天からの使い
私が彼女の場所を告げると、奏さんは飛ぶように走り去っていった。廊下は走っちゃダメなのに。
なんで私はあんな質問をしたんだろう。奏さんのことを試す資格なんて私にはまったくないのに。
私は席が隣になったとてもかわいらしい女の子と、よく話をするようになった。見ているアニメが同じだったり、少し大人ぶってかっこいい俳優さんについて意見を交わしたり。
席が変わっても、仲良く話をした。放課後に遊ぶようにもなった。私は陽菜ちゃんと呼び、相手は薫ちゃんと呼んだ。短い時間だったけど、とても楽しかった。
でも、あるとき陽菜ちゃんを怖くなった。
今思えばうらやましかったんだろう。お姫様みたいに綺麗な子が。まるで今私が感じているこの黒いものが、その子には無いように見えることが。
ただ、私はむしろ心の中のその黒いものを怖がっていたのだ。
しかもクラスの中心人物のかけた圧力のせいで次第に友達が減っていった。
怖かったのだ。自分自身も、仲間がほとんどいない未来も。
ある日、私の机と彼女の机の中に牛乳をばらまかれた。半泣きになりながら掃除し、机に書いてあった悪口を見て、私の心は折れてしまった。
その日の放課後、いじめっ子に靴を隠したら許してやると言われ、私は言われた通り便器の中に靴を隠した。
翌日も、言われた通り掃除が始まる前にその靴を下駄箱に戻したのだ。
私は弱い。何もできない。
私は陽菜ちゃんに自分と同じような人間を近づけて、彼女を傷つけたくなかったし、自分と同じように後悔して生きることになる人間を作りたくなかった。
私にはもう彼女と関わる権利なんてないから、こっそりと。
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彼女がいるという体育館倉庫に着いた。
彼女は強かだった。
卒業式の直後に押し付けられた体育館倉庫掃除の時に窓の鍵を開けていたのだ。今は開き教室に隠れていた時期ではなかったようだ。
そこまでして人に会いたくなかったとは……。
彼女の他人に対する恐怖は、もしかしたら中学生の時より大きいのかもしれない。
扉に近づき開こうとしたとき、中から声が聞こえた。
「ふーん。こんなところに隠れてたのね。朝は待ち伏せしてもいないし、放課後はさっさといなくなるし。こんな必死になっちゃってばかみたい。ここに隠れたって授業中とかトイレに行くときは逃げられないのに」
小学生の割に落ち着いたしゃべり方だ。やっていることはガキだが。
「で? とにかく私達から長い時間殴られたくなかったみたいだけど、そうやって下手に逃げた方が私たちを怒らせるってわかってるのよね?」
中から、鈍い音とうめき声が聞こえた。おそらくしゃべっている女が彼女を蹴りつけたのだろう。
さて、この状況を打開するには……。
「なんかしゃべりなさいよ! いい加減にその人を見下したような顔やめないと、顔にいれるわよ!」
「あー、その辺にしときなさい、クズども」
派手に音が鳴るように扉を開け、舞う埃を貫いて第一声で威圧する。中にいるのは四人。顔と、間抜けについている名札に書いてある名前を一致させる。首謀者は桜井希美、眼光が鋭く子供っぽさを打ち消すほど気の強さが目立つ。
私は全員の顔を見まわして言う。
「あらら。彼女、うずくまって口もきけなければあなたを見下す余裕だってなさそうよ。やっぱりあなたの被害妄想ね」
「ひが……なに?」
「わからなくていいわよ。バカなんだから」
顔と足をさけるように全身を蹴られた彼女を見る。今助けてあげるからね。
とにかく今は煽ってこいつらの標的を私にする。
「まったく、嫉妬も大概にしなさいよ。あんたらみたいな自分の努力不足を棚に上げて人を攻撃することしかできない人間が社会ではゴミとして捨てられんのよ。あんまりやると私先生にぽろっとここでのこと言っちゃうかもしれないし、こんなところで自分の事を慰めてないで、家に帰ってママにでも勉強を教えてもらってれば?」
「は?」
耐え切れずに反応したのは腰ぎんちゃくその一だ。
「へえ、あなたあんまりかわいくないわね。まあ、みんな似たようなもんだけど。おまけに寄ってたかって一人を蹴り倒す腐った根性なんだから救われないわね。見た目も性格も悪くて本当にかわいそう。親の顔が見てみたいわね」
そこでリーダーを口角をあげながら流し見る。こいつは親が離婚して、母と二人暮らししていた。しかも母は水商売のおまけつき。中学の頃そのコンプレックスから万引きやら夜遊びやらを全くやめない不良だったのだ。それが原因で彼女は陥れられたんだから忘れるわけがない。
そーら、表情が変わった。
「……ぶっ殺す!」
「はいどうぞ」
桜井は近くの棒を拾い、私の腹を殴りつける。
感じたことのない痛みに嗚咽が漏れる。体中が痛みに支配される感覚にひざを折ってしまう。
「はっ! なんだこいつよえーぞ! お前らもこいつぶっ殺せ!」
喚き散らす彼女をあざ笑うように、言葉を吐き出す。
「話し方が変わったわね。その汚いゴリラみたいなのがあんたの本性ってわけッ……ぐぅ……ガッ」
「ちょっと黙らないと本当に殺すわよ」
「馬鹿じゃ……ないの? うぐ……あ……、あんた、みたいな乳臭いガキが……人を殺す度胸なんてッ……あるわけないで、しょう?」
「黙れ!」
腹、肩、腰、髪、いたるところから痛みを感じる。
一発顔をはたかれたせいで口も切ったみたいだ。
それでも、気にせずとにかく目で相手を不愉快にする。痛みを感じていないように見せていらだちをためていく。
「むかつくんだよ!」
あ、足やられた。
まあ、とりあえず死ななければいいから、やりたいだけやらせておこう。
彼女はこっちを不安そうな顔で見ている。ああ、そんな顔しないで? こいつらは片づけるから。私じゃなくて、教師が。
「おい! 何やってるんだ!」
扉がすごい勢いで開く。よかった。男の先生だ。
「酷い……。救急車を呼ぶからちょっと待ってろ。お前らは俺と職員室に来い!」
教師たちがいなくなると、外から青木がやってくる。
「い、言われた通り二十分ぐらいしてから先生を呼んだけど……って、大丈夫!? 神代さんもだけど……秋吉さんはもっとひどいね……。こんなにひどくやられてるの初めて見たよ……」
その割にはあまり動じていない。まったく、この子からは大物の予感がする。
「ちょ、ちょっと! 神代さ……あ……」
彼女は立ち上がってこっちに向かってくる。動かない方がいいだろうに。なんで青木は止めないのだ。
「奏さん……ていうんだ。ごめんなさい」
少しは痛みが引いたのだろうか。ここで感謝でなく謝罪であるところが彼女らしい。
さっきまでうずくまっていたり殴られていたりでよく見えなかった顔が、私を覗きこむ。
倉庫の窓からの光はまるで後光のようで。
この世界で初めて見る彼女の顔も天使のように輝いていた。
私の口はいろんな感情を吐き出そうとして、ただ吐息だけが抜けて行った。