭の中で整理でもしているようだ。

「そういうことはあいつらに聞け」

しばらく沈黙した後に出た言葉がそれだった。

「あいつら?」

その刹那、僕らは首里城のようなところに出ていた。やはり到着ポイントは空らしい。僕は必死になってレイドにしがみついた、落ちないように。先ほどまでの勢いはどこへやら……。情けないが、自分の命も大切。身を守るために必死になってしがみついた。

 レイドは重力に逆らうかのように、ふわりと地面に舞い降りた。水神ではなく、風神なのではと疑いたくなる。

「それで……あいつらって?」

ずいぶんと長い間をおいてから、僕は地面に足を下ろして安心し、再び同じ質問を繰り返した。するとレイドは顎でその「あいつら」と思われるものを示した。

ここはどう見たって城だ。その城門から高価そうな着物を着た集団が出て来た。全員水色を貴重とした服だ。この国の軍隊だろうか。

「あれが幻水隊だ」

先ほど聞いた名だ。レイドと同じく、力を使えるらしい集団。

「レイド、お帰りなさい」

隊長らしき人物が剣を胸の位置まで掲げてレイドを迎えた。こんな状況に置かれたことのない僕は、どうしていいか分からずにうろたえる。こういうときこそ「俺様モード」であって欲しいというのに。いつの間にか、解除されてしまっていた。

「そちらの方は……」

見たところ、僕の着ているような紺色に水色のチェックのミニスカートのブレザー型の制服を身につけているものは居ない。物珍しいと同時に、怪しいものを見るかのような目が、いっせいに僕に向けられる。たまったもんじゃない。僕は視線を泳がせた。

「これは巫女だ」

サンとは違って、まるっきりの物扱い。相変わらずぶっきらぼうだ。

「巫女様ですか」

眼鏡をかけた、いかにも頭がよさそうな顔立ちの青年が、群衆の中から出て来た。茶色の髪の毛は胸のあたりまで伸び、後ろでひとつ結びにして肩から流している。瞳はやはりレイドと同じくブルーだ。しかし、レイドほど色の薄い青ではなく、どちらかと言えば海の色をしている。

「レイド、彼は誰?」

「この国の王佐だ」

王政国家なんだと、胸中で独り呟いた。王と巫女とではどちらが上なのだろうかとふと疑問に思う。巫女になって、断固戦争反対を貫こうとした僕だけど、王という絶対的な存在が居るのなら、僕がいくら何を叫んでも、変えられないものがあるかもしれないと不安になったのだ。

「レイド、教えて? この国で一番偉いのは誰?」

「巫女様。それは貴女様でございます」

ワンスモアプリーズ。今、巫女、つまり僕が一番偉いと言った? 返事は僕が答えを求めた相手からではなく、出会ったばかりの王佐から頂いた。

「お前は馬鹿か。神である俺より偉いのだから、お前が一番偉いに決まっているだろう」

一番偉いものに対する態度ではないだろう、レイド。キミがそんな態度だから、上下関係が分からなくなるんだよと教えてあげたい気持ちになった。

「レイドが仰るとおりですよ、巫女様。さぁ、国王陛下がお待ちです。玉座へご案内いたします」

待って、いきなり王様とご対面ですか!? 一般庶民がそんな、国王と会うだなんて……。どう対応して良いのかも分からない。だって、公立高校で一番偉い地位の校長先生が居る校長室にさえ、そう簡単には入れないというのに。僕は目を狼狽させた。

「あ、あの……僕は」

「どうした。両国の経緯を聞きたがっていただろうが。怖気づいたのか?」

レイドは冷ややかな笑みを浮かべながら僕の顔色をうかがった。あいつらに聞けって、王様とこの補佐官に聞けってことだったの!? そうならそうと、なんでもっと早く言ってくれないんだ。それなら聞こうとなんかしなかったよ。そんな無謀なことを誰が望むものか。王様から直に聞けるわけがない。ただでさえ僕はあがり症で人見知りだというのに。

どうして夢の中でこんなに気苦労しなくてはいけないのだろうかと、僕はこの夢を見させている自分の頭を恨んだ。

 僕は、言われるまま王佐の後に続いて玉座に向かうことになってしまった。王佐、僕、レイドの順に歩いていく。逃げられない。逃げたくても逃げられない。いや、逃げようと思ったところで、どこへ逃げればいいのかさえ分からない。

 そうだ、これは夢なのだから、いい加減に目が覚めてくれてもいいのに! こういうときに限って目は覚めないものなのだ。

「あのさ。僕、こんな普通の制服なんだけど……いいの? 王様に会うんでしょ? 失礼じゃない?」

望んだ言葉は、「確かにそうですね」だ。これで、王への謁見をとりやめてもらえないだろうかと期待を寄せる。

「失礼なものですか。とても珍しい服を身にまとっていられるのですね、巫女様は。もしやそれは、巫女様専用のご衣裳なのですか?」

いいえ、大量生産型の単なる公立高校の制服です。

「色々なお話を聞かせていただきたい」

色々な話を聞きたいのはこちらの方です。そして、何としてでも戦争を止めなくちゃ。ただ、何も国王から聞かなくても、その辺の方が教えてくださればそれで僕はいいのにと、胸中で呟いた。

「こちらになります」

重々しい扉が、門兵によって開けられた。

 王座までの道のりはそれほどなかった。石で作られた床をカツカツという音を立てながら歩き、門の前で足を止めた。

 開かれた扉の向こうには、広々とした部屋が広がっている。奥まで足を進めると、一段高いところに椅子があり、そこにはやはり茶色の髪に青の瞳を持つ青年が腰を下ろしてこちらを見ていた。石造りの床からひんやりとした感じが伝わってくる。

 おそらく、あのひとが王なのであろう。想像よりもはるかに若い。座っているし、少し遠いところに居るから正確な慎重は分からないけれども、おおよそ百七十センチというところだ。

 若き王は興味津々の様子で僕の方を見ていた。

「陛下、こちらが巫女様であらせられます」

陛下と呼ばれた若き王の目が笑った。子どもが新しいおもちゃを見つけたときに見せる笑顔に似ている。

「巫女様、あちらに居られる方が我らが国王、セリアス・リヴァール陛下でございます」

「セリアス陛下……ですか」

日本人離れした名前が続くと、片仮名言葉に弱い僕の頭は悲鳴をあげる。これから後何人の名前を覚えなくてはいけないのか、まだはっきりとしていないが、そろそろ危ない。把握できなくなりつつある。炎神サンのミドルネームは何だったかなと、ふと思った。

「巫女よ、名は?」

セリアス陛下の口が動いた。こちらもまた美声の持ち主。レイドほど低くはないが、男特有の低くしっかりとした声だ。とても美しく、のびやかだ。

「あ、僕はアスナ」

うっかりしりきれとんぼな返事をしてしまった僕。王様相手にこの言葉遣いではまずいだろう。そもそも一人称に問題がある。

「アスナか。それで、アスナ。黒髪黒目とは、この国のものではないな。へぇ、巫女は異世界から来るという言い伝えは本当であったのだな」

異世界から来る。これまた、ありきたりな設定だ。まぁ、これは僕の夢なんだ。僕の想像の範囲を超える出来事は起こらないのであろう。

「どこから来た?」

「どこ? 岐阜のはしっこです」

「ギフ? 聞いたことのない地名だな」

岐阜を知らない? しかし彼らは日本語を話している。ということは、ここは僕の夢の中での世界だという色が強くなってきた。夢とは都合よくできているものだ。

 しかし、先ほどであった村のひとたちの言葉は分からなかった。それはなぜだろうか。たまにはこういった不具合が生じるものが、夢というものなんだろうか。

「異国の者……いや、巫女。そなたが来るのを待ちわびていた。直に戦争がはじまる。先に巫女を手に入れようと、あちら(幻炎国)のもの達と競い合っていたのだ」

戦争。そうだ、僕がここに来たのは他でもない、夢の中であろうと戦争断固反対の意志を伝えるために来たんだ。「戦争」というその漢字二文字は、僕の日本国民的正義感を奮い立たせる。

 だが、ここは落ち着くんだ。まずは、戦争をなぜするのか。その理由を聞かなくてはならない。理由次第では、なんとか話し合いで片をつけようという意見に流れ込ませることができるかもしれない。

 もっとも、たとえそうならなかったとしても、話し合いではどうにもならなさそうな場合であっても、僕は断固戦争反対を貫く気ではいるのだが……。

「ねぇ、僕はそれを聞きに来たんだ。どうしてその、幻炎国と戦争をしようとしているんだ? 原因って何なの? 貿易摩擦? 宗教関連?」

「どうして戦争をするのか?」

国王はどこか楽しげに僕の言葉を反すうした。

「どうして戦争をするのか……か。考えたこともなかったな」

くすくすと笑い、やがてそれは声をあげた本格的な笑い声となってこの場に広まった。屈託のないその顔は、本当に子どもそのものだ。

 楽しそうな国王とは対称的に、僕の心はじりじりと熱を帯び始めていた。戦争のことを話題にして、笑える者の神経が分からないのだ。

 考えたこともない。つまり、理由もなしに戦争をしようとしていたということなのか。見たところ、彼が政の実権を握っているとは考えづらい。もしも握っているとしたら、かなりの馬鹿殿様だ。任せている家臣も家臣だ。このような王を持つ国民とは、どういった心境なのだろうか。

「考えたこともない? ならば考えて。そして戦争はしない、そう言いなさい」

僕は一歩前に出てそう言った。齢十六歳。すごみを聞かせても女の僕では威厳も何も感じられないだろう。

「巫女様、それはできません」

そう言ったのは国王ではない。僕の後ろに控えていた王佐だ。そういえば、まだ彼の名前は聞いていない。

「幻炎国とは、昔からの大敵国。焼かねば我らが国が焼かれるのです。ご承知願いたい」

やられる前に釘を討て。冗談じゃない。

「いいえ、承知などできません。僕は断固戦争反対主義者なんだ。誰がなんと言おうと僕は戦争なんてしない」

「しかし、それでは我が国が……」

僕はびしっと右手の人差し指を一本王佐の前に突き立てて言った。鎮まれ……の意味がこめられている。

「戦争はしない。つまり、相手にも攻撃なんてさせない。だって、戦争をして何が生まれると思う?」

「この国の平和と奴隷が増えますね」

僕はちっちっちと指を左右に振り、それをあっさりと否定した。

「違うね。戦争が生み出すものは、怒り、憎しみ、悲しみ。拭いきれないほどの傷痕だけだよ」

僕と王佐のやり取りを、国王は面白そうに眺めていた。まるで自分は関係ないかのように。まるで自分は、第三者かのように。


 そうしているあなたが一番の当事者なのだと言ってやりたい。


「僕は知っている。怒り、憎しみ、悲しみがあふれ出すと、それはまた新たな争いを、戦争を、多くのものの死をもたらすということを。テレビや新聞、学校の授業で目にしてきた。学んできたんだ。だから言う。何度でも言うよ。断固戦争反対だとね」

テロなんてものが、よその国ではよく行われている現代。それは、最悪の形のデモだとも言えるだろう。テロによっても、尊き命が多く失われる。

それに対して、報復だと仕返しをする国もある。だけど、やられたからといって仕返ししていいはずがない!


そうやって、恨み辛みを増やしていって、一体なんになるんだよ。


甘ったれた理想かもしれない、平和ボケな考え方かもしれない。だけどさ、戦力なんて捨ててしまい、平和を唱えようよ。どの国も、武器を持つな……戦力を持つな。


僕が神になったら、真っ先にそうしたいところだよ……。


戦争なんて大嫌いだ。

断固戦争反対!


そういう僕だけど、僕は別に、戦争を経験したこともないし、実を言うと僕のふたりのじいちゃんも、先の大戦で出兵はしていないんだ。でも、ばあちゃんたちからよく聞いたよ。「持ちたくもない竹やりの訓練をさせられたりしていたものだ」……とね。学校へ行っても、学ぶことはひとの倒し方だ。そんな悲しい現実に、僕は直面したくはない。


僕もさ、飛行機の音を聞くだけで、ぞぞぞっ……とすることがあるんだ。戦争がはじまったんじゃないか……そう思って、体が強張る。すごく怖い。


理不尽に誰かの命が消えていくことには、どうしても堪えられないんだ。どの命もが、大切で、尊くて、かけがえのないものなんだ。

だから絶対に、戦争なんていう馬鹿げたもので失わせたくない。ひとがひとを殺すなんて……馬鹿げているにもほどがある!


武器のない、戦力のない、平和な世界。


誰もが望んでいるはずだろ?


僕たちが望んでいるのは、戦力を持って戦争が起きるのを防ぎ、戦力を持ったものの独裁を許した、偽りの平和な世界なんかじゃない。僕は、確かな平和が欲しいんだ。確かな平和がどこの国でも、どこの場所でも存在していて欲しいんだ。

戦争が存在するうちは、いつか大切なひとの命が馬鹿げたことで奪われてしまうんじゃないかって……不安になるんだよ。


みんなは子孫に、何を残すつもりなんだ。戦争で、破壊しつくされた地球を残すのか?


もうやめようよ。戦争で、お互いを、地球を傷つけあうことは。


そういうニュース見るだけでも、心が痛むよ。


ひとの命を奪う権利なんて、誰にもないんだ!


「どうやって幻炎国が攻撃をしてこないようにするのだ? 巫女」

頭上から声が響いてくる。今度は第三者として楽しんでいた国王の声だ。僕は向き直り国王と目を合わせた。戦争回避の僕の意見を聞きたくないわけではないらしい。聞く耳を持った王様でよかったと、僕は内心ほっとした。

「話し合いしかないじゃないか。僕らは人間だ。言葉を持つ種族だ。話し合えばいい」

すると、再び国王は声をあげて笑った。本当にこの国王は、これから戦争がはじまるかもしれないというときに、よく笑っていられる。自分は戦場へ赴かなくてもいいからなのか? きっとこの国でも、戦争の現場へ実際に送られるのは兵士たちなのであろう。将来のある若き兵士たちを送り込むつもりで居るのだろう。

「確かに我々は言葉を持っている。だが、同じ言語とは限らないであろう?」

僕は眉をひそめた。

「どういうこと?」

「オレたちは知らない。幻炎国の言葉など」

「オレたち」とは誰のことを示しているのだろう。この国にも外務省だか外交官だかはあるはずだ。誰かひとりは、幻炎国の言葉を知っているものが居るに決まっている。ひとりも居ないなんて、そんな馬鹿なことがあるわけない。

「あなたは? 王佐、あなたも知らないの? 幻炎国の言葉を……」

僕は後ろを振り向き王佐の顔を見た。これまた、二十代後半ぐらいであろう若き王佐。彼は困ったような顔をして答えた。

「もちろん、あのような野蛮な国の言葉など、心得てはおりません」

野蛮って、戦争をどちらも仕掛けようとしているのならば、この国だって野蛮と呼べるのではないか……と、胸中で毒づく。

「じゃあ、この国に外交官は居ないの? 幻炎国の言葉を操れるものは居ないの?」

「当然でございます」

僕は呆れて天を仰いだ。なんてことだ。誰ひとりとして相手の国の言葉を知らないなんて。もしかしたら、あちらの国、幻炎国でも同じ状況が起きているのかもしれない。だからこそ、話し合いという手立てが思いつきもしなかったのかもしれない。

 誰かが取り合わなければならない。相手の国の言葉もこちらの国の言葉も分かる誰かが。

「勉強だよ。居ないのならば、勉強からはじめるしかない。相手の国の言葉からはじめて、歴史や現在の経済状況も学ぶんだ。そうして、援助できることは援助して、手を取り合い助け合っていくんだ!」

僕は声を荒げてそう訴えた。この国で一番偉いのは、確か巫女と呼ばれるこの僕だ。ならば僕の意見を聞き入れるはずだ。

「どうやって学ぶというのだ。ここにはあの国に関するものなど、一切ないんだぞ?」

僕はさらに呆れた。何なんだ、この隔離された国は。何の情報もなくよく今までやってこれたものだ。巫女を待ち続けていたと言ったが、一体何年このような体制でやってきたのだろう。ありえない、現代日本人である僕には考えられない出来事だった。

 だってそうだろう? 昔は日本だって「鎖国」なんてことをしていた時代だってあったさ。でも、あの時代だってごく一部の場所において、限られた国においては貿易を認めていたし、英語やオランダ語なんかも入って来ていた。弾圧は受けていたけれども、宗教だって入ってきていた。しかし今では鎖国も終わり、見事に文明開化。欧米化が進み、英語なんて義務教育から行われるようになった。他国のことだって当たり前にニュースで流れるし、テレビだけではなく携帯電話により情報収集することも出来る。さらに、世界中がネットという社会で繋がっているんだ。最近ではツイッターなんていう、簡単に自分の今の状況を知らせることが出来るものが、ちまたで流行っている。

 しかしこの国には、言葉が流通していない……こと以前に、相手の国のものが一切ないと来た。当然貿易なんてこともしていないのだろう。国交ゼロでいきなり戦争。どういう頭をしているのだろう。

「ありえない……」

僕は頭を抱え込みその場にしゃがみこんだ。考えなくては。何とかして国交を成し遂げないと。もし、それができないとしても、戦争だけは回避しなければならない。

 しかし、どうして僕が巫女なのだろう。本当に僕は巫女なのだろうか? 秀でた才も何も持たない平凡な僕が、敬われる巫女? これもまたありえない。

「王佐、あなたたち……誰かと間違えてない? 僕はこれといった取柄もないし、特技もない。この国の力、水神力なんていうものも持ち合わせてなんかいないよ」

王佐は再び笑みをこぼした。まるで戯言を聞いているかのような反応だ。

「ご謙遜を。貴女様は確かに巫女様です。ほら、こちらにその証があるでしょう?」

そう言って、王佐は僕の右手の甲に目を向けた。つられて僕もそちらに目をやる。そこには、青く輝く紋章があった。

「あぁ、これは……僕にもよく分からないんだけど」

そのとき、王佐がぴくりと眉をあげるのが分かった。彼の目が、僕の左手の甲に目がいったときだった。

「これは……」

そこには、赤く輝く紋章がある。サンによってつけられた紋章が……。

「面白いことになっているだろ?」

今までだんまりを決め込んでいたレイドがはじめて声をあげた。あからさまに嫌味を含んだ声だった。面白いことにと言っておきながら、顔は笑っていない。どちらかといえば不機嫌そのものだ。

 レイドは僕の左手首を持ち上げて言った。

「この馬鹿主はこともあろうに、あのレジェンとも契約してしまったんだ」

レジェン。サンのミドルネームはレジェンだったと思い出した。彼とサンは仲が悪いようだったし、そういえば、サンは僕を幻炎国へ連れて行こうとしていたことが同時に思い出される。彼も僕のことを巫女と呼んでいた。僕はあちらの国の巫女でもある……ということだろうか。

「な、なんていうことを……」

王佐は急に立ち上がり、青ざめた顔をして僕とレイドを交互に見ていた。

「俺に責任はないからな。俺は確かに、この主をあいつよりも先に見つけ、契約を済ませたのだから。落ち度はない」

レイドは僕をにらむような目で見ると、ふいっとそっぽを向いてしまった。こういう様子を見ていると、彼のことが自分よりも年下に思えてきてしまう。実際の年齢は不明なのだが……。神様ということだけあって、若く見えて実は相当の長生きをしているようなイメージはあるのだが、彼はそんなにも人生経験をつんでいるようには思えない。

「レイド……落ち度はないと仰いましても、これは一大事です。この巫女様は、あの忌まわしき幻炎国の巫女でもあるということなのですよ!?」

あぁ、やはりそうなのかと僕は頭の中で思った。しかし、そのことがここまで大騒ぎするようなことなのだろうか。ただ両手に変な紋章がつけられているだけではないか。僕に力がないことに変わりはない。

「だが、主の身柄はこちらにある。確かに連れてきたではないか」

レイドは面白くなさそうな声で続ける。王佐に叱られてしょげているのだろうか。可愛い神様も居たものだ。

「レイドの言う通りだ、ミラシカ。巫女はこちらの手の中だ」

ミラシカ。それがこの王佐の名前なのだろう。変わった名前が次々と出てくる。

「しかし、陛下……。早急に軍を整え、戦争の準備をしなくては」

僕はその言葉を聞いて王佐と国王の会話に割り込んだ。ちょっと待った……だ。

「冗談じゃない。さっきから言ってるだろ!? 僕は戦争には断固反対なの。絶対にさせない! 国王の命令だろうがなんだろうが、絶対にさせない」

動悸が激しくなる。興奮している証拠だ。体中の血液が一気に逆流をはじめたかのように心臓が脈打っていた。

「あちらだって、戦争をする気満々だろう。レジェンがこちらの手に巫女が渡ったと向こうの王に伝えているだろうからな。出遅れれば、巫女の力があるにしても、取り返しのつかないことになりかねない。多くの犠牲も出るだろう」

政治になど一切興味ないと思っていたレイドが答えた。意外な方から聞こえてきた声に僕は言葉をつまらせる。

「どうするんだ? 巫女。戦争はしない。こちらがそう決め込んでいるうちに、向こうが攻めてきたら。お前は民を守れるのか? 何十万という民を」

試しているんだ。僕はレイドの口調を聞いてそう感じた。彼は民のことを考えてものを言っているのではなく、巫女である僕の力量を測ろうとしているのだ。

馬鹿、馬鹿……と連呼しているものだ。本当に無能だったそのときには、この国で一番偉いといわれている巫女の僕の言葉などに耳をかさず、戦争に踏み切るつもりなのだろう。彼は仮にもここの神だ。

 政治経済。社会科の授業で勉強して、身についたかどうか怪しい程の知識しかない。果たして僕に、彼らを踏みとどまらせて、あちらの国にも戦争をさせないようにと食い止めることができるのだろうか。

「守ってみせる。戦争は、ひとの命を守るものではない。戦争はひとの命を……」

僕はひと呼吸置いて、低く押し殺した声で後を続けた。

「ひとの命を、奪うものだ」

その声が王座の間に響き渡ってから、しばらくの間、口を挟むものは居なかった。


 その静寂を破ったのは、今ここに居る誰でもない。銀髪に近い白の髪に、燃えるような赤い瞳を持った青年だった。彼は突如として現れ、僕の前にそびえ立った。

「お取り込み中のところ、失礼しますよ?」

くすりと微笑むその顔は、温和で優男を想像させる。しかし彼の心の内は分からない。牙を剥いた獣を飼っているかのように、僕の目には映る。


 サンだ。


「何奴!」

この国のひとたちは、見たことがないのだろうか。敵国の神様のことを。これだけ敵意識を持っているというのに、相手国の実態を、本当にまるで知らないんだ。

「レジェン!」

敵対している国の神、サンの姿すら知らない。言葉も知らない。それなのに、どうして滅ぼしあおうとしているのだろう。

 そういえば、国王は戦う理由さえ考えたことがないと言っていたことを僕は思い出した。

「レジェン……と言いますと、あなたが幻炎国の……」

王佐の顔つきが変わった。サンが敵対する国の神だということに気づいたらしい。周りでは、待機していた軍の隊長と思われるひとが部下に手で合図を送り、こちらに呼び寄せている。茶色の髪に青の瞳の兵隊たちが続々と王座のあるこの部屋に向かってきた。

「多勢でのお出迎え、ありがたいねぇ」

「レジェン、貴様……なぜここに!」

レイドは僕の腕をがっしりと掴み、自分の背中に僕を回した。僕を守ろうとしてくれているように見える。嫌味なことしか言わないし、馬鹿者扱いしている割に、大切にしてくれているようだ。それは、僕が彼にとっての、この国にとっての巫女だから……なんだろうけれども。

「なぜ? 無粋な質問だね、レイド。当然、その巫女さまをお連れに来たんだよ」

やはりどこか影を落とした笑みを浮かべ、サンは僕との距離を縮めてきた……とはいえ、僕とサンとの間にはレイドが居る。僕はレイドの背中ごしにサンの姿を見ていた。

 周りの兵士達がサンに向かって次々に呪文を唱えたり、槍や刀を持って突進していく。軽く二十人は居るだろう。これだけの人数を前にしても、サンは臆することなく笑みを続けている。

「こんな下っ端兵士に何ができるの?」

そういうと、彼は胸の前で右手拳を作り、ぐっと力をこめた。すると、手に赤色の光が宿る。その強く光る赤色を握り締める形で拳を作りながら、その手を上に突き上げた。

 それを見ていち早く動いたのはレイドだった。同様に胸の前で拳を作ると、すぐさま右手をサンに向かって突き出した。ただ違うのは、レイドの手からこぼれる光は青であるということ。

「防壁!」

レイドの低い声と同時に、レイドの前には空を思わせる色の光の壁が瞬時に作り上げられた。そしてその刹那、握り締められていたサンの右手が開かれ、炎の刃が室内を飛び交った。その刃は的確に兵士達を貫いていく。


 戦争だ。僕は身体が強張るのを自覚した。


「他国でも力が使えるとは……やはりお前は、幻炎国の……」

苦々しい表情で言葉をつむぎ出したのは王佐、ミラシカだ。王佐と国王の周りには、サンに立ち向かっていった兵士たちよりも一段とよい制服を着た軍人が居てふたりを守っている。おそらく、実力者なのだろう。

「そのとおり。僕は炎神さ。もっとも、答えてやっても言葉が通じないだろうけどね」

僕はきょとんとした顔になった。言葉が通じない? サンもレイドも王佐も国王も、みんな日本語を喋っているというのに?

「分からない……という顔をしているね、巫女さま」

サンは多くの兵士を地面にひれ伏させながら笑みを僕に向けた。彼は血しぶきの一滴もかぶってはいない。彼の間合いに入る前にみな炎の矢で貫かれていくのだ。倒れた兵士達は死んでしまったのだろうか、それともただ、傷を受けて倒れているだけなのだろうか。後者であって欲しいと僕は必死に願った。そうでなければ、これだけの人数が一気にここで命を落としたことになる。僕の目の前で、先ほどまで元気にしていた人たちが……だ。

「僕は幻炎語を話しているからね。キミたちの操る幻水語とは全く違うものです」

僕はかぶりを振って否定した。

「レイドもサンも、ふたりとも日本語を喋っている!」

するとサンはまた、楽しそうに笑った。攻撃してくる兵士を、迎撃しながらだ。どうしてひとを傷つけながら、彼は笑えるのだろう。僕は唇を噛みしめた。

「いいえ、巫女さま。僕もレイドもニホンゴというものを話してなどいませんよ。あなたは僕たちふたりの力を受け継いでいます。それゆえに言葉が通じるのでしょう。しかし、ここに居る雑魚共は違う。母国語しか分からない身ですから、僕が何を言っているのか、理解など到底できないでしょうね」

僕はレイドの背中から身を乗り出し、サンをにらんだ。しかし、すぐさまレイドが体勢を入れ替えて僕の前に出る。必死にかばってくれているようだ。

「雑魚って何、雑魚って! 同じ人間を、なんでそんな呼び方をするんだよ!」

それでも僕は、体が震えるのを堪えながらも声を張り上げた。

「同じ人間? 巫女さま、僕は神ですよ。それに、百歩譲って僕も人間だということにしたとしても、彼らは忌まわしき水の民。尊き炎の民とはまるで違う」

何が違うというのだ、何が。誰だって、傷つけられれば血を流す。そして、誰もが誰かの子であり、誰かの親である。みな平等だ。人間として生を受けたものたちだ。命はみな尊いものでなければならない!

「違う。水の民も炎の民も一緒だ。命に差なんてない。すべてが平等に尊いものだ!」

僕は、声をさらに荒げた。

怒りを通り越して、だんだん悲しくなってきた。目頭が熱い。どうしてこんなことも分からないのだろうと嘆きたくなる。僕が当たり前だと思ってきたことが、ここでは何も通じない。

「いいえ、違います。尊いのは炎の民です。さぁ、巫女さま。参りましょう」

サンは手を差し伸べてきた。しかし、それをレイドが払いのける。

「この巫女は俺の主だ。お前の好きにはさせない」

守りに徹して口を挟まなかったレイドが、ついに口を挟んできた。レイドが緊張している……彼の顔のこわばりが、それをたやすく読み取らせてくれた。今までにない、彼らしくない表情だ。先ほど村でサンと対峙したときには、このような顔を見せてはいなかった。

「頼りない護衛だねぇ? そんなに固くなって、僕のことがそんなに怖いかい?」

サンは冷徹な笑みを浮かべた。思わず背筋に冷たいものが走る。サンはやはり違う、温和で優しい男などではない。彼の目は、血に飢えた獣の目をしている。いや、血なんて感じない、何よりも冷たい輝きを発している。

「刃よ」

サンは短くそう呟いた。すると、彼の手の中に、刃が炎で包まれた剣が現れた。そして、間髪入れずにレイドに斬りかかって来た。レイドは僕を横へ押しのけると身体を瞬時に左側にひねり、その切っ先を交わした。しかし、刃にまとわりつく炎がレイドの服をかすかに焦がした。

 レイドもまた、同じ言葉を呟き手の中に剣を作り出す。彼の剣は氷で出来ているのだろうか。冷気をまとった剣が現れる。そして、眼前にまで迫っていたサンの刃を寸でのところで受け止めた。かちりと刃と刃が音を立ててぶつかり合う。

「巫女様、こちらへ」

ミラシカが手招きをしているのが見えた。この隙にどこかへ逃げようというのだろうか。何十もの若い兵士達を見捨てて、レイドを見捨てて……。


 そんなこと、出来るわけがない。


「よく受け止めたね、レイド。では、これはどうかな」

サンの猛撃に拍車がかかった。素早い動きでレイドに斬りかかって来る。右から、左からと繰り出されるその剣筋を前に、レイドは防戦一方だ。その顔には余裕がない。

「ダメ! レイドやみんなを、放ってはおけない!」

ミラシカは、そう言って拒む僕の腕を強引に掴んで言った。

「いいえ、なりません。今ここで貴女様を失ったら、この国は終わりです」

僕を掴む手の力が増す。ミラシカの顔からも、笑みがすっかりと消えていた。

「陛下はすでに別の場所へ避難されました。貴女様もどうか身をお隠しください」

僕はなだめる王佐の手を振りきり、首を横に振った。

「できない。みんなを見捨てるなんてこと、できないよ!」

僕はミラシカを勢いよく突き飛ばして距離を置くと、一気にきびすを返して走りだした。ミラシカに再び手をつかまれないうちに、あそこへ行かなければならないからだ。激戦を繰り広げている、レイドとサンの元へ。

 僕が行ったところで、何もできないかもしれない。攻撃の手をやめないサンを止めることなんて、できないかもしれない。でも、このまま黙って見過ごすことなんていうことは、もっとできなかったんだ。

 怖い、確かに怖いよ。ひとが血を流して僕の周りに倒れている。それだけでも卒倒しそうだ。足元から心の芯まで震える。けれども、僕は足を止めなかった。

「やめろ! もう、こんなことはやめてくれ!」

サンが上から剣を振り下ろそうとした瞬間に、僕はレイドとサンとの間のわずかな空間に体を割り込ませた。サンは驚いた顔をしたが、振り下ろされはじめていた剣の軌道は、もはや変更不可能。僕めがけてそれは襲い掛かってきた。

(斬られる……っ)

そう覚悟して目を固くつむった。次に訪れるべき衝撃に耐えるためだ。いや、耐えるどころか、それを味わう前に絶命する可能性の方が高い。

 しかし、一向に刃が体に食い込む感触は得られなかった。どれだけ目をつむっていても、次の予想される衝撃は訪れない。

 僕は何が起きたのかと目をゆっくりと開けてみた。背中が見える。肩幅が広く、がっしりとした男らしい背中だった。

 僕の目の前で、その背中がぐらついた。そして、黒い髪の毛が僕の目の前を舞う。

 

それは、レイドの背中だった。

「ぇ……」

何が起きたのか分からない。レイドの前に立ったはずの僕が、目を開けたときにはレイドの後ろに居る。そしてそのレイドは今、僕の目の前で崩れ落ちた。


 床を見ると、鮮血が飛び散っていた。赤、どこまでも赤い血。


 そう、彼は僕を庇ったんだ。身を挺して。


「レイド……っ!」

僕はしゃがみこみ、必死にレイドの体をゆさぶった。こうするべきではないのかもしれないが、冷静な思考回路なんてとうに壊れていた。頭の中が真っ白になり、僕はレイドの名前を叫び続けながらレイドの体をゆずぶった。

 心なしか、レイドの体がどんどん冷たくなっていくような気がした。僕はどんどん怖くなる。自分のせいで、自分が余計なことをしたせいで、ひとつの命が消えようとしているのだ。

「やだ、やだよ。お願いだから死なないで!」

傷口に手を当てた。あふれんばかりの血液は、止まりそうにもない。傷口は、僕の両手でふさいごうとしても、ふさぎきれないほどの広範囲に及んでいた。僕は制服の上着を脱いで、それをレイドの傷口に当てる。しかし、それでも血は止まらない。

「あっけないですねぇ」

含み笑いを浮かべながら、サンは僕らを、いや、レイドを見下していた。

 悲しみを通り越し、今度は怒りがこみあげてきた。血が頭にまで上っていく。そして僕は、両手に拳をつくりながらゆっくりと立ち上がった。

「さぁ、巫女さま。参りましょうか」

この惨事を前に笑顔を絶やさないサンを見据え、僕は意識が遠のいていくのを覚えた。


「神であろうとなかろうと、他人の命に手をかける行為を許してはおけない」

黒い髪に右目が青、左目に赤を持つ容貌。俺はレイドに向けて右手の手の平をかざした。すると、青い光が現れ、それがレイドの傷口を覆っていく。すると、少しずつではあるが出血がおさまっていき、次第に傷口はふさがった。

 それを確認してから俺は、今度は右手を上にかざした。すると、青色の光は分散して倒れている兵士たちに群がりはじめる。

「これは……」

今まで事の次第を黙って見ていたミラシカが口を開いた。巫女と崇めていた少女が、神力を発動させ、兵士たちの傷を次々に癒しているのだ。なんの力もないと言っていたが、確かにそれは力を操っていた。ミラシカはこのとき確信したであろう。その少女こそが巫女なのだと。本物なのだと。

 青く光る力は、幻水国が司る神の力の色そのものだ。疑う余地はない。ただ気がかりなことといえば、その巫女は、左目に赤の光を宿しているということだろう。

「さすがですね、巫女さま」

余裕の笑みを浮かべたままのサンから、俺はにらんだままの目を離さなかった。そして、彼の差し伸べる手をとろうともしない。俺はサンに向かって右の手のひらを向けた。

「何の真似です、巫女さま。まさか、僕とやりあおうという気ではないでしょうね?」

口元は笑っている。だが、目は笑っていない。俺に分があると思っているからなのか、それとも、主を殺すわけにはいかないという意がこめられているのかは分からない。あたり一面に広がった血なまぐささが、よりいっそう俺の心に怒りを注ぐ。

「許せない」

低く短くそう呟くと、俺の右手からは水の刃が放たれた。それはサンに向かって飛んでいく。

 サンはとっさに体を左にひねり、その刃を交わした。しかし、俺の繰り出す刃は次から次へと生まれ、サンに向かっていく。サンは体をひねったり、体勢を低くしながら交わしていく。しかしいくつかの刃はサンの体をかすめている。服が裂け、そこからはじわりと血が染み出る。

「これが、巫女の力……ですか」

サンはどこか嬉しそうに呟いた。状況を見たところ、巫女と神とでは巫女の力の方が上回っているらしい。もっとも、主というものに牙を向けないよう力を抑えているだけなのかもしれないが。

「ますます欲しくなりました」

「俺は、誰のものにもならない」

右手にぐっと力をこめて握りしめると、そこには強大な青色の光の球が生まれた。そしてそれをサンに向かって放とうとした刹那、その腕が自分よりも太くがっしりとした手に掴まれた。決して強い力ではなかったが、暴走した俺を止めるにはちょうどいい力だった。

小麦色の肌で、関節がよく分かる男らしい指を持ったその男は、レイドだった。俺の腕を掴み、じっと目を見つめてくる。青く澄んだ瞳には、陰りなど一点もない。ただ、大量の出血から、顔色はかなり悪い。今にも倒れそうな顔をしている。

「その辺にしておけ、アスナ。断固戦争反対だったのではないのか?」

低く冷静で、感情を押し殺したかのようなその声は、僕の心の中に染み渡っていった。そして、「戦争反対」という言葉が繰り返し頭の中に響く。

「戦争……反対」

繰り返し響き渡るその言葉を、俺は知らず知らずのうちに繰り返していた。すると、レイドはゆっくりと頷いた。

「あぁ、そうだ。お前が言ったんだろう? それなのに、いきなりお前は戦争をはじめるつもりか?」

俺は周りを見回した。飛び散った血、けれども兵士達は体を起き上がらせ健全だ。今、足を地面に着いて傷ついているのは俺が対峙していたサン、ただひとり。小競り合いを起こしていたのは俺。サンは、俺には手を出していない。

 戦争反対と言っておきながら、血を見てかっとなり、サンに手を出した。持っていないと思っていた力を使って、暴走しがちに攻撃していたのだ。

 その事実を飲み込んだとたん、俺は足元から崩れ落ちた。そしてぐったりと頭をたれる。情けなくて、自分が許せなくて、力が抜けた。力が入らない。

「おやおや、僕を助けてくれたのですか?」

サンは攻撃の止んだ部屋の中心で立ち上がると、レイドの顔を見ながら笑顔で話しかけてきた。出血はしているが、傷の具合はそれほど深刻ではないようだ。

「馬鹿を言うな。さっさと去れ。アスナが殺さなくとも、俺は殺すぞ」

物騒な言葉を口にするレイドは、僕を後ろから支えている。レイドの力がなくては、おそらく座っている体勢も維持できずにいただろう。血の気の引いた彼の手からは力強さと温もりを感じた。

「まぁ、いいでしょう。けれども、諦めたわけではないですから。お間違えなく」

くすりと笑うと、サンは姿を消した。そして、周りの兵士達は僕とレイドを囲むようにして集まってくる。僕が急にへたりこんだものだから、どこかに傷を負ったのではないかと心配しているのかもしれない。

 事の次第を見守っていた王佐も、顔色を変えて僕の目の前に顔を持ってくる。長い髪の毛を振り乱し、眼鏡を指で押し当てながらたずねてくる。

「巫女様、どこかお怪我でも!?」

僕はしばらくの間、何も話さなかった。激しい自己嫌悪で、他の何も耳に入ってこなかった……。


 大切なものを守りたいと思ったとき、まわりのものが傷つけられているのを目の当たりにしたとき、人間はどういう行動に出るのか。


僕は、何があっても暴力反対、平和主義のつもりで十六年間生きてきたつもりでいたのに、実際にそういう場に遭遇したときに出た態度は、応戦だった。それも、反撃をしてこないもの相手に、一方的に攻撃を繰り返したのだ。

 自分にそんな力があったということよりも、手を出したことに驚きを感じるとともに、怒りと嘆きを感じていた。「だから人間たちは、争い続けるのか」と。

 理想なのだろうか、綺麗ごとなのだろうか。戦争をなくしたいというその想いは、思想は……。


 今の僕には、平和主義なんてものを唱える資格がない気がしてならなかった。


 目の前が真っ暗になっていく。何も見えない。何も聞こえない。さっきまで自分を攻め立てる言葉がいくつも心に突き刺さっていたのに、それすらもなくなってきた。何も感じない。僕は、暗くどこまでも深い海へ落ちていく感じを覚えていた。


 ただ、意識を完全に手放す前に、遠くで僕の名前を呼ぶ声が聞こえたような気がした。




 小鳥のさえずり。目をつぶっていても分かるほどの明るい光。この強い光は太陽の陽射しだろう。あたたかい。子どもの頃、公園の芝生の上で寝転がって、体いっぱいに太陽の光を浴びていた頃の感覚に似ている。

 布団からは、そんな光をたっぷりと浴びたかのようなあったかい香りがしてくる。なんだか意識が回復してきた。僕は長い夢を見ていたんだ。確か、巫女とか呼ばれる地位に就いてしまって、城へ招かれたんだ。色々なひとにも出会った。王様にまで会ってしまった。それから、水の力を使って、サンという炎の神様を攻撃した。

 そこまで思い出すと、僕はひどい落ち込みを感じた。夢の中の出来事であったにしろ、自分が誰かを傷つけるなんて……ショックを隠せない。

 そういえば、そんな僕を止めてくれたひとがいた。名前は、そう……レイドだ。

「レイド」

僕は目をつむったままその名前を口にしてみた。夢で出会った人物の名前を覚えていることは珍しい。夢の内容はたいてい覚えているけれども、容姿、名前まではっきりと覚えていることは珍しかった。

 黒光りするほどの漆黒の髪に、空を思わせる、でも実は水を表すブルーの瞳。つりあがった目からは一見怖そうな人物像を思い描かせるが、根は優しいと思われる青年。しかしその実態は水の神という。

 低血圧で朝が弱い僕だけれども、今日に限っては、眠気は一切ない。体を飛び起こさせると同時に目を見開く。そこには、見慣れた僕の部屋の風景があるはずだった。そう、あるはずだったのだが……。

「やっと起きたか」

それなのに、そこにあったのは僕が見たこともない部屋の風景。それどころか、夢の中で出会った彼、レイドが目の前に居るのだ。これはどういうことなのだ。僕は夢の中で眠り、起きたのだろうか?

「レイド!?」

朝から叫び声。信じられないという声をあげた。

「だから何だ。先ほども俺の名を呼んだな? 何か用か?」

彼、レイドは淡々としていた。まるで、僕がここに居ることも、自分がここに居ることも当然かのごとく。

 ふと僕は、自分が見慣れない服を着ていることに気がついた。確か記憶では、学校の制服を着ていたはずだ。けれども今自分が着ている服は、漫画やアニメで目にする中国系の服だった。ひらひらとした、着物のようなつくりの服だ。色は青を貴重とした服。上着は白で、下の履物は青色のデザインだ。

「……まさか」

この場にはレイドしか居ない。まさか、レイドが着替えさせたというのか!? 思わず顔が赤くなる。

 僕が何を言おうとしているのか悟ったらしいレイドは、かぶりを振った。というより、誤解されたくないと否定しているようだ。

「勘違いするな。俺が着替えさせたわけではない。女官がやったのだ」

あぁ、そう……とだけ呟くと、僕は俯いた。

まだ、心の傷が癒されていない。サンを攻撃したという事実が胸に突き刺さる。

「飯はどうする。ここへ持ってこさせるか? それとも、セリアスたちと食べるか?」

セリアス。幻水国の国王陛下だ。国王と朝食を取れるはずがない。たとえ夢の世界であろうと畏れ多いにもほどがある。

「朝は食べないんだ」

すると、レイドは首を傾げて言った。

「今は昼だ。お前は、まる二日眠り続けていたんだ。覚えていないのか?」

まる二日? 眠り続けていた? 僕は首をかしげた。

「その様子だと、覚えていないのか。まぁ、無理もないだろう。いきなり力を使ったんだ。疲れ果てて当然だ」

レイドは起き上がった僕を再び寝かしつけようと肩に手を乗せてきた。押さえつける形で力を加えてくる。

「レイド?」

「まだ横になっていろ。何か、軽いものを持ってこさせよう」

僕をベッドの上に横に寝かせ、布団を丁寧にかけてくれた。

顔は相変わらずぶっきらぼうなのだが、してくれていることはとても優しい。彼は不器用なだけで、本当に優しいひとなのだと思う。あの騒動があったときも、彼だけは誰にも手をあげなかったし、暴走する僕を止めに入ってもくれたのも彼だった。

そう、彼のおかげなんだ……あれだけで済んだのは。もしもあのとき、彼が止めに入ってくれていなかったら……。その先は、考えるだけでも心が沈む。

僕は再び俯いた。もう、自己嫌悪が止まらないんだ。あの騒動のことは、きっと一生忘れないだろう。夢から目覚めても、忘れはしない。

「どうした、アスナ。落ち込んでいるのか?」

ずばりと言ってくるレイド。彼はそういえば、いつから僕のことを名前で呼んでくれるようになったのだろう。ぶっきらぼうで強引な彼からは珍しく、今の言葉は僕のことを案じている意が感じられた。率直に。

「僕、失格だよね」

だから、僕も素直に弱音を吐けたんだ。誰かに、面と向かって弱音を吐くなんて、生まれて初めてだった。夢の世界でまさかの体験。人生、どこで何を経験するかなんて本当に分からない。

 レイドは、何が?……とも言わず、黙って僕の言葉を待っていた。俯いたままの僕。彼がどんな顔で僕の話を聞いているのかは分からないが、彼からの視線は感じる。余所見などをしたりもせず、こちらを真っ直ぐに見て聞いてくれている。

「平和主義、断固戦争反対って言っていたくせにさ、サンに手をあげたんだよ。使ったこともない、訳も分からない力を使って、攻撃したんだ」

うなだれる。何度言葉にしても心が痛む。苦虫を噛む。あれだけおおっぴらに平和主義を唱えたものが真っ先に手をあげるなんて、情けなくて涙があふれてくる。自分を許せない。

「失格だよ、日本人失格、人間失格……」

言葉が震える。身体も震える。あの光景が目に焼きついて離れない。はじめて目にしたひとの血。生々しい血。戦場。

 しばらくの間、僕もレイドも黙り込んだ。ただこの場にそぐわない小鳥の無邪気なさえずりだけが部屋に響いていた。

頬には涙が伝っていく。止めようと思っても止まらない。思考とは裏腹に涙は正直だ。

「変えるのか?」

どれだけの時間が経過したのだろう。影の位置を見るからに、それほどの時間は経っていないと思うのだが、僕にはそれがとても長い時間に感じた。

 沈黙を破ったのはレイドの方で、レイドは僕にゆっくりと言葉をかけてきた。


変える? 


何を聞こうとしているのかが僕には分からなかった。


「変えるのか? 己の信念を」

「信念……?」

僕はレイドの目を見た。やはり陰りなど一点もない、どこまでも澄んだ瞳がそこにはあった。汚れを知らない目だ。

「平和主義というものだ」

僕は「あぁ」という顔をした。平和主義。断固戦争反対。

「今の僕には……平和主義を語る資格がないと思うんだ」

うめきにも近いその僕の言葉を静かに聞き、レイドはまたしばらく黙っていた。

僕はただ一点を見つめ、二日前の出来事を繰り返し頭に思い浮かべていた。

「では、戦争をはじめるというのだな?」

レイドはそう言った。その言葉からは、どこか冷たさを感じる。表情とは裏腹に、いつも優しさをにおわせるレイドらしからぬ声の調子だった。僕を突き放しているかのような声色。僕は思わず身をすくめた。

 戦争をはじめるのか? それには賛成しかねる。いや、しかねるどころか、絶対に反対だ。何があっても、やっぱり戦争なんてするべきものではない。してはならないものだ。レイドの言葉に確固たる意志が蘇る。

「戦争はダメだ!」

僕は思わず叫んでしまった。これまで静かにやり取りをしていたのに、突然声を荒げたりなんかしたから、レイドが驚くのではないかと思い、僕はふいにレイドに目をやった。しかしレイドは、驚いた顔などしていなかった。予想もしていなかった表情を浮かべている――彼は、笑っていたのだ。

「ならば、平和主義を貫くということだろう?」

彼は、平和主義者ではなかったはずだ。僕を戦争の道具にしようとしていたものの一人だったはずだ。その彼が、平和主義を貫き通せと言っているように聞こえてくる。

「そ、それは……」

言葉につまったのは僕の方だった。煮え切らない態度だ。自分でも嫌になる性格のひとつだ。戦争はダメだと思っておきながら、自分にはその資格がないのではないかと、うだうだ考え込んでしまうのだ。

「どちらなのだ。戦争をするのか、しないのか」

レイドは、そんな煮え切らない態度の僕に対して二者択一を迫ってきた。いや、あえてそうしてくれたのかもしれない。どちらかを選べと。道を選べと。

 戦争をするのか、しないのか。それならば、選ぶべきものは明らかだ。こんな愚かな僕にでも結論を出すことが出来る。

「しない」

僕はきっぱりと、短くそう答えた。すると、レイドは再び笑った……ような気がした。うっすらと唇が上につりあがった気がしたのだ。しかし、そう思った次の瞬間には、いつものぶっきらぼうな顔に戻っていた。

「では、さっさと起きて策を考えることだな」

「策?」

僕は首を傾げた。

「ミラシカが動き出している。レジェン、宿敵が現れたからな。お前が寝ている間に、戦争の準備を着々と進めているぞ」

僕はそれを聞いて思わず飛び起きた。僕が寝ている間に、そんなことが進められていたなんて。冗談ではない。こうしてはいられない。

 もしかしたら、僕にも原因があるのかもしれないとも思った。サンに手をあげることで、幻炎国と戦うのだという意志を示しているのだと勘違いさせてしまったのかもしれない。だとしたらなおさら放ってはおけない。いや、そうでなくとも放っておくわけにはいかないのだが……。


 この夢は終わっていないのだ。僕はまだ、この国の巫女なんだ。巫女として、やらなければならないことがある。巫女にしかできないことが、きっとある。


「レイド、ミラシカさんのところへ案内して。僕が止めなくちゃ」

レイドは口元をニッとさせると、僕の手を握った。やはり、見間違えではなかったのだ。彼は笑っている。ぶっきらぼうな彼が、僕に笑顔を見せるようになっていた。爽やかでもなく、穏やかでもない笑顔だが、とても綺麗で嘘のない笑顔だった。



 しかし彼がどうして変化したのかは、このときの僕にはまだ、分からなかった。



「あちらの国にも神が居るということは、本当だったのですね」

幻水国の王佐、ミラシカは茶色に光る長い髪を振り乱しながら、同じ場所を行ったり来たりしていた。軍法会議が行われているかのようで、全員がみな軍服を身にまとっていた。優雅な中華風の服ではなく、甲冑を身につけて、そう、三国志に出てくる武将たちの衣装のようだった。全員の衣装が青をワンポイントどこかにいれたり、青をそのまま身にまとったりしているものだ。「水」を象徴しているのだ。

 ミラシカは白を基調とした軽装だ。彼は軍人階級ではないのだろう。書物を手にして、武人たちが座る長テーブルに広げていく。

 どれも自分達の国の文字で書かれており、内容も自国のもののみだ。これから戦争をはじめようとする国にしては、用意が手薄い。

「クレハ、隊編成はどうなっていますか?」

クレハと呼ばれた青年は、ミラシカや他の幻水国人とは違い、黒い髪に海の色をした目を持っていた。レイドよりも深い青の瞳を持っているが、その姿は彼にとてもよく似ている。髪の毛はレイドよりは短め。しかし前髪は、目にかかるだけ伸びている。まるで表情を隠さんとしているかのように……。

 レイドに近い髪型だが、彼よりも髪質が柔らかそうな感じで、表情も柔らかい。神経質そうでもなく、爽やかそのものだ。戦争の準備をしているにしては、似つかわしくない表情でもある。幻水国特有の茶髪に青い瞳ではないが、ここに居るということは、この国の民のひとりなのであろう。

「はい、抜かりはありませんよ、ミラシカ閣下。選りすぐりの部隊を編成いたしました。私が隊長として参ります」

ミラシカはクレハに目を向けた。その目は嬉々としていた。

「あなたが……直に戦地に赴くというのですか?」

クレハは大きく頷いた。周りの武人たちもそのことを了承しているらしい。クレハとは、それだけの実力者なのか、人徳者なのだろう。

「私では、役不足かもしれませんが……何せ、隊から離れてもう何年にもなりますから」

「とんでもない。あなたが行かれるとなれば、心強い」

ミラシカはクレハと厚い握手を交わした。クレハは穏やかな笑みを浮かべている。そして、あぁ、そういえば……と話題を変えてきた。

今度(・・)の巫女様とはどのような方なのですか?」

その言葉には、この場に居た全員が注目をした。皆、濃淡こそ違えども、茶色の髪に青の瞳を持っている。この国の民の象徴だ。

 一番の年長者と思われる男は、四十代ほどであろうか。眉間にしわが寄り、渋みを増した男だ。髪は王佐ミラシカほどで、腰のあたりまで伸びている。ミラシカとは違う点は、その長い髪は束ねられることなく腰のあたりまで流れているところだ。名はゼファー。水神力よりは剣の腕の方を買われている武人である。もちろん、巫女のようにはいかないが、水神力は扱える。武将クラスには、水神力のないものは居ないのだ。ただ、ひとりを除いては……。


そのひとりというのが、クレハだ。彼はレイドに似た容貌を持っているが、水神力を持ち合わせてはいない。


彼以外に例外はいない。みな同じような髪の色に瞳を持っている。ゼファーの横に座っているのは三十代ほどであろう青年、ディール。短髪で、その髪はムースか何かで固めてあるかのように逆立っていた。ややたれ目で、左の頬には刀傷が残っている。彼もまた、どちらかといえば剣で戦をくぐり抜けてきた武人だった。

 ここに居る武将クラスの武人の中でもっとも強き神水力を操るものは、ファンユという青年だ。彼は若い。二十代前半くらいだろうか。物静かそうで、戦争とは縁のなさそうな青年である。瞳は大きく、かっこいいというよりは、可愛いという言葉が似合った。髪は長く、後ろでひとつのお団子にしている。先ほどから書物に目をやり、会議そっちのけで読書を楽しんでいた。

 そして、中央に君臨しているのがこの国の国王、セリアス陛下だ。茶色のやわらかな髪は肩までのび、ひとり優雅できらびやかな服を身にまとっている。白くて長い指の先の爪は綺麗に切り整えられており、右手で頬杖をつきながら会議にのぞんでいた。

 もっとも、国王は政や戦争にはこれといって興味はないらしい。会議をしきっているのはいつだって王佐、ミラシカだった。

 彼は王佐でもあり、貴族でもある。武人ではないゆえに、閣下と呼ばれることも多い。

「黒い髪に黒い目をお持ちでいらっしゃいましたよ。しかし、力を発動させると、その黒き瞳は……」

そこまで言うと、ミラシカは言葉を止めた。思い出したのだ、あのときの光景を。

 確かに巫女は素晴らしい力を持っていた。惚れ惚れするような水神力。あの力、あの輝きはまさしく水神を司る巫女の力に間違いなかった。そして、その巫女の右の瞳はレイドと同じ青の色が輝いていた。しかし、左の目はそうはいかなかったのだ。左の手には赤き紋章が施されており、水神力発動時には、左の目は赤く輝いていたのだ。


 認めざるを得ない。巫女は炎神の力も併せ持っているのだと。


「どうかしたのですか?」

言葉を詰まらせたミラシカを前に、クレハは笑顔でたずねた。しかし、何かがあったのだと悟っているかのような表情だ。

 あのときあの場に居たのは、この中では国王セリアスと武将ゼファー、そしてミラシカの三人だ。ゼファーがミラシカの代わりに答えた。

「力を使っているときの巫女の右目は、青く光っていた。だが、左の目は赤い光を帯びていた」

その言葉に眉をひそめたのは、読書を続けていたファンユであった。これまで、巫女にも関心なさそうな素振だったが、「赤」という言葉には敏感だ。

「赤い光? それは、幻炎国のものの証。どういうことですか、閣下」

ミラシカは苦い顔を続けている。待ち望んでいた巫女が、自分達だけの巫女ではないのだ。敵国にとっても巫女の素質を持っているということは、向こうに引き抜かれる可能性がある。現に、二日前には敵国の神、レジェンが巫女をさらうために現れたのだ。

「レイドの話では、炎神とも契約をしている……とのことだ。つまり、我々の崇高する水神と、憎き炎神、双方の力を持っているのだな」

苦い顔をしたまま返答しないミラシカに変わり、あの場に居たゼファーが再び答える。その答えに、一同は驚いた顔をした。

「なんてことを……」

笑みを浮かべながらそう答えたのは、クレハだった。目を細め、口元は笑っている。しかし、無邪気な笑みとは程遠い笑みだった。

「未だかつてないことですね」

クレハの言葉からは、これまでにも巫女が居たということをにおわせる。そのときには戦争は起きなかったのだろうか。なぜ巫女が現れてもなお、国が統一されたりすることもなく、幻水国と幻炎国は争いを続けているのだろうか。

 若き国王もまた笑みを浮かべていた。彼の笑みはクレハのものとは違っている。のんきという言葉が似合う笑みだった。しかし、単なる馬鹿な王というわけでもなさそうな顔立ちだ。

「本当だね。しかし巫女はここ、ティレーヌ城に居る。そう、心配することでもなかろう?」

セリアス陛下はそういうと、席を立とうとした……まさに、そのときだった。部屋の唯一の扉が勢いよく開け放たれた。室内のものはいっせいにそちらの顔を向ける。

 そこには、小さな少女が立ちはばかっていた。両手で扉を開け放ち、黒い髪をなびかせて、黒い目を光らせている。まるで、武将たちを威嚇するかのように。その後ろには、かすかな笑みを浮かべる水神の姿があった。

「戦争反対!」

第一声は、セリアスとミラシカ、そしてゼファーがうんざりするほど聞かされた言葉だった。




「断固反対です!」

僕はつかつかと部屋の中に入っていった。中には大きなU字型のテーブルがある。ちょうどUの字のてっぺんに当たる場所に、この国の国王が立っていた。僕はU字型のあいた空間に入り込み、国王の目の前に立った。王様を前にこの態度。「頭が高い、ひかえおろ~」とか言われそうだ。

「セリアス国王陛下、僕は反対だと言ったはずです。戦争はしない」

国王はくすっと笑った。そして、一度立った席に再びつく。そして、僕を見上げる形で言葉を放った。

「これはこれは巫女殿、お目覚めですか? それだけの元気があれば、もう身体の心配はしなくてもよさそうだな」

そういうと、セリアスは僕ではなくレイドの方に目を向けた。レイドに確認をとっているようだ。レイドが短くうなずくのを見ると、セリアスは再び僕に目を戻した。

「巫女は頑なに拒まれるな、戦争を。あれだけの力を持っていながら、なぜ戦おうとしない?」

僕はそれを聞いて俯いた。再び、自分が平和主義を唱えていてもいいのかという不安が押し寄せてくる。しかし、レイドが背中を軽くぽんっと叩いてくれたことで、先ほどの決心が蘇る。「戦争をするのか、しないのか」というレイドの短き質問は、僕に力を与えてくれる。

「戦争はしない」

自分に言い聞かせるようにそう言い放った。

 見たところ、ここに居るものはミラシカを除いて皆、軍人階級の者のようだった。穏やかそうな顔立ちのものから、武人そのもののひとまで居る。その中でもひときわ異彩を放っているのは、レイドと同じく黒い髪に青の瞳を持つ青年だ。レイドや国王ほどの美貌を持ち合わせているわけではないが、彼もまた、整った顔立ちをしている。

 彼の方を見ていると、彼と目があってしまった。思わず目をそらしてしまい、それからしばらく視線が仰ぐ。その様子を、黒髪の青年はくすくすと笑いながら眺めていた。

「だから、オレはどうして戦争をしないのか、したくないのかを聞きたいのだが?」

あれだけどうして戦争がいけないことなのかを語ったつもりなのに、まだ伝わっていないなんて。それもこれも、僕があの場で暴走したせいなのだろうか。僕は肩をすくめた。やっぱり、まるで伝わっていない。

「だから、戦争は悲しみしか生み出さないからだ」

「圧倒的な力を持っているのに、なぜ使おうとしないのです? ある力は、最大限まで使うべきだと私は思いますけれどもね」

僕の答えに対して口を挟んできたのは、例の黒髪の青年だった。サンに似た笑みを浮かべながら、彼は僕と目を合わせてきた。

「私はクレハと申します。はじめまして、巫女様」

彼は笑顔で自己紹介すると、周りに居るもの全ての名を僕に教えてくれた。ここで正式に、王佐の名前がミラシカであるということが確かめられた。僕はなんとかして日本人らしからぬ響きの名前を覚えようと、必死に名前を頭の中で繰り返すとともに、相手の顔をかわるがわる見直した。

黒髪の青年はクレハ。彼の名前は、なぜだかすぐに覚えることができた。僕にとって、馴染みやすい名前だったのだろうか。確かに、他のものたちよりは日本人に近い名前のようがする。

「ミラシカ閣下たちからお聞きいたしましたよ、巫女様」

クレハは再び笑みを浮かべた。その目は、まるで僕を試しているかのようだった。

「巫女様はとてもお強い神水力をお持ちであると。そしてそれを扱ったと。それだけのお力があれば、幻炎国など敵ではないでしょう。身を案じる必要はありませんよ?」

みな、我が身の心配しかしないのだろうか。僕たちの間で血が流れなくとも、相手が血を流すかもしれない。それを悲しいとは思わないのだろうか。思えないのだろうか。

 思えないのかもしれない。そういう教育を受けてこないで育ってきたのだとしたら、戦争を当たり前なのだと教えられてきたのだとしたら、この感性、この心は分からないのかもしれない。僕はそう感じた。

 だったら教えればいい。僕はそういう教育を受けてきたのだから。この国で唯一、平和を唱えるものなのだとしたら、僕が平和を広めていけばいい。僕が導けばいい。

「誰かが傷つくようなこと、悲しむようなことをしてはいけないんだ。たとえそれが敵であろうとも、その敵にだって家族が居る。悲しむものが居るんだ。だから決して傷つけてはいけない。ひとりの命が亡くなれば、悲しむものが何人も生まれてしまう。それが繰り返されれば、数え切れないほどの悲劇と悲しみが生み出されてしまうんだ。それが戦争。戦争は、平和を築くものでも、正義でもない。戦争とは悪。どんな理由があろうとも、やってはいけないことなんだ」

するとクレハは「面白い」という笑みを浮かべると同時に、言葉を返した。

「こちら側が手を出さないようにしていても、あちらはそうはいかないでしょう。こちらに巫女が居るということはばれていますからね。今日にも攻めてくる可能性だって否定はできません。攻めて来られても、巫女様は黙って見ていろと仰るのですか?」

僕は首を横に振った。それを見て、一体何人が勘違いしたであろう。僕は、応戦するという意味で首を振ったわけではない。

「相手にも攻めてこさせないようにするんだよ。それが平和ってものでしょう?」

そのとき、いっせいにため息がこぼれた。ミラシカに至っては、頭痛がしてきたのか、額を手で押さえている。僕はそんなにも愚かなことを述べているか? 僕は自分が正しいと思った道を歩いているつもりだ。

「ですから巫女様、一体どのようにそのようなことを……? 我々は言葉を同じくしないことは、既知のおはずです」

今度はミラシカが口を挟んだ。すっかり疲れきった顔をしている。僕が眠っている間にも、彼は戦争の準備を進めていたのだろうから、それを根本から覆られそうになり、疲れがどっと増しているのだろう。問題児、ここに現る……だ。

 僕はしばらく黙り込んだ。そう、肝心なところがまだしっかりと定まっていないのだ。平和、平和と叫んでいても、このままでは確実に戦争がはじまってしまう。目の前で再びあのような出来事が起きたら、僕も暴走して力を使ってしまうかもしれない。今はまだ、自分で制御ができないのだ。あのような出来事が起きないようにするには、とにかく話し合いだ。一にも二にも話し合いが必要なんだ。相手国と会談を開き、平和協定を結ぶことが鉄則だろう。

 しかし、会談を開くにも言葉が通じないのだ。こちら側に誰も向こうの言葉を知るものが居ないということは、あちらでも同じ現象が起きている可能性は高い。

 そのとき、僕はふとあることを思い出した。あちら側のものであるサンの言葉は、僕とレイド以外のものには通じていない。逆に言えば、僕には通じるのだということを……。

「そうだ、僕がなればいいんだ」

僕は呟いた。その呟きに、再び部屋に居る全てのものが注目する。

 そう、僕がなればいいんだ……両国の架け橋に。僕が仲をとりもてば良い。きっと、今のレイドなら力を貸してくれる、確証はないけれども、そんな気がする。僕たちふたりが、幻炎国へ赴き、平和協定を結びたいと説得すればいいんだ。

「見えてきた、見えてきたよ道が!」

見えてきたのは僕だけで、まわりの武人たちはみな、呆気にとられた顔をしていた。


「なりません!」

声を荒げて僕の意見の反対したのはミラシカだった。

 僕がレイドを連れて幻炎国へ話し合いをしに行くといったら、全員が良い顔をしなかったが、一番大きく反対をしてきたのがこの王佐ミラシカだった。僕は別に、この国を裏切って向こうへ亡命しようってわけではないと何度言っても、信用してくれていないのか、「うん」とは言ってくれない。

「だから、話し合いをしてくるだけだよ。僕はあちらの国の言葉も分かる。平和協定を結んでくるよ。いや、協定を結ぶには国王同士が面会しないとダメかな? だったら、まずはそういう意志があることを示して、新たに協定を結ぶ場を設けるよう説得してくるよ」

僕はどれだけミラシカが反対しようともそうするつもりだった。レイドが背中を押してくれたおかげで、後ろ向きな僕でも前を見て歩き出すことができたんだ。

「幻炎国のもの達も、巫女様を欲しているのです。敵陣の中にみすみす、貴女様を送りこむことなど出来るはずがないでしょう!?」

ヒステリックに叫びをあげる王佐は、どうあっても僕を幻炎国へ行かせたくはないらしい。周りのものはというと、巫女が一番この国で一番偉いと心得ているからなのか、いっさい口を挟もうとはしてこない。ただ時折、ゼファーが眉間にしわを寄せてよしとしない表情をするくらいだ。

 ファンユはこちらのやりとりに関心がないのか、書物に目を向けている。その落ち着きを少しでいいからミラシカにも分けてあげて欲しい。

 ディールは、手持ち無沙汰な感じで、無意味に手遊びをしている。時折机を指ではじいたり、ペンをこついたりして時間をつぶしている。

 この国の行く末を決めようとしているというのに、この無関心さ。武人だから祭りごとにはさほど関係ないのだろうか。こういう話は、文官のものたちが集まる場でするべきだったのだろうか。僕は飛び込むタイミングを間違えたのかもしれない。

 この国の王、セリアスは、催し物を見ているかのような面持ちで僕とミラシカのやりとりを見物していた。彼は僕とミラシカ、どちら派なのだろうか。面白ければどうなってもいいとでも言い出しそうな王だ。

 部屋の作りは、白い壁に石畳。殺風景に見えるが、四つ角にはいかにも高そうな壺が飾られている。天井は高く、四メートルか五メートルほどはある。部屋唯一の扉に向かって両手側には、大きな窓がある。王様が座る席の後ろに窓がないのは、いきなり窓から弓やら銃やらによる攻撃を避けるためであろうか。

「ミラシカ、この国で一番偉いのは誰だったかな」

これまでただ僕の後ろに控えていたレイドが僕の横に並び、ミラシカに言葉を投げかけた。上から物を言っている様子だ。水神ということもあり、当然彼、ミラシカよりも身分は高いのだろう。身分が高いからと言って、大きな顔をしてもいいとは思わないが、まぁ、問題はない態度なのだろう。

「レイド……それは」

しかし、思い返せばみなレイドのことを呼び捨てている。「レイド様」と神様らしく呼んでいるものはひとりも居ない。それはどうしてなのだろうか。僕はふと疑問に思った。

「巫女様ですよね、ミラシカ閣下」

答えたのはミラシカではなく、傍観者を決め込んでいるのかと思っていたクレハだった。彼が言葉を返すとレイドは眉をぴくりとつりあげた。明らかに嫌そうな反応だ。そっくりな容貌を持つクレハとレイド、何か関係でもあるのだろうか。

「えぇ、そうです」

ミラシカは渋々頷いた。自分がいくら説得を試みようと言葉を発しても、巫女の言葉が何よりも優先されるということを最も心得ているのが王佐である彼なのだろう。分かっていてもなおそうしているのは、それほど巫女を幻炎国、敵国へ渡らせたくないという一心からだ。この国への忠誠心だけは痛いほどよく伝わってくる。

しかし、戦争を食い止めるには僕が向こうへ話し合いを持ちかけに行くほかないと今は思っている。権力を以って彼らを言いくるめているようで申し訳ないが、血が流れるよりはずっといい。僕は自分自身にそう言い聞かせてその場に立っていた。

「お前の負けのようだな、ミラシカ」

さらにどう見たって傍観者だと決め込んでいた国王、セリアスまでもが参加してきた。どうやら彼も僕派だったらしい。というより、先ほどから反対を叫んでいたのはミラシカだけだった。多数決でもどうやら僕の意見は通りそうだ。

 ミラシカはすっかり肩を落とし、白い壁に背中をもたれさせた。そして、深いため息をついた後に、僕の顔をじっと見てきた。

「本当に、あちらで話し合いをしてくるだけなのでしょうね?」

僕は大きく頷いた。それを見て、王佐は再びため息をつく。周りがざわついていないだけあって、ため息が目立つ。

ミラシカは自分を必死に納得させようとしていた。しかし、なかなか承諾することができない。万一巫女が幻炎国の手に渡ったら……それを思うと、どうしても承諾しかねるのだ。絶対に巫女が幻炎国の手に渡らないとは言い切れないのだ。

確たる保障があるのならば、ミラシカもここまで強く反対はしない。この国で一番の権力者にたてつくような行為、聡明であろう王佐がとる行動ではないのだ。

「私も参りましょう」

突然声をあげたのはクレハだった。腰を上げ、僕とレイドの方を向いて笑みを浮かべる。その彼の言葉を聞いて、これまで目をつむって話のやりとりを聞いていたゼファーが目をゆっくりと開いた。そして、クレハの方にその視線を向ける。

「お前が?」

どこか棘を感じる口調だった。彼はクレハのことを快く思っていないようだ。武将同士でもいさかいがあるらしい。

「えぇ、私がです」

そんな棘のある言葉に対しても、クレハは爽やかな笑みを絶やさなかった。もしくは、いつものことで慣れているのだろう。彼はU字型の机の中に入り込み、僕たちと同じところに立った。背丈は百七十前後というところだろうか。レイドよりは少し低い。ふたり並んで立つと、本当に兄弟のようだ。温和でひとあたりのよい兄に、ぶっきらぼうでひとあたりの悪い弟という感じに見える。

「クレハ、あなたが同行するというのですか?」

ゼファーとは対称的だったのがミラシカだった。彼はクレハのことを信頼しているように見える。先ほどまでの不安な表情はやわらぎ、少しだけ、僕が幻炎国へ行くことに対して、前向きに考えてくれるようになったような気がする。

「えぇ、閣下。神水力を持たぬ私が参るのが一番だと考えられますから。幻炎国では、半端な神水力は使えません。また、並より強い神水力を持っていると、今度は具合が悪くなるといった弊害が伴うとも言い伝えられていますから。何も持たない私が同行するのが、最良だと思うのです」

にこりと笑みを浮かべると、彼はミラシカからゼファーに視線を変えた。神水力を持つ、かつ、クレハに対して好意を持っていない彼を納得させるための行動だ。

 クレハはここに居る武将の中では最も階級が低い。しかし、彼に一目置くものは少なくない。しかし逆に、彼に好意を持っていないものも少なくはないのだ。彼のことを快しと思うかどうか、意識調査を城内でとれば、答えは半々に割れるだろう。それだけ味方も多く、敵も多いという厄介な存在だ。

 もっとも、彼自身はそのことをそれほど大変なことだとは思っていない。彼は気になどならないのだ。他人が自分のことをどう思っているのか、などということには。


はたして、彼が気になることとは……。


「オレも同行しよう」

旅仲間に名乗り出たのは、他の武将などではなかった。やわらかな髪を手でもてあそびながら話を優雅に聞いていた、セリアス陛下だった。その言葉を耳にしたとたん、反対の声がミラシカを筆頭にあがった。せっかく僕の旅が決定しかけてきたところで、余計なひと言を……と、僕は胸中で舌打ちをした。

 しかし、国王が一緒に来てくれたなら、新たに平和協定を結ぶ場を設けなくても済むと考えれば悪くはない。その場で幻炎国の国王を説得し、相手の気が変わらないうちに、そこでさっさと協定を結ばせてしまえばいいんだ。

そう考えると、彼の同行は吉と出るかもしれない。僕を介しての話し合いから協定を結ぶまでの時間が、かかればかかるほど相手の気心を変える機械を与えてしまう危険性が出てくるのだ。協定を結ぶと決心したその瞬間をねらって、結ばせてしまったほうがいいような気がする――ちょっとせこい気がしないでもないが。

「陛下、冗談を言っている場合ではありません。巫女様がお出かけになるのです。陛下には、巫女様が安心して向こうに渡れるよう、こちらの兵を整える責務がおありでしょう」

先ほどまでとは打って変わって、僕が幻炎国へ行くことにやけに積極的になったミラシカだ。いや、単に王様が向こうへ行くことだけは絶対に避けたいだけかもしれない。

「それから、兵を送り込まれていると想定して、こちら側も応戦の準備をしなくてはなりません」

しかし、戦争の線が完全に消えたわけでもないようだ。確かに、すでに進軍されていたら、僕が向こうに行っている間に、この城が炎に包まれてしまうかもしれない。

「分かっている。だから、その旅にオレも同行すると言っているだけじゃないか」

……だけじゃないかって、考えてみれば一国の王様が他国、それも敵国へ赴くということは大変なことかもしれないと薄々思えるようになってきた。

 なんだか、僕はミラシカに迷惑と負担ばかりかけているような気がしてきた。心労を重ねさせて彼の寿命を短くしてしまっては申し訳ない。

「セリアス陛下、来てくれるのはありがたいんだけど……城を王様が留守にするのは、やっぱり色々とまずいんじゃないかな?」

僕は迷惑かけっぱなしであるミラシカに、ここはひとつ助け舟を出してみた。しかし、この王様はあまりひとの意見を取り入れそうにない印象だ。たかだか十六歳の小娘に小言を言われたところで、考えは変わらないかもしれない。

「巫女様の仰るとおりです、陛下。巫女様だけではなく、陛下までもがこの城を、この国を出るなどと……そのようなことが許されるわけがありません」

王様はにっこりと、いや、不敵な笑みを浮かべた。

「オレは出る」

簡潔だ、実に簡潔な答えだ。あまりにも簡潔すぎて、誰もがつっ込むことを出来ずにいる。そうしている間に、王様はその腰を上げ、すたすたと部屋の出口に向かって歩き出した。クレハは何やら嬉しそうにその様子を見守っているが、他の重臣たちは、半ば諦めたかのような顔をし、ため息まじりに嘆いた。

「この国は終わりかもしれない」

この国に勝利をもたらすはずの巫女は、破滅をもたらしつつあるのかもしれないと、ひと知れず内心で呟く王佐だった。


 一刻後、鐘が鳴る。その時間になったら城門に集合。


 とうとう王佐も観念した。巫女である僕にこの幻水国の王様セリアス、そして神水力を持たないという武官クレハの三人が旅へ行くことが決まった。

そう、僕はてっきりこの三人で旅をするのだとばかり思っていたのだが、僕の部屋だと案内された(僕が意識を失って、眠っていた)部屋に、レイドもなぜだかついてきて、一緒に旅支度を整えていた(といっても、彼は剣を腰に携えただけなのだが)。

 不思議そうに僕はレイドのその様子を見ていた。すると、レイドと視線が合い、彼はぶっきらぼうな言い方で、何か用か、と訊ねて来た。

「レイド……まさか、一緒に来るつもり?」

僕のその問いかけに対して、レイドは驚いた顔をしてみせた。まるで予想もしていなかったかのような反応だ。彼は当然のごとく僕らに同行するつもりだったらしい。あまりにも先ほどの場で黙り込んでいるものだから、僕はてっきり、今回の一件にはまるで興味はなく、傍観しているのかとばかり思っていたのだ。そもそも、神様が旅をするって、あまり想像ができない。

「何を当たり前のことを……」

やはり、彼にとっては旅に同行することが当然であったようだ。レイドは絹で出来たような服を身にまとい、腰紐をきつく結いなおしながらそう言った。

「俺が居なくて、お前に何が出来る」

「レイドが居たら、僕は何か出来るの?」

すかさずつっ込みをいれてしまった。少々失礼な言い方だったかもしれないと、言い終わってから後悔した。しかし、レイドは気にしていないようだ。傷ついた様子もないので、ひとまず安心した。あまり考えずに物事を言うのはよくないと反省する。

「ほら、支度はできたのか? 直に鐘が鳴るぞ。薬もいるのなら持っていけ。まぁ、周りは山だ。薬草などは、その場でなんとかなるかもしれんがな」

レイドが妙に張り切っている気がするのは僕だけだろうか。彼はこういうキャラだったのか? もっとぶっきらぼうで人当たりが悪く、強引で、ひとを突き放した感じがする見た目だったはず。あくまでも見た目だけれども。

 だって、まだ僕らは出会って間もない。出会って直ぐに気を失ってしまったんだから、本当にまだ数時間しか経っていない気がする。

 僕はこの国のことも、この国のひとのことも、この、なぜだかいつでも傍に居るレイドのことも、何も分かってはいなかった。


 いや、これは夢なんだ。実際の時間の経過なんて分かったものではない。目が覚めたら察するところ、朝の七時前。もうじき起きなくては学校へ遅刻するというギリギリの時間になっているのだろう。いや、もうその時は近づいているのかもしれない。

「いつになったら目が覚めるんだろう」

僕はぽつりと呟いた。すると、レイドは眉を寄せて解せないという顔をした。

「何をわけの分からないことを言っている? 目ならとっくに覚めているだろう?」

僕はかぶりを振った。しかし、説明したところで何も意味をなさないことも心得ている。ため息をひと息ついた後、僕はただ、黙って準備をしようと風呂敷にハンカチのようなもの、着替え、裁縫セットなどを包んでいった。

 旅なんて、したことがない。城内を見たところ、科学的なものはなさそうだ。そうなると、歩いていくということになるのだろうか。どれくらい遠くにあるのだろう。なんだか気が重くなる。僕に役目が務まるのだろうか。というより、そこまでたどり着けるのだろうかと……。

「どうした、具合でも悪いのか?」

気づいたら、レイドの顔が目の前に来ていた。彼の背丈は高い。僕と顔の位置がそろうはずがない。彼は足を曲げて腰を低くし、僕に目線を合わせてきたのだ。

 嘘のないブルーの瞳が僕を捉える。一度目が合ったら最後。どこまでも吸い込まれていくような感覚に陥る。

「あ、ぁ……あのぉ」

一歩、また一歩と後ずさりながら尻すぼみに声を出した。すると今度は、レイドが大きな手のひらを僕の額に伸ばしてきた。思わず目をつぶり、下を向く。

 彼の息遣いがよりいっそう近づいたのが分かった。耳元でささやいてくるその声は、あまりにも美声で心地よく、身体がほてった。

「熱いな……熱でもあるんじゃないのか?」

熱はあなたのせいですと言わんばかりに、僕はレイドの目を見返した。再び眉を寄せたレイドの目は、僕のことを気遣っている色がはっきりと出ていた。やはり、ぶっきらぼうで人当たりが悪いというのは見た目……いや、ぱっと見だけ。しっかりと近くで見れば、彼の優しさはにじみでている。

「なぃ、ないですっ」

僕は恥ずかしさのあまりレイドの手を振り払って再び風呂敷袋に視線を落とした。意識を切り替えなければ、この動悸と熱は治まりそうにない。それを知ってか知らずか、なおもレイドは僕の顔色を伺うためか、僕の顔を覗き込んでくる。

「嘘をついているのではなかろうな? 門出は明日にするか?」

目は相変わらずつり上がっている。一見とても近寄りがたい雰囲気をもつレイドは、これまでに出会ったひとたちの中で、誰よりも優しくてあったかい気がしたんだ。

 嘘のない瞳がそう思わせるのか、彼の甘い声がそう思わせるのかは分からない。ただ、彼が傍にいるときは、心が悲鳴をあげなかった。ひとりぼっちだという孤独感、どうしようもない悲しみを感じさせなかった。


 僕なんて、居なくなればいい、消えてしまえばいい。


消えてしまったって、世の中の何も変わらない、なんの影響も与えない。


そんな悲しい感情も、不思議と浮かばなかった。


「レイド」

夢の中ではなく、現実で出会えていたなら、どんなによかっただろうか。今はただ、この夢がもう少しだけ続いてくれたなら……そんな気持ちでいっぱいだ。

「なんだ?」

けれども、現実にレイドが存在していたら……きっと、僕になんて目もくれなかっただろう。並みである僕にとって、レイドは遠い、遠い存在であったに違いない。

 夢の中でどんなに優しかろうと、どんなに僕の心を癒してくれる存在であろうと、現実では近づくことさえ叶わない、次元の違う存在だっただろう。

 ここが僕の夢で、僕がこの夢の世界の巫女だから、彼は僕の傍にいるんだ。そう思うと、悲しく、そしてどこか、切なく思えた。

「ううん、なんでもない」

僕は俯いた。とても物悲しくて、胸がしめつけられる思いがした。

「変な奴だな」

そういうと、レイドは僕の風呂敷包みを手に取り、自分の肩から腰にかけるようにして結びつけた。どうやら僕の荷物を運んでくれるらしい。旅の経験などない僕は、素直にありがとうと伝え、恩恵にあずかった。

すると、彼は少しだけ照れたような顔をして、そっぽを向いた。そのしぐさはとても可愛らしくて、愛らしくて、忘れられない。あまり表情を変えない彼には珍しい反応だった。

「ほら、行くぞ」

半ば照れ隠しの勢いでそう呟くと、彼は部屋の扉を開けた。それと同時に鐘の音が鳴り響く。約束の時間だ。セリアス陛下もクレハも、自分の準備を整えて門に来ているはずだ。

「そういえば、こんな準備必要だったの? あの白い空間を移動すれば、お城まであっという間じゃないの?」

僕はふいに浮かんだ質問をレイドに投げかけた。するとレイドは、あぁ……あれね、という顔をして応えてくれた。

「あれは幻炎国では使い辛い。巫女の力を借りれば、不可能ではないのだろうが……。そもそも、あの道は神である俺と巫女であるお前しか通れない」

ふ~ん……と僕は頷いた。だったら、僕とレイドふたりで幻炎国へ行くことにしていれば、あっという間にたどり着けたというわけなのだろうか。

僕が今何を思っているのか予想がついたらしく、レイドは言葉を続けた。

「しかし、幻炎国ではそうもいかない。先に言った通り巫女の力を借りれば使えないこともないのだが、空間が歪められる危険性がある。ゆえに、俺とお前で行くとしたにしても、あの空間で移動できるのは幻水国と幻炎国との境界線までだな」

さらに僕は、ふ~ん……と頷いた。そういえば、相手の国のことなど何も知らないとのことだったけれども、場所は分かっているのだろうか。地図も何もない世界だったら、向こうの国へ行こうとしても、不可能だ。

「ねぇ、地図はあるの? 僕たち、ちゃんと幻炎国へたどり着けるの?」

城門に向かうために石造りの長い廊下を歩きながら、僕はレイドの顔を見ながら訪ねた。すると彼は、僕の視線に気づいたのか、僕の顔を見ながら頷いた。

「なんだ、地図はあるんだ」

「いや、地図はないのだが……」

今度は僕が眉を寄せた。

「地図がないのに、どうやって場所を割り出すの?」

レイドはしばらく黙ってから、僕の左手首を掴んだ。まるで、汚いものを持つかのような手つきだ。その左手の甲には、今は光ってはいないものの、赤色で紋章が刻まれている。

「こいつが教えてくれる」

レイドの視線はその赤色の紋章に向けられていた。それに気づいて、僕もその紋章に視線を落とした。

「この赤い紋章が?」

レイドは苦々しくも頷いた。そして、僕の腕から手を離すと再び歩き始めた。それに続くように僕も歩き出す。

「レイド、どういうこと? これが地図になるっていうの?」

「お前が力を使えればな」

使えないんですけど……と独りごちる。もしかして、僕がこの旅路でも鍵になってくるの? 向こうへ行ったら通訳をしなくてはいけない。旅路では僕が道案内をしないといけないだなんて……無理だ。電車で名古屋に行くのとは、わけが違う。ひとりでまだ、東京へ行ったことだってないんだ。

 力。僕があの出来事中に意識を失い、ベッドの上で意識を取り戻した後には、一様に皆が「巫女は強靭な力の持ち主なのだ」と認めていた。確かに、僕も覚えている。サンを攻撃したという事実は。

しかし、僕は覚えていない。どうやって攻撃したのか。「神水力」というものを使っていたのだと思われているけれども、どうやって発動させたのかなんて分からない。今、もう一度再現してくれと言われても、はっきり言って不可能だ。

 そういうわけで、この紋章と神力が関係しているとしても、いや、きっと関係しているのだろう。そうだとしても、僕は力を扱えない。コントロールができない。

 レイドは、「お前が力を使えればな」と言った。まだ、僕が力をコントロールできないことを察しての言葉のように聞こえる。

「レイド、僕、力なんて使えないよ」

レイドは僕の前を歩いている。だから、レイドが今どんな顔をしているのかは分からない。巫女のくせに力をコントロールできないんなんて……と、呆れているかもしれない。

「使えなければ困る。使えなければ、幻炎国へはたどり着けんぞ」

僕は、うぅ……と呻り声をあげ、頭を抱えた。自分から行くのだとあれだけ言っておいて、今さら「力が使えなくて道案内できないので、やっぱり行けません」なんて言えやしない。あれだけ猛反対したミラシカを押し切っての行動でもある。

「なんとかすることだな」

なんとかできれば、悩んだりなんかしません……と、僕はレイドの背中を涙目で見ながら呟いた。悩みなどなさそうな神様には分からない、人間特有の気持ちなのだろう。

「レイドの力でなんとか出来ないの? 僕を力のコントロール出来る巫女にしてよ」

神様だったら出来るはずだ! 僕はそう思いレイドの背中を小突いてみた。レイドは何の反応も見せずにすたすたと自分のペースで歩き続ける。足が僕よりうんと長い上に、動かすペースも早いものだから、僕は小走りでレイドの背中をキープしていた。軽く息がはずむ。

「出来ることなら、とうの昔にやっている」

そんなオーバーな……と、僕は半眼でレイドを見た。もっとも、僕に背を向けているレイドには、僕が今どんな顔をしているのかなんて知る由もないだろう、たぶん。

「呆れた顔をしているのではなかろうな?」

僕はぎくりと肩をあげた。なぜ分かる!? やはりレイドは神様で、何でも可能なのだろうか。思わずペースを乱し、レイドの背中が遠ざかった。

「図星のようだな。いいか、アスナ。神だからと言って、万能ではないんだ」

ここへ来てからは、ひたすらに「巫女、巫女」と呼ばれ続けた。だからこうして名前を呼ばれると、なんだか安堵感を得られて嬉しかった。自分の存在を確かめられるっていうのかな、この感じ。

「自分でなんとかしなくちゃいけないんだね」

「そういうことだ」

レイドは足を止め、僕の方を振り返りながらそういった。そして、僕の目をじっと見つめてくる。澄んだ目でそんなにも見つめられて、照れないひとなんかいない。僕は顔を赤らめて、視線を泳がせた。しかし、なおもレイドの視線を感じる。一体いつまで見つめ続けるつもりなのだろうか。

「ちょ、ちょっとレイド……見つめすぎ、見つめすぎです!」

目をぎゅっとつむりながら力いっぱいそう叫んだ。するとレイドは、そうか?……とひと言呟き、僕の右手を握った。余計に顔の熱が上がり、心拍数は急上昇した。

 手を握ったレイドは再び歩き出す。それにつられて僕も歩き出した。歩きはじめてからも、レイドは掴んだ手を離そうとはしなかった。ひんやりとしたレイドの手とは対照的に、僕の手は熱を帯びて汗ばんでいた。


 そういえば……と、僕はあることを思い出した。


 白い空間……確か、レイドは狭間と言っていたけれども、あの空間から落ちたとき、僕は江戸時代のような集落にたどり着いた。そして、そこでサンに会ったんだ。もしかしたら、あそこに行けば幻炎国に近づけるんじゃないかと、思ったんだ。

「レイド。僕がサンにこの紋章を刻まれた場所……あそこは、幻炎国じゃなかったの?」

するとレイドは不機嫌そうに応えた。

「あぁ、あそこは幻炎国のはずれだな」

はずれでも何でも、目的地であることに変わりはない! もう一度あの場所に行ければ、僕たちは目的を達成できるのではないか。

「それなら、あそこに連れて行ってよ! レイド、僕の後を追って来たんでしょう? 場所、分かるんじゃないの?」

レイドは軽く嘆息し、足を止めた。そして僕の方を振り返り、腰に手を当てた。僕の手を繋いでいる手は、そのまま離さずに居る。

「あれはお前の波動……つまり、力を辿って行ったまでだ」

力……神水力のことだろう。そんなもの、あんな頃からあったのだろうかと疑わしく思ってしまう。

「今、お前はここに居る。だからあの場所へもう一度行くことは叶わない」

要するに、僕の居るところへはレイドは駆けつけられるということか……。なるほど、朝の学校にレイドが現れた理由も、そういうことだったのかと妙に納得を得た。

「それじゃあ、やっぱり僕が何とかしなくちゃいけないんだね?」

「そういうことだな」

そして僕たちは、足早に城門へと向かった。


「巫女様、ご用意はできましたか?」

城門へ行くと、すでにセリアスもクレハもそこに居た。クレハは布袋にいくらかの荷物をつめてそれを肩から担いでいた。腰にはやはり、剣を携えている。クレハは武官のはずだから、こういった旅には慣れているのだろう。対してセリアスは、僕と同様に手ぶらだ。ただ、剣を背中に背負っていた。割と大きな剣だ。あんなものを振り回すとなると、かなりの力が要りそうだ。王族のたしなみのひとつに、剣術というものがあるのだろうか。

 ふたりは馬を連れていた。そして、ふたりの後ろには馬番なのだろうか、兵士が二頭の馬の手綱を持って控えていた。僕とレイドのための馬かもしれない。

「遅かったな、巫女。さっさと出発するぞ」

僕はこくりと頷いた。しかし、まだ重大な問題をクリアしていない。地図だ。

「巫女様、どちらに向かって行けばよろしいのでしょうか?」

クレハが爽やかな笑みで、すぐさま痛いところをついてきた。僕は返答に困り、レイドの方を見た。しかし彼は、僕の視線に気づくやいなや、そっぽを向いてしまった。意地悪だ。これまでの彼に対する良いイメージ撤回!

「その……」

僕は自分の左の手の甲に目をやった。そして祈る。

(お前の力が必要らしいんだ。頼む、僕たちは幻炎国へ行かなくちゃいけない。戦争を止めるために、一刻も早く行かなくちゃいけないんだ。お願いだ、紋章、僕に力を貸して)

心の中で必死に願った。そして、赤き紋章に集中する。すると、わずかにだが赤き紋章が熱を帯びてきたかのように思えた。そして見る見るうちにそれは、赤き光と変わった。

 紋章からは強い光が放たれ、その光はひとつの線となる。

(もしかして、この光の線の方向に幻炎国が?)

僕は再びレイドの方を向いた。すると、今度は僕の視線に気づいた彼は、ゆっくりと頷いた。これがレイドの言っていた地図のようなもの、なのだろう。

「この、光の示す方へ」

僕はクレハにそう告げた。すると彼は笑顔で答え、茶色の馬にまたがった。それを見て、セリアスも乗馬する。

「赤は好きではありませんが、とても強い光ですね」

興味ありげにクレハは僕の放つ光を眺めていた。もしもミラシカが、赤き力を使っていると思われる僕を目にしたら、血相を変えて慌てふためいていたであろう。この場に彼が居なくて本当によかった。

 一方、この国の主セリアスも、この件に関しては温和だ。別に僕が赤き力を使おうとも、それを咎めようなんてことはしなかった。年だってまだ若そうだし、頭がその分やわらかく出来ているのかもしれない。

「さぁ、行くぞ。巫女」

セリアスが先頭を切って馬を走らせはじめた。国王を独走させるわけにもいかないだろうと言わんばかりに、そのすぐ後にクレハが続いた。そして、レイドもすぐさま乗馬する。僕はその様子を、何だか他人事のように見守ってしまっていた。

「何をしている。行くぞ」

馬に乗り、さらに僕との身長差が生まれる。太陽が眩しくて、僕は目をかすめながらレイドの顔を見上げた。

「レイド、僕、馬になんて乗れないよ」

「情けない奴だなぁ。馬に乗れない奴がどこに居る」

僕のまわりには、きっとたくさん居ると思う。だって、馬ってそこら辺に居るような動物ではないもの。馬をペットにしているひとなんて、そうはいないだろう。乗馬クラブなどは、きっとお嬢様校にしかないのではなかろうか。もしくは、大学のサークルとか。

 巫女様……と言って兵士が馬を差し出してくるが、僕は馬との距離を取り続ける。しかし、馬を乗りこなすなんて絶対に無理だ。乗ったことなどないのだから。

 おろおろとしている間も、赤き光は放たれ続けている。セリアスとクレハは、どのあたりまで行ってしまったのだろうか。もう、この位置からでは姿を確認することも出来ない。それにしても、普通仲間を置いていく? それも、一応この国で一番偉い巫女を……。

 とうとう堪えかねたレイドが馬のきびすを返し、僕に近づいてきた。そして、ゆっくりと手を差し伸べてくる。レイドだけは、僕を置いていかずに残っていてくれたのだ。単に、飛び出すタイミングを見逃しただけなのかもしれないが……。

「お前達はその馬を連れて下がれ。アスナにはひとりで馬を操ることは無理だ」

そう言って、兵士たちを下がらせると、馬をまた一歩進ませ、僕に近づいてきた。クレハの馬は茶色、セリアスの馬は白、そして、レイドの馬は漆黒だった。

馬の大きな顔を恐る恐る見つつも、僕はレイドの手にゆっくりと自分の手を伸ばした。実はママが馬好きで、馬はとても気弱い性質の動物なのだと教わっていた。近づく相手が怖がっていたら、馬にもそれが伝わってしまうそうだ。下手をしたら馬に蹴られる可能性もある。

僕は「怖くない、怖くない」と言い聞かせながら、レイドの馬に近づいた。そして手が届きそうで届かないところまで伸ばすと、レイドが僕の方に身体を傾け、一気に手を握り締め、僕の身体を引き寄せた。足が地面から離れ、レイドの身体へと引き寄せられる。そして、僕はすっぽりとレイドの前におさまった。レイドは僕を包み込む形で馬の手綱を握る。高い、地面までの距離がかなりある。僕は恐怖で身をこわばらせた。

 鐙をかちりと鳴らしてレイドは馬をゆっくりと歩かせはじめた。一歩、馬が歩くたびに大きく身体が揺れる。僕は落ちそうになり思わずレイドに身をあずけた。乗馬経験なんてない僕には、これが初体験となる。

 レイドの大きな腕とがっしりとした身体が僕を受け止めている。だから落ちはしない。しかし、この体勢はレイドに負担をかけるだろう。

「いいか、この紐を軽く掴んでいろ。引っ張るなよ?」

レイドは、右手と左手の感覚を開けて、僕が紐を持てるスペースを作った。言われたとおりに僕はその紐を握った。引っ張るなと言われても、思わず力が入ってしまう。

「行くぞ」

そういうと、レイドは馬の腹を蹴り、馬を走らせはじめた。歩いている状態でさえ身体を揺さぶられて恐怖を覚えていたのに、こんなにもスピードを出されたら怖いなんてものじゃない。僕はきゃーきゃーと叫び声をあげた。その度にレイドはため息をもらすのが聞こえた。


 ひたすらに山道だった。城門を出てからしばらくは城下町の中を激走していたのだが、そのときはまだ、目を固くつむって怯えていたため、景色なんてほとんど目に入っていなかった。いくらか走って落ち着いてきてから見えた景色というのは、見渡す限りの緑で、舗装もされていない土の道だった。道幅も広くなく、ひとが三人並べばそのとなりは木々で溢れているという感じ。レイドが薬草がどうのこうのと言っていたのを思い出した。

山道を駆け上り続けると、ようやく頂上にたどりついた。ここから先はくだりになりそうだ。その頂上には人影があった。馬から降り、木陰で休んでいるのは先行していたセリアスとクレハだった。腰を下ろして水を飲むセリアスに、木にもたれかかり、腕組みをしているクレハは、馬の足音に反応し、僕らの方に視線を送った。

「レイドと同乗してきたのですか。それではスピードも落ちることでしょうね」

クレハはにっこりとした笑みを浮かべながら、レイドの顔を見上げた。レイドはひどく不機嫌な顔をして、何の返答もしない。

「ごめんなさい、僕、馬になんて乗れなくて……」

クレハはゆっくりと近づいてきた。そして、僕に手を差し伸べてくる。あまりにも自然な動きなので、僕も自然とその手に手を伸ばした。すると、レイドとは違って優しく手を握り、少しずつ自分の方へと僕を引きずりおろした。衝撃が僕に伝わらないようにと、クレハがクッションになってくれる。

「お疲れでしょう? 少し休みましょう」

クレハは優しくそう言った。セリアスもそれに賛成らしい。

 陽射しが強く、ただでさえ暑いというのに、これまで休みなしで走ってきたんだ。馬だって疲れているかもしれないが、僕もレイドも汗をかいていた……といっても、僕はただ、レイドの腕の中で必死に手綱を掴んでいただけなのだが。乗りなれていない僕を共にしているレイドの方が、ずっと疲れているだろう。

 しかし、セリアスとクレハは涼しい顔をしている。もう、ずいぶんと前にここにたどり着いていたようだ。僕はちらりとレイドに顔を向けた。彼はまだ馬上だ。降りるつもりはないのだろうか。

「レイド、どうする?」

レイドは目をつむっている。そして何も答えてはくれない。ここに来るまでにはたくさん声をかけてくれたのに……どうしてだろう。「疲れていないか?」とか、「振り落とされるなよ?」とか。優しい言葉をたくさんかけてくれたのに、ここに着いてから間もなくして、超不機嫌になってしまった。何かいけないことでもしただろうかと、僕は自分の行いを振り返ってみた。しかし、ここにたどり着いてから彼を不機嫌にさせるようなことをした覚えは思い当たらなかった。

「巫女様の好きにするといいですよ。彼は巫女様の意志に従いますから」

クレハはそういい、再びレイドの方を向いた。しかし、目をつむっているレイドの表情は変わらない。僕は、そうかなぁ……と呟きつつも、ゆっくりと木陰に向かって歩き出した。本当はすっごくお尻が痛くて、のども渇いていて疲れていたんだ。しかし、王様たちは先に行ってしまっているし、急がないと向こうの兵士が来てしまうかもしれない。乗せてもらっている身分で「休みたい」なんて、口にすることはできなかったんだ。

 馬から降りた僕は、畏れ多くも王様の隣に陣どってしまった。そしてゆっくりと腰を下ろす。ふぅ……と、息をもらしながら地べたに座り込むと、ひんやりとした温度が伝わってきた。心地よいし、何より身体を揺さぶられているあの不安定感からの開放が嬉しかった。

「王様。乗馬、お得意なんですね」

セリアスは僕に声をかけられると、こちらに視線を向けてくれた。とても整った顔立ちだ。思えば、この国のひとたちってみんな顔が綺麗だ。どんなDNAを持っているのだろう。

「王様はやめろよ。セリアスでいい」

セリアスはとても気さくなひとだった。王様の気品は持ち合わせているけれども、どこか子どもっぽさを思わせるそぶりをしていたり、物言いをしていたりする。日本で言う、天皇陛下や内閣総理大臣に当たる人物だと思うのだけれども、こんなただの女子高生相手に溶け込んでいるなんて……僕はこの王様のことを少なからず見直していた。


 もっとも、単なる女子高生として僕のことを見ているかどうかは、別の話だが……。


「王様を呼び捨てに出来る度量を、僕は持ち合わせていないんです!」

僕はぐっと両腕を空に向けて伸ばし、背筋をぴんとさせた。ずっと腰を丸めて馬にまたがっていたので、体が悲鳴をあげている。

「一応、巫女であるお前の方がオレよりも地位は上なのだが?」

セリアスは太陽のような笑みを浮かべた。セリアス、クレハ、そしてレイド。みんな同じ国のひとのはずなのに、同じ城の中に居るもののはずなのに、みんな違った笑い方をする。セリアスは子どものように無邪気で明るい笑みを浮かべるし、クレハは爽やかで、でも時折サンのように何か隠しているのではないかと思わせるような笑みを浮かべる。そしてレイドは、たいてい笑顔なのかどうか分からない顔で笑うのだが、ごくたまに本当に優しい笑みを浮かべるのだ。

 どの笑顔がいいってことはない。みんな、自然な笑顔なんだ。僕とは違う、自称営業スマイルな僕とは。

 そういえば、ここに来てからはまだ営業スマイルをしていなかったような気がしてきた。夢の中だから、そんなことをして、人間関係にこだわる必要はないと思っていたのだろうか。いつも、なぜだか自分を他人のように思って行動していたけれども、この世界では違う。僕は、誰の前に居ても僕であり続けていた。

 それは、生まれてはじめてのことだった。素の自分でひとと接することは……。ずっと、偽りの自分を演じてきた僕にとって、本当に、はじめてのことだったんだ。


 いや、違う。


 あの頃からだ。


 僕が小学生だった頃。


 まだ僕が、「僕」ではなく「あたし」と名乗っていた頃。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ