彼女の教室
私は命を助けられた彼女と別のクラスであったがゆえに距離を測りかねていた。
彼女の周りには全く人がいなかったし、話しかけるのは簡単に思われたが、私が思っていた以上に彼女は気丈だった。交差点で所在なさげに歩いているように見えたのには、どうやら私の彼女の見た目への偏見が多分に含まれていたようで、周りに対して強く壁を張り、周りに何を言われても過剰に反応することはなかったし、また、周りに対しての無関心を決め込むあまりに自分勝手になってしまうこともなかった。今思えば彼女は人間に対する恐怖や不信感を前向きのベクトルに変換していたのだろう。
彼女に助けられた月から、あっという間に夏休みも越えて九月になり、初めての合唱祭を控えていた時の事だった。
図書室で本を読む彼女を遠くから見つめていたときの事。
何やら周りが騒がしくなってきた。廊下を先生が走っているようだ。
彼女はそれが気になったようで本を閉じ、それを借りると騒ぎの方へ向かった。
それについていくと、どうやら騒ぎの原因は彼女のクラスのようだった。
「いたいっ! いだぃぃいい!」
悲痛な叫びが、鼓膜を震わす。彼女はさらに歩を早めて野次馬たちをかき分けてその奥を覗いた。
それに続いて私も人の間からその景色を見た。
そこでは上半身が真っ白になった男子生徒が運ばれていた。
なんだ、赤じゃないのか、と落胆したのは私だけではないだろう。教室で流血騒ぎなんて楽しそうなのに。
彼は保健室に運ばれたようだ。チョークでもかぶったのだろうか。だとしたら随分とオーバーな反応だ。
結論から言うと、彼は失明した。
彼は体育祭でもらったトロフィーを棚から降ろそうとしただけだった。しかし彼はそのトロフィーの中から落ちてきた白い粉驚いて、しりもちをつき粉を思いっきりかぶってしまったようだ。
そして、その粉は校庭のラインの粉、すなわち消石灰だった。
それをもろにかぶり、目に思いっきり入れた挙句、教師はそれに対して水で洗い流すという適切な対応を迅速に行うことができず、結果失明した。
それに対するクラス委員、桜井希美の対応は非常に感情的なものだった。
こんな悪戯をするなんて許せない。何としてでも、犯人を見つけ出し制裁すると。
何人かの中心人物による犯人探しが始まった。
その結果は、いや、過程は最悪だった。
こんな悪戯をするのは男子に決まっているという女子の発言から男女の関係は悪化。あいつが怪しい、こいつがあやしい、という噂に生徒たちは痛くもない腹を探られ、澱んだ暗い空気が一週間ほどで教室に蔓延した。
そして、その空気はあるとき引火した。
「そろそろ合唱祭ですが、最近朝練の出席率が悪いです。もっとみんなで気持ちを一つにして……」
彼女のクラスの文委員の意味のない話を私は彼女のクラスの外から聞いていた。今日こそ彼女と一緒に帰るつもりだったのだ。
ところが、そのクラス委員の話の雲行きが悪くなってくる。
「特に男子。あれだけ言ってもまだ遅刻する人や、こない人がいます。ちゃんとしてください」
「女子が理不尽にこっちに注意してくるからだろ」
男子の不満を言う声。茶化すような言葉も飛び交い、文化委員の顔は真っ赤になってゆく。
「そうだよ。だいたい、あのトロフィーだってこっちのせいにしてきやがって」
「どうせ、あんたらがやったんでしょうが。早く認めなさいよ」
「まったく、これだから男子は」
やいのやいのと、まるで動物園かのように騒ぎ立てる生徒。くだらない言い合いがしばらく続くが、その喧騒をつらぬいて発言したのはクラス委員の桜井だった。
「もういい加減にしてよ! とにかく! 男子でも、女子でもいいのよ! 早く名乗り出なさい。この中にいるんでしょう! なんでこんなことになるのよぉ」
泣き出してしまう桜井とそれを慰める取り巻き達。とんだ茶番だと面倒くさがる男子に、さらに女子たちの敵意が強まる。
しかし、この空気を破ったのはほかでもない彼女、神代陽菜その人だった。
彼女は何も言わずに立ち上がり、言い聞かせるように言った。
「こんなことやめましょう。犯人探しなんて、しても意味ないです。どうせ見つけたところで私達には何もできないんです。失明した宮原君はとてもかわいそうだけど、犯人を見つけても治るわけじゃないです。確かに、こんなことをする人は許せないからどうにかしてやりたいけどそれをするのは私達ではなく、大人です。ここで、私たちがこんな風にいがみ合ってたらそれこそ犯人の思うつぼなんじゃないですか? ねえ、この状況を見て笑ってる犯人さん。私はあなたを見つけられないけど、いつかあなたには報いがやってきます。だから、私たちはそんなくだらない人間にかまってないで、練習しましょう? 皆で想いを一つにするんじゃないんですか? 皆で思い出を作るって言ってたじゃないですか。こんな空気さっさとやめにしましょう」
彼女の声は不思議な魅力があり、聞く人を落ち着かせる力があった。凛とした彼女の姿に目を奪われている間に、いつの間にか彼女は席についていた。
クラスメイトはそれからほとんどしゃべることなく号令をして帰路に着いた。
私はその日の帰り道、彼女の持つ空気がいつもと違うことを感じた。自然と、気負うことなく、私は彼女に話しかけた。
「あの、さっきのかっこよかったです」
「え? あ、ああ、聞いてたんですか」
そういって、そっか、とはにかんだ。そして、何かに気づいたようにはっとして言った。
「あ! もしかしてあの時ひかれそうだった?」
「そうです。あの時は本当にありがとう」
彼女はまた、照れながら言った。
「あ、あの時は必死だっただけだから……。結果的にはよかったけど、もうすこしで私もひかれてたし」
「でも、助けてくれて本当にありがとう」
虚無感からも、と心の中で付け加えた。
「でも、まだ興奮が冷めないみたいですね。手が震えてる」
私が、少し茶化すように言うと、彼女は両手を胸に引き寄せて上目づかいに行った。
「私、どうしてもああやって混沌としてる教室が嫌で。建前でも、無理でも、みんなで一緒にがんばりましょうって、そうやって言ってる教室に安心するの。だから、つい……」
それから、私は彼女と少し話して、何とか明日からも一緒に帰る約束をしてその日限りのサヨナラをした。
次の日、朝練にすべてのクラスメイトがそろったことは言うまでもないだろう。