夕日に照らされて
土日を挟んで月曜日。あの後、すぐに退院させられた私は無理せずに常識的な時間に登校した。そもそも彼女と一緒に登校することが仮にできたとしてもこのロッカーの凄惨な状況見せるのも気が引ける。
「予想通りね……」
ため息交じりにひとりごちる。まったく、めんどくさい。こんなにたくさんラブレターを入れられても困るのだが……。
『死ね、ブス』『帰れ』『いきがってんじゃねーよ』エトセトラ、エトセトラ……。
筆跡を隠す気もないところがむしろ可愛く思えてくる。およそ七十ほどの手紙を五人程で書いたようだ。あまりここには手間をかけていないようだ。机がどんな有様か楽しみでならない。上履きの中の石をばらまいてから履いて、歩き出した。
三組の扉の前には、なぜか青木が所在なさげに立っている。私を見つけると走り寄ってきて、手を握ってきた。
「秋吉さん! 大丈夫? 杖ついてるけど……」
「ああ、大丈夫。これぐらい大したことないから」
隣をすり抜けようとすると、青木が焦って引き留めた。
「ま、まって! 今、中に入るとややこしいことになると思う……」
「どういうこと?」
「えっと、竹内さんと隣のクラスの子が……」
「だから、人が嫌がることはしちゃダメって言ってるでしょ!」
「私もさっきからずっと言ってるじゃない! あんたには関係ないでしょって!」
「あのー、ここ私の席なんですけど」
喧嘩に夢中で周りが見えていない竹内と桜井に声をかけると、ぴたりと動きを止めて同時にこちらを見る。
「奏ちゃん! この人、奏ちゃんの机にいたずらしようとしてたよ! ってその怪我どうしたの?」
「あんた、あのときはよくも先生に言いつけたわね……!」
ああ、めんどくさい。が、どうせ放っておいても鐘が鳴るまで続けるのだろう。私はさっさと座りたいのだ。
「竹内さん、引きとめといてくれてありがとう。でも、この人は私に用があるみたいだから、ちょっと待っててね」
「う、うん」
桜井に近づいて、とりあえずここからいなくなってもらうために耳元でささやく。
「どうせこの大勢の前で私に面と向かって何かをする勇気はないんでしょう? 放課後でもいつでもいいから直接来なさい」
「は、はあ? なにあんた?」
「いいから、どこか行きなさいよ。目障りなの」
「……後で覚えてなさいよ」
物わかりが良くて助かる。これだけ私にちょっかいをかけておいて、ここでかんしゃくを起こすようだったら本当にどうしようもない。
桜井はいら立ちを隠さずに扉を乱暴に閉めて、出て行った。
竹内は扉の方を一睨みして、私に気づかうように声をかけてきた。
「奏ちゃん、他に何もされてない? 本当にああいうジコチューな人は嫌!」
ぷんぷんとでも擬音がつきそうに怒っているのに、そうだね、と軽く返してランドセルを机に置く。
「危ないから、あんまりああいう人と関わらない方がいいよ?」
純粋にこちらを心配してくれる子は貴重だ。
「ありがとう。でも、竹内さんも危なくなるかもしれないし、それにこれは私の問題だから」
「そう? 何かあったら何でも言ってね?」
「うん!」
そんな会話をしていると、青木がやってきて「本当にあのけんか、どうにかしちゃったんだ……」と何やら感嘆している。まあね、と得意げな顔をしてみせると、少しまわりの表情が和らいだ。
休み時間、隣のクラスを覗くが電気は消されていて、誰もいる気配はなかった。どうやら外でレクをしているようだ。運動場を見下ろして彼女のクラスを探す。しっかりと桜井はドッジボールをしているようだ。彼女はいないようだがこの分なら直接暴行は受けていないだろう。
彼女の机も特に汚れていない。掃除したのかもしれないが、どちらにしろ今は私にできることはない。
六時間目すらない短い授業を聞き流していたら放課後になった。
あらかじめ用意しておいたランドセルを背負って隣のクラスを覗く。
もうホームルーム(帰りの会とも言う)が終わっていたが、彼女はどうやらもう、帰ってしまったようだった。安心してそのまま呼ばれていた職員室へと向かう。
あのときは必死で気づかなかったが、来てくれた先生は担任の先生だったようだ。
普通に考えれば青木が呼ぶ先生と言ったら担任の先生に決まっているのだ。
うちの叔母も呼ばれ、向こう側の女子三人衆も、母親と一緒に私に謝ることとなった。
いろいろ言われたが要約すれば呼び出しの内容はその程度で、こんなことでいじめがなくなると思っているのなら、この男子教員(初めて知ったが増本という名前らしい)の頭の中も相当お花畑ということになる。
帰り道、叔母はとても私と話しにくそうにしていた。おそらく私がストレスやらなんやらで喧嘩を吹っ掛けたと思っているのだろう。動機以外の所は特に間違っていないが。
突然、家の直前の坂道になって声をかけてきた。
「ねえ、奏ちゃんは、お母さんがいなくなったことって、どう思ってるの?」
「どう……って?」
抽象的な質問だ。私が答えあぐねていると、叔母は立ち止まって沈みかけている日を背に私を正面から見た。
「あなたの気持ちを聞きたいの。おばさんの前で泣いてるのを見たの、最初会った時の一回きりだったから」
私は前の世界を含めても、こうやって彼女と向き合うのは初めてな気がする。私も叔母とは関わろうとはしていなかったが、向こうも私を避けている節があった。それを思うと、これまでで一番驚いた出来事になるかもしれない。
私は、泣くべきなのだろうか。私は母を手にかけて何を感じているんだろう。考えたこともなかった。
叔母は私が答えるのを待っていた。三年生としての私の答えか、本当に思っていることか、どちらを望んでいるだろうか。そもそも、私は何を思っているのか。
「……わから……ない」
答えは出なかった。これが今の私の正直な想いではないだろうか。
「そっか、わからないか。じゃあ、ゆっくり考えていこう」
そういって叔母は私に微笑みかけた。その笑顔は、私の記憶におぼろげに残っている母の笑顔とよく似ているような気がした。
夕日は、私の目線にいて、私のもう一つの答えをまるで燃やすかのように照らしていた。
私の感情なんてどうでもいいじゃないか、と。